第十一話 ヨークシンシティへ
雲の切れ間から傾き始めた八月最後の陽射しが、眼下に広がる巨大な街の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
飛行船の丸窓に額を近づけたらでんは、高度を下げるにつれて大きくなっていく石造りの街並みと、その合間を縫うように聳えるガラス張りの高層ビル群へと目を凝らした。碁盤の目のように走る広い大通りには、豆粒ほどの車や路面電車が絶え間なく行き交っている。
けれど、街の建物の高さ以上にらでんの目を引いたのは、大通りの街灯や発着場の連絡橋にずらりと並んだ、深い臙脂色と金色の垂れ幕だった。
まだ文字までは読めない距離なのに、風に揺れるその配色の列を見ただけで、胸の奥が自然とトクトクと速く鳴り始める。九月一日からこのヨークシンシティで幕を開ける、秋季正規オークションの案内旗だ。
『まもなく当機は、ヨークシンシティのリンゴーン空港へ着陸いたします。ご搭乗のお客様は、手荷物を今一度お確かめの上――』
客室内に流れるアナウンスを聞きながら、らでんは足元に置いた肩掛け鞄の口をそっと開け、一番手前に差してある厚手の出品目録の角を指先で撫でた。内ポケットの革ケースには、事前手続きを終えた参加登録証と招待状、それにハンターライセンスが並べて収めてある。襟元の細い紐にはいつもの鋼の雪玉が下がり、左手首の袖口の下には、かつてジンから渡された古いミサンガが馴染んだ感触で巻かれていた。
やがて着地の軽い揺れが伝わり、巨大な船体が静かに落ち着いた。
タラップを降りて到着ロビーへ足を踏み出すと、空調の効いた高い天井の下に、幾つもの言葉や足音が混ざり合う独特の熱気が満ちていた。
普段の季節でも大陸有数の大都会だが、八月三十一日の今日は、明らかに人の流れの密度が違う。仕立ての良いスーツに革鞄を提げた画商らしい男女や、分厚いファイルを手にしたコレクター、さらには頑丈なジュラルミンケースを台車に積んで運ぶ警備会社の係員たちが、同じ到着ゲートから次々と吐き出されていく。
手荷物受取所のターンテーブルから自分の大きなスーツケースと、大型手荷物として預けていた衣装ケースを引き上げながら、らでんは隣の搬出レーンを通っていく木枠の貨物へ思わず視線を奪われた。
湿気と衝撃を防ぐ二重梱包の木箱に、美術品輸送専用の赤い封印紙が貼られている。どこのギャラリーから届いた何世紀の品かは分からないけれど、ああして街のあちこちの倉庫や展示室へ、今この瞬間にも世界中の作品が集まってきているのだと思うと、スーツケースの持ち手を握る指にまで嬉しさが滲んだ。
今回のヨークシン行きには、資料館から頼まれた保存調査も、危ない遺物を引き取る仕事も入っていない。
ハンターになってから自分の足と手で働いて貯めたお金で、学生のころからずっと憧れていた一枚の油彩画を買いに行くこと。そして、この街へ集まる四人の仲間と一緒に、『ReGLOSS』としてのデビュー配信を迎えること。それだけが、らでんがこの街へ降り立った理由だった。
ロビーの案内板で市内へ向かう乗合バスの乗り場を確かめ、らでんは二つのケースを転がしながらターミナルの外へと出た。
外気に触れた瞬間、乾いた石畳の匂いと、どこか遠くの露店から流れてくる炒りたての珈琲豆の香りが鼻先をくすぐった。まだ日向には夏の終わりの熱が残っているものの、ビルの谷間を抜けてくる風は驚くほどさらりとしていて、季節が九月へ切り替わる一歩手前にいるのだと肌で分かる。
予約しておいた宿は、大通りの騒がしさから二本ほど裏手へ入った、煉瓦造りの落ち着いた中規模ホテルだった。競売の本会場まで歩いて行ける距離でありながら、夜に部屋でマイクを繋いで音声の最終確認をしても、外のクラクションや歓声が入りにくい場所を莉々華と一緒に地図で探して選んだのだ。
「いらっしゃいませ。ご宿泊の儒烏風亭様ですね。本日よりのお部屋をご用意しております」
フロントの係員に名前を告げて鍵を受け取り、エレベーターで四階の客室へと上がる。
重厚な木のドアを開けて中へ入ると、部屋は一人暮らしのワンルームよりも少し広いくらいの、清潔で機能的な造りだった。窓際には幅の広い書き物机があり、ベッドの向かいには観音開きの木製クローゼットが備え付けられている。
らでんはまず、一番気を使う衣装ケースをクローゼットへ運び、中でジャケットの肩やプリーツが寄っていないかをハンガーに掛け直して確かめた。先日莉々華が手配して右肩を詰めてくれたおかげで、生地の張りも綺麗なままだ。続けてスーツケースからヘッドセットとオーディオインターフェース、それに奏から念を押されていた変換プラグの小袋を取り出し、書き物机のコンセントの位置と LAN 端子の口を目で追って並べていく。
そこまで一気に手を動かしたところで、らでんは肩掛け鞄から出品目録を取り出し、机の椅子へ腰を下ろすよりも早く、しおりを挟んだページをぱっと開いた。
昨日も自分の部屋で散々眺めたはずの小さな印刷写真なのに、ヨークシンのホテルの机で見下ろすと、まるで紙面の向こうの空気がすぐ隣の通りまで来ているような気がしてならない。
時計の針は、まだ午後の三時を少し回ったところだった。
本競売の当日にいきなり会場へ乗り込むつもりは、最初からなかった。正規オークションでは、入札の前に出品作の実物を自分の目で確かめられる下見の時間が設けられている。その会場の入り口がどこで、事前登録証の提示にどんな手順が要るのか、明るいうちに自分の足で歩いて確かめておきたかった。
「……よし。まだ窓口も開いてる時間だし、ちょっと様子を見に行ってみよう」
らでんは大きな荷物を部屋に残し、参加登録証と招待状の入った革ケース、ハンターライセンス、それに会場案内図を挟んだ出品目録だけを肩掛け鞄へ入れて、弾むような足取りで部屋を出た。
◇ ◇ ◇
ホテルを出て表の大通りへ合流すると、午後遅くの傾いた日差しの中、街はさらに華やかな活気を帯びていた。
石造りのアーケードが続く通りには、老舗の古美術商や画廊が軒を連ねており、どのお店も競売期間に合わせて普段は奥にしまっているらしい目玉の品をショーウィンドウへ飾っている。銀器のティーセット、古い時代のタペストリー、まだ作者名も分からない小さな素描。らでんは信号待ちのたびにガラスの向こうへ目を走らせ、額縁の留め具や木枠の古色に気がついては、一人で小さく頷いた。
こうして街全体が「これから良いものが動くぞ」とざわめいている空気の中に立つと、いつもの調査の仕事で地方の収蔵庫を訪ねるときとはまた違う、むず痒いような高揚感が足の裏からせり上がってくる。
大通りを十分ほど歩いた先で、ひときわ高い石柱とドーム屋根を備えた古典様式の建物が見えてきた。秋季正規オークションで、絵画部門の下見と競売が行われる建物だ。
正面の広い石段の下にはすでに仮設の案内所が設けられており、明日の開場に向けたロープの設営や、搬入車両の誘導が慌ただしく行われている。らでんは一般の通行人を避けて、事前登録者専用の案内窓口へと歩み寄った。
「こんにちは。明日からの絵画部門の下見と競売について、事前の登録証の確認をお願いしたいんですけれど」
窓口の向こうにいた案内係の女性が、らでんが差し出した革ケースから参加登録証と招待状を受け取り、手元の台帳端末と照合する。
必要な事前登録は済ませてある。係員はカード番号と顔写真を確かめると、すぐに丁寧な手つきで登録証へ確認済みの刻印を押し、薄い封筒に入った会場図と番号札の引換券を差し出した。
「儒烏風亭様、ご登録の確認が完了いたしました。ロット番号一〇〇番台からの近代絵画部門は、明日九月一日の午前十時より、本館二階の第二展示室にて下見の公開を開始いたします。なお、展示室内へのカメラや録音機器のお持ち込みは制限されておりますので、ご入場の際は一階クロークへお預けください」
「はい、分かりました。あの、出品目録に載っていた付属資料――過去の書簡や所蔵台帳の閲覧も、同じ二階でお願いできるんでしょうか?」
「ええ、第二展示室の奥に資料閲覧カウンターがございます。こちらの確認証をご提示いただければ、該当ロットの来歴ファイルをご覧いただけますよ」
「ありがとうございます!」
両手で書類を受け取って窓口を離れると、らでんはホール横の街路樹の下にある石のベンチへ腰を下ろし、もらったばかりの館内図を膝の上で広げた。
二階の第二展示室。入り口から入って三つ目の壁面区画に、一〇〇番台前半の油彩画が並ぶ予定になっている。
らでんは出品目録を開き、もう一度ヴァレーヌの《我々はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか》の図版と解説欄へ目を落とした。
一八九四年、エリアス・ヴァレーヌが南方の港町に滞在して描いた、横長の群像画だ。画面の左端では若い女性が幼子を抱き、中央では港の仕事を終えた人々がそれぞれの歩調で家路につき、右端の深い木陰では、ひとりの老人が地面に腰を下ろして遠くを見つめている。同じひとつの地面にいながら、同じ夕暮れとも夜明けともつかない柔らかな光を浴びながら、描かれた人々は誰ひとりとして同じ方向を見ていない。
この絵には、らでんが《
けれど、らでんがこの絵を欲しいと思う理由は、まさにそこにあった。
印刷されたカタログの小さな写真では、右端の木陰に座る老人の周りは、ただ暗い茶色の塊にしか見えない。けれど、学生時代に専門書の拡大図版を見たときは、その木陰の中にも、ごく薄い群青色やオリーブ色の筆致が重なって見えた。港の水面に落ちる光の粒も、目録の印刷では平らに潰れてしまっている。実物のカンヴァスを斜めから見たら、あの絵具の盛り上がりはどんなふうに光るのだろう。照明や立つ位置で変わる色を、自分の目で追ってみたかった。
画家の死後、遺族から画商の手へ渡り、それからエルデン家で二代にわたって大切に所蔵されてきた一枚。今回はその旧蔵家の整理に伴う正規の出品で、当時の書簡や画商の台帳も揃って閲覧できるという。
誰かに頼まれた調査ではなく、自分がこれから先、自分の手元へ迎え入れるために、カンヴァスの裏の木枠の楔や、ワニスの黄変の具合、そして二代の持ち主がどんな環境でこの絵を守ってきたのかを、自分の目で確かめられる。
「……明日には、すぐそこの二階で本物に会えるんだ」
膝の上の目録を閉じてホールの高い窓を見上げると、西日に照らされた石壁が琥珀色に輝いていた。明日からの数日間がどんなに忙しいものになるか考えるだけで、らでんはひとり、ベンチの上で小さく靴先を揺らした。
◇ ◇ ◇
帰りがけに通りがかったベーカリーで、焼きたてのミートパイと野菜のスープを買ってホテルへ戻ると、窓の外はすっかり群青色の夜に変わっていた。
らでんはシャワーを浴びて動きやすい部屋着に着替え、机の上でノートパソコンを開いた。ホテルの回線にケーブルを繋いでヘッドセットを耳へ当てると、画面の端に開いていた『ReGLOSS』の専用サーバーで、ちょうど数分前に新しい文字が跳ねたところだった。
画面に並んだ文字を読んで、らでんもキーボードへ指を走らせた。
メッセージを送信した直後、画面上の通話チャンネルのアイコンが緑色に光り、奏と莉々華、そして青のアイコンが次々と並んだ。らでんもマウスをクリックして音声通話へ接続する。
「――あ、もしもし? らでん、ちゃんと声聞こえてる?」
ヘッドセットの奥から、真っ先に奏の明るく澄んだ声が飛び込んできた。文字で読むのとは違う、少し弾んだ息遣いまで伝わってきて、らでんの口元が自然とほころぶ。
「うん、ばっちり聞こえてるよ、奏ちゃん! 最終データ、もう見た?」
「うん、自分のパートを確認してたところ。ていうか、らでん、昨日私が言ったマイクの変換プラグ、ほんとに忘れずに持ってきた?」
「持ってきたってば! 今まさに、その変換プラグを挿してこのヘッドセットで喋ってるんだから、疑わないでよ!」
「えへへ、ならよかった! だってらでん、出発前にオークションのカタログばっかり見てるって言うから、絶対ケーブルの一本くらい机の上に置き忘れてくると思ってたんだもん」
奏がくすくすと笑う声に重なって、今度は青の柔らかな声が割り込んできた。
「いやあ、でも奏ちゃんの心配もあながち外れてないんじゃないかな。ねえ、らでんちゃん、さっき通話繋いだ瞬間、マイクのすぐ近くで『パサッ』って分厚い紙をめくる音がしなかった?」
「えっ!? うそ、今そんなに音入ってた!?」
らでんは思わず机の左脇に置いていた出品目録の上へ両手を被せた。パソコンの画面の向こうで、青が肩を揺らして笑っているのが目に浮かぶようだった。
「やっぱり開いてたんだ。いいなあ、そんなに楽しみな絵があるなんてさ。らでんちゃんの声を聞いてるだけで、僕までちょっとそわそわしちゃったよ」
「そうなの! さっき明るいうちに会場の場所だけ確かめに行ってきたんだけど、通りのお店のウィンドウもすごいし、明日から実物の下見ができるって思うと、もうじっとしてられなくて」
「あはは、らでんちゃんらしいね! あ、今はじめちゃんも通話に入ってきたよ」
莉々華の言葉と同時に、ピコン、と軽い接続音が鳴り、少し眠たげでありながらも芯の通ったはじめの声が響いた。
「おーっす。ごめんごめん、シャワー浴びて髪乾かしとったらちょっと遅れた。莉々華が上げてくれた四日のMVデータ、今スマホの方でも一通り見たよ」
「お、ありがとう、はじめちゃん! どうだった? サビ前の五人でV字へ開くところ、こないだのスタジオで青くんが言ってた通りに別テイクの方を繋いでみたんだけど」
「うん、あれめちゃくちゃ良いと思う! 奏のターンでスカートがふわって広がるタイミングと、青が半歩引いて視線を通すところがぴったり噛み合っとるし、そのすぐ後ろかららでんが高音で入るところも、音の抜けがすごく気持ちよく聞こえたよ」
はじめが具体的な箇所を挙げて褒めてくれると、奏が「やったあ!」と声を弾ませ、青も「よかった、あそこ気になってたんだよね」と嬉しそうに息を吐いた。
五人が年末のスタジオで初めて顔を合わせてから、春、夏と季節を重ねてきた時間が、その短いやり取りの端々に自然と滲んでいる。九月四日にはいよいよ告知とMVが世に出て、九月九日には青、奏、莉々華の三人、そして翌十日にはらでんとはじめの初配信に続いて、五人全員での初コラボ配信が控えていた。それぞれの予定に合わせて現地へ集まる段取りを進めているけれど、こうしてヘッドセット越しに声を合わせるだけで、いつもの防音スタジオの鏡の前に並んでいるような安心感があった。
「あ、そうだ。ねえ奏ちゃん、人の変換プラグのこと心配してくれたけど、奏ちゃんこそ、こないだスタジオに忘れかけてたのど飴と予備の充電器はちゃんと鞄に入れたの?」
「うっ……! じゅ、充電器はちゃんと入れたよ! のど飴は、その……さっき駅前の薬局で新しいのを二袋買いました」
「ほらあ! やっぱり一個忘れてるじゃん!」
「だって、出発前に歌い直したハモリの確認してたら、テーブルの隅に置いたままになっちゃったんだもん!」
むきになって言い返す奏に、らでんと莉々華、青、はじめの四人が一斉に吹き出した。
誰かが先生として上から引っ張るのでも、誰かが一人で全部を背負い込むのでもない。踊りのキレならはじめが一番で、画面全体の構成や衣装の段取りなら莉々華と青が頼りになり、歌のブレスなら奏が背中を支えてくれる。その中でらでん自身も、自分の声と身体で五人の輪の一角を担っているのだと感じられることが、たまらなく誇らしかった。
「よし、じゃあ四日の公開データはこの形で確定にするね! 本番の九日と十日に向けて、現地でスタジオ入りする日時の連絡はまた明日流すから、今夜はみんなゆっくり休んでね」
「はーい、莉々華、編集ほんとにお疲れさま!」
「おやすみー、またね!」
口々に挨拶を交わして通話が切れると、らでんはヘッドセットを外して机の上へ置き、心地よい余韻の中で大きく伸びをした。
そのとき、机の隅に置いていた携帯電話が、ブルル、と控えめな振動を立てて着信を告げた。
画面に表示された名前を見て、らでんの目がぱっと輝く。六月に天空闘技場の発着場で別れた、ゴンからの電話だった。
「もしもし、ゴン君!?」
『あ、らでんさん! よかった、夜遅いかなって思ったんだけど、ちゃんと繋がった!』
受話器の向こうから、潮風と太陽をそのまま詰め込んだような、ゴンの元気いっぱいの声が飛び込んできた。すぐ後ろで『おい、あんまりデカい声出すなって、耳がキンキンするだろ』とぼやくキルアの声も聞こえてきて、らでんは思わず声を上げて笑った。
「ふふ、二人とも、明日の待ち合わせは大丈夫そうですか?」
『うん! 明日の朝にはヨークシンに着くよ! それで、らでんさんとどこで待ち合わせしようかってキルアと話してたんだ。らでんさんも、もうヨークシンにいるの?』
「ええ、私も今日の午後に到着して、ホテルに荷物を置いたところです。くじら島はどうでしたか? ミトさんにもちゃんと会えました?」
『うん! ミトさんのことも、島でキルアと遊んだことも、それに見つかったすごい手がかりのことも、話したいことがいっぱいあるんだ!』
電話口で身を乗り出しているらしいゴンの気配が伝わったのか、受話器の向こうでガサッと音がして、キルアの声に代わった。
『もしもし、らでん? こいつに電話口でしゃべらせると、今から朝まで島の話を全部始めそうだから代わったわ』
「あはは、ありがとう、キルア君。二人が元気そうでよかったです。明日の一日、お時間大丈夫ですか?」
『ああ、ばっちり空いてるぜ。お前、明日はその絵の下見とかもあるんだろ? だったら、あんまり遅くならねーうちに一回会おうぜ』
「そうですね、私の下見は午前十時から展示室が開くんですけれど、閉まるまでずっと中に入りっぱなしというわけではありませんから。むしろその前に、まず二人と顔を合わせたいな」
『よし、じゃあ朝のうちに会おう。場所はどこがいい? 中央駅の近くなら分かりやすそうだけど』
「中央駅なら、私のホテルからも歩いて行けますよ。駅前の広場に、高い時計塔があるんです。あの大きな時計の下で、明日の朝九時に待ち合わせはどうですか?」
『駅前の大時計の下に朝九時だな。オーケー、そこなら分かりやすいし、こいつが迷子になる心配もねーや』
『ちょっとキルア、オレだって時計の下くらいちゃんと分かるよ! ――じゃあね、らでんさん、明日の朝九時に時計の下でね!』
「はい、明日の朝九時に。お土産話、楽しみにしていますね!」
通話終了のボタンを押して携帯電話を胸元へ抱き寄せると、静かなホテルの部屋の中に、六月のあの明るい青空が戻ってきたような温かさが広がった。
明日になれば、ひと夏を越えてさらに逞しくなったであろう二人に会える。それから会場へ行って、百年前のヴァレーヌの絵と対面するのだ。
らでんは机の上のパソコンを閉じ、目覚まし時計を翌朝の七時に合わせてから、ベッドのサイドランプのスイッチを落とした。
◇ ◇ ◇
翌朝、カーテンの隙間から差し込む澄んだ朝の光で目を覚ましたとき、時計の針は七時少し前を指していた。
カレンダーの数字が八月三十一日から九月一日へと切り替わった、最初の朝だ。
らでんはベッドから起き上がると、洗面所で冷たい水を使って顔を洗い、鏡の前で髪を整えてから、街を歩きやすい落ち着いた色合いのブラウスとロングスカートに着替えた。
それから部屋の絨毯の上で足を肩幅に開き、目を閉じてゆっくりと息を吐き出す。
六月にゴンやキルアと一緒に毎朝欠かさず続けていたのと同じ、静かな『燃』と、《纏》・《練》の確認だ。自分の身体の周囲を包むオーラが、朝の涼しい空気の中で淀みなく巡り、指先から足裏まで均等な密度で保たれているのを確かめてから、静かに呼吸を戻す。
待ち合わせの九時までは、まだ一時間半ほど余裕があった。
月が替わった最初の朝に、らでんが必ず済ませておく大切な習慣がある。
らでんは襟元から細い紐を引き出し、青みがかった丸い鋼の雪玉を右の掌へと乗せた。そのまま向かったのは、部屋の入り口のドアではなく、昨日衣装ケースを収めた木製のクローゼットの扉だ。
一度クローゼットの扉を閉め、真鍮のノブの下にある小さな鍵穴へ、掌の鋼の雪玉をそっと押し当てる。
ひんやりとした丸い鋼の凹凸を鍵穴に触れさせたまま、指先から静かにオーラを通わせる。
カチャリ。
部屋の中に、小さく澄んだ金属音が響いた。
らでんが真鍮のノブを握って手前へ引くと、そこにはもう、衣装ケースの吊るされた狭い収納スペースはなかった。磨き込まれた灰白色の石畳の床と、高い天井から柔らかな暖色の照明が降り注ぐ、静かなエントランスホール――らでんの《発》である《
六月にゴンとキルアを案内したときと同じ、一定に保たれた少しひんやりとした空気が頬を撫でる。らでんは一人で石畳の上へ足を踏み入れ、後ろ手で木の扉を閉めた。
カツン、と扉が枠に収まると、外の世界の微かな車の走行音も空調の音もすべて途絶え、美術館特有の深い静寂だけが満ちる。
回廊のガラスケースには、これまでにらでんが《
らでんは三枚の連作額が掛かった区画を通り過ぎ、その隣の低い展示台へと歩み寄った。
台の上には、厚手の和紙にも似た紙を綴じた大判の装飾暦――《
いま開いている八月のページには、向日葵や麦わら帽子の縁飾りと、先月浮かび上がった丸みのある筆跡が残っていた。
「……さて。九月は、どんな一か月になるかな」
らでんは展示台の前に立ち、八月のページの右下へそっと指先を添えて、厚手の紙をゆっくりと上へめくった。
新しく現れた九月のページの四方には、秋草や栗の実、小さな薬缶、そして枝に止まる小鳥の図柄が、版画家だった故人の丁寧な彫り跡そのままに刷り出されている。
めくった直後の数秒間、中央に並んだ三十日分の日付の枠は、まだ真っ白なままだった。
やがて、月が替わってから最初にページをめくった本人のオーラに応じるように、和紙の表面へじんわりと温かなインクの色が滲み出し、故人の手書きそのままの丸みのある筆跡が、ひとつずつ日付の欄を埋めていく。
ひと月に一人だけ、一度きりしか浮かび上がらない当月の予定だ。同じ月にめくり直して別の人の分を出すことも、十月以降のページを先にめくって見ることもできない。
らでんはまず、今日である『一日』の枠へと目を向けた。
そこには、優しい黒インクの筆跡で、こう記されていた。
――『ヨークシン/下見/待合せ』。
そして、その文字のすぐ横に、小さな『灯』の印が添えられている。
灯の印が意味するのは、すでに縁のある相手との再会だ。競売そのものを表す印ではないし、誰と何人で会うかまで具体的に描かれるわけでもない。それでも、これから時計の下で会う約束をしている少年たちの顔が自然と浮かんで、らでんの胸に柔らかな灯りがともった。
そのまま視線を右へと滑らせ、二日、三日と目を移し――同じ段の『四日』の枠で、らでんの視線がぴたりと止まった。
息が、喉の奥で小さく詰まる。
白く明るい和紙のページの中で、その『四日』の四角い日付枠ひとつだけが、まるで湿った灰を刷り込んだような鈍い『灰色』に染まっていたのだ。
灰色はページ全体へ広がっているのではなく、四日の日付の枠の中に収まっている。その背景の上にも、文字と印ははっきりと読み取れる濃さで浮かび上がっていた。
ただ、そこに記された二文字は、いつもの優しい黒インクではなかった。
――『面会』。
鮮血にも似た、鮮やかな『赤字』だった。
しかも、その赤い『面会』の横には、再会を示す『灯』も、初対面の相手を示す『扉』も描かれていない。代わりにぽつんと添えられていたのは、針先のように尖った小さな『黒い星』の印ひとつだけだった。
「……っ」
らでんは思わず展示台の縁に両手をつき、顔を近づけて四日の枠を凝視した。
場所の具体名はどこにも書かれていない。相手の名前も、人数も、時刻もない。ただ、灰色の四角い枠の中に、赤い『面会』の文字と、黒い星が並んでいる。
この《来月もここで》を収蔵したとき、過去の持ち主たちの記録と照らし合わせて確かめた印の意味が、頭の中で鮮明に蘇った。
赤字で記される予定は、らでん自身の
そして黒い星は、本人がまだ危険だと自覚する前から、らでん自身に災いや危険を招く相手との接触を示す印である。この黒い星が出る接触には、既存の縁を示す灯も、初対面を示す扉も決して重ならない。相手が今どんな顔をしてどこにいるのか、初対面なのかそうでないのかさえ、黒い星は教えてくれないのだ。
さらに、その一枠だけを塗潰す灰色の背景。
それは、必ずしも誰かがその場で命を落とすという確定の処刑宣告ではないし、らでん自身の死亡日を告げるものでもない。灰色が示すのは、本人が
「四日に……私が誰かと面会して、そこで大きな選択をして……悲しい別れか、誰かの死を知る……?」
自分の唇から漏れた低い声が、静まり返った館の石畳に吸い込まれていく。
九月四日といえば、莉々華が編集してくれたReGLOSSの告知動画とMVを公開する日であり、街ではオークションが真っ最中の時期でもある。
けれど、今のらでんには、四日に誰と『面会』することになるのか、まったく心当たりがなかった。今日これからの自分の行動を変えればこの文字が消えるのかといえば、そうではない。この暦は一度浮かび上がったあと、本人の動きに合わせて文字が書き換わったり、色が消えたりする便利な画面ではないのだ。
背中を、館の空調とは別の冷たいものがすっと通り抜けていった。
暦が示しているのは、三日後の九月四日、危険を招く誰かとの『面会』に重要な選択と灰色の別離が重なる未来だ。紙面の文字は変わらなくても、これからの自分の行動まで決まっているわけではない。
らでんは展示台の前で、ぎゅっと自分の両手を握り締めた。
怖い、と思わないはずがなかった。
親しい相手の死を知るか、大きな別離を経験する。その言葉が、昨夜電話越しに聞いたばかりのゴンとキルアの明るい声や、ヘッドセットの向こうで笑い合っていた奏、青、莉々華、はじめの顔を次々と掠めていく。誰のことを指しているのか分からないからこそ、想像はいくらでも悪い方へ広がりそうになる。
けれど、らでんはそこで深く、長い息を吐き出した。
目を閉じ、左手首のミサンガの感触と、胸元の鋼の雪玉の冷たさを指先で確かめる。
相手の本名も能力も場所も書いていない以上、今この展示台の前で何時間睨み続けても、四日の答えが紙面から湧いてくることはない。かといって、まだ起きてもいない四日の影に怯えて、今日一日の『待合せ』や『下見』まで全部投げ出し、部屋の隅で震えているつもりもなかった。
今日の一日の欄には、ちゃんと『灯』がついている。
もちろん、灯があるからといって今日が絶対に安全だという保証にはならないし、空白の日なら何も起きないというわけでもない。けれど、分からない未来に呑み込まれて今できる手順まで見失うのは、ハンターとしても、大事な品物を預かる館の主としても、一番やってはいけないことだ。
「……よし。分からないなら、四日が来るまでに、私にできる備えを全部やっておこう」
らでんは顔を上げ、もう一度だけ九月一日と四日の枠をしっかりと目に焼き付けてから、装飾暦の台を離れた。
◇ ◇ ◇
エントランスの木の扉へ鋼の雪玉を当て、オーラを通してノブを引くと、朝の光が満ちるホテルの客室がそのままの姿で迎えてくれた。
部屋へ戻ってクローゼットの扉を閉め、もう一度ノブを引いて普通の収納スペースに戻っていることを確かめてから、らでんはすぐさま書き物机へと向かった。
時計の針は八時を少し回ったところだ。九時の待ち合わせまで、まだ時間がある。
らでんはまず、肩掛け鞄から自分の手帳を取り出し、白紙のページを開いた。
四日の『面会』がどこで、どんな形で持ちかけられるのかは分からない。けれど、もしその前後に自分が誰か危険な相手と接触することになるのなら、一番避けなければならないのは、仲間たちと連絡が途絶えたまま孤立すること、そして一般人である青や奏、莉々華を自分の都合で危ない場所へ近づけてしまうことだった。
らでんは携帯電話を手に取り、同じハンターであり、気兼ねなく背中を預けられるはじめの個別連絡先を開いて、短いメッセージを打ち込んだ。
大げさに怖がらせるような言葉は使わず、それでも「いつどこで誰と会うかを曖昧にしない」という具体的な線を先に引いておく。送信して一分もしないうちに、ピロン、と軽快な音が鳴って返信が届いた。
画面に並んだ頼もしい文字を見て、らでんの肩からすっと余計な力が抜けた。
続けてらでんは、机の上に広げてあったヨークシンシティの市街図を手帳の横へ引き寄せた。
ホテルから今日これから向かう中央駅前の大時計までの道筋と、そのあと十時から下見に入る競売会場までのルートを、赤いペンでなぞっていく。途中で何か起きたとき、鍵穴のある扉を探せそうな公共施設やホテルにも、通り沿いに三か所ほど印をつけた。地図で分かるのは建物の位置までだ。人目を避けて使える扉が本当にあるかは、歩きながら確かめておく必要がある。
念空間の館は、どこでも好きな空間の真ん中に穴を開けられるわけではない。必ず現実の建物にある扉の鍵穴へ雪玉を当てて入る必要があり、通常は帰るときも同じ入口へ戻ることになる。だからこそ、自分が歩く通りのどこで使える扉を探せるか、そしてどこを通って宿へ戻るかという『帰り道』を頭に入れておくことが、今のらでんにできる一番確かな備えだった。
最後に、内ポケットの革ケースを開き、参加登録証、招待状、ハンターライセンスが揃っていることを指先で確かめる。出品目録と市街図を手帳と一緒に肩掛け鞄へ収め、襟元の鋼の雪玉をブラウスの内側へそっと落とした。
鏡の前に立つと、さっき館の中で四日の灰色の枠を見たときの青ざめた表情は消え、いつもの落ち着いた自分の目がこちらを見返していた。
四日に何が起きるのかは、まだ分からない。
けれど、今日は九月一日だ。
もうすぐ、駅前の大きな時計の下で、くじら島の海風をたっぷり浴びてきたゴンとキルアに会える。たくさんの土産話を聞きたい。そしてその後には、一八九四年にヴァレーヌが描いた、あの南方の港町の絵が待つ展示室が開くのだ。
「――よし。行ってきます」
らでんは肩掛け鞄のベルトをしっかりと握り直し、部屋の鍵を抜いてドアを開けた。
廊下を抜けてホテルの正面玄関から外へ踏み出すと、九月最初の朝の光が、競売の垂れ幕が揺れる石畳の通りを眩しく照らし出していた。行き交う人々の足音と路面電車の鐘の音が響く街の真ん中へ、らでんは中央駅前の時計塔を見据えて、軽やかに最初の一歩を踏み出した。