儒烏風亭らでんと蜘蛛と奇術師   作:今日も元気ですマン

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第九話 ゴンVSヒソカ

 

 二百階の客室の丸テーブルの上に、白いプラスチックの丸いプレートがひとつ置かれていた。

 表面には黒い文字で『44』と印字されている。五月十日の夕方、リールベルトとの試合を終えて部屋へ戻ったゴンが、上着の胸ポケットから取り出してそこへ置いたものだ。

 

 らでんは給湯コーナーで淹れた温かい麦茶のマグカップを三つ盆に乗せて運びながら、テーブルの真ん中で西日を受けているその番号札に目を留めた。縁の塗装がほんの少しだけ擦れているのは、一月のハンター試験でゼビル島の森を駆け回っていたころから、ずっとゴンのポケットの中で擦れ合っていたせいだろう。美術館の展示ケースに並ぶような古い遺物ではないけれど、持ち主の体温と時間を吸い込んだ物には、独特の重みがある。

 

「こうして机の上に出してみると、なんだか思っていたよりずっと小さいんですね」

 

 らでんがマグカップを二人の前へ置きながら言うと、消毒して白いガーゼを貼ったばかりの右手をぶらぶらさせていたゴンが、自分の椅子を引いて座り直した。

 

「うん。でもね、らでんさん、ポケットに入れてると結構わかるんだよ。走ったり跳んだりしてるときも、ここに入ってるなっていつも思うんだ」

 

 ゴンは人差し指の先で、プレートの『4』の角をちょんと突いた。

 

 ゴンはガーゼの貼られた右の掌をぐっと握り、それからゆっくり開いてみせた。リールベルトの鞭を素手で掴んだときにできた擦り傷は浅く、血もすでに止まっている。三月に折れた腕が四月十一日に完治してから一か月、毎日欠かさず《纏》を整え、《練》と《堅》と《凝》を積み重ねてきた手だ。

 

「今度はちゃんとリングの上で、自分の手でヒソカの顔に一発入れて、これを返すんだ」

 

「一発入れて返す、か」

 

 キルアはマグカップを両手で包んだまま、少しだけ目を細めてテーブルの上の『44』を見た。

 

「なあ、ゴン。ギドとリールベルトに勝ったのはすげーし、オレたちの基礎が最初よりずっと強くなったのも本当だけどさ。正直、今のまま正面から殴り合ってヒソカに勝てるかって言ったら、まだ無理だぜ」

 

「うん。わかってる」

 

「わかってんのかよ」

 

「だって、カストロさんの試合を一緒に見たじゃん。カストロさん、すごく強かったのに、ヒソカは腕を一本切られても笑ってたし、今のオレよりずっと速かったもん」

 

 ゴンは少しも気落ちした様子を見せず、真っ直ぐにキルアとらでんの顔を見た。

 

「だからね、今のオレがヒソカと戦って、十ポイント先取して勝つとか、ノックアウトするっていうのは、まだ目標じゃないんだ。まずはヒソカの顔に、オレのパンチをまともに一発叩き込むこと。それができたら、このプレートをヒソカに突き返す。それが今回のオレの勝負なんだよ」

 

 自分の現在地を背伸びせずに見極めた上で、それでも絶対に譲れない一線を自分の手で引いている。らでんは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、自分のマグカップへ指を添えた。

 

 初戦のギド戦の前には、まだ何も見えないままリングへ上がろうとする二人をどうやって守るかで頭がいっぱいだった。けれど今のゴンは、相手の大きさを知った上で、自分が何をしに行くのかをはっきり言葉にできている。

 

「試合の登録は、いつにするつもりですか?」

 

 らでんが尋ねると、ゴンは壁に掛かったカレンダーを見上げた。

 

「あと一か月、今の練習を積み重ねてから挑みたいんだ。六月十日に申し込もうと思う。明日の朝、受付が開いたら登録してくるよ」

 

「六月十日なら、あとちょうど一か月あるな」

 

「うん! 一か月間、今まで通り《練》と《堅》と《凝》をもっと鍛えて、それからリングへ上がる!」

 

 ゴンがプレートを拾い上げ、もう一度自分の胸ポケットへと収めた。プラスチックの札が布地の奥へ落ちる小さな音がして、ゴンはその上から掌でぽんと軽く叩いた。

 

「よし、決まりですね。じゃあ明日の朝、朝の『燃』が終わったら三人で選手受付へ行きましょう。今日は手も少し擦りむいていますから、熱いお風呂は避けて、ぬるめのシャワーにして早く休むこと」

 

「はーい!」

「へいへい、夜十時消灯だろ。もう時計見なくても体が覚えちまったよ」

 

 軽口を叩きながら立ち上がる二人を見送り、らでんは空になったマグカップを片付けながら、先ほどまで『44』のプレートが置かれていたテーブルの木目をしばらく見つめていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 翌五月十一日の午前九時、ゴンは二百階の選手受付カウンターで正式に対戦申請書を提出した。

 

 ヒソカ側からはすでに『ゴンからの申請があれば日時を問わず受諾する』という事前同意が運営へ届いていたため、手続きは驚くほどあっさりと終わった。受付の係員が端末を操作し、白い控えのカードに印字された日付を指し示す。

 

 ――六月十日、午後二時。二百階中央闘技場、ゴン対ヒソカ。

 

 控えのカードを受け取ったゴンの横顔には、気負いよりも、ようやく出発点に立ったような澄んだ明るさがあった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「――ストップ! ゴン君、今、右へ踏み込んだ瞬間に左のスネの《堅》が半分くらい抜けていましたよ!」

 

 五月二十二日の午前、ゴンの客室の絨毯の上で、らでんがパンと手を叩いた。

 

 部屋の家具を壁際へ寄せて作ったスペースの真ん中で、低く腰を落としてステップを踏んでいたゴンが「あいたた……」と苦笑いしてその場に止まる。

 

「やっぱりバレたかあ。らでんさんの右手の指を《凝》で見ようとしたら、どうしても目と拳の方にばっかりオーラが集まっちゃうんだよね」

 

「お前、らでんが手上げた瞬間に足が一瞬止まってたぞ。あれじゃ『今から《凝》で見てます』って相手に宣伝してるようなもんじゃん」

 

 部屋の隅で壁に背中を預けて順番を待っていたキルアが、首にかけたタオルで顎の汗を拭きながら指摘した。

 

 五月に入ってからの修行は、新しい技を増やすことではなく、四月に身につけた『燃』・《練》・《堅》・《凝》、そして土台の《纏》を「動きながらでも崩さない」ための反復に絞られていた。

 

 その場でじっと立ったままなら、二人の《堅》はすでに十分を超える時間、練習で決めた密度を落とさず保てるようになっている。三十分、そしてその先の三時間という目標はまだずっと遠くにあるけれど、修行の初めには三分で息が上がっていたことを思えば、基礎の体力は着実に伸びていた。

 

 ただ、立ったまま維持できることと、相手の間合いを出入りしながら維持することの間には、もうひとつ大きな壁があったのだ。

 

「いいですか、二人とも」

 

 らでんは自分の右手を軽く挙げ、親指と薬指の二本だけに《隠》で隠した小さなオーラの印を灯してみせた。

 

「リングの上では、相手がいつ《隠》を使った仕掛けを出してくるか分かりませんね。今の二人が、見ようとすることばかりに気を取られると、どうなりますか?」

 

「目へ集めることに気を取られると、全身の《堅》が薄くなる。指先ばっかり見て、周りの動きも見落とすし、首や肩にまで力が入るんだ」

 

 キルアが自分の首筋を軽く回しながら答えた。さっきのセットで、キルア自身が五分間動きながら《凝》を保ち続けようとして、らでんが投げた柔らかいゴムボールに反応が遅れたばかりだった。

 

「ええ。今は指先を見ようとして、身体のほかの部分を忘れてしまうんですね。ですから、まずは短く《凝》で確かめて、全身のオーラを整え直す練習をしましょう。いずれは、目で細かいものを追いながらでも周りを見て、動けるようになってほしいんです」

 

「パッと見て、すぐ戻す……!」

 

「そう。だから次のセットは、私が手を叩いてから一秒以内に指の印を《凝》で確かめ、数字を言いながら横へ二歩ステップしてください。着地しても足元の《堅》が薄いままだったら、やり直しです」

 

「うわ、言いながら跳ぶのか! よし、もう一回お願い、らでんさん!」

 

 ゴンが両頬を軽く叩き、再び力強い《練》を立ち昇らせて全身の《堅》へと定着させた。

 

 らでんは二人の周りをゆっくりと歩きながら、不規則なタイミングで右手を掲げ、指の先に《隠》で一から五までのオーラの粒を作った。

 

 パン、と左手で音を鳴らす。

 

 ゴンの茶色い瞳の周りに、一瞬だけキュッと濃いオーラの光が集まった。

 

「――三!」

 

 叫ぶと同時に、ゴンが絨毯を蹴って左へ二歩跳ぶ。

 今度は、目元の光が消えるのとほぼ同時に、膝から足首までのオーラの膜がぐっと厚みを盛り返した。着地した足裏が絨毯を捉えても、上半身がぐらつかない。

 

「よし、今のは戻りが速かったですよ! そのまま次――!」

 

 パン、と二度目の合図。らでんはわざとフェイントを入れて、手を挙げたまま《隠》のオーラをひとつも出さなかった。

 

「えっ――あ、ゼロ!」

 

 ゴンが「ない!」と気づくまでに半拍余計に目を凝らしてしまい、横へ跳んだ着地で右肩のオーラがふわっと波打つ。

 

「あーっ、今ちょっと肩が抜けた!」

 

「はっはっは、ゼロで引っかかってやんの! ほら交代だゴン、次はオレが十回連続でノーミスやってやるよ」

 

 キルアが軽やかに前へ出てきて、ゴンと場所を入れ替わる。

 

 二人が競い合うようにステップを踏み、息が切れたら水分を摂って十分休み、また次のセットへ入る。毎日のメニューの最後には、四月に教えた放出・強化・変化の三つの初歩練習にもほんの五分だけ触れた。小石にオーラを込めて硬さを確かめたり、掌の上でオーラの輪郭を整えたり、指先から小さな玉を離して数秒保ったりするだけの単純な確認だ。それだけでも、基礎の《纏》と《練》が安定したことで、一か月前より小石の鳴る音が澄み、オーラの輪郭が早くまとまるようになっているのが二人の手元から伝わってきた。

 

 それでも、二人は決して「派手な必殺技」を欲張らなかった。小石を置いてタオルで顔を拭くと、自分たちから「もう一回、ステップしながら、見たあとに《堅》を戻す練習をやっていい?」と絨毯の真ん中へ戻ってくるのだ。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 六月八日の昼下がり、午前のメニューを終えて遅めの昼食にサンドイッチをつついていたとき、ゴンがふと自分の足の裏をさすりながら言った。

 

「ねえ、らでんさん。オレ、前は《堅》をやってるとき、全身にぐーっと力を入れて鎧を着てるみたいに思ってたんだ。でもここ数日は、息を吐くときに足の裏までオーラが落ちていく感じがわかってきて、動いても前みたいにすぐバテなくなった気がするよ」

 

「それはすごい進歩ですよ、ゴン君。最初にやったときは、三分経つとすぐ拳にばかりオーラが集まっていましたものね」

 

「オレもさ、最初は《凝》を使うたびに頭の中でスイッチを切り替えるみたいに考えてたんだけど、今は『あ、見よう』って思ったときにはもう目に集まってる感じになってきた。……ま、それでも三十分とか三時間とかいう化け物じみた目標には、まだ全然届かねーけどな」

 

 キルアがハムサンドの端をかじりながら、少し悔しそうに唇を尖らせる。

 

「一か月でここまで動きながら保てるようになっただけでも、本当に大したものですよ。三十分や三時間は、これからこつこつ積み重ねていく目標ですから、明後日までに無理やり時間だけ伸ばそうとしなくていいんです」

 

 らでんは二人の皿に減っていたミニトマトを分けながら、ふとゴンの右手を見た。

 

「それよりゴン君、動きながら《凝》で確かめて全身を整え直すのはだいぶ馴染んできましたけれど……当日は、いつもの釣り竿を持って上がるんですか?」

 

 ギド戦では釣り竿で石畳をめくり上げ、リールベルト戦では素手で石板を剥がして投げた。ヒソカを相手にするなら、少しでも間合いの長い道具を使うのかと思っていたのだが、ゴンは首を横に振った。

 

「ううん。今度は釣り竿は持っていかないよ」

 

「へえ、なんでだ? ヒソカのオーラがゴムみたいにくっつくなら、素手で近づくより竿を使った方が安全じゃねーのか?」

 

 キルアが不思議そうに尋ねると、ゴンは少し考えてから、自分の右拳を目の前に掲げた。

 

「うーん、なんて言ったらいいのかな。もし釣り竿を持っていって、その先にヒソカのオーラをくっつけられたら、竿ごと引っ張られるか、竿を手放すしかなくなっちゃうでしょ? それに、オレがゼビル島からずっと決めてたのは、自分のこの手でヒソカに一発入れることだから。最初から、身ひとつでぶつかりたいんだ」

 

 理屈で組み立てた戦術というより、野生の勘と本人の譲れない筋がひとつになった答えだった。

 

 キルアは数秒だけゴンの拳を見つめていたが、やがて「ふーん」と鼻を鳴らして笑った。

 

「ま、お前らしいっちゃお前らしいな。中途半端に道具に頼って迷うより、最初から拳いっこに絞った方がお前の動きは速くなるかもしんねーし」

 

「うん! だから残りの日も、自分の足と拳でどうやって入るか、しっかり身体を慣らしておくよ!」

 

 迷いのない声で笑うゴンを見て、らでんも頷いた。

 

 自分が教えられるのは、リングの上で倒れないための土台と、隠されたものを見るための目までだ。そこから先、あの奇術師を前にしてどうやってその拳を届かせるかは、ゴン自身がこの一か月の身体で探し出す領域なのだ。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 六月九日の夜は、風のない静かな晩だった。

 

 翌日に試合を控えたこの日は、午後からの《堅》の反復を普段の半分で切り上げ、夕方にはぬるめのお湯にゆっくり浸かって筋肉の疲れを抜くことに充てた。

 

 午後九時過ぎ、らでんが様子を見にゴンの客室を訪ねると、ゴンはベッドの端に腰掛けて、明日履くブーツの紐を新しく通し直しているところだった。丸テーブルの上には、あの『44』のナンバープレートが置かれている。

 

「こんばんは。足の張りや、目の疲れは残っていませんか?」

 

「うん、ぜんぜん平気だよ、らでんさん! ご飯もいっぱい食べたし、今日のお昼寝もぐっすり眠れたから、すごく身体が軽いんだ」

 

 ゴンはブーツの紐をきゅっと結び、踵を床にトントンと合わせてから立ち上がった。その場で軽く二、三度跳ねてみせる動きには、一か月前よりもずっと滑らかなバネと、静かに整った《纏》の落ち着きがある。

 

 隣のソファで雑誌をめくっていたキルアが、ぱたんとページを閉じて立ち上がった。

 

「よし、じゃあオレはそろそろ自分の部屋に戻るわ。明日、ゴンが寝坊したら困るしな」

 

「寝坊なんかしないよ!」

「どうだか。前の晩に張り切りすぎて朝起きられないタイプだろ、お前は」

 

 キルアはひらひらと手を振って扉の方へ向かいかけたが、ドアノブに手をかけたところで一度だけ足を止め、振り返らずに言った。

 

「……ゴン。最初の一発入れる前に、あっさり伸びるんじゃねーぞ」

 

「うん! ちゃんと見ててよ、キルア!」

 

 扉が閉まり、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。

 

 静かになった客室で、ゴンはテーブルの上の『44』のプレートを手に取った。白いプラスチックの円盤を、親指の腹でゆっくりとなぞる。

 

「ねえ、らでんさん」

 

「はい」

 

「オレ、明日の試合、すっごく楽しみなんだ。今までらでんさんに教わった『燃』も《纏》も《練》も《堅》も《凝》も、全部使ってヒソカにぶつかれるのが、すごくワクワクしてる。……でも、やっぱりちょっとだけ、お腹の奥がきゅっとなる感じもするよ」

 

 ゴンは正直にそう言って、少し照れたように笑った。

 

 ゼビル島の森で味わった恐怖も、四月十三日に客席から見たカストロの最期も、ゴンは忘れているわけではない。怖さを知らないから向かっていくのではなく、怖さがお腹の底にあることをちゃんと分かった上で、それでも一歩前へ出ようとしている。

 

 らでんはゴンの正面へ歩み寄り、少年の視線と同じ高さになるように少しだけ膝を曲げた。

 

「お腹の奥がきゅっとなるのは、ゴン君の目と身体が、ヒソカという相手の危なさをちゃんと正しく測れている証拠ですよ。三月になにも知らないままリングへ上がったときより、ずっと強くなっているからこそ感じる緊張です」

 

「そっか。強くなったから、ちゃんと怖いんだね」

 

「ええ。だから明日、リングへ上がったら、その緊張を無理に消そうとしなくて大丈夫です。いつもの朝の『燃』みたいに、息を吐いて、足の裏まで《堅》を落とすこと。そして――」

 

 らでんはゴンの茶色い瞳を真っ直ぐに見つめた。ここで「こう動けば当たるかもしれない」と自分の頭で考えた小手先の策を授けるつもりはなかった。そんな借り物の手順は、あのヒソカの前ではかえってゴンの足を縛るだけだと分かっていたからだ。

 

「ゴン君が自分の手で一発入れて、そのプレートを返したあとでも、審判が試合を止めるまでは絶対に《堅》を解かないこと。もしこれ以上は危ないと審判が判断したら、ちゃんとそれに従うこと。私との約束は、それだけです」

 

「うん。約束するよ、らでんさん」

 

 ゴンは力強く頷き、『44』のプレートを明日の試合で着る緑の上着のポケットへと滑り込ませた。

 

「ありがとう、らでんさん。オレ、明日ぜったいに一発入れてくるね!」

 

「はい。客席の一番前の列で、最初から最後までしっかり見ていますからね。――おやすみなさい、ゴン君」

 

「おやすみなさい!」

 

 パチン、と部屋の常夜灯だけを残して明かりを落とし、らでんは静かに扉を閉めた。

 

 二百階の静まり返った回廊を自分の部屋へ歩きながら、らでんは自分の右手を胸の前で軽く握りしめた。掌の奥に、かすかな熱と震えがある。教え子が無事で戻ってきてほしいと願う気持ちと、明日のリングでゴンがどんな一撃を見せてくれるのかを想像して高鳴ってしまう胸の鼓動が、自分の中で同時に脈打っていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 六月十日、午後一時五十分。

 

 二百階の中央闘技場は、五月四日や十日の試合のときとは比較にならないほどの熱気とざわめきに包まれていた。

 階段状に広がる観客席はほぼ満席で、立ち見の観客までが通路の手すり際に列を作っている。お目当ては、二百階クラスで現在九勝三敗、ただし三敗はすべて欠場によるもの――リングでは負け知らずで、今日勝てば十勝に到達し、フロアマスターへの挑戦権を手にする奇術師ヒソカだ。そしてその対戦相手が、一か月前にギドとリールベルトを連破したばかりの十二歳の少年だとあって、場内には好奇と興奮の入り混じった独特の空気が渦巻いていた。

 

「すげー人の数だな……。ヒソカの十勝目がかかってるからってのもあるんだろうけど、上の階の奴らまで見に来てるぞ」

 

 正面客席の最前列、リングの石畳がすぐ目の前に見える手すり際で、キルアが周囲を見回して舌を巻いた。

 

「すみません、儒烏風亭さん、キルア君! お隣の席、よろしいでしょうか」

 

 声をかけられて振り返ると、白いシャツの襟を正したウイングと、道着姿のズシが通路から降りてくるところだった。

 

「ウイングさん、ズシ君! 来てくださったんですね」

 

「ええ。ゴン君が今日、ヒソカ選手との試合を登録していると伺いましたので、ズシと一緒にどうしても見届けたくて参りました」

 

「ゴンさん、一か月ずっとすごく厳しい修行をしてたって聞きました! 僕、ここから精一杯応援しますっ!」

 

 拳を握るズシに、キルアが「おう、あいつがどうやってヒソカの鼻っ柱を殴るか、しっかり見てろよ」と笑って席を詰めた。ウイングはらでんのすぐ隣に腰を下ろし、眼鏡の奥の目で静かにリングの上を見つめた。

 

「……ゴン君の調子は、いかがですか」

 

「さっき選手控室の前で別れたときも、すごくいい顔をしていましたよ。浮き足立つこともなく、自分が今日何をするのか、はっきり決まっている目をしていました」

 

「そうですか。ならば、私たちはここから見守るだけですね」

 

 ウイングが静かに頷いた、ちょうどそのときだった。

 

 会場の照明がいっせいに落ち、中央の石畳のリングだけを眩いスポットライトが照らし出した。

 

『お待たせいたしました、皆様! 本日メインイベント、二百階クラス公式戦――ゴン選手対、ヒソカ選手の試合を行います!』

 

 場内アナウンスが響き渡り、まず東側の入場ゲートから、トランプのマークがあしらわれた衣装に身を包んだヒソカが姿を現した。

 大歓声と拍手が湧き起こる中、ヒソカは長い脚で悠然とリングへ上がり、東側の開始線の前へ立った。逆立てた髪の下で、細められた金色の瞳が照明を弾いている。四月十三日のカストロ戦で斬り落とされたはずの右腕も左腕も、外見からは傷跡ひとつ見えない滑らかさで腰の横に垂らされていた。

 

 続いて西側のゲートから、ゴンが駆けてきた。

 釣り竿は持っていない。緑の上着と半ズボン、昨日紐を通し直したばかりのブーツという、いつもの軽装だ。ゴンはリングの階段を一気に駆け上がると、ヒソカと正面から向き合う西側の開始線に立ち、客席のらでんたちの方をちらりと見て小さく頷いてから、すぐ正面のヒソカへと視線を戻した。

 

『これより、時間無制限のポイント・アンド・ノックアウト方式、一本勝負を行います! クリーンヒット、ダウン、および高度な技術・戦術によるクリティカルヒットを審判が採点し、先に十ポイントに達するか、相手をノックアウトした選手の勝利となります!』

 

 主審がリングの中央から数歩下がり、高く右手を振り上げた。

 

 ゴンがふうっと長く息を吐くのが、最前列のらでんの目にも見えた。

 その呼吸とともに、ゴンの全身を包んでいた穏やかな《纏》が、ぶわっと力強い《練》へと膨らみ、次の瞬間には頭から爪先まで隙間なく張り詰めた《堅》の鎧へと定着した。

 

 対するヒソカは、両手を軽く下げたまま、微動だにせず微笑んでいる。

 

『それでは――レディ、ファイッ!!』

 

 開始のゴングが鳴り響いた瞬間、真っ先に石畳を蹴ったのはゴンだった。

 低い姿勢のまま、弾丸のように一直線に間合いを詰める。

 

「はあっ!!」

 

 ゴンの右の突きがヒソカの鳩尾を狙い、すぐさま左のフック、さらに下段への蹴りへと繋がる。

 一か月前とは見違えるほど速く、そして重い連撃だ。しかも、それだけ激しく踏み込んで拳を振るいながら、ゴンの背中や足首を覆う《堅》のオーラは少しも散っていなかった。

 

 だが――。

 

 ヒソカは、開始線の上から立つ位置を変えなかった。

 

 上半身を柳のようにわずかに傾けるだけでゴンの右ストレートを空振りさせ、続く左フックを掌の甲でかるく外へ逸らし、下段の蹴りを片足を上げるだけでひらりとかわす。

 

「くっ……!」

 

 ゴンが着地と同時に回転し、さらに後ろ回し蹴りから跳び膝蹴りへと繋げる。

 

 ヒソカはそれすらも、まるで舞踏の相手をあしらうかのように、最小限の首の振りと手首の返しだけで受け流していく。

 

「おいおい……あいつ、最初の場所から一歩も動いてねーぞ……!」

 

 キルアが手すりを握りしめて呻いた。

 

 らでんも目元に《凝》を集めて二人を追った。ヒソカはまだ、あの薄桃色のオーラの糸すら出していない。純粋な体術と動体視力、そして相手の重心の起こりを読む経験の差だけで、ゴンの全力を正面からいなしているのだ。

 

 そして、ゴンの八発目の右ストレートが伸びきった、ほんの一瞬の隙だった。

 

 ヒソカの左手が、やはり一歩も足を動かさないまま、鞭のようにしなってゴンの手首を外へ払い、同時に右の掌底がゴンの左肩から胸元へと吸い込まれるように当たった。

 

 パァンッ! と乾いた音が響き、ゴンの小さな身体が横向きに浮いた。だが、床へ落ちる前に両脚を振り戻し、靴底で石畳を捉える。

 

『クリーンヒット! ヒソカ選手に1ポイント! 1対0!』

 

 主審の声が響くよりも早く、ゴンは滑った両足を踏み直して構えを取り戻した。

 胸元の《堅》がしっかりと衝撃を受け止めていたため、ダメージは浅い。しかし、ゴンが自分の靴底で床を踏み直した位置と、ヒソカが立っている開始線の間には、まだ遠い五メートルの距離が開いていた。

 

「フフッ、いいオーラだ、ゴン♦ 今の一発でも、すぐに踏みとどまれるし、足腰の粘りもずっと良くなっているね」

 

 ヒソカが開始線の上に立ったまま、片手を頬に添えて愉しげに目を細める。

 

「でも、正面からただ突っ込んでくるだけじゃ、ボクの足は一歩も動かせないよ♠」

 

 ゴンは唇をぐっと結び、肩で一度だけ大きく息をした。

 

 その茶色い瞳が、ヒソカの顔から、ヒソカの足元、そして自分とヒソカの間にある分厚い石畳の床へとすっと動いたのを、らでんは見逃さなかった。

 

(……あ)

 

 ゴンがもういちど《練》を高め直し、全身の《堅》をぐっと引き締める。

 そして二度目の突進へと駆け出した。

 先ほどと同じように正面から踏み込むと見せかけて、ゴンはヒソカの懐へ入る三歩手前で、急に右斜め前へと進路を変えた。

 そのままヒソカの左側面へ回り込むのかと思いきや――ゴンは走りながら急激に腰を落とし、自分とヒソカのちょうど中間にある、一辺一メートルほどの分厚い石板の継ぎ目へ、両手の指先を深々と差し込んだのだ。

 

「――っ、石畳だ!」

 

 キルアが声を上げる。

 

「ふんっ!!」

 

 ゴンの全身から、強化系の《練》が白い奔流となって噴き上がった。

 ギド戦では釣り竿を使ってめくり、リールベルト戦では素手で剥がして投げたあの分厚い石板を、ゴンは走り込んだ勢いそのままに、自分の目の前へ垂直の壁のようにガゴォンッ! と引き起こした。

 立ち上がった巨大な石板が、ゴンとヒソカの間を完全に遮り、ヒソカからの視界を塞ぐ。

 

 その直後だった。

 

 石板のすぐ裏側にいたゴンが、左足で強く床を踏みしめた。全身の《堅》を崩さず、腰から力を乗せた右拳を、立ち上がったばかりの分厚い石板のど真ん中へ叩き込む。

 

 ドゴォォンッ!!

 

 大砲が炸裂したような轟音が会場を揺らし、厚さ十センチ以上ある石板が、ゴンの拳の一撃で粉々に砕け散った。

 大小何十個もの石の破片が、砂煙とともに散弾となって正面のヒソカへと襲いかかる。

 

「ほう……!」

 

 ヒソカはそれでも開始線から足を動かさず、飛来する無数の石片を両手の鮮やかな手刀と掌底で次々に叩き割り、払い落としていく。

 カン、ガッ、バキィッ! と空中で石の砕ける音が連続し、白い粉塵がリングの中央に幕のように広がった。

 

 だが、らでんは客席からその粉塵の向こう側を見て、はっと息を呑んだ。

 

 砕けた石板の後ろに、ゴンの姿がない。

 

(上――!)

 

 石板を殴り砕いた直後、ゴンは床を蹴って跳躍していた。

 ヒソカの頭上へ真っ直ぐ飛び込んだのではない。吹き飛ばした破片のうち、顔の正面へ飛んでいった大きな塊の陰へ重なるように、低い弧を描いて迫っていたのだ。

 

 ヒソカが右手の甲でその大きな岩の塊を弾き飛ばした瞬間、岩の陰からゴンの姿がぬっと現れた。

 

「――なっ」

 

 ヒソカの金色の目が、わずかに見開かれる。

 

 ヒソカの右手は岩を払った直後で外へ流れており、左手も別の破片を落としたばかりで下がっている。空中のゴンが、そこから右拳を振りかぶった。

 

 いや――違う。

 

 らでんの目が、空中のゴンの足先を捉えた。

 岩の陰から姿が現れたとき、ゴンの身体はもう落下に入っていた。ヒソカの視線が拳を追って上がる。その間に、ゴンは目前の石畳へ両足を下ろした。

 破片の後ろに隠れて上から飛び出したのすら、ヒソカの視線と意識を「上」へ引き上げるためのフェイントだった。

 

 着地と同時に、ゴンの両膝がバネのように深く沈み込む。

 足の裏からふくらはぎ、腰、背中、そして右の肩から拳の先まで、一か月間毎日積み上げてきた《練》と《堅》のオーラが、ひとつの迷いもない塊となって突き上がった。

 ヒソカの視線が上から下へと戻るよりも、ゴンの踏み込みの方が一瞬だけ速かった。

 

「おおおおっ!!」

 

 下から斜め上へと真っ直ぐに伸びたゴンの右ストレートが、ヒソカの無防備な左の頬を、真正面から捉えた。

 

 バコォンッ!!

 

 鈍く、重い衝撃音が、静まり返った二百階の会場の隅々まで響き渡った。

 

 ヒソカの首が激しく右へと弾かれ、白い頬の皮膚がゴンの拳の形に深くめり込む。

 そして、試合開始から一度も動かなかったヒソカの左足が、衝撃を支えきれずに石畳の上をズザッと半歩後ろへ滑った。

 

(――――っ)

 

 らでんは、自分の呼吸が止まっていることにすら気づかなかった。

 手すりを握る両手の指先に、じんとした痺れが走る。

 

 スポットライトの光の中で、砕けた石の粉がきらきらと舞い落ちる中、ゴンの小さな右拳がヒソカの頬を打ち抜き、ヒソカの髪がふわりと揺れて時間が止まったかのような、その一瞬。

 

 綺麗だ、と胸の奥が震えた。

 

 四月十三日、白いカードがカストロの身体へ殺到し、紅い飛沫が照明に透けたあの瞬間に胸を貫いたのとよく似た、息が詰まるほど鮮烈な輝きがそこにはあった。誰かに教えられた型ではなく、自分の目で相手を見て、自分の身体で石を砕き、視線の死角をくぐり抜けて、たった一発の拳に今の自分のすべてを乗せた人間だけが放てる光。

 

 けれど次の瞬間、ゴンが石畳を蹴ってバックステップで着地し、大きく肩で息をしながら自分の両足でしっかりと立った姿を見た途端、らでんの胸の奥から、あのときとはまるで違う熱い波がぶわっと込み上げてきた。

 

 終わっていない。壊れてもいない。

 

 あの子は自分の足で着地して、ちゃんと息をして、前を向いている。

 

『ク、クリティカルヒットーーーッ!! なんという見事な奇策、そしてなんという一撃でしょうか! ヒソカ選手の顔面を完璧に捉えました! ゴン選手に2ポイント! 1対2、ゴン選手が逆転です!!』

 

 実況の絶叫とともに、会場中から地鳴りのような大歓声とどよめきが爆発した。

 

「入ったあああっ!! 見ろよらでん、ウイングさん! あいつの顔に、ゴンのパンチがまともに一発入ったぞ!!」

 

 隣でキルアが飛び上がらんばかりに手すりを叩いて叫び、ズシも「すごいです、ゴンさんすごいですっ!」と目を輝かせて拍手を送る。ウイングも「石板で視界を塞ぎ、破片の死角で上へ誘ってから下から入る……見事な工夫です」と感嘆の息を漏らした。

 

「……ええ。ほんとに、すごい……」

 

 らでんはようやく大きく息を吸い込み、白くなっていた自分の指先を少しだけ緩めた。掌が汗でじっとりと湿っている。自分で思っていた以上に緊張していたのだと気づき、それでも口元が自然とほころんでしまうのを止められなかった。

 

 リングの上では、ゴンがヒソカから三メートルほど離れた場所で立ち止まり、左手で自分の緑の上着の胸ポケットへ手を入れていた。

 

 そこから取り出したのは、あの白い丸いナンバープレート――『44』だ。

 

 ゴンは右手の拳を下ろし、左手に持ったプレートをヒソカの正面へとまっすぐに突き出した。

 

「ヒソカ! これ――返すよ!!」

 

 歓声の合間を縫って、ゴンの澄んだ声が最前列の客席までしっかりと届いた。

 

「約束通り、これで借りはなしだからね!」

 

 殴られた左頬に片手を当ててうつむいていたヒソカが、ゆっくりと顔を上げた。

 口端からほんのわずかに赤い血が滲んでいる。ヒソカはそれを親指の腹でぬぐい取り、自分の指先についた赤い色を一瞥してから、ゴンが突き出している『44』のプレートへと金色の目を向けた。

 

「……ククッ、アハハハハッ♥」

 

 ヒソカの喉から、低く、心底愉しそうな笑い声が漏れた。

 

 ヒソカは二人の間をゆっくりと詰めて、ゴンの手から『44』のナンバープレートを二本の指で挟んで受け取った。

 

 ゴンの指が離れ、白いプレートが確かにヒソカの手の中へと戻る。

 

「確かに受け取ったよ、ゴン♦ まさか本当に、このボクの顔に一発入れて返してみせるとはね。すごくいい目と、すごくいい工夫だったよ♣」

 

 ヒソカは受け取ったプレートをくるりと指先で回し、自分の衣装の懐へと無造作にしまった。 それから元いた開始線まで下がり、二人の間に再び三メートルほどの間合いを置いた。

 そして、先ほどゴンの拳が当たった左頬をかるく手のひらで撫でながら、おしゃべりでもするかのように首を傾げた。

 

「それにしても、先生にずいぶん鍛えてもらったようだね。その真っ直ぐで力強いオーラの伸び方……キミは『強化系』だろう?」

 

 リングの上の二人が急に攻撃を止めて言葉を交わし始めたため、観客席のざわめきがすっと静まり、最前列のらでんたちの耳にも二人のやり取りが届いてくる。

 

「えっ? うん、そうだよ! なんでオレが強化系って分かったの?」

 

 ゴンが構えを崩さないまま目を丸くして聞き返すと、ヒソカはくすりと笑って、自分の左手の人差し指をスッと上げ、数メートル離れたゴンの顔をかるく指差した。

 

「フフ、ボクなりの『性格判断』さ♠ 強化系の人間っていうのはね、キミみたいに単純で一途なタイプが多いんだ♦」

 

「た、単純……?」

 

「そう。そしてちなみに、このボクは『変化系』♥ 変化系の人間はね――気まぐれで、嘘つきなんだよ♣」

 

 ヒソカがゴンの顔を指差していた人差し指を、ひらりと左右に振ってみせる。

 

 客席のキルアが、その言葉を聞いてぴくりと片眉を上げた。

 

「おい、ちょっと待て。変化系が気まぐれで嘘つきって、同じ変化系のオレまで嘘つきみたいじゃねーか。なんだよその性格判断、血液型占いみたいなもんか?」

 

「ふふ、科学的な根拠はないと思いますけれど……ヒソカが言うと、なんだか自分のことだけは正確に自己紹介しているみたいですね」

 

 らでんは小さく答え、ヒソカの指先へ視線を戻した。

 

 今、ヒソカが「キミみたいに単純で一途」と言いながら、離れた場所からゴンの顔を人差し指で指差した瞬間。

 ヒソカの指先からゴンの顔の方へ、細く淡いものが一瞬だけ走ったように見えた。

 その動きを追って目元へ《凝》を集め直したときには、ヒソカはもう指を下げていた。ゴンが構えを変え、頬は客席から見えにくい角度へ回る。何か仕掛けたのか、ただの身振りなのか。手元だけでは、まだ決められない。

 

「もちろん、何の根拠もないボクの独断と偏見だけどね♦ ――さて」

 

 ヒソカが両手をすっと下ろし、今までとはまるで違う、鋭く冷たい光を金色の瞳に宿した。

 

「番号札も返してもらったことだし、ここからはボクも、開始線から出て自由に動かせてもらうよ♠ まだ試合は、終わっていないからね」

 

「うん! オレも、ここからもっと本気でいくよ!」

 

 ゴンがぐっと腰を落とし、再び全身の《堅》を強く張り詰めた。

 プレートを返すという一番の目標を果たしても、ゴンの目から闘志は少しも消えていない。むしろ、重荷を下ろしたことで身体がいっそう軽くなったように、石畳を蹴ってヒソカへと飛び込んでいった。

 

 だが――開始線から足を踏み出したヒソカの速さは、それまでとは次元が違っていた。

 

 ヒソカが一歩前へ滑るように踏み込んだかと思うと、その長身がゴンの正面からふっと消え、次の瞬間にはゴンの左側面へと回り込んでいる。

 

「しまっ――!」

 

 ゴンが咄嗟に左腕を上げてガードを固めるが、ヒソカの鋭い蹴りがその腕の上からゴンの身体を横殴りに吹き飛ばし、さらに体勢を崩したゴンの腹へ素早い掌底が突き刺さった。

 

『クリティカルヒット2ポイント! 3対2、ヒソカ選手が逆転!』

 

 ゴンは石畳の上を転がりながらも、すぐに片手をついて跳ね起き、ヒソカの脚を狙って低いタックルを仕掛けた。

 毎日の修行で「崩れた姿勢からでも《堅》を切らさずに立て直す」練習を繰り返してきた成果が、ここでも生きている。一発もらったくらいではオーラが弾け飛ばず、すぐに次の動きへと移れるのだ。

 

 しかし、ヒソカはゴンのタックルを真上からかるく飛び越えざまに、空中で反転してゴンの背中と肩へ連続で蹴りを叩き込んだ。

 ドッ、バシィッ! と重い音が響き、ゴンが前向きに床へ伏せる。

 

『クリティカルヒット・アンド・ダウン! ヒソカ選手に3ポイント追加! 6対2!』

 

「くそっ、速え……!」

 

 キルアが唇を噛む。

 

「ゴンが弱いんじゃねーぞ。動きながらあれだけ《堅》を保ってるのに、ヒソカの足の運びと手数がそれを上回ってやがる……!」

 

 ゴンが荒い息を吐きながら立ち上がり、ヒソカから五メートルほど距離を取って構え直した。

 口の端が切れ、緑の上着の肩口が石畳で擦れて汚れている。それでもゴンは目を逸らさず、ヒソカの動きを捉えようと目元に《凝》を集めた。

 

 そのときだった。

 

 五メートル離れて立っていたヒソカが、一歩も踏み込まないまま、自分の左手を胸の前で「くいっ」と手前へ引いたのだ。

 

「えっ――!?」

 

 ゴンの声が裏返った。

 

 ゴンが自分で床を蹴ったのではない。それなのに、ゴンの身体がまるで目に見えない巨大な手で左頬を引っ掴まれたかのように、五メートルの空間を猛スピードで宙を飛んで、ヒソカの目の前へと強制的に引き寄せられたのだ。

 

「――っ、今、引っ張られたぞ!?」

 

 キルアが叫び、らでんと同時に強い《凝》を目に集めた。

 

 見えた。

 

 ヒソカの左手の指先から、引き寄せられるゴンの左頬へと、ピンと張り詰めた薄桃色のオーラの線が繋がっている。カストロ戦のビデオで見た、あの伸縮性と粘着性を持つオーラだ。

 

(やっぱり、くっついていたんだ……! でも、いつ!?)

 

 さっきの一瞬の打ち合いのどこかで触れたのか。それとも――。

 

 空中で体勢を崩したまま引き寄せられたゴンの顔面へ、待ち構えていたヒソカの右の拳が容赦なく振り抜かれようとする。

 

 だが、ゴンはただ無抵抗に殴られるだけでは終わらなかった。

 

 ゴンの目元に《凝》のオーラが集まり、顔が頬から伸びる線へ向いた。

 

「うわあああっ!!」

 

 ゴンは足を宙で突っ張るのをやめ、腰を強引にひねった。引き寄せられる猛烈な勢いに身体を乗せ、ヒソカの顔面へ右の拳を突き出す。

 

 ヒソカの右フックがゴンの頬を捉えるのと、ゴンの右ストレートがヒソカの顎先をかすめるのが、ほぼ同時だった。

 

 ガァンッ!!

 

 激しい交差音とともに、ヒソカの顔がわずかに仰け反り、ゴンはそのまま石畳の上へと激しく叩きつけられて二、三度バウンドした。

 

『そ、双方に有効打!! 引き寄せられた状態から、ゴン選手も意地の一撃を返しました! ゴン選手にクリティカルヒット2ポイント、ヒソカ選手にクリティカルヒット・アンド・ダウンで3ポイント! 9対4、ヒソカ選手がマッチポイントです!!』

 

 主審が倒れたゴンのそばへ駆け寄り、ダウンを告げる手を上げた。

 

「ゴン……!」

 

 らでんは手すりに身を乗り出した。

 

 ゴンは両腕を突いて身体を起こし、すぐに両足を踏ん張って立ち上がった。全身の《堅》は細かく揺らいでいる。それでも、下ろした手をもう一度胸の前まで持ち上げた。

 

「よし、立った……!」

 

 隣でキルアが息を吐いた。

 

 ファイティングポーズを取ったゴンの左頬には、まだあの薄桃色のオーラの線が貼り付いており、ヒソカの左手の指先へと繋がっている。

 

 ゴンは自分の頬についている線を睨み、それからすぐ横にいた主審の方を向いて、悔しそうに片手を上げた。

 

「ちょっと待ってよ、審判さん! 今のは相打ちで、オレすぐ立ったんだからダウンじゃないよ!」

 

『い、いや、今のはヒソカ選手の打撃で完全に床へ叩きつけられて――』

 

 主審が戸惑いながら説明し、ゴンの視線がほんの一、二秒だけヒソカから外れて主審へと向いた。

 

 その瞬間だった。

 

 らでんは《凝》を凝らした目で、ヒソカの右手を見た。

 ヒソカがにこやかに笑いながら、腰の横で右手の人差し指をすっと伸ばし、ゴンの斜め後ろ――最初の石板を砕いたときに転がっていた、抱えるほど大きな石の塊へ向かって指先を向けたのだ。

 ヒソカの指先から、薄桃色の細いオーラが矢のように伸びた。三メートル以上離れた石の塊の表面へ貼り付く。次の瞬間には《隠》で淡くなったが、目へ集めた《凝》の中では、細い線が石と右手の間に残って見えていた。

 

(――っ、今、離れた場所から飛ばして付けた!)

 

 らでんの背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。

 

 直接手で触れたときにだけ貼り付くのではない。ヒソカは指先からオーラを伸ばして、離れた対象へ直接貼り付けることができるのだ。つまり、ゴンの左頬にくっついている一本目の線も、さっきの打撃の最中ではなく、その前の「キミみたいに単純で一途なタイプが多い」と指差しておしゃべりをしていたあのときに、すでに付けられていた可能性が高い。

 

 右手に繋がれた岩は、まだ床にある。らでんは石と指の間に残る線を見据えた。

 

 リングの上で、主審に抗議を終えたゴンが正面へ向き直ると、ヒソカは左手の指を軽く動かした。ゴンの頬へ繋いだオーラの線を、見せびらかすように一度だけ伸縮させる。

 

 二人の間で短い言葉が交わされる。ゴンがハッとしたように目を丸くして自分の頬を押さえたところを見ると、ヒソカ自身が「いつ付けたか」の種明かしをしてからかったらしい。

 

「もうあと1ポイントでボクの勝ちだ♦ さあ、いくよ、ゴン♠ 右を見ていればいいのかな。それとも左かな♣」

 

 ヒソカが左手をグッと後ろへ引いた。

 ゴンの左頬に貼り付いたオーラの線が、再び強い張力でピンと縮み始める。

 

 ゴンは今度こそ引っ張られるまいと、両足の靴底で石畳を力いっぱい踏みしめた。しかし、どれほど《凝》で線が見えていても、相手のオーラの収縮力と速度が自分の踏ん張りを上回れば、身体は引っ張られる。

 

 ならばと、ゴンは最初から引っ張られる方向――ヒソカの正面へ向かって自分から低く飛び出し、左手の引き寄せに合わせて右の拳を叩き込もうとした。

 

 ところが。

 

 ゴンの視線が左手を追ったその瞬間、ヒソカはそちらの線を手元で解き、岩へ繋いでいた右手を猛烈な勢いで手前へ引き絞った。

 

(ゴン君、後ろ――!)

 

 らでんが息を吸った。だが、声になるより先に、岩はもう床を離れていた。

 

「――あっ!?」

 

 ゴンの頬の引っ張りが急に消え、代わりにゴンの背後から、百キロ近い石の塊が砲弾のような速度で飛来した。

 

 ゴンが肩越しに振り返った。その視線の先へ、石の塊が迫る。

 ゴンが咄嗟に両腕を顔の前へ上げた。その腕を《堅》のオーラが覆っている。

 

 ドガァァンッ!!

 

 石の塊が交差した両腕を跳ね上げ、その向こうの頬をまともに捉えた。砕けた破片の中で、ゴンの身体が横へ弾き飛ばされる。

 ゴンの身体が石畳の上を大きく滑って転がり、リングの端で仰向けに止まる。

 

 主審がすぐさま駆け寄り、その場で両手を大きく交差させて叫んだ。

 

『クリーンヒット・アンド・ダウン!! 2ポイント追加! 11対4により、勝者、ヒソカ選手ーーッ!!』

 

 カーン、カーン、カーンッ! と試合終了を告げるゴングが連打された。

 

 一瞬の静寂のあと、会場中が天井を揺らすような大歓声と拍手の渦に包まれた。

 

『決まりましたーーっ! ゴン選手の驚異的な粘りと奇策を退け、11対4でヒソカ選手の勝利です! これでヒソカ選手は二百階クラス通算十勝を達成! ついにフロアマスターへの挑戦権を獲得いたしました!!』

 

 らでんは《凝》を解き、手すりから手を離して立ち上がった。

 

 リングの端で、仰向けに倒れていたゴンが「う、うう……」と小さく呻きながら、自分の右肘を床についてゆっくりと上半身を起こすのが見えた。

 首も手足もちゃんと動いている。最後の岩の激突まで、ゴンは約束通り全身の《堅》を投げ出さずに保ち抜いたのだ。

 

「……負けたけど、最後まで立とうとしてんじゃねーか、あいつ」

 

 キルアがふうっと大きく息を吐き、少しだけ目尻の力を抜いた。ウイングも「ええ、あれほどの連撃を受けながら、最後までオーラの土台が崩れませんでした。見事な戦いぶりです」と深く頷いた。

 

 リングの上では、勝者となったヒソカが、退場ゲートへ向かう前にゆっくりとゴンのそばへ歩み寄っていた。

 ヒソカは片膝をついて起き上がろうとしているゴンを見下ろし、何かを静かに語りかけている。歓声が大きくて言葉までは聞こえないが、ヒソカが自分の懐を軽く叩き、それから闘技場の天井や外を指し示すような仕草をして、最後に不敵な笑みを浮かべたのが見えた。

 

 ゴンは石畳の上に座り込んだまま、悔しそうに唇を噛みしめてヒソカの金色の目を見返し、それから小さく、けれどはっきりと一度だけ頷いた。

 

 ヒソカは満足そうに背を向けると、東側の退場ゲートへと歩いていく。その途中、ヒソカの視線がちらりと正面最前列のらでんの方へ向き、トランプのカードを持った指先で軽く挨拶するように敬礼してみせてから、ゲートの闇の奥へと消えていった。

 

「よし、行こうぜ、らでん! 医務室の方へ回れば、すぐゴンに会えるだろ!」

 

「ええ、行きましょう!」

 

 らでんはウイングとズシに「すぐ様子を見てきますね」と声をかけ、キルアと一緒に観客席の階段を駆け上がった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 西側ゲートの奥にある選手用の救護室からゴンが出てきたのは、試合終了から二十五分ほどのちのことだった。

 

 白い廊下のベンチの前で待っていたらでんとキルアに気づくと、左頬に四角い冷却シートを貼られ、右のこめかみと腕に白い絆創膏をいくつも貼ったゴンが、「あ、らでんさん、キルア!」と駆け寄ってきた。

 

「ゴン君! 走らなくていいですよ、お医者さんには何て言われましたか?」

 

 らでんが慌てて歩み寄り、ゴンの肩と頬の腫れ具合を自分の目で確かめる。少し遅れてやってきたウイングとズシも、すぐ後ろで見守っていた。

 

「うん、骨はどこも折れてないし、頭もぜんぜんクラクラしてないから、冷やして安静にしてればすぐ治るって! らでんさんと約束した通り、最後まで《堅》をちゃんとしてたから、見た目がちょっと腫れてるだけなんだ」

 

「お前な、最後の岩が後ろから飛んできたとき、客席から見てたら首がもげるかと思ったぞ」

 

 キルアがゴンの貼られた冷却シートの端をツンと指でつつき、それからニッと笑った。

 

「でもよ、最初の一発――石畳をぶち割って、破片の後ろから飛び出してヒソカの顔面を殴ったやつ。あれ、めちゃくちゃ綺麗に入ったじゃねーか!」

 

「ゴンさん、ほんとにすごかったです! あのヒソカ選手から2ポイント取って、ちゃんとプレートも返して……僕、感動しました!」

 

 ズシが目を潤ませて言うと、ゴンは「へへっ」と嬉しそうに鼻の下をこすった。

 

「では、儒烏風亭さん、ゴン君。私たちはこれで失礼いたします。ゴン君、今日はゆっくり身体を休めてくださいね」

 

「はい、ありがとうございます、ウイングさん、ズシ!」

 

 ウイングとズシが丁寧に礼をしてエレベーターホールの方へと去っていくのを見送り、らでんたちは三人で二百階のゴンの客室へと戻った。

 

 部屋のソファにゴンを座らせ、らでんが冷凍庫から出してきた氷嚢をタオルで巻いて渡すと、ゴンはそれを自分の左頬へ押し当てながら、ふうっと長い息をついた。

 

「……ねえ、らでんさん、キルア」

 

 ゴンが空いている方の右手で、自分の胸ポケットを上からそっと触った。

 

 一月のハンター試験から今日まで、ずっとそこに入っていた丸いプラスチックのプレートは、もうない。

 

「石板を割って、上から行くフリをして下から踏み込んだときね、ヒソカがちょっとだけ目を見開いたのが見えたんだ。あ、今なら届くって思って拳を伸ばしたら、ほんとにゴツンって手応えがあって……自分の手で『44』のプレートをヒソカに返せたときは、すっごく嬉しかったよ」

 

「ええ。客席から見ていても、あの一撃は本当に見事でした。誰に教わったわけでもなく、ゴン君が今まで積み重ねてきた基礎と、ゴン君自身の工夫だけで届かせた一発ですよ」

 

 らでんが心からの言葉で言うと、ゴンは一度だけぱっと顔をほころばせたが、すぐに氷嚢を握る手にぎゅっと力を込めて、悔しそうに眉を寄せた。

 

「でもね……やっぱり、すっごく悔しいよ」

 

「悔しい?」

 

「うん。だって、プレートを返したあと、オレ、もっと戦えると思って本気でぶつかったのに、ヒソカが最初の場所から一歩動いた途端、ぜんぜん追いつけなくなっちゃったんだもん」

 

 ゴンは自分の膝の上で右拳を握りしめた。

 

「あのピンク色のオーラ、ヒソカが自分で《伸縮自在の愛(バンジーガム)》って名前だって教えてくれたんだ。ガムとゴムの両方の性質があるって、前にキルアがビデオを見て言ってた通りだったよ。でもオレ、6対2になったあとに引っ張られたとき、てっきり殴られた瞬間にほっぺたへ付けられたんだと思ってたんだ」

 

「違ったのか?」

 

 キルアがソファの肘掛けに腰を下ろして尋ねる。らでんは答えを先回りせず、ゴンの言葉を待った。

 

「うん。ヒソカが最後に教えてくれたんだけど、オレが強化系だって話をしてるときに、『キミみたいに単純で一途』って指差したでしょ? あのときに、もう指先から飛ばしてオレの頬にくっつけてたんだって」

 

「……マジかよ。じゃあ、触らなくても離れたところからくっつけられるってことか!」

 

「そう。最後の石の塊も、オレが審判さんに『今のはダウンじゃないよ』って言ってたほんの一瞬の隙に、後ろの岩へくっつけてたんだ。しかもね、《凝》でピンクの線が見えて『あ、引っ張られる!』って分かっても、ヒソカが引く力とスピードが速すぎて、オレの身体がぜんぜん間に合わなかったんだよ」

 

 ゴンは悔しさに唇を噛みながらも、どこかでその圧倒的な差を真っ直ぐに受け止めている目をしていた。

 

「それにね、試合が終わったあと、ヒソカに言われたんだ。『もうこんなルールで守られた場所ではキミと戦わない。次にやるときは、外の世界で命を懸けた真剣勝負だ』って」

 

 客室の中に、短い沈黙が落ちた。

 

 キルアの青い目がすっと細まり、らでんも胸の奥がわずかに引き締まるのを感じた。ヒソカは、この闘技場での再戦を自分の意思で断ったのだ。そしてあの奇術師が言った「外での勝負」という言葉が決して大げさな脅しではないことを、ここにいる三人は誰よりもよく知っていた。

 

「……ま、要するに『今のままじゃまだ殺すには惜しいから、もっと強くなってから来い』ってことだろ、あいつの言い方だと」

 

 キルアが頭の後ろで両手を組み、わざと軽い調子で言った。

 

「でもさ、ゴン。お前が今日、あのヒソカの顔にまともに一発ぶち込んで、自分でプレートを突き返したのは紛れもない事実じゃねーか。11対4のうちの4ポイントだって、最初の一撃だけじゃなくて、引っ張られながら殴り返して取った点だしさ。悔しがるのはいいけど、まずは今日できたことをちゃんと喜べよな」

 

「……うん。そうだね!」

 

 ゴンが氷嚢を当てたまま、ようやくいつもの明るい笑顔を取り戻した。

 

「見えるようになっただけじゃ足りなくて、見えてもまだ身体が追いつかないことがいっぱいあるって、今日自分の身体でぜんぶ分かったもん。これから《堅》をもっと長く保てるようになって、動きも判断も鍛えて、次はあんなふうに簡単に引っ張られないようにしたい!」

 

「おう。その前に、まずはその腫れたツラを冷やして治すのが先だけどな」

 

 笑い合う二人の姿を眺めながら、らでんは丸テーブルの向こう側から立ち上がり、ゴンの隣へそっと歩み寄った。

 

「ゴン君、ちょっと氷嚢を貸してみて」

 

「ん? はい、らでんさん」

 

 らでんはゴンから氷嚢を受け取り、タオルが濡れすぎている部分を新しい乾いたタオルで巻き直してから、もう一度ゴンの左頬へと優しく当てた。

 タオルの越しに、少年の頬の確かな熱と、トクトクと打つ脈の温かさが自分の手のひらへ伝わってくる。

 

(……ああ、よかった)

 

 さっき客席で、ゴンの右拳がヒソカの頬を捉えた瞬間に感じた、あの息を呑むような美しさ。

 

 きっと自分はこれからも、人が自分の限界や危険の縁で放つああいう一瞬の輝きに、どうしても目を奪われてしまうのだろう。それを「なかったこと」にして、ただ安全な場所だけを勧めるお行儀のいい先生になることは、自分にはできない。

 

 けれど、こうして試合が終わったあと、少し腫れた頬に氷を当てて「悔しい」と笑っているゴンの体温を手のひらで感じている今、自分が何を一番に望んでいるかは、考えるまでもなくはっきりしていた。

 

 散り際の美しさではなく、この子たちが自分の手で借りを返し、自分の足でリングを降りて、また明日の朝ご飯を一緒に食べて、その先の広い世界へ歩いていくこと。

 

「どうしました、らでんさん? なんかじっとオレの顔見てるけど、そんなに腫れてる?」

 

「ふふ、ううん。少し赤くなっているけれど、とってもいい顔だなって思って見ていただけですよ」

 

 らでんは氷嚢をゴンの手へ戻し、二人の顔を順番に見渡して微笑んだ。

 

「二百階での約束の試合も終わりましたし、ゴン君の裏ハンター試験も、重かった『44』の番号札も、全部ゴン君自身の手で立派に区切りをつけましたね」

 

「うん! らでんさんが毎日基礎を教えてくれたおかげだよ、ほんとにありがとう!」

 

「私は基礎のやり方を伝えただけです。あの石畳の工夫も、最後まで《堅》を切らさなかったのも、全部ゴン君とキルア君が自分たちで積み上げた力ですよ」

 

 らでんはそこで一拍置き、窓の外に広がる六月の高い青空へ目を向けてから、二人に尋ねた。

 

「――さて。こうして天空闘技場での一番大きな目標を達成したわけですけれど、ゴン君のほっぺたの腫れが引いたら、これから二人とも、次は何をしたいですか?」

 

 その問いかけに、ゴンとキルアがぱっと顔を見合わせた。

 

 傷だらけの笑顔と、それを見守る銀髪の少年の瞳に、次の冒険を思い描く新しい光が宿っていた。

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