タイヤがアスファルトを走る低い音に、やがて乾いた砂利を噛む音が混じり始めた。
濃いスモークガラスに覆われた大型バンの車内で、ゴンとキルアは座席に押し込まれたまま、外の景色が急速に色を失っていくのを感じていた。
先ほどまで窓の向こうを流れていた旧市街の石造りの街並みや街路樹はすでに途切れ、代わりに錆びついた鉄骨や、窓ガラスの割れた廃工場の壁面が断続的に通り過ぎていく。ヨークシン市の外縁部に広がる、再開発から取り残された放棄区画だ。
向かいの座席では、黒いスーツを着た女――パクノダが、ゆっくりと脚を組み直していた。
つい数分前、彼女はゴンとキルアの肩へ白い指先を添え、『鎖を使う念能力者に心当たりはあるか』『誰に、どんなふうに念を教わったか』という二つの質問を投げかけた。キルアが適当な受け答えでかわそうとしたにもかかわらず、彼女はそれ以上言葉を返すことも、痛めつけて自白を強要することもなく、あっさりと指先を離して「鎖野郎のことは本当に何も知らないわ」と仲間に告げたのだ。
(……なんだったんだ、今の女)
キルアは正面のパクノダから視線を逸らさぬまま、奥歯をわずかに噛み締めた。
ただ肩に触れられただけなのに、あの瞬間、背骨の奥を冷たい指で撫で上げられたような悪寒が走った。目の前の女が単なるハッタリで質問を打ち切ったのではないという、底知れない不気味さだけが、首筋に重くへばりついていた。
やがてバンが大きく車体を揺らして減速し、崩れかけた石塀の内側で完全に停止した。
「着いたぞ。降りろ、小僧ども」
運転席のフィンクスがエンジンを切り、助手席のノブナガがスライドドアを外側から引き開けた。
午後の傾きかけた日差しと、埃っぽい乾いた風が車内へ吹き込んでくる。
通路側を塞いでいたマチが先に外へ降り立ち、その後ろからゴンとキルアが地面へと足を下ろした。逃げ出そうにも、前にはノブナガとマチ、すぐ背後にはフィンクスとパクノダがぴったりとついている。四人とも武器すら構えていないのに、四方から肌を刺すような気配の壁が張り巡らされていて、一歩でも横に跳べばその瞬間に首か足を潰されることが感覚で分かった。
目の前にそびえていたのは、屋根の半分が崩落し、むき出しになった鉄筋が肋骨のように空へ突き出た巨大な廃ビルだった。
「歩け。妙な真似はするなよ」
ノブナガに顎で促され、ゴンとキルアは砕けた瓦礫を踏みしめながら廃ビルの内部へと足を踏み入れた。
入り口の扉はとうに失われており、吹き抜けになった一階のホールには、崩れ落ちた天井のコンクリート塊やコンクリートの柱が墓標のように転がっている。高い位置にある窓穴から斜めに差し込む西日が、舞い上がる細かい塵を白く浮かび上がらせていた。
そして、その薄暗いホールのあちこちに、すでに先回りして待っていた人間たちの気配があった。
ゴンとキルアの足が、入り口の数歩先でぴたりと止まった。
ホールの中にいたのは、一人や二人ではない。
正面の崩れた階段の上に腰を下ろし、口元まで覆う黒い襟の隙間から氷のような細い目を向けている小柄な男。
その脇のドラム缶の上に座り、顔面にいくつもの縫い傷と異様に垂れ下がった耳たぶを持つ、岩のように巨大な男。
折れた柱の陰で携帯端末の画面を指先で弄んでいる、金髪のボブカットの青年。
丸眼鏡の奥の瞳を瞬かせながらこちらを見ている、黒いタートルネックの女。
顔のほとんどを分厚い髪の毛で覆い隠した極端に背の低い人影に、全身を隙間なく包帯でぐるぐる巻きにした男。
どの人間からも、先ほど路地裏でゴンとキルアを一瞬でねじ伏せた四人と同じ――いや、あるいはそれ以上に濃密で冷酷な異質の空気が立ち昇っていた。ホールの奥へ目を走らせても、人の気配は途切れない。
さらにホールの右奥――割れた窓枠の縁に片膝を立てて座っている一人の男を見た瞬間、ゴンとキルアは同時に凍りついた。
(――ヒソカ!?)
逆立った髪に、頬に描かれた星と雫のペイント。道化師のような奇抜な装束を纏ったヒソカが、長い指先でトランプのカードを弄びながら、すぐそこに座っていたのだ。
ゴンの喉が「あっ」と鳴りかけた瞬間、隣のキルアが素早くゴンの靴先を自分の踵で踏んだ。
窓枠の上のヒソカが、トランプの影から金色に光る細い瞳をちらりとこちらへ向けた。
その口元が、周囲の団員たちには見えない角度で、ほんのわずかだけ三日月型に歪む。ヒソカはカードを持ったままの人差し指を唇の近くへかすかに立て、次の瞬間には何事もなかったかのように退屈そうな流し目へ戻した。
(……そういうことか。あいつも、この幻影旅団の一員だったってわけかよ……!)
キルアは背中に冷たい汗を滲ませながら、ゴンの袖を短く引いた。
天空闘技場でゴンがヒソカと戦ったとき、あいつがどれほど異常な強さを持っていたかは嫌というほど見せつけられた。そのヒソカと同じ組織の人間が、ほかに十人もこの廃屋にひしめいているのだ。もし今ここでヒソカとの面識を口に出せば、どんな面倒が降りかかるか分かったものではない。ゴンも目配せの意味を察したのか、きゅっと唇を引き結んで視線を正面へと戻した。
「おい、そいつらはなんだ? 鎖野郎の仲間か?」
ドラム缶に座っていた巨漢――フランクリンが、低い地響きのような声で尋ねた。
「いや、違うみたいだぜ。ノブナガとマチの後ろをちょろちょろ嗅ぎ回ってたから引っ捕まえてきたんだがな」
フィンクスが首をコキコキと鳴らしながら答え、パクノダの方へ顎をしゃくった。
「車の中で私が調べたわ」
パクノダがホールの真ん中で立ち止まり、静かな声で言った。
「この子たち、鎖野郎のことは本当に何も知らない。ただマフィアが懸賞金をかけたのを見て、私たちの居場所を売ろうと後をつけてきただけよ」
「なーんだ、ただの賞金稼ぎの子供か。ウヴォーを攫った連中と関係ないなら、ここに置いといても仕方ないんじゃない?」
金髪の青年――シャルナークが、携帯端末をポケットへしまいながらあっけらかんと言った。
その隣で、黒い襟で口元を隠した小柄な男――フェイタンが、読んでいた文庫本をパタンと閉じて冷たい目を細めた。
「なら、ここで殺すか。顔見られたし、生かして帰す理由ないね」
あまりにも無造作に放たれたその一言に、ゴンとキルアの全身の筋肉が再び強く跳ねた。
冗談でも脅しでもない。まるで道端の虫を踏み潰すかどうかを決めるような軽さで、自分たちの生死がやり取りされている。
パクノダはその言葉には直接答えず、マチたちの横を通り過ぎながら小さく付け加えた。
「……それとは別に、団長が戻ったら少し話したいことがあるわ」
マチがわずかに眉を動かしてパクノダの横顔を見た。車内でも同じことを言っていたが、何の話なのか、キルアには分からない。マチはそれ以上尋ねず、腕を組んで壁際へと背を預けた。
そのとき、ゴンたちのすぐ後ろに立っていたノブナガが、フェイタンを睨んで一歩前へ出た。
「待てよ、フェイタン。まだ聞きてえことがある。殺すのはそれからでも遅くねえだろ」
ノブナガは腰の長刀を揺らしながら、ホールの真ん中に転がっている平らなコンクリートの塊――ちょうど机ほどの高さがある四角い瓦礫の前へどかりとあぐらをかいた。
「おい、そこの緑の小僧。ちょっとこっちへ来い」
ノブナガが指差したのは、ゴンだった。
「……オレ?」
「そうだ、お前だ。金目当てにオレたちを追い回してたんだろ。どれほどの腕があるのか、見せてみろ。ほら、手を出せ。腕相撲だ」
ノブナガはコンクリート塊の上に右肘を突き、節くれだった大きな掌を広げてみせた。
ゴンは一瞬キルアと顔を見合わせたが、逃げることも逆らうこともできない以上、引く理由はなかった。ゴンはまっすぐノブナガの前へ歩み寄り、石の台を挟んで向かい合うと、自分の右手を差し出してノブナガの掌をぎゅっと握り返した。
大人のごつごつした硬い手だ。握っただけで、相手の腕の奥にどれほど途方もない力が詰まっているかが掌から伝わってくる。
「いくぜ、小僧。――レディ、ゴー!」
ノブナガが合図をかけたのと、ゴンの右腕が横へなぎ倒されたのは、ほとんど同時だった。
ガンッ!!
乾いた衝撃音がホールに響き、ゴンの右手の甲がコンクリートの角へまともに叩きつけられた。
「……っ!」
ゴンは思わず顔をしかめた。《堅》を保って踏ん張ったはずなのに、ノブナガの腕の力はまるで鉄の塊が落ちてきたように重く、ゴンの力を文字通り紙切れのように押し潰していた。
「どうした。ほら、もう一丁だ」
ノブナガが腕を元の位置へ戻す。
ゴンは唇を噛み締め、もう一度ノブナガの手を握り直した。今度も《堅》を保ったまま、右腕に力を込めて足裏で地面を強く踏ん張る。
だが――結果は同じだった。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
二回、三回、四回。
握り合うたびに、ノブナガの腕は微動だにせず、ゴンの手の甲ばかりがざらついたコンクリートの上へ容赦なく叩きつけられる。五回目にはゴンの手の甲の皮膚が裂け、滲み出た赤い血が灰色の石の表面をべっとりと濡らした。
「ゴン……!」
後ろで見守っていたキルアが、思わず一歩踏み出しそうになるのを堪えて拳を握り締めた。
実力の差は、見ているキルアの目にも絶望的なほど明らかだった。ノブナガのオーラは、まだそれほど膨らんでもいない。余力を残したまま、全力で踏ん張るゴンの腕を赤子の手を捻るように叩き伏せているのだ。
それでも、ゴンは手を離さなかった。
手の甲から血が垂れ、指先がジンジンと痺れても、ゴンはノブナガの目を真っ直ぐに見据えたまま、何度でも右肘を石の台へ立て直した。
ノブナガはゴンの小さな手を握り返したまま、血のついた台へ目を落とした。その眉間に深く皺が寄った。
「ウヴォーの野郎はな、オレなんかよりずっと力が強かった。生粋の強化系でよ。頭の中は『もっと強くなりてえ』『強い奴とやり合いてえ』ってことしか詰まってねえような大バカ野郎だった」
ノブナガの声から、先ほどまでのからかうような響きが少しずつ消えていった。
ガンッ、とゴンの手を石に押しつけながら、ノブナガは誰に聞かせるともなく言葉を続ける。
「あいつとは昔っから反りが合わなくてよ、顔を合わせりゃいつも取っ組み合いのケンカばっかりしてた。がさつで、声がでかくて、作戦なんかろくに覚えやしねえ。……だがな、あいつは誰よりも仲間思いで、いつだってオレたちの先頭に立って一番危ねえ場所へ突っ込んでいく奴だった」
ノブナガの指先に、ぎりっと強い力がこもった。
「正面からやり合って、ウヴォーに勝てる奴なんかこの世にいるわけがねえ。それなのに、あいつは鎖野郎を追って出て行ったきり、戻ってこねえんだ。……卑怯な罠にかけられたに決まってる。あのバカが、あんなにあっさりいなくなるなんてよ……」
言葉の途中で、ノブナガの声が震えた。
見開かれたノブナガの目尻から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出し、無精髭の生えた頬を伝って石の台の上へとこぼれ落ちた。
「鎖野郎だけは、絶対に許さねえ……! どこへ隠れていようが必ず探し出して、ウヴォーの仇を討ってやる……!」
ゴンの血で汚れたコンクリートの上に、ノブナガの涙がぽたり、ぽたりと落ちて黒い染みを作っていく。
それを見つめていたゴンの瞳が、大きく揺れた。
目の前の男は、本気で泣いている。いなくなった仲間のことを思い出して、本当に悔しそうに、悲しそうに涙を流している。
その涙が嘘ではないと分かった瞬間――ゴンの胸の奥底から、今まで感じたこともないほど熱く激しい塊が、一気に喉元までせり上がってきた。
「……なんで」
ゴンの口から、低く震える声が漏れた。
ノブナガが涙の滲んだ目で、「あん?」とゴンを見下ろす。
ゴンの全身から、白いオーラが渦を巻くように膨れ上がった。
「なんで、アンタたち……仲間のために、そんなに泣けるんだ!?」
ゴンの叫び声が、廃ビルの高い天井に反響した。
ゴンの脳裏に、クラピカの横顔と、ニュースで聞いた競売場での虐殺の話が閃いた。
感情なんてかけらもない化け物だと思っていた。人の命をなんとも思わない冷血な集団だからこそ、あんなふうに大勢の人を平気で殺せるのだとばかり思っていた。
それなのに、目の前の男は、ひとりの仲間のためにこんなにも温かい涙を流している。
「そんなに仲間が大事なら……なんで、殺された人たちのことは考えないんだよ!!」
怒りとともに、ゴンの全身の《練》が爆発的に跳ね上がった。
握り合っていたゴンの右腕に全身の体重と気迫が乗り、涙で一瞬気の緩んでいたノブナガの腕をぐっと押し返す――そして次の瞬間、ゴンはノブナガの拳をコンクリートの上へと力任せに叩きつけた。
ガァンッ!!
石の破片が飛び散り、ノブナガの手の甲が台に打ちつけられた。
その直後だった。
ヒュッ、と空気が裂ける音がしたかと思うと、階段の上に座っていたはずのフェイタンの姿が掻き消え、いつの間にかゴンの真後ろに立っていた。
「あっ――!」
ゴンが反応するよりも速く、フェイタンの細い手がゴンの左腕を掴んで背中側へと鋭く捻り上げ、もう片方の手でゴンの後頭部を掴んで石の台へと乱暴に押さえつけた。
「ぐっ……!!」
「お前、ずいぶん偉そうな口きくね」
フェイタンの氷のように冷たい声が、ゴンの耳元へ落ちた。
ゴンの左肩の関節がミシミシと嫌な音を立てる。後ろで見ていたキルアが「ゴン!」と駆け出そうとした瞬間、壁際のマチとフィンクスの視線が刃物のようにキルアを射抜き、キルアの足をその場に釘付けにした。今ここでキルアが動けば、フェイタンの手が迷わずゴンの首をへし折るのが分かったからだ。
「ノブナガ、こいつ、やっぱり殺すよ。まず指から一本ずつ折るか、それとも腕ごと落とすか」
フェイタンの指先がゴンの手首にかかり、骨を砕く寸前の力が込められる。
それでも、石の台に頬を押しつけられたまま、ゴンは涙も浮かべずにフェイタンの方を睨み返した。
「……間違ったことなんか、言ってない……!」
「もう黙れ」
フェイタンのオーラが殺気を帯びて膨らんだ、そのときだった。
「やめろ、フェイタン。その手を離せ」
ノブナガが立ち上がり、低く凄みのある声で言った。
フェイタンはゴンの腕を捻り上げたまま、冷ややかな目だけをノブナガへ向けた。
「なぜ。こいつ、旅団を侮辱した。生かしておく理由ないね」
「離せって言ってんだ、聞こえねえのか」
ノブナガの左手が、腰に差した長刀の鯉口へと添えられた。
ホールの中の空気が、一瞬にして張り詰めた。フェイタンもまた、ゴンの背を押さえたまま片手を懐へと滑らせる。仲間同士でありながら、ほんのわずかなきっかけで真剣の殺し合いが始まりかねない剣呑な気配だった。
「おいおい、二人ともそこまでだ。仲間割れはルール違反だよ」
緊迫した空気を割って入ったのは、シャルナークの明るい声だった。
ドラム缶の上のフランクリンも、腕を組んだまま重々しく口を開く。
「意見が割れたらコインで決める。それが旅団の掟だろ、ノブナガ、フェイタン」
ノブナガとフェイタンは数秒間だけ無言で睨み合ったあと、ノブナガが先に「……ちっ、分かったよ」と刀の柄から手を離した。
シャルナークがポケットから一枚の硬貨――片面に十二本足の蜘蛛が刻まれたコインを取り出し、親指で高く弾き上げた。
キィン、と澄んだ金属音がホールに響き、回転するコインが西日を反射して落ちてくる。
「表だ」
ノブナガが短く言い、シャルナークが落ちてきたコインを手甲の上で受け止めてパッと開いた。
「よし、表だね。ノブナガの勝ちだ」
その一言が出た途端、フェイタンは先ほどまでの殺気が嘘だったかのように、あっさりとゴンの腕から手を離した。
「……ふん」
フェイタンは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、それ以上ゴンに見向きもせず元の階段の上へと戻っていった。
ゴンは解放された左肩を押さえながら身を起こし、隣へ駆け寄ってきたキルアと一緒に、目の前の連中を呆然と見つめた。今の一瞬、ゴンの命は間違いなく紙一重のところにあったのに、たった一枚のコインの裏表だけで、何事もなかったかのように揉め事が終わってしまったのだ。
「……おい、小僧ども。鎖野郎のこと、本当に何も聞いてねえんだな」
ノブナガはまだ険しい顔をしていた。ゴンだけでなく、その隣のキルアにも目を据える。
「何度も言ってるだろ。鎖を使う奴なんか知らねえよ」
「顔を知らなくたって、噂ぐらい耳にしてるかもしれねえだろうが。そいつはオレたちに強い恨みを持ってる。最近、ノストラード組に雇われた奴だ。よく思い出せ」
(旅団に、恨み……?)
キルアの頭に、一人の顔が浮かんだ。
ハンター試験で会った、金髪の友達。奪われた同胞の目を取り戻すため、幻影旅団を追っている――クラピカ。
(まさか……あいつが?)
雇い先は知らない。鎖を使うところも見たことがない。それでも、いくつもあったはずの可能性が、一気にその顔へと寄っていく。
「パク。本当に間違いねえのか」
ノブナガが苛立ちを隠さずに尋ねた。パクノダは壁際で腕を組んだまま、静かに頷く。
「車の中で調べたけど。二人とも、鎖野郎に結びつくものは持ってなかったわね」
(――!?)
キルアは息を呑みかけた。嘘をついていない、ではない。
車内で肩に置かれた指。鎖の使い手に心当たりはあるか、という問い。それきり追及せず、こちらの答えを疑いもしなかった女。
(こいつ……触って、記憶を読めるのか?)
あのときは、本当に知らなかった。クラピカと鎖は、頭の中で繋がっていなかった。だが今は違う。ノブナガの言葉を聞いて、結びつけてしまった。
もう一度あの指で触られたら。今、思い浮かべてしまった友達の顔まで見られたら。
キルアは拳を握り込みそうになるのを堪え、パクノダの手元からそっと目を外した。
そして、もうひとつの問いが蘇った。
誰に、どんなふうに念を教わったか。
(……らでんも、か?)
名前を言わなかったから安心していた。だが記憶を探る能力なら、口先でぼかしたところで意味がない。顔も、一緒に修行した時間も――あの部屋の扉の先で見た、館の中まで。
(やばい。どこまで見られたんだ……?)
パクノダは先ほど、団長に話したい別件があると言っていた。あれは師匠のことだったのかもしれない。
確かめる言葉ひとつ、ここでは口にできなかった。
女は二人へ近づこうとはせず、組んだ腕を動かさない。キルアは気づいたことを顔へ出さぬよう、ノブナガに視線を戻した。
「……ちっ。そうかよ」
ノブナガが短く吐き捨てた。鎖野郎の居場所に繋がる答えは、結局ひとつも出てこない。だが、血のついた手を押さえているゴンを見たところで、その険しい顔がふっと緩んだ。
「さっきはずいぶん言ってくれたじゃねえか、小僧」
ノブナガはゴンの前へしゃがみ込むと、まるで昔からの知り合いを見るような屈託のない笑みを浮かべた。
「お前、名はなんていうんだ?」
「……ゴン。そっちはキルア」
「そうか、ゴンにキルアか。その真っ直ぐな気性、ますますあいつにそっくりだぜ。……どうだ、お前、幻影旅団に入らねえか?」
「「はあ!?」」
ゴンとキルアの声が、綺麗に重なった。
ノブナガは自分の胸を親指で叩きながら、本気の顔で続ける。
「ウヴォーがいなくなって、ちょうど旅団の席がひとつ空いたところなんだ。団長が戻ってきたら、オレがじきじきにお前を推薦してやるよ。な、悪い話じゃねえだろ?」
「絶対イヤだ!!」
ゴンは一秒も迷わずに首を横に振った。
「アンタたちの仲間になんて、なるわけないだろ!」
キルアも、ゴンの隣で険しい顔を作った。
すると、壁際にいたマチが冷ややかな声で口を挟んだ。
「ノブナガ、あんたが勝手に決めるんじゃないよ。だいたい、そいつらが鎖野郎と無関係なら、いつまでもここに置いておくわけにはいかないだろ」
「だから、団長が戻るまでオレが責任もって見張っとくって言ってんじゃねえか。お前らが文句を言う筋合いはねえだろ」
「……まあ、ノブナガが自分で番をするっていうなら、好きにすればいいんじゃない?」
シャルナークが肩をすくめると、マチはノブナガへ顎を向けた。
「もともとあんたは留守番だろ。団長に推薦したいなら、その二人の見張りも一人でやりな」
「わかってるよ。団長が戻るまで、ここに置いとく。お前らは自分の仕事をしてこい」
マチはそれ以上言わず、他の団員たちへ視線を移した。シャルナークも携帯端末を取り出し、これから動く仲間へ声をかけ始める。誰も、二人の子供を連れていくつもりはないようだった。
ノブナガは立ち上がると、ゴンとキルアの襟首を左右の手でひょいと掴み上げた。
「ほら、お前らはこっちの部屋だ。団長に会わせるまで、大人しくしてろよ」
◇ ◇ ◇
ノブナガがゴンとキルアを放り込んだのは、ホールの奥にある廊下からひとつ入った、四畳半ほどの薄暗い小部屋だった。
かつては倉庫か事務室として使われていたらしいその部屋には、外の光を取り込む窓がひとつもなく、出入り口は今くぐってきた正面の戸口が一箇所あるだけだった。扉の板は外れてなくなっていたが、ノブナガはその戸口のすぐ外――廊下の真ん中にどかりとあぐらをかいて座り込み、鞘に収めた長刀を膝の上に横たえた。
「いいか、ゴン、キルア。この中でしゃべろうが寝ようがお前らの勝手だが、この戸口から一歩でも外へ出ようとするなよ」
ノブナガは廊下の向こうで他の団員たちが外へ出ていく足音を聞きながら、退屈そうに欠伸を噛み殺した。
「オレの間合いの中へ勝手に入ってきやがったら、お前らの首が飛ぶからな。せっかく団長に推薦してやろうってんだ、無駄死にするんじゃねえぞ」
縄で縛ることも、手錠をかけることもしない。
ただ窓のない部屋に二人を押し込み、唯一の出口の前に自分が座っているだけ。それだけで絶対に逃げられないという圧倒的な自信が、その無造作な態度から嫌というほど伝わってきた。
やがてホールの向こうから他の団員たちの足音が消え去った。それからしばらく待っても、団長が戻る気配はない。廊下の窓から差していた明かりが少しずつ薄れ、廃ビルの奥へ夕闇が忍び込んできた。
窓のない小部屋の奥は、すでに互いの輪郭がやっと見えるほどの暗がりになっている。
ゴンとキルアは部屋の最も奥の壁際まで下がり、ノブナガに聞こえないよう、互いの耳元へ顔を寄せてごく小さな声で囁き合った。
「……おい、ゴン。右手、大丈夫かよ」
キルアはポケットから清潔なハンカチを取り出し、血の乾きかけたゴンの右手の甲へそっと巻きつけて結んでやった。
「うん、ありがと。骨はなんともないよ。それよりキルア、ここからどうやって逃げようか」
「ああ。正直言って、正面からあいつを倒して突破するのは無理だ」
キルアは包帯代わりのハンカチを結び終えると、数メートル先の戸口に座るノブナガの背中へ鋭い視線を走らせた。
「さっき路地裏でオレの首筋に刀を突きつけてきたときのスピード、見たろ? あいつは居合の達人だ。座ったままの状態からでも、自分の間合いに入った相手を一瞬で斬り捨てられる。しかもオーラの量も練度も、今のオレたちとは桁が違いすぎる」
キルアはそこまで言って、一度だけ言葉を切った。
頭の中で、暗殺者として叩き込まれてきた冷徹な計算が回る。もしこの唯一の戸口から抜けるしかないのなら、二人同時に無傷で通ることは不可能だ。だが、どちらか一人が先に飛び出してノブナガの一太刀を身体で受け止め、刀が肉や骨に食い込んで止まったコンマ数秒の隙を突けば、もう一人は脇をすり抜けて外へ逃げ切れるかもしれない。
「……なあ、ゴン。もしオレが先に飛び出して、あいつの刀を左腕か肩で止めたら――」
「ダメだよ、キルア」
キルアが言い終えるより先に、ゴンが低く、しかしはっきりと強い声で遮った。
暗がりの中で、ゴンの真っ直ぐな瞳がキルアの目を射抜くように見つめていた。
「キルアが斬られるんじゃダメだ。二人で逃げるんだ」
ゴンの手が、キルアの袖口をぎゅっと掴んだ。
キルアは一瞬だけ息を呑み、それから小さく息を吐いて自分の頭を掻いた。
「……わかってるよ、悪かったって。怒るなよ」
「うん。じゃあ、二人とも斬られずに逃げる方法を考えよう」
二人は並んで壁に背を預け、薄暗い部屋の内部を隅から隅まで見回した。
らでんのもとで念の基礎を習っていたとき、いつも言われていた言葉がある。『相手の条件が分からないうちに、相手が用意した土俵へ真っ直ぐ乗らないこと』。
今、ノブナガが用意している土俵は、あの『正面の戸口』だ。あいつは、ゴンとキルアがこの部屋から出るにはあの戸口を通るしかないと思っているから、あそこで刀を構えて待っている。
(……戸口を通るしかない、か?)
ゴンの視線が、正面の戸口から、自分たちが寄りかかっている左右の古びた壁へと移った。
そのとき、ゴンの頭の中に、今日の昼間に下見市の作業室で見たある光景がふっと蘇った。
ゼパイルが木槌と鑿を手に、あの不格好な緑色の木像――『木造蔵』の背中を軽く叩いて割ってみせたときの場面だ。そのあと合流したらでんも、木像の継ぎ目やノミの跡を嬉しそうに覗き込んでいた。
「……あっ! ねえキルア、今日の昼間の『木造蔵』のこと、覚えてる?」
「ん? 木造蔵って、ゼパイルが開けたあの隠し金庫の木彫りか? あれがどうかしたのかよ」
「ゼパイルさん、木の横を割って開けただろ?」
ゴンは自分の背後の壁を指先でトントンと軽く突いてみせた。
「ここも、あの戸口を通らなくたっていいんだ。壁を壊して、隣の部屋へ出ればいい!」
キルアの目が、パッと大きく見開かれた。
外から見える形や、最初から用意された入り口に騙されないこと。正面の扉に鍵がかかっているなら、横の壁を割って中身を取り出せばいい。
「……なるほど! 正面の戸口しか見てない相手に、壁をぶち抜いて別方向から抜けるわけか!」
キルアはすぐさま振り返り、部屋の左右と背後の壁へ手のひらを当てて、材質と厚みを確かめた。
廃ビル自体の柱は太い鉄筋コンクリートだが、この小部屋を仕切っている内壁は、薄いレンガと劣化したモルタルを塗り固めただけの古い間仕切り壁だ。これなら、《堅》を保ったまま拳を叩き込めば、人間が通れる穴を空けられそうだった。
だが、キルアの思考はさらにその一歩先へと回った。
「待てよ、ゴン。ただ壁を壊して隣の部屋へ抜けるだけじゃ、まだ足りないぜ」
「え? どうして?」
「壁をぶち抜けば、当然でかい音が鳴るだろ。あいつは馬鹿じゃねえから、壁が壊れる音を聞いたら『隣の部屋の戸口から廊下へ出てくるつもりだ』って気づいて、すぐさまそっちの戸口へ先回りして待ち伏せするはずだ」
キルアは暗がりの床に指先で簡単な見取り図を描きながら、声をさらに潜めた。
「いいか、ここへ来るときに見た廊下の並びを思い出せ。この部屋の右側には、同じような小部屋が廊下に沿って二つ並んでた。で、反対の左側と奥の壁の向こうは、外の中庭に面した崩れた外壁に繋がってる」
「うん、そうだったね!」
「だから、その『音』を逆手に取るんだ」
キルアの瞳に、鋭く不敵な光が宿った。
「まず一発目、右側の壁を派手にぶち抜いて隣の部屋へ飛び込む。そこからさらに右の壁へ瓦礫を叩きつけて、右へ逃げ続けてると思わせるんだ。あいつが右奥の戸口へ回ったら、オレたちは最初の穴を引き返して元の部屋へ戻る。あとは反対側の外壁を抜けて、中庭へ出る!」
「うん、それなら二人で出られる!」
二人は暗がりの中で顔を見合わせ、同時にこくりと頷いた。
チャンスは一度きりだ。もし少しでもタイミングがずれれば、廊下を走るノブナガに追いつかれて斬り捨てられる。
ゴンとキルアは音のしないように右側の壁の前へと立ち、呼吸を合わせて拳を引いた。
《練》で高めたオーラを全身に保ち、二人は拳を引き絞った。
(いくぞ――せーのッ!!)
ドゴォォンッ!!
二人の拳が同時に古い間仕切り壁を打ち抜き、乾燥したモルタルとレンガが爆ぜ飛んで、壁にぽっかりと大穴が開いた。
◇ ◇ ◇
「なっ……!?」
戸口の外に座っていたノブナガが、轟音と砂煙に驚いてガバッと立ち上がった。
「てめえら、壁をぶち抜きやがったな!!」
ノブナガが部屋の中へ踏み込んだときには、すでにゴンとキルアの姿は開いたばかりの穴の向こう――右隣の二番目の部屋へと消えていた。
さらにその直後、二番目の部屋のさらに右奥から、ドガァンッ! と壁が砕け散る二つ目の激しい破壊音が響き渡った。
「右の突き当たりの部屋から廊下へ抜ける気か! させるかよ、小僧どもッ!」
ノブナガはすぐに廊下へ引き返し、右へと疾走した。壊れた壁の穴を順番に追いかけるより、廊下を走って突き当たりの三番目の部屋の戸口を塞いだ方がはるかに速い。
わずか一秒足らずで三番目の部屋の戸口の前へ回り込んだノブナガは、ぴたりと足を止め、腰を低く落として長刀の柄へ右手をかけた。
そのまま全身のオーラを薄い膜のように周囲へと広げ――半径四メートルの球状の空間『《円》』を展開する。
(来い、ゴン、キルア……! 出てきやがったら、逃がさねえぞ)
四メートル。それがノブナガの《円》を広げられる限界だった。その中へ入る相手を捉えるために、彼は抜刀の構えを保ち、部屋の奥へ意識を向けた。
砂煙の舞う三番目の部屋の奥から、パラパラと崩れた漆喰の欠片が床へ落ちる音がした。
一秒。二秒。三秒。
ノブナガの《円》の端が、部屋の内部の気配を探る。
しかし――おかしい。
《円》の内側で捉えたのは、床へ落ちて転がる瓦礫の動きだけだった。そこにいるはずの二人の身体は、触れてこない。
「……なにっ!?」
その瞬間、廊下のずっと後ろ――最初の部屋のさらに左奥の方角から、バキィッ! と腐った木枠と外壁が蹴り破られる乾いた音が、夜風に乗って遠く響いてきた。
「しまっ……二つ目の音は、瓦礫を投げ込んだだけのフェイントか!!」
ノブナガは《円》を解くなり、舌打ちして廊下を猛スピードで引き返した。
ノブナガは引き返しながら、隣室へ空いた穴と、床に転がっていた瓦礫を思い返した。二人は二番目の部屋からさらに右へ進んだのではない。音だけを鳴らして、自分が廊下を走る間に最初の穴を戻ったのだ。そこから反対の外壁へ抜ければ、《円》の外へ出られる。
ノブナガが二人の蹴り破った外壁の穴から中庭へ飛び出したときには、崩れた石塀の向こうに誰の姿もなく、夜の闇が静かに広がっているだけだった。
「……ハッ、やられたぜ。とんだ知恵者がいたもんだな」
ノブナガは夜風に吹かれながら、抜く機会を失った長刀の柄をポンと軽く叩いて苦笑した。
◇ ◇ ◇
その頃、廃ビルの区画を全速力で抜け出したゴンとキルアは、街灯の明かりが灯り始めた旧市街の舗装路へと飛び出し、人通りのある大通りまで一気に駆け抜けていた。
いくつもの角を曲がり、何度も振り返って追ってくる姿や足音がないのを確かめてから、二人はようやく明るいショーウィンドウの裏手の路地で足を止めた。
「はあっ、はあっ……! き、キルア、追ってきてないよね!?」
「ああ……はあっ、あの間合いの外まで出ちまえば、こっちのもんだ……!」
キルアは膝に手をついて荒い息を整えると、埃と漆喰の粉で真っ白になったゴンの顔を見て、ぷっと吹き出した。
「なんだよその顔、頭から粉かぶって真っ白じゃねえか」
「そういうキルアだって、髪の毛なんだか壁の粉なんだかわかんないよ! へへっ、でも、ちゃんと二人で逃げられたね!」
「まったくだ。……おいゴン、さっきの腕相撲のときみたいに、急にムキになって突っかかるのはもうやめろよな。おかげでこっちは心臓が止まるかと思ったぜ」
キルアが呆れたように言いながらも、ゴンの右手に巻いたハンカチが緩んでいないかを確かめる。
ゴンは少しだけバツが悪そうに笑ってから、でもすぐに真剣な目に戻って頷いた。
「ごめん。でも、あのまま黙ってるのはどうしてもできなかったんだ」
「……わかってるよ。それより、話しときたいことがある」
キルアは路地の出口へ一度目をやり、ゴンに顔を寄せた。
「鎖野郎って、クラピカのことかもしれない」
「えっ、クラピカが?」
「声、でかいって。ノブナガが言ってただろ。旅団に恨みがあって、最近マフィアに雇われた奴だって」
ゴンの表情から笑みが消えた。同胞を奪った蜘蛛を追っていると話した、友達の顔が浮かぶ。
「でも、オレ、クラピカが鎖を使うとこなんて見たことないよ」
「オレもだ。だから本人に確かめる。……それと、あのパクノダって女」
キルアは自分の肩に手を置いた。車内で触れられた場所だった。
「あいつ、生きてる人間の記憶を読める可能性がある。オレたちには鎖野郎は辿れなかった、言い切ってただろ」
「……だから、オレたちが知らないってことを他の団員が信じてたのか」
「たぶんな。あのときは、オレもクラピカだなんて思わなかった。でも、あそこで、もう一度調べられてたら危なかった」
ゴンも、肩に添えられた冷たい指先を思い出した。答えを聞くより先に、何かを確かめていたような女の目。
「らでんさんと、似た能力ってこと?」
「物の記憶か、人間の記憶かは違うけどな。相手の中に残ってるものを探るって意味じゃ、近い能力だ」
キルアが言葉を切ると、ゴンははっと顔を上げた。
「念を、誰に教わったかって聞かれた……!」
「ああ。名前を言わなきゃいいと思ってたけど、記憶なら関係ない。らでんのことも、館を見せてもらったことも、読まれたかもしれない」
ゴンの唇がきゅっと結ばれた。自分たちを信じて開けてもらった扉。その奥で見たものが、あの連中へ渡ってしまったのかもしれない。
「どこまで知られたかは、まだわからない。でも、あの女は団長に話があるとも言ってた」
「じゃあ、クラピカに聞こう。らでんさんにも電話しないと」
ゴンはポケットから携帯電話を取り出した。
「ああ。レオリオにも無事を知らせようぜ。あいつなら、クラピカが今どこにいるか知ってるかもしれない」
二人は通りの向こうへ目を走らせ、並んで歩き出した。まだ、誰が何を知られたのかも分からない。友達の声を聞いて、まずは確かめたかった。
◇ ◇ ◇
その数時間前。ヨークシンの西側の空には、まだ午後の明るい日差しが残っていた。
市の中心部にそびえる複合高層ビルの一階ロビーでは、レースとフリルをあしらった華やかなドレス姿の少女が、案内カウンターの前で頬をぷくりと膨らませていた。
ノストラードファミリーの組長のひとり娘、ネオン=ノストラードである。
「ねえ、どうして中に入れないのよ! 私は今日のためにわざわざヨークシンまで来たのに、入り口で追い返すなんてあんまりじゃない!」
空港で護衛の目を逃れ、一人でタクシーを拾って、ようやくここまで来たのだ。引き返すつもりはなかった。
「だって、パパが危ないから帰れって言うんだもん! 護衛の人たちも全然私の言うことを聞いてくれないし、こうやって自分で来るしかなかったんだもん!」
ネオンは受付係の男性に向かって、もう一度唇を尖らせた。
しかし受付係は困り果てた表情で頭を下げるばかりだった。一昨夜、地下競売の会場が何者かに襲撃された一件以来、本館周辺の警備は厳しくなっている。今夜の競売の受付が始まるまで、奥のエリアには入れないという。
「もう、なんなのよ! 責任者を呼んで!」
ネオンが足を踏み鳴らした、そのときだった。
「――どうかした? さっきから困ってるみたいだけど」
背後から、落ち着いた、耳に心地よい青年の声がかけられた。
ネオンが振り返ると、そこには仕立ての良いダークスーツを着こなした、端正な顔立ちの青年が立っていた。黒髪は自然な流れに整えられ、額には白い包帯が清潔に巻かれている。物腰はどこまでも柔らかく、手には通行証を挟んだ革のホルダーが握られていた。
幻影旅団の団長、クロロ=ルシルフルだった。
「え? あなた、誰?」
ネオンが目をパチクリさせて見上げると、クロロは穏やかな微笑を浮かべて軽く会釈した。
「オレも競売を見に来たんだ。まだ受付が始まらないんだって」
クロロはネオンの目線に合わせて少しだけ身を屈めた。
「ここで待ってても仕方ないね。上のラウンジなら入れるよ。何か飲みながら待とうか」
「ほんと!? 上の階へ行けるの?」
「ありがとう、お兄さん! 私、ちょうど喉が渇いてたの!」
ネオンはぱっと顔を輝かせ、クロロの横へと並んだ。
クロロは「じゃあ、行こうか」と手を差し出し、彼女を伴ってエレベーターから高層階の展望レストランへと案内した。
全面ガラス張りの窓からは、午後の光に輝くヨークシンの摩天楼が一望できた。
窓際の静かなテーブルへ着き、ネオンの前にフルーツたっぷりのパフェと紅茶が運ばれてくると、ネオンはすっかり機嫌を直してスプーンを動かした。
「ふうん、じゃあ今夜のオークションがどうなるかは、夕方過ぎにならないと分からないのね」
「そうだね。運営も混乱してるみたいだし、もう少し待つしかないかな。君は、何か欲しいものがあるの?」
クロロがティーカップを傾けながら自然に尋ねると、ネオンは待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「うん! 私、人体の珍しいコレクションを集めてるの! 今回の目録にすっごく綺麗なミイラと希少な標本が載ってて、どうしても自分の目で見て競り落としたかったんだから! それなのにパパったら、私の占いの結果ばっかり欲しがって、私の買い物には全然協力してくれないのよ!」
クロロはカップを置き、驚いたように目を瞬かせてみせた。
「へえ。君、占いができるんだ?」
「うん、そうだよ! 私の占いは百発百中なんだから! パパが今の地位まで上がれたのだって、全部私の占いのおかげなんだよ?」
ネオンは少し誇らしげに胸を張ってから、すぐに唇を尖らせて紅茶を一口飲んだ。
「でもね、パパたちは自分の儲け話や危ない仕事のことばっかり占わせるの。私、本当はそういうのあんまり好きじゃないんだ。だって占いって、未来に起こる悪いことを前もって知って、みんなが幸せになるためにあるものでしょ?」
「なるほど。悪いことが起きる前に、避ける方法を教えてくれるわけか」
「そう! だからね、私は自分が書いた占いの結果は見ないの。なるべく私が関わらない方が、当たるような気がするんだ。ペンが勝手に動くままに書いて、そのまま渡すだけ!」
クロロの黒い瞳の奥に、ごくわずかな、しかし確かな光が灯った。
本人は自分が書いた占いを読まない。そしてペンが勝手に動く自動書記の形式。
クロロは会話の自然な流れの中で、彼女が占うために必要な条件――相手の顔を見ている必要はあるのか、どんな情報があれば書けるのかを、世間話のように穏やかに聞き出していった。
「そうだ! お兄さん、今日親切にしてくれたお礼に、私が特別に占ってあげる!」
パフェを食べ終えたネオンが、ハンドバッグから愛用のペンと、花柄の縁取りがある小さな便箋の束を取り出した。
「いつもはパパを通さないと誰にも書かないんだけど、今日は私の気分がいいから特別よ! ほら、まずこの紙に、お兄さんの『名前』と『生年月日』、それから『血液型』を自分で書いて!」
「本当? じゃあ、頼もうかな」
クロロは柔らかく微笑んで便箋を受け取ると、添えられたペンを取り、自分の氏名と生年月日、そして血液型を迷いのない綺麗な筆跡でさらさらと書き記した。
「これでいい?」
「ありがと! じゃあ、ちょっとの間だけ静かにしててね」
ネオンはクロロが書いたプロフィールを一度だけ目で確認すると、その便箋を手元へ引き寄せ、空いた部分に右手のペン先を置いた。
その瞬間だった。
ネオンの右手の周囲に、ふわりと淡いオーラが立ち昇り――ペンを握る手に寄り添うように、奇妙な姿の念獣が現れた。
自動書記を行う念能力――《
ネオン自身の瞳からはふっと焦点が消え、彼女は窓の外へ顔を向けたまま、念獣に導かれる右手を猛烈な速さで紙の上へと走らせ始めた。
サラサラサラ、とペン先が紙を擦る乾いた音だけが、静かなテーブルの上に響く。
今の月――九月の各週にあたる未来が、四行ずつの詩の形をとって、一行、また一行と氏名の下に刻み込まれていく。
やがて五つ目の連を書き終えたところで、ネオンの右手がぴたりと止まり、手元の念獣が空気へ溶けるように消え失せた。
「……ふうっ、書けたわ! はい、お兄さん、これ!」
ネオンは紙の文面には一切目を落とさず、書き上がったばかりの便箋を裏返したままクロロの手元へと滑らせた。
「この占いはね、今の月の第一週から順番に、一週間ごとの運勢が四行の詩になって書いてあるの。悪いことが書いてあっても、そこに書かれた忠告をちゃんと守れば避けられるようになってるから、よく読んで参考にしてね!」
「ありがとう。早速読んでみるよ」
クロロは白い指先で便箋の端を持ち上げ、そこに並んだ文字へと静かに視線を落とした。
◇ ◇ ◇
便箋には、ネオンの丸みを帯びた文字が、四行ずつ間を空けて並んでいた。クロロは上から順に目を通した。
さらに下へと続く文字を追う前に、クロロの視線は紙の一番上へ戻った。
クロロの視線は、最初の二行で止まった。
『大切な暦が一部欠けて』。
『遺された月達は盛大に葬うだろう』。
暦と、そこに並ぶ月達。欠けたのが誰なのか、わざわざ名を確かめる必要はなかった。
十一番の蜘蛛を背負う男。誰よりも声が大きく、誰よりも単純で、旅団の創設からずっと一番前で拳を振るい続けてきた、ウヴォーギン。
遺された者たちが、その死を葬う。
昨夜、鎖を使う能力者を一人で追って出て行ったきり、ウヴォーギンからの連絡は途絶えていた。もう二度と生きてその席へ戻ってはこないのだと、紙の上の短い言葉が静かに告げていた。
ぽたり、と。
便箋を持つクロロの指先のすぐ横へ、透明な水滴がひとつ落ちて染みを作った。
クロロがまばたきをするたび、その黒い瞳から涙が音もなく溢れ出し、端正な頬を伝って白いテーブルクロスの上へと次々にこぼれ落ちていく。
「えっ……!? ちょ、ちょっとお兄さん、どうしたの!? なんで泣いてるの!?」
向かいの席で紅茶を飲んでいたネオンが、びっくりして目を丸くした。
「もしかして、最初っからすっごく悲しいことが書いてあった!? 私、自分で書いた中身は見ないから分からないんだけど……そんなに悪い結果だったの!?」
クロロはすぐには答えなかった。
片方の手をゆっくりと持ち上げ、自分の頬を濡らす涙を指の腹でそっと拭う。演技でもなければ、目の前の少女を欺くための芝居でもない。失われた仲間に対する純粋な喪失感が、胸の奥から静かな水のように溢れ出ていた。
「……いや、君の占いがよく当たってたから」
クロロは涙の跡が残る目元で、かすかに微笑んでみせた。
「大事な友達が、もう戻らないって分かったんだ」
「お友達が……亡くなったってこと?」
ネオンは少し気まずそうに眉を下げて、スプーンの柄を指で弄んだ。
「そっか……それは、お気の毒さま。でもね、私、死んじゃった人のことってあんまり考えないようにしてるの。幽霊とかあの世とかも信じないし、だって死んじゃった人はもう何もできないでしょ? 占いは、これから生きていく人がどうするかを決めるためのものだもん」
「……オレは、霊魂を信じてる」
クロロはハンカチで目元を押さえ、窓の外――夕暮れの茜色から群青色へと染まり始めたヨークシンの摩天楼へと視線を向けた。
ガラス張りの高層ビルが、暮れかけた空の下に幾千と立ち並んでいた。
「ただ、あいつが今ここにいたら、何をしたがるかは分かる。静かに祈られるより、街がひっくり返るくらい騒いだ方が喜ぶだろうね」
そう口にしながら、クロロの視線は第一連の後半へと戻っていた。
『死者の集う館を奪うなら』。
『未完の本は古い殻を脱ぐだろう』。
(……弔いは、これからだ。その先に盗みがある)
クロロの胸の内で、友を悼む静かな悲しみと、盗賊としての冷徹な好奇心が、何の矛盾もなく同時に息をしていた。
未完の本。思い当たるものは、一冊しかない。自分の右手に具現化し、他者の念能力を盗み取って頁に封じる《
あの本には、まだ先がある。《誓約》を元にした条件達成による念の進化。
ただ能力を増やせば、その先へ進めるわけではない。その条件は、
館を奪えば、本が古い殻を脱ぐ。進化の恩恵は、はなはだ大きい。トロフィー獲得による念の向上は、通常の鍛錬が部屋に小物を置いたり、新たな家具を設置したりするようなものであるとすると、2階へ行く階段が出現する、隠された地下室に行けるようになる。そのレベルの隔絶した違いがある。
新しい頁が一枚増えるだけではない。この盗みそのものが、《
(……死者の集う館、か)
霊廟のような場所か。それとも、館という名の何かか。
第二連へ移った指が、一行目の下で止まる。
『菊と水無月が 緋の目もろとも土に還り』。
菊月は九月。水無月は六月。
九番と六番。パクノダとシャルナークの顔が、順に浮かんだ。
緋の目は何を指す。人か、それとも品物か。二人とそれが、なぜ一緒に土へ還る。
次の一行は、損失が二人だけでは済まないことを告げていた。
『遺る手足は半分となるだろう』。
クロロの指先が、便箋の端を軽く押さえた。
その下には、館の主に幕を下ろさせるな、とある。行く末はまだ自分が選べるのだと。
主の判断を待っていれば片づく話ではない。だが、館を奪えとだけ命じる詩でもなかった。
第三連の前半には、半身を失っても、本は生まれ変わり、蜘蛛は完全になると書かれている。
完全。
数を失って、完全になる。何が揃うのかは分からない。ただ、新しい本と引き換えに失うものがあるなら、それも盗みの前に量るべきだった。
続く二行は、何事もなかったように別の旅を勧めていた。
『あるいは独り 東へ旅するのもいい』。
『きっと求める人に会えるから』。
独りになる理由も、そこで求める相手も、まだ見えない。
館へ進む道と、東へ向かう道。弔いの先に、その二つが並んでいる。
クロロは最初の四行へ、もう一度目を戻した。
(……まずは今夜、ウヴォーのために盛大に葬う。そのあとで、館を確かめる。選ぶのは、それからだ)
クロロは便箋を丁寧に四つ折りにし、スーツの内ポケットへと収めた。
そして、テーブルの向かいで「ねえお兄さん、もうそろそろ下の競売会場の様子、見に行ってもいいんじゃない?」と無邪気に身を乗り出しているネオンへ、先ほどと変わらぬ穏やかな笑みを向けた。
「そうだね。そろそろ下へ行こうか」
クロロが立ち上がると、ネオンは「やったあ!」と嬉しそうに席を立った。
エレベーターで下のフロアへと降り、一般客の立ち入りが制限された静かな連絡通路へ差し掛かったところで、前方の角に警備員の姿が見えた。
「ここで少し待ってて。あの警備員と話してくるよ」
ネオンが角の先へ目を向けたとき、クロロはその隣へすっと戻った。抜く手も見せない滑らかな動きで、首筋へ手刀を落とす。
「え?」
ネオンの膝がすとんと折れ、身体が横へ傾いた。
クロロは倒れかけたネオンの身体を片腕で静かに支え止め、床で頭を打たぬよう絨毯の上へそっと横たえると、そのまま足音ひとつ立てずに連絡通路の奥の扉へと滑り込んだ。
「おい、誰か倒れたぞ! 救急車を呼べ!」
背後で警備員が声を張り上げ、人の駆け寄る靴音が響く。クロロはその騒ぎを背に額の包帯をほどき、競売会場側の区画へと姿を消した。やがて人の目が途切れたところで一冊の本を開く。そこには、先ほど目にした《
◇ ◇ ◇
同じ頃、中心街から少し離れたホテルの一室では、らでんがノートパソコンの画面の前でヘッドホンを両手で外し、大きく背伸びをしていた。
「――うん、よし! 映像の切り替わりも、ボーカルのバランスもバッチリだ!」
窓の外は、すでに夜の色へ変わっていた。
昼過ぎに下見市の会場でゴンとキルア、それにゼパイルと別れてから、らでんはずっとこの部屋にこもって、明日――九月四日に公開されるReGLOSS五人の告知動画とミュージックビデオの最終確認作業を進めていたのだ。
手元のスマートフォンが『ピコン』と軽快な音を立てて光り、画面に同期の音乃瀬奏からのメッセージが表示された。
らでんは思わず笑顔になり、画面の上で親指を素早く動かして返信を打った。
気安い同期とのやり取りに、画面を見つめる口元が自然と緩む。
九日と十日の本番配信に向けて、他のメンバーもそれぞれのスケジュールに合わせて順次現地入りや準備を進める手筈になっているが、まずは明日、五人揃っての最初の動画が世に出る。画面の向こうで同じように明日の公開を心待ちにしている仲間たちの声が届くだけで、ホテルの一室の静けさが心地よい熱気に変わるようだった。
(ゴン君とキルア君も、あのあとゼパイルさんと一緒に掘り出し物を見つけられたかな。危ない無茶だけはしてないといいけど……)
らでんはマグカップの冷めた紅茶を一口飲み、凝り固まった肩をほぐそうと窓際へ歩いていった。
そのときだった。
厚いガラス窓の向こう――夜の帳が下りたヨークシンの中央区画の方角から、いくつものパトカーのサイレンが幾重にも重なり合って響いてきたのは。
ウウウウウ――ッ! ウウウウウ――ッ!
一台や二台の騒ぎではない。
らでんがカーテンを少しだけ開けて眼下の大通りを見下ろすと、赤い回転灯を激しく点滅させた黒塗りの車両や警察の装甲車が、通常の信号を無視して次々と北側の墓地ビル街の方角へと猛スピードで駆け抜けていくのが見えた。さらに夜空の高いところでも、サーチライトを照らしたヘリコプターが何機も同じ方向へと旋回している。
「……え、なに? すごい数のパトカーだけど……どこかで火事か事件でもあったのかな」
車列が遠ざかったと思うと、すぐに別のサイレンが近づいてくる。らでんはカーテンをつまんだまま、その行き先を目で追った。
ただ、幾千もの窓明かりが煌めく美しい夜の街の底で、何かひどく不穏で大きな歯車が回り始めたようなざわめきだけが、ガラス越しに微かな振動となって伝わってきていた。
◇ ◇ ◇
墓地ビル群を見下ろす高層建築の屋上近くで、クロロは夜風に黒いコートの裾を揺らしながら、携帯電話を耳に当てていた。
眼下には、地下競売の会場を取り囲むように幾重もの警備車両とマフィアの黒塗りの車が集結し、サーチライトの光が硝子の摩天楼の壁面を白く切り裂いている。
『――すまねえ、団長。そのガキ二人なら、さっきアジトの壁をぶち抜いて逃げちまった』
電話の向こうから聞こえてくるノブナガの悔しそうな報告にも、クロロは眉ひとつ動かさず、静かな声で応じた。
「そうか。なら構わない。お前は引き続き、アジトで待機しろ」
『ちっ……分かったよ。で、お前らはこれからどうするんだ?』
「オレたちは、これから会場へ向かう」
クロロはノブナガとの通話を切り、ほかの団員たちへ回線を繋いだ。
すでに墓地ビル周辺の闇の中には、フェイタン、マチ、フランクリン、フィンクス、シャルナーク、シズク、コルトピ、ボノレノフ、ヒソカ、そしてパクノダの十人が、それぞれの位置で出撃の合図を待っている。
「みんな、聞こえているな」
クロロの落ち着いた声が、十人の端末へと同時に響いた。
「ウヴォーは、もう戻らない。……だから今夜は、あいつへの手向けだ。派手に暴れろ。ウヴォーが退屈しないくらい、この街の端まで届く鎮魂歌を鳴らしてやれ」
『了解。そうこなくっちゃね』
『フフ……楽しそうな夜になりそうだね♠』
それぞれの短い返事とともに、夜の闇の中へ十個の殺気が解き放たれる気配が伝わってくる。
通話を切ったクロロは、携帯電話をポケットへしまい、代わりに先ほどネオンが書いた一枚の便箋を指先で取り出した。
サーチライトの白い光が夜空を横切るたび、折り目のついた紙の上の文字が、暗がりの中に淡く浮かび上がる。
――遺された月達は盛大に葬うだろう。
――死者の集う館を奪うなら。
眼下の通りで、最初の銃声と怒号が夜の空気を震わせ始めた。
クロロは『死者の集う館』と記された一行をもう一度だけ静かに見下ろしてから、便箋を懐の奥へと収め、街を揺らす弔いの夜へと足を踏み出した。