前作『儒烏風亭らでんは世界を蒐集する』の続編にあたります。
前作から続く人物関係や出来事は、必要に応じて作中で触れていきますので、初めての方もここからお付き合いいただければ幸いです。
これまでのあらすじについて、詳細を知りたい方はこちらをガイドご参考ください。
前日譚や、らでんの来歴が気になった方へ
物語は、ゴンたちが受験する第287期ハンター試験の直前から始まります。
正面からでは、やはり何の形か分からなかった。
リーネ市立美術館の二階、高い天井から柔らかな光が落ちる展示室の奥に、その大きな板絵は掛けられていた。
《二人の使節》
壁の小さな解説札には、作品名と制作された年代、所蔵に至る簡単な経緯だけが記されている。
縦も横も二メートル近い画面の両端に、二人の若い男が立っていた。左側の人物は白い毛皮の襟がついた豪奢な上着に紅色の袖をのぞかせ、右側の人物は落ち着いた濃色のガウンをまとっている。二人のあいだには二段になった棚が置かれ、色鮮やかな敷物の上に天球儀や日時計、弦楽器や開かれた本が隙間なく並んでいた。
どこを見ても、驚くほど細密な筆致だった。毛皮の一本ずつの柔らかな逆立ちも、袖の繻子が光を返す滑らかな艶も、すぐ目の前に本物の布があるように描かれている。
それなのに、二人の足元にだけ、まるで別の絵から切り貼りしたような異様な塊が横たわっていた。
細かい幾何学模様の石張りの床を斜めに横切る、灰白色の細長い影。
切り株を引き伸ばしたようにも、乾いた流木のようにも見える。暗い窪みと白い筋がねじれながら右上から左下へと伸びていて、周囲の几帳面な遠近法からそこだけが浮き上がっていた。
らでんは保護柵の手前で足を止め、首を少し右へ傾けた。
この絵の図版なら、以前に画集で見たことがある。足元の細長い形が単なる描き損じではなく、特定の角度から見たときにだけひとつの図像へまとまる仕掛けだということも、文字の解説としては知っていた。
ただ、画集の小さな頁を手元で傾けて見るのと、自分の背丈より大きな実物の前に立つのでは、勝手がまるで違った。
正面から首をかしげた程度では、白い塊は平たく伸びきったままで、どこが上なのかすら判然としない。
翌朝の連絡便で協会の現場へ入る前に、わざわざこの町へ前泊して美術館へ足を運んだのは、本物の画面の前で自分の足を動かし、その形が立ち上がる瞬間を確かめてみたかったからだ。
二十歳になった今では、地方の文化財を調査する本業の日程も、移動の合間のこうした寄り道も、すべて自分の裁量で組めるようになっている。大きなボストンバッグは駅前の宿に預けてきたので、肩にあるのは記録ノートを入れた軽い鞄だけだった。
右から見るんだったか、それとも左だったか。
らでんが一歩後ろへ下がり、画面の両端を見比べたときだった。
右手の壁際、絵からかなり浅い角度になる位置に、先客が一人立っているのに気がついた。
後ろへ流した黒い髪に、額へ巻いた暗い色の布。仕立てのよい濃色の上着の襟元で、顔をわずかに動かした拍子に、青い耳飾りが小さく光を返した。
らでんの足が止まった。
見覚えがあるどころではない。このリーネの美術館で、これまでに二度、展示を眺めながら言葉を交わした青年だった。最初はほとんど白紙に見える素描の前で、二度目は部屋の隅に積まれた飴の山の前で。
あれからまた何年か経っているはずなのに、展示室の静かな空気の中に立つ横顔は、記憶の中とほとんど変わっていなかった。
らでんは他の鑑賞者の邪魔にならないよう、床の音を控えて右手の壁の方へ歩み寄った。
「……あの、こんにちは。お久しぶりです」
声をかけると、画面の裾へ向けられていた青年の視線がこちらへ上がった。
一拍だけ瞬きをして、それから記憶が繋がったように口元が緩む。
「やあ。……本当に久しぶりだね」
「やっぱり。横顔が見えたとき、そうじゃないかなと思ったんです」
「驚いたな。君もずいぶん背が伸びた」
「もう大人ですから」
らでんが胸を張る真似をして笑うと、青年も小さく息を漏らして笑った。
名前も仕事も知らないまま、この町の美術館でだけ顔を合わせる相手だ。それでも、いつ会っても昨日の続きのように話せる気安さがあった。
「またこの町を通る用事があって、明日の朝まで時間があったので寄ってみたんです。そしたら、見たいと思っていたこの絵がちょうど出ていて」
「俺もだよ。近くまで来たから、久しぶりにこの部屋を覗いてみた」
青年が視線を《二人の使節》へ戻す。らでんもその隣から、斜めに詰まって見える大きな画面を見上げた。
「もしかして、もう見えました?」
「足元のあれかい?」
「はい。正面からだと、本当に何が描いてあるのか全然分からなくて」
「俺も今、ちょうど場所を探していたところだよ。画集の写真では見たことがあったんだが、実物の前だと案外すぐには合わないね」
「あ、やっぱりそうですか! よかった、私だけじゃなかった」
らでんは思わず声を弾ませ、すぐに唇へ指を当てて声量を落とした。
青年は可笑しそうに目元を和ませながら、自分の立っていた場所からさらに半歩、壁の方へ寄った。
「左下へ向かって伸びているから、見る位置はこっちの右側で合っているはずなんだ。ただ、ここからだとまだ少し長い」
「ちょっと私も見ていいですか」
青年のすぐ後ろから、同じ角度で画面の裾を覗き込む。
確かに、正面で見たときよりは灰白色の帯が短く詰まって見えた。けれど下の方の白い筋がまだ不自然に引っ張られていて、おまけに天井の照明が画面のニスに反射し、肝心の真ん中あたりが白く光ってしまっている。
「ほんとだ。なんかこう、惜しい感じですね」
「だろう? もう少し低い位置から、斜めに見上げる方がいいのかもしれない」
青年が絵の右端に近い壁際へ寄り、保護柵の外側で少し腰を落とした。画面の下端に近い高さから、足元の白い形を斜めに見上げる。
そのまま、青年の動きがぴたりと止まった。
「……ああ。ここだ」
低い声が落ちた。
らでんは思わず膝を曲げ、横から覗き込もうとした。青年がすっと立ち上がって一歩後ろへ引き、自分が見ていた床の位置を手で示す。
「このあたりで目線を低くして、絵の下の方を斜めに見上げてごらん」
「ありがとうございます。失礼します!」
らでんは譲られた場所へ入り、保護柵の外側で腰を落とした。
最初は、絵具のわずかな凹凸とニスの照りばかりが目に入った。膝を少しずつ曲げて目線を下げ、右下から画面を斜めに見上げる。
その瞬間だった。
床の上にべったりと引き伸ばされていた灰白色の帯が、目の奥でふっと奥行きを持って立ち上がった。
左右へ間延びしていた二つの黒い染みが、深い眼窩になる。歪んでいた白い筋が鼻梁と上顎の歯列へ噛み合い、丸みを帯びた頭蓋の輪郭が、幾何学模様の石張りの床からわずかに浮き上がった位置にくっきりと結ばれた。
「……うわ、出た!」
「見えた?」
「見えました! すごい、急に立体になりますね、これ!」
らでんは目を離せないまま、自分の立ち位置を確かめるように靴の先を見た。
そこから顔をほんの十センチほど左へずらしてみる。すると、せっかくまとまっていた頭蓋骨の輪郭がぐにゃりと崩れ、顎の骨がまた細長く床へ伸びてしまった。慌てて元の位置へ顔を戻すと、再び暗い眼窩がこちらを真っ直ぐに見返す。
「ここから少しでも外れると、もう伸びちゃいます。本当にこの狭い幅だけなんですね」
「そうらしいね。しかも、その位置から上の二人を見るとどうなる?」
言われて、らでんは頭蓋骨に合わせたままの角度で、画面の上の方へ目を上げた。
さっきまで堂々と肩を広げて立っていたはずの二人の使節が、今度は紙を縦に折り曲げたみたいに極端に細長く潰れて見えている。棚の上の丸い地球儀まで、縦長の楕円に歪んでいた。
「あはは、上の二人がすごく窮屈そうです」
「正面の二人をまともに見ようとすれば足元が歪むし、足元の頭蓋骨を正しい形で見ようとすれば、上の二人と道具の方が歪んでしまう。同じ一枚の板の上にあるのに、同時には見られないように作ってあるんだな」
青年が隣から画面を見上げて言う。
そのとき、隣の展示室から老夫婦がゆっくりと歩いて入ってきた。
二人は自然に壁際から離れ、正面の少し後ろへ下がって場所を空けた。老夫婦は絵の正面に立ち、見事な毛皮や棚の道具を眺めてから、足元の奇妙な白い塊に気づいて首を傾げている。
らでんは正面へ戻った自分の位置から、もう一度あの灰白色の帯を見た。
見え方は最初とまったく同じはずなのに、不思議だった。一度あの角度で立体になった頭蓋骨を見てしまうと、正面から平たく伸びた形を見ても、どこが目の窪みでどこが額の丸みなのか、頭の中で勝手に補われてしまう。
「なんだか、最初と違って見えます」
老夫婦が次の絵へ移動したあと、らでんがぽつりと言うと、青年が横を見た。
「正面からでも?」
「はい。さっきは本当にただの白い染みだったのに、今はあそこに目があるって分かっちゃいますから」
「ああ、確かに。一度知ってしまうと、見る前の目には戻せないね」
青年も正面から足元の影を見つめ、少し目を細めた。
そこから、らでんは視線を中央の棚へと戻した。
正面から見れば、やはり主役は二人の青年と、そのあいだに整然と並べられた品々だ。分厚い織物の敷物の上に、真鍮の輝きや木の温もりが細かく描き分けられている。
らでんは保護柵の許すところまで近づき、下の段の棚に置かれた丸い胴の弦楽器に目を留めた。
最初は美しい木目と、隣に伏せて置かれた笛の並びを見ていたのだが、楽器の腹を走る細い白い線を辿っていくうちに、指先が小さく動いた。
「……あ。ここ、弦が切れてます」
青年が隣へ寄ってきて、同じ場所へ視線を落とす。
「本当だ。一本だけ、途中で垂れ下がっているね」
「こんなに立派な服を着て、大事な道具をずらっと並べて描いてもらってるのに、弦が一本切れたままなんですね」
らでんは目を凝らした。
筆が滑ったような線ではない。切れた弦の端がくるりと小さく丸まり、楽器の胴の上に細い影まで落としている。描いた画家が、明らかに意図して「切れた状態」を書き留めているのだ。
「私なら、せっかくこんな大きな絵に残すんだったら、新しい弦に張り替えてから描いてくださいって言っちゃう気がします。それとも、さっきまでここで誰かが弾いていて、ぷつんと切れたところをそのまま描いたんでしょうか」
「あるいは、うまく鳴らないことを示すために、わざと切れた楽器を置いたのかもしれないよ」
「うまく鳴らないこと、ですか?」
「ほら、すぐ隣で開いている本も見てごらん」
青年が顎で示した先には、弦楽器の手前に置かれた開いたままの冊子があった。
そこにも細かい文字と譜面のようなものがびっしり描き込まれている。よく見ると、もう一冊、地球儀の脇に置かれた小さな本には、閉じきらない頁のあいだに四角い定規が栞のように挟まれていた。
「上の段の道具は、どれも綺麗に整えて並べてあるだろう。だけど下の段は、地球儀も少し傾けてあるし、本には定規が挟まったままだし、楽器の弦は切れている」
「あ……ほんとだ。上の段は空や時間を測る道具ばかりで、すごくきっちりしてるのに、下の段はさっきまで誰かが手元で触ってたみたいですね」
らでんは棚の上段と下段を交互に見比べた。
自分一人で見ていたら、「誰かが使っていた跡がある」というところにばかり目を奪われて、上の段との並びの違いにはすぐ気づかなかったかもしれない。
さらに画面の左端、毛皮の上着を着た人物の手元を見ると、腰に下げた短剣の柄を握る指の節に、わずかな力が入っているのが分かった。対する右側の人物は、閉じた本の上に片肘を乗せ、落ち着いた目線でこちらを見ている。
「この二人、どんな人たちだったんでしょうね。解説だけだと、そこまでは分からなくて」
「これだけの道具と衣装を揃えられるんだから、相応の立場にはあったんだろう。ただ、ただの自慢のために並べたにしては、切れた弦といい、足元の頭蓋骨といい、ずいぶん妙なものを混ぜている」
「ですよね。もしお屋敷の広間に飾るんだとしたら、毎日こんな大きな頭蓋骨が足元にあるのは、ちょっと落ち着かない気がします」
らでんが正直な感想をこぼすと、青年がくすりと笑った。
「毎日正面から見ているだけなら、ただの奇妙な模様で済むさ。ただ、部屋の出口の脇あたりに掛けてあったとしたら、話は別だね」
「出口の脇?」
「正面で立派な衣装や珍しい道具を眺めて、感心してから部屋を出ていこうとする。そのとき、扉の横を通り過ぎる一瞬だけ、足元の模様が頭蓋骨になってこちらを見る」
らでんは、さっき自分が立った右壁際の位置を振り返った。
なるほど、と胸の奥で合点がいった。
もし絵が今より高い位置に掛かっていて、あの横に扉や階段があったなら。見終わった客が通り過ぎるとき、あるいは廊下からふいに部屋へ入ってきたとき、屈まなくてもあの暗い眼窩と目が合うのかもしれない。
「うわあ……。帰ろうとして振り向いたらあれと目が合うの、かなりびっくりしますね」
「びっくりさせたかったのか、それとも事情を知る人間だけが立ち止まる目印にしたかったのか。どちらにしても、見せる順番まで計算して置いてある」
青年は大きな画面の隅から隅までを、楽しそうに目で辿っていた。
描かれた道具に残る人の手癖や気配を追いたくなる自分と、画面全体の配置や見る人間の動き方から仕掛けをほどいていく青年。見ているところは少しずつ違うのに、相手が一言口にするたびに、目の前の絵がぐっと立体的になっていく。
「やっぱり、本物を見に来てよかったです」
らでんが顔をほころばせると、青年がこちらを見た。
「画集とは違ったかい?」
「全然違いました。それに、一人で見ても『見えた!』って嬉しくなったとは思うんですけど、誰かと一緒にあっちこっち動いて探すと、見つけた瞬間が倍くらい面白いですね」
「それは同感だな。俺も一人で見ていたら、切れた弦の方までは細かく追わなかったかもしれない」
二人は絵の正面から離れ、展示室の後ろに置かれた長いベンチへ並んで腰を下ろした。
座って少し低い位置から見上げると、二メートルある板絵はまた違った迫力を持って迫ってくる。毛皮の白と敷物の赤、そして床を横切る灰白色の帯が、静かな照明の下でくっきりと浮かんでいた。
「でも、いいですよね、こういうの」
らでんは膝の上の鞄に手を置いたまま、画面を見つめて言った。
「最初から正面にぜんぶ分かりやすく並べておくんじゃなくて、見る人が動いたり、前のものから次のものへ目線を移したりして、最後にひとつの形になるっていうのが」
「そういう見せ方が好きなのかい?」
「はい。好きですし、ちょうど最近、そういうことを自分でも考えていたところなんです」
年末に事務所のスタジオで、四人の仲間たちと息を合わせて撮った短い試作動画のことが、ふっと頭に浮かんだ。
一人で机に向かって古い道具の面白さを話すだけでなく、前の人の声や動きを受けて次の人が入り、五人でひとつの画面を作っていく。あのバトンパスの感覚は、別々の場所に置かれた手がかりが、ある角度でぴたりと重なる気持ちよさにどこか似ていた。
「何か作っているの?」
青年に尋ねられ、らでんは自然と頬が緩むのを感じた。
「私、今年の九月に、仲間と大きな発表があるんです。まだ始まったばかりで、今から少しずつ準備してるところなんですけど」
青年がわずかに目を見張り、それから、とてもいいことを聞いたというように目元を細めた。
「奇遇だな。俺も九月に、大きな仕事がある」
「えっ、同じじゃないですか!」
らでんはベンチの上でくるりと青年の方を向いた。
「九月ですか? じゃあ、ちょうど今から準備ですね」
「ああ。俺の方も、一人じゃできない仕事でね」
「そこまで一緒だ!」
らでんは思わず声を弾ませた。
この美術館で三度目に顔を合わせた相手と、そんな時期まで重なるなんて思ってもみなかった。
「ひとりじゃないと、合わせるだけでも大変だったりしません? 私の方も、集まったメンバーの得意なことがぜんぜん違うので、どうやって繋ごうかって相談してるだけで、あっという間に時間が過ぎちゃうんです」
「それはあるね。俺のところも、普段はそれぞれ勝手に動いている連中だから、集まると賑やかだよ。ただ、一人では絶対に手が届かない規模のことだから、揃えば面白いものになる」
青年の声は落ち着いていたが、その奥には確かな熱があった。
ただの義理や惰性で請け負った仕事ではなく、その仲間たちと九月に集まることを、彼自身も心から楽しみにしているのが言葉の端々から伝わってくる。
「いいなあ、そういうの。自分の得意なことだけじゃなくて、隣にすごい人がいると『じゃあ次はこうしてみよう』って新しいやり方がどんどん出てきますよね」
「そうだね。誰をどこに置いて、どの順番で動かすか。それを考えている今の時間も、なかなか悪くない」
「わかります! 本番までまだ何ヶ月もあると思うと待ち遠しいんですけど、準備してる今もすごく楽しいんですよね」
発表の中身は、まだ外では話せない。らでんは仲間たちと準備していることだけを話し、自分の本業やグループの名前には触れなかった。青年も仕事の中身までは語らず、二人の話は準備の楽しさへ戻っていった。
それでも、同じ今年の九月に向けて、信頼できる仲間たちと大きな本番を準備しているというだけで、なんだかとても心強い味方を得たような気がした。
「……じゃあ、九月まで、お互い頑張らないとですね」
「ああ。楽しみだ」
青年が真っ直ぐに頷く。らでんも力強く頷き返した。
しばらく二人でベンチから絵を眺めていると、壁の時計が次の時刻を告げるように小さく針を進めた。
明日の連絡便は朝が早い。暗くなりきる前に宿へ戻って、荷物の整理と明朝の準備を済ませておきたかった。
「私、そろそろ戻ります。明日の朝、早い便で仕事へ向かうので」
らでんが立ち上がると、青年も一緒に腰を上げた。
「そうか。俺もちょうどいい時間だ。ここまで見られれば十分だから、一緒に出よう」
展示室を出る前、二人はもう一度だけ《二人の使節》の前を通った。
らでんは正面の少し左寄りで足を止め、二人の使節のあいだにある棚を見つめた。切れたまま垂れ下がった一本の弦と、定規が挟まれた小さな本。そして、豪奢な衣装を着た二人が幾何学模様の石張りの床に落としている、控えめな足元の影。
「この二人も、何か大事な仕事の前に並んで描いてもらったんでしょうかね」
そう呟いて横を見ると、青年は展示室の出口に近い右斜めの位置で足を止め、少し腰を落としていた。
あの角度では、上の二人の姿は細長く歪み、足元の頭蓋骨がくっきりとまとまって見えた。青年はもう一度、目線の高さを変えて画面を眺めている。
「これだけ違うものを一枚の板に押し込めて、ちゃんと成立させているんだから大したものだよ」
「ほんとですね。またこの町に来たら、絶対に見に来ます」
二人で展示室を出て、階段を降りた。
一階の明るいロビーへ出ると、出口の脇に小さな売店がある。棚には所蔵品の図録や絵葉書が並んでいた。
らでんは回転式のラックから、《二人の使節》の絵葉書を一枚抜き取った。はがき大の紙面の中に、さっきの二メートル四方の画面が小さく収まっている。
試しに手元で絵葉書を斜めに傾けてみると、印刷された白い帯がすぐに小さな頭蓋骨の形にまとまった。
「あ、絵葉書だと、手を傾けるだけですぐ見えちゃいますね」
隣から覗き込んだ青年が、少し可笑しそうに口元を緩めた。
「それなら、わざわざ壁際まで歩かなくて済むな」
「でも、やっぱりさっき歩いた距離の方が面白かったです。忘れないうちに、立った場所もノートに書いておくことにします」
らでんがレジで絵葉書の代金を払うあいだ、青年は売店の棚を軽く見渡していたが、自分では何も手に取らなかった。
「そちらは買わなくていいんですか?」
「うん。今日はいい角度が頭に残ったから、これで十分だよ」
売店を出て、ガラス張りのエントランスホールで向き合う。外はすでに冬の夕暮れの気配が濃くなり始めていた。
「今日もすごく面白かったです。ありがとうございました」
「こちらこそ。君と見ると、いつも一人で見るより退屈しない」
「九月のお話まで聞けて、なんだかすごく元気が出ました。お忙しいと思いますけど、お体に気をつけて頑張ってくださいね」
「ありがとう。君たちの九月の発表も、うまくいくといいね」
「はい! 絶対にいいものにします!」
らでんが笑顔で頭を下げると、青年は軽く片手を上げた。
そのままガラス扉を押し開けて、冬の澄んだ外気の中へ出ていく。夕方の淡い光の中で、耳元の青い飾りが一度だけ揺れ、すぐに石畳の向こうへと遠ざかっていった。
今回も、名前は聞かなかった。
けれど手元の絵葉書を見下ろすと、一人で美術館へ入ったときよりも、胸の奥がずっと温かく満たされているのが分かった。
◇ ◇ ◇
宿へ戻ると、らでんは部屋の机に絵葉書を置き、四冊目の記録ノートを開いた。
新しい頁に《二人の使節》と書き、四角い枠を描いて、自分が立った右斜めの壁際の位置に小さな星印をつける。
そこまで一気に鉛筆を走らせてから、頁の右下の余白に、小さく『九月!』と書き添えて丸で囲んだ。
机の脇に置いていた携帯端末を手に取ると、年末に顔を合わせたばかりの四人の仲間たちから、五秒ずつ繋ぐリレー動画の新しい連絡が届いていた。画面の中で跳ねる明るい文字を見ているだけで、さっき美術館で話した「九月の発表」が、すぐ手の届くところにある確かな予定として胸をくすぐる。
短い返信を打ち込んでから、らでんは端末を閉じ、椅子に座ったまま背筋を伸ばした。
九月の本番を最高の形で迎えるためにも、まずは明日から始まる目の前の本業をきっちりやり遂げなければならない。
ベッドの脇に置いたボストンバッグを引き寄せ、ファスナーを開けて中身を確かめる。
緩衝材で包んだ小型カメラと銀色のスタンドマイクは、脇のポケットにしっかり収まっている。そして内ポケットには、ハンターライセンスと黒革の手帳、使い慣れた一本の折り畳み扇子、それから協会の本部事務局から届いた厚手の公式封筒が入っていた。
封筒から書類を少しだけ引き出し、黒いゴシック体の文字を目で追う。
明朝の連絡便の発車時刻と、現地の地下へ繋がる搬入経路の案内をもう一度だけ確認し、書類を封筒へ戻して胸ポケットへ収めやすい位置に整えた。
翌朝、まだ街の屋根に白い霜が残る時刻に、らでんは宿をチェックアウトした。
マフラーに顎を埋め、肩にボストンバッグを掛けて、冬の澄んだ朝日の中を連絡便の乗り場へと歩く。吐き出す息は白く冷たいのに、足取りは驚くほど軽かった。
八期前、十二歳で自分が駆け抜けたあの試験に、今度は運営する側の一員として立ち会うことになる。今年はどんな受験生たちが集まり、どんな道のりが待っているのだろう。
らでんは胸ポケットの委嘱状の角を指先で一度だけ確かめると、到着した連絡便のタラップを元気よく駆け上がった。
今回登場した《二人の使節》は、ハンス・ホルバイン(子)の《大使たち》(1533年)を参考にしています。画像と解説は、ロンドン・ナショナル・ギャラリーの公式ページからご覧いただけます。
なお、作中の作品名や展示場所などは、本作の世界に合わせた創作です。