儒烏風亭らでんと蜘蛛と奇術師   作:今日も元気ですマン

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第十話 バイバイ、天空闘技場

 

「まずは一度くじら島へ帰ろうと思うんだ」

 

 六月の高い青空から差し込む西日が、二百階の客室の丸テーブルを明るく照らしていた。

 ゴンが氷嚢を少しだけ持ち上げて、絆創膏の貼られた顔をほころばせた。

 

「ミトさんに、ハンター試験に受かったこととか、ククルーマウンテンへキルアを迎えに行ったこととか、この天空闘技場でらでんさんに念を教えてもらってヒソカにプレートを返せたこととか、ぜんぶ話したいんだ。それに、オレがハンターになったら教えてくれるって約束してたジンのことも、ミトさんからちゃんと聞かなきゃいけないしね」

 

「そっか、試験に受かってから、まだ一度もお家へは帰っていなかったんですね」

 

「うん! でね、キルア」

 

 ゴンは氷嚢を頬に戻したまま、隣にいる銀髪の少年へと真っ直ぐに首を向けた。

 

「キルアも、一緒にくじら島へ来るでしょ?」

 

 あまりにも当然のように言われて、キルアは一瞬だけ目を瞬かせ、それから「ふーん」と鼻を鳴らして横を向いた。

 

「ま、オレは今さら家に戻る気もねーし、他に行くあてもないからな。お前がどうしてもって言うなら、そのくじら島ってのがどんな田舎か、ついでに見に行ってやってもいいけど」

 

「ほんと!? やったあ! ミトさんのご飯、すっごく美味しいし、裏の山にも海にも面白い場所がいっぱいあるから、キルアにもぜったい案内したいと思ってたんだ!」

 

「おい、あんまり口を大きく開けて笑うなって。せっかく冷やしてる頬っぺたがまた痛むだろ」

 

 キルアは呆れたように言いながらも、ゴンの手元からずり落ちそうになっていた氷嚢の端を指先で軽く押し戻してやった。口元には、隠しきれない嬉しそうな笑みが浮かんでいる。

 

 一月の試験会場で出会ってから、ククルーマウンテンを経て、この闘技場で毎日肩を並べて汗を流してきた二人だ。どちらかが口にするまでもなく、次の旅も二人で歩いていくつもりなのだと伝わってきて、らでんも自然と目尻が下がった。

 

「くじら島へ二人で帰省、いいですねえ。六月の島なら、きっと海風も気持ちいいでしょうし」

 

「ねえ、らでんさんも一緒にくじら島へ行かない? ミトさんに、オレたちの先生だって紹介したいよ!」

 

 ゴンが身を乗り出すようにして言った。その茶色い瞳があまりにきらきらしているので、らでんは思わず胸がくすぐったくなりながら、ゆるく首を横に振った。

 

「招待してくれるのはすごく嬉しいんですけれど、私はこのあと、少し溜まっている文化財の仕事と、仲間と一緒に準備している音楽の練習に戻らないといけないんです」

 

「そっかあ……ちょっと残念だな。でも、らでんさんの仕事だもんね」

 

 キルアが思い出したように少し首を傾げてらでんの顔を見た。

 

「そういやさ、らでん。オレたち、ここまでずっとらでんから『燃』だの《堅》だの《凝》だのって基礎を教わってきたけど、らでん自身の仕事場とか、らでんが普段使ってる念能力って、まだちゃんと見たことないよな」

 

「あっ、ほんとだ!」

 

 ゴンも空いている右手で、ぽんと膝を打った。

 

「美術品の来歴を調べるって話は聞いたけど、らでんさん自身の《発》はまだちゃんと見せてもらってないよね。仕事場も、オレすごく見てみたいな!」

 

 二人の視線が、ぴたりとらでんの手元と顔に集まる。

 

 実はらでん自身も、ゴンが無事にヒソカとの試合を終えたら、最後にひとつだけ二人を誘いたい場所があったのだ。これまでは師匠役として、二人がステップを踏むのを客室の絨毯の上で見守り、リングで戦う姿を客席からハラハラしながら見つめるばかりだった。けれど、目の前にいるのはもう、念という不思議な力を自分の肌で知り、外の世界へ自分の足で踏み出していく仲間でもある。

 

 自分の好きなものや、自分がずっと大切にしてきた場所を、この二人にならぜひ見てほしかった。

 

「ふふ、ちょうどよかった。実は私も、二人がくじら島へ出発する前に、一度だけ私の仕事場へ招待したいなと思っていたんです」

 

「仕事場って、この街のどこかにあるの?」

 

「いえ、街の建物の中にあるわけじゃないんですよ」

 

 らでんは襟元の細い紐を外すと、そこに下がっていた小さな鋼のお守りを丸テーブルの上へ置いた。

 丸い雪玉の形をした、青みがかった鋼の塊だ。表面の細かな凹凸が、光を受けてほのかに輝いている。

 

「へえ、変わった形だな。こんな丸いのが鍵なのか?」

 

 キルアが肘掛けから身を乗り出して、テーブルの上の鍵を覗き込んだ。

 

「これは私の《発》で作っている館――《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》へ入るための鍵なんです。今までは二人の修行や試合を見せてもらうばかりでしたから、今度は私の仕事場へ案内しますね」

 

「遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)……! すごい、鍵で入る念の館なんだ!」

 

 ゴンが目を輝かせて立ち上がりかけたので、らでんは慌てて両手で制した。

 

「こらこら、今日すぐに行くわけじゃありませんよ! さっき救護室のお医者さんにも、今日は冷やして安静にしているようにって言われたばかりでしょう?」

 

「あ、そっか……へへっ、つい」

 

「ったく、お前はすぐこれだからな。そんな絆創膏だらけの腫れたツラで美術館なんかうろついたら、展示物の方がびっくりするぜ」

 

 キルアに小突かれて、ゴンが首をすくめる。

 

「見学に行くのは、その左頬の腫れがすっかり引いて、痛みもなくなってからにしましょう。展示室は結構歩きますし、せっかく見てもらうなら、万全の体調でゆっくり楽しんでほしいですからね」

 

「うん、わかった! じゃあ、早く腫れが引くように、今日はちゃんと氷を当てておとなしくしてるよ!」

 

 素直にソファへ座り直したゴンを見て、らでんはテーブルの上から鋼の雪玉の鍵を拾い上げた。ひんやりとした金属の重みを確かめ、紐を襟元へ戻すと、数日後に二人をあの扉の向こうへ連れていく場面が浮かんで、自分の胸の奥まで少し早く弾むのが分かった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 翌六月十一日から十二日にかけての二日間は、これまでの張り詰めた一か月が嘘のように穏やかな時間となった。

 あれほど激しい打撃と岩の激突を受けたにもかかわらず、ゴンが全身の《堅》を保って大きな損傷を免れたこともあり、回復は順調だった。一日目の夜にはもう左頬の熱っぽさが抜け、二日目の午後には腫れもほとんど目立たなくなっている。めまいや関節の痛みも一切出ず、本人などは「もう逆立ちだってできるよ!」と絨毯の上で手を突きそうになって、らでんとキルアの二人がかりで止められたほどだった。

 

 激しいステップや組み手は休みにしたものの、朝夕の『燃』と、静かに呼吸を整えて《纏》と《練》を確かめる日課だけは三人とも欠かさなかった。

 

 闘技場の二百階から退去するための手続きや、部屋に置いていた荷物の整理も、その二日間のうちに少しずつ進めた。ゴンが持ってきた荷物は、着替えの詰まったリュックサックと、ずっと部屋の隅に立てかけてあった愛用の釣り竿くらいしかない。キルアに至ってはさらに身軽で、スケートボードと小さなバッグひとつにすべてが収まってしまう。

 

 そして迎えた、六月十三日の午前十時。

 

 朝の光を浴びながらゴンの客室を訪ねたらでんは、ゴンの顔を正面から覗き込み、それから軽く左頬のあたりへ指先を添えてみた。

 

「うん、熱もすっかり引いていますし、腫れももう全然分かりませんね。噛んだり首を回したりしても、痛むところはありませんか?」

 

「うん! 今朝のリンゴも丸かじりできたし、どこも痛くないよ、らでんさん!」

 

 右のこめかみに貼っていた絆創膏もすでに外れ、ゴンの顔はすっかりいつもの健康的な明るさに戻っていた。その隣では、キルアがポケットに両手を突っ込んで、部屋の奥にあるクローゼット脇の内扉をちらりと見やっている。

 

「で、らでん。体調もバッチリなわけだけど、どうやってその仕事場へ行くんだ? まさか今から飛行機に乗るわけじゃねーんだろ」

 

「ええ。入り口なら、もうすぐそこにありますよ」

 

 らでんは襟元から細い紐を引き出し、あの日見せた鋼の雪玉を掌に乗せた。

 向かったのは、客室の廊下へ出るメインのドアではなく、部屋の奥にある控え室兼収納スペースへと繋がる木製の内扉だ。普段なら、開ければハンガーラックと予備の毛布が並んでいるだけの、何の変哲もない小部屋の扉である。

 

「この扉の鍵穴に、この雪玉を当ててオーラを通すと、私の念空間である遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)の入り口と繋がるんです。ただ、私と一緒に中へ入るには、二人が『その行き先へ一緒に入る』と納得してくれている必要があります。――どうですか、二人とも。私の仕事場へ、一緒に来てくれますか?」

 

「もちろん! お願いします、らでんさん!」

 

「おう。そこまで言われて断るわけねーだろ」

 

 二人の迷いのない返事を聞いて、らでんは扉の真鍮のノブの下にある鍵穴へ、鋼の雪玉をそっと当てた。

 ひんやりとした鋼を掌で支えながら、指先からオーラを通わせる。

 

 カチャリ、と澄んだ金属音が、部屋の中に小さく響いた。

 

 らでんはノブを握り、手前へとゆっくり扉を引いた。

 

「……おっ」

 

 後ろから覗き込んでいたキルアの喉が、小さく鳴った。

 

 開いた扉の向こうに、昨日まであったはずの白い壁紙の収納スペースはなかった。

 

 代わりに広がっていたのは、磨き込まれた灰白色の石畳の床と、高い天井から柔らかな暖色の光が降り注ぐ、静かなエントランスホールだった。壁面には落ち着いた深い色の木材が使われ、すぐ先の回廊には、ガラスケースや額縁が整然と並んでいるのが見える。

 

「うわああ……っ! なにこれ、部屋の中なのに、ぜんぜん違う建物に繋がってる!」

 

 ゴンが目を真ん丸にして、開いた扉の枠のところまで駆け寄った。

 そのまま中へ飛び込むのかと思いきや、ゴンは敷居の手前でぴたりと足を止め、扉の向こう側の空間と、客室側のクローゼットの壁とを交互に見比べた。

 

「あれ? キルア、ちょっとこっち見て! 部屋の壁の厚みってこれしかないのに、扉の中はあんなに奥まで続いてるよ!」

 

「ほんとだ……。おいおい、どうなってんだよこれ。隣の部屋をぶち抜いたって広さじゃねーぞ。そもそも二百階のこの位置だと、あっち側は外っかわの空中のはずだろ」

 

 キルアも扉の蝶番のあたりをしゃがみ込んで観察し、それから扉の向こうから流れてくる空気を鼻先で嗅ぐようにして顔を上げた。

 

「しかも、空気の匂いも温度も、こっちの部屋と全然違うな。なんていうか、すごく静かで、ちょっとだけひんやりしてる」

 

「よく気づきましたね、キルア君。古い絵や木製品が傷まないように、館の中の温度と湿度はいつも一定になるように保っているんです。ほら、入り口で引っ掛かっていないで、中へどうぞ」

 

 らでんが先に一歩踏み出して手招きすると、ゴンとキルアは顔を見合わせてから、少し緊張したように靴底で石畳の床を踏んで中へと入ってきた。

 

 全員が中へ入ったところで、らでんは後ろ手で木の扉を閉めた。カツン、と静かな音がして扉が枠に収まると、闘技場の空調の低い唸り声や窓の外の風の音がすっと消え、美術館特有の澄んだ静寂が三人を包み込んだ。

 

 ゴンがその場で自分の靴底をかるくトントンと鳴らし、天井を見上げる。

 

「足音が、ちょっとだけ遠くまで響くね。なんだかほんとに、大きな街の美術館に来たみたいだ」

 

「後ろの扉は、もう消えちゃったりしないのか?」

 

 キルアが振り返って、閉まったばかりの木の扉に軽く掌を当てて確かめている。

 

「ええ。帰るときも、あの扉を開ければ、今入ってきた二百階の客室へ戻れます。今日はあそこから、一緒に帰りましょうね」

 

「へえ、なるほどな。扉は同じでも、元の収納とは別の場所なんだな。すげー隠れ家じゃん」

 

 キルアが感心したように口笛を吹き、回廊の奥へと視線を向けた。

 

 らでんは二人の少し前を歩きながら、緩やかな照明に照らされた展示室へと案内した。

 壁際のガラスケースや台座の上には、古い時代の装飾品や道具、そして額装された絵画などが、十分な間隔を空けて並んでいる。数は決して多くはない。何百点もの美術品を隙間なく詰め込んだ大博物館ではなく、ひとつひとつの品物が呼吸できるように余白を取った、小ぶりな専門館のような造りだ。

 

「ここにあるものって、ぜんぶらでんが集めた美術品なの?」

 

 ガラスケースの前を歩きながら、キルアが尋ねた。

 

「ただの古い美術品ではなくて、ここにあるのはどれも、亡くなった持ち主や作り手の強い想いが『死後念』になって残ってしまった品物なんです」

 

 らでんが立ち止まって答えると、ゴンとキルアが同時にこちらを見た。

 

「人が死んだあとにも、念が消えずに残ることがあるの?」

 

「そうなんです。そういう品物は、何も知らない人がうっかり触ったり使ったりすると、危ない目に遭うこともありますし、逆に『ただ気味が悪いから』って壊されてしまうこともあります。だから私は、そういう品物を引き取って、最初に身につけた能力――《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》で、物に残った断片的な記憶を手がかりにするんです。現物や史料とも照らし合わせて、どんな時間を過ごしてきたのかを調べていくんですよ」

 

 らでんはガラスケースの向こうにある古い品物を優しげな目で見やりながら、言葉を継いだ。

 

「そうやって来歴や正しい扱い方を調べて記録した上で、危ない原本そのものはこの館の収蔵庫や専用のケースで大切に保管する。ここはいわば、強い念が残った品物と、その前後にあった人の暮らしを守るための、私の仕事場なんですよ」

 

「そっか……。ただ危ないものを閉じ込めておくだけじゃなくて、どうしてそういう念が残ったのかを調べて、ちゃんと残してあげてるんだね」

 

 ゴンが頷きながら、すぐ近くの壁面へと目を向けた。

 そこには、落ち着いた木のフレームに入れられた三枚の額縁が、横一列に並んで掛けられていた。三人の立つ場所からは、額の縁へ照明の光が細く映っている。そしてその少し手前の小さな台の上には、封筒が通る細長い口がついた、古い木箱がひとつ置かれている。

 

「ねえ、らでんさん。この三つ並んでる額と、郵便受けみたいな木の箱はなに?」

 

「あ、ちょうど最初に見せたいと思っていたところへ来てくれましたね」

 

 らでんは嬉しくなって、その三枚の額の前へと歩み寄った。

 

「これは《あなたへ至る三景(ディア・サムワン)》という作品です。この投函箱と、三枚の連作の額で一組になっているんですよ。実はこれ、もともとはどうしても会いたい相手を追い求めて、旅をしながら絵を描き続けていた画家さんの遺作なんです」

 

「会いたい人を探しながら、絵を描いてたの?」

 

「ええ。その画家さんにとっては、誰かを探すことと、風景や人を描くことが、きっとひとつに繋がっていたんでしょうね。だから亡くなったあとも、その『会いたい人へ辿り着きたい』という念が作品に残ったんです。この木箱に、探したい相手へ宛てた手紙を書いて投函すると、次の日に、この三枚の額に絵が浮かび上がります」

 

「へえ、手紙を入れると絵が出るのか」

 

 キルアが投函箱の細長い口を覗き込み、木目の縁についた古い擦れ跡に目を留めた。

 

「三枚あるってことは、三つの場所が出るってこと?」

 

「場所というか、三つの場面ですね。一枚目には『探し始め』、二枚目には『探している途中』、そして三枚目には『その相手と出会う場面』が描かれます。ただ、写真みたいに地名や日付が書いてあるわけではありませんから、描かれた風景や建物の形、人物の様子を見て、自分たちでどこなのかを読み解く必要があるんです」

 

 説明しながら、らでんは小脇に抱えていた自分の厚手のスケッチブックを開いた。

 元の古い原画や、前に使ったときの手紙は傷めないように収蔵庫の奥で保管してある。今日二人に見せるために持ってきたのは、三年前の秋、弟弟子のカイトと一緒にこの《あなたへ至る三景》を使ったときに、らでんが自分の手で克明に描き写しておいた記録のページだった。

 

「前にカイト君と一緒にこれを使ったとき、出てきた絵を自分のノートへ写しておいたんです。ちょっとこれを見てみてください」

 

 らでんは近くの丸テーブルの上にスケッチブックを広げ、三枚の絵を順番に模写した見開きのページを指し示した。

 

 ゴンとキルアが両側から顔を寄せ、まず左端に描かれた『第一景』の写しへと目を落とした。

 そこに描かれているのは、海から見上げたような、鯨の背中にも似た独特の丸みを持つ島の輪郭だ。南側へ大きく開いた馬蹄形の入り江があり、定期船が一隻着けるくらいの小さな桟橋と、岬の風車が見える。そして、港から続く海沿いの道端に、緑色の服を着た黒髪の幼い少年がぽつんと描かれていた。

 

 その絵を見た瞬間、ゴンの茶色い瞳がこれ以上ないほど大きく見開かれた。

 

「――あっ!!」

 

 ゴンがスケッチブックの紙面に指先が触れそうなほど顔を近づけて、弾かれたように声を上げた。

 

「これ、くじら島だよ! ほら、キルア、見て! ここが定期船の着く桟橋で、こっちの坂の上に風車があって……それに、この道端にいる緑の服の小さいの、昔のオレだ!!」

 

「ええっ!? マジかよ、ちょっと貸せ!」

 

 キルアが目を丸くしてスケッチブックを覗き込み、絵の中の小さな少年と、すぐ隣にいるゴンの顔とを何度も見比べた。

 

「このツンツン頭と緑の服……ほんとにお前じゃん! え、なにこれ、らでんがゴンに会う前に描いたやつなのか!?」

 

「ええ、三年前の一九九六年に、カイト君が探している人のために手紙を投函して、そのときに出た一枚目の絵を私が描き写したものなんです」

 

 自分の故郷と幼い頃の姿を見つけて大騒ぎしている二人の様子が、らでんにはたまらなく楽しくて、思わず笑みがこぼれた。

 

「カイトも、この絵を使ったんだ! あのとき、これを見てくじら島へ来たの?」

 

 ゴンがばっと顔を上げてらでんを見た。

 

「そうです。ほら、隣にある二枚目の絵を見てください」

 

 らでんがスケッチブックの真ん中の図を指差すと、ゴンは「うわあ、ほんとにカイトだ!」と歓声を上げた。

 

 第二景の写しには、帽子を脇へ置き、机の上で何枚もの地図や航路図を照らし合わせている、白銀の長髪の青年の後ろ姿が描かれている。そして右端の第三景には、どこか開けた高台のような大地で、旅装をまとったひとりの男とカイトが向かい合っている場面が記録されていた。

 

「じゃあ、森でカイトに助けてもらったあの日より前に、この絵にはくじら島が描かれてたんだね! なんだか不思議だなあ」

 

「ええ。あとからカイト君のメールでゴン君のことを聞いて、私もすごく驚いたんですよ。あのときここで一緒に一枚目の絵を見ながら、『南向きの馬蹄形の入り江がある島で、定期船が着くくらいの桟橋があって……』って、カイト君のフィールドノートと海の地図を突き合わせて探し当てた場所が、まさかジンさんの息子さんのいる島だったなんて」

 

 らでんはスケッチブックの第一景に描かれた、小さな緑の服の少年をそっと指先でなぞった。

 

 三年前、らでんはカイトと地図を広げ、この島の輪郭や入り江、桟橋の形を照合した。そのときはまだ知らなかった、絵の中の小さな少年が、今はこうして隣で同じページを覗き込んでいる。

 

「あのときは、この絵の男の子が誰なのか、私もカイト君もまだ知らなかったんです。でも、カイト君が自分の足でその島へ渡ってゴン君に会い、ゴン君がハンターになってここへ来てくれたから、こうしてご本人にこの絵を見せることができました。なんだか、古い絵が繋いでくれたご縁みたいで、私、今すごく嬉しいんです」

 

「そっかあ……カイトが島へ来た道のりに、らでんさんもいたんだね!」

 

 ゴンは嬉しそうに目を細めて、第一景から第三景までを何度も行き来するように見つめた。

 

 それから、ふと第三景の絵――カイトと向かい合って立っている旅装の男の輪郭に目を留め、少しだけ真面目な顔になってらでんに尋ねた。

 

「ねえ、らでんさん。カイトが探してたのって、やっぱりジンだよね。じゃあ、もしオレがこの箱にジンへの手紙を入れたら、オレがジンを探すための三枚の絵も出るのかな?」

 

 真っ直ぐな問いかけだった。

 

 らでんは変に言葉を濁したりせず、穏やかに頷いて答えた。

 

「ええ、使えると思いますよ。カイト君がジンさんを探す手がかりにしたのと同じように、ゴン君が自分の言葉で『ジンさんに会いたい』と手紙を書いてこの箱へ入れれば、翌日にはゴン君にとっての探し始め、途中、そして出会う場面の三景が現れるはずです」

 

「へえ、それじゃあ、これを使えばジンの居場所が分かるってことか?」

 

 キルアが顎に手を当てて、投函箱とスケッチブックを見比べた。

 

「あ、いや、そう簡単でもねーのか。さっきらでんが言ってた通り、一枚目が出たって、そこからどこの島か地図で調べなきゃいけないし、三枚目のこの高台みたいな場所も、世界の中のどこかまでは書いてないもんな」

 

「その通りです。今すぐ相手のいる住所が文字で出てくる便利な機械ではなくて、あくまで旅の手がかりになる三つの場面が見えるだけなんです。いつ、どこの場面なのかも、自分の足で歩きながら確かめていくことになりますね」

 

 らでんが補足すると、ゴンは「うん、それでいいんだよ」と大きく頷いた。

 

 すぐに「じゃあ今書いて入れてみる!」と飛びつくのかと思いきや、ゴンは自分の胸元にそっと右手を当てて、少し考えるように視線を落とした。

 

「……でもね、らでんさん。オレ、今日ここで手紙を入れるんじゃなくて、まずはやっぱり一度くじら島へ帰りたいな」

 

「くじら島へ帰ってから?」

 

「うん。だって、今のオレはハンター試験に受かって、二百階でヒソカにプレートを返したところまでしか進んでないでしょ? ミトさんに今までのことをぜんぶ話して、ミトさんが預かってるジンのことをちゃんと聞いてからの方が、ジンにどんな手紙を書きたいか、もっとはっきり自分の言葉で書ける気がするんだ」

 

 ゴンはそこで顔を上げ、ぱっと明るい笑顔を見せた。

 

「だから、島へ帰ってミトさんと話をして、そのあとで『よし、手紙を書こう!』って思ったら、またらでんさんにこの箱をお願いしてもいいかな?」

 

「もちろん! いつでも歓迎ですよ。ゴン君が自分の言葉で書きたいと思ったときに、また手紙を持ってきてくれればいいんですから」

 

「ま、それがいいんじゃねーの。せっかく島へ帰るって決めたんだし、まずはそのミトさんって人に報告だな」

 

 キルアも肩をすくめて賛成し、ゴンは「うん、ありがとう、らでんさん!」と嬉しそうに頷いた。

 

 自分の能力を無理に使わせるでもなく、かといって遠慮して引っ込めるでもなく、ゴン自身が自分の旅の順番を考えて「そのときに頼みたい」と選んでくれたことが、らでんにはとても心地よかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「こっちの壁に掛かってる、細かい模様のついたカレンダーみたいなのも作品なのか?」

 

 次に目を留めたのは、隣の区画へと歩を進めたキルアだった。

 

 壁の低い位置に設けられた展示台の上に、厚手の和紙にも似た紙を綴じた、少し大判の装飾暦が開いた状態で置かれている。

 

「ええ、こちらは《来月もここで(ファミリー・スケジュール)》という装飾暦です。もともとは版画家だった方が、自分の家族のために毎月版木を彫って刷り上げ、そこへ日々の小さな予定を書き込んで使っていたものなんですよ」

 

 らでんが案内すると、ゴンとキルアが台の前へ並んで覗き込んだ。

 

 ページの四方を囲む縁飾りには、その月の草花や、食卓の皿、水差し、小さな鳥などの図柄が、驚くほど緻密な木版画の線で刷り出されている。そして中央の日付が並んだ欄には、丸みのある温かなインクの筆跡で、短い言葉や小さな印が書き込まれていた。

 

「わあ、周りの絵がすごく細かいね! 葉っぱの筋とか、小鳥の羽とか、ぜんぶ木を彫ってスタンプみたいにして押してるの?」

 

「そうなんです。毎月、家族がページをめくるのを楽しみにできるようにって、季節のモチーフを変えて彫っていたんですよ。亡くなったあとも『家族のこれからの暮らしを見守りたい』という想いが残って、月が替わってからその月のページをめくった本人の一か月の予定が、この版画家さんと同じ筆跡で浮かび上がるようになったんです」

 

「へえ、一か月の予定が先に出るのか! ねえ、これ、オレやキルアの分もめくったら出るの?」

 

 ゴンがワクワクしたように尋ねたが、らでんは苦笑いして首を振った。

 

「ごめんなさい、この暦が予定を出してくれるのは、ひと月に一人だけなんです。今月――六月のページは、月初めに私がもうめくって使っていますから、同じ月にめくり直して別の人の分を新しく出すことはできないんですよ。来月以降のページを先にめくって見ることもできませんしね」

 

「なんだ、ひと月に一人きりの早い者勝ちか。じゃあ今月はらでん専用ってわけだな」

 

 キルアは悔しがる様子もなく、むしろ興味深そうに木版画の縁飾りと、紙面に並んだ丸っこい文字のクセを眺めていた。

 

「でもさ、未来の予定が出るって聞くとすげー占いの道具みたいだけど、この文字の感じとか、周りの絵を見てると、なんか普通の家の居間に掛けてあったカレンダーって感じがするよな」

 

「ええ、私もそこがすごく好きなんです」

 

 らでんはキルアの言葉に、思わず声を弾ませた。

 

「大きな予言をするためではなくて、もともとは家の人が『この日は市場へ行く日』『この日は屋根を直す日』って確認して、来月もここで無事に暮らそうね、って確かめ合うための道具だったんです。だから、出てくる言葉もどこか手書きのメモみたいに優しいんですよ」

 

「そっか。家の人のために作ったカレンダーなんだね」

 

 ゴンが縁飾りの小鳥の絵を指先で触れないようにそっと辿り、それから、さらにその奥にある独立した展示ケースへと視線を移した。

 

 そこには、先ほどまでの温かな木箱や版画の暦とはまったく異なる、凛とした鋭い空気をまとった一振りの刀が収められていた。

 

「……すげーな、これ」

 

 キルアが自然と歩み寄り、ガラスケースの正面で足を止めた。

 黒塗りの刀掛けの上に横たえられているのは、反りのほとんどない直刀に近い造りの刀だ。目を奪われるのは、その外装の美しさだった。一点の曇りもない白い柄と鞘に、金の象嵌で細やかな植物の唐草にも似た文様が隙間なく埋め込まれており、照明の光を浴びて静かに輝いている。

 

「すごく綺麗な刀だね、らでんさん。真っ白な持ち手に、金の模様がいっぱい入ってる。これって、王様とかが飾っておくための剣なの?」

 

 ゴンがケースの横に並んで尋ねると、キルアがガラスの向こうの柄と鍔のあたりをじっと見据えたまま、低く首を横に振った。

 

「いや、ゴン。これ、ただの飾り物じゃねーよ」

 

「えっ、そうなの?」

 

「ああ。柄の長さと鍔の厚み、それに鞘の収まり方を見ろよ。実際に人間が両手で握って、上から振り下ろしたときに一番重さが乗るように作ってある。でも、戦場で斬り合うための剣にしちゃ、柄の白さも金細工も傷がつきやすすぎる。……これ、どういうときに使われてた刀なんだ、らでん?」

 

 キルアの観察眼の鋭さに、らでんは小さく舌を巻いた。ただ綺麗だと見惚れるだけでなく、道具としての重心や握りの構造から、それが「振るうためのもの」であり、かつ「戦場のものではない」ことまで一瞬で読み取っている。

 

「さすがキルア君、よく見ていますね。この刀の名前は《執行猶予(ラスト・マーシー)》といいます。戦場で敵と斬り合うための武器ではなくて、昔、ある王国で罪人の処刑に使われていた刀なんです。『赦免の王剣』として伝わる、国宝級の一振りなんですよ。その王国は、のちの革命でなくなってしまったんですけれどね」

 

「処刑……?」

 

 ゴンの目が少し丸くなり、もう一度ケースの中の白い柄を見つめた。

 

「どうしてそんな怖いことに使う刀を、こんなに真っ白で綺麗に作ったんだろう」

 

「それはね、この刀がもともと『ただ首を落とすため』ではなくて、『赦免――つまり、罪が許されるのを翌朝まで待つ制度』のために作られた道具だったからなんです」

 

 らでんはケースの中の金象嵌を見つめながら、調べ上げた来歴を静かに語った。

 

「その制度では、すぐに処刑するのではなく、翌朝までに無実の証拠が出たり許しが出たりすれば助かるという猶予が与えられていました。白い柄と金の装飾は、王が最後まで罪人を赦せることを示す意匠として伝えられています。細工をした職人さんの気持ちまでは分かりませんけれど、慈悲を示す王の宝に、これだけ手をかけた跡は残っているでしょう? ……ところが末期の王は、いつ執行するかを知らせずに待たせることで、その猶予を人を怖がらせて従わせるための道具に変えてしまったんです」

 

 キルアがふっと息を吐き、金色の文様が走る白い柄へ目を細めた。

 

「最初は人を助けるチャンスを残す道具だったのに、あとから偉い奴らが脅しの道具にしたってわけか。……なんか、人間のやることって感じがするな」

 

「ええ。同じ一振りの刀でも、金の線を一本ずつ埋め込んだ職人さんの手仕事と、それを使った人たちの歴史の両方が詰まっているんです。……そうだ、せっかくですから、私が普段どうやってここの収蔵品を扱っているのか、少しだけお見せしましょうか」

 

 らでんはケースの前から数歩下がり、何もない作業用のテーブルの前へと立った。

 そして右手を軽く掲げ、静かにオーラを練り上げる。

 淡い光が掌の上に集まり、次の瞬間には、深い色合いの革で表紙を装丁された一冊の分厚い本――《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》が具現化した。

 

「おっ、今度は本が出たな。その本から、ここの品を使うのか?」

 

「はい。《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》で断片を読んだり、現物や資料を調べたりした記録を、こちらの《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》へまとめています。登録を終えた品物を、実際に使うための本なんです」

 

 らでんはテーブルの上で《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》の表紙を開き、ページを繰った。

 これまで引き取って調査・登録を終えた十九点の収蔵品が、精緻な図版と来歴、そして扱い方の記録とともに一ページずつ収められている。その中から、いま目の前のケースにある白柄の刀――《執行猶予(ラスト・マーシー)》が記されたページを開いた。

 

「このガラスケースの中に入っているのは、強い死後念が宿ったままの『原本』です。原本そのものを外へ持ち出したり直接振り回したりすると危ないですし、品物も傷んでしまいます。ですから、実際に扱うときは、こうして調べ上げた記録のページから『復元品(レストア)』を取り出すんですよ。……ちょっと見ていてくださいね」

 

 館の中で使う分には、外へ持ち出すときのような貸出の手続きは要らない。

 

 らでんが開いたページの上へそっと指先をかざすと、紙面から柔らかな白い光が立ち昇り、テーブルの上に敷かれた厚手の布の上で、すっと細長い輪郭を結んだ。

 光が収まったあと、そこにはガラスケースの中にあるのと寸分違わぬ、白い柄と金象嵌の刀が静かに横たわっていた。

 

「うわあっ、本の中から同じ刀が出てきた!」

 

「おいおい、ケースの中のやつが移動したんじゃなくて、今のページからもう一本出たぞ!」

 

 ゴンとキルアが交互にケースの中の原本と、テーブルの上の布に置かれた白柄の刀を見比べる。

 

 らでんは刀を鞘に納めたまま布の上に置き、二人が金象嵌の細工を近くで見られるように角度だけを整えた。

 

「今ここに出したのが、記録をもとに形にした復元品です。近くで見ると、白い柄の細かな凹凸や、金を埋め込んだ溝の細かさがもっとよく分かるでしょう?」

 

「ほんとだ……。すぐ目の前で見ても、ケースの中のやつとどこが違うのか全然わかんねーよ。金の線がすごく綺麗に光ってる」

 

 キルアが手を触れずにすぐ上から覗き込み、それからふと、らでんが左手に持ったままにしている分厚い本へ目を向けた。

 

「なあ、らでん。その本を開いてる間だけ、この刀が出てるって仕組みなのか?」

 

「いいえ。こうして――」

 

 らでんは左手に持っていた《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》を、ぱたんと閉じてみせた。

 

 けれど、テーブルの布の上に置かれた白柄の刀は、消えることなくそのままの美しい姿でそこに残っていた。

 

「あっ、本を閉じたのに、刀は消えないんだ!」

 

 ゴンが驚いたように声を上げる。

 

「ええ。記録を開きっぱなしにしておく必要はなくて、一度こうして復元品を取り出せば、本を閉じてもそのまま残りますし、能力の利用がすぐに終わるわけでもないんです」

 

「へえーっ、本を閉じても消えないのか。じゃあさ、この復元したやつなら、さっきの入り口の扉から外の世界へ持って出て使うこともできるのか?」

 

 キルアの問いに、らでんは頷いてから、人差し指を一本立てた。

 

「できますよ。ただ、館の中ではこうしてそのまま取り出せますけれど、館の外へ持ち出して使うときには、誰が、どの品を、何のために外で使うのかを別に記録する手続きが必要になるんです。原本はこの館の奥で守りながら、必要なときだけ手続きをして、本から復元した品を借り出す……というのが、私のこの仕事場の仕組みなんですよ」

 

「原本は館で守って、調べた記録の本から復元したやつを使う、か。しかも外へ持ち出すときは別の手続きがいるんだな」

 

 キルアは腕を組んで感心したように頷き、もう一度テーブルの上の白い柄を見た。

 

「なんだか、すごくらでんさんらしい能力だね!」

 

 ゴンが顔を上げて、にこりと笑った。

 

「大事な元の品物は壊れないようにここで守ってあげて、どういう人が作ったのかをちゃんと本に書いておくんだもん。さっきのくじら島の絵も、版画のカレンダーも、この白い刀も、らでんさんがすごく大事にしてるのが見ててわかるよ」

 

 ゴンの飾らない言葉が、胸の真ん中へすっと染み込んでくる。

 

 らでんは少し照れくさくなって自分の頬を軽く掻いた。それから閉じていた本をもう一度開き、白柄の刀の復元を解く。淡い光がほどけて消えると、テーブルの上にはまた静かな布だけが残った。

 

「……ありがとう、ゴン君、キルア君。二人がそんなふうに細かいところまで見て、興味を持ってくれて、私も今日ここへ招待して本当によかったです。さあ、立ちっぱなしで少し喉も渇いたでしょう? あちらの休憩スペースに、お茶とお菓子を用意してあるんですよ」

 

「やった! お菓子なに?」

 

「お前な、美術館に来てまで食い気かよ……って言いたいとこだけど、オレもちょっと甘いもん食いたいわ」

 

 軽口を叩き合う二人を連れて、らでんは展示室の奥にある、作業机と丸テーブルが並んだ休憩スペースへと足を向けた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 普段らでんが調査資料を広げて作業している木のテーブルの脇には、今朝客室から魔法瓶に入れて持ち込んでおいた温かい紅茶と、街の洋菓子店で買っておいたバタークッキーの缶が置いてある。三人でティーカップを囲んでクッキーをつまみ始めると、展示室の静かな空気の中に、いつもの客室と変わらない賑やかさが広がった。

 

「んーっ、このクッキー、サクサクで美味しい!」

 

「だろ? その四角いやつ、中にナッツが入ってて結構うまいぞ。……でもさ、らでん。あっちの棚やガラスケースに入ってる他のやつも、全部ああやって一人ずつの歴史があるわけだよな」

 

 キルアが紅茶を一口飲みながら、ガラス越しに見える展示室の方へ視線を向けた。

 

「ええ。ここにある十九点の収蔵品は、ひと通り来歴や扱い方の調査を終えて登録してあるんですけれど、それでも『作った人の気持ちが百パーセント全部わかった』なんてことは言えないんです。昔の新聞や手紙の資料を後から見つけて、『あ、この傷はこういう意味だったのかもしれない』って新しく気づくこともまだまだありますからね」

 

「そっか。一回本に書いて終わりじゃなくて、今でもずっと調べてるんだね」

 

「はい。わからないところが残っているからこそ、もっと知りたくなるのかもしれません。また二人が遊びに来てくれたときには、別の棚の品物のお話もしますよ」

 

「うん! オレ、島へ帰ってミトさんと話をしてきたら、ジンへの手紙も書きたいし、そのときにまたほかの展示もいっぱい見せてね!」

 

 ゴンがクッキーを頬張りながら元気よく頷く。

 

 お茶を飲み終え、空になったカップと魔法瓶を鞄へ片付けると、三人はもう一度展示室をゆっくりと通り抜けて、エントランスの木の扉の前へと戻った。

 らでんが扉の鍵穴へ鋼の雪玉を当ててオーラを通し、ノブを回して扉を開く。

 すると、扉の向こうには、つい一時間ほど前に出てきたばかりの、二百階の客室の明るい絨毯と丸テーブルがそのままの姿で広がっていた。

 

「おお……ほんとに元の部屋へ戻ってきた」

 

「不思議だなあ。ほんのちょっと扉をくぐっただけなのに、どこか遠い街へ旅してきたみたいな気分だよ」

 

 ゴンとキルアが順番に客室へと足を踏み出し、最後にらでんが部屋へ戻って内扉を閉める。

 

 雪玉から指先を離し、もう一度ノブを引いてみると、扉の向こうには、いつもの白い壁紙とハンガーラックが並んでいるだけだった。ゴンが「うわ、ほんとに普通のクローゼットに戻ってる!」と目を丸くして覗き込み、キルアと二人で笑い合っている。

 

 その背中を見つめながら、らでんは雪玉の鍵を襟元へと戻した。

 

 自分の大切な仕事場を、大切な二人がこんなにも楽しそうに歩いてくれた。その温かな余韻が、昼前の光が差し込む客室の中にいつまでも残っていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 翌六月十四日の朝は、雲ひとつない快晴だった。

 

 闘技場の最寄りにある飛行船の発着場には、朝から多くの旅行客や選手たちが行き交い、プロペラの回る軽快な音と出発案内のアナウンスが響き渡っている。

 

 搭乗ゲートの前まで見送りに来たらでんの前で、ゴンは背中のリュックサックの肩紐をぐっと引き直し、愛用の釣り竿をしっかりと握り直した。いつもなら入っていたはずの左胸のポケットは、もうすっきりとして軽い。

 

「らでんさん、ここまでずっと、ほんとにありがとうございました! らでんさんが『燃』や《堅》や《凝》を最初から教えてくれたおかげで、オレ、二百階でちゃんと戦えたし、ヒソカにプレートも返せたよ!」

 

「礼を言うのはオレもだ、らでん。もし最初にあのテラスでらでんに会ってなかったら、オレたち、念のこともよく分かんねーまま二百階へ突っ込んで、今ごろ大怪我してたかもしんねーしな。……ありがとよ」

 

 キルアはスケートボードを小脇に抱えたまま、少しだけ照れくさそうに目線を逸らし、それでも最後は真っ直ぐにらでんの目を見て言った。

 

「どういたしまして。二人が毎日、地道な基礎の反復から一度も逃げずに積み重ねたからこそ、自分の足でここまで来られたんですよ」

 

 らでんは二人の前に立ち、いつも部屋で送り出していたときと同じように、穏やかな声で言った。

 

「くじら島へ帰ってからも、朝と夜の『燃』と、《纏》・《練》・《堅》・《凝》の確認だけは毎日少しずつでも続けてくださいね。三十分、三時間の《堅》は、一日で急にできるようになるものではありませんから」

 

「うん! くじら島の森や海岸で、キルアと毎日競争しながら続けるよ!」

 

「おう。次に会うときには、らでんがびっくりするくらい長く《堅》を保てるようになってやるから、覚悟しとけよな」

 

 頼もしく笑う二人に、らでんも頷き返した。

 

「ええ、楽しみにしています。私もこの夏は、自分の仕事と、五人での音楽の練習をしっかり仕上げてきますね。そして秋には――九月の初めごろ、欲しい絵のオークションと、私たちのデビュー配信のためにヨークシンシティへ行く予定なんです」

 

「あっ、ヨークシンシティ! オレたちも、一月の試験のときにクラピカやレオリオと『九月一日にヨークシンシティで会おう』って約束してるんだよ!」

 

 ゴンがぱっと顔を輝かせた。

 

「じゃあ、くじら島へ帰って、そのあと九月にヨークシンへ行けば、またらでんさんにも会えるんだね!」

 

「そうですね! 二人が島でどんな夏を過ごしたか、ヨークシンでまたお土産話を聞かせてください」

 

『ご案内いたします。午前九時三十分発、くじら島方面行き連絡船接続便にご搭乗のお客様は、三番ゲートよりお進みください』

 

 頭上のスピーカーから搭乗開始のアナウンスが流れ、ゲート前の列がゆっくりと動き始めた。

 

「よし、行こうぜ、ゴン!」

 

「うん! じゃあね、らでんさん! 手紙を書くときが来たら、また連絡するね! いってきまーす!」

 

「いってらっしゃい、ゴン君、キルア君! 気をつけてね!」

 

 大きく手を振るゴンと、片手を軽く挙げて応えるキルアの背中が、ゲートの向こうの連絡通路へと駆けていく。

 ガラス張りの通路の奥で、二人がもう一度こちらを振り返ってぶんぶんと手を振り、やがて飛行船のタラップの向こうへと見えなくなるまで、らでんはずっと手を振り続けた。

 

 やがて銀色の船体がゆっくりと宙へ浮かび上がり、六月の眩しい青空の彼方へと小さくなっていく。

 

 見送りを終えた発着場のロビーは、急に自分の隣が少しだけ広くなったような気がした。けれど、不思議と寂しさはなかった。あの二人が今ごろ船の窓から外の雲を覗き込んで、くじら島で何をして遊ぶか夢中で話しているだろうと想像するだけで、自然と足取りが軽くなる。

 

「――さて、と。私も二人に負けないように、自分の仕事と練習へ戻らなくちゃね」

 

 らでんは肩に掛けた鞄のベルトを軽く握り直し、自分の帰りの切符を買うためにカウンターへと歩き出した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 季節が七月から八月へと移り変わるにつれて、街路樹の緑はいっそう濃くなり、空気には本格的な夏の熱気が満ちていった。

 

 天空闘技場を離れたあと、らでんはまず本業である文化財の保存記録や調査の仕事を次々と片付けていった。地方の資料館から依頼されていた古い漆器の木地の状態調査や、木彫像の修復前写真の整理など、念の絡まない通常の文化財業務だ。静かな保存記録室の机でルーペを覗き込み、塗り直しの跡やノミの角度を報告書へまとめていく時間は、らでんにとって背筋がしゃんと伸びる大切な日常だった。

 

 そして、そうした仕事の合間を縫って、別の街から移動してきた仲間たちと日程を合わせ、予約したスタジオへ集まる日々が続いていた。

 

「――よし、頭からアウトロまで、一回止めずに通してみようか! 音、出すよー!」

 

 八月中旬の午後、冷房を効かせた防音スタジオの中に、一条莉々華の明るい声と、軽快なダンスナンバーのイントロが響き渡った。

 

 壁一面の大きな鏡の前に並んでいるのは、『ReGLOSS』の五人――火威青、音乃瀬奏、一条莉々華、轟はじめ、そして儒烏風亭らでんだ。全員がいつも同じ街に住んでいるわけではないため、こうして五人全員が対面で揃う日には、それまでに各自で練習してきた歌の音源やステップをひとつに合わせる熱気がスタジオ中に満ちていた。

 

 イントロのビートに合わせて、まず真ん中に立つはじめが、まるで音楽そのものが身体から湧き出しているかのような滑らかなアイソレーションとステップで全体を引っ張る。

 

 春の合同練習では、形を正確に作れても、音の余韻まで早く切ってしまいがちだったらでんも、この夏の反復を経て、動きを次の音へ渡せるようになっていた。もともとハンターとしての体幹と身体制御があるため、難しいターンの軸がぶれることはない。そこへ、隣で踊るはじめの「音をほんの少し後ろまで引っ張ってから抜く」肩や手首の余韻を見て合わせる余裕が生まれていたのだ。

 

『――重なる声で、今――』

 

 サビ前の掛け合いに入る瞬間、らでんの斜め後ろから、奏の伸びやかで芯のある歌声がぴたりと重なった。

 春には、踊りに気を取られて息を吸うタイミングを逃していた場所だ。けれど今は、奏が半拍前に吸うブレスの気配が背中越しに自然と分かり、らでんも肩の力を抜いたまま、高音のフレーズを気持ちよく天井へと響かせることができた。

 

 そのまま五人が横一列から浅いV字のフォーメーションへと移動し、最後の決めポーズでビシッと静止する。

 

 曲の残響が消えると同時に、五人の間から「ふうーっ!」と揃って大きな息と笑い声が漏れた。

 

「おーっ、今の通し、今までで一番揃っとったんじゃない!? らでん、サビ前のターンから歌に入るところ、めちゃくちゃ自然に流れるようになったね!」

 

 はじめが首に掛けたタオルで汗を拭いながら、ぱっと笑顔を向けてくる。

 

「ほんと? はじめがすぐ隣で、腕を下ろすスピードをすごく分かりやすく見せてくれるから、私もそこで息を吸えばいいんだってようやく身体が覚えてきたよ。それに、奏ちゃんがすぐ後ろからすごくいい声で入ってくれるから、つられて声が出しやすかった!」

 

「えへへ、そうでしょ! らでん、春に練習したときより、動きながらでも全然声が揺れなくなったよね。さっきのサビのハモリ、歌っててすっごく気持ちよかった!」

 

 奏がマイクを片手に、嬉しそうにらでんの腕をぽんと叩く。ダンスのステップそのものは、ハンターであるはじめやらでん、そして以前から少し経験のある青のほうが速くこなせるけれど、こと歌の呼吸やハーモニーの組み立てに関しては、奏が誰よりも頼もしい道しるべになってくれていた。

 

「私も今のV字へ移動するところ、やっと足が絡まらずに行けた気がする……! ねえ青くん、今私、遅れてなかったよね!?」

 

 少し肩で息をしながら尋ねた莉々華に、鏡の前で立ち位置を確かめていた青が、くすりと笑って親指を立てた。

 

「うん、ばっちりだったよ、莉々華。最後のポーズに入る一歩手前で、左手がちょっとだけ早く上がりかけてたけど、すぐ自分で直してピタッと止まれてたじゃん。春に僕の方へ全力で突撃してきたときとは見違えるようだよ」

 

「ちょっと青くん、春の突撃の話はもう蒸し返さないでよ! でもよかったあ、毎日寝る前にカウント数えながら足の順番おさらいした甲斐があった……!」

 

 胸を撫で下ろす莉々華は、そのまま小走りで三脚のビデオカメラへと向かい、録画していた今の通し映像をモニターへ映し出した。ステップの切り替えではまだ少し苦戦することもある莉々華だが、こうして画面全体の見え方やスケジュール、衣装の具合を確認するときの目つきは、誰よりも頼りになるプロデューサーの顔になる。

 

「ちょっとみんな、今の映像見てみて! 九月四日に公開するMVのダンスパートと、そのあとの初配信のお披露目、この並びならすごく綺麗に映るよ!」

 

 莉々華に呼ばれて、らでんたち四人もモニターの周りへ集まった。

 画面の中では、五人がそれぞれの個性を出しながらも、ひとつのグループとして気持ちよく音を刻んでいる。青が画面の端を指差して、「あ、やっぱりこのサビの照明が切り替わるところ、僕がもう半歩だけ外へ開いた方が、奏ちゃんのターンしたときのスカートが綺麗に映るかもね。次のテイクで試してみようか」と提案し、奏が「あ、ほんとだ! ありがとう、青くん!」と頷く。

 

「それとね、本番用の衣装なんだけど」

 

 莉々華が自分のタブレット端末を開き、衣装の仕上がり写真とスケジュール表をみんなに見せた。

 

「らでんちゃんのジャケットの右肩と、はじめちゃんのパンツの裾、こないだのフィッティングで少し詰めてもらったから、もう大きく腕を回しても引っ掛からないようになってるよ。今週中に最終の歌収録と映像のチェックを終えれば、八月末にはそれぞれの荷物を持って現地へ移動できるスケジュールになってるからね!」

 

「わあ、いよいよって感じがしてきたね……!」

 

 らでんはモニターの中で笑っている五人の姿を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

 

 年末のスタジオでの顔合わせから始まり、春にはぎこちなく立ち位置を合わせていた五人が、この夏を越えて、本当にひとつの舞台へ立つ準備を整えつつある。誰かひとりが完璧に引っ張るのではなく、はじめの踊り、奏の歌、青の視点、莉々華の段取り、そしてらでん自身の声と身体が、パズルのピースのように噛み合ってきているのが何より嬉しかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 八月三十日の夕暮れ時。

 

 窓を少し開けた部屋には、夏の盛りの熱気がわずかに和らいだ、どこか秋の気配を含んだ涼しい風が吹き込んでいた。

 

 らでんはベッドの横に広げた大きめのスーツケースへ、丸めた着替えや化粧ポーチ、そして現地での配信に使うためのヘッドセットや予備のケーブル類をひとつずつ丁寧に詰めていた。すぐ脇には、莉々華たちが手配してくれた本番用の衣装ケースも、いつでも持ち出せるように立てかけてある。

 

 荷造りがひと段落したところで、らでんは机の上へ歩み寄り、そこに広げてあった一冊の厚手のカタログへと目を落とした。

 表紙には、箔押しの文字で『ヨークシンシティ秋季正規オークション出品目録』と記されている。

 しおりを挟んで開いたページに載っているのは、一枚の油彩画の写真だ。

 

 ――エリアス・ヴァレーヌ作、《我々はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか》。一八九四年、油彩・カンヴァス。

 

 そこに描かれているのは、どこか遠い南方の港町の風景だった。夕暮れとも夜明けともつかない柔らかな光の中、幼子を抱いた女性と、仕事を終えて港から帰る人々と、木陰に腰を下ろした老人が、同じひとつの地面にいながら、それぞれ少しずつ違う方向を見つめている。

 

 死後念も、特別な呪いも、不思議な能力も、この絵には一切宿っていない。

 

 ただ百年前の一人の画家が、絵具と筆だけでカンヴァスの上に残した、純粋な美術品だ。学生のころに画集の小さな印刷で初めて見て以来、らでんがずっと「いつか本物を自分の目で見て、できるなら自分の手元で守りたい」と憧れ続けてきた一枚でもある。

 

「……よし。参加登録証も、招待状も、ちゃんと入ってるね」

 

 らでんは革の書類ケースの中身を確かめ、自分のハンターライセンスのカードと一緒に、内ポケットの奥へと大切に収めた。

 

 今回のヨークシンシティへの旅には、誰かから頼まれた調査の仕事も、危険な遺物の回収任務もない。自分自身がハンターとして働いて貯めてきたお金で、ずっと欲しかったこのヴァレーヌの絵を自腹で買いに行くこと。そして、現地へ集まる仲間たちと五人で、ReGLOSSとしてのデビュー配信を行うこと。その二つの大きな楽しみだけが、今回の渡航の目的だった。

 

 机の上の携帯電話が、ピロン、と軽快な音を立てて光る。

 

 画面を見ると、奏からの『らでん、荷造り終わった? マイクの変換プラグ忘れないでよー!』というメッセージと、それに続く青や莉々華、はじめからの賑やかな返信が並んでいた。らでんも笑いながら『もうばっちり詰めました! 現地で会うの楽しみにしてるね!』と打ち返す。

 

 六月に飛行船の発着場で手を振って別れたゴンとキルアも、今ごろはくじら島を出て、約束していたヨークシンシティへ向かっているころだろう。

 

 パチン、パチン、とスーツケースの二つの錠前を閉める音が、夕暮れの部屋に心地よく響いた。

 

 らでんはスーツケースを引き起こして玄関の脇へ並べ、窓の外に広がる茜色の空を見上げた。明日の八月三十一日には、飛行船に乗ってヨークシンシティへ降り立つ。再会する少年たちの笑顔と、百年前の港町の絵と、五人でマイクの前に立つ最初のステージを思い描きながら、らでんは翌朝の出発に向けて部屋の明かりを落とした。

 


 

【らでんの念能力・簡単な整理】

 

《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》

 

 物に残った断片的な記憶を読む。来歴や扱い方を調べる手がかりになるが、実物や史料との照合も必要。

 

《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》

 

 死後念を宿した品物の原本を保管する念空間。鍵と扉を介して入り、行き先に同意した相手を招ける。

 

《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》

 

 調査・登録した品の記録をまとめ、復元品を取り出して使う本。原本は館に保管し、一度取り出した復元品は閉本後も維持できる。

 

館外で使う場合

 

 誰が、どの品を、何のために使うかを記録して借り出す。館内の利用とは別の手続きが必要になる。

 

 探索絵・暦・刀の働きは、それぞれの収蔵品に残る念によるもの。上の能力は、それらを調べ、守り、扱うためのらでん自身の仕組みである。

 


 




らでんの念能力やこれまでの来歴について確認したい場合は下記のリンク先をご参照ください。
https://sekai-shushu-cho.pages.dev/guide#collection-3
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