儒烏風亭らでんと蜘蛛と奇術師   作:今日も元気ですマン

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本話では、前日譚に登場したホロライブ由来のキャラクターたちが、マフィア側の人物として再登場します。

前日譚を未読の方も、そのまま読み進めていただけます。彼女たちの来歴や本作での立場、念能力について詳しく知りたい方は、下記の設定資料もあわせてご覧ください。

[前日譚「ゴシカ・シティ編」関連資料](https://sekai-shushu-cho.pages.dev/#/chapter/goshika)


第十七話 九月三日③

 

 最初の銃声が夜の空気を裂いた直後、墓地ビル群を取り囲む外周道路から、立て続けに三つの火柱が噴き上がった。

 

 ドゴォォンッ!!

 

 アスファルトを揺らす爆風がビルの谷間を駆け抜け、封鎖線に並べられていた黒塗りのセダンが横転しながら炎を上げる。上空を旋回していたヘリコプターのサーチライトが慌ただしく火元の路地へと振られたが、光の輪が煙を捉えたときには、すでに次の交差点で警備車両のフロントガラスが内側から砕け散っていた。

 

「北側バリケードが破られたぞ! 応援を回せ!」

「ダメだ、西の大通りでも撃ち合いが始まってる! 敵は何人いるんだ!」

 

 無線機から飛び出す怒号と悲鳴が、サイレンの唸りに掻き消されていく。

 

 一昨夜の地下競売場を襲撃した盗賊団を炙り出すため、マフィアンコミュニティーは今夜、会場周辺の区画に二千人を超える構成員と武装警備隊を敷き詰めていた。装甲車と鉄柵で幾重にも通路を塞ぎ、蟻一匹通さないはずだった包囲網が、外側から同時に現れたわずか十人の人影によって、ものの数分でずたずたに食い破られ始めていた。

 

 物陰に隠れてライフルを構える暇すらない。

 

 路地の闇から飛び出した小柄な影が、銃口が上がるより先に三人の首を斬り飛ばして駆け抜ける。別の通りでは、巨大な岩の塊のような男が装甲車のボンネットを素手で殴り潰し、そのまま車体ごと後続の車両へ投げつけた。悲鳴を上げて逃げ惑う組員たちの足元へ、トランプのカードが風を切って突き刺さり、赤い血しぶきが街灯の下に舞い散る。

 

 隠密の潜入でもなければ、包囲を突破するための陽動でもない。

 

 ただ、夜の街そのものを巨大な棺桶に見立てて暴れ回るような、圧倒的で一方的な蹂躙だった。

 

 その喧騒を見下ろす高層建築の非常階段から、クロロは足音ひとつ立てずに裏手の舗装路へと降り立った。

 夜風が黒いコートの裾を揺らし、ほどいたばかりの額の素肌に冷たく触れる。額の中央に刻まれた青い十字の入れ墨が、遠くで上がる火災の照り返しを受けて鈍く浮かび上がった。

 

 正面にそびえる墓地ビル本館――今夜の競売会場を抱える複合ホテルの入り口では、すでに外周の異変を察知した警備主任たちが、防弾盾を並べて正面ロビーのシャッターを閉鎖しようと声を張り上げていた。

 

「急げ! 外の連中を中へ入れるな! 各階のエレベーターはすべて停止させろ!」

 

 クロロは懐に手を入れたまま、舗装路の真ん中をゆっくりと歩いていった。

 走ることも、身を屈めることもしない。ただ散歩でもしているかのような自然な歩調のまま、シャッターが降り切る寸前の正面玄関へと真っ直ぐに近づいていく。

 

「おい、止まれ! ここは立ち入り禁止だ、下がれと言っているのが聞こえないのか!」

 

 入り口の脇を固めていた黒スーツの組員が二人、サブマシンガンの銃口を向けて前へ踏み出した。

 

 クロロは立ち止まらなかった。すれ違いざまにコートの袖がわずかに揺れ、組員たちが引き金にかけた指へ力を込めるより先に、二人の延髄へ正確な打撃が吸い込まれる。

 ドサッ、と重なった音がして、二人の身体がそのまま石畳の上へ崩れ落ちた。

 

「なっ……!? 貴様、いつの間に――」

 

 後方の警備主任がホルスターへ手を伸ばした瞬間、クロロの姿はすでにその視界から消えていた。

 シャッターの下の隙間を滑り抜けるようにロビーへ入ったクロロは、振り返りもせず、その場にいた数人の武装警備員の脇を通り過ぎた。鋭く研ぎ澄まされた手刀が、すれ違う順番通りに首筋とこめかみを捉える。銃声は一発も鳴らず、シャンデリアの輝く大理石の床に、黒いスーツの人影が次々と静かに沈んでいった。

 

 ロビーの奥は、不気味なほど静まり返っていた。

 外からくぐもった爆発音やサイレンの音が響いてくるのに、本館の奥のフロアからは、新しく駆けつけてくる警備員の足音がしない。

 

(……なるほど。一般の警備は外周と入り口に集めて、建物の中は別の連中に任せたわけか)

 

 クロロは足元に転がる無線機を一瞥し、静かな廊下の奥へと視線を向けた。

 

 先ほどネオンを連れてこの建物の連絡通路を通ったときから、会場の周囲にマフィアとは毛色の違う気配がいくつも混じっていることには気づいていた。十老頭が旅団を排除するために雇い入れた、裏社会の殺し屋たちだ。

 すでにそのうちの何人かは、建物の中へ散っているらしい。

 

 クロロは懐の奥で、四つ折りにした便箋の感触を一度だけ確かめると、誰もいない大階段の奥へと足を踏み入れた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 襲撃の銃声が響き始める、ほんの十数分前のことだった。

 

 墓地ビル本館の中層階にある待機室には、十老頭側の窓口から招集された九人の人間が集められていた。

 

 室内の壁際には、ノストラード組から派遣された金髪の人物――クラピカが、青い民族衣装の下に張り詰めた気配を潜めて静かに立っている。

 

 そして残る八人は、マフィアンコミュニティーの上層部が莫大な報酬を提示して各地から呼び寄せた、腕利きの殺し屋たちだった。

 

 部屋の中央のソファに腰を下ろし、退屈そうに目を閉じている小柄な白髪の老人――ゼノ=ゾルディックと、その背後に仁王立ちする銀髪の巨漢――シルバ=ゾルディック。白い道着を着た男や、屈強な体格の男たちがそれぞれの距離を保って立つ中、窓際の柱の近くには、長い白髪に獅子のような耳を揺らす賞金稼ぎの大柄な女性――獅白ぼたんと、腰に二振りの刀を差した銀髪の小柄な少女――百鬼あやめの二人が並んでいた。

 

「――いいか、標的は一昨夜の競売場を襲った七人以上の集団だ。念能力者の集まりとなれば、一筋縄ではいかん。まずはここで各自の力を明かし合い、役割を決めて連携するべきだろう」

 

 部屋の真ん中に進み出た大柄な殺し屋の一人が、周囲を見回して声を張り上げた。その隣に立つもう一人も、「そうだ、指揮系統を統一して当たった方が確実だ」と頷いて同調する。

 

 しかし、その提案に真っ先に首を振ったのは、ソファに座っていたゼノだった。

 

「やめておけ。見ず知らずの同業者に手の内を晒すバカがおるか。ワシらはワシらで動く」

「なんだと、じいさん。それじゃあ獲物が重なったときに邪魔になるだろうが」

「邪魔をするつもりも、されるつもりもないわい。先に首を取ったもんの勝ち、それで十分じゃろ」

 

 シルバも腕を組んだまま無言でゼノの後ろに控え、顔面にタトゥーを入れた男と、赤いベレー帽の殺し屋も「一人一人が好きにやっていいんじゃない?」「無理に足並みをそろえることもあるまい」とあっさり連携を拒んだ。クラピカもまた、応援が必要なら自分を雇い入れたマフィアンコミュニティーに要請すればよいと提案し、静かに各自行動の側へ身を置いている。

 

 残る視線が、窓際の二人――ぼたんとあやめへと集まった。

 

 連携を主張した男が、「おい、そこの二人組はどうなんだ。お前たちもチームで動く方がやりやすいだろう」と声をかけたが、ぼたんは手元のライフルの弾倉を軽く叩いて確かめながら、肩をすくめてみせた。

 

「いやあ、私も別行動の方に一票かな。初対面の人の動き方に合わせて射線を縛られるより、自分で自由に動きを選べる方がずっと仕事しやすいんよ」

 

 隣で柱に背を預けていたあやめも、ひらりと片手を挙げて頷いた。

 

「余もそっち! 勝手に動いて、出会ったやつを斬る方が早い余」

 

「ちっ……どいつもこいつも勝手なことばかり言いやがって!」

 

 連携を訴えた二人は忌々しそうに舌打ちをしたが、九人のうち七人が各自行動を支持した以上、統一指揮など成り立つはずもなかった。

 

「決まりじゃな。なら、あとは好きにやれ」

 

 ゼノがひらひらと手を振って立ち上がり、シルバを連れて真っ先に待機室の扉を出ていく。クラピカや他の殺し屋たちも、それぞれの判断で連絡通路や監視区画へと散っていった。

 

 ぼたんはライフルのスリングを肩へかけ直すと、隣のあやめを見て口元を緩めた。

 

「じゃあ、私たちは外周の広場の方へ出よっか。こういう建物の中って、柱が多くて遠くから撃ち抜くにはちょっと狭苦しいんだよね」

「うん、そうしよっか。あ、でも余が斬り込んでるときに、後ろから余の背中撃たないでよ?」

「撃つわけないじゃん。あやめがどっちへ踏み込むかくらい、足元見れば分かるって」

 

 二人は軽口を交わしながら、待機室を出て西側の外部広場へ通じるテラス階段へと向かった。九人全員で隊列を組むつもりは毛頭ないが、同じ広場に出れば、相手の足運びや射線を見て合わせることはできる。それぞれの仕事を邪魔せず、使える隙は使うつもりだった。

 

 その二人が屋外へ出た直後――街の外周で最初の爆発音が上がり、本館の内部でも不穏な静寂が広がり始めたのだった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 本館の中層ホールでは、ゼノとシルバが足を止め、床に座り込んだまま動かなくなっている一人の男を見下ろしていた。

 

 先ほどの待機室で各自行動を選んだ、白い道着に濃紺の帯を締めた殺し屋だった。

 男は背筋を伸ばした正座の姿勢のまま、ぴくりとも動かない。周囲の床には争った形跡もなければ、血の飛び散った跡すらなかった。

 

 シルバは男の首筋に残った痕へ目を落とした。

 

「一撃で終わっている。気づく間もなかったか」

 

 大きな手が傷の位置から離れ、通路の奥へと向く。そばにいたゼノも、そこへ目をやった。

 

 ホールに控えていた二十人あまりの組員たちは、震える手で拳銃を握っていた。一人が、人数を集めて侵入者を囲もうと声を上げる。

 

「その男も、囲むつもりだったかもしれんぞ」

 

 ゼノが顎で示した先には、正座したまま動かない同業者がいる。

 

「銃を持って大勢で出たところで、時間を稼げるとは限らん。ここはワシらに任せておけ」

 

 誰も次の一歩を出さなかった。ゼノは組員たちをその場に残し、シルバと通路へ進む。

 廊下の分岐で立ち止まり、老人は呼吸を整えた。目で追って一室ずつ探すには、この建物は広すぎる。

 

「広げるぞ。周りを見ておれ」

 

 シルバが半歩離れると、ゼノの身体を包んでいたオーラが外へと伸び、《円》を形成した。

 球状に広がったオーラの膜が、壁を抜け、床を抜け、巨大なビルの内部空間を瞬く間に覆い尽くしていく。その感覚の網の端に、下の階層の大広間でただ一人、静かに佇んでいる青年の輪郭がはっきりと浮かび上がった。

 

「いたぞ。下の広間じゃ」

「行くか、親父」

 

 二人の姿が、音もなく階段の吹き抜けへと消えた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 黄土色の石床がどこまでも広がる、地下階への連絡大広間だった。

 天井を支える太い石柱が並び、照明の落ちた薄暗がりの中に、クロロは一人で立っていた。

 

 正面の重い扉が音もなく開き、そこから二つの人影が滑り込んでくる。

 

 一人は、紫の道着に緑の襟布を合わせ、胸元に『一日一殺』の文字が書かれた小柄な白髪の老人。もう一人は、腰まで届く銀白色のウェーブした長髪を背に流し、老人の頭二つ分以上も背丈がある筋骨隆々の大男だった。

 

 言葉は一言も交わされなかった。

 

 入り口に立った二人の足元と、中央のクロロの足元。広間の石床の上で三つの影がわずかに沈んだかと思うと――次の瞬間には、三人の姿が元の位置から同時に掻き消えていた。

 中央に立つクロロのすぐ左へシルバが、右へゼノが、まるで最初からそこにいたかのように現れる。

 

 ヒュッ、と空気が裂けた。

 

 右から迫ったゼノの鋭い手刀と、左から踏み込んだシルバの重い拳が、クロロの首と脇腹を同時に挟み撃つ。

 

 クロロは空中で半身を捻り、二人の打撃の間を紙一重で後方へとすり抜けた。かわし切ったはずの左頬に、ピッと細い赤い線が走り、遅れて熱い血が滲み出る。

 

 着地する暇も与えずに、ゼノが一歩踏み込んで掌を突き出した。

 

「はっ!!!」

 

 鋭い気合とともに放たれたオーラの衝撃が、広間の空気をビリビリと震わせてクロロを襲う。

 

 クロロは石床を蹴って横へ跳び、その軌道へ先回りしてきたシルバの懐へとあえて滑り込んだ。シルバの蹴りがクロロのコートの裾を掠め、お返しとばかりにクロロの蹴りがシルバの紫のズボンの膝頭を強く弾く。さらにすれ違う刹那、クロロの左手の袖口から、奇妙な湾曲を持つ一本のナイフが滑るように抜かれた。

 

 ザンッ!

 

 銀色の刃が、シルバの太い左前腕の皮膚を浅く切り裂いた。

 

 三人がそれぞれの間合いを取って石床の上へ降り立つ。シルバの口元には今の交錯でかすかな血が滲み、切り裂かれた前腕の傷口からは赤い血が噴き出していた。

 シルバの目が、腕の傷からクロロの左手へ動いた。

 

「ベンズか。刃より、その薬が狙いだな」

 

 傷ついた拳を握ると、盛り上がった筋肉に押されて血が傷口から滴った。シルバは腕を一度振り、すぐに構えへ戻す。

 

「動けるか」

「続けろ、親父」

 

 クロロはナイフを少し下げた。大型の獣すら動けなくするために塗った薬だ。その腕で、もう次の攻撃を受ける構えを取っている。

 

(……足も鈍っていない。二人とも、簡単には崩れてくれないな)

 

 目の前の二人は、外周の警備員や並の賞金稼ぎとは次元が違う。

 片方の攻撃を捌くために重心を動かした瞬間、もう片方が必ずその死角を埋めてくる。こんな二人を同時に相手取りながら、相手の念能力の条件を聞き出し、手順を踏んで《盗賊の極意(スキルハンター)》へ盗み取るなど、まず不可能に近い。

 

 そのとき、右手に立つゼノが、ゆっくりと片腕を掲げた。

 手刀の形に揃えられた老人の掌に、周囲の空気が歪むほど高密度のオーラがギュウッと一点に集中していく。

 

(そこまでオーラを掌に集めるか。……正面では受けられない)

 

 クロロの肌が粟立った。

 あれでまともに突かれたら、自分の《堅》の防御力ではとてもガードし切れない。ナイフ一本で往なせる段階は、もう終わっていた。

 

「――《盗賊の極意(スキルハンター)》!」

 

 クロロはナイフを袖の内へ戻し、右手の掌へ黒い表紙の本を具現化した。

 指先で素早くページをめくる。開かれたページの力によって、クロロの左手に一枚の赤黒い大きな布が現れ、マントのようにふわりと翻った。先日、陰獣の梟から奪い取ったばかりの具現化系の能力だ。

 

 ゼノの細い目が、クロロの手元の本と、翻った赤黒い布を瞬時に捉えた。

 

「盗んだ《発》か、具現化系、防御型か迎撃型(カウンタータイプ)の見込み高し、だが」

 

 ゼノは足を止めたが、掌に集めたオーラは緩まない。その目は布の縁から、クロロの踏み出しかけた足へと移った。

 こちらが念を警戒し、踏み込む余地を削る意図があるのは明らか。

 ならば、それに乗る必要はない。戦場の設定はこちらで行う。

 こちらには近距離、中距離、遠距離全てに対応できる能力がある。

 

「そちらの間合いに付き合う必要はないの」

 

 クロロが布を構えてわずかに前へ間合いを詰めようとした、その瞬間だった。

 

 ゼノは一歩も前へ踏み込まず、その場から両掌を前へ突き出した。

 

「――《龍頭戯画(ドラゴンヘッド)》!!!」

 

 老人の全身から噴き出した膨大なオーラが、一瞬にして巨大な龍の頭と胴体へと形を変え、咆哮のような風圧とともにクロロへと襲いかかった。

 

 クロロは赤黒い布を盾のように振りかざしながら、横へと跳躍した。

 

 しかし、ゼノの右手が鋭く振られる。

 

「《牙突(ドラゴンランス)》!!」

 

 放たれたオーラの龍が、ゼノの手の動きに連動して空中で鋭角に軌道を折り曲げ、跳んだクロロの着地点へと牙を剥いて殺到した。

 

 ドゴォォンッ!!

 

 黄土色の石床が激しく抉れて爆ぜ飛び、砕けた石片の嵐の中で、クロロの身体が大きく後方へと吹き飛ばされた。

 空中で体勢を立て直しながらも、かわし切れなかったオーラの奔流がクロロの右肩を深く掠める。黒いコートの肩口が裂け、そこから鮮血が赤く噴き出した。それでもクロロは、右手に抱えた本だけは絶対に手放さなかった。

 

「その本を落とすわけにはいかんようじゃな」

 

 砂煙の向こうで、ゼノがこちらの右手を見ていた。

 

 クロロは石床の上を滑るように着地した。肩を裂かれても、本を離さず布を残した。その一動作を相手は見逃していない。

 

「シルバ、足を止めるぞ。布には寄るな」

 

 布の中身を確かめに来る気はないらしい。クロロが一歩詰めれば、龍の牙がその先を塞ぐ。懐へ入って布を使う狙いまで、動きから読まれている。

 

 ゼノが遠距離からオーラの龍を操って圧力をかけ続け、その周囲をシルバが虎視眈々と回り込みながら、クロロが回避した先の退路を塞いでいく。

 

(……本を開いたまま片手で立ち回るのは、ここまでが限界か)

 

 右手に本を持ったままでは、使える体術も防御の配分も制限される。しかも近づいて布を使う狙いを警戒されている。二人がうかつに布の中へ飛び込んでくることはない。

 

 パタン。

 

 クロロは迷わず右手の本を閉じた。

 本が消えると同時に、左手にあった赤黒い布も稲妻のような光の粒となって空気中へ消え失せる。

 

 側面へ回っていたシルバの視線が、消えた本の位置を追った。それでも踏み込んではこない。クロロが両手を空けても、二人の間隔は崩れなかった。

 

 前に戦ったときのように、片方だけを見ている余裕はない。シルバが退路へ足を運ぶ間に、ゼノが真正面へ戻ってくる。

 

「次で押さえる。合わせろ、シルバ」

 

 ゼノが低く鋭い声で叫んだ。

 

「離すのは期待するな。ワシの位置まで撃て」

「承知した」

 

 シルバの短い返事と同時に、クロロの全身から激しいオーラが膨れ上がった。

 

 自分の命をチップに乗せてでも、確実に標的を仕留めようとする暗殺者の覚悟。それを真正面から受け止めながら、クロロは両手を空けて重心を低く落とした。

 

 ゼノが、砲弾のように真正面から突っ込んできた。

 

 遠距離の《龍頭戯画(ドラゴンヘッド)》ではない。老練な体術と《流》を極限まで練り上げた、至近距離の肉弾戦だった。

 

 クロロはゼノの最初の掌底を腕で逸らし、二撃目の蹴りを半歩下がってかわしたが、ゼノは自分の脇腹がガラ空きになることすら厭わず、強引に一歩深く踏み込んでクロロの顔面へ右拳をねじ込んだ。

 

 ドガッ!!

 

 クロロの唇が切れて血しぶきが飛び、衝撃で仰け反った身体が背後の太い石柱へと叩きつけられる。

 そこへゼノが張りつくように密着し、クロロが横へ逃げる隙間を自分の身体ごと塞ぎながら、嵐のような連打を叩き込んだ。

 

 ズガガガガッ!!

 

 石柱が砕け、クロロの両腕のガードの上から骨まで響く重い拳が続けざまに突き刺さる。最後にゼノが自分の全身の体重を預けてクロロの胸倉を石柱へ抑え込み、背後へ向かって大口を開けて吠えた。

 

「今じゃ!! 殺れ!!!!」

 

 クロロの視界の上方で、シルバの巨大な影が宙へと舞い上がっていた。

 逆立つ銀白色の長髪が四方へ広がり、シルバが掲げた両手のひらには、周囲の石床を震わせるほど凄まじい二つの光球――電撃のような火花を散らす超圧縮のオーラの塊が、太陽のようにギラギラと輝いていた。

 

 逃げ場はない。

 

 ゼノごと自分を粉々に吹き飛ばすつもりで振り下ろされる二つの光球を、クロロは血の滲む目で見据えた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その同じ時刻、本館の西側に広がる石畳の外部広場では、まったく別の銃声が夜の空気を震わせていた。

 

 ドドドドドドッ!!

 

 広場の中央へ通じる大階段の上には、巨大な体躯の男――フランクリンが仁王立ちになり、前へ突き出した両手の十本の指先から、機関砲のような速度で無数の念弾を撃ち出していた。

 

 ただの威嚇射撃ではない。

 

 十本の指先から続く念弾の斉射は、装甲車をも破壊する火力だった。分厚い鋼板に守られた車体が、撃ち込まれるたびに砕けていく。

 広場に並べられていたマフィアの防弾車両は、ものの数秒でエンジンブロックごと蜂の巣にされて爆発し、組員たちが盾にしていた薄いレンガの飾り壁やガラス張りの案内所は、紙細工のように粉々に吹き飛んでいた。

 

「ひ、ひいいっ! なんだあいつの指は! 車の陰に隠れても貫通するぞ!」

 

 生き残った組員たちが悲鳴を上げて後方の通路へと逃げ惑う中、広場の北端にある太い花崗岩のアーチ柱の陰で、ぼたんは静かにライフルのストックを肩へ当てていた。

 

 《百獣万装(ライオネス・プライド)》――現在の《PERK(パーク)》は中・長距離の精密射撃に特化した『MARKSMAN』。

 

 自己操作のパークプリセットによって、ぼたんの呼吸と視線の追従、指先の微細な筋肉の揺れの制動にボーナスがかかり、着ているジャケットの襟とフードがわずかに立ち上がって身体の輪郭へぴたりと寄っている。

 

「……ほんと、とんでもない威力だね。あやめ、あの薄い石塀や車の後ろは絶対に入っちゃダメだよ。装甲車ごと抜かれてるから、止まらないと思っといて」

「困った余 あんなの刀で全部叩き落とそうとしたら、余の腕ごと吹き飛んじゃう」

 

 同じアーチ柱の根元で低く姿勢を落としていたあやめが、腰の二振りの刀の柄に手を添えたまま明るく返した。

 

 ぼたんはスコープ越しに、階段の上のフランクリンを観察した。

 フランクリンは広場の左から右へと両腕をなぎ払うように動かし、逃げるマフィアの残党を広い扇状の射線で制圧している。念弾の弾幕そのものを見てから反応したのでは遅いが、撃ち出す前の『指先の向き』と、体重を乗せる『足裏の踏み替え』を見れば、次にどの角度へ弾幕が来るかは読める。

 

「今から私が右手の角度を潰す。相手がこっちを見た瞬間、左の太い石柱の列を使って詰めて」

「りょーかい!」

 

 フランクリンの巨体が、右側の車列を掃討しようと半歩だけ右足を踏み替えた、その瞬間だった。

 

 タンッ! タンッ!

 

 ぼたんのライフルが、乾いた銃声を二つ重ねた。

 放出系の技術でオーラを濃密に纏わせた二発の実弾が、夜の闇を一直線に切り裂き、フランクリンの右の手首の関節と、眉間のすぐ前へと吸い込まれるように飛ぶ。

 

「……む!」

 

 フランクリンの目がわずかに見開かれた。

 先ほどまでのマフィアの鉛玉とは比較にならない、鋭く重いオーラの弾丸。フランクリンは咄嗟に右手の連射を止め、《堅》で固めた太い前腕を顔の前へ掲げて二発の銃弾を弾き返した。

 ガァンッ! と硬い火花が散り、フランクリンの視線がアーチ柱の方角――ぼたんの射点へと真っ直ぐに向けられる。

 

「狙撃手か。いい腕してやがる」

 

 フランクリンが左手をぼたんのいるアーチ柱へ向け直した、まさにその死角から、あやめの小さな影が地面を滑るように飛び出していた。

 フランクリンの意識が遠くの射手へ寄ったコンマ数秒の隙。あやめは広場の中央を無防備に走るのではなく、大階段の脇に並ぶ分厚い石造りの支柱と、吹き飛んだ装甲車のエンジン塊の陰をジグザグに繋ぎ、射線が通る空間に身を晒す時間を極限まで削りながら一気に階段の下まで距離を詰めた。

 

「――もらった!」

 

 最後の石柱の陰から、あやめがバネのように階段の上へと跳び出す。

 自分の刀の有効間合いと踏み込み一歩分だけを覆う、小範囲の《円》。その感覚と視覚でフランクリンの膝と肩の荷重を読み取り、あやめは右手の刀で突き出されたフランクリンの左腕を下から斬り上げ、同時に左手の二の太刀を――相手が腕を引いて下がるはずの懐の位置へと、先回りさせて横に薙いだ。

 

 しかし、フランクリンはただ突っ立って撃つだけの砲台ではなかった。

 

「甘いぜ、嬢ちゃん!」

 

 フランクリンは巨体に似合わぬ鋭い足運びで、後ろへ下がるのではなく、あやめの踏み込みに対して斜め外側へと重心を逃がした。

 一の太刀の切っ先がフランクリンの上着の袖を浅く裂き、先回りしていた二の太刀の軌道を、フランクリンは半身を捻って紙一重で外す。さらにその足で階段の割れた石材を蹴り上げ、あやめの視界を塞ぎながら、至近距離で右手の五指をあやめの胴へと向けた。

 

 あやめは無理に三撃目を振らなかった。

 フランクリンの指先にオーラが集まった。あやめは脚へオーラを回し、階段の縁を強く蹴る。

 

 ドガガガガッ!!

 

 あやめが横の石柱の陰へ跳び退いたのと、さっきまであやめが立っていた階段の石畳が念弾の連射で粉々に抉れ飛んだのは同時だった。

 

 さらに、あやめを追って右手を振ろうとしたフランクリンの足元へ、場所を変えたぼたんからの三発目の狙撃が正確に撃ち込まれる。

 

 パァンッ!

 

 階段の角が爆ぜ、フランクリンは舌打ちをひとつして一歩後ろへ間合いを取った。あやめも石柱の裏へ滑り込み、二振りの刀を構え直して呼吸を整える。

 

 わずか二往復の交錯。

 

 フランクリンはアーチ回廊の射手と、柱の陰の剣士の両方を見ていた。二人を追える位置を崩さない。ぼたんは次の射点へ腰を移し、あやめの刀が構え直されるのを視界の端で捉えた。近づいても楽にはならない相手だ。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その同じ瞬間、本館内部の連絡大広間では、宙に浮いたシルバが両手の巨大な光球を振り下ろそうとしていた。

 その両掌が向いている先には、ゼノに胸倉を押さえ込まれたクロロがいる。放たれれば、二人を巻き込んで広間を砕くだろう。

 

 ――放つ、その一瞬だった。

 

 ピピピピ、ピピピピ!

 

 空中のシルバの腰元で、高く澄んだ電子音が鳴り響いたのは。

 

 白い円盤の上部に緑の輪がつき、中央に八方の紋様が描かれた小さな通信機――ゾルディック家専用無線機。

 

 戦闘の音に重なっても、その呼び出しだけは聞き逃さなかった。待っていた暗殺完了の合図だった。

 

 シルバの瞳がわずかに動き、光球を放つ両手首の角度が、最後の瞬間にほんの数ミリだけ外側へと逸らされた。

 

 ドゴォォォォンッ!!

 

 天地がひっくり返るような轟音とともに、大広間の石床と天井が一気に爆ぜ飛んだ。

 凄まじい閃光と衝撃波が広間中を駆け巡り、太い石柱が根元から折れて崩れ落ちる。抜け落ちた天井から大量の瓦礫が降り注ぎ、真っ白な粉塵と煙が広間を埋め尽くした。

 

 ゴ、ゴ、ゴ……と余震のような地鳴りが天井で響く中、白煙の底で、瓦礫がゴトッと動く音がした。

 

 シルバは煙の中に静かに降り立ち、腰から外した白い円盤状の無線機を口元へと当てた。

 

「……イルミ。済んだのか」

 

 無線機から、抑揚の乏しい青年の声が返った。

 

『そっちの標的、クロロだよね。オレの客なんだけど、代われる?』

 

 シルバは瓦礫の山へ目を向けた。ゼノはすでに手を離して下がっており、クロロは砕けた石の上で仰向けに息をしている。左頬と右肩に血が滲んでいたが、光球の直撃は免れていた。

 

「聞こえるところにいる。話せ」

 

 無線機の向きが変わる。クロロは天井の穴から、差し出された端末へ目を移した。

 

『十老頭は始末した。代金の方、忘れないでね』

 

 プツン、と通信が切れた。

 

 クロロは瓦礫の上に寝転がったまま、天井の抜けた穴を見上げて一度だけまばたきをした。

 

 ゼノは服についた粉塵を払い、崩れた出口へ足を向けた。シルバも無線機をしまい、追撃の構えを解いている。

 

「ここで引くのか。オレはまだ動けるけど」

 

 クロロが声をかけると、ゼノは肩越しに振り返った。

 

「その首に金を払う者が、もうおらん。続きは別の仕事じゃ」

 

 十老頭からの依頼は終わった。それだけで、こちらへ向けられていた殺意も収まる。二人は出口へ向かい、クロロも追わなかった。

 

「このままオレと続けてたら、どっちが勝ってたと思う?」

 

 その問いに、ゼノは足を止めた。

 

「ワシは自分に賭ける。ただし――おぬしが本気で殺しに来るなら読み直さにゃならん」

 

 横目がクロロの空いた右手を捉える。最後まで、何を狙って動いていたか見られていたらしい。

 

「欲張りすぎたかな」

 

 ゼノは鼻を鳴らし、シルバとともに煙の向こうへ消えた。

 

 二人の気配が完全に遠ざかるのを確かめてから、クロロは瓦礫の上に大の字になって、天井へ向かって長く息を吐き出した。

 

「……あーキツ! 全部欲しがってる場合じゃなかったな」

 

 全身の骨が軋むように痛む。

 

 もしイルミからの無線があと一秒遅れていたら、シルバの光球は間違いなくゼノごと自分の頭を吹き飛ばしていただろう。十老頭が殺し屋を差し向けるより先に、イルミへ十老頭の暗殺を依頼しておいた自分の手が、文字通り紙一重で間に合った形だった。

 

 クロロはゆっくりと片腕を持ち上げ、懐から携帯端末を取り出すと、外で暴れている団員たちへの一斉回線を開いた。

 

「負傷者を運ぶ車は通せ。仕上げに移るぞ」

 

 短く指示を送り、クロロは砂埃の舞う石床から静かに身を起こした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 本館内部で爆発音が轟いた直後、西側の外部広場でも、張り詰めていた空気が一変した。

 

 アーチ回廊の柱の陰で次弾を装填していたぼたんの耳元で、個人用の暗号通信機が短く振動したのだ。

 ぼたんは視線を階段上のフランクリンから外さぬまま、左手の指先で通話スイッチを押した。

 

「はい、こちらぼたん」

 

『あ、出た。ココだけど。今まだ会場?』

 

 通信機の向こうから飛び込んできたのは、よく通る、聞き慣れた女性の声――マフィアの組の一つである桐生会会長、桐生ココだった。

 

「うん、今ちょうど広場のところで、なかなか骨のある相手と睨み合ってるとこなんだけど」

 

『じゃあ、それもう終わり。依頼主の十老頭、十人とも死んだから。こっちで確認取れてる。二人とも引いて』

 

 ぼたんの眉が、ぴくりと動いた。

 

「……十人全員? マジで?」

 

『マジ。もう依頼主いないんだって。ここから先はタダ働きだよ。怪我してまでやることじゃないじゃん。あと、この話はあやめにだけ伝えて。外には絶対に漏らさないでね』

 

「りょーかい。情報ありがと、ココ」

 

 通話を切ったぼたんは、すぐ前の石柱の陰にいるあやめへ声をかけた。

 

「あやめ、ココから。今の仕事は終了。下がるよ」

「え、今? ……了解!」

 

 あやめは問いを呑み込み、刀を構えたまま退路へ目を走らせた。

 

「私が射線を押さえるから、柱の陰を使ってそのまま後ろへ下がって」

 

 その同じ瞬間、階段の上に立っていたフランクリンの懐でも、携帯端末の着信音が鳴っていた。

 フランクリンはあやめとぼたんの位置を視界に入れたまま、片手で端末を耳へ当て、クロロからの短い指示――『負傷者を運ぶ車は通せ。仕上げに移るぞ』という声を聞き届けた。

 

「……了解だ、団長」

 

 フランクリンが端末をしまい、突き出していた右腕をゆっくりと下ろす。

 

 ぼたんはライフルの銃口をフランクリンの胸元へ向けたまま、あやめと歩調を合わせて一歩ずつアーチ回廊の暗がりへと後退していった。フランクリンも追わず、二人を視界の端に捉えたまま階段を横へ下りた。煙の上がる本館の入り口へ、支柱を間に置いて向かっていく。

 互いに背中を無防備に晒すような真似はしない。十分すぎるほどの間合いと遮蔽物が間に入ったところで、ぼたんはようやくライフルの銃口を下げ、あやめと一緒に外周道路の裏手へと抜け出した。

 

「……ふう。なんだったんだろね、今の。あっちの大男も、ちょうど仲間から連絡が入って引くところだったみたいだけど」

 

 あやめが二振りの刀を鞘へ収めながら、不思議そうに首を傾げた。

 

 人気のない路地へ折れ、足を止めずにぼたんが通話の中身を伝えると、あやめは思わず隣を見た。

 

「十人とも……? なんでココがそんなに早く知ってるの? あいつ、ち(・)ょ(・)っ(・)と(・)前(・)に(・)自(・)分(・)か(・)ら(・)十(・)老(・)頭(・)を(・)辞(・)め(・)た(・)ば(・)っ(・)か(・)り(・)だよね?」

 

「さあね。でも、あの人がただ隠居するために席を降りるわけないじゃん」

 

 ぼたんはライフルの安全装置をかけ、『MARKSMAN』の自己操作を解いて肩の力を抜きながら、遠くで鳴り響くサイレンの音を振り返った。

 

「自分が抜けたあとの十老頭の周りに、最初から自分の目を光らせてたんじゃない? ま、私たちには関係ない上の席の事情だろうし、無駄弾使わずに済んだだけラッキーってことで」

「それな! じゃあ、さっさと帰ってご飯にしよっか」

 

 二人はそれ以上裏の事情を詮索することなく、硝煙の匂いが漂う墓地ビル街を後にした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 墓地ビル群から数キロ離れた、ヨークシン市中心部の高層オフィスビル最上階。

 

 ブラインドを半分下ろした広い執務室では、十数台の電話と暗号端末がひっきりなしに電子音を鳴らし続けていた。

 

「――北大陸エリアの三組織、連絡網の切り替え完了しました! 当面の指示系統はすべてこちらの窓口へ集約されます!」

「こちらで管理する決済分、切り替えの準備ができました! 各地の窓口から、競売と送金の確認が来ています!」

 

 長机に並んだ連絡員や資金担当は、いずれも以前からココの下で動いてきた者たちだった。外からの問い合わせと、内輪だけで共有する報告は、別の回線へ振り分けられている。

 

 その部屋の奥、革張りの大きな椅子の背もたれに片肘を掛け、長い脚を組んで座っていた桐生ココは、満足そうに口の端を吊り上げた。

 

「いいね、そのまま。外には今まで通りの案内を返して。十老頭全員が死んだ話、ここから出さないでね。表向きは十老頭が旅団を討伐して競売も続行、それで通すから。金と連絡は、動かせるところからこっちで押さえる。さっさといこう」

 

 五年前――一九九四年のゴシカでの騒乱を利用して十老頭の一席へ座ってから、ココはずっとこの世界の頂点にある古い椅子を内側から眺めてきた。

 自分が十老頭の一人として居座り続ければ、ゴシカを地盤とする反ココ派の連中はいつまでも裏で小細工を続けるし、他の九人の老人たちも既得権益にしがみついて邪魔をする。

 だからココは、今回のヨークシン地下競売が始まる前に、あえて自分から十老頭の席を退任してみせたのだ。

 自分が抜けて空いた席に、ゴシカの反ココ派のトップを座らせ、さらには十老頭の筆頭格として表舞台の真ん中へ押し上げてやった。そうやって反対派と旧来の老人たちを『現職の十老頭』という一つの籠の中に綺麗にまとめ上げたところで、幻影旅団の襲撃という大嵐がやってくるように盤面を整えたのである。

 

「ココ様、三階下の特別フロアにある筆頭老頭の直轄通信室ですが、内側から隔壁を閉じてこちらの切り替え要求を拒んでいます! 直属の護衛と幹部が籠もっているようで……」

 

 連絡員のひとりが顔を上げると、ココは少しも困った様子を見せずに卓上の専用無線機へ指を伸ばした。

 

「あー、聞こえる? かなた、わため。そういうわけだから、三階下の直轄フロア、制圧してきて」

『りょーかい。もう階段の前まで来てるよ』

『いつでもいけるよー』

 

 スピーカーから返ってきた二つの明るい声に、ココは小さく笑った。

 

「陰獣はもういないから、そこに残ってるのはお爺ちゃんたちの私兵だけだ。大した手練れがもういないのは確認済み、今なら余裕でしょ。ただし、中の端末と回線は使うから壊さないでね」

『はーい、気をつける!』

 

     ◇ ◇ ◇

 

 三階下の特別フロアは、エレベーターホールから続く通路ごと分厚い鋼鉄製の防弾扉で閉ざされていた。

 

 待機していたココ派の通信班を後ろに控えさせ、天音かなたと角巻わためが並んで扉の前へ歩み寄る。天井の監視カメラが二人を捉えた直後、壁のスピーカーから威嚇する男の怒鳴り声が響いた。

 

『桐生とこのガキが! 止まれ! ここは筆頭老頭の直轄区画だ! 一歩でも近づけば撃つぞ!』

 

「撃つぞだって。扉、閉まってるのにね」

「かなたん、あれ開けたらほんとに撃ってくるやつだよ」

「だよね。じゃあ、ちょっと失礼して――っと」

 

 かなたは防弾扉のわずかな合わせ目に両手の指先を掛け、足裏から脚、腰、背中、肩、腕へとオーラの流れを連動させた。全身を強固な『堅』で包み、床を踏みしめて引く。

 

《天使の握力(おらくる)》

 

 鍛え上げた身体と高密度のオーラを全身の荷重線に乗せることで、内側から掛けられた電磁ロックの閂が悲鳴を上げて歪んだ。コンクリートの壁枠ごと鈍い破断音が響き、重厚な鋼鉄の扉がかなたの両手でずり、と横へ引き剥がされる。かなたはそれを入口脇へ下ろした。

 

「なっ……!? 開いたぞ、撃てっ!」

 

 扉の向こうの広い通信室では、大型コンソールの前に並んだ六人の護衛が、一斉に拳銃と短機関銃の銃口を向けた。

 

 引き金が引かれるより早く、かなたが一歩で床を蹴り、最前列の二人の懐へ潜り込む。

 火を噴く寸前の短機関銃を、握っている護衛の手ごと左手で押さえ込み、もうひとりが構えた拳銃の手首を右手で下から掬い上げた。引き金に掛かった指もまとめて固定され、護衛が力を込めても、かなたの左手はびくともしない。

 

「はい、危ないから銃は没収ね。ココが機材を壊すなって言ってるからさ」

 

 かなたは拳銃の男の手首を軽く捻ってその場に膝をつかせ、左手に捕らえた護衛の腕を横へ振った。銃を握ったままの護衛の身体がそのまま浮き上がり、すぐ隣で構え直そうとしていた仲間の胴へぶつかって二人まとめて壁際へ転がる。

 

「くそっ、こいつ……!」

 

 横から踏み込んできた大柄な護衛が、オーラを纏った拳を振り下ろす。念を扱える用心棒も混じっていたが、かなたは肩と背中のバネを使ってその手首を片手で受け止めた。足裏へ抜ける重心を微塵も揺らさず、相手の引き足へ短い足払いを合わせて床へ転がし、その背中を靴底で軽く踏み止める。

 

「ほんとに陰獣がいなくなると、こういう場所も手薄になるんだね。ちょっと拍子抜けしちゃうな」

「かなたんが扉ごと持っていくから、みんなびっくりしてるだけだよ」

 

 わためが苦笑しながら一歩前へ出た瞬間、部屋の奥にいた残る二人の護衛が、裏口へ走り出した。その背後で、管理役の幹部がコンソールから記録媒体を抜き取る。

 

「通信履歴と認証キーは渡さん! 非常回線で他の連中に――」

「あ、だめだよ。それ消されたら、わためたちが怒られちゃうからね」

 

 わためが両手をふわりと広げた。

 

《やさしい檻(スイート・ホーム)》

 

 左右の手のひらから接続されたオーラが、白く柔らかい弾性繊維の編み目となって十メートル足らずの室内へ広がった。

 左手から伸びた一組の面が裏口の扉の前を塞ぎ、そこへ駆け込んだ護衛二人の身体をふわりと受け止める。ぶつかった瞬間は深いクッションのように沈み込んで衝撃を逃がし、面の縁が二人の肩口と足元へ回り込んで、包み込む形に閉じた。護衛が慌てて後ろへ引こうとした途端、閉じた編み目が引き締まり、足を止めさせた。

 

「なっ、なんだこの網は!? 引いても切れんぞ!」

 

 同時に、わための右手から伸びたもう一組の編み目が、コンソールの前で初期化スイッチを叩こうとしていた幹部の腕と胴を背後から包み込んだ。

 押せば柔らかく沈むのに、振り解こうと暴れるほど閉じた編み目がきゅっと詰まり、肘も肩も動かせる隙間がなくなっていく。わためは両手への接続を保ったまま半歩前へ出て、左右それぞれの編み目の張りを整えた。

 

「痛くないようにしてるから、ちょっとそのまま止まっててね。暴れると余計に締まっちゃうよ。ぐちゃぐちゃにおしくらまんじゅうになって死にたくないでしょ?」

 

 幹部は指先すらコンソールのキーに届かなくなり、柔らかい檻に包まれたまま床へ尻餅をついた。裏口の二人も、ひとまとめに編み目へ絡め取られて身動きが取れなくなっている。

 

「よし、こっちも捕まえたよ、かなたん」

「さすがー。じゃあ、後ろの人たち入っていいよ!」

 

 かなたが廊下へ声をかけると、待機していたココ派の通信班と実働員たちが室内へなだれ込み、手際よく護衛たちを拘束してコンソールの席へ着いた。わためは実働員が幹部の手から記録媒体と認証キーを回収するのを確かめてから、順番にオーラの編み目を解いていく。

 

 かなたは入口へ戻り、下ろしていた防弾扉を壁際に立てかけ、耳元の通信機へ指を当てた。

 

「もしもしココ? 三階下の直轄フロア、いま全部押さえたよ。端末も無傷」

「わためもちゃんとみんな怪我させずに止めたよー。もうそっちへ回線繋げるって」

『あはは、仕事早いなあ! ありがと二人とも。そのまま下の引き継ぎ見といて!』

 

     ◇ ◇ ◇

 

 最上階の執務室では、正面のモニターに直轄回線の接続表示が灯り、長机の担当者たちから熱を帯びた報告が上がった。

 

「三階下の直轄コンソール、接続を確認! このフロアで扱う回線と決済窓口は、こちらで押さえました!」

 

 幹部の一人が勢いよく頭を下げるのを見て、ココは「よしよし」と機嫌よく頷いた。

 

(十人まとめて退場して、陰獣もいない。邪魔な蓋が外れれば、こんなもんか。……よし、ここからは私の仕事)

 

 もちろん、これで世界中のマフィアがすべて思い通りになるわけではない。まだ応答のない拠点もあれば、不審を抱いて同じ確認を繰り返してくる幹部もいる。

 

 ココは端末に並ぶ未処理の連絡先を見て、次々に担当を振り分けた。

 

「今押さえた直轄回線は絶対離さないで。他の連中から問い合わせが来たら、『筆頭は競売会場の指揮で手が離せない』って返しとけばいい。他の未処理の窓口も、かなたたちが開けたルートから順番に上書きしていって」

「はっ!」

 

 今押さえた回線を離さず、次の窓口を開かせる。空いた席を埋める仕事は、まだ始まったばかりだった。

 

 ココは立ち上がると、窓際へ歩み寄り、遠くの夜空を赤く染める墓地ビル街の方角を見やりながら、私用の携帯端末でひとつの番号を呼び出した。

 ワンコールで、通話が繋がる。

 

『――もしもし。仕事が早いね』

 

 電話の向こうから聞こえてきたのは、先ほどまで死闘を演じていたとは思えないほど落ち着いた、クロロの声だった。

 

「そっちもだろ。私の方も、もう動いてる。死亡の話はまだ外に出してないから」

 

 ココは窓ガラスに指先を触れながら、くだけた調子で続けた。

 

「こっちも約束通り。競売品のありかと陰獣の動きも渡した。そっちの仕事も済んだ。これでお互い、約束は守ったってことで」

 

 事前に交わした五分の盃――ココの念能力《仁義の鎖(ウェザー・ハッカーズ)》によって結ばれた、対等な取引の契約。

 

 どちらかが他方の部下になるわけではない。互いの身体の自由を担保に預け合い、具体的な条件の履行を保証する裏社会の枷だ。

 

『ああ。陰獣の排除と、現職十老頭の始末。そちらが競売品の回収経路に介入しないことも含めて、すべて条件通りだ』

 

「うん。で、化(・)猫(・)、そっちにいるんだよね? ちょっと代わって。声聞きたい」

 

『いいよ。今、代わる』

 

 電話の向こうで、端末が持ち替えられる小さな衣擦れの音がした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 墓地ビル本館の裏手にある、照明の落とされた搬出用の控室だった。

 外の喧騒が分厚いコンクリートの壁に遮られたその部屋には、クロロのほかに二人――携帯端末を手にしたシャルナークと、黒いゆったりとした上着を羽織った陰獣の『化猫』こと、猫又おかゆが立っていた。

 

 一昨夜から続いた郊外の追撃戦で、化猫は梟とともに捕らえられた『捕虜』という形で旅団の前へ姿を現した。しかし今、彼女の手首には縄も手錠もかけられていない。

 

 クロロが、通話の初めからスピーカーをオンにしていた携帯端末を差し出すと、化猫は肩口の紫がかった銀髪をふわりと揺らし、穏やかに目を細めて端末へ顔を寄せた。

 

「もしもし、ココさん? ぼくだけど、聞こえてるかな」

 

『あ、おかゆ。大丈夫? どっか怪我してない?』

 

「うん、ぼくはピンピンしてるよ。さっきシャルナーク君と最後の記録の照合も終わって、ちょうど一息ついてたところなんだ」

 

『あー、よかった。確認終わったら戻っておいで。なんか美味しいもん用意しとくから。その頃にはうちがマフィアの頂点だぞ』

 

「わあ、ほんと? じゃあ、それを楽しみにすぐ帰るね」

 

 親友と週末の約束でもしているかのような柔らかい声で答え、化猫が頷くと、クロロは通話を切って端末を懐へ収めた。

 

 隣で自分の端末の画面を閉じたシャルナークが、感心したように化猫の顔を見て肩をすくめた。

 

「いやあ、しかし見事な手際だったね。マフィアの中央集計に上がってる陰獣の被害報告、今もう一度確認したけど、きっちり『九名死亡・梟一名が行方不明』で処理されてたよ」

 

「うん。あの夜、コルトピ君にぼくの死体を作ってもらって、マフィアに流したからね。その後ココさんがすぐに火葬したから誰も見抜けないよね」

 

 化猫は少しも気負ったところのない、普段通りの伸びやかな声で言った。

 

 一昨夜の郊外での交戦で、旅団に殺された陰獣は実際には八人だった。

 

 残る二人のうち、競売品を風呂敷に収めていた梟は本物の標的として捕縛され《念》を奪われた、同行していた化猫はそのまま旅団側へ合流した。

 

 シャルナークの端末には、一昨夜のうちにココが化猫の遺体を検分したという確認記録が残っていた。初報で消息不明だった二人のうち、死者の欄へ移されたのは化猫だけだ。実物の化猫は今、目の前で何事もなかったように笑っている。

 

「自分が十老頭を辞めたあとも、陰獣の中に自分の協力者を残しておくなんて、そっちのボスもずいぶん用意がいいんだね」

 

 シャルナークが軽く尋ねると、化猫は「あはは」と柔らかく笑って首を振った。

 

「それはね、ココさんに命令されたんじゃなくて、ぼくが自分でそうするって言ったんだよ」

 

 化猫の瞳には、迷いも気負いもなかった。

 

「ぼく、昔からココさんといろんなお仕事を一緒にしてきてね。あの人がどれだけ先を見て動いてるか、一番近くで見てきたから。ココさんが十老頭を抜けるって聞いたとき、陰獣の側にぼくが残ってた方が絶対に動きやすいだろうなって思って、自分から残ったんだ」

 

 シャルナークのすぐ横に立つクロロは、黙ったまま化猫の立ち姿を観察していた。

 目の前の人物からは、暗殺者のような棘のある殺気も、自分を大きく見せようとする虚勢も一切感じられない。それなのに、自分とシャルナークという二人の旅団員をすぐ目の前にして、呼吸の深さも足元の重心も、最初から最後まで一ミリも乱れていなかった。

 

「梟が持っていたあの布の能力も、お前が事前に知らせてくれた通り、役に立ったよ」

 

 クロロが静かに声をかけると、化猫は少しだけ目を伏せて、懐かしむように微笑んだ。

 

「うん。梟はね、ああ見えてお仕事にはすごく真面目で、丁寧だったんだよ。だから死なずに済んで本当に良かったと思ってる。紹介した甲斐があったよ」

 

 梟の名を口にしたときも、相手を嘲る響きはなかった。化猫はそのまま、ココの側に残ると決めた話を終えている。選んだ仕事について弁明を足す様子もない。

 クロロは、穏やかな声で同僚を売り、その同僚の働きぶりを丁寧に語る相手を見ていた。彼女にとっては、どちらも隠すつもりのない話らしい。

 

「そうだな。外の騒ぎも、もうじき収まる」

 

 クロロが短く答えると、化猫は「そっか、良かった」と嬉しそうに頷き、控室の裏口へと向き直った。

 

「じゃあ、ぼくのお仕事はこれで全部終わりだから、ココさんのところへ戻って報告してくるね。お兄さんたちも、怪我の手当てはちゃんとしてね。お疲れさま」

 

 化猫はひらりと片手を振って微笑むと、足音ひとつ立てずに裏口の扉を開け、夜の路地へと軽やかに姿を消した。

 

 扉が閉まったあと、シャルナークは少しだけ目を丸くして口笛を吹いた。

 

「……ふうん。あんなに人当たりが良くて優しそうなのに、ずいぶん肝が据わってるなあ。敵に回したら、ちょっと面倒なタイプかもね」

「ああ。だが、今夜の取引はここまでだ」

 

 クロロは裏口の扉から視線を外し、廊下の奥へと歩き出した。

 

「みんなが待っている。最後の仕上げを済ませよう」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 十分後、本館の奥にある崩れかけた大ホールで、クロロの前へ十人の団員が集まった。ノブナガはアジトでの留守番を続けている。

 

 外の通りではまだパトカーのサイレンや消防車の鐘の音が遠く響いていた。マフィアの後続部隊は、銃声の絶えた本館の周りで突入の指示を待っている。ここまで踏み込んでくる者は、まだいなかった。

 

「団長、その顔と肩の傷、ずいぶん派手にやり合ったみたいだね」

 

 マチがクロロの裂けたコートの肩口を見て眉を寄せると、クロロは「ああ、ゾルディック家の親子が相手だったからね。これでも安く済んだ方だ」と静かに答えた。

 

 ホールの隅の瓦礫の上では、ヒソカがトランプのカードを指先で弄びながら、残念そうに目を細めていた。

 

「フフ……ずいぶん早く終わっちゃったね♠ もう少し長く遊べるかと思ってたんだけど♦」

「文句を言うなよ、ヒソカ。ウヴォーへの手向けとしては、これでも足りないくらいだ」

 

 フィンクスが首を鳴らしながら笑い、フェイタンやフランクリン、ボノレノフもそれぞれの位置で血や硝煙の匂いを拭っている。パクノダは壁際で静かにクロロの無事を確かめるように頷いていたが、アジトで口にしていた『団長に話したい別件』を、この慌ただしい撤収前の現場で切り出すことはしなかった。

 

「じゃあ、コルトピ。頼むよ」

 

 クロロは右手に《盗賊の極意(スキルハンター)》を具現化してページを開き、先ほどゼノたちの前で使った赤黒い布――梟から奪った風呂敷を再び取り出した。

 クロロがホールの平らな床の上にその布を広げ、収納を解くと、手のひらサイズに縮められていた大量の金庫やガラスケースが、次々と元の巨大な姿へ戻って床一面に並んだ。一昨夜の地下競売に出品されるはずだった、世界中の希少な財宝の原物である。

 

「うん。わかった」

 

 分厚い髪の毛の間から片目だけを覗かせた小柄なコルトピが、並んだ財宝の前へと進み出た。

 コルトピはケースを開け、左手で宝飾品や美術品の原物に一つずつ触れていった。そのすぐ横の右手のひらから、寸分違わぬ精巧な『複製品』が次々と生み出されていく。左手で触れた物体のコピーを右手で具現化し、二十四時間だけ維持するコルトピの能力だ。

 

「シズク、周りの邪魔な瓦礫や余計な痕跡は吸っておいてくれ」

「はい。デメちゃん、お願い」

 

 シズクが具現化した掃除機で床の細かい破片を整えていく間に、コルトピは財宝の複製を終え、今度は並んだ団員たちの前へと順番に足を運んだ。

 

「じゃあ、次はみんなの分を作るね」

 

 コルトピの左手がクロロに触れ、続いてマチ、フェイタン、シズク、シャルナーク、フランクリンへと移っていった。

 生命体を生きたまま複製することはできないが、『動かない物体』としてなら生物の形もそのままコピーできる。右手の側に現れた六人は、呼吸もせずに床へ横たわった。

 

 マチが、その間へ屈み込む。

 

「顔は残しておけ。見た奴が誰だか分かるように」

「分かってる」

 

 クロロへの返事とともに、両手の間で細い糸が張った。

 引かれた糸が、複製の上着と、その下の肢体へ食い込む。床に置いただけでは、眠っているようにも見えた身体に、戦闘で受けた傷が刻まれていった。

 

 シャルナークは自分の顔をしたものが損壊されるのを、少し離れた場所から見ていた。マチの手が止まると、フランクリンが五体を別の場所へ運び、崩れた石柱の間へ置いていく。クロロの分は、先ほど親子と闘った場所に残した。

 

 二十四時間後には消えてなくなる偽の競売品と、偽の死体。

 

 十老頭の指示を待つマフィアがここへ踏み込めば、雇った殺し屋が旅団の頭と複数の団員を倒し、品物を取り返した現場に見えるだろう。顔が分かる死体があり、盗まれたはずの財宝も揃っている。組織は勝利を確かめ、回収品を今夜の競売へ戻す。彼らが複製品に金を払っている間、本物は旅団の手にある。

 

 クロロはもう一度赤黒い布を振って、本物の競売品の山を再び小さく包み込み、懐へと収めた。

 

「よし。これで表向きの仕事は終わりだ。アジトへ戻ろう」

 

 クロロと十人の団員は、音もなく崩れたホールの裏口から夜の闇へと溶け込んでいった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 それから三十分も経たないうちに、墓地ビル本館の周囲は、突入を開始したマフィアの後続部隊と緊急車両の赤い回転灯で埋め尽くされた。

 

 クラピカが現場へ戻ると、入口の組員たちが一台の携帯端末を覗き込んでいた。

 

 十老頭からの中継だという。

 

 画面の中では、重厚な椅子に座った老人が、襲撃騒ぎを意にも介さない顔で正面を向いていた。

 

『旅団の頭は片づいた。残りも長くはかからん。品物はこちらで取り戻す。諸君は競売を楽しんでくれればいい』

 

 誰かが安堵の息を吐いた。十老頭がそう言うなら、今夜の騒動も終わりなのだ。周囲では再開する競売の警備や、回収品の搬入先を確かめる声が飛び交い始めた。

 

 クラピカは端末を持つ組員の腕を掴んだ。

 

「頭を片づけた……? どこだ。その男はどこにいる」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 中継が切れた部屋で、イルミは画面の消えた機材から手を離した。

 

 椅子の男は、もう口を動かしていない。

 

 カメラに映らなかった後頭部には、何本もの針が刺さっていた。周囲に並ぶ十老頭も、生きた人間の会議にはあり得ない静けさの中で椅子に収まっている。

 

 十人はすでに死んでいた。

 

 だが、外へ届ける用件は、彼らが生きて権威を振るっているうちと変わらない声で伝え終えている。イルミはそれを確かめると、依頼人との通話を終えた端末をしまった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 案内された場所の床に、黒い服の男が倒れていた。

 

 額には逆十字。頬には傷がある。動かない顔を、クラピカは膝をついて覗き込んだ。

 

 昨夜倒したウヴォーギンが、命と引き換えにも教えなかった団長。

 

 その男だと、現場の組員は言った。

 

「他にも死体は五体出てる。いま顔を撮って、身元の照合に回してるところだ」

 

 別の場所に並ぶ遺体には、街で見た旅団員の顔があった。裂けた衣服や身体の傷、床へ投げ出された手足を、一つずつ見ていく。

 

 誰も動かなかった。

 

 十老頭の発表だけなら、まだ疑えた。混乱の中で話が大きくなったのかもしれない。だが、遺体はここにある。指揮する者も、手足も、自分が届くより早く倒されている。

 

(……これで、終わりなのか)

 

 右手を握っても、鎖の触れる感触が遠かった。

 

 団長を捕らえ、同胞について聞くはずだった。奪った目をどこへ売ったのか。あの夜、何があったのか。答えさせるために、生きてここまで来た。

 

 その口は、もう開かない。

 

 仇が死んだ。その知らせを待ち望んでいたはずなのに、喜びは湧かなかった。明日どこへ向かえばいいのか、今この場で何をすればいいのかも、急に分からなくなっていた。

 

「クラピカ」

 

 センリツが、すぐ隣に立っていた。

 

「……幻影旅団のリーダーだそうだ」

「ええ」

「他の連中も。十老頭が、片づけたと……」

 

 説明する声が、自分のものに聞こえなかった。

 

 センリツは遺体をもう一度見てから、クラピカへ視線を戻した。励ましも、仇討ちが済んだことを喜ぶ言葉も口にしなかった。

 

 その沈黙があって、クラピカはようやく立ち上がれた。

 

「ボスへ報告する」

 

 携帯端末を取り出す。仕事なら、まだ残っている。

 ライト・ノストラードへ旅団の頭と複数の団員が死んだことを告げると、受話口の向こうで張り詰めていた声が緩んだ。競売は予定を組み直して、今夜のうちに行われるという。

 

 クラピカは短く返事をして電話を切り、センリツと会場へ向かった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 再開した地下競売の最後に、緋の目が出された。

 

 ケースの中に、一対。

 

 照明を受ける赤を見た途端、競売人の紹介も、席の間を走るざわめきも、意味のある言葉として耳へ入ってこなくなった。

 

 クラピカは膝の上で組んでいた手をほどいた。

 

 取り戻すべきものは、ここにある。

 

『一億ジェニーから始めます』

 

 声が上がり、値が動き始める。クラピカはライトへ電話をかけ、目の前にある品物と、入札の始まったことを伝えた。

 

「上限を確認させてください」

『決めなくていい。いくらになっても落とせ。ネオンが欲しがっている』

 

 ネオンの欲しがる『品物』。そう扱われることに頷かなければ、この札を上げることすらできない。組の資金を使えるのは、その命令を受けているからだった。

 

「……分かりました」

 

 電話を切り、札を上げる。

 

 値が跳ねた。別の札が上がり、クラピカはまた応じた。

 

 赤い目を前にした客の何人かは、引き際を測りながら笑っていた。クラピカはそちらを見なかった。競売人の声を聞き、目の前の品物へ手を届かせるために、次の金額を告げる。

 

 復讐の相手はいなくなった。

 

 それでも、まだここを離れるわけにはいかなかった。

 

『二十九億ジェニー。ほかにございませんか』

 

 間があった。

 

 最後まで応じていた札が下がる。

 

 槌の音が響き、落札を告げられたクラピカは、ゆっくりと手を下ろした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ノストラード組の名義を確認され、クラピカは受け渡しの窓口でケースを受け取った。

 

 両手の中に収まる重さだった。

 

 中の赤から目を離せずにいると、係員が次の客を呼んだ。クラピカは蓋を閉じ、胸に抱えるようにして窓口を離れた。

 

 この品物も、コルトピが本物から作った複製だった。

 

 そのことを、受け取ったクラピカはまだ知らない。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 病院の部屋へケースを届けると、ネオンは寝台の上で身を乗り出した。

 

「取れたの? 見せて!」

 

 蓋が開く。中を覗き込んだネオンが歓声を上げる隣で、ライトは満足そうに頷いた。

 

「よくやった。これでホテルへ戻れる」

 

 クラピカは頭を下げ、ケースから手を離した。

 

 廊下へ出ると、センリツが少し遅れてついてきた。病室の明かりを背に、いつもと同じ静かな声で呼び止める。

 

「明日は私がついているわ。あなたは休んで」

「私は……」

「独りになれる時間も、必要でしょう」

 

 言いかけた言葉は続かなかった。

 

 クラピカが頷くまで、センリツは待っていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ホテルへ戻ったあと、クラピカは一人で屋上に上がった。

 下の通りでは、競売から帰る車がまだ列を作っている。遠くに残る煙も、ここからでは街の灯に薄く溶けていた。

 

 携帯端末の連絡先から、ゴンの名を選ぶ。

 

『クラピカ? やっとつながった! あのさ、聞いて――』

「旅団は死んだ」

 

 向こうの声が止まった。

 

「団長の遺体を、この目で確かめた。他の団員も見つかっている。……もう、追わなくていい」

『待って、クラピカ。オレたち――』

 

 クラピカは通話を切った。

 もう一度画面が光る前に、電源も落とす。

 

 掌の中が暗くなった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その夜、地下競売が再開される少し前。

 

 墓地ビル群から遠く離れた旧市街の静かな陸橋の上で、クロロは足を止め、遠くの夜空を赤く染める煙と回転灯の明かりを振り返った。

 

 少し後ろの暗がりでは、マチやフェイタン、フランクリン、シャルナークたちがアジトへ戻る足を緩め、黙って団長の背中を待っている。

 

 表向き、今夜の事件はすべて終わったように見えているはずだ。

 

 十老頭は全員始末され、ココの派閥が裏で空いた持場を押さえ始めている。だがマフィアたちは、その十人が旅団を討ったと信じ、偽の死体と複製品の宝を前に胸を撫で下ろすことになる。ウヴォーギンのために鳴らした鎮魂歌は、間違いなくこのヨークシンの街を端から端まで揺さぶった。

 

 クロロは懐の奥へ指先を滑り込ませ、四つ折りにした花柄の便箋を取り出した。

 街灯の淡い光の下で折り目を開くと、ネオンの丸みを帯びた文字が、静かに浮かび上がる。

 

 『大切な暦が一部欠けて』

 『遺された月達は盛大に葬うだろう』

 

 最初の二行は、今夜、この街で現実のものとなった。

 

 そしてクロロの黒い瞳は、そのすぐ下に続く二行へと吸い寄せられるように落ちていく。

 

 『死者の集う館を奪うなら』

 『未完の本は古い殻を脱ぐだろう』

 

 弔いの夜は終わった。

 

 だが、自分の右手に宿る未完の本が古い殻を脱ぐための本当の盗みは、まだ始まってさえいない。その『死者の集う館』がどこにあり、誰の手の中にあるのか。今はまだ、紙のほかに手掛かりはない。

 

 パクノダが話したいという別件も、聞かずに残してある。まずは戻って、今夜の仕事を終える。

 

 クロロは便箋をもう一度静かに折りたたんで懐へ収めると、夜風の吹く暗い路地の奥へと、迷いのない足取りで歩き出した。

 


 

【今回の人物紹介・念能力】

 

桐生ココ(操作系)

 

 桐生会会長で、元十老頭。事前に席を退き、旅団襲撃後のマフィアンコミュニティーを掌握するため旅団と対等な取引を結んだ。

 

 《仁義の鎖(ウェザー・ハッカーズ)》――条件を理解し、了承した相手と盃で契約を結ぶ。約束を破ると、担保にした身体・精神等の自由を失う。ココ自身も身体を担保にできる。

 今回の契約は、双方が対等な立場で結んだ「五分の盃」。ココはオークションの詳細な情報、十老頭、陰獣の情報を旅団側に提供し、クロロは桐生組及びココの指定する人物と敵対しないというもの。

 

天音かなた(強化系)

 

 桐生会の戦闘員。強化系の特性をいかし、正面突破と敵の制圧を担う。

 

 《天使の握力(おらくる)》――オーラで全身を強化し、桁外れの怪力と頑丈さを発揮する。握る力だけでなく、打撃や重い物の運搬にも使う。

 

角巻わため(変化系)

 

 ココ側の戦闘員。相手を捕らえることに特化した念能力を使う。

 

 《やさしい檻(スイート・ホーム)》――柔らかい繊維状のオーラを編み、相手の身体を包む。落ちてくる人を受け止めて助けることも、敵を包んで動きを止めることもできる。

 

猫又おかゆ/陰獣「化猫」

 

 表向きは、十老頭直属の念能力者集団「陰獣」の一員。長く仕事を重ねたココへの信頼から、自分の意思で内通役を引き受けた。今回の死亡偽装を経て、ココのもとへ戻る。

 

獅白ぼたん(操作系)

 

 独立した賞金稼ぎ・傭兵。銃の扱いに長けており、念能力もそれに関連するもの。今回は十老頭側の依頼で旅団と戦い、ココから依頼主死亡の知らせを受けて撤退した。ココとは連絡を取り合うが、組の配下ではない。

 

 《百獣万装(ライオネス・プライド)》――設定した《PERK(パーク)》に応じ、様々なボーナスを得る。PERK(パーク)は狙撃や連射などに特化する形で切り替え可能。有効打(キルやヒット)が続くと強力な《ULT(ウルト)》

 

百鬼あやめ

 

 独立した賞金稼ぎ・用心棒の剣士。十老頭側の依頼で参戦し、ぼたんの射撃と連携してフランクリンへ接近した。依頼終了の知らせを受け、ぼたんとともに撤退する。

 

 小範囲の《円》と目で相手の動きを捉え、二刀と踏み込みを組み合わせて戦う。固有の念能力は未公開。

 


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