儒烏風亭らでんと蜘蛛と奇術師   作:今日も元気ですマン

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第十二話 九月一日①

 

 八月三十一日の午後遅く、ヨークシンシティの中心街を見下ろす高級ホテルの最上階スイートには、表通りの華やかな喧騒とは切り離された、乾いた緊張が満ちていた。

 

 大きく取られた窓ガラスの向こうでは、西日に照らされた石造りの大通りを無数の車が行き交い、街灯の柱ごとに吊るされた臙脂色と金色の垂れ幕が夏の終わりの風に揺れている。明日から幕を開ける九月の大競売を前に、街全体が熱を帯びてざわめき立っていた。だが、厚い絨毯が敷かれたこの控えの間で動いているのは、表の美術商や観光客が口にする正規のオークションとは別の歯車だった。

 

 部屋の中央に据えられた長いマホガニーのテーブルの上には、封蝋を切られた黒い厚紙の封筒と、磁気コードの入った数枚の入館証、小型の無線機、そして市街の道路網を細かく色分けした地図が並べられている。

 

 クラピカは窓際の柱の近くに立ち、手元の無線機の周波数を合わせながら、テーブルの上に広げられた一冊の控え帳へ静かに視線を落としていた。

 

 革張りの表紙に金の型押しが施されたそれは、明日の夜から裏社会の限られた顧客だけを集めて開かれる、マフィアの地下競売の出品目録だった。

 

「――ええ、承知しております、ボス。お嬢様のご機嫌もよろしいですし、こちらへの移動も滞りなく済んでおります。はい。ご指定の品については、明日の初日分から確実に手配を」

 

 部屋の奥のサイドテーブルの前で、長身の男――護衛団の責任者であるダルツォルネが、受話器を耳に当てたまま恭しく背筋を折っていた。

 

 電話の向こうにいるのは、この護衛団の雇い主であり、ノストラードファミリーの組長であるライト=ノストラードだ。占い師としての異能を持つ一人娘のネオンの言葉を手掛かりに、ここ数年でマフィアの世界でのし上がってきた男であり、今回も、娘が望む品の買付けに大金を用意しているという。

 

「ご安心ください。既存の者に新規の四名を加え、計九名。いずれも実戦に耐えうる手練れを揃えております。ええ、明日には良い知らせをお耳に入れられるかと。――では、失礼いたします」

 

 カチャリ、と受話器が置かれる音がして、ダルツォルネは仕立ての良いスーツの襟元を一度整えてから、部屋の内にいる面々へと向き直った。

 腰に吊るした長剣の柄に左手を添え、値踏みするような鋭い双眸で室内をぐるりと見渡す。

 

 このスイートを臨時拠点として詰めている護衛は、クラピカを含めて九名いた。

 

 壁際のソファの肘掛けに片足を乗せ、小型の通信機と黒い布袋を点検している男がトチーノ。その隣で、長い脚を組んで化粧コンパクトの鏡を覗き込んでいる美女がヴェーゼ。テーブルの端で会場周辺の地図に赤鉛筆で印を入れている男がイワレンコフで、その後ろで予備のバッテリーと拳銃の弾倉を無言でケースへ並べている男がリンセンだ。

 

 さらに、入り口近くの床に置いた水皿の前で、三頭の大型犬の首輪と毛並みを撫でているバンダナ姿のスクワラと、壁に広い背中を預けて腕を組んでいる巨漢のバショウ、そしてクラピカのすぐ隣で静かに両手を重ねて立っている小柄な女性――センリツがいる。

 

 ダルツォルネ、スクワラ、トチーノ、イワレンコフ、リンセンの五名が以前からノストラード家に雇われていた既存組であり、クラピカ、センリツ、バショウ、ヴェーゼの四名が、このヨークシン入りに先立つ採用試験を経て新たに加わった顔ぶれだった。

 

 人里離れた館で行われた採用の場では、トチーノが操る風船のような念人形――《縁の下の11人(イレブンブラックチルドレン)》を使った襲撃の仕掛けや、互いの力量を探り合う小競り合いもあったが、この街へ入ってからはすでに同じ雇い主の下で動く同僚として持ち場の割り振りが進んでいる。

 

「みな、手を止めて聞いてくれ」

 

 ダルツォルネのよく通る低い声に、トチーノが通信機から顔を上げ、ヴェーゼがパチンとコンパクトを閉じた。

 

「たった今、ボスのライト様から改めて通達があった。明日、九月一日の夜から地下競売が始まる。我々の任務は二つだ。第一に、護衛対象であるネオンお嬢様の身辺を完全に守り抜くこと。そして第二に、お嬢様が今回の競売で所望されている出品物を、確実に競り落として手元へ届けることだ」

 

 ダルツォルネはテーブルの上の黒い封筒を指先で軽く叩いた。

 

「地下競売の会場へ入れる人数には、招待状の枠による制限がある。よって、明日の初夜は部隊を三つに分ける。まず会場内へ入り、実際の入札と内部の警戒にあたるのが、トチーノ、ヴェーゼ、イワレンコフの三名だ」

 

「了解。まあ、暗い部屋で札を上げるくらいなら、退屈しなくていいわね」

 

 ヴェーゼが肩をすくめて唇の端を持ち上げると、隣のトチーノが袋の口を縛りながら短く頷いた。

 

「会場内の座席配置と搬出入の動線は、頭に入れてあるからな。イワレンコフとも事前に手筈を合わせておきますよ」

「ああ。通信のテストは日中のうちに済ませておく」

 

 イワレンコフも地図から目を上げ、低く落ち着いた声で応じた。

 

「次に、会場の外周監視に四名を置く」

 

 ダルツォルネの視線が、窓際のクラピカたちへと移った。

 

「正面入り口側の監視は、クラピカとセンリツ。裏口および搬入路側の監視は、バショウとリンセンだ。地下競売は十老頭の管理下にあり、表向きはマフィアの協定によって安全が保証されているが、大金と希少品が集まる以上、何が起きるか分からん。不審な動きがあれば即座に報告しろ」

 

「おう、裏口だな。任せておけ、蟻の子一匹通しゃしねえよ」

 

 バショウが太い腕を鳴らして豪快に請け負い、その横でリンセンが「連絡用の回線は二つ確保しておきます」と静かに付け足した。

 

 クラピカも一拍置いて、簡潔に頭を下げた。

 

「承知した。正面側の見張り位置と連絡の間隔は、明日の午前中に現地を見て詰めておきたい」

「あたしも異存ありません。外の音を拾いやすい場所を、明るいうちに探しておきますね」

 

 隣のセンリツが穏やかな声で続けると、ダルツォルネは満足げに頷き、最後に入り口近くのスクワラへと目を向けた。

 

「そして夜は、私とスクワラがこのホテルに残ってお嬢様の直衛にあたる。お嬢様は気まぐれなところがおありだからな、競売の会場へは入れず、結果の報告だけをここでお待ちいただく手筈だ。スクワラ、フロアの警戒は頼むぞ」

 

「へいへい、分かってますって」

 

 スクワラは床に伏せた茶色い大型犬の耳の裏を掻いてやりながら、少し不貞腐れたように口の端を歪めた。

 

「お嬢様の護衛っていやあ聞こえはいいが、要するにホテルでお守りと留守番ってこったろ。ま、うちの可愛い連中を廊下の要所に座らせときゃ、変な連中がエレベーターを上がってきても匂いと足音で一発で分かるがな」

 

 スクワラが指先を軽く鳴らすと、三頭の犬がまるで人間の言葉を理解したかのように一斉に耳を立て、尻尾をひと振りして姿勢を正した。日頃から餌やりも毛づくろいもすべて自分の手でこなすことで、飼い犬に複雑な命令を聞かせるスクワラ独自の能力だ。

 

「お守りか。大変だな、スクワラ。まあ、その三頭がいれば、少しは楽できるんじゃねえの?」

「楽なもんかよ。こいつらを連れ込むだけでも、ホテルの支配人に散々小言を食らってんだぞ」

「はっはっは、違えねえ。だがその賢い犬っころのお陰で、俺たちが夜中に廊下の見張りで立ちっぱなしにならずに済んでるんだ。ありがたいこった」

 

 バショウが腹の底から笑い、トチーノも苦笑して肩をすくめる。

 

 軽口の応酬に室内の空気がわずかに緩んだそのとき、奥の寝室へ続く両開きの白い扉が、ガチャリと音を立てて内側から押し開かれた。

 

「ねえ、ダルツォルネ! パパからの電話、もう終わったんでしょ!?」

 

 弾むような高い声とともに、フリルのついた華やかなドレスを揺らして、小柄な少女が小走りに控えの間へと入ってきた。

 

 後ろからは侍女のエリザたちが慌てた様子で付き従っている。ノストラード家の令嬢であり、クラピカたちの護衛対象であるネオン=ノストラードだった。

 

 ネオンは護衛たちの視線など気にも留めない様子でテーブルのそばまで駆け寄ると、両手で抱えていた分厚いカタログをバンと卓上へ広げた。先ほどまでクラピカが目を落としていた控え帳と同じ、地下競売の出品目録だ。ただし、ネオンが持ってきた方のページには、赤いリボンや花柄の付箋がいくつも無造作に貼り付けられている。

 

「お嬢様、ちょうど今、明日からの配置をみなに申し渡していたところです」

 

 先ほどまでの威厳ある態度から一転して、ダルツォルネは腰を低くし、柔らかな笑みを浮かべてネオンの横へ歩み寄った。

 

「そんなのどうでもいいから、こっち見てよ! ねえ、明日の最初に出るこの三つ、ぜったいに全部手に入れてよね! パパも、私が欲しいものは何でも落としていいって言ったんだから!」

 

 ネオンの細い指先が、目録のページに印刷された写真を順番に叩いていく。

 

 そこには、表の正規オークションに並ぶような絵画や骨董の類は一つも載っていなかった。

 

 ミイラの写真や、出品物の素性と来歴を記した説明が並んでいる。世界中から闇のルートを通じて集められた、人体収集家向けの品々だ。

 

 そして、ネオンが最後に一番強く指先で押しつけたページに、その写真はあった。

 

 硝子の容器の中に納められた、一対の眼球。

 

 印刷された小さな写真であっても、その虹彩が帯びている深く燃えるような緋色は、他のどんな宝石とも違って見えた。

 

 ――クルタ族の、『緋の眼』。

 

「とくにこれ! この緋の眼、すっごく綺麗でしょ! 私、前からずっと本物を自分の部屋に飾ってみたかったの。光に透かすと、本当に生きているみたいに赤く光るんですって! ねえダルツォルネ、いくらかかってもいいから、絶対に他の人に取られないでよ!」

 

 ネオンの声からは、悪意も後ろめたさも聞き取れなかった。

 珍しいガラス細工や新しいドレスをねだるときと同じように、その丸い瞳が輝いている。

 

 窓際に立つクラピカの視界の端で、午後の陽射しがふっと音を失ったように遠のいた。

 

 ネオン=ノストラードが熱心な人体収集家であることは、この仕事へ応募する前から知っていた。

 

 むしろ、だからこそクラピカはこの護衛の職を選んだのだ。表の市場には決して出てこない同胞の『緋の眼』の行方を追い、それを売買する裏社会のネットワークと地下競売の中心へ最短で入り込むために、収集家である雇い主の懐へ自ら飛び込んだ。ここで見聞きするものの性質くらい、最初から覚悟の上だったはずだった。

 

 それでも。

 

 ガラス容器に浮かぶ赤い双眸の写真と、『部屋に飾ってみたかった』という屈託のない声が鼓膜を打った瞬間、胸の奥底で、冷たく抑え込んでいたはずの塊がじりっと音を立てて焦げた。

 

 目録の粗い印刷と短い解説文だけでは、その眼球がかつて森で暮らしていた同胞の誰のものなのかまでは判別できない。奪われた命のうちの誰が、どんな最期を迎えてあの硝子の中へ閉じ込められたのかも、今の紙面からは分からない。

 

 ただ、共に笑い、同じ言葉を交わした一族の身体の一部が、番号をつけられた『商品』として明日の夜に競りへかけられるという事実だけが、動かしがたい重みをもって目の前にあった。

 

 クラピカは垂らした右手の指先を、誰にも見えない角度でスーツの裾へ軽く添えた。

 瞼を一度だけ伏せ、目の奥に昇りかけた熱を、深い呼吸とともに肺の底へ押し戻す。

 

 ここで雇い主の娘に怒りをぶつければ、これまでの準備はすべて水泡に帰す。今なすべきことは、感情を露わにすることではない。あの緋の眼がどこから運び込まれ、誰の手を経て、明日の夜どこへ動くのか――その現場の最も近い場所へ、確実に自分の身を置き続けることだ。

 

「もちろんでございます、お嬢様。ボスのライト様からも、この三点については予算の上限を問わず競り落とすよう、固く言いつかっております」

 

 ダルツォルネが宥めるように請け負うと、ネオンはぱっと顔を輝かせた。

 

「ほんと!? やったあ! じゃあ、明日の夜にはここへ持ってきてくれるのね! 楽しみにしてるから、絶対よ!」

 

 言うだけ言うと、ネオンは満足したようにカタログをテーブルの上へ残し、再びドレスの裾を翻して侍女たちとともに奥の寝室へと戻っていった。

 

 扉が閉まり、控えの間に再び護衛たちだけの静けさが戻る。

 

 ダルツォルネは小さく息を吐くと、テーブルの上のカタログを閉じ、会場内へ入るトチーノとヴェーゼの方へそれを押しやった。

 

「聞いた通りだ。明日の競売で我々が狙う目玉の一つは、そのクルタ族の眼球になる。会場内へ入る三名は、番号と出品順を確実に把握しておけ」

 

「ええ、しっかり見せていただいたわ。ずいぶん趣味のいいコレクションになりそうね」

 

 ヴェーゼがカタログを引き寄せながら軽く言い、トチーノとイワレンコフも無言でページを覗き込む。出品番号を控える手も、持ち場を相談する声も、止まらなかった。

 

 その中で、クラピカは一歩だけテーブルへ近づき、普段と変わらない落ち着いた声で口を開いた。

 

「ダルツォルネ。一つ確認しておきたい」

 

「なんだ、クラピカ」

 

「その出品物は、落札された後、どのタイミングで我々の手元へ引き渡されることになる? 当日のうちに会場の裏口から直接運び出すのか、それとも翌日に別ルートで配送されるのかによって、外周を監視する私たちの警戒の重点も変わってくるはずだが」

 

 極めて実務的な問いだった。

 

 ダルツォルネは眉をわずかに動かし、新参の護衛がそこまで手順を気にかけたことに感心したように頷いた。

 

「良い質問だ。地下競売の慣例では、その夜の競りがすべて終了した後、代金決済の確認が取れた品から順次、会場地下の引渡所にて落札者側へ手渡される。つまり、明日の夜のうちにトチーノたちが現物を受け取って、このホテルへ持ち帰ることになる」

 

「なるほど。では、競売の開始時だけでなく、終了後にトチーノたちが会場を出る時間帯が、最も狙われやすいということだな」

 

「そういうことだ。正面の貴様らも、裏口のバショウたちも、競りが終わるまでは気を抜くな。以上だ。各自、明日の出発時刻までに機材の最終確認を済ませておけ」

 

 ダルツォルネの言葉で打ち合わせが終わり、護衛たちはそれぞれの持ち場や荷物の整理へと散っていった。

 

 クラピカは自分の無線機を手に取り、周波数のダイヤルをもう一度確かめながら、窓際のスペースへと戻った。外の大通りでは、傾いた太陽がビルのガラス壁を赤銅色に染め上げ、夕暮れの影が石畳の上へ長く伸び始めている。

 

「……クラピカ」

 

 すぐ横から、風鈴が鳴るような静かな声がかかった。

 見下ろすと、センリツが自分の無線機を両手で包むように持ちながら、穏やかな目でこちらを見上げていた。

 

「明日の正面監視、よろしくね。通信機の感度は大丈夫そう?」

 

「ああ、問題ない。予備のイヤホンも受け取ってある」

 

 クラピカが短く答えると、センリツは窓の外の夕焼けへ目を向け、声を落として続けた。

 

「さっき、お嬢様がカタログを開いて、あの一番最後の写真指したとき……あなたの心音、ほんの一瞬だけ、すごく冷たくて速い音に変わったわ」

 

 クラピカの指先が、無線機の角でぴたりと止まった。

 

 センリツは並外れた聴覚を持っており、他人の心臓の音から感情の揺れや嘘を聞き分けることができる。採用試験の館で顔を合わせたときから、彼女がただ者ではない耳を持っていることは分かっていた。

 

 だが、センリツはそれ以上、クラピカの過去や秘密を暴き立てるような言葉は口にしなかった。相手の胸の内にどんな事情があるのかを勝手に決めつけることもせず、ただ隣に立つ同僚として、静かに言葉を添える。

 

「立ち入ったことを聞くつもりはないの。誰にだって、この仕事を選んだ理由は別にあるもの。ただ……明日、もし現場で何かあったとき、隣にいるあたしが知っておいた方がいいことだけ、あったら教えて」

 

 押しつけがましさのない、澄んだ音色の声だった。

 

 心音から感情の波は聞こえても、クラピカが何を背負い、どんな能力と制約を持っているかまでは、センリツにも聞こえているわけではない。それでも、先ほどの一瞬の変化に気づきながら、他の護衛たちの前ではおくびにも出さず、こうして二人きりの窓際でだけ静かに声をかけてきたのだ。

 

 クラピカは数秒間、センリツの穏やかな横顔を見つめ、それから小さく息を吐いた。

 

「……気遣いに感謝する、センリツ。だが、仕事に支障は出さない。私の個人的な事情で、正面監視の持ち場を穴にすることはないと約束しよう」

 

「そう。あなたがそう言うなら、安心したわ」

 

 センリツはふっと柔らかく微笑み、自分の無線機のスイッチを切ってポケットへと収めた。

 

「ただ、あまり一人で張り詰めすぎないでね。明日は昼間から下見や配置の確認で長くなるんだから、今夜はちゃんと眠っておきましょう」

 

「ああ。そうさせてもらう」

 

 センリツが軽く会釈して自分の荷物の方へ戻っていくのを、クラピカは静かに見送った。

 再び窓ガラスへ向き直ると、暮れゆくヨークシンシティの街並みに、一つ、また一つと夜の街灯が灯り始めていた。

 

 あと一日。

 

 明日の夜には、この街の地下で、同胞の緋の眼が競りに出される。クラピカは右手を軽く握り、指に掛かる鎖の冷たさを一度だけ確かめて、静かに窓辺を離れた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 同じ八月三十一日の夕刻。

 

 煌びやかなオークションの垂れ幕や高級ホテルが立ち並ぶヨークシンシティの中心部から遠く離れた、旧市街の外れに、その廃ビルはあった。

 

 かつて工場か倉庫として使われていたらしい鉄筋コンクリートの建物は、窓ガラスの大半が割れ落ち、むき出しになった鉄骨には赤黒い錆が浮いている。周囲には崩れた瓦礫の山と雑草が生い茂り、夕暮れの風が空洞になった窓枠を通り抜けるたびに、ひゅう、と低い笛のような音を立てていた。

 

 だが、その薄暗いホールの中央には、建物の荒廃ぶりとはまるで釣り合わない、濃密で異様な気配が溜まっていた。

 

「――おいノブナガ、てめえさっきからその場所、ちっと邪魔なんだよ。もう少しあっちへ寄れ」

「ああん? なに言ってやがるウヴォー、最初っからここに胡座かいてたのはオレの方だろうが。デカい図体して後から割り込んできたてめえがどけ」

「あ? なんだとコラ、やんのか?」

「おう、いつでもやってやるぜ。ただし、ここで暴れて床が抜けたら団長に怒られんのはてめえだがな」

 

 崩れたコンクリート塊の上で、見上げるような巨漢のウヴォーギンと、腰に長刀を差した総髪の男・ノブナガが、肩がぶつかるほどの距離で睨み合いながら悪態をつき合っている。

 

 一触即発のようでいて、その声には長年背中を預け合ってきた者同士特有の気安さが滲んでいた。

 

 そこから少し離れた鉄骨の柱の根元では、シャルナークが壊れた木箱の上に腰を下ろし、蝙蝠の羽を模した愛用の携帯電話を片手に、膝の上のヨークシン市街図と画面のデータを交互に見比べていた。

 

(さて、と。大通りの交通規制と地下会場周辺のビル配置は、だいたいこんなところかな)

 

 シャルナークは必要なデータを端末に保存すると、ぱちんと携帯電話を閉じ、顔を上げてホールの中をぐるりと見渡した。

 

 ここには今、幻影旅団の団員が一人残らず揃っている。

 

 団長であるクロロから、八月三十日の正午までにヨークシンへ集まるよう招集がかかっていた。今この廃墟には、頭であるクロロと十二本の脚――十三名がいる。

 

 普段は大陸中をそれぞれの気まぐれで動き回っている連中だから、十三人全員がこうして同じ屋根の下に顔を揃えるのは珍しい。

 

 ウヴォーギンとノブナガが小競り合いをしているすぐ後ろの瓦礫の上では、エジプト風の被り物を外して首を回しているフィンクスと、高い襟で口元を隠した小柄なフェイタンが、退屈そうにそちらを眺めている。

 

「また始まったよ、あの二人。さっきから何回同じことで揉めてるか」

「ほっとけよ、フェイタン。ウヴォーの奴、ずっと身体がなまるって喚いてたからな。早く暴れたくてウズウズしてんだろ」

 

 フィンクスが鼻を鳴らすと、すぐ近くの壁に背を預けていたマチが、指先の間で細い念糸を滑らせながら冷ややかに言った。

 

「暴れるのは勝手だけど、仕事の前に怪我してもあたしは縫わないよ」

「はっ、誰こんなもんで怪我するかよ! なあノブナガ!」

「ウヴォー、てめえと一緒にすんな」

 

 そんな賑やかなやり取りの斜め向かいでは、道化師めいた化粧を施したヒソカが、崩れた柱の上で器用にトランプのカードを積み上げては、その細い目を愉しげに細めていた。

 

 さらに、崩れた階段の段差には全身を白い包帯で覆ったボノレノフが静かに腕を組んで座り、その足元の陰には、顔全体を覆うほど長い髪を垂らした小柄なコルトピが、物音一つ立てずにちょこんと膝を抱えている。

 

 壊れた窓枠の近くでは、眼鏡をかけたシズクが手持無沙汰そうに自分の爪先を見つめており、その横では巨漢のフランクリンが、太い丸太のような腕を組んで落ち着いた目でホール全体を見守っていた。

 

 そして、ホールの最も奥。

 

 ひときわ高いコンクリートの台座の上に、黒いコートを纏った男――団長のクロロ=ルシルフルが、開いていた本を静かに閉じて片膝を立てていた。そのすぐ下の段には、脚の長いスーツ姿のパクノダが控え、クロロが口を開くのを静かに待っている。

 

 これで十三人。一人も欠けていない。

 

 クロロが手元の本を脇の石の上へ置いた。

 

 たったそれだけの小さな動作で、ウヴォーギンとノブナガの言い合いがぴたりと止まり、ホールの中にいた全員の視線が自然と奥の台座へと集まった。

 

「さて。明日からいよいよ九月一日、ヨークシンのオークションが始まるわけだけど」

 

 シャルナークが木箱の上から明るい声で切り出すと、フィンクスも身を乗り出してクロロを見上げた。

 

「おう、そうだぜ団長。こうして全員呼んで、まだ肝心の狙いを聞いてなかったよな。今回はこの街で、どのお宝をいただくつもりなんだ? 美術品か、それとも宝石か?」

 

 もっともな疑問だった。

 

 世界中のありとあらゆる財宝が集まるこの街で、わざわざ全団員を強制招集したのだ。よほど厳重に守られた一点物の秘宝か、あるいは特定のコレクションに狙いを定めているのだと考えるのが普通だろう。

 

 だが、台座の上のクロロは、普段とまったく変わらない穏やかで静かな声で、ひどく単純な答えを口にした。

 

「地下競売に出る品物を、全部奪う」

 

 一瞬、廃ビルのホールを吹き抜ける風の音だけが聞こえた。

 

 カードを弄んでいたヒソカの指がわずかに止まり、眼鏡の奥でシズクがぱちくりと瞬きをする。

 

「全部って……地下競売に出品されるお宝を、まるごと全部ですか?」

 

 シズクが素朴な調子で聞き返すと、クロロは迷いなく頷いた。

 

「そうだ。一点や二点じゃない。あの地下競売にかけられる予定の品物を、残らずいただく」

 

 街の表通りで開かれる一般の正規オークションではない。世界中のマフィアが資金源とし、裏社会のあらゆる希少品や贓品が一堂に会する『地下競売』の出品物、そのすべてだ。

 

 マチが組んでいた腕をわずかに解き、鋭い目でクロロを見上げた。

 

「……団長。地下競売を取り仕切っているのは、十老頭よ。そこの商品を全部奪うってことは、世界中のマフィアンコミュニティー全体を敵に回すことになるけど」

 

「そうなるね。あそこはマフィアにとって一番の稼ぎ場だし、警備もメンツもかかってる」

 

 シャルナークも携帯を軽く指で回しながら相槌を打った。

 

 普通の盗賊団なら、マフィアの縄張りで小銭を稼ぐだけでも報復を恐れて震え上がるところだ。だが、ここにいる十三人の中で、その言葉に表情を曇らせる者は一人もいなかった。

 

 むしろ、最初に反応したのは、耳まで裂けそうなほど大きく口を開けて笑い出したウヴォーギンだった。

 

「ぐはははははっ! 全部だとよ! いいじゃねえか、最高だぜ団長! ちまちま選ぶより、その方がよっぽど分かりやすくて気持ちがいい!」

 

「まったくだ。世界中のマフィアが束になってかかってくるってんなら、退屈しなくて済むってもんだぜ」

 

 ノブナガも刀の鯉口を親指で軽く鳴らし、獰猛な笑みを浮かべる。

 

 フェイタンが襟元から細い目を覗かせ、低く確認するように言った。

 

「つまり、会場の中は皆殺しでいいわけね。話が早くて助かるよ」

 

「ああ。手荒にやって構わない」

 

 クロロの黒い瞳には、昂揚も迷いもなかった。まるで明日の天気でも伝えるかのような、どこまでも澄み切った冷たさで、その方針を確定させる。

 

「会場の制圧は任せる。客だろうが護衛だろうが、手加減は要らない」

 

 台座のすぐ下で聞いていたパクノダが、ゆっくりと視線を巡らせて仲間の顔を見渡し、フランクリンが口を開いた。

 

「方針は分かった。だが、初日の明日から全員で会場へ乗り込むわけじゃあるまい。どうやって動く?」

 

「最初は少人数で会場の中へ入り、品物の回収と掃除を済ませる」

 

 クロロは視線を動かし、ホールの中に立つ三人を順番に指し示した。

 

「明日の夜、最初の地下競売の会場へ入るのは、フランクリン、フェイタン、シズクの三人だ。フランクリンとフェイタンで会場内の人間を片付け、シズクが会場を掃除する。品物の回収もシズクが担当だ」

 

「了解した。会場の中でぶっ放す分には、ステージの上からやれば遮蔽物もなくてやりやすい」

 

 フランクリンが太い指の関節を鳴らし、シズクも「分かりました。吸い込む仕事なら任せてください」と淡々と頷く。ボノレノフとコルトピも、それぞれの場所から異議なしとばかりに静かに首を縦に振った。

 

「外周と後詰めの組も決めておく。ウヴォー、ノブナガ、マチ、シャルナークは会場の外から動き、必要なら合流して追跡や後始末にあたる。ヒソカ、フィンクス、パクノダ、ボノレノフ、コルトピは、オレと一緒にここでの待機組だ。状況に応じて順次動く」

 

「クク……初日はお留守番かぁ。まあ、楽しみは後からの方がいいかもね♠」

 

 ヒソカがトランプの束をぱらりと片手でまとめ、含みのある笑みを唇に浮かべる。その胸の内にどんな別の思惑があるのかまでは、シャルナークにも分からない。ただ、こうして任務の場に並び、自分の持ち場を聞いてカードを引く姿は、間違いなく蜘蛛の脚の一本だった。

 

「よし、決まりだな!」

 

 シャルナークは木箱の上から軽やかに立ち上がると、手にしていた市街図を広げてフランクリンとフェイタン、シズクの近くへと歩み寄った。

 

「じゃあ、明日会場へ入る三人には、さっきオレがまとめておいた建物の見取り図と進入ルートを共有しておくよ。地下競売の会場になってるのは、洋館の地下ホールでね。正面と裏口にそれぞれマフィアの見張りが立つはずだけど、換気用の通路と搬入エレベーターの位置はもう割れてる」

 

「ほお、さすがシャル、手が早いね。見せてよ」

 

 フェイタンが地図を覗き込み、フランクリンもその隣へ巨体を寄せた。

 

「正面から招待客が入り切るのを待ってから、裏の搬入路を潰して中へ入るか。時間を合わせれば、外へ逃げ出す連中も出さずに済むな」

「うん。明日の夜、競りが始まる時刻に合わせて動けば、会場の中にいる客も警備も一網打尽にできるよ。シズク、回収の手順は大丈夫そうだよね?」

「うん。邪魔なものを吸う順番だけ、その場で教えて」

 

 ほんの数分前まで、ウヴォーギンとノブナガが場所の取り合いで騒いでいたのと同じ温度のまま、何百人もの人間が集まる会場をどうやって密室にし、どうやって皆殺しにして品物を運び出すかという段取りが、驚くほど滑らかに決まっていく。

 

 報復を恐れる声も、計画に異を唱える声も上がらない。

 

 頭であるクロロが『全部奪う』と決め、脚である自分たちがそれを実行に移す。ただそれだけのことが、この集団にとっては呼吸をするのと同じくらい当たり前の手順だった。

 

「へっ、会場の中の連中だけで全部終わらせんじゃねえぞ、フランクリン! マフィアの増援でもなんでも、外へ引っ張り出してくれりゃあ、オレがまとめてぶっ潰してやるからよ!」

 

 ウヴォーギンが巨大な拳を打ち合わせて豪快に吼えると、ノブナガが「その前に獲物が残ってるといいがな」とニヤリと笑った。

 

 割れた窓の向こうでは、西の空に残っていた最後の赤い光が消え、ヨークシンシティの夜が完全に幕を下ろそうとしていた。

 

 遠くの中心街で明日の競売を待つ無数の灯りを眺めながら、シャルナークは口元にいつもの人懐っこい笑みを浮かべ、明日の夜に向けた機材の確認へと手を動かした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 翌朝、九月一日。

 

 澄み渡った初秋の陽光が、ホテルの最上階スイートの窓から眩しく差し込んでいた。

 

 時刻は午前八時を少し回ったところだ。カレンダーの数字が切り替わり、街がいよいよ秋季大競売の初日を迎えた朝、控えの間ではすでに護衛たちが外出用のスーツや装備を整えて集まっていた。

 

「――各自、無線機の予備バッテリーと連絡用の暗号表は持ったな」

 

 テーブルの前でダルツォルネが最終確認の声をかけると、トチーノ、ヴェーゼ、イワレンコフの会場内組と、バショウ、リンセンの裏口監視組がそれぞれ短く応じた。

 

「抜かりないわよ。日中は会場周辺の道路と、搬入車両の出入りを一通り見ておくわ」

「ああ。裏口の監視場所も、午前中のうちにリンセンと歩いて決めてくるぜ」

 

 バショウがジャケットの肩を揺らし、リンセンが静かに車の鍵を受け取る。夜はホテルに残るスクワラも、廊下へ出す犬たちのリードを手にして入り口の扉の脇に控えていた。

 

 地下競売の開場は今夜だが、護衛たちの仕事は朝から始まる。日中のうちにそれぞれの配置場所と退路、通信の死角を自分の足で確かめ、夜の本番に備える手筈だ。

 

「クラピカ、準備はいい?」

 

 扉の近くで、肩掛けの小さな鞄を持ったセンリツが声をかけてきた。

 

 クラピカは耳元の小型イヤホンに指を当て、ノイズのないクリアな通信音が通っているのを確かめてから、静かに頷いた。

 

「ああ、いつでも出られる。まずは会場の正面通りへ向かい、夜間に見通しの利くビルと連絡経路を確認しよう」

「ええ。朝の空気が澄んでいるうちなら、通りの音の反響もよく分かると思うわ」

 

 昨日の夕方、この窓際で交わした短い会話のあと、センリツは何も詮索しないまま、今朝もこうして穏やかな歩調で隣に並んでいる。まだ組んで間もない相手だが、彼女のその耳と落ち着いた判断力なら、背中を預けて仕事ができるという確かな感触がクラピカの中にはあった。

 

「準備ができたら出てくれ、クラピカ、センリツ。夜の集合時刻には遅れるな」

 

「承知した」

 

 ダルツォルネの言葉に短く応じ、クラピカはセンリツとともにスイートの重い扉を開けて廊下へと踏み出した。

 エレベーターホールへ向かう絨毯の上を歩きながら、クラピカは右手の鎖の重みを、もう一度だけ静かに意識した。

 

 今夜、この街の地下で競売の幕が開く。

 

 雇い主が求める出品物のリストの中に、探し続けてきた同胞の『緋の眼』がある。それがどこから来て、誰の手へ渡ろうとしているのかを突き止めるために、まずは今日一日の護衛の職務を完璧に遂行しなければならない。

 

 エレベーターが到着し、二人を乗せて階下へ降りていく。

 一階のロビーを抜け、クラピカは真っ直ぐに前を見据えたまま、九月一日の朝が始まったヨークシンの街へと足を踏み出した。

 

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