Blue Archive fo MetroExodus 作:宇迦之たま猫
シグレの持っている瓶を、僕は前から少し気にしていた。蓋を開けるたびに果実の甘い匂いがして、そのあとから、鼻の奥へ馴染みのある刺激が届く。本人はカンポットだと言っていたが、そう呼ぶには、随分と気前よく酒の香りを振りまいていた。
その日、白いコートを脱いで椅子へかけると、シグレが戸棚から小さなグラスを取り出した。僕が持ってきた干し肉を皿へ移し、その隣に、いつもの瓶を置く。机の向こうでノドカが顔を上げたので、僕もそちらを見た。
「シグレ。今日は、ちゃんと何が入ってるか言ってくださいね。あとから知らなかったじゃ済まないんですから」
「今日は隠さないよ。アルチョムちゃんにも、味を聞いてみたかったんだ」
シグレは二つのグラスを並べ、僕の返事を待った。いつもからかうように目を細める彼女が、少しだけ改まった顔をしている。僕は瓶を見てから頷いた。
「それなら、貰ってもいいかな。せっかくだから、ゆっくり飲んでみたい」
「ふふ。そう言ってくれるなら、出した甲斐があるな」
細い流れが、グラスの底へ落ちた。透き通った赤い色で、瓶の中にある時より明るく見える。少し注いだだけなのに、机の上には、よく熟れた果実を切った時のような香りが広がった。
僕はグラスを手に取り、軽く傾けた。縁に沿って動く赤い液体の向こうで、シグレがこちらを見ている。どうぞ、と目で促されたので、まずは少しだけ口に含んだ。
舌先に甘みが広がった。果物の煮汁を思わせる味がして、そのまま甘く終わるのかと思うと、あとから酸っぱさが追いついてきた。飲み込んだところで喉に熱が残り、息を吐くと、さっき鼻で嗅いだ匂いがもう一度戻ってきた。
思っていたより、ずっと飲みやすかった。もっとも、舌に残っている熱は、見た目の綺麗さとは釣り合っていなかった。僕はグラスを置き、もう一度だけ、唇に残った味を確かめた。
「……おいしいね。最初は甘いのに、飲んだあとで、もう少し欲しくなる」
シグレは片手で頬杖をついた。笑い方が、少し変わった。いつもの、こちらがどんな反応をするか待っている笑顔より、気の抜けたような、嬉しそうな顔だった。
「へえ。もう少し欲しくなる、か。そこまで言ってもらえるとは思わなかったな」
「ただ、見た目より強いんだね。果物のジュースのつもりで飲んだら、途中で困ると思う」
「そこで困らせちゃうのが、いつもの問題なんですけどね。シグレ、聞いてますか?」
ノドカが湯飲みを持ち上げながら言った。シグレは笑って頷き、自分の分へ口をつけた。僕も二口目を飲んだが、今度はすぐに飲み込まず、少しだけ舌の上に置いてみた。
甘さの奥に、僅かな苦みがあった。嫌な味ではなく、果物の皮を噛んだ時のようなものだった。さっきよりゆっくり飲むと、それが口の端へ残って、あとを引いた。
「今、少し苦いところが分かった。甘いものと、一緒に出てくる感じがする」
「うん。そこ、嫌じゃない?」
「僕は好きだよ。甘いだけだったら、こんなふうに少しずつ飲まなかったかもしれない」
シグレは、自分のグラスを持ったまま小さく頷いた。それから皿をこちらへ寄せ、干し肉を一本取る。僕がそれを買った店を尋ねる声も、さっきより弾んで聞こえた。
工務部へ借りたものを返しに行った帰り、寄り道して買ったものだった。棚に並んでいた中で、一番立派な品を選んだわけではない。けれど、二人と一緒に食べるつもりで選ぶ買い物は、何となく楽しかった。
干し肉を噛んでから飲むと、さっきより果実の味がはっきりした。塩気が口に残っていたからだろうか。僕がそう話すと、シグレはすぐに試して、ああ、本当だ、と笑った。
「これ、合うね。今度また見つけたら、私にも教えて」
「店までなら案内できるよ。本校の方から行くと、少し遠回りになるけど」
「……二人とも、普通にお店の話をしてるみたいです。机の上にあるものは、普通じゃない気がするんですが」
ノドカの視線が、赤い酒と瓶の間を往復した。僕はつられて瓶を見た。貼られた紙には、持ち主の気安い字で、カンポットと書いてあった。
「名前は普通だね。中身を説明する気は、あまりなさそうだけど」
「持ち主には分かるからいいんだよ。アルチョムちゃんにも、もう分かってるし」
そう答えたシグレに、僕は笑ってしまった。瓶に貼る札としては、それで十分なのかもしれなかった。昔の酒瓶には、何年も前に空になったはずの酒の名前が、そのまま残っていることもあった。
もっとも、あの頃は、中身をグラスへ注いでも、こんなにゆっくり眺めなかった。瓶が開いたらまず飲んで、喉を通ってから、今日はどんな味だったか考える。強すぎれば咳が出たし、誰かが咳き込めば、それを肴にする者がいた。
シグレは、僕が瓶の札を見ている理由を、別のものだと思ったらしかった。細い指で紙の端を押さえ、少しこちらへ顔を寄せた。
「何か、懐かしい? さっきから、時々そんな顔をしてる」
「昔飲んだ酒を思い出していた。これとは、随分違うものだったけど」
「どんなの? よかったら、聞かせて」
僕は、グラスに残っている赤い色を見た。あの地下で飲んだものの色を、すぐには思い出せなかった。見ていたはずなのに、記憶に残っているのは、喉の熱と、隣の人間の顔ばかりだった。
「キノコから作った酒があった。店によって味が違って、飲んだあと、しばらく何も言いたくなくなるものもあったよ」
「……キノコ? それ食事の話じゃなくて、お酒の話だよね?」
「そんなものまでお酒になるんですか?」
二人とも、よく似た顔をした。普段はシグレが何を出しても、ノドカだけが疑わしそうな目をするのに、その時ばかりは、二人の目が一緒に僕へ向いていた。
「僕が作ったわけじゃないから、詳しくは知らない。ただ、あちこちで飲まれていたよ。あの頃は、こういう果実の香りがするものは貴重だった」
グラスを少し動かすと、また匂いが立った。僕はそれを一度嗅いでから、口へ運んだ。覚えている酒の味と、今飲んでいる味が、舌の上でなかなか結びつかなかった。
「昔の方が好きだったりする?」シグレが訊いた。声は気軽だったが、グラスへ伸ばしかけた手は、僕が答えるまで止まっていた。
「味なら、僕はこっちが好きだよ。昔の酒は、また飲みたいと思う前に、飲んだ時のことを思い出すんだ」
「……それって、誰と飲んだか、とか?」
僕は頷いた。うまく言えたわけではなかったが、シグレには伝わったらしかった。彼女は何も言わず、自分のグラスへ口をつけた。
地下の店で、硬い椅子を引き寄せて座った夜もあった。オーロラの狭い車内で、話の途中に瓶が回ってきたこともあった。どちらでも、酒が喉を通る時の感覚と一緒に、誰かの声が記憶に残っていた。
もう一度会えるなら、あのひどい酒でも構わなかった。けれど、それを言ってしまえば、二人に返せる言葉はなくなると思った。僕は干し肉の残りを噛み、少し時間をかけて飲み込んだ。
「みんな、好き勝手に喋っていたよ。一人が話し終える前に、別の人が続きを変えてしまうんだ。最後には、最初に何を話していたのか分からなくなっていた」
「楽しそうだね。アルチョムちゃんも、その話を変えちゃう方?」
「僕は、聞いていることの方が多かった。たまに何か言うと、黙っていたと思ったらそれか、って笑われたな」
シグレが吹き出した。ノドカまで口元へ手を当てたので、僕は二人の顔を順番に見た。変な話をしたつもりはなかった。
「ごめん。何だか、想像できちゃって。さっきの瓶の名前の話も、そんな感じだったから」
「何か間違っていたかな。僕は、見た通りに言ったんだけど」
「間違ってないから、余計におかしいんですよ。アルチョムさん、時々すごく真面目な顔で、そういうこと言うんです」
言われてみても、自分ではよく分からなかった。僕は少し考えてから、分からないまま、グラスの残りを飲んだ。シグレはまだ笑っていたが、空になったのを見ると、すぐに瓶を持ち上げた。
「同じくらいでいい? それとも、もう少しだけにしておく?」
「さっきと同じで。今度は、最初からもっとゆっくり飲むよ」
赤い酒が、またグラスの底を満たした。彼女は僕の目を見てから瓶を傾けたので、多すぎると言い出す必要もなかった。注ぎ終えると、自分の分にも少し足し、瓶を机の端へ置いた。
飲み始めた頃より、頬が熱かった。指先が鈍るほどではなかったが、少し身体の力を抜いて座りたくなった。背もたれへ寄りかかると、それまで気にしていた、外を吹く風の音が遠くなった。
ノドカが立ち上がって、お茶のポットを持ってきた。ついでに、小皿へ残っていたお菓子を移す。僕の前にも一つ置かれたので、礼を言って手に取った。
「それ、自分で焼いたんですか。前に食べたものと、少し違う気がする」
「シグレが焼いたものですよ。私も手伝いましたけど、途中からつまみ食いばかりになってしまって」
「焼けたかどうか、よく確かめてくれたよね。残りの数が減るくらい」
ノドカが抗議し、シグレが笑いながら躱した。二人とも、随分前からこうしていたのだろうと思った。どちらかが話をやめても、気まずくならずに、そのまま次の話へ移っていける。
僕は、お菓子をひと口食べた。少し固く焼けた端を噛むと、香ばしい匂いがした。そこへ酒を合わせると、今度は、ほろ苦さより甘い香りの方が長く残った。
「これと一緒でも、違う味がする。……何だか、飲むより先に、食べるものを選びたくなるね」
シグレは自分の皿へ同じものを取った。おいしいと言われた時より、何か試す話になった時の方が、手が早いらしかった。ひと口食べてからグラスを上げ、ゆっくり頷いた。
「うん、こっちもいいね。じゃあ、次に持ってきてくれる時は、甘いものでもいいかも」
「探してみるよ。でも、君の作ったものと比べられると、店で選ぶのも難しいな」
「それ、褒めてる? 褒めてるなら、もっと聞いておきたいな」
僕が頷くと、シグレは満足そうに笑った。からかわれたことは分かったが、撤回する理由はなかった。実際に、どちらもおいしかった。
二杯目は、一杯目より長く机の上にあった。ノドカが話している間に飲み、自分が話す時には置いた。シグレが果実の匂いについて尋ねてくると、もう一度香りを確かめてから、分かる範囲で答えた。
専門家のようなことは言えなかった。飲んだ瞬間の甘さが好きなのか、あとに残る酸味が好きなのか、それを言葉にするだけでも少し迷った。それでもシグレは、僕が答えを探している間も、楽しそうに待っていた。
「ちゃんと考えてくれるんだね。おいしいだけでも、嬉しいのに」
「作った人がここにいるから。訊かれたら、できるだけ答えたいよ」
彼女は一度だけ目を伏せ、グラスの側面を指で撫でた。それから、ありがとう、と言った。いつもの軽い調子が少し薄くなったので、僕まで、返事をするのに間が空いた。
ノドカはその様子を見て、今度は何も言わなかった。自分のお茶を注ぎ足し、皿の端のお菓子を一つ取っただけだった。机の上で、食器の触れ合う小さな音がした。
最後のひと口は、少しだけ温くなっていた。冷えていた時より匂いを強く感じ、喉へ落としたあとにも、赤い果実の味が残った。僕は空になったグラスをしばらく持ってから、ようやく机へ戻した。
「……ご馳走さま。いい酒だった」
シグレが、声を立てて笑った。何かおかしかったのかと思って見ると、彼女は瓶を持ち上げ、札の方を僕へ向けた。
「最後まで、ちゃんとお酒って言うんだね。そこは、カンポットってことにしてくれてもいいのに」
「ここにいる三人とも、中身を知っているだろう。今さら隠しても、仕方ないと思うよ」
「アルチョムさんの言う通りです。シグレ、今日は観念してください」
ノドカにまで言われ、シグレは、しょうがないな、と肩を竦めた。それでも瓶をしまう前には、僕の方へもう一度顔を向けた。
「次も、飲んでくれる? その時も、感想を聞かせてほしいな」
「もちろん。何を持ってくるか考えておくよ。干し肉の店にも、また寄ってみる」
約束すると、彼女は嬉しそうに頷いた。戸棚へ瓶を戻す手つきが、少し丁寧になったように見えた。僕はグラスを彼女へ渡し、代わりにノドカから、温かいお茶を受け取った。
湯気の向こうで、二人が明日の買い物について話し始めた。僕のグラスへ触れていた指には、まだ、僅かに果実の匂いが残っていた。次に何を一緒に食べようかと考えながら、僕は二人の話へ耳を傾けた。
───特に酒好きだったダミールやサムなら、もし居たらシグレと毎晩飲み交わすんだろうな