九月三日の朝、中央大通りの角にある銀行の現金自動預払機の前で、ゴンとキルアは画面に並んだ桁数を下から順番に数え直していた。
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……よし、ちゃんと一億ジェニー入ってる!」
「昨日ライセンスを預けたぶん、ちゃんと入ってるな。一億と三十四万ちょっとか」
キルアは通帳とキャッシュカードをゴンの手元へ戻しながら、ガラス扉の向こうを行き交う朝の通行人へ視線を走らせた。
昨日の昼、らでんとサンドイッチカフェで別れたあと、ゴンとキルア、レオリオの三人は中央駅近くの質屋街へ足を運び、ゴンのライセンスを担保に一億ジェニーの融資を取りつけた。ハンター専用サイトで幻影旅団の目撃情報を募るための懸賞金と、オークションで元手を増やすための軍資金だ。
今はレオリオがホテルの部屋に残り、ノートパソコンで情報募集の窓口を張っている。朝からさっそく「旅団を見た」という連絡が何件か入ったらしいが、どれも懸賞金目当てのデタラメばかりで、レオリオが電話口で怒鳴り散らしながら選別しているところだった。
「じゃ、まず目録だな。グリードアイランドが何日に何本出るか、確かめとこうぜ」
「うん!」
二人は朝の雑踏を抜け、ゲームソフトや貴金属を扱うサザンピース競売場の受付カウンターへと向かった。
今年の出品目録は一冊千二百万ジェニー。普通の買い物なら目玉が飛び出るような値段だが、一億を手にしたばかりの二人は迷わず代金を支払い、分厚いハードカバーの目録と情報端末用のディスクを受け取った。
ロビーの隅の長椅子へ並んで腰を下ろし、キルアが目録の索引から『グリードアイランド』のページを開く。
「あった。全部で七本か。六日から八日までは一本ずつ、九日と十日に二本ずつだってさ」
「七本もあるんだ! それなら、どれか一本くらいは絶対に落とせるよね」
「いや、ちょっと待てよ、ゴン。この下の欄を見てみろ」
キルアの指先が、商品写真の横に印字された数字の上で止まった。
ゴンも横から顔を寄せ、そこに並んだ文字を声に出して読む。
「発売時の定価、五十八億ジェニー……で、今回の最低落札希望額が、八十九億ジェニー!?」
「うわ、マジかよ……。昨日、らでんの前で『旅団を三人捕まえれば六十億だから買える』なんて計算してたけど、六十億じゃ出品者の希望額にすら届かないじゃん」
キルアは額に手を当てて、大きく息を吐いた。
発売当時の定価が五十八億だったから、そのくらい用意すればなんとかなると思っていたのだ。だが、世界中の富豪やコレクターが集まるヨークシンの競売では、そもそも八十九億ジェニーからしか入札が始まらない。競り合いになれば、実際の落札価格がどこまで跳ね上がるか見当もつかなかった。
「八十九億かあ……。レオリオの情報網で旅団の手がかりが見つかるのを待つだけじゃ、ぜんぜん足りないかもしれないね」
「ああ。目録代を引けば、八千八百万あまりか。この元手、かなり増やさなきゃまずいな」
キルアが目録をパタンと閉じて立ち上がる。ゴンもリュックの肩紐を握り直し、力強く頷いた。
◇ ◇ ◇
二人が向かったのは、サザンピースの周辺から旧市街の広場にかけて何百軒ものテントや露店が並ぶ、青空オークションの会場だった。
ここでは毎日、出品された品物に買い手が直接『自分の買いたい金額と名前』を書いた値札を貼りつけ、正午の締め切り時点で一番高い値札を貼っていた者がその品を競り落とす仕組みになっている。安く落とした掘り出し物を、目の利く骨董屋や下見市へ持ち込んで高く売り抜けば、一日で資金を何倍にも増やすことができるはずだった。
だが、いざ露店の間を歩き回ってみると、古い家具や食器、絵画や装飾品が山のように積まれていて、どれに本当の価値があるのか見分けがつかない。
「うーん、ただ見て回るだけじゃ、どれが高いのかさっぱり分からないね」
「だな。こういうの、らでんみたいな専門家なら台帳とか材質で分かるんだろうけど……あ、ちょっと待て、ゴン。あのケースの中」
刃物や古い武具を並べた露店の前で、キルアがふいに足を止めた。
ガラスケースの中に、十数本の古いナイフが無造作に並べられている。キルアはその中の一本――鈍い黒光りをする細身のナイフを指差した。
「あれ、ベンズナイフだ。百年くらい前にいたベンニー=ドロンって大量殺人鬼が、一人殺すたびに番号をつけて作ったんだよ。全部で二百八十八本。たしか親父も好きだったな」
キルアはケースの隅に貼られた値札を覗き込んだ。そこにはわずか数万ジェニーの入札札しか貼られていない。
「ほんとだ。ねえキルア、そのベンって人は、すごい刀鍛冶だったの?」
「ああ。殺人鬼だったのは確かだけど、自分の打つ刃物には異常なくらい執念を込めてたらしいよ。だから今でも欲しがるコレクターが多いんだ」
キルアの言葉を聞いた瞬間、ゴンは「そっか!」と顔を上げて両手を打ち合わせた。
「ねえキルア、今の話って、らでんさんが前に言ってたことと同じだよね!」
「え? なにが?」
「ほら、すごい職人さんや画家が本気で集中して作った物には、本人が念を知らなくても、強い思いやオーラが品物に残ることがあるって! だったらオレたち、《凝》で目を見開いて探せば、すごい人が作った品物を見つけられるんじゃないかな!」
キルアは目を丸くして、それからニヤリと口の端を吊り上げた。
「……なるほど。オーラを目印に探すわけか。試してみようぜ」
二人は並んで立ち、同時に《凝》を行って目の周囲へとオーラを集めた。
ただし、《凝》で見えるのはオーラであって、品物の真贋や作者名、相場が文字になって浮かぶわけではない。見つけたあとの値踏みまで省けるわけではなかった。
それでも、無数の古道具の中から、誰かが強い思いを向けた品を探す手掛かりにはなる。
《凝》の視界でガラスケースの中を見直すと、案の定、キルアが指差したベンズナイフの刀身からだけ、うっすらと白く揺らぐオーラの膜が立ち昇っていた。
「すごい、ほんとに光って見える! このやり方ならいけるよ、キルア!」
「よし、まずはこのナイフに入札札を貼って……正午の締め切りまであと一時間半、他のテントも片っ端から見て回ろう!」
二人は値札シールとペンを手に、広場にひしめく露店のテントを次々と駆け回った。
何百という品物を《凝》で見つめていくと、ほとんどの雑貨や古道具には何の反応もなかったが、ごく稀に、周囲の品とは明らかに違う淡いオーラを纏った品物が混じっていた。
正午前に二人が見つけ出したのは、ベンズナイフを除けば、広場の一角の古道具テントに並んでいた四つの品物だった。
一品目は、額に入った古い風景のリトグラフ。
二品目は、レースの衣装を着た西洋人形。
三品目は、深い緑色をした、不格好な木像。
そして四品目が、鈍い緑色の釉薬がかかった、両手に収まるほどの小さな壺だった。
どれも一見すると埃をかぶった普通の古道具にしか見えないが、《凝》で覗くと、それぞれの表面から確かなオーラの揺らぎが立ち昇っている。ゴンとキルアは周囲の買い物客に気づかれないよう、四つの品物にそれぞれ少し高めの入札札を貼りつけた。
ところが、締め切りの正午を告げる鐘が広場に鳴り響く、ほんの数十秒前のことだった。
四品目の小さな壺の前へ、軽いジャケットを着た細身の男がすっと歩み寄ってきた。逆立った茶色い髪に、どこか抜け目のない鋭い目つきをした男だ。
男は壺の底と縁をちらりと一瞥するなり、ゴンが貼っていた値札の上から、さらに高い金額を書き込んだ自分の札を素早く貼り重ねた。
「あッ!」
ゴンが声を上げて新しい札を書き直そうとした瞬間、時計塔の鐘が『ゴォーン!』と正午を打ち鳴らし、テントの店主が「はい、そこまで! 本日の入札締め切りでーす!」と手を叩いた。
「うわあ、最後の最後に壺だけ取られちゃった……」
「ちっ、あのおっさん、締め切りギリギリを狙って上乗せしやがったな」
キルアが舌打ちして睨む先で、茶髪の男――ゼパイルは、自分が競り落とした小さな壺の代金を店主に払いながら、不思議な生き物でも見るような目でゴンとキルアの方を振り返っていた。
四品のうち、リトグラフと人形、そして木像の三品は、合計六万八千五百ジェニーでゴンたちの手に入った。先に札を貼っておいたベンズナイフも落とせたので、キルアは刃を厚紙で包んで荷物へ収めた。
「ま、三つは取れたんだ。近くの骨董屋で、いくらになるか見てもらおうぜ」
「うん!」
ゴンが木像を両手で抱え、キルアがリトグラフと人形の包みを脇に抱えてテントを離れる。
その二人の少し後ろを、小さな壺を紙袋に入れたゼパイルが、ポケットに片手を突っ込んだまま何気ない足取りでついてきていた。
◇ ◇ ◇
広場から一本入った石畳の通りには、青空オークションの客を当て込んだ鑑定所兼骨董屋が軒を連ねている。
ゴンとキルアは、その中でも店構えの大きそうな一軒の扉を押し開けた。
「ごめんくださーい! いま競り落とした品物を買い取ってほしいんだけど!」
カウンターの奥に座っていた小太りの店主が、眼鏡の奥の目を細めて二人を見下ろした。子供が二人だけで入ってきたのを見て、あからさまに値踏みするような笑みを浮かべる。
「ほほう、坊主たちが青空市で買い物かい。どれ、見せてみな」
キルアがカウンターの絨毯の上に、リトグラフと西洋人形、そして木像を順番に並べた。
店主はルーペを手に取り、まずリトグラフの隅のサインと紙質を確かめ、次に人形の磁器の肌と衣装の裏地をめくって頷いた。
「ふむ……このリトグラフは保存状態がまずまずだな、十五万ジェニーといったところだ。こっちのビスクドールは衣装が少し傷んでるが、顔がいい。三十万ジェニーにはなるだろう。ただ、私が今ここで二つまとめて買い取るなら、四十二万ジェニーだな」
「四十二万! さっき払ったお金の六倍以上だよ、キルア!」
ゴンがパッと顔を輝かせる。しかし店主は、三つ目の木像へ視線を移すなり、わざとらしく眉をひそめて首を振った。
「だが、この三つ目の木彫り……こいつは駄目だ。素人が手慰みに彫ったガラクタだよ。彫刻としての値打ちは精々千五百ジェニーってところだな」
「えっ、千五百ジェニー? でもこれ、すごくいい感じがしたのに……」
ゴンが不思議そうに首を傾げると、店主は木像の底を撫でながら、額にうっすらと脂汗を浮かべて言葉を継いだ。
「まあ、彫り物としてはクズだが、使われてる材木だけは悪くない。削り直して別の細工物に使う材木代としてなら、十万……いや、今すぐ置いていくなら八万ジェニーで引き取ってやってもいいぞ。さっきの二つと合わせて、きっちり五十万ジェニーだ。どうだい、悪くない話だろう?」
「材木代で八万ねえ。まあ、合わせて五十万なら悪くないか。どうする、ゴン?」
「そっか。じゃあおじさん、それで――」
「――おいおい、ちょっと待った、坊主たち。そいつを八万で手放すのはやめておけ」
店の入り口の方から、いきなり声が飛んできた。
ゴンとキルアが振り返ると、古道具の棚の脇に、さっき青空市で小さな壺を競り落としていった茶髪の男が寄りかかっていた。
「あ! さっき壺を取っていったおじさん!」
「よお。お前らがさっきのテントで、なんであんな地味な四品ばかり狙ってたのか気になって、つい後ろから見せてもらったぜ」
男――ゼパイルは、ひらりと手を振ってカウンターの前まで歩み寄ると、店主が両手で押さえている木像を顎でしゃくった。
「なあ大将、子供相手にずいぶんあくどい商売をするじゃねえか。材木代が八万だと? 大将が本当に狙ってるのは、その外側じゃなく『中身』だろうが」
店主の顔色が、サッと変わった。
「な、何を言いがかりをつけてやがる! ただの出来損ないの木彫りだぞ!」
「出来損ないの木彫りを見て、なんでそんなに額に汗をかいてるんだよ」
ゼパイルは鼻で笑うと、ゴンとキルアにも見えるように木像の首元と背中の木目を指先でなぞってみせた。
「いいか、坊主たち。よく見てみろ。この不格好な木像はな、ただの置物じゃねえ。『木造蔵』って呼ばれる隠し金庫だ」
「木造蔵?」
「中をくり抜いて金貨や宝石を収め、木を合わせ直して、継ぎ目が分からねえように仕上げてある。見た目はこんな木彫りだ。泥棒が入っても、わざわざ壊して中を確かめたりしねえだろ? これを出した持ち主も、中のことまでは知らなかったのかもな」
ゼパイルは木像を軽く持ち上げ、手の中で向きを変えた。顔を近づけ、底から背へ指を滑らせていく。
「この大将は、持ち上げたときの重さと底の継ぎ目でそれが『木造蔵』だって気づいたから、材木代なんて嘘をついて八万ジェニーで買い叩こうとしたわけだ。……どうする、大将? このまま競売組合の連中に、素人騙しの未遂だって触れ回ってやろうか?」
「くっ……! わ、分かったよ! 絵と人形は言い値通りの四十五万ジェニー出す! その木像には手を出さねえから、さっさと持って帰ってくれ!」
店主が引きつった顔でレジから四十五万ジェニーの札束を取り出し、カウンターへ突き出した。
キルアがちゃっかりとその札束を数えてポケットへしまい込み、ゴンが木像を抱えて店の外へと出る。
通りの日差しの中へ出ると、ゴンは木像を抱えたまま、ゼパイルを見上げてぺこりと頭を下げた。
「ありがとう、おじさん! おじさんが教えてくれなかったら、危うく八万ジェニーで売っちゃうところだったよ!」
「へへっ、礼には及ばねえよ……と言いたいところだが、こっちも商売なんでね。助言料として、その木造蔵の中身の二割くらい貰えるとありがたいんだが」
ゼパイルが片目をつぶって指を二本立てると、キルアがジト目でその顔を見返した。
「おいおい、勝手に後ろからついてきて口を挟んだくせに、いきなり二割はぼったくりすぎだろ。だいたい、中身に何が入ってるかもまだ分かんないじゃん」
「ちっ、しっかりした坊主だな。じゃあ、ちょうど昼飯時だ。あそこのレストランで飯を奢ってくれるなら、その木造蔵を傷つけずに開ける手伝いをしてやるよ。オレの名はゼパイル。お前らは?」
「オレはゴン! こっちはキルアだよ!」
「へえ、ゴンにキルアか。よし、じゃあまずは腹ごしらえと行こうぜ」
◇ ◇ ◇
三人は通りの向かいにある大衆レストランへ入り、窓際のボックス席へ腰を下ろした。
ステーキと山盛りのパスタ、それに昼間からジョッキのビールを注文したゼパイルは、うまそうに喉を鳴らしてビールを半分ほど煽ってから、テーブルの上に紙袋から取り出したあの小さな緑色の壺を置いた。
「さて、飯が来る前にひとつ教えてくれよ。お前ら、あのガラクタだらけのテントの中で、どうしてあの三品と、この壺に目をつけたんだ? リトグラフと人形と木造蔵まではまだ分かるが、この壺だけは、どう見ても同じ基準で選んだとは思えねえんだがな」
「え? 同じ基準で選んだんだよ」
ゴンが不思議そうに答えると、ゼパイルはフォークを持った手を止めて目を瞬かせた。
「同じ基準だと? おいおい、どういうことだ」
「あのね、オレたち、すごい職人さんや画家が心を込めて作った品物には、その人の強い気合いみたいなものが残るって教わったんだ。だから、それが見えるように集中して探したら、さっきの三つと、その壺から同じように強い力が出てたんだよ」
念という言葉は伏せつつも、ゴンがまっすぐにそう説明すると、ゼパイルはしばらくポカンと口を開けて小さな壺を見つめ――それから、腹を抱えて「ハハハハッ!」と大声で笑い出した。
「な、なんだよおっさん、いきなり笑い出して」
「いや、悪い悪い! そうかよ、強い気合いが残ってた、ねえ……!」
ゼパイルは目尻に浮かんだ涙を指先で拭うと、緑色の小さな壺をゴンの目の前へコトンと滑らせた。
「いいか、ゴン、キルア。なんでオレが最後の最後にお前らの上から札を貼ってまで、この壺を回収したか教えてやろうか」
「うん、なんで?」
「この壺はな、三年前にオレが金に困って作った『贋作』なんだよ」
ゴンとキルアが、同時に目を見開いた。
「えっ……贋作!? じゃあそれ、ゼパイルさんが自分で作った偽物なの!?」
「ああ。有名な古窯の茶壺に似せて、土の配合から釉薬のひび割れ、底の古びた汚れまで、三日三晩ほとんど寝ずに工房にこもって作り上げた贋作さ。当時、目利きの骨董屋に本物として売りつけてまとまった金にしたんだが、まさか巡り巡って青空市に出てるとは思わなくてな。お前らが熱心に札を貼ってるのを見て、万が一にも昔の足がついちゃたまらねえと思って買い戻したってわけだ」
ゼパイルは自嘲気味に肩をすくめて、ビールの残りを飲み干した。
「だからよ、お前らの言う『すごい職人の気合い』ってやつが何なのかは知らねえが、少なくともそいつは本物か偽物かを見分ける目じゃねえってことだ。『早く高く売れてくれ』『絶対に誰にも見破られるな』っていう、贋作師の邪な執念がこびりついてただけなんだからな」
キルアが「へえ。贋作にもオーラは残るんだな」と、壺を見直した。
だが、ゴンはテーブルの上の小さな壺を両手でそっと持ち上げ、緑色の釉薬の艶や、指先に馴染む丸みをじっと見つめたまま言った。
「でも、すごいよ、ゼパイルさん」
「……あん?」
「だって、その壺もゼパイルさんが作ったんでしょ? こんなの、自分の手で作れるんだ。偽物だって聞いても、ゼパイルさんの腕がすごいのは変わらないよ」
ゼパイルは、言葉に詰まったように息を呑んだ。
ゼパイルのフォークが、宙で止まっていた。何か言いかけて口を閉じ、ゴンの顔と、土の厚みを確かめるその指先を見比べる。ゴンは壺をそっとテーブルへ戻した。
ゼパイルはしばらくゴンの澄んだ瞳を見つめ返し、やがて照れくさそうに鼻の頭を掻いて視線を逸らした。
「……ちっ、参ったね。ガキにそんな真っ直ぐな目で言われちゃ、毒気が抜けるぜ」
そこへ運ばれてきたステーキの皿を前に、ゼパイルはナプキンを首元へ挟みながら二人へ向き直った。
「よし、決めた。ゴン、キルア、お前ら金が要るんだろう? オレがお前らの金策を手伝ってやるよ」
「えっ、ほんとに!?」
「ああ。骨董の目利きから、買い手との駆け引き、競売への出品手続きまで、オレの知ってるノウハウを全部使ってやる。報酬の割合は、オレの仕事ぶりを見てからお前らが決めりゃいい。その代わり、とびきり面白え勝負をしようじゃねえか」
「うん! ありがとう、ゼパイルさん!」
「お、頼もしいじゃん。よろしくな、ゼパイル」
◇ ◇ ◇
三人は運ばれてきた料理を綺麗に平らげると、さっそく木造蔵を開けるため、青空市の近くにある下見市会場の貸し作業室へと向かった。
作業机の上に木像を据えると、ゼパイルは備え付けの工具箱から、鉄の金槌ではなく『木槌』と、刃先の薄い数本の『鑿』を選び出した。
「いいか、二人とも。こいつは割って開ける。だが、力任せにやりゃ中の品物まで傷つけちまう。まずは木目と継ぎ目を見て、鑿を入れる場所を選ぶんだ」
ゼパイルの指先が、木像の底から背へと木目を辿る。
昼食の席で軽口を叩いていたときとは別人のような、静かで鋭い職人の目だった。
「……ここだな。よく見ろ、この細い線。木目に紛らせてあるが、別々にした木を合わせた跡だ」
ゼパイルは薄い鑿の刃先を木目のわずかな隙間へとあてがい、木槌で『コン、コン』と乾いた音を立てて軽く叩き込んだ。
木像が動かないよう足で支え、鑿を持ち替える。一度ごとに手を止め、刃の入り方を確かめては木槌を下ろした。やがて、乾いた音とともに継ぎ目が割れ、木像が二つに開いた。
「うわあ、本当に中が空洞になってる!」
ゴンとキルアが机の上へ身を乗り出す。
くり抜かれた木の内部には、変色した古い真綿がぎっしりと詰められており、ゼパイルがピンセットでその真綿を丁寧に取り除いていくと、奥からまばゆい輝きが次々と顔を出した。
鈍く重たい光を放つ古い金貨の束。細かな金細工が施された鎖と指輪。大粒の天然真珠の首飾り。そして、深い赤や青の光を宿した数個の宝石。
「すっげえ……! おいゼパイル、これ全部でいくらくらいになるんだ!?」
キルアが目を輝かせて尋ねると、ゼパイルはルーペで金貨の刻印と宝石のカットを一つずつ確かめながら、低く口笛を吹いた。
「ほう、珠の艶もよく残ってる。金貨も悪くねえ。……安く見積もっても、全部合わせて『三億ジェニー』は下らねえぞ」
「さ、三億ジェニー!?」
ゴンとキルアが顔を見合わせて声を上げた。六万八千五百ジェニーで落とした三品のひとつが、一気に三億ジェニーの大台へと化けたのだ。
「よし、こいつは町の骨董屋なんかに卸したら買い叩かれるだけだ。このまま隣の下見市へ持ち込んで、明日の競売へ出す手続きを取ろう」
ゼパイルは木造蔵と中身を専用の展示トレイへ丁寧に並べ直し、二人を連れて下見市の受付カウンターへと向かった。
下見市は、翌日以降の競売にかけられる出品物を、登録済みのバイヤーや鑑定士たちが事前に見て回るための会場だ。
ゼパイルが慣れた手つきで出品登録の書類を書き上げ、係員がガラスケースの中に木造蔵と財宝を並べた途端、会場を回っていた目利きのバイヤーたちの視線が一斉にそこへ集まった。
すぐさま、恰幅のいいバイヤーの一人が歩み寄ってきて、「おい、そこの出品主! 今この場で現金二億五千万ジェニー払うから、明日の競売を通さずに私へ譲ってくれないか!」と小切手帳を取り出したが、ゼパイルは涼しい顔で手を振って断った。
「悪いね、こいつは明日の競売で競ってもらう品だ。二億五千万じゃ話にならねえよ」
バイヤーが悔しそうに舌打ちして去っていくのを見送り、ゼパイルはゴンとキルアへ小さくウインクしてみせた。
「見たか? 下見だけで二億五千万出すって人間がいるんだ。三億は狙える。ただ、競売で売れても小切手の決済や換金には日数がかかる。今日すぐ現金が入るわけじゃねえからな」
「そっか。でも、これで三億の見通しが立ったなら、手元のお金でもっと色んな掘り出し物を探せるね!」
ゴンが嬉しそうに頷いた、ちょうどそのときだった。
下見市の入り口の方から、聞き覚えのある明るい声が二人を呼んだ。
「あ、ゴン君、キルア君! やっぱりこっちに来てたんですね!」
◇ ◇ ◇
九月三日の午前中、らでんはホテルの部屋で手帳を開き、一昨日館内の装飾暦から書き写しておいた予定をもう一度確かめていた。
三日の欄にあるのは『下見市/確認』という通常の文字と、扉の印。そして明日の四日の欄には、赤い文字の『面会』と黒い星、その日付の枠だけが灰色だったというメモが並んでいる。
もちろん、手帳の紙に書き写した文字が勝手に書き換わることはないし、暦を見たからといって今日の安全が保証されるわけでもない。
それでも、朝一番にはじめへ『おはよう 今日は昼頃に下見市を少し見て回ってから、午後は部屋に戻って明日の告知動画と音源の確認を進めるね』と定期連絡を送り、はじめから『おはよー 外を歩くときは人混みに気をつけてな。音源の最終チェック、こっちも楽しみにしてるわ!』と返事をもらうと、自然と足取りが軽くなった。
そうして昼過ぎ、大通りに面した下見市の会場へ足を踏み入れたところで、展示ケースの前で大人の男性と話し込んでいるゴンとキルアの姿を見つけたのだ。
「らでんさん! ちょうどよかった、紹介するね!」
ゴンがぱっと笑顔になって駆け寄り、隣に立っていた茶髪の男性を示した。
「この人はゼパイルさん! さっき青空オークションでオレたちが落とした木彫りが『木造蔵』だって見抜いて、骨董屋さんに安く買い叩かれそうになったのを助けてくれたんだ!」
「えっ、木造蔵ですか!?」
らでんは目を輝かせてガラスケースの前へと歩み寄り、ゼパイルに向かって丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、儒烏風亭らでんと申します。二人がいつもお世話になって……というか、さっそくすごい場面を助けていただいたみたいで、ありがとうございます!」
「おう、ゼパイルだ。お前さんが、この坊主たちが言ってた知り合いの専門家かい。……へえ、木造蔵って聞いてすぐにピンと来るとは、お前さんも古美術の畑の人間だな?」
ゼパイルが少し驚いたように眉を上げると、らでんは「はい、文化財や美術品の調査をするのが仕事なんです」と頷きながら、ガラスケースの中に並んだ木像と、その横に広げられた金貨や真珠の首飾りへ視線を吸い寄せられた。
「うわあ……中の品物、よくこんなに綺麗なままで! あの、ゼパイルさん、ちょっとだけお聞きしてもいいですか? この木像、開ける前はどこに継ぎ目があるのか分からなかったんですよね。最初にどこを見て『中に何か入ってる』って気づかれたんですか?」
らでんが身を乗り出して尋ねると、ゼパイルは自分の手元を見られた職人の顔になって、少し得意げに口の端を上げた。
「いいところに目をつけるじゃねえか、らでんさん。最初はな、あの骨董屋の店主が持ち上げたときの手首の沈み方さ。この大きさの一木造りにしては、重心がほんの少しだけ腹の下に寄ってたんだ」
「あ、重心の偏りですか!」
「そう。で、実際に手に取ってみると、首の付け根から背中にかけて、ノミを入れた角度が不自然に浅い場所がある。普通に形を整えるなら、そこだけ刃を寝かせる必要はねえ。内側の薄いところを彫り抜かねえよう、加減したんじゃねえかと見たわけさ」
ゼパイルがガラス越しに木像の背中のラインを指差す。
言われた箇所へらでんが目を凝らすと、確かに木像の首筋から肩にかけて、彫りの溝がそこだけわずかに平らになっており、年輪の筋が別の木片と噛み合うように繋がっていた。
「ほんとだ……! 言われてから見ると、確かにここだけノミの入り方が違いますね! 私、文書や台帳から『この家に隠し蔵があったはずだ』って探すことはあっても、これは見落としたかもしれないです。彫り手の刃の加減まで手掛かりになるんですね」
「ま、オレは自分でも木を彫るし、どういうふうに木を継げば人の目が騙せるか、散々手を動かして覚えてきたからな」
「そこが本当にすごいんですよ! やっぱり、実際に自分の手で木を削ったり接合したりしてる方の目って、出来上がった形だけじゃなくて『作ってる途中の手の動き』が見えてるんですね」
らでんが心から感心して言うと、キルアが横から「らでんもさ、いつも古い道具の擦れ方とか修復の跡を見て、いろんなこと当ててるじゃん」と口を挟んだ。
「あ、私の場合は、こういう職人さんの技術というより、残された記録と突き合わせるのが好きなんですよ」
らでんはガラスケースの中の木造蔵の底の部分――少しだけ色の違う樹脂で埋められた古い補修跡を指差した。
「たとえば、この足先。後から別の木片を継いで直した跡がありますよね。こういう補修があると『後から手が入ってるから偽物だ』って話になりがちなんですけど、使われていた間の手入れかもしれない。誰が、何のために直したんでしょうね」
ゼパイルの目が、スッと細まった。
「……ほお。そこを見るのか。確かに足先の継ぎ木は、本体を隠してる継ぎ目とは作りが違う。接着したところの色もな。別の時期に直したのかもしれねえが、傷があるってだけで値を下げたがる奴もいるだろうな」
「ええ。でも、金貨の年代や補修の仕方を調べて、前の持ち主の記録と照らしたら、何か分かるかもしれないじゃないですか。作ったときと、その後に直されたとき。この一つの木像に、違う時間の手が残ってると思うと気になっちゃうんです。補修があるからって、ただ偽物だとか、値打ちがないとかで片づけたくないなあって」
らでんが楽しそうにそう語ると、ゼパイルはしばらく木像の足先とらでんの顔を交互に見比べてから、「ハッ、なるほどな!」と膝を打った。
「面白え見方をするじゃねえか、らでんさんよぉ! オレはまず『どう作ったか』『どう隠したか』って考えるが、その後に直して使った奴のことか。……裏付けが取れりゃ、競売で説明するにも面白え話になるな」
「えへへ、お役に立てたなら嬉しいです! ゼパイルさんみたいに作る側の手癖が分かる方とお話しすると、私ひとりじゃ見えなかったところが次々見えてきて、すっごく面白いです!」
「それはこっちのセリフだよ。ところで、お前さんもこのヨークシンへは何か買い付けに来てるのかい?」
「はい! 実は私、三日後――九月六日の本館の競売に出る絵を、どうしても自分の貯金で落としたくて来たんです」
らでんは肩に掛けた鞄から、自分が毎日持ち歩いている本館の近代絵画カタログを取り出し、付箋を貼った一〇八番のページを開いて三人に見せた。
そこに印刷されているのは、夕暮れの港で様々な方向を見つめる人々を描いた、エリアス・ヴァレーヌの《我々はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか》だった。
「へえ、ヴァレーヌの油絵か。こいつはまた、ずいぶん本格的な近代画を狙ってるんだな」
ゼパイルがカタログの写真を覗き込むと、ゴンとキルアも「あ、これがらでんさんがずっと欲しいって言ってた絵なんだね!」「なんか静かだけど、迫力ある絵だな」と顔を寄せた。
「そうなんです! これ、印刷の写真だと右端の木陰がただの暗い茶色に見えるんですけど、一昨日実物を見たら、影の中にすっごく綺麗なウルトラマリンと緑が何層も織り込むみたいに重ねてあったんですよ! しかも昨日、付属の保存記録を読ませてもらったら、百年前に画商さんが運んだときもカンヴァスを丸めずに二重の木箱で運んでて、五十年前の木枠の調整でも、元の釘穴をそのまま使って麻布が引き攣れないように直してあったんです」
らでんが身振り手振りを交えて熱っぽく語るのを、ゼパイルは目を細めて面白そうに聞いていた。
「元の釘穴を活かして木枠の楔だけ調整した、か。そいつは気を遣った仕事だな。張り具合を変えすぎりゃ、布にも絵具にも無理がかかる。保存記録と現物を見比べてから買うってのは大事だ」
「そうなんですよ、さすがゼパイルさん! 木枠の構造ひとつとっても、やっぱり手仕事の知識がある方だと話が早くて嬉しいです!」
らでんはカタログを胸に抱くようにして閉じ、ふっと時計へ目をやった。
時刻はもうすぐ午後二時になろうとしている。
「あ、いけない。私、午後からはホテルに戻って、明日の告知動画の最終チェックと歌の準備をしなきゃいけなかったんだ」
「そっか、明日から仲間のみんなとの発表が始まるんだよね、らでんさん」
「うん! まずは明日、九月四日に五人の告知動画とミュージックビデオが出て、九日と十日が現地からの本番配信なの。だから今日の午後は、送られてきた音源データの確認を部屋でしっかり済ませておきたくて」
らでんは鞄へカタログをしまいながら、ゴンとキルア、そしてゼパイルへ向き直った。
「ゼパイルさん、今日は短い時間でしたけど、木造蔵のお話が聞けて本当に楽しかったです! ゴン君とキルア君のこと、どうぞよろしくお願いしますね」
「おう、任せておけって。この二人の目とオレの腕があれば、明日の競売までにまだまだ面白い掘り出し物を見つけてみせるさ。お前さんも、六日のヴァレーヌの競売、いい結果になるといいな」
「ありがとうございます! じゃあね、ゴン君、キルア君。昨日も言ったけど、くれぐれも危ない無茶だけはしないでね!」
「うん、分かってるよ! またね、らでんさん!」
「おう、配信の準備がんばれよ、らでん!」
笑顔で手を振って下見市の会場を出ていくらでんの背中を、三人は入り口まで見送った。
◇ ◇ ◇
らでんが自分のホテルへと帰っていき、ゼパイルも「よし、じゃあオレは次の出品枠に間に合う掘り出し物が他にないか、奥の業者ブースを少し回ってくるぜ」と別れた直後のことだった。
ゴンのポケットの中で、携帯電話が甲高い着信音を鳴らした。
「あ、レオリオからだ!」
ゴンが急いで電話に出ると、受話器の向こうからレオリオの切迫した声が飛び込んできた。
『おい、ゴン! キルアも一緒か!? 出たぞ、今度はガセじゃねえ、本物の幻影旅団の目撃情報だ!』
ゴンとキルアの表情が、一気に引き締まった。
キルアも顔を寄せ、受話器から漏れる声へ耳を澄ませた。
「ほんとに!? どこにいたの、レオリオ!」
『旧市街の北側、第四広場に面したオープンカフェだ! 情報提供者が隠し撮りした映像を今お前らの端末にも転送した! 昨日見た手配画像に映ってた、刀を差したロン毛の男と、和服みてえな格好をした女の二人組だ! オレも今すぐそっちへ向かうから、広場の南口の時計台の前で合流するぞ!』
「分かった、今すぐ行く!」
通話を切るなり、キルアが自分の携帯端末に届いた短い動画ファイルを開いた。
粗い画面の中に映っているのは、確かに昨日カフェで見た裏サイトの監視カメラ画像と一致する二人――腰に長刀を差した鋭い目つきの男と、冷ややかな顔立ちの女性の姿だった。
「昨日の画像と同じだ。二人分なら、懸賞金だけで四十億か」
「うん! 行こう、キルア!」
二人は下見市の会場を飛び出し、大通りの人波を縫って北側の旧市街へと全速力で駆け出した。
十分ほど走って第四広場の南口へ辿り着くと、すでにタクシーを乗り捨てて待っていたレオリオが、柱の陰から手招きした。
「こっちだ、二人とも! 見ろ、あそこのテラス席に座ってる二人組だ!」
レオリオが指差す先、広場に面したカフェのテラス席で、刀を差した男――ノブナガと、束ねた髪の女性――マチの二人が、テーブルに飲み物を置いたまま周囲の雑踏を眺めていた。
距離はおよそ五十メートル。ここからでも、二人の周囲にだけ張り詰めた冷たい空気が漂っているのが肌で分かる。
「……あれか。こりゃ、うかつに近づけねえな」
キルアは柱の陰に身を潜めたまま、声を低く落とした。
「いいか、二人とも。昨日らでんとも約束した通り、正面からケンカを売るのは絶対にナシだ。オレたちの目的は、あいつらのアジトを突き止めてマフィアに情報を売ることだからな」
「おう、分かってる。だが、あの二人、そろそろ席を立ちそうだぞ」
レオリオが言った通り、テラス席のノブナガが小銭をテーブルへ放り投げ、マチと一緒にゆっくりと立ち上がった。
「レオリオはここに残って、連絡役をお願い! 足音や気配を消して尾行するのは、オレとキルアの二人だけで行った方が目立たないから!」
「……ちっ、本当はオレも一緒に行きてえところだが、ここから先はお前らに任せる。こっちは連絡が来たらすぐ回すからな。いいか、ゴン、キルア! 少しでもヤバいと思ったら、アジトなんか突き止めなくていいからすぐ引き返してこいよ!」
「うん、分かってる!」
ゴンとキルアは同時に《絶》を行い、全身から漏れ出るオーラをぴたりと閉ざした。
人混みの喧騒と建物の死角を巧みに利用しながら、二人は広場を出て石畳の裏通りへと歩いていくマチとノブナガの後方を、一定の距離を保って追い始めた。
曲がり角の向こうから、先を行く男の声がかすかに聞こえてきた。ゴンとキルアは足を止めた。
「……ちっ、ウヴォーの野郎、鎖野郎を追って出てから、まだ何の連絡もねえ。何も言わずに戻ってこねえなんて、あいつらしくねえぞ」
「ああ。あの鎖野郎に、また同じ手でやられたのかもね」
女の声が、それに応じる。だが、角の先で足音が遠ざかるにつれ、続く言葉は聞き取れなくなった。
ゴンがそっと角の先を覗くと、二人は立ち止まることなく、古い石造りの倉庫街へ入っていった。
ゴンとキルアは建物の陰を伝って後を追った。周囲から人の姿が減り、石畳を踏む二人の足音ばかりがやけに響く。
(……おかしいな。さっきまであんなに人通りの多い場所を歩いてたのに、急に誰もいない廃倉庫の区画へ入っていったぞ)
キルアは石塀の角で足を止め、隣のゴンの袖を軽く引いた。
「ゴン。気づかれてるかもしれない」
「うん、オレも今そう思った。わざと人気のない場所へ誘い込んでる感じだよね」
まだ先は見たい。だが、二人は角の先へ踏み出さずにいた。
らでんの下で基礎を重ねてきた。相手の条件が分からないうちに土俵へ乗らないこと。嫌な感じがしたら引くこと。訓練の合間にも繰り返された言葉が、今は足を止める理由になっていた。
前を行くマチとノブナガの姿が、崩れかけた石造りの建物に囲まれた中庭の奥へと吸い込まれていく。
「……ここまでだ。場所だけレオリオに伝えて、いったん引くぞ」
「うん、そうしよう!」
二人が無言で頷き合い、石塀の陰から来た道へ戻ろうとした――まさに、その瞬間だった。
「おや、もう帰っちゃうの? せっかくここまでついてきたのに」
背後から、冷たく落ち着いた女性の声が降ってきた。
ゴンとキルアの全身の毛が、いっせいに逆立った。
振り返った二人のすぐ後ろ――自分たちが今しがた通ってきたはずの路地の入り口を塞ぐように、エジプト風の装束を着た長身の男と、胸元の開いた黒いスーツ姿の女性が、音もなく立っていたのだ。
フィンクスと、パクノダだった。
(いつの間に……!? オレたちが前の二人を尾行してる後ろを、さらにこいつらが《絶》で尾行してたのか!?)
キルアの背筋を、氷水のような悪寒が駆け抜けた。
自分たちが獲物を追っているつもりでいたのに、最初から二重の網の中に挟み込まれていたのだ。しかも、前方の建物の陰からは、中庭へ消えたはずのマチとノブナガが、ゆっくりと路地へ戻ってくる足音が響いている。
前方に二人、後方に二人。
細い路地の両端を塞がれた。残るのは、左右の高い壁だけだ。
「キルア、左右に分かれて屋根の上へ抜けよう!」
「ああ、いくぞ!」
二人は同時に《絶》を解き、全身に《練》のオーラを爆発させて左右の石壁へと跳んだ。
ゴンが右側の建物の出っ張りへ足をかけて跳び上がろうとした瞬間、その頭上からマチが音もなく舞い降り、ゴンの行く手をぴたりと塞いだ。ゴンが空中で身をひねって着地した背後には、すでにパクノダが拳銃を抜くことすらなく、流れるような足取りで間合いを詰めている。
同時に、左側の壁際を駆け抜けようとしたキルアの前には、フィンクスが立ち塞がった。
「ちっ、邪魔だッ!」
キルアは走りながら足元の石畳の破片を爪先で蹴り上げ、フィンクスの顔面へ向けて鋭い礫として弾き飛ばした。
視界を塞ぐフェイント。その直後、キルアは低く姿勢を沈めてフィンクスの懐へと滑り込み、鍛え上げた《堅》のオーラを乗せた右の回し蹴りを、フィンクスの軸足のくるぶしへと叩き込んだ。
逃げ道を作るための一撃だ。わずかでも足を止められれば、脇を抜けられる。
しかし。
ガシッ、と鈍い音が響いた。
フィンクスは石礫をわずかに顔を振ってかわし、片方の左手だけを無造作に下ろし、キルアの蹴り足を足首ごと鷲掴みにして止めていたのだ。
「……なっ!?」
「なんだ、その程度かよ。ずいぶんすばしっこいから少しはやるかと思ったが、拍子抜けだな」
フィンクスが片腕を軽く振るっただけで、キルアの身体が紙切れのように宙へ浮き上がり、そのまま石畳の地面へと強烈に叩きつけられた。
「ぐあっ……!」
肺の空気が一気に押し出され、キルアが苦悶に顔を歪めた次の瞬間、横合いから踏み込んできたノブナガの抜刀が閃き、冷たい刃先がキルアの喉元の皮膚すれすれでピタリと止まった。
「動くなよ、小僧。指一本でも動かしたら、首が飛ぶぜ」
反対側の壁際でも、マチに腕を捻り上げられ、パクノダに首筋を押さえ込まれたゴンが、「くそっ……!」と奥歯を噛み締めて地面へ膝をついていた。
基礎の修行を重ねて以前よりずっと速く、強く動けるようになっていたはずなのに、目の前の四人との間には、まるで底の見えない絶壁のような実力の差があった。わずか数秒の交錯で、ゴンとキルアは指一本動かせないまま完全に制圧されていた。
「……あれ? マチ、ノブナガ。あんたたち、後ろにオレたちがいたの知らなかったのか?」
フィンクスがキルアの襟首を片手で掴み上げながら、不思議そうに眉をひそめた。
「ああ、聞いてないよ。団長が念のためにあんたたち二人を後ろにつけたんだろうね」
マチが淡々と答え、ゴンとキルアの顔を上から見下ろした。
「それより、こんな子供が二人だけかい。おい、あんたたち、初日の夜にウヴォーって大男を鎖で攫っていった連中の仲間か?」
「え……? 鎖? ウヴォーって誰のこと?」
ゴンが目をパチクリさせて聞き返すと、ノブナガが苛立たしげに刀の峰でキルアの肩を軽く叩いた。
「とぼけるんじゃねえぞ。鎖を使う念能力者だ。てめえら、そいつに頼まれてオレたちの後をつけてたんだろうが」
「知らねえよ、そんな奴! 一人二十億の懸賞が出てるだろ。居場所だけでもマフィアに売れりゃ、金になると思ったんだよ!」
キルアが刀の刃先を睨み返しながら吐き捨てるように言った。
実際、ゴンもキルアも、昨日クラピカと連絡を取っておらず、クラピカがノストラードファミリーの護衛として旅団のウヴォーギンと戦ったことも、クラピカの念能力が『鎖』であることも、まだ何ひとつ知らなかったのだ。
「懸賞金目当て、ねえ……」
パクノダが長いまつ毛を伏せ、ゴンの顎先へ白い指先を添えてその顔を覗き込んだ。
「ここで立ち話をしていても仕方がないわ。とりあえずアジトへ連れて行きましょう。この子たちが本当に鎖野郎のことを知らないのかどうか、車の中で私が確かめるから」
「そうだな。団長が戻るまでに、こいつらの素性をはっきりさせておくか」
フィンクスとマチに両脇を固められ、ゴンとキルアは倉庫街の裏手に停められていた黒塗りの大型バンへと押し込まれた。
◇ ◇ ◇
重たいスライドドアが閉まり、黒塗りのバンが旧市街の石畳を走り出す。
窓ガラスには濃いスモークが貼られており、外から差し込む午後の傾きかけた日差しが、車内を薄暗く照らしていた。
運転席にフィンクス、助手席にノブナガ。後部ではゴンとキルアが並べて座らされ、その通路側をマチが塞いでいた。パクノダは二人と向かい合う座席にいる。先ほどの口ぶりでは、団長はまだアジトに戻っていないらしい。
ゴンとキルアはいつ逃げ出せるかと視線だけで合図を交わしていたが、隣のマチにも、正面の女にも一切の隙がない。
「動かないで。質問に答えなさい」
パクノダが二人へ身を寄せ、右手をゴンの肩に、左手をキルアの肩から首筋へと添えた。
ただ添えられただけの冷たい指先だったが、ゴンもキルアも、背中の筋肉が勝手に強張るような異様な気配を感じ取った。
「まずひとつ目。……お前たち、『鎖を使う念能力者』に心当たりはある?」
「だから、さっきから知らないって言ってるだろ! オレたちは懸賞金のサイトを見てアンタらを探してただけだってば!」
キルアが言い返し、ゴンも「うん、鎖を使う人なんてほんとに知らないよ」と首を振った。
◇ ◇ ◇
パクノダは二人の言葉に返事をせず、肩に触れた指先へ意識を集中させた。
パクノダの能力は、対象が口先でついた嘘や、頭の表面でわざと思い浮かべた作り物のイメージを読むものではない。質問という刺激を投げかけることで、相手の心の奥底に沈んでいる『原記憶』を呼び起こし、浮かび上がってきた生の記憶をそのまま掬い取る能力だ。
だが、『鎖を使う念能力者』という問いに対して、二人の少年から浮かび上がってきた原記憶は、本当に真っ白な「知らない」という反応だけだった。昨日ネットの掲示板で懸賞金の画面を見た記憶はあっても、鎖を操る人物の顔や姿は、二人の記憶のどこにも結びついていない。
「……そう。鎖野郎のことは、本当に何も知らないみたいね」
パクノダが小さく呟くと、助手席から振り返ったノブナガが「ちっ、本当にただの賞金稼ぎのガキかよ」と鼻を鳴らした。
しかし、パクノダは二人の肩から指先を離さなかった。
これほど幼い少年が二人揃って《絶》を使いこなし、先ほどフィンクスへ向かって蹴りを放ったときには、確かによく練られた《堅》のオーラを纏っていた。裏社会の雇われハンターでもなければ、マフィアの手先でもない子供が、いったいどこでこれほど真っ当な念の基礎を身につけたのか。
念能力者同士の繋がりを辿れば、思わぬところから鎖野郎やノストラード組の周辺に行き着くこともある。
パクノダは細めた瞳でゴンとキルアの目を見つめ、二つ目の問いを静かに落とした。
「じゃあ、もうひとつ聞くわ。お前たち、その念を『誰に』『どんなふうに』教わったの?」
キルアの口が一瞬閉じ、すぐに挑むような目つきが戻った。
「プロハンターだよ。闘技場で知り合ってさ」
キルアはそこまで言って、パクノダの指先へ目を落とした。
だが、パクノダの指先が触れている限り、口先で何を言うかはどうでもよかった。
『誰に、どんなふうに念を教わったか』。
その質問が水底の小石を跳ね上げるように、ゴンとキルアの胸の奥で大切にしまわれていた記憶の底を揺らし――二人が実際に見て、聞いて、肌で感じたままの鮮烈な『原記憶』が、パクノダの指先へと一気に流れ込んでいった。
車の揺れの中で、パクノダの脳裏に、少年たちの記憶が鮮やかな映像と音になって広がっていく。
白と黒のツートンの髪に、金のメッシュが揺れる若い女性。
『らでんさん』『らでん』――フルネームを、儒烏風亭らでん。
闘技場の訓練室で、少年たちと向かい合ってステップを踏み、《纏》や《凝》、《堅》の基礎を一つずつ丁寧に教え込んでいる彼女の姿。そしてその記憶は、少年たちがもっとも強い驚きと憧れをもって記憶に刻み込んだ、ある一日の光景へと真っ直ぐに繋がっていた。
六月十三日。闘技場の二百階にある、彼女の私室。
彼女はブラウスの襟元から下げた『鋼の雪玉』を指先でつまみ上げ、なんの変哲もない室内扉の鍵穴へとそっと押し当てて、静かなオーラを通した。
カチリ、と重い錠前が外れる音がして、開かれた扉の向こうに現れたのは、本来の部屋の間取りには存在するはずのない、窓のない静謐な展示室――『《
パクノダの眉が、ぴくりとわずかに動いた。
記憶の中の彼女は、目を輝かせる二人の少年を展示室の中へと招き入れ、ガラスケースに並んだ品々を示しながら、自分の仕事と能力について穏やかな声で語っていた。
亡くなった人間の強い念が宿った品物を、この館に集めて保存していること。
《
さらに少年たちの視線は、展示室に収められた三つの品物へと順番に向けられていた。
ひとつは、古い木製の投函箱と、その横に飾られた三枚の絵画『《
ふたつ目は、展示台に開かれた、木版画の温かな模様が刷られた装飾暦『《
そしてみっつ目は、白い鮫皮の柄に金の象嵌が施された、美しい一振りの処刑刀『《
記憶の中の彼女は、もう一冊の分厚い台帳――『《
館の外で使うときには、人と品と目的を別に記録する手続きが要ると、彼女は話していた。
――そこまでだった。
刀をどう使うのか、外へ持ち出す手順はどうなっているのか。そこを辿ろうとしても、記憶は続かなかった。少年たちの前で、刀で何かを斬って見せたこともないらしい。パクノダに見えるのは、二人が実際に知ったところまでだ。
だが、パクノダにとっては、今読み取っただけの情報でも十分すぎるほど異常で、そして価値のあるものだった。
(……扉の鍵穴から繋がる、念の収蔵館。品物に宿る記憶を読む本に、人を探す三枚の絵、一か月の予定を示す暦、そして本を閉じても消えない死後念の復元品……)
(……私と、団長?)
品物から記憶を引き出す働きは、自分に近い。他人の遺した念を本へ収め、取り出して使う仕組みは、団長を思わせる。その二つが、同じ一人の中で繋がっている。
ケースには原本を残し、本を閉じても復元品は消えない。団長の能力とは違うところもある。それでも、ここまで重なる能力者がいるとは思わなかった。
パクノダは、自分が息を詰めていたことに気づいた。
その師匠の顔は、少年たちがつい先ほど下見市で見送った相手と同じだった。これほどの仕組みと収蔵品を持つ女が、今、この街にいる。
パクノダはゆっくりと息を吐き、ゴンとキルアの肩から静かに両手の指先を離した。
「……どうだった、パク?」
運転席からバックミラー越しに尋ねたフィンクスに、パクノダは感情の読めない涼やかな声で答えた。
「ええ、この子たちの言った通りよ。鎖野郎のことは、本当に何も知らないわ」
マチが、パクノダの顔を見た。
「……それだけ?」
パクノダはそちらへ目を向け、口元だけで小さく笑った。
「団長に、ちょっと話したいことができたの」
パクノダは、読み取ったばかりの『儒烏風亭らでん』という名前とあの収蔵館の記憶については、今はまだ口に出さなかった。
団長には、少年たちを調べた結果と合わせて直接伝えよう。手に入れた情報を頭の中で辿り直しながら、パクノダはそう決めていた。
スモークガラスの向こうで、午後の光を受けたヨークシンのビル群が後ろへと流れていく。
パクノダは脚を組み直したまま、自分の記憶を読まれたことにもまだ気づかず、悔しそうに前を見据えている二人の少年へと、静かに視線を戻した。