Blue Archive fo MetroExodus 作:宇迦之たま猫
いちごのショートケーキが二千二百クレジット。モンブランは二千四百。思わず目が上を向きかけ、僕はショーケースの縁へ手を置いた。ケーキを三つ食べて帰るつもりで来たのに、一つ目から予定が崩れそうだった。
ガラスの向こうは春みたいだった。苺は艶々しているし、白いクリームには波のような飾りがついている。栗色の山には金色の薄片が載り、チョコレートの表面は僕の靴よりよく磨かれていた。見れば食べたくなる。下へ目をやると食べる気が萎む。困った店に来てしまった。
「そこ、私も最初は長居したよ」
隣からのんびりした声がした。薄桃色の髪を横で結んだ女の子が、僕と同じようにケースへ顔を向けている。片手には店のメニューがあった。
「一切れでこの値段なんだね」
「食べる前がいちばん苦いんだ」
「食べたあとも残りそうだけど」
「お財布の方に?」
僕が黙っていると彼女は小さく笑った。制服はトリニティのものだ。僕のコートへ目を向けてから、メニューをこちらへ傾けてくる。
「少しずついろいろ食べたいなら、こっちもあるよ。食べ比べセット。今日は二種類だね」
三種の小さなケーキと飲み物で二千八百クレジット。写真に並んだ三切れは、ショーケースのものの半分くらいの大きさだった。この値段に救われた気がするのだから、店に入って五分で僕の金銭感覚はずいぶん柔軟になっている。
「私、柚鳥ナツ。よかったら一緒にどう? 別のセットを頼んで交換すれば六種類」
「アルチョム。……その誘い方はずるいと思う」
「嫌いなのあった?」
「ないんだ。それが困る」
ナツはメニューを畳んで席のある方へ歩き出した。僕もついていった。ここで帰ったら、窓際で六種類のケーキを食べている自分が、しばらく頭から離れそうになかった。
僕はショートケーキとモンブランとガトーショコラの組み合わせにした。ナツはレモンタルト、ミルフィーユ、ベイクドチーズケーキ。店員に取り皿を二枚頼むと、彼女は水を飲みながら満足そうにケースを眺めた。
「初対面の人をケーキで席まで連れてくるの、慣れてるね」
「今日は特別。君、すごく帰りたくなさそうだったから」
「帰りたかったのは財布だけだよ」
「仲がいいんだね、君と財布」
僕は笑ってコートを脱いだ。窓の外には手入れされた植え込みが続き、白い建物の間をトリニティの生徒が歩いていた。店の中も静かで、食器の触れる音さえどこか上品だった。コーヒーと温めたバターの匂いがする。こんな場所だと椅子へ深く座るのにも少し勇気がいる。
「ナツは、ここの常連?」
「時々ね。新しいのが出たり、どうしてもこれが食べたい日があったり。毎日は来ないよ」
「よかった。トリニティの人は毎日こういうものを食べてるのかと思った」
「毎日でもいいけど、楽しみにして待つのも味のうちだからね。……あ。でも新作が一週間しかなかったら話は別」
「急に厳しくなった」
「待っても来週にはいないから」
ちょうどそこへ二皿のケーキが運ばれてきた。色も形も違う三切れずつが、丸い皿の中にゆったり並んでいる。僕にはコーヒー、ナツには大きなグラスのミルクだった。
最初に半分ずつ取り分けるつもりが、ショートケーキの苺だけうまく切れなかった。小さなナイフを当てると横へ逃げる。皿の上を追い回すうちにクリームが鼻先へつき、ナツが向こう側からフォークで押さえてくれた。
「共同作業だね」
「ケーキを食べに来て、苺と追いかけっこするとは思わなかった」
「逃げ足のいい苺ほどおいしい、という説を提唱しておこう」
「お皿の上で済む説にしてね」
ようやく二つになった苺をそれぞれのケーキへ載せ直した。彼女も自分の皿を分けてくれて、僕の前には六つの味が集まった。小さくなったモンブランはやや斜めを向いていたが、これから食べるのだから構わない。
ショートケーキにフォークを入れると、スポンジは思っていたよりずっと柔らかかった。ひと口ぶんを運ぶ間にもクリームが傾く。慌てて食べたら冷たい甘さがふわっと広がり、そこへ苺の酸味が混じった。クリームは舌に残らず溶けてしまって、スポンジだけがもう少し噛んでいたい柔らかさを残した。
僕はフォークについたクリームを唇で拭った。次を食べようとして、残りがもうひと口ぶんしかないことに気づく。さっきは小さく見えたけれど、これは一切れ丸ごと食べたくなるやつだ。
「……まずいな」
「おいしいのに?」
「おいしいから」
ナツはミルクのグラスを持ったまま笑った。自分の分の苺をゆっくり食べ、フォークを次のケーキへ向ける。
「まだ五種類いるよ。ひとつ目で恋に落ちると大変だ」
「今日一日で随分と気が多くなりそうだね」
「それでいいんじゃないかな。ケーキは怒らないし」
アンナにも食べさせたかった。きっと僕が皿ばかり見ているのを笑って、気に入った方をもうひと口寄こせと言っただろう。苺を半分に切る時には手伝ってくれただろうか。それとも騒ぐ僕を面白がっていたかもしれない。
僕は残ったショートケーキを食べた。ナツがレモンタルトへ手を伸ばし、何か言いかけた口をきゅっと結ぶ。目が少し細くなった。
「……こっち、なかなか強い」
僕も食べてみた。たしかに酸っぱい。黄色いクリームは見た目から想像したよりずっと鮮やかな味で、思わず舌の両脇が縮まる。その下の生地はバターの匂いが濃く、ほろほろと崩れたあとにもレモンの香りが残った。
「これ、好きだな」
「アルチョムはそっちか」
「もう一切れ欲しいくらい」
「さっきもそういう顔をしてたよ」
言い返せなかった。僕が迷っている間にナツはチーズケーキの端を取り、タルトの欠片と交互に食べ始めた。今度は小さく息を吐いて、ミルクへ手を伸ばす。僕もコーヒーを飲んだ。温かい苦味で舌が落ち着くと、また皿の上が気になってくる。
モンブランはフォークで触れただけで栗のクリームがほぐれた。中には軽いクリームが隠れていて、一緒に口へ入れると栗の香りがふっと鼻へ抜ける。底の焼き菓子はさくっと砕けた。見た目は小さな山なのに、食べ始めると消えるのが早い。
ガトーショコラはその反対だった。しっとり詰まった生地は小さく切っても味が濃く、噛んでいるうちにチョコレートがゆっくりほどけていく。コーヒーを飲むと口の中まで香りが戻ってきて、僕はカップを置くのを忘れかけた。
「最近、こういうのを探して歩いてるんだ」
学区の外へ食べに行くようになった話をすると、ナツはケーキを食べる手を止めずに耳を傾けた。ゲヘナのソーセージに百鬼夜行の団子。百夜堂で描いてもらった地図のことまで話すと、彼女はその店の名前を覚えるように口の中で繰り返した。
「いいね。おいしかった話って、聞いてるだけで自分もそこへ行きたくなる」
「ナツはケーキだけ?」
「甘いものは好きだよ。あと、誰かがすごくおいしかったって言ってるもの」
「それだと際限がないね」
「そう。世の中は広いんだ」
ナツは気負う様子もなく言って、ミルフィーユへナイフを入れた。薄いパイが小さく鳴る。そのまま押したらクリームが脇へ逃げ、一番上の層が滑って皿へ落ちた。
「……世の中って思い通りにならないね」
「そんな大きいものまで一緒に切ろうとしなくていいよ」
「うん。じゃあ、まずこっちから」
僕の分も同じようになった。慎重に切ろうとするほどパイが割れ、砕けた欠片が皿の端へ散る。ナツは早々に形を諦めて、崩れたところをクリームごとすくっていた。
真似して食べると、重なったパイがぱりぱりと音を立てた。甘いカスタードが隙間へ入り込み、口の中で一度にほぐれる。綺麗に残っていた時より、かえって食べやすいくらいだった。僕も皿へ落ちた欠片をフォークの背で集めた。
「高いものって、もう少し大人しく食べられると思ってたよ」
「綺麗なものを綺麗に食べるのは難しいからね」
「ナツもクリームがついてる」
「……それは、まあ」
彼女は口元を拭い、その紙ナプキンを小さく畳んだ。さっきまでの調子が一瞬だけ途切れたのがおかしくて、僕はコーヒーへ逃げる。ナツは知らん顔で残ったチーズケーキを食べていた。
そのチーズケーキは表面に薄い焼き色がついていて、中はなめらかだった。レモンタルトのあとに少し食べた時より、今はチーズの塩気がよく分かる。フォークで切り分けた跡がしばらく残るくらいの固さなのに、口へ入れるとすっとほどけた。僕は最後に残った焼き色の濃いところを、小さくふたつに分けて食べた。
テーブルの端には最初に見せてもらったメニューが残っていた。いちごのショートケーキ、二千二百クレジット。今はその写真を見ると、口の中にクリームの冷たさまで戻ってくる。僕は次のページを開きかけてやめた。
「私、こういうのを部活にしたいんだよね。放課後に集まって、おいしいものを食べる部活」
「今日は休みの日だよ」
「休みの日は、朝からずっと放課後ってことで」
「それならずいぶん活動できそうだね」
「でしょ」
ナツは綺麗な紙ナプキンを一枚取り、端へ『放課後スイーツ部』と書いた。最後の『部』を少し大きくして、その下へ今日食べたケーキの名前を並べ始める。
「部長になったら、食べ歩きの話も聞かせてよ。ほかの学区にもおいしい店はあるから」
「うん。君にも遊びに来てもらおう。ロマンの持ち寄りだね」
「財布に優しいのも混ぜてね」
「それは大事」
会計は二人とも二千八百クレジットだった。分かっていた額なのに、いざ払う時になると少し手に力が入った。店員からレシートを受け取りながら、明日は寮で過ごそうと決める。ナツはその隣でミルクのおいしかった話をしていた。
店を出ると外の空気が少し冷たかった。コートの襟を直している間にナツと連絡先を交換し、駅へ向かう道まで一緒に歩く。ショーウィンドウには大きなホールケーキの写真が飾られていた。
「人が集まったら、ああいうのも食べられるね」
ナツが足を止めた。僕は彼女の横から写真を見て、さっきのショートケーキが丸ごと一台になった姿を想像した。切り分けたところにクリームと苺がたっぷり挟まっている。
「……何人くらい集めるつもり?」
「最初は三、四人かな」
「もう少し大きな部活を目指してほしい」
ナツは声を立てて笑い、ショーウィンドウから歩き出した。僕も隣へ並びながら財布をポケットの奥へ押し込む。ケーキの部活なんて楽しそうだと思ったけれど、部員勧誘には少し本気で協力した方がよさそうだった。
───ナスティアやキリルなら、きっとこのケーキを大喜びで食べただろうな…