Blue Archive fo MetroExodus 作:宇迦之たま猫
帽子がキャベツに着陸した。強い風に飛ばされてきたそれは買い物袋へすっぽり収まり、僕が何かする前に無事救出されてしまった。キャベツを少し奮発して大玉にしておいてよかった。こんなところで役に立つとは思わなかったけれど。
「待てーっ! おいらの帽子ーっ!」
白い髪をなびかせて駆けてきたチェリノ会長は、野菜の上に鎮座する帽子を見て急ブレーキをかけた。帽子とキャベツを見比べたあと、帽子だけを両手で抱え込む。その様子が妙におかしくて笑いそうになったが、たぶん笑うと返すまでの話が長くなる。
「無事ですよ。葉っぱが一枚ついただけです」
「うむ。よくぞおいらの帽子を……おまえ、窓より壁のやつだな!」
「アルチョムです。名前の方も使ってもらえると助かります」
建材みたいな覚え方をされていたらしい。次に会う時までに人名へ戻しておきたいと思って名乗り直すと、追いついてきたトモエが楽しそうに笑った。
「まあ、あの時の。会長は一度お会いした生徒をお忘れになりませんから」
「当然だ! おいらは生徒のことをよく見ているのだ!」
会長は帽子を高々と掲げてから得意げに被り直した。その拍子に長いマフラーを自分で踏み、ぐらりと前へ傾く。とっさに肩を支えると僕の袖がむぎゅっと握られた。
「会長、少しじっとしてて。そのままだと転ぶよ」
「転んでおらん!」
「うん。今のところはね」
袋をトモエに預けて膝を折ると、会長はまだ文句を言いたそうな顔で顎を上げた。僕の手元が気になるのか目だけがちらちら動く。結び目を直す間くらいはこちらを見ていても構わないのに、じっとしていてと言ったせいで顔まで動かさずに頑張っていた。言い方には気をつけた方がよさそうだ。
「はい。これなら踏まないと思う」
「ふむ。なかなかよい働きだったぞ!」
お褒めの言葉をいただいたので帽子の傾きも直しておく。会長はすっかり上機嫌になり、トモエはそれ以上に嬉しそうだった。三人のうち二人が喜んでいる。たぶん悪いことはしていない。
買い物袋を返してもらって歩き出すと、横から小さな足音がついてきた。会長が僕の袋を覗き込みながら尋ねる。
「アルチョム。次はどこへ行くのだ?」
「手袋とノートを買いに。食べ物はもう買ったから」
「ではおいらも行く! 今日は視察なのだ!」
トモエに確かめると、どうぞよろしくお願いしますと笑って会釈された。帽子を返したらお別れだと思っていたのに、いつの間にか会長と買い物をすることになっている。まあ急ぎの用事もないし、手袋選びに三人いたって困らないだろう。
そう考えていたら三人揃ってコロッケ屋の前で足が止まった。揚げたての匂いはずるい。特に空腹でもないのに、もう食べるつもりになってしまう。
「ここの品も確認しておかねばな!」
「ええ。私も気になっておりました」
会長と秘書室長が揃って頷いたので、僕は手袋のことをいったん忘れることにした。大きな犬の店主が尻尾を振りながら三人分の袋を差し出してくれる。トモエに僕の分まで買ってもらってしまい礼を言っていると、会長の視線が手元へ刺さった。
どうやら僕の分が一番大きかったらしい。持ち上げれば目がついてきて、少し下げればまたついてくる。これは食べにくい。
「会長、こっちにする?」
「よいのか!」
「うん。交換しよう」
まだ返事の途中なのに小さな紙袋が僕の前へ差し出された。こういう時の会長は判断が早い。大きい方を受け取った顔があんまり嬉しそうだったので、取り替えてよかったと思った。
ただしコロッケには大きさ以外にも問題があった。口へ近づけた会長が固まり、湯気を睨んだまま食べ始めない。試しに自分の分を割ると熱気がふわっと頬へ当たった。なるほど。これは強い。
「少し待とうか。熱そうだよ」
「おいらは平気だ! こやつが冷めておらんだけだ!」
「じゃあ冷めるまで一緒に見張っていよう」
会長は満足げに頷いた。二人してコロッケを眺めていると、トモエが横を向いて肩を震わせた。何だか楽しそうだけれど、そのまま笑っていたら自分の分も冷めてしまいそうだった。
やがて会長がコロッケを割ろうとし始めた。紙袋越しに掴むには大きすぎるし、そのまま触るには熱すぎる。右へ持ち替え左へ戻しているうちに中身が危うく転がり出かけたので、袋ごと受け取って半分にしてあげた。
「これなら持ちやすいと思う。端の方から食べてみて」
「うむ……おお!」
かりっとひと口齧った会長の顔がぱっと明るくなった。次のひと口へ進む速さからして気に入ったようだ。熱かったことはもう忘れたらしい。
「アルチョムさん。今日はこのあとお急ぎの用事は?」
「買い物だけですけど、どうかしました?」
「いえ。それならよかったと思いまして」
トモエの目はずっと会長へ向いていた。会長が食べ終わるのを僕と一緒に待ちながら、もう少しご一緒させてくださいねと続ける。もちろん構わなかった。おかげで僕も揚げたてを食べられたし、こうして立ち止まって食べるのも案外いい。
食べ終えた会長のひげに衣がくっついていたので教えたら、反対側ばかり払ってしまった。自分の顔のことは自分では分かりにくい。少し触ってもいいか尋ねてから紙でそっと取ると、会長は澄ました顔で胸を張った。
「おまえ、気が利くな!」
「取れたのは小さいの一つだけどね」
「そういう話ではない!」
それならもう少し自慢してもよかっただろうか。紙を捨てに行って戻ってくると、会長はすぐ僕の横へ並んだ。今度こそ手袋屋へ向かうらしい。
通りの端には踏み固められた雪が残っていた。小さな靴でそこへ踏み込む前に手を差し出すと、会長は僕の手から雪へ視線を動かした。滑った人が残した長い跡まで眺めてから、ようやく手袋を重ねてくる。
「特別に許可する。おいらを案内するのだ!」
「はい。ゆっくりね」
会長に合わせて歩幅を小さくすると、隣の足音もゆったりしたものに変わった。急がなくていいと分かったらしく、今度はあちこちの店を忙しそうに見ている。僕の買い物袋はまだ軽いのに寄り道だけが増えていった。
雪のないところまで来ても手は離れなかった。もう大丈夫そうだと声をかけると、会長は前を向いたまま答える。
「次があるかもしれん!」
少し先を見れば確かにあった。こう言われてしまっては仕方ない。トモエがとてもいいものを見たという顔をしていたが、雪があるのは本当なので僕はそのまま手を繋いで歩いた。
雑貨屋では黄色いアヒルに捕まった。赤いリボンをつけて棚の上に座っている小さな飾りだ。会長は一度通り過ぎてから、何か大事なものを見落としたような顔で引き返した。
「近くで見てみる?」
「品揃えの確認だ。隅々まで見なければならんからな」
店の人に頼んで取ってもらうと、すぐに顔が寄ってきた。そんなに気に入ったなら持ってみればいいのにと思い、繋いだ手を少し緩めた途端、ぎゅっと握り直される。
「おまえ、どこへ行く!」
「どこにも行かないよ。アヒルを両手で持ちたいかと思って」
「そうか。ではおまえが持っていろ」
僕がアヒルを持ち、会長がそれを眺めることになった。右側を見せれば左側も気になり、後ろを向ければ今度は正面へ戻してほしくなる。店の人まで面白そうに見守っていたので、しばらく僕はアヒルをゆっくり回す仕事をした。
会長は見たい向きを指さす時以外、ほとんど喋らなかった。ときどき手がこちらへ近づいてくるので、遠いのかと思ってアヒルを寄せると小さく頷く。さっきまで通りへ響いていた声が、気づけばすぐ隣だけに届く声になっていた。
マフラーの端から糸が出ていたので、アヒルをトモエへ預けてそっと収めてやった。会長が僕を見上げる。その目が少し気になって、もう踏まないから大丈夫だよと伝えると、繋いだ手からふっと力が抜けた。それでも離れはしなかった。
「……ならよい」
返してもらったアヒルをもう一度見せたら、会長はようやく笑った。どこかおかしなところでもあったかと裏まで確かめてしまったけれど、値札が貼ってあるだけだった。まあいいか。楽しんでもらえたなら僕の手首も回し甲斐があった。
アヒルはトモエが買った。袋を渡そうとしたトモエが一瞬こちらを見たので、僕はそっと手を引こうとしたけれど、また会長の指がきゅっと締まる。トモエは何も言わずに袋の持ち手を広げ、会長の空いている腕へ掛けてあげた。なるほど。その手があった。
どうにか手袋を買い終えて文房具屋へ入る頃には、僕も片手で買い物をするのに慣れてきた。ノートの棚を眺めていたら会長に手を引かれる。赤い表紙の一冊が目に入った。
「これだ! これにするのだ!」
「目立つね。鞄の中でも見つけやすそうだ」
「うむ。おいらが選んだのだからな!」
試しに手に取ると悪くなかった。これにしようと決めた時の会長は、アヒルを買ってもらった時と同じくらい嬉しそうだった。会計のあとにも袋を覗き込んで、ちゃんと赤い表紙が入っているか確かめていたので、明日には使い始めようと思った。
トモエが時計を見て事務局へ戻る時間だと告げるまで、思った以上に長く歩いていたことに気づかなかった。会長は急に足をゆっくりさせて僕の袋を覗き込む。さすがにそこから次の買い物は見つからなかったらしい。
「アルチョムはどこへ帰る?」
「寮だよ。荷物を置いてから用事があるんだ」
「なら事務局へ来ればよい。広いぞ!」
広さで誘われたのは初めてだった。ちょっと見てみたかったけれど先約があると伝えると、会長は僕の手を握ったまま唇を尖らせた。黙って見上げられると断った方まで落ち着かない。明日なら授業のあとに行けると続けたら、顔が一気に晴れた。
「では明日だ! 校門で待っているのだぞ!」
「会長。そのためにも明日のお仕事は早めに済ませておきましょうね」
「当然だ! おいらが本気を出せば、あれしきの書類などすぐなのだ!」
トモエがにっこりした。鞄から覗く書類の厚みを見てしまい、僕は何となく目を逸らした。この人は会長の機嫌をよくするだけでなく、よくなった機嫌で仕事まで片付けてしまうらしい。さすが秘書室長だ。僕が感心している間にも明日の予定が決まっていった。
ようやく手が離れると少し寒かった。会長が袋の中のアヒルを確かめている隙に手袋を直していたら、トモエから改めてお礼を言われた。
「今日はありがとうございました。会長もずいぶん楽しんでいらしたようです」
「僕も楽しかったです。帽子を拾っただけでこんなに買い物を手伝ってもらえるとは思いませんでした」
「ええ。ぜひ明日も」
そう言うトモエの隣から、会長が明日だぞと念を押してくる。約束するよと答えたあと、僕は頭の上を指さした。
「帽子は押さえていってね。もう一度飛んできてもキャベツで受け止められるとは限らないから」
会長が袋へ目をやって噴き出した。すぐに威厳を取り戻そうと咳払いをしたけれど、もう遅かった。僕まで笑ってしまったので結局二人とも笑ったまま別れた。
帰り道で袖の皺を伸ばしてみたが、すぐ元に戻ってしまった。まあ洗えば直るだろう。それよりキャベツを袋へ押し込まないと寒風に晒しっぱなしだ。今日は帽子を受け止めるところからよく働いてくれた。
*
翌日の放課後、鞄へ教科書をしまっていると教室の外が静かになった。この学園では銃声より気になる静けさというものがある。何だろうと顔を上げたところで戸が開いた。
「アルチョム! 迎えに来てやったぞ!」
校門で待つ必要はなくなったらしい。会長は昨日より得意げな顔で教室へ入り、後ろからトモエがにこやかに会釈した。周りの視線が一斉に僕へ集まる。困った。これはあとで色々訊かれるやつだ。
「もう帰れるか!」
「うん。あとこれだけ」
机に残っていた赤いノートをしまうと、会長がそれを見つけて満足げに頷いた。ちゃんと使っているか確かめるために来たのかもしれない。昨日選んでもらったばかりの一冊には、もう数頁ぶんの授業が書き込まれていた。
隣の席の子に袖を引かれた。何をしたらこうなるのかと小声で訊かれたので、帽子を拾ってマフラーを結び直したと答える。全然分からないという顔をされたが、それ以上は僕にも説明できない。
立ち上がると今度は会長が袖を掴んできた。このままだと鞄を肩へかけられないので手を差し出してみると、すぐにそちらへ持ち替えてくれた。昨日あれだけ繋いで歩いたのだから慣れたものだ。
「では出発だ! 今日はおいらが案内してやる!」
「ありがとう。鞄をかけるまでちょっと待ってね」
会長が律儀に足を止めた。僕が肩紐を直すのを見届けてから歩き出し、廊下を曲がる時にもこちらを確かめる。昨日僕がしていたのとよく似ていたので、何となく嬉しくなった。
外へ出ると風が吹いた。会長は片手で帽子を押さえ、もう片方で僕の手を握り直した。今日はキャベツを持っていないから、それでお願いしたい。
───きっとナスティアなら、チェリノ会長と仲良くなれるだろうな。カティアはトモエと談笑でもしてそうだ。