三番街の外れ、再開発から取り残された古い時計工房の裏手は、割れた街灯がひとつだけ不規則に明滅する、深い暗がりになっていた。
昼間のにぎわいが嘘のように静まり返った石畳の路地へ、クラピカは全身に《纏》を張り巡らせ、右手の鎖をいつでも放てる状態のまま足を踏み入れた。
周囲に伏兵の気配はない。
ただひとり、崩れかけた煉瓦塀の上に腰掛け、青白い月光の下でトランプのカードをシャッフルしている男の姿だけがあった。
「やあ、来てくれたね。待っていたよ、クラピカ」
トランプの束を片手でぴたりと揃え、ヒソカが塀の上から音もなく石畳の上へと降り立った。奇術師の装束に身を包み、細められた金色の瞳が、暗がりの中で愉しげにクラピカを捉える。
クラピカは十メートルほどの距離を保ったまま足を止め、鋭い声で問いかけた。
「……蜘蛛のことを話せると言ったな。お前は、奴らとどういう関係にある?」
「んー、ただの仲間同士とは少し違うかな」
ヒソカは肩をすくめ、ジョーカーのカードを指先に挟んでひらりと揺らした。
「キミが知りたいことは、いくつか教えられるよ。たとえば、今夜キミが捕まえた男の仲間のこととかね」
クラピカは右手を下げなかった。自分が今夜あの男を捕らえたことを、相手は知っている。どこから見ていたのか。それとも、誰かからもう聞いたのか。
「ならば、先にお前の用件を聞こう。なぜ私に話を持ちかけた?」
敵意を解いたわけではない。声は冷たく、二人の間の距離もそのままだった。
ヒソカはすぐには答えず、クラピカの右手へ目を留めた。それから、愉しそうに口の端を上げる。
十メートルほどの間合いを挟み、ヒソカは指先に挟んだジョーカーのカードを唇の端へ軽く当てて、細めた瞳でクラピカを見つめ返した。
「用件、か。そうだね……単刀直入に言おうか。ボクと手を組まないかい、クラピカ?♠」
思いがけない言葉に、クラピカは眉をわずかに動かした。だが、全身に巡らせた《纏》も、いつでも鎖を放てるように構えた右手も、一ミリたりとも緩めない。
「手を組むだと? お前がまず答えるべきは、その一つ前の問いのはずだ」
「おっと、そうだったね。順番に話そう♣」
ヒソカはトランプの束を左手の掌へ滑り込ませると、着ていた奇術師の上着の裾を片手で軽くめくり上げた。
露わになった脇腹に近い背中の肌に、十二本の脚を持つ黒い蜘蛛の刺青が浮かんでいる。その胴体の中心には、『4』という数字が刻まれていた。
クラピカの瞳が鋭く見開かれ、右手の指先がぴくりと跳ねる。
反射的に鎖を放ちかけた衝動を、クラピカは奥歯を噛み締めて寸前で押し留めた。もし目の前の男が本物の旅団員として自分を殺すつもりなら、わざわざ自分から背中の印を見せびらかすような真似はしない。
「……お前も、旅団の一員だったというのか」
「半分は正解で、半分はハズレかな♦」
ヒソカは愉しげに口の端を吊り上げると、背中の蜘蛛の刺青の端へ指先をかけ、ペリ、と薄い皮でもめくるようにそれを引き剥がした。
指先に摘ままれたのは、蜘蛛の絵柄が精巧に浮かび上がった一枚の白い布切れ――いや、薄い膜のようなハンカチだった。しかもヒソカが指先からふっとオーラを離した瞬間、その布の表面から蜘蛛の模様が跡形もなく消え失せ、ただの白い布へと戻った。ヒソカの背中にも、傷ひとつ残っていない。
「前の四番を少しばかり退場させて、ボクが代わりに入ったのさ。でも見ての通り、ボクは本物の蜘蛛じゃない。ただの気まぐれな仮入団だよ♣」
「……偽の刺青で奴らを欺いている、と? 何のためにそんな真似をしている」
「決まっているじゃないか。ボクのお目当ては、旅団の『頭』……団長のクロロ=ルシルフルただ一人さ♥」
ヒソカの声から戯けた響きが消え、代わりに底冷えのするような、それでいて甘美な熱を帯びた光がその瞳に宿った。
「ボクはね、団長と一対一で戦いたいんだよ。あの男は素晴らしい。けれど、とても用心深くてね。普段は必ず二人以上の団員を自分のそばに置いているし、ひとたび旅団の『仕事』が終われば、メンバーは全員散り散りになって、次の集合まで団長の居場所すら掴めなくなる♠」
ヒソカは白い布を無造作にポケットへしまい込み、一歩も間合いを詰めないまま両手を広げてみせた。
「だから、団長がこの街に留まっている今のうちに、周りの邪魔な『脚』を何本か減らすか、団長から引き剥がす必要がある。その点、キミは蜘蛛を狩りたいんだろう? ボクは団長と戦う機会が欲しい。お互いの利害は、綺麗なくらい一致していると思わないかい?♦」
クラピカは冷たい目でヒソカを射抜いた。
クルタ族の悲劇に対する同情でもなければ、裏社会の悪党を討つための正義感でもない。ただ自分の戦闘欲を満たすためだけに、仲間であるはずの盗賊団を裏切り、こうして外部の人間へ情報を売ろうとしている。
だが、クラピカにとっては、相手が善人面をして近づいてくるよりも、むしろその歪んだエゴの方がはるかに計算しやすかった。この男が団長との決闘を望んでいる限り、少なくとも自分を今ここで旅団へ突き出す理由はない。
「……一つ聞こう。五年前の、クルタ族の襲撃だ。お前は、同胞たちから奪われた『緋の眼』が今どこにあるか知っているか」
「んー、残念だけど、それはボクが入団する前の仕事だからね。直接は見ていないんだ♣」
ヒソカはあっさりと首を振った。
「ただ、団長の癖なら知っているよ。あの男はね、盗んだお宝をしばらく手元で眺めて楽しんだら、あとはあっさり興味を失って、残らず売り払ってしまうんだ。だから、キミが探している『眼』も、とっくに旅団の手を離れて、今回の地下競売あたりに出品されていてもおかしくないね♠」
クラピカは静かに息を吐いた。
やはり、旅団のアジトを叩けばすべての眼が取り戻せるというほど単純な話ではない。地下競売のルートと、旅団そのものの追跡。その両方を同時に進めなければ、同胞の眼にも仇敵の首にも届かないということだ。
「それで、取引の材料は何だ。お前が私に提供できる情報を言え」
「旅団は団長を頭に、十二本の脚を持つ計十三人の組織だ。ボクがこれまでに確かめた団員の能力は、七人分。もしキミがボクと手を組むと約束してくれるなら、その七人分の能力を教えてあげよう♦」
七人分。旅団の過半数にあたる情報だ。
しかし、クラピカは即座に首を縦に振ることはしなかった。
「……お前の言い分は分かった。だが、今この場で全面的な協力を約束することはできない。私には今、雇い主の護衛という立場があるし、お前の言葉に嘘がないかを見極める時間も要る」
「ふふ、慎重だね。キミのそういうところ、嫌いじゃないよ♥」
ヒソカは肩をすくめると、指先に挟んでいたジョーカーのカードを、くるりと裏返した。
「じゃあ、こうしようか。ボクの誠意の証として、今夜のところは二人分だけ、先に能力を教えてあげるよ。ちょうどキミたちがさっき関わったばかりの二人だからね♣」
クラピカの視線が鋭くなる。
「一人目は、キミがさっき鎖で捕まえて連れていった大男。名前はウヴォーギン。旅団の中でも一番の怪力を誇る、生粋の強化系能力者だ。技はシンプルでね、右拳にオーラを込めて殴り抜く《
郊外の荒野で、岩盤を粉々に吹き飛ばして巨大なクレーターを穿ったあの一撃が、クラピカの脳裏に蘇った。やはり、小細工のない純粋な強化系の極致だったのだ。
「そしてもう一人は、地下競売の会場を綺麗に片付けた小柄な女の子、シズク。具現化系の能力者でね、デメちゃんという掃除機を具現化する。その掃除機は『生き物と念で作られたもの以外』なら、彼女が指定したものを何でも吸い込んでしまうし、一番最後に吸い込んだものだけを吐き出すことができるんだ♦」
会場からの連絡が途絶え、外へ出てきたのは数人の逃亡者だけだった。死体や血痕まで吸い込める掃除機があるのなら、少人数で後始末を済ませられるのも説明がつく。
「この二人分で、ボクが本当のことを話しているかどうかは確かめられるはずさ。残りの五人分については、キミの返事を聞いてからにしよう♣」
ヒソカは一歩後ろへ下がり、煉瓦塀の影へと身を寄せた。
「答えが決まったら、また連絡してよ。あ、それと……キミが捕まえたウヴォーだけど、仲間たちが黙って見ているはずがないから、気をつけた方がいいかもね♠」
「……忠告は感謝する。こちらから連絡を入れる」
クラピカが短く応じると、ヒソカはひらりと片手を振って、音もなく路地の闇の奥へと溶け込むように消えていった。
気配が完全に消えたのを確かめてから、クラピカは《纏》を収め、即座に踵を返して走り出した。
ヒソカの最後の言葉が、胸の奥に嫌な引っ掛かりを残していた。ウヴォーギンの仲間たちを足止めしていた陰獣は、もういない。あの怪物と同格の連中が救出に向かっているのなら、引取部隊を待っている時間すら危うい。
クラピカは夜の石畳を蹴り、ウヴォーギンを閉じ込めてある仮拠点へと急いだ。
◇ ◇ ◇
ノストラードファミリーの仮拠点、一階の裏口に近い控室。
センリツは窓際に立ち、地下へと続く廊下と、建物の外から届く音を聴き分けていた。ここからでも、拘束台の上の大男の心音は追える。裏口の向こうでは、バショウとリンセンが搬出用の通路を確かめていた。
クラピカは『知人と会ってくる』と言って出る前に、引取部隊への引渡しに備え、ウヴォーギンを巻いていた念の鎖を回収している。今は鋼鉄の帯と手錠、体内に残る麻痺毒が、あの巨体を留めていた。
ガキィンッ、と硬いものが弾かれる音が、地下から響いた。
「……くそっ、なんだこいつの身体は! 麻痺して動けないはずなのに、なぜ剣が通らん!?」
ダルツォルネの声に、大男の哄笑が重なる。
「無駄だぜ、おっさん。そんななまくらでオレの皮が裂けるもんかよ。さっきの鎖野郎はどこへ行った?」
センリツが耳を澄ませ直したとき、正面玄関で車の扉が閉まった。
五人分の足音。続いて、見張り役からダルツォルネへの連絡が聞こえる。
『リーダー、十老頭の窓口から引き取りの連中が到着しました!』
「ふん、ようやく来たか」
地下の鉄扉が開く。入ってきた者たちは、まっすぐ階段を下りていった。
「十老頭直属の処理班だ。捕虜の引き渡しを受けに来た」
「ああ、待ちくたびれたぞ。サインを済ませたら、さっさと運んでいってくれ」
センリツは窓枠へ置いていた指を止めた。
五人の心音が、妙に落ち着いている。あの怪物を引き取るというのに、警戒で拍が速まる者が一人もいない。
腰の無線機へ手を伸ばした、そのときだった。
短い息。何かが倒れる鈍い音。
その間に、ダルツォルネの心音が途切れた。
センリツは息を呑んだ。戻れば、階段で鉢合わせになる。
無線機から手を離し、裏口の扉をそっと押す。外にいた二人へ駆け寄った。
「離れて。今すぐ」
バショウが眉を上げるより先に、リンセンの袖を引く。声は落としたまま、足だけは止めなかった。
「地下で、リーダーの心音が止まった」
バショウの表情が変わる。建物へ向けかけた顔を戻し、二人と一緒に路地を抜けた。
角を曲がっても、センリツは走った。背後からは、金属を引き裂く音と大男の声が追ってくる。
引取部隊などではない。
建物から離れ、次の角まで抜けてから、センリツはようやく携帯電話を取り出した。
◇ ◇ ◇
シャルナークは、床へ倒れたダルツォルネの傍らを通り過ぎた。フィンクスは腕についた血を拭い、持ってきた書類を遺体の上へ落としている。
奥の部屋を覗いたノブナガが、廊下へ顔を戻した。
「こっちは空だ」
「ウヴォーを先に出そう」
地下室の中では、フィンクスが拘束台の分厚い鋼鉄の帯へ両手をかけ、強引に力任せでそれを引き千切っていた。
「よう、ウヴォー。ずいぶん大人しく寝てたじゃねえか」
「ちっ、遅えぞてめえら! それより早くこの忌々しい痺れをどうにかしやがれ!」
「シズク、頼むよ」
シャルナークに促され、シズクがデメちゃんを具現化してウヴォーギンの肩口の噛み傷へと吸い口を押し当てた。
「ウヴォーの体内の毒だけ、全部吸い取って」
ガチガチ、とデメちゃんの牙が鳴り、ズズズッ、と低い吸引音が響く。わずか数秒のうちに、ウヴォーギンの全身を縛りつけていた病犬の神経毒が、傷口から残らず吸い出されていった。
その間、シャルナークは部屋の隅の机に置かれていたダルツォルネのノートパソコンと通信端末を手早く操作し、画面に表示された宿泊先のデータや連絡網を目で追っていた。
「……へえ、なるほどね。この連中、ネオン=ノストラードっていうお嬢様の護衛チームなんだ。泊まってるホテルの部屋番号まで全部ここに入ってるよ」
シャルナークがメモを取って顔を上げると同時に、拘束台の上からウヴォーギンがガバッと上半身を起こした。
バキバキッ、と首と肩の骨を豪快に鳴らし、ウヴォーギンが立ち上がる。
「あー、やっと身体が動くようになったぜ! おい、ここにいた鎖野郎はどこへ行きやがった!?」
「鎖野郎? ああ、お前を捕まえた奴か。俺たちが来たときにはもういなかったぜ」
フィンクスが肩をすくめると、ウヴォーギンは獰猛に目を剥いて床を踏み鳴らした。
「ふざけんな! あいつだけは、オレの手で絶対にぶち殺してやる! シャル、そいつの居場所は分かるんだろうな!?」
「うん、さっき調べたホテルに行けば、手がかりくらいは掴めると思うよ。……ただ、その前にウヴォー、お前の身体のことで一つ言っておくことがあるんだけど」
シャルナークは苦笑しながら、ウヴォーギンの肩口の傷を指差した。
「ここへ来る前に、残りの陰獣から聞いたんだけどさ。あの太った男、お前の傷口に『寄生蛭』を仕込んだらしいよ。生き物だからシズクのデメちゃんじゃ吸い出せないんだ。なんでも、ビールを大量に飲んで小便と一緒に流さないと、体の中で卵が孵ってえらいことになるってさ」
「ああん!? なんだそりゃ、気持ちわりぃな! じゃあ行く途中で酒場を襲って、ビールを樽ごと飲み干してくりゃいいんだろ!」
「まあ、そういうこと。とりあえずここから出るよ」
シャルナークは、麻痺の抜けたウヴォーギンを促して地下室を出た。廊下にも一階の控室にも、もう人影はなかった。
外の路地に停めてあった大型のバンに、救出に来た五人が乗り込む。
その後部座席の奥には、先ほどの追撃戦で捕らえられ、袋を被せられて縛り上げられた陰獣の《梟》と、同じように後ろ手で拘束されて床に転がされている《化猫》の二人の姿があった。残りの陰獣たちはすでに戦闘で蹴散らされ、競売品を詰め込んだ小さな風呂敷包みも、今は旅団の手の中に収まっている。
ウヴォーギンだけはバンには乗り込まず、シャルナークからホテルの名前と場所を書いたメモをひったくるように受け取ると、夜の街へと単身で駆け出していった。
◇ ◇ ◇
センリツから連絡を受けて、十数分後。
仮拠点へ戻ってきたクラピカが目にしたのは、廊下に横たわるダルツォルネの冷たくなった遺体と、空っぽに引き千切られた地下室の拘束台だった。
「……ごめんなさい、クラピカ。異変に気づいたときには、もう……」
引取部隊を名乗る者が来たこと。地下でダルツォルネの心音が途絶え、その直後に拘束具の壊れる音がしたこと。センリツは、逃げるまでに聞いたことだけを短く伝えた。クラピカは空になった拘束台を見て、静かに目を閉じた。
別件の連絡から戻ってきたスクワラも加わり、クラピカ、センリツ、バショウ、スクワラ、リンセンの五人が、主を失った部屋で顔を突き合わせた。
「……どうする。俺たちを雇った直接の契約者はダルツォルネだ。そいつが死んだ以上、今ここで手を引いても契約違反にはならねえ」
バショウが腕を組んで低い声で言った。金のために命を捨てる義理はないという口ぶりだった。
だが、クラピカは迷うことなく顔を上げた。
「私は残る。地下競売で確かめたいことが、まだある。ここで退くつもりはない」
「……あたしも残るわ。まだ、探している手がかりが見つかっていないもの」
センリツが静かに頷き、バショウとスクワラも互いに顔を見合わせてから、「ちっ、乗りかかった船だ」「ここで逃げ出しちゃ、寝覚めが悪いからな」と息を吐いた。
クラピカは即座にダルツォルネの懐からボス直通の携帯電話を取り出し、ライト=ノストラードへと連絡を入れた。
ダルツォルネの死と捕虜の脱走、そして地下競売の品々が旅団に奪われた可能性を簡潔に報告すると、電話口のライトは激しく狼狽した。やがてクラピカを臨時の護衛リーダーに指名し、自分が到着するまで娘のネオンを最優先で守るよう命じた。
「――いいか、みんな。奴らはここで、私たちの滞在先を調べられたはずだ。ホテルも部屋番号も、知られたつもりで動く」
通話を終えたクラピカは、四人の顔を順番に見渡して指示を飛ばした。
「私が鎖で捕らえたあの大男は、自分を縛った相手を捜している。今からすぐにホテルへ戻り、ネオン様と侍女たちを全員、別のホテルへ極秘裏に移動させる」
「待て、クラピカ。お前はどうする気だ?」
スクワラの問いに、クラピカは冷たく澄んだ瞳で答えた。
「私は元の部屋に一人で残り、奴を待つ。あいつが捜しているのは私だ。避難先へ向かわせる前に、ここで誘い出す」
「ひとりで!? 無茶よ、クラピカ! 相手はバズーカ砲でも傷つかなかった怪物なのよ!」
「だからこそ、お前たちを巻き込むわけにはいかない。……それに、私には奴を倒す算段がある。ネオン様たちの護衛は任せたぞ、センリツ」
センリツの制止を静かに振り切り、クラピカたちは急いで仮拠点を後にした。
ホテルへ戻り、深夜の混乱の中でネオンと侍女たちを裏口から別の高級ホテルへと退避させる手続きを終えると、クラピカは誰もいなくなったスイートルームの全ての照明を落とし、窓際のソファへたった一人で深く腰を下ろした。
右手の五本の指に巻かれた銀色の鎖が、カーテンの隙間から差し込む街の明かりを受けて、鈍く光っている。
夜明けまでか、あるいは明日の夜か。奴は必ずここへ来る。
クラピカは静かに瞼を閉じ、呼吸を深く整えながら、来るべき一騎打ちの刻を待った。
◇ ◇ ◇
九月二日の朝。
カーテンの隙間から差し込む明るい日差しに目を覚ましたらでんは、ホテルの洗面台で顔を洗い、ブラウスの襟元を整えてから書き物机の前へと座った。
鞄からいつもの手帳を取り出す。昨日、館内の装飾暦を見たあとに書き写しておいた九月の記録を、机の上へ開いた。
二日の予定は『資料確認』。通常の文字と枠だったことも、脇へ控えてある。四日の欄から写した赤い『面会』と黒い星、その日付の枠だけが灰色だったというメモに、もう一度目を止めた。相手も場所もまだ分からない。今日の資料確認を済ませながら、街の様子にも気を配っておこう。
手帳を鞄へ戻し、携帯電話を手にとって、はじめへの朝の定期連絡を打ち込んだ。
送信してすぐに、画面の向こうからはじめの返事が返ってきた。
携帯電話を鞄にしまい、部屋の鍵をしっかりと確認してホテルを出る。
表の大通りへ出てみると、確かにはじめが言っていた通り、昨日よりも街の空気がどこか落ち着かないことに気づいた。朝の通勤客や観光客に混じって、サイレンを鳴らさないパトカーが何台も通り過ぎていくし、交差点の角には武装した警備員や、目つきの鋭い黒スーツの男たちが立って周囲へ視線を光らせている。
らでんは昨日の朝に確かめておいた退避用の扉――公文書館と百貨店の裏口の位置を横目で軽く確かめながら、歩道の真ん中を歩いて競売本館へと向かった。
正面の石段を上り、エントランスで参加登録証を見せて中へ入る。
一階のロビーでは、顔見知りらしい画商たちが数人集まって、「昨夜、裏の地下競売の方でとんでもない襲撃があったらしいぞ」「十老頭が血眼になって犯人を探しているそうだ」と声を潜めて囁き合っていた。
けれど、この本館で行われている正規の美術品オークションは、裏社会の地下競売とは会場も運営もまったく別だ。受付の係員に尋ねてみても、「ええ、当館の展示および六日の本競売は、すべて予定通り執り行われますのでご安心ください」と丁寧な笑顔が返ってきた。
裏の世界で何が起きているのかは分からないけれど、自分が迎えに来た絵が巻き込まれていないなら、まずはそれが一番だ。
らでんは胸を撫で下ろし、電子機器をクロークへ預けてから、二階の資料閲覧室へと足を運んだ。
「おはようございます。今日もロット番号一〇八の付属資料の続きをお願いできますか?」
昨日と同じ係員から白手袋と保存ファイルを受け取り、窓際の静かな閲覧机へ腰を下ろす。
昨日読んだのは、一九二四年にこの《我々はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか》が直射日光を避けるために北側の書斎から二階奥の展示室へ移された記録と、一九五八年に木枠の楔の緩みを調整した際の記録だった。
今日開いた二冊目のファイルには、一八九四年に画家エリアス・ヴァレーヌがこの大作を描き上げたあと、彼の死後に遺族が画商へと作品を託した際の手紙の写しと、画商の古い購入台帳、そしてエルデン家に収まる前に出品された二度の展覧会目録が綴じられていた。
らでんは白手袋の指先で、黄色く変色した台帳の複写をそっと辿った。
そこには、当時の画商がこの横長の大作を馬車と蒸気船で運ぶ際、カンヴァスを木枠から外して丸めるような乱暴な真似をせず、特注の二重の木箱を作って、湿気止めの油紙で何重にも包んで運搬したという細かな経費の明細が残っていた。
さらに一九五八年の木枠調整の添付図面を詳しく見ていくと、昨日らでんが展示室で実物を斜めから見たときに気づいた「四隅に無理な引き攣れや剥落がまったくない理由」が、はっきりと図解されていた。当時の修復師が、長い年月を経た麻布の耳を傷めないよう、元の釘穴をそのまま活かしてミリ単位で木枠の張り具合を整えていたのだ。
「……すごいなあ。やっぱり、昨日見たあの群青色の影や水面の絵具が、百年経ってもあんなに生き生きと残ってたのは、関わる人たちがみんな無理な力をかけずに守ってきたからなんだ」
らでんは手帳を広げ、画商の運搬記録と木枠の構造メモをさらさらと書き留めた。
もちろん、こうして残された紙の資料をいくら隅から隅まで読み込んでも、わからないことはたくさんある。
遺族の書簡は、作品を画商へ託す際の受渡しについて記したものだった。ヴァレーヌ自身がなぜ、同じひとつの地面の上にいながら全員が別々の方向を見つめている群像を描こうと思ったのか、その胸の奥の本当の気持ちまではどこにも記されていない。エルデン家の二代の当主たちが、二階奥の展示室でどんな顔をしてこの絵を眺めていたのかも、台帳の数字からは浮かんでこない。
念能力を使えば真贋や作者の人生が自動で文字になって浮かび上がるわけでもないし、この絵には死後念なんてひとつも宿っていない。
けれど、らでんはそこがいいのだと思った。
全部が最初から答え合わせのように分かっているわけじゃないからこそ、昨日自分の目で見たあの青い影の温度や、絵具の盛り上がりに心を動かされるし、「次は私がこの絵を自分の部屋に飾って、これから先の時間を一緒に過ごしたい」と心から思えるのだ。
一時間半ほどかけてファイルの最後のページまで目を通し、係員へ礼を言って資料を返却すると、らでんは一階のクロークで携帯電話を受け取った。
画面を見ると、ちょうどゴンから『らでんさん、今本館の近くの広場にいるよ! お昼ごはん一緒に食べよう!』というメッセージが届いているところだった。
◇ ◇ ◇
競売本館から歩いて五分ほどの場所にある、ガラス張りのカジュアルなサンドイッチカフェ。
らでんが扉を開けて中へ入ると、奥のボックス席でメニューを広げていたゴンとキルア、そしてノートパソコンをテーブルの隅に開いていたレオリオが顔を上げた。
「あ、らでんさん! こっちこっち!」
「お待たせしました、三人とも。昨日の今日で、もうお仕事の作戦会議ですか?」
らでんがゴンの隣の席へ滑り込むと、キルアがハムとチーズのサンドイッチを頬張りながら「ま、そんなとこかな」と肩をすくめた。
「午前中も広場の腕相撲と露店の掘り出し物探しをやってたんだけどさ、それだけじゃ五十八億なんてとても届きっこねーからな。レオリオがネットの裏サイトで、もっとデカい金になるネタを見つけてきたんだ」
「デカい金になるネタ、ですか?」
らでんが首を傾げると、レオリオが周囲の客に聞こえないよう少し身を乗り出し、声を潜めてノートパソコンの画面をらでんの方へ向けた。
「ああ、これを見てみろよ。昨日の夜、マフィアの地下競売場を襲撃した『幻影旅団』っていう盗賊団の手配情報だ。マフィアの十老頭って連中が、そいつらの首に懸賞金をかけやがったんだが……その額がとんでもねえんだよ」
画面には、裏社会の専用掲示板を通じて流れてきたらしい、短い条件文と数枚の粗い監視カメラのキャプチャ画像が並んでいた。
そこに記された数字を見て、らでんは思わず息を呑んだ。
「……えっ。いち、じゅう、ひゃく……一人につき、二十億ジェニー!?」
「そうなんだよ、らでんさん! 一人捕まえれば二十億だから、もし三人捕まえることができれば、それだけで六十億になって『グリードアイランド』が買えるんだ!」
ゴンが目を輝かせて言い、レオリオも「ああ。しかも捕まえるだけじゃなくて、連中の居場所につながる有力な情報を提供しただけでも、相応の報酬が支払われるって話だぜ」と鼻息を荒くした。
らでんは画面に並んでいる粗い画像へと目を凝らした。
そこに映っているのは、昨夜の会場や逃走経路で姿を確認されたという数人の実行犯――大柄な男や、小柄な眼鏡の少女、刀を差した男などの不鮮明な横顔や後ろ姿だった。全員の顔が揃っているわけではなく、組織を統率するリーダーの顔写真や名前も、そこには載っていない。
けれど、『一人二十億』という異常な数字が意味するものは、らでんにも痛いほどよく分かった。
らでんは自分のカップの紅茶を一口飲んでから、三人の顔を順に見た。
「……ねえ、三人とも。グリードアイランドのための資金集めなのは分かるんですけど、ひとつだけ、私の意見を言ってもいいですか?」
「ん? なに、らでん」
キルアがストローから口を離して聞き返す。らでんは少しだけ真面目な声で言った。
「一人につき二十億ジェニーなんていう金額は、『見つけたら簡単に捕まえられるボーナス』じゃなくて、そのお金を出しているマフィアの人たちが『自分たちの手には負えないから、誰か代わりに命がけで止めてくれ』って持て余している値段だと思うんです」
ゴンがぱちくりと目を瞬かせ、レオリオも「……まあ、そりゃそうだろうな。仮にも世界中のマフィアが集まる競売場を襲った連中だからな」と唸った。
「ええ。だから、お金が足りないからって、ゴン君たちがこの人たちを正面から戦って捕まえようとするのは、私は絶対に反対です。昨日も言いましたけど、知らない能力を持った相手と無理に戦うのは、修行じゃなくてただの無茶ですから」
もしここで、らでんが「危ないから、ゲームを買うお金は私が出してあげる」「私の能力でどうにかするから手を出さないで」と言ってしまえば、話は簡単なのかもしれない。
けれど、それはゴンとキルアが自分たちの力でジンへ辿り着こうとしている歩みを奪うことだし、そもそもらでん自身も、自分の貯めたお金は六日のヴァレーヌの絵のために使うと決めている。
すると、キルアがふっと口の端を上げて、肩をすくめてみせた。
「心配すんなって、らでん。オレたちだって、そんな二十億の化け物相手に、正面から殴り込みをかけるつもりはないよ」
「えっ、そうなの?」
「ああ。レオリオとも話してたんだけど、狙うのは『捕獲』より『目撃情報』。連中の居場所を見つけて、マフィア側に教えて報酬をもらう。ヤバそうなら、すぐ離れるさ」
「うん! 無理だと思ったら引くのも大事だって、前に教えてくれたよね。だからオレたち、まずはハンター専用サイトで情報を集めてみようと思ってるんだ!」
ゴンが力強く頷き、レオリオも眼鏡の位置を直して笑った。
「そういうこった。ま、お前がオレたちを心配して言ってくれてるのはよく分かるぜ、らでん。絶対に無茶な正面衝突はしねえから、安心しとけって」
「……ほんとですよ? 少しでも嫌な感じがしたら、すぐに離れてくださいね」
らでんが念を押すと、三人は揃って「分かってるって!」「おう!」と頷いた。
サンドイッチを食べ終え、カフェの前で「じゃあ、オレたちは情報集めの元手を作りに行ってくるぜ!」「明日は青空オークションの方も回ってみるね、らでんさん!」と手を振って駆けていく三人と別れる。
◇ ◇ ◇
大通りの人波の中を歩き出したゴンとキルア、レオリオの三人は、足早に中央駅近くの質屋街へと向かっていた。
「よし、じゃあまずはゴンのハンターライセンスを質草にして、目撃情報を買うための元手を借りるぞ」
「うん! ハンターライセンスなら、一億ジェニーくらいはすぐに貸してくれるんだよね、レオリオ?」
「おう、試験のときに聞いた通りならな。その金でネットに網を張って、幻影旅団の目撃情報を買い取るんだ。一人二十億の懸賞首なら、ちょっとした手がかりでもマフィアどもは喜んで大金を払うはずだぜ」
「だな。……情報が入っても、近づきすぎないようにしないとね」
キルアはポケットに両手を突っ込みながら、通りを往来する黒塗りの車へと鋭い視線を走らせた。
らでんにはああ言ったものの、一人二十億という金額の裏にある血生臭い空気は、暗殺一家で育ったキルアの肌にもぴりぴりと伝わってきている。それでも、自分たちの手で五十八億を稼ぎ出し、あのゲームを手に入れるためのこれ以上ない好機であることも間違いなかった。
三人は顔を見合わせて頷き合い、質屋の暖簾が揺れる通りへと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
夕方、自分の泊まっているホテルの四階へと戻ってきたらでんは、部屋の鍵をしっかりと掛け、クローゼットの中を確かめてから書き物机へと向かった。
五日からは、莉々華が予約してくれた現地の防音スタジオでの本格的なリハーサルが始まる。それまでに、九月四日に公開する告知動画の最終チェックと、九日の青・奏・莉々華、そして十日のらでん・はじめと五人全員でのコラボ配信に向けた歌とトークの準備を、自分の部屋で進められるところまで詰めておかなければならない。
らでんはノートパソコンを開き、運営スタッフから送られてきていた四日公開予定のミュージックビデオの仮編集データと、告知用の画像データを再生した。
ヘッドセットの奥から、五人の声が重なる軽快なイントロが流れ出してくる。
画面の中で動く自分たちのイラストと歌詞のタイミングを一つずつ目で追いながら、らでんは手元の譜面にブレスの位置やハモリパートの注意点を赤ペンで細かく書き込んでいった。
昼間、街で見かけた物々しい警備や、ゴンたちから聞いた『幻影旅団』の二十億の懸賞金の話が、頭の片隅にないわけではない。明後日――九月四日の予知暦に記された灰色の枠が、この街の騒ぎと何か関係があるのかどうかも、まだ分からないままだ。
けれど、画面の中で響く青や奏、莉々華やはじめの声を聴いていると、自然と背筋が伸びて、指先に力が戻ってくる。
何があっても、四日の告知と九日・十日の本番には、五人揃って最高の形で立ちたい。そのためにも、今日できる準備をひとつも疎かにはできなかった。
気づけば窓の外はすっかり暗くなり、時計の針は夜の八時を回っていた。
らでんはヘッドセットを外して首をぐるりと回し、携帯電話を手にとってはじめへの夜の定期連絡を送った。
やり取りを終えて携帯電話を机に置くと、らでんは譜面を綺麗に揃え、浴室へと向かう準備を始めた。
温かい湯船に浸かって、明日――九月三日の青空オークションや資料整理の予定を思い浮かべる。
◇ ◇ ◇
九月二日、夜。
人里離れた荒野で、月明かりが鎖に縛られた巨体を照らしていた。
仲間の居場所を問うクラピカに、ウヴォーギンは血に塗れた口の端を吊り上げた。
「くたばれ……バカが」
それが、心臓に巻かれた鎖へ突きつけた答えだった。
次の瞬間、ウヴォーギンの胸の奥で、ジャリッ、と鎖が強く引き締まる音が響き、その心臓を内側から容赦なく握り潰した。
ウヴォーギンの巨体が大きく一度だけ痙攣し、そのまま糸が切れたように首を垂れて、ぴくりとも動かなくなった。
クラピカが右手の鎖を解除すると、支えを失った巨体が、ドサリ、と乾いた音を立てて荒野の赤土の上へと倒れ伏した。
風が吹き抜け、砂塵がウヴォーギンの背中を撫でて通り過ぎていく。
クラピカはその場に立ち尽くしたまま、自分の右手を見下ろした。
五年間のすべてを懸けて追い続けてきた、幻影旅団の一人を、ついに自分の手で葬った。
それなのに、胸の奥に広がっているのは、勝利の昂揚でもなければ、同胞の仇を討ったという晴れやかさでもなかった。
ただ、生身の肉を殴りつけたときの鈍く嫌な感触が拳の骨にこびりついて離れず、鼻の奥にまとわりつく血の臭いに、胃の底から強い吐き気がせり上がってくる。肩を動かすだけで、身体の奥に溜まった重さが腕へ落ちてきた。
クラピカはふらつく足を踏みしめて車のトランクへと戻り、積んであった鉄のシャベルを手に取った。
倒れているウヴォーギンの横へ歩み寄り、乾いた荒野の地面へシャベルの刃を突き立てる。
ザクッ、ザクッ、と土を掘り返す音だけが、誰もいない夜の渓谷に規則正しく響き続けた。
それが敵への敬意なのか、それともただ自分の目の前からこの死体を隠したかっただけなのか、クラピカ自身にも分からなかった。ただ、そうしなければこの場から一歩も前へ進めないように、重たい腕を動かし続けた。
やがて深い穴が掘り上がると、クラピカはウヴォーギンの巨体をその中へと下ろし、上から黙々と赤土をかけて埋めていった。
盛り上がった土の山の上に、目印代わりの手頃な岩をひとつだけ置く。
クラピカはシャベルを車へ戻し、ハンドルを握った。
指の節にこびりついた血が、乾いて皮膚を引いた。
◇ ◇ ◇
移転先のホテルへ着いたとき、廊下の照明は夜間用に落とされていた。
ネオンの部屋へ続く扉の前で、センリツが顔を上げる。
「……お帰り、クラピカ」
「ああ。お嬢様たちは?」
「変わりないわ。もう休んでる。ボスも、深夜には着くそうよ」
「そうか」
頷いて、その脇を通り抜けようとした。センリツが半歩だけ横へ動く。
「こっちに座って」
壁際に、小さな長椅子があった。
「まだ確認が――」
「リンセンが見てくれてるわ。今は座って、大丈夫」
言い返す言葉を探すより先に、膝から力が抜けた。
背もたれへ身体を預けると、上着の内側に残っていた夜風の冷たさまで、急に重く感じられた。
センリツは机の上の水差しからグラスへ水を注いだ。もう片方の手には、濡らした白いタオルを持っている。
「手、拭ける?」
クラピカは差し出されたタオルを受け取った。指を開き、乾いた血へ布を当てる。
白い端が、少しずつ赤茶色に変わっていった。
「……何も聞かないのか」
センリツはすぐには答えなかった。グラスを椅子の脇へ置き、少し離れたところに腰を下ろす。
「今のあなたには、休んでほしいの」
それ以上、問いは続かなかった。
窓の外を車が一台通り過ぎる。クラピカはタオルを握る手を止め、ようやくグラスへ指を伸ばした。
「……ありがとう」
センリツは小さく頷いた。
冷たい水をひと口飲み下す。喉を通ったあとで、クラピカは長く息を吐いた。