儒烏風亭らでんと蜘蛛と奇術師   作:今日も元気ですマン

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第十三話 九月一日②

 

 ホテルの回転扉を抜けて表の通りへ出ると、朝の澄んだ空気がブラウスの襟元を心地よく通り抜けていった。

 

 時刻は八時二十分を少し回ったところだ。待ち合わせの九時までは、歩いて向かうのにちょうどいい余裕がある。

 

 らでんは肩掛け鞄のベルトを左手で軽く押さえながら、石畳の歩道を中央駅の方角へと歩き出した。大通りの頭上では、昨日見たのと同じ深い臙脂色と金色の垂れ幕が朝の風にはためき、開店準備を始めた画廊やカフェの店先から、石畳を掃く箒の音と焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。

 

 これからゴン君とキルア君に会えると思うと、自然と歩幅が広くなりそうになる。けれど、らでんはそこで意識して靴底の重心を落ち着かせ、先ほど部屋の机で市街図に赤いペンで印をつけた三つの建物を、実際の街並みの中で順番に目で追っていった。

 

 一つ目は、ホテルから大通りへ出てすぐの角にある市立の古い公文書館。石造りの階段の脇に、職員通用口らしい木製の扉があり、真鍮の古い鍵穴がついているのが歩道からでも見て取れた。

 

 二つ目は、路面電車の停留所を二つ越えた先にある老舗の百貨店の裏口。そして三つ目が、中央駅前広場へ入る手前の、レンガ造りの小さな郵便局の脇扉だ。

 

 《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》へ入るには、必ず現実の建物にある扉の鍵穴へ鋼の雪玉を当ててオーラを通す必要があり、外へ出るときも原則として同じ扉へ戻ることになる。地図の上で四角い記号を眺めているだけでは、その扉の前に警備員が立っているのか、それともオートロックのカード式に改装されているのかまでは分からない。こうして自分の足で歩きながら「あそこならいざという時に鍵穴が使える」と確かめておくだけで、今朝見た四日の灰色の枠に対する漠然とした冷たさが、少しずつ具体的な手順へと落ち着いていくのを感じた。

 

 郵便局の角を曲がると、視界が一気に開け、ガラスのドーム屋根を頂くヨークシン中央駅と、その正面に広がる円形の石畳広場が現れた。

 

 広場の真ん中には、白亜の石を組み上げた高い時計塔が聳え立っている。四方を向いた大きな文字盤の長針は、ちょうど九時の五分前を指していた。

 

 通勤客や旅行者が行き交う時計塔の台座のあたりへ視線を走らせた瞬間、らでんは思わず足を速めた。

 

 探すまでもなかった。

 

 石のベンチのすぐ横で、緑色のジャケットを着た黒髪の少年が背伸びをするようにして周囲を見回し、その隣では、銀髪の少年が両手を頭の後ろで組んで何か軽口を飛ばしている。ひと夏の間にくじら島の太陽をたっぷり浴びてきたらしい、懐かしい二人の姿だった。

 

「ゴン君、キルア君!」

 

 らでんが人波の間から手を振って声をかけると、ぴょこんと音を立てんばかりの勢いでゴンの顔がこちらを向いた。

 

「あ、らでんさん!」

 

 ぱっと顔を輝かせたゴンが、ベンチの横からまっすぐに駆け寄ってくる。後ろからキルアもリュックの肩紐を片手で引っ掛けながら、ひらりと人混みをすり抜けて歩いてきた。

 

「おはようございます、二人とも。早かったですね、待たせちゃいましたか?」

 

「ううん、オレたちもさっき着いたばっかりだよ! らでんさん、全然変わってないね!」

 

「お前な、六月半ばに別れてまだ二か月半くらいしか経ってねーんだから、そんなに変わるわけねーだろ。よお、らでん。元気そうじゃん」

 

「ふふ、キルア君も元気そうでよかったです。ていうか二人とも、六月に天空闘技場で会ったときより、また少し背が伸びたんじゃないですか? 日焼けもして、なんだかすごく精悍になってる」

 

 目の前で立ち止まった二人を見比べて、らでんは自然と頬が緩むのを感じた。

 

 六月半ば、天空闘技場の発着場で『またね』と手を振ったときよりも、二人の肩口や立ち姿がいっそう引き締まって見える。しかも、こうしてすぐ目の前に立つと、二人を包む《纏》のオーラが、朝の光の中で以前よりもずっと自然で滑らかな輪郭を保っているのが肌で伝わってきた。

 

「へへっ、くじら島で毎日キルアと山を走ったり、海で泳いだりしてたからね! それに、らでんさんと毎朝やってた『燃』と《纏》の練習も、島で一日も欠かさず続けてたんだ」

 

「ま、あんな何もない島じゃ、森の中で走り回るか海に潜るくらいしか暇つぶしがなかったしな。闘技場で毎日やってた基本の反復よりは、まだマシだったけど」

 

「ちょっとキルア君、二人が頑張ってた毎日の練習を、暇つぶしと同列にしないでくださいよ!」

 

 らでんが眉を下げてみせると、キルアが「へいへい」と肩をすくめ、ゴンがけらけらと声を上げて笑った。

 

 昨夜、電話越しに声を聞いたときも嬉しかったけれど、やっぱり直接顔を合わせて同じ空気を吸うと、胸の奥まで一気に明るくなる。

 

 するとそのとき、広場の横断歩道の方から、ひときわ大きな声が人のざわめきを割って飛んできた。

 

「おーい、ゴン! キルア! 待たせたな!」

 

 振り返ると、仕立ての良い濃紺のスーツに丸いサングラスをかけ、大きな茶色の革鞄を片手に提げた長身の青年が、長い脚で人混みを跨ぐようにしてこちらへ歩いてくるところだった。

 

「レオリオ! こっちこっち!」

 

 ゴンが大きく手を振って応じる。駆け寄ってきたレオリオは、ゴンの横に立つらでんの姿に気づくと、サングラスの上から目を丸くした。

 

「おっ、あんたは確か……ハンター試験のときの、らでんだったよな!? なんだよ、お前もヨークシンに来てたのか!」

 

「お久しぶりです、レオリオさん! ええ、昨日この街に着いたところで、昨夜ゴン君たちから連絡をもらって、ここで待ち合わせをしていたんです」

 

「そうだったのか! いやあ、試験のとき以来だから、もう半年以上ぶりか。元気そうで何よりだぜ」

 

 レオリオが気安く笑って片手を挙げ、らでんも笑顔で会釈を返す。ゴンとキルアがレオリオとも連絡を取ってこの街で合流する手筈になっていたらしい。高い時計塔の下で、試験で出会った顔がこうして揃うと、街の賑やかさまで自分たちの味方をしてくれているような気がした。

 

「立ち話もなんだし、あっちのテラスが空いてるぜ。朝のコーヒーでも飲みながら話そうや」

 

 レオリオが顎で示した広場脇のオープンカフェに移動し、四人で丸い鉄製のテーブルを囲んだ。

 ウェイターにそれぞれ飲み物を頼んで一息つくと、ゴンが待ちきれないといった様子で身を乗り出し、テーブルの上で両手を組んだ。

 

「あのね、らでんさん。昨日の電話で少しだけ言った、くじら島で見つかったすごい手がかりのことなんだけど」

 

「ええ。ミトさんから何か預かってきたんですか?」

 

「うん。オレがハンターになったら渡すってジンがミトさんに預けてた、小さな箱があったんだ。その箱を《練》で開けたら、中にカセットテープと、指輪と、ゲームのメモリーカードが入っててね」

 

 ゴンの言葉に、らでんはカップへ伸ばしかけていた指を止め、まっすぐにゴンの目を見返した。

 

 指輪と、ゲームのメモリーカード。

 

「テープにはジンの声が入ってて、『お前に会いたくねーから逃げる。捕まえられるもんなら捕まえてみろ』って言われたんだ。それで、残ってた指輪とメモリーカードを調べたら、どっちも『グリードアイランド』っていう、ハンター専用のゲームのものだって分かったんだよ!」

 

 横からキルアが、ストローでオレンジジュースをかき混ぜながら補足した。

 

「世界にたった百本しか作られなかった、一本の定価が五十八億ジェニーもする伝説のゲームソフトだぜ。オレの兄貴に頼んで裏のルートまで調べさせたんだけど、普段は市場にまったく出回らねーのに、今回のヨークシンのオークションにだけは何本か出品されるって話なんだ」

 

「だからオレたち、このヨークシンで『グリードアイランド』を手に入れて、そのゲームの中の手がかりからジンを探すことにしたんだ!」

 

 一気にそこまで話したゴンが、きらきらと目を輝かせてらでんを見た。レオリオも腕を組んで「まったく、親父を探す手がかりが何十億もするゲームだなんて、スケールがデカすぎて頭が痛くなるぜ」と苦笑している。

 

 らでんは驚きに目を瞬かせ、それから自分の左手首の袖口の下にある古いミサンガの上を、右手の指先でそっと撫でた。

 

 昨日の夜、電話口でゴン君が『すごい手がかりが見つかった』と言っていたのは、そのことだったのか。

 

「……そっか。ジンさんがゴン君に残した手がかりって、『グリードアイランド』だったんですね」

 

「あれ? らでんさん、今の話を聞いてあんまり驚かないね。もしかして『グリードアイランド』のこと、知ってるの?」

 

 ゴンが首を傾げ、キルアも「おっ」と興味深そうに片眉を上げた。

 

「知ってるっつーか、その言い方だと……らでん、お前もしかして、あのゲームに入ったことがあるのか?」

 

「ええ。以前、遊んだことがありますよ」

 

「ええっ、ほんとに!?」

 

「まじかよ! すげーじゃん!」

 

 ゴンとキルアが揃ってテーブルの上へ身を乗り出し、レオリオまで「おいおい、あんた、そんなゲームがどんなもんか知ってるってのか!?」とサングラスがずり落ちそうな勢いで声を上げた。

 

「ええ。でも、遊んだのは前のことですからね。……なんだか、ジンさんらしいですね。言葉で居場所を教えるんじゃなくて、自分の作った場所を歩いてこいって言うなんて」

 

 らでんが懐かしさと苦笑いの混じった声で言うと、ゴンの目がますます明るく輝いた。

 

「ねえ、らでんさん! 『グリードアイランド』って、どんなところだった? やっぱりすごく面白かった?」

 

「ええ、すっごく面白かったですよ! カードを使う仕組みも独特ですし、街ごとに全然違うルールや仕掛けがあって、私なんて本来の目的を忘れて、珍しいアイテムの由来ばっかり調べ回ってたくらいですから」

 

 そこまで言ってから、らでんは目の前の少年たちの顔を順番に見た。

 

 自分がかつてその島で何を見たか、どんなカードがあり、どこでどう動けば効率がいいか。知っている手順をここで全部並べて教えてしまうことは、たぶん簡単だ。あるいは、自分が今回の絵画購入のために用意してきた口座の資金から、二人がゲームへ入るための手助けをしようかと申し出ることも、頭をよぎらないわけではなかった。

 

 けれど、テーブルの向こうで身を乗り出しているゴンの目は、「答えを教えてほしい」という目ではなかった。これから自分たちの足で踏み込む未知の世界にワクワクしている、あの天空闘技場のときと同じ目だ。そしてらでん自身も、今回のオークションには、誰かの後ろ盾としてではなく、自分が働いて貯めたお金でヴァレーヌの絵を迎え入れるという、楽しみがあって来ている。

 

「――だから、中身については私から先にネタバレしちゃうのはやめておきますね。ジンさんがゴン君に用意したゲームなら、絶対にゴン君とキルア君が自分たちの目で見て、自分たちでカードを集めた方が何倍も楽しいはずですから」

 

 らでんが人差し指を唇の前に立ててウィンクすると、ゴンはきょとんとしたあと、すぐに大きく頷いて笑った。

 

「うん! そうだね、オレも自分たちの力でクリアしたい! あ、でも、今のオレたちの力で中に入っても大丈夫かな?」

 

「夏の間も毎日続けてきたことは、大きな土台になりますよ。でも、それだけで今すぐ中へ入っても大丈夫、とまでは言えません。知らない能力を持った人にも出会うでしょうし、無理だと思ったら引く判断も要りますから。これからも《堅》や《凝》を含めて、基礎は続けてくださいね」

 

「うん、分かった! ね、キルア、これからも毎日続けよう!」

 

「ま、そこは認めといてやるよ。……とはいえ、中に入る前に、まずはその何十億っていうゲーム自体を手に入れるための軍資金を稼がねーといけないんだけどな」

 

 キルアが現実的な声で言い、レオリオが自分の革鞄をぽんと叩いた。

 

「そういうこった。ま、ヨークシンは今、世界中から金持ちと商売人が集まってる真っ最中だからな。元手を増やすタネなら、街を歩けばいくらでも転がってるぜ。さっきも駅から来る途中で、広場の人だかりで賞金付きの腕相撲やら露店の競りやらをやってるのを見かけたしな」

 

「腕相撲でお金がもらえるの!? それならオレ、すっごく得意だよ!」

 

「おう、まずは手堅くそういうところから軍資金を作って、ネットの情報屋とオークションの両面から攻めるぞ」

 

 レオリオが頼もしく胸を張り、ゴンが「うん!」と拳を握る。

 

 それからゴンは、ふとらでんの肩掛け鞄から少しだけ覗いている厚手の冊子に目を留めた。

 

「あ、そうだ。らでんさんは、今回のオークションで欲しい絵があるって言ってたよね? それ、どんな絵なの?」

 

「これですか? ふふ、よく聞いてくれました!」

 

 待っていましたとばかりに、らでんは鞄から出品目録を取り出し、しおりを挟んだページを開いてテーブルの真ん中へ向けた。

 

「ロット番号一〇八、エリアス・ヴァレーヌの《我々はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか》っていう、百年以上前の油彩画なんです。学生のころに図版で見てからずっと憧れていて、今回、旧蔵家の整理で正規オークションに出るって聞いて、どうしても自分の手で買いたくてここまで来たんですよ」

 

「へえー……! 港の絵なんだね。いろんな人が描いてあるけど、みんな別々のほうを向いてる」

 

「おいおい、正規オークションの目玉の油絵なんて言ったら、そっちも相当な値段がするんじゃねーのか?」

 

 レオリオがカタログの解説欄を覗き込み、キルアも横からひょいと首を伸ばした。

 

「お前がよく調べてる古い道具とかとは、また違うんだな」

 

「そうなんです。今回はお仕事じゃなくて、本当にただ私が好きで、自分の部屋に飾りたくて買いに来たんです。……ほら、この右端の木陰に座ってるお爺さんの周り、カタログの印刷だとただの暗い茶色に潰れちゃってるでしょう?」

 

 らでんは図版の隅を指先でトントンと示しながら、思わず身を乗り出して熱を込めた。

 

「ここ、本当はすごく薄い群青色やオリーブ色の絵具が何層も重なってるはずなんです。それに、真ん中の港の水面の光も、実物のカンヴァスを斜めから見たら、絵具の盛り上がりがどんなふうに照明を弾くのか……今日の午前十時から展示室で実物の下見ができるので、今からそれを確かめに行くところなんですよ!」

 

 一気にまくし立てたらでんを見て、キルアが「あーあ、スイッチ入ったぞ」と呆れたように笑い、レオリオも「ははっ、あんた、案外変わりもんだな! 好きな話になると止まんねータイプかよ!」と豪快に吹き出した。

 

「でも、いいな! らでんさんがそんなに楽しみにしてる絵、きっとすごく綺麗なんだろうね。あ、それに、お友達と一緒にやるお仕事のほうはどうなったの? 前に闘技場で、ダンスと歌の練習をしてるって教えてくれたよね!」

 

「あ、覚えててくれたんですか、ゴン君! そっちもいよいよ今月が本番で、九月四日に告知の動画とミュージックビデオが出て、九月九日と十日に、この街のスタジオから五人でデビュー配信をするんです」

 

「へえー、そいつはめでたいじゃねーか! 九日と十日なら、オレたちもまだこの街にいるだろうし、見られるもんなら見てやるぜ」

 

「ほんとですか!? わあ、ありがとうございます! 奏ちゃんや莉々華ちゃん、青くんやはじめにも、きっとすごく励みになります!」

 

 自分が大切にしている二つの目的を、こうして目の前の三人がまっすぐに面白がってくれることが嬉しくて、らでんは出品目録を胸の前でぎゅっと抱き締めた。

 

 そのとき、広場の中心にある時計塔から、九時四十五分を告げる軽やかな鐘の音が響いた。

 

「おっと、もうそんな時間か。らでん、その絵の下見っていうのは十時からなんだろ?」

 

「あ、はい! ここから歩いて十分くらいの本館二階なんです」

 

「よし、じゃあオレたちもそろそろ動くか! 途中まで同じ方向だし、その会場の前まで一緒に行こうぜ」

 

 レオリオが伝票を掴んで立ち上がり、ゴンとキルアもリュックを背負って椅子から飛び降りた。

 四人で並んで朝の広場を抜け、垂れ幕が揺れる大通りを歩いていく。道すがら、レオリオが「あの露店の通りは人が集まりそうだな」と横道をチェックし、ゴンとキルアがショーウィンドウの珍しい刃物や道具を覗き込んでは騒いでいるのを横で見ていると、今朝ひとりで通りを歩いていたときの緊張が、嘘のように温かく解けていった。

 

 やがて、高い石柱とドーム屋根を備えた競売本館の正面階段が見えてきた。

 階段の下にはすでに開場を待つコレクターや画商たちの列ができ始めており、係員が案内ロープを外す準備をしている。

 

「ここが私の下見会場です。みんなは、このあとすぐ広場のほうへ?」

 

「おう、まずは元手稼ぎと情報集めだな。お前も、そのずっと見たかった絵ってやつ、しっかり拝んでこいよ」

 

「うん! また連絡するね、らでんさん!」

 

「はい! ゴン君も、キルア君も、レオリオさんも、あんまり無茶な賭け事はしないでくださいね!」

 

「へへっ、分かってるよ! じゃあね、らでん!」

 

 手を振って大通りの人波へと駆けていく三人の背中を、らでんは石段の下でしばらく見送った。

 緑色のジャケットと銀色の髪、それに長身のスーツ姿が朝の光の中へ溶けていく。

 

 それを見届けてから、らでんは革ケースから刻印済みの参加登録証を取り出し、ちょうど十時の開場を迎えた本館の正面エントランスへと足を踏み入れた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 一階のクロークに携帯電話などの電子機器を預け、大理石の広い階段を上って二階の第二展示室へ入ると、そこには外の喧騒とは切り離された、静かで張り詰めた空気が満ちていた。

 

 高い天井に設けられた天窓から柔らかな自然光が取り込まれ、補助のスポットライトが、深い緑色の壁面に掛けられた近代絵画の数々を均等に照らし出している。

 

 らでんは靴音を立てないように絨毯の上を歩き、入り口から三つ目の壁面区画へと向かった。

 前の区画で足を止めていた老夫婦の横を静かに通り過ぎ、目的の壁の前へ出た瞬間、らでんの足が自然と止まった。

 

 壁面の中央に、落ち着いた古い金箔の額縁に収められた、横長のカンヴァスが掛けられている。

 

 ――ロット番号一〇八。エリアス・ヴァレーヌ作、《我々はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか》。

 

 昨日までホテルの机の上で、指先ほどの大きさの印刷写真として眺めていた画面が、いま、両手を広げても届かないほどの確かな大きさを持って目の前にあった。

 

 らでんはフロアに引かれた鑑賞ラインのすぐ手前に立ち、ゆっくりと息を吐き出した。

 

 もちろん、自分の能力である《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》を使うつもりはないし、展示品に手を触れることもできない。そもそも、この絵には死後念のような異質なオーラは何ひとつ宿っていない。

 

 けれど、一メートルほど離れた位置から自分の目だけで見つめたカンヴァスは、カタログの紙面とは比べものにならないほど豊かな色彩を放っていた。

 

 まず目を奪われたのは、画面の右端、深い木陰に腰を下ろしている老人の周囲だった。

 印刷された目録では、ただ重苦しい焦げ茶色の影にしか見えなかったその場所に、実物では澄んだウルトラマリンと、乾いたオリーブグリーン、そしてごく薄い紫色の筆致が、まるで織り物のように細かく重ねられている。暗い影なのに、色が死んでいない。南方の強い日差しの裏側にある、ひんやりと湿った空気の温度までが、その青みがかった影の色からまっすぐに伝わってくる。

 

 らでんは鑑賞ラインに沿って、静かに左へと二歩だけ位置を移した。

 斜めからの角度で見ると、画面の中央、港の仕事を終えた人々が歩く地面と、その奥に広がる水面の絵具の厚みがはっきりと浮かび上がった。

 ペインティングナイフか、あるいは硬い豚毛の筆でぐっと押しつけるように置かれた白と琥珀色の絵具が、ミリ単位の凹凸を作って天窓の光を弾いている。左端で幼子を抱く若い女性の頬に落ちる柔らかな光も、ただ明るい色を塗ったのではなく、下の層にある暖かい朱色が薄塗りの隙間から透けて見えることで、生きている肌の温度を作っていた。

 

 同じひとつの地面にいながら、若い女性は腕の中の子どもを見下ろし、港の人々はそれぞれの家路を見据え、木陰の老人は画面の外の遠い水平線を見つめている。

 

 誰ひとりとして同じ方向を見ていないのに、カンヴァス全体を満たす夕暮れとも夜明けともつかない金色の空気の中で、全員が確かに「同じ時間」を生きている。

 

「……すごい。本当に、影の中に青い光が入ってる……」

 

 誰に聞かせるでもない吐息が、自分の唇からこぼれた。

 

 額縁の四隅の留め具や、正面から見えるカンヴァスの張り具合にも、無理な引き攣れや新しい剥落は見当たらない。表面に塗られたワニスは百年という歳月を経てわずかに飴色を帯びているものの、それがかえって画面全体の光を深く落ち着かせていた。

 

 らでんは正面へ戻ってさらに十数分ほど、筆の運びや絵具の重なりを隅から隅まで目で追い続けたあと、展示室の奥にある資料閲覧カウンターへと向かった。

 

「あの、ロット番号一〇八の付属資料の閲覧をお願いしたいんですけれど」

 

 カウンターの係員に刻印済みの参加登録証を提示すると、係員はすぐに奥の棚から布張りの保存ファイルを取り出し、閲覧用の白手袋と一緒に机の上へ置いてくれた。

 手袋をはめてファイルをゆっくりと開くと、そこには画家の死後に遺族から画商へ作品が引き渡された際の受領書と、その後エルデン家で二代にわたって記録されてきた所蔵台帳の写し、さらには当時の当主が修復師と交わした書簡がファイリングされていた。

 らでんは一行ずつ文字を目で追いながら、自分の手帳へ必要な記録を書き留めていく。

 

 『一九二四年、北側書斎の壁面より、直射日光を避けるため二階奥の展示室へ移動』『一九五八年、木枠の楔の緩みを調整。表面の清掃のみ行い、加筆は一切行わず』。

 

 前の持ち主たちが、この絵をただの財産として金庫の奥に眠らせるのではなく、毎日光の加減や湿気に気を配りながら、本当に大切に眺めて暮らしてきたことが、その簡潔な記録の行間から痛いほど伝わってきた。

 

 これなら、九月六日の本競売でどれほど値が競り上がろうとも、迷う理由はひとつもない。自分の手でこの絵を落札して、次の時間を引き継ぎたい。

 

 ファイルを閉じて係員へ返却し、展示室を出る前にもう一度だけ一〇八番の壁面を振り返ると、斜めに差し込む午前の光の中で、港の水面がきらりと小さく瞬いたように見えた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 同じ日の午後、ヨークシンシティの中心部から少し離れた、地下競売関連施設の連絡事務所。

 

 石造りの殺風景な廊下の端に設けられた受渡し確認窓口の前で、スクワラは連れている大型の番犬のリードを短く持ち直し、扉の向こうの気配を窺った。

 

 今夜から始まる裏社会の地下競売に向けて、ノストラードファミリーが落札した品物をどの名義で受け取り、どの経路でホテルの金庫まで運ぶか。その事前の承認印と受領証の照合を済ませておくのが、ボスであるライト=ノストラードからスクワラとセンリツに命じられた実務だった。娘のネオンはホテルのスイートルームで厳重に警護されており、この会場には近づけていない。

 

「……ここね、スクワラ。中に一人、人がいるわ」

 

 隣を歩くセンリツが、小さな声で言った。

 

 通常の事務員ではない。地下競売の運営と警備を取り仕切る十老頭側が、大口の参加組織との直接窓口として配置している実務担当――しかも、その最終確認には十老頭直属の実行部隊である『陰獣』の一人が立ち会っているという話だった。

 

「ああ。余計な舐められ方をしねえよう、きっちり話を通してくるぞ」

 

 スクワラは書類の入った封筒を脇に挟み、ノックをしてから重い扉を押し開けた。

 

 室内には長机が二つ置かれ、奥の棚には封印番号が振られた分厚い台帳が並んでいる。窓口の椅子に腰掛けて書類をめくっていたのは、黒いゆったりとした上着を羽織り、猫の耳にも見える独特の癖がついた紫がかった銀髪を肩口で揺らす、ひとりの人物だった。

 

 扉が開く音に、その人物――十老頭直属・陰獣の《化猫》が、顔を上げて穏やかに目を細めた。

 

「あ、こんにちは。ノストラード組の確認担当の人たちだよね? 待ってたよ」

 

 拍子抜けするほど柔らかく、どこか伸びのある声だった。裏社会の拷問や処刑を請け負う陰獣と聞いてスクワラが想像していたような、血生臭い威圧感や奇矯な気配は微塵もない。

 

 化猫は椅子から立ち上がると、スクワラの手元ではなく、彼の左脚の横にぴたりと寄り添って座った茶色い大型犬へと視線を向けた。その瞳が、ふっと温かく和らぐ。

 

「わあ、すごくお利口そうな子だね。毛並みもツヤツヤで、よく手入れされてるなあ。……ねえ、この子、ぼくが近くで挨拶しても大丈夫かな? 触ってもいい?」

 

 いきなり手を伸ばすのではなく、犬の目線を刺激しないように半歩手前で足を止め、飼い主であるスクワラへ真っ先に許可を求める問いかけだった。

 

 スクワラは一瞬だけ虚を突かれたように瞬きをしたが、自分の連れている犬を「道具」ではなくちゃんと一頭の生き物として扱うその態度に、わずかに眉間の皺を緩めた。

 

「……ああ。こいつは無駄吠えはしねえが、初対面の人間が上からいきなり頭を撫でようとすると警戒する。最初はしゃがんで、手の甲の匂いを嗅がせてやってくれ。気に入れば、自分のほうから顎の下を寄せてくる」

 

「なるほど、上からじゃなくて手の甲からだね。教えてくれてありがとう」

 

 化猫は言われた通りに、犬の正面を避けて少し斜めの位置で静かに膝を折り、自分の右手を軽く握って、手の甲を犬の鼻先の少し下へ差し出した。そこから先は一ミリも手を動かさず、犬のほうから動くのをじっと待っている。

 

 スクワラがリードをほんの少しだけ緩めると、番犬は鼻をひくつかせて一歩前に出、化猫の手の甲に鼻先を近づけてクンクンと匂いを嗅いだ。

 

 二秒、三秒。やがて犬が安心したように小さく鼻を鳴らし、自分から化猫の掌のほうへ顎の下を押し当てた。

 

「んー、いい子だねえ。よろしくね」

 

 化猫の指先が、犬の顎の下から首筋の柔らかい毛並みに沿って、ゆっくりと優しく動く。力の入れ方や撫でる速度が、犬の呼吸にぴったりと合っていた。口の端を緩めて気持ちよさそうに目を細める番犬の姿に、スクワラも思わず「……犬の扱いに慣れてるんだな。通り名が『化猫』って聞いてたから、てっきり犬は嫌うのかと思ってたぜ」と口を開いていた。

 

「あはは、よく言われるんだけどね、ぼく、犬もすごく好きなんだよ。こんなに真っ直ぐこっちを見てくれる子、可愛いじゃない」

 

 もう一回だけ首筋を撫でてから、化猫はゆっくりと手を離し、立ち上がって窓口の机へと戻った。

 

 その切り替えには、一切の無駄がなかった。

 

「じゃあ、お仕事の確認をさせてもらおうかな。今夜の地下競売、ノストラード組の受取人名義と、搬出経路の書類を見せてもらえる?」

 

「ああ、これだ」

 

 スクワラは脇に挟んでいた封筒から書類を取り出し、机の上へ広げた。

 

 化猫は受け取った書類に目を落とし、手元の台帳と一行ずつ照合していく。さっきまで犬を撫でていた柔らかい指先が、印鑑の陰影や管理番号の数字を正確に辿り――やがて、二枚目の搬出受取人の欄でぴたりと止まった。

 

「んーとね、スクワラさん。ここの現場受取人の欄なんだけど、事前登録されてた責任者の署名じゃなくて、『当日同行する護衛主任の代理署名で引き渡す』って書き換えられてるよね」

 

「ああ。うちのボスと幹部のダルツォルネは、競売の直前まで別件の警備配置を動かしてる。今夜、品物を引き取る現場でうちの主任がサインすりゃ、実務上は何の問題もねえはずだ」

 

 スクワラは少し声を低くし、半歩だけ机へ踏み込んで上から見下ろすように言った。ここで窓口の担当者に主導権を握られれば、引き渡しの順番を後回しにされかねない。マフィアの交渉事ではよくある、軽い威嚇を含んだ押し方だった。

 

 だが、化猫は一歩も引かなかった。かといって、殺気を返して睨み上げるようなこともしない。

 

「ごめんね、そこはそのままじゃ通せないんだ」

 

 化猫の声は、さっき犬に話しかけていたときと同じくらい穏やかだった。

 

 けれど、スクワラが半歩踏み込んだ瞬間、化猫の足元の重心が音もなく半拍で整い、机を挟んだ間合いが完璧に保たれていることに、スクワラは背筋の奥で気づかされた。肩には少しも力が入っていないのに、どこから手を出しても絶対に届かないような、底の知れない静けさがある。

 

「地下競売の品物はね、保管庫から出す段階で、事前登録された印鑑と受取人の直筆署名が揃ってないと、ひとつも外へは動かせない決まりなんだよ。もし今夜の現場で代理の人しか来られないなら、今のうちにこの控えへ、ダルツォルネさん本人の裏書きと承認印をもらってきてほしいな。五時までにここへ戻してくれれば、一番早い引き渡し枠でちゃんと通しておくから」

 

 脅しもなければ、見下した響きもない。ただ「決まりだから、こうすれば通るよ」と実務の線を引いているだけなのに、言葉のどこにも付け入る隙がなかった。

 

 スクワラは数秒だけ化猫の目を見返し、やがて鼻から短く息を吐いて書類を引き寄せた。

 

「……分かった。ダルツォルネは今、上の待機室にいる。すぐに裏書きをもらって戻ってくる」

 

「うん、助かるよ。あ、戻ってくるとき、そのお利口な子はお外で待たせなくても大丈夫だからね」

 

 化猫がひらりと片手を振って微笑む。

 

 スクワラは頷いて踵を返し、センリツと一緒に連絡事務所の扉を出て廊下を歩き出した。扉が閉まり、十分に距離が離れたところで、スクワラは小さく舌打ちをして首を振った。

 

「……まいったな。拍子抜けするくらい話しやすい相手かと思えば、いざ踏み込んだら、どこまで深いのかさっぱり底が見えねえ」

 

 横を歩くセンリツも、いつもの穏やかな表情のまま、少しだけ真面目な声で頷いた。

 

「ええ。あの上着の人、あの犬を可愛がっていたときの心音は、嘘ひとつない、本当に綺麗で温かい音をしてたわ。動物が好きなのも、無用な揉め事を好まないのも、きっと本心よ」

 

「だろうな。そこはこいつの態度を見りゃ分かる」

 

 スクワラが足元の番犬を見下ろすと、犬も小さく尾を振った。しかし、センリツはすぐに言葉を継いだ。

 

「でもね、スクワラ。あんたが机に踏み込んで声を低くしたときも、あの人の心拍は一拍たりとも速くならなかったし、呼吸の深さもまったく変わらなかった。あの間合いでも慌てる必要がなかったんでしょうね。どこまで対応する自信があるのか、あたしにも分からないわ」

 

「……やっぱりか。十老頭直属の『陰獣』。通り名や見た目で舐めてかかると、痛い目を見るってことだな」

 

 スクワラは手元の書類を握り直し、上の階で待つダルツォルネの部屋へと足を速めた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 陽が傾き、地下競売の開場時刻が数時間後に迫った夕刻。

 

 競売会場のさらに深い階層にある特別保管庫の前では、外の警備員たちがすべて遠ざけられ、重い鋼鉄の扉が内側から閉ざされていた。

 

 広大な保管庫の中には、今夜の地下競売にかけられるはずだった世界中の財宝や希少品が、ロット番号の札をつけられたまま棚やガラスケース、あるいは頑丈な金庫の中にずらりと並んでいる。

 

 その通路の真ん中に、二人の陰獣が立っていた。

 

 一人は、先ほどまで窓口で受渡し書類の確認をしていた《化猫》。そしてもう一人は、丸い眼鏡をかけ、どこか眠たげな目をした男――同じく陰獣の《梟》だった。

 

「えーと、東側の第一区画から第四区画まで、封印番号は全部帳面と合ってるね。こちらの照合は終わったよ。梟、お願いできる?」

 

 化猫がバインダーに挟んだ出品一覧の帳面を指でなぞりながら声をかけると、梟は「ああ、分かってるよ」と短く応じ、手にしていた大きな一枚の布をばさりと広げた。

 

 《不思議で便利な大風呂敷(ファンファンクロス)》。

 

 梟が大きく広げた布を品物の山へかぶせていく。化猫は通路を空け、最後の封印番号まで帳面と照らし合わせた。宝石箱や彫像、金庫までもが、やがて一枚の布の下に隠れた。

 

 次の瞬間、部屋の半分近くを占めていたはずの巨大な布が、シュウッ、と音を立てるようにして急速に縮んでいく。

 わずか数秒のうちに、金庫と美術品の山が、梟の掌に乗るほど小さな風呂敷包みのサイズへと変わった。

 

「よし。これで全部だ」

 

「うん。出品分、収納完了、と」

 

 化猫は手元の帳面にチェックを入れた。品名と封印番号を順に指で辿り、記入漏れがないかをもう一度確かめる。

 

 梟は小さくなった風呂敷包みを結び、片手で持ち上げた。

 

 先ほどまで目の前に並んでいた品々が、その一包みの中に収まっている。

 

 広い地下保管庫には、品物を置いていた跡が残っている。化猫は帳面を閉じる前に、その空いた場所を順に見渡した。

 

「……ふう。これで今夜の出品分は、一個残らずこの中だ」

 

 梟が小さな風呂敷包みを鞄にしまい、口を閉じて肩に掛けた。

 

 化猫は空っぽになった保管庫の端から端までをぐるりと見渡し、床に小さな札一枚すら落ちていないことを確かめてから、手元の帳面をぱたんと閉じた。

 

「うん、全部揃ってるね。お疲れさま、梟。運ぶほうは、そのまま手筈通りにお願いね」

 

「ああ、任せておけ。所定の保管先まで、ちゃんと運ぶさ」

 

 梟が眼鏡の奥の目を細めて頷き、保管庫の奥にある搬出用の専用通路へと足を向ける。化猫はその背中を見送り、重い鋼鉄の扉を元通りに施錠すると、何事もなかったかのように静かな足取りで反対側の連絡階段へと姿を消した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 同じころ、地上の街には夕暮れの涼しい風が吹き抜け、街灯にひとつずつ琥珀色の明かりが灯り始めていた。

 

 昼過ぎまで本館の展示室と資料閲覧室でたっぷりと時間を過ごしたらでんは、帰り道に画材店や古書店を少しだけ覗いてから、自分の泊まっている煉瓦造りのホテルへと戻ってきていた。

 四階の客室のドアを閉め、内側から鍵を掛けると、まずはクローゼットの扉を開けて中に異常がないことを確かめる。それから靴を脱ぎ、書き物机の椅子へ腰を下ろして、今日一日歩き回った足をぷらぷらと揺らした。

 

「……はあ、本当にいい絵だったなあ」

 

 机の上に手帳を広げると、午前中に資料閲覧室で書き写してきたエルデン家の所蔵記録と、実物を見たときの絵具の重なりのメモが並んでいる。

 

 右端の木陰に沈んでいたウルトラマリンとオリーブグリーンの筆致。斜めから見たときの水面の盛り上がり。思い出すだけで、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。ゴン君とキルア君、レオリオさんは今頃、街のどこかでグリードアイランドのための軍資金集めに精を出しているだろうか。

 

 窓の外を見やると、ビルの隙間の空はすでに深い群青色へと変わり、遠くの大通りを走る車のヘッドライトが光の帯を作っていた。

 

 時計の針は、夜の八時を回っている。

 

 らでんは鞄から携帯電話を取り出し、今朝約束した通り、はじめへの個別連絡の画面を開いた。

 

『らでん:こんばんは、はじめ 夜の定期連絡です。午前中はゴン君たちと会ってから、お目当てのヴァレーヌの絵の下見をたっぷりして、今はもうホテルの部屋に戻って鍵を掛けてます。今日はこれから部屋で歌の復習をして寝るだけだから、外へ出る予定はないよ』

 

 送信ボタンを押して、ペットボトルの水を一口飲む。すると、今朝と同じように一分も経たないうちに、ピロン、と返信の着信音が鳴った。

 

『はじめ:おつかれー ちゃんと宿に戻れたみたいでよかった。絵の下見、そんなに良かった?』

 

『らでん:もう最高だった! カタログの印刷じゃ全然分からなかった影の中の青い色とか、絵具の厚みとか、実物を見られて本当によかったよ。六日の本競売、絶対お迎えしてくる!』

 

『はじめ:あはは、文章からめちゃくちゃテンション高いの伝わってくるわ。あ、莉々華からさっき連絡あって、九日と十日の本番前に使う現地の防音スタジオ、五日からの予約がバッチリ取れたってさ。明日も朝と夜、連絡待っとるよ』

 

『らでん:わあ、スタジオ確定ありがたい! うん、また明日の朝に連絡するね。おやすみ、はじめ』

 

 短いやり取りを終えて携帯電話を机の上へ置くと、らでんは大きく伸びをした。

 

 今朝、館の中で見た四日の灰色の枠と赤い『面会』の文字は、もちろん消えたわけではない。三日後に誰とどこで向き合うことになるのかは、まだ何ひとつ分かっていないままだ。

 

 けれど、こうして毎日朝と夜にはじめと言葉を交わし、今日見るべきものを自分の目で確かめ、一歩ずつ本番の日へと近づいていけるなら、必要以上に怯えて夜を過ごすことはない。

 

 らでんは机の引き出しから奏に勧められたのど飴を一粒取り出して口に含み、ヘッドセットを手に取って、十日の配信で歌う曲の譜面を静かに広げた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 らでんがホテルの客室で譜面をめくっていた、まさにその同じ夜。

 

 ヨークシンシティの裏側にある巨大な洋館の地下では、世界中から集まったマフィアの幹部や闇ブローカーたちが、真紅の絨毯が敷き詰められた地下競売場のホールを埋め尽くしていた。

 

 会場の周囲は十老頭配下の武装警備員たちによって幾重にも固められ、招待状と暗証番号を持たない者は蟻一匹通れないはずの聖域だった。

 

 だが、定刻を迎えて舞台の重い緞帳が上がった瞬間、客席のざわめきは凍りついた。

 

 スポットライトを浴びる舞台の中央に立っていたのは、タキシード姿の司会者ではなかった。顔に大きな縫い傷が走る、見上げるような巨漢――幻影旅団のフランクリンだった。

 

「ようこそ、紳士淑女諸君」

 

 低い声がホールに響き渡るのと同時に、フランクリンが両腕を無造作に客席へと向けた。

 その太い十本の指先が、パカッ、と蝶番で繋がれた蓋のように開く。

 

 『何者だ!?』『警備員、何をやって――』

 

 最前列の男が立ち上がって怒鳴り声を上げかけた、その言葉が最後まで形になることはなかった。

 

 《俺の両手は機関銃(ダブルマシンガン)》。

 

 フランクリンの両手の指先から、凝縮されたオーラの弾丸が機関銃の連射音を伴って一気に噴き出した。

 

 客席を念弾の列が薙いだ。壁際へ走ったトチーノが念人形を展開し、仲間を守ろうとする。その盾さえ、フランクリンの射撃は貫いた。トチーノの身体が倒れ、支えを失った人形が崩れる。ヴェーゼとイワレンコフは脱出口へ向かったが、そこにもシズクが待っていた。二人がその場を抜け出すことはなかった。

 最前列から最後列、壁際の護衛までが次々と床へなぎ倒されていく。悲鳴と銃声、シャンデリアの砕け散る音がホールを揺らし、やがて人の声は途絶えた。粉塵と血の匂いだけが地下空間に満ちていた。

 

 やがてフランクリンが両手を下ろすと、丸眼鏡をかけた小柄な黒髪の少女――シズクが、奇妙な掃除機を手に客席の方へ戻ってきた。

 

「もう終わった? じゃあ、片付けるね」

 

 シズクが具現化した掃除機《デメちゃん》のスイッチを入れると、先端の口についた牙がガチガチと鳴り、すさまじい吸引力で床の上の死体や血痕、砕けたグラスや銃器を片っ端から吸い込み始めた。『生き物と念で作られたもの以外』から指定した対象だけを吸い込むその能力によって、凄惨な殺戮の現場だったホールは、見る間にただの無人の客席へと戻っていく。

 

 その横を通り抜け、細身の男――フェイタンが、舞台の奥にある地下保管庫へと向かった。

 分厚い鋼鉄の扉を難なくこじ開け、保管庫の中へ足を踏み入れたフェイタンの目が、わずかに細められる。

 

「シズク。お宝まで吸ったか?」

 

 保管庫から戻ってきたフェイタンの声に、ホールの掃除を終えたシズクが首を傾げた。

 

「え? わたし、死体と椅子より小さいゴミしか指定してないよ」

 

「金庫の中、何もないね」

 

 フェイタンがデメちゃんの腹を調べて最後に吸い込んだものを吐き出させてみても、出てきたのは客席の男が身につけていた懐中時計だけで、競売にかけられるはずだったお宝はどこにもなかった。

 

「……チッ、情報が漏れてたってことか。誰かが俺たちより先に、中身を丸ごと運び出しやがったな」

 

 フランクリンが保管庫の方へ目をやりながら低く呟いた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 そのころ、地下競売会場から道路を挟んだ向かいにある高層ビルの屋上では、冷たい夜風がクラピカの金色の髪を揺らしていた。

 

 クラピカは屋上の縁に立ち、高性能の双眼鏡を目に当てて、眼下の競売会場の出入り口を睨み据えていた。隣に立つセンリツも、夜の物音へ注意を向けている。裏口の監視に回ったバショウとリンセンからは、まだ動きがないとの報告だけが届いていた。

 

「……おかしい。定刻からすでに三十分が過ぎているのに、中からの連絡が一切途絶えているわ」

 

 双眼鏡を下ろしたクラピカの隣で、センリツが夜の空気へ耳を澄ませながら静かに言った。

 

「さっき、地下の方から激しい音が続いたの。でも、今は静かすぎる。建物の壁が邪魔で、ここから中の一人ひとりまでは確かめられないわ」

 

「会場には数百人の客と警備員が入っているはずだ。中の仲間へ、もう一度連絡を入れてみる」

 

 クラピカの声に、鋭い緊張が走る。

 

 その直後だった。会場の外周を固めていたマフィアの別動隊が、異常を察知して正面の扉から突入し、わずか数分後に血相を変えて無線で叫び声を上げたのを、クラピカたちの無線機が拾った。

 

 ――会場の中はもぬけの殻。客も、護衛も、競売品も、死体や血痕のひとつに至るまで、すべてが跡形もなく消え失せている、と。

 

 さらにその報告が終わるよりも早く、洋館の裏手から、黒い気球が夜の空へと浮かび上がった。

 

「裏手だ! 気球で逃げるぞ、撃ち落とせ!!」

 

 地上のマフィアたちが一斉に銃火を浴びせ、何十台もの黒塗りの車両がエンジン音を轟かせて気球の進行方向へと殺到していく。

 

 クラピカの携帯電話が鳴った。ネオンの警護側にいるダルツォルネからだった。

 

「クラピカ、ボスから指示だ。マフィアの追跡に合流して襲撃者を確保しろ。競売品の行方も探れ」

 

 電話を切り、クラピカはセンリツへ頷いた。裏口側の二人にも連絡を入れ、車で合流するよう伝える。

 センリツとともにエレベーターへ駆け込みながら、クラピカは鎖を巻いた右手を強く握り締めた。

 

 地下競売を正面から襲撃し、数百人の人間を瞬時に消し去るほどの集団。

 

 脳裏に浮かぶのは、かつて故郷の森を赤く染め上げ、同胞たちの『緋の眼』を奪い去った、十二本の脚を持つ蜘蛛の影だった。

 

 ――もし、奴らがこの街に来ているのなら。

 

 奥歯を噛み締めたクラピカの瞳の奥で、冷たい理知と、焼けつくような復讐の火が同時に揺らめいた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ヨークシンシティの市街地を抜け、街灯も途絶えた郊外の荒涼とした岩場地帯。

 

 夜空を行く気球から、ひとりの巨大な男が、地上を猛スピードで追跡してくるマフィアの車列の真っ只中へと飛び降りた。

 

 ドゴォンッ!!

 

 まるで隕石でも落ちたかのようにアスファルトと岩盤が砕け散り、先頭を走っていた黒塗りのセダンが横転して停止する。

 

 土煙の中からゆっくりと立ち上がったのは、熊の毛皮のようなベストを素肌に羽織り、逆立った髪を夜風に揺らす筋骨隆々の巨漢――幻影旅団のウヴォーギンだった。

 

「ガハハハハ! いいぞ、どいつもこいつも元気じゃねーか! お宝がなくて退屈してたところだ、全員まとめて相手してやるぜ!!」

 

 取り囲んだ数十台の車からマフィアの戦闘員たちが一斉に飛び出し、自動小銃とショットガンの銃口をウヴォーギンひとりに向けて火を噴いた。

 

 乾いた銃声が荒野の夜を引き裂く。

 

 だが、鉛の弾丸の雨は、腕を組んで仁王立ちするウヴォーギンの肌を貫くどころか、鋼鉄の壁にでも当たったかのように火花を散らして足元へバラバラと転がり落ちた。

 

 少し離れた岩山の崖の上では、車を止めたクラピカたちノストラード組の面々が、その光景を双眼鏡で見下ろしていた。

 

「な、なんだあの化け物は……! ライフルの弾がまったく通じてねえぞ!」

 

 リンセンが呻くように言い、バショウが「強化系の念能力者だ。それも、並の鍛え方じゃねえ」と低く唸った。

 

 その下で、業を煮やしたマフィアのひとりが、車のトランクから対戦車用のバズーカ砲を担ぎ出し、ウヴォーギンへ向けて発射した。

 

 轟音とともに放たれたロケット弾を、ウヴォーギンは避けようともせず、片手を突き出して正面から受け止めた。

 凄まじい爆炎が夜空を焦がし、熱風が崖の上まで吹き上がってくる。しかし、黒煙が晴れたそこには、少し焦げた左手首をぶらぶらと振りながら、愉しげに口角を吊り上げるウヴォーギンが立っていた。

 

「今の、ちょっとばかし痛かったぞ」

 

 次の瞬間、ウヴォーギンの姿が掻き消え、バズーカを撃った男たちが車ごと紙屑のように吹き飛ばされた。

 

 双眼鏡を握るクラピカの指が、ギリ、と音を立てる。

 

 爆風でウヴォーギンの毛皮のベストがめくれ上がった一瞬、その逞しい背中の腰に近いあたりに、十二本の脚を持つ蜘蛛の刺青と、その中に刻まれた数字がはっきりと見えたのだ。

 

「……間違いない。幻影旅団だ……!」

 

 押し殺した声が漏れた。クラピカの胸は、怒りと憎悪で激しく波打っていた。隣でセンリツがはっと息を呑む気配がしたが、その顔を見る余裕はなかった。

 

 そのとき、壊滅しかけたマフィアの車列の後ろから、異様な風貌をした四人の男たちが荒野へと歩み出てきた。

 

 マフィアたちが『い、陰獣だ!』『十老頭直属の陰獣が来たぞ!』と歓声を上げる。

 

 現れたのは、陰獣十人のうちの四人――異様に長い顔をした《蚯蚓》、四つん這いで唸り声を上げる《病犬》、全身を逆立つ体毛で覆われた《豪猪》、そして肥満体の《蛭》だった。そこには昼間の連絡窓口にいた《化猫》や、保管庫の品を運んだ《梟》の姿はない。

 

「ほう、お前らが十老頭の切り札ってやつか。少しは楽しませてくれるんだろうな!」

 

 ウヴォーギンが拳を打ち鳴らして踏み込むのと同時に、四人の陰獣が動いた。

 最初に地面へ潜った《蚯蚓》が背後からウヴォーギンの足首を掴み、地中の岩盤へと引きずり込もうとする。そこへすかさず《病犬》が跳びかかり、ウヴォーギンの肩口の肉を鋭い牙で深く噛み千切った。

 

「ぐおっ!? てめえ、オレの皮を食い破りやがったな!」

 

 対戦車バズーカすら弾き返したウヴォーギンの肌から、鮮血が飛び散る。ウヴォーギンは即座に右拳へ莫大なオーラを集中させ、足元の地面へ向けて全力で叩き込んだ。

 

 《超破壊拳(ビッグバンインパクト)》。

 

 小型ミサイルの直撃にも匹敵する衝撃が岩盤を粉々に吹き飛ばし、巨大なクレーターが穿たれる。土中にいた《蚯蚓》は全身の骨を砕かれて地上へ弾き出され、そのまま絶命した。

 

 だが、クレーターの中心から跳び上がったウヴォーギンの身体が、着地した瞬間にピタリと動かなくなった。

 

「ククク……無駄だ。オレの牙には神経毒が仕込んである。かすり傷ひとつでも、数秒で首から下が完全に麻痺する」

 

 口の端を血で染めた《病犬》が嘲笑う。ウヴォーギンの腕も脚も、痺れによって動きを失っていた。《豪猪》の体毛は拳の周囲に食い込み、《蛭》は肩口の噛み傷へ顔を寄せ、寄生する蛭を仕込んでいる。

 

 崖の上で、バショウが「毒が回ってやがる。動きが止まったぞ」と低く言った。

 

「――なるほどな。だが、まだ口は動くぜ」

 

 近づきすぎていた《蛭》へ、ウヴォーギンが顔を向けた。

 首から上だけが動いた。大きく開いた口が相手の頭部を捉え、《蛭》の身体が崩れ落ちる。

 

 《病犬》が目を見開いたときには、ウヴォーギンは口の中に残った頭蓋骨の欠片を吐き出していた。

 

 パァンッ!

 

 飛んだ欠片が《病犬》を撃ち抜き、その身体を後ろへ倒す。ウヴォーギンは続けて深く息を吸った。

 

 別の崖で見ていた旅団の仲間たちが、咄嗟に耳を塞ぐ。

 

 凄まじい咆哮が、夜の荒野を震わせた。至近距離で浴びた《豪猪》が崩れ落ちる。ウヴォーギンは立ったまま、まだ指一本動かせない。だが、その周りに立っている陰獣はもういなかった。

 

「ガハハハハ! なんだ、口だけでもなんとかなるじゃねーか!!」

 

 首から下が完全に麻痺したまま、クレーターの縁で高笑いするウヴォーギン。

 

 崖の上のノストラード組の面々が言葉を失う中、クラピカだけは、すでに車のドアを開けて外へと踏み出していた。

 

「待て、クラピカ! どこへ行く気だ!」

 

 バショウの制止の声に、クラピカは振り返ることなく短く言い放った。

 

「奴はいま、病犬の毒で首から下がまったく動かない! 捕らえるなら、この一瞬しかないぞ!」

 

 クラピカは車の陰から崖際へ進み、眼下の男との間に障害物がないことを確かめた。背後では、リンセンが運転席へ回る足音がした。

 

 右手を前へ突き出す。

 

 中指から伸びた銀色の鎖が、夜の空を走った。まだ笑っていたウヴォーギンの胸へ届き、勢いを緩めることなく巨体へ巻きついていく。

 

 《束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)》。

 

 ジャラッ、と重く冷たい金属音が荒野に響き、鎖がウヴォーギンの胸から腕、胴体へと幾重にも巻きついていく。

 

「んあ? なんだこの鎖は……今度はどこの誰だァ!?」

 

 ウヴォーギンが首だけを巡らせた。クラピカは崖際で足を踏ん張り、右手の鎖を引く。縛られた巨体が地面を離れ、車の待つ方へ引き上げられていった。

 

「リンセン、車を出せ! こいつをこのまま運ぶ!」

 

「分かった!」

 

 センリツとバショウが後部のドアを大きく開けた。引き寄せたウヴォーギンを車内へ押し込み、二人も続く。クラピカが最後に乗り込んでドアを閉めると、リンセンはアクセルを踏み込んだ。

 

 反対側の崖の上でそれを見ていた旅団の面々が、『ウヴォーが攫われたぞ!』『追え!』と色めき立ち、奪った車で追跡を開始した。

 

 後部座席で「おいコラ、このガキ! こんな鎖、毒さえ抜けりゃ一秒で引き千切ってやるぜ!」と吠えるウヴォーギンの顔面に、クラピカは無言で重い一撃を叩き込んで黙らせ、後ろの窓から迫ってくる追跡車両を睨み据えた。

 

 そのとき、道路の両脇から、先ほどの四人とは別の『陰獣』の残りメンバーたちが乗った車が割り込み、旅団の追跡車両の前に立ち塞がった。

 

 背後の闇の中で新たな戦闘の火花が散るのをバックミラーに映しながら、クラピカたちを乗せた車は、ウヴォーギンを捕縛したまま全速力でヨークシン市街へと走り抜けていった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 一時間後。ヨークシン市街にあるノストラードファミリーの仮拠点の一室。

 

 分厚いコンクリートの壁に囲まれた地下室の奥で、ウヴォーギンは全身にクラピカの鎖を巻きつけられたまま、鋼鉄の拘束台へと固定されていた。

 病犬の神経毒はまだ完全には抜けていない。それでも、目を覚ましたウヴォーギンは、目の前に立つクラピカをギロリと睨みつけ、麻痺した首の下の筋肉に力を込めようとしていた。

 

「……不思議だな。毒で身体が痺れてるとはいえ、なんでオレのオーラがまるっきり練れねーんだ? てめえ、その鎖にどんな仕掛けをしやがった」

 

 ウヴォーギンの低い問いに、クラピカは答えない。

 

 ただ、氷のように冷たい瞳で、目の前の巨漢を見下ろしていた。

 

 《束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)》に捕らわれた者は、強制的に《絶》の状態へと追い込まれ、オーラを一切使うことができなくなる。だが、その能力の仕組みや、自分がどんな条件と引き換えにこの鎖を具現化しているのかを、目の前の仇敵に教えてやる理由はどこにもなかった。

 

「質問をするのは私のほうだ。お前たちの仲間は今、この街に何人来ている? 残りの連中の能力と、奪った競売品の行方を言え」

 

「ハッ、誰が喋るかよ。それより早くオレを殺しといたほうがいいぜ。じきに毒が抜けるし、仲間がここを嗅ぎつけて、てめえら全員をミンチにしに来るからな」

 

 悪びれもせず笑うウヴォーギンの言葉に、クラピカの拳が小刻みに震えた。今すぐにでもこの男の喉元を砕いてやりたい衝動を、爪が掌に食い込むほどの力でねじ伏せる。

 

 そこへ、部屋の隅で電話を終えたリーダーのダルツォルネが、硬い顔で歩み寄ってきた。

 

「十老頭直属の窓口と連絡がついた。……陰獣が全滅したそうだ」

 

 クラピカの視線が、ダルツォルネへ向いた。

 

「梟と化猫は消息不明。ほかの八人は全員死亡だ。旅団を足止めしていた連中は、もういない」

 

 ダルツォルネは携帯電話を握り直すと、努めて声に力を込めた。

 

「だが、大金星だぞ、クラピカ。あの怪物を生け捕りにしたんだ。十老頭からの報酬とボスの昇格は間違いない。じきに引き取りの部隊がここへ来る」

 

「……引き渡す前に、もう少しこいつから情報を聞き出したいのですが」

 

「焦るな。本格的な尋問は、引き取りの連中が来るまでの間に私がやる。お前は少し外の空気でも吸って頭を冷やしてこい。さっきから殺気が立ちすぎているぞ」

 

 ダルツォルネに肩を叩かれ、クラピカは唇を噛んで拘束台の前から一歩下がった。

 

 そのときだった。

 

 クラピカのジャケットのポケットの中で、携帯電話が、ブブッ、と短い振動を立てた。

 

 通話の着信ではない。一通の短いメールだった。

 

 クラピカはダルツォルネたちに背を向けるようにして廊下へ出、扉を閉めてから携帯電話の画面を開いた。

 そこに表示されていた差出人のアドレスと、わずか数行の文面を見た瞬間、クラピカの息が止まった。

 

『いい夜だね♠ クモのことで、キミに少し話がある。三番街の古い時計工房の裏手まで、一人で来られるかい? ――ヒソカ』

 

 ヒソカ。

 

 一月のハンター試験で対戦し、自分から敗けを認めた奇術師。そのときヒソカは、蜘蛛について知ることがあるとクラピカに告げていた。

 

 なぜ、蜘蛛の情報を持つというヒソカが、ウヴォーギンを捕らえたばかりのこのタイミングで、私の連絡先へ直接メールを送ってきたのか。

 

 罠の可能性は十分にある。自分ひとりを誘き出して始末し、この鎖の拘束を解くつもりかもしれない。

 

 廊下の隅に立っていたセンリツが、クラピカの心音の変化に気づいてそっと声をかけてきた。

 

「クラピカ……? 今の連絡、誰からなの? すごく嫌な音がしたわ」

 

 クラピカは携帯電話を閉じ、数秒だけ目を閉じて思考を巡らせた。

 

 呼び出しを寄越したからといって、罠でない証拠にはならない。それでも、蜘蛛の内情へつながるかもしれない糸口を、確かめずに捨てることはできなかった。

 

 蜘蛛の内情につながるかもしれない、今はほかにない糸口。

 

「……センリツ。少しだけ、外へ出て知人と会ってくる。ダルツォルネには、少し外へ出ると伝えておいてくれ」

 

「ひとりで? 危ないわ、あたしも一緒に――」

 

「いや、ひとりで行かなければ、相手は口を開かない。用件を確かめたら戻る。それまで、中の男から絶対に目を離さないように頼む」

 

 センリツの目をまっすぐに見つめてそれだけを告げると、クラピカは足音を消して拠点の裏口から夜の街へと滑り出た。

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