儒烏風亭らでんと蜘蛛と奇術師   作:今日も元気ですマン

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第十八話 九月四日①

 

 九月四日の朝、ホテルの窓から差し込む光は、昨夜までの喧騒が嘘だったかのように白く澄んでいた。

 遠くの墓地ビル街の方角から立ち昇っていた黒煙はすでに見えず、大通りを行き交う車の音も普段の朝の落ち着きを取り戻しつつある。室内のテレビからは、昨夜遅くに地下競売場の周辺で起きた大規模な武装衝突について、マフィア側の情報筋の話として「襲撃犯の中心人物らが制圧され、事態は収束に向かった」という短い続報が流れていた。

 

 らでんはテーブルの上で湯気を立てるカップの横に、黒革の手帳を開いて置いた。

 新しいページを今朝作ったわけではない。九月一日の朝、館の展示台にある木版画の装飾暦――《来月もここで(ファミリー・スケジュール)》の頁をめくったときに浮かび上がった当月の表示を、そのまま自分の手で書き写しておいた控えだ。

 

 指先が、四日の欄で止まる。

 今日の欄全体は灰色に染まり、その中に二つの予定が上下に並んで記されていた。

 

 ひとつは、今夜二十時の『20:00 ReGLOSS MV公開』。事前に仲間たちと収録と編集を済ませ、予約投稿の設定も終えてあるデビュー曲の動画だ。そちらの文字はごく普通の黒いインクの色をしており、脇に危険を示す印もついていない。

 

 視線が引き寄せられるのは、その上の行だった。

 

 『・面会』

 

 その二文字だけが、血を滲ませたような赤で記されている。そしてすぐ横には、小さな黒い星がひとつ添えられていた。

 

 赤い文字は、らでん自身の立場や関係、生き方を左右するような重い選択が伴う予定を示す。黒い星は、害意や罠、重大な不利益をもたらす相手との接触を表す印だ。

 

 さらに、四日という一日を覆う灰色。それは親しい誰かの死を知るか、あるいはそれに匹敵するほど大きく悲しい別離を、喪失として経験する日にだけ現れる色だった。

 

「……終わったってニュースが出てるのに、こっちはちっとも静かじゃないんだよなあ」

 

 らでんは手帳の端を指で軽く叩き、小さく息を吐いた。

 

 一度めくった暦の表示は、その後の行動で未来が変わっても自動的には書き換わらない。だから、昨夜の騒動で危険の元が消えたという可能性もゼロではないはずなのに、胸の奥のざわつきはどうしても消えなかった。

 

 何より気がかりだったのは、昨日から別行動になっていたゴンとキルア、そしてノストラード組の護衛としてあの墓地ビル群の渦中にいたはずのクラピカのことだった。

 

 今朝、レオリオから「直接会って話したいことがある」と連絡が入った。ゴンとキルアも一緒だという。それ以上の話は会ってからにしてくれと、普段の軽口を挟む余地もない声だった。

 

 らでんは手帳を閉じて内ポケットへ収めると、羽織りの襟元を整え、部屋のカードキーを手に取った。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 待ち合わせ場所に指定されたデイロード公園は、朝の散歩をする市民や通勤客がまばらに通り過ぎるだけの、緑の多い静かな広場だった。

 噴水を見渡せるベンチの近くまで歩み寄ると、すでにそこには長身のレオリオと、その足元で周囲を警戒するように視線を巡らせているゴンとキルアの姿があった。

 

「ゴン君、キルア君、レオリオさん!」

「あ、らでんさん!」

 

 声をかけると、ゴンがぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。すぐ後ろから歩いてきたキルアも、ポケットに片手を入れたまま軽く片手を挙げる。

 

「おはよ、らでん。悪いな、朝から呼び出しちまって」

「ううん、二人の顔を見られただけで安心したよ。……って、ゴン君、その右手どうしたの?」

 

 らでんの視線が、ゴンの右手の甲に巻かれたままのハンカチと、その隙間から覗く赤黒い擦り傷へと落ちた。

 骨が折れているような腫れ方ではないが、皮膚が強く擦りむけて血が滲んだ跡がある。

 

「あ、これ? 昨日ちょっと腕相撲したときに、机にぶつけちゃって。もう血は止まってるから大丈夫だよ」

「どこが『ちょっと』だよ。相手が本気で机に叩きつけてきたからだろ」

 

 キルアが呆れたように横から口を挟み、レオリオも眉間の皺を深くして肩をすくめた。

 

「まったく、オレが今朝こいつらと合流したときも、聞けば聞くほど心臓が縮み上がるような話ばっかりでな。……お、来たぞ」

 

 レオリオが公園の西側の入り口へ顎をしゃくった。

 街路樹の影から、青い民族衣装を着たクラピカが一人で歩いてくるところだった。

 

 一時間ほど前にようやく携帯の電源が入り、レオリオからの連絡を受けてここへ向かってきたらしい。足取りこそしっかりしているものの、近づいてきたその顔には、一晩でひどく消耗したような深い影が落ちていた。

 

「クラピカ!」

「……待たせたな。ゴン、キルア、レオリオ。それに――らでんさんも、来ていたんですね」

 

 クラピカは立ち止まり、四人の顔を順番に見た。

 その瞳には、昨夜ゴンへ電話をかけたときと同じ、どこか張り詰めた糸がぷつりと切れたあとのような静けさが漂っている。

 

「お久しぶりです、クラピカさん。……あ、私のことは呼びやすい呼び方でいいですからね。もう試験官でもありませんし」

「……それなら、らでん。久しぶりだ」

 

 クラピカは呼び直すと、わずかに頭を下げた。らでんも小さく頷き返す。

 

「昨夜は一方的に電話を切ってすまなかった、ゴン。少し、ひとりで整理したいことがあったんだ」

「ううん、それはいいんだけど……クラピカ、その前にどうしても聞いてほしいことがあるんだ」

 

 ゴンが一歩前へ出ると、キルアがその肩を軽く押さえて周囲の遊歩道へ目を走らせた。

 

「おい、ここは外だ。誰が通りかかるかわからねえし、念を使える奴が近くで耳を澄ませてたら終わりだぜ。オレたちが借りてるすぐ近くの部屋へ移ろう」

「そうだな。ここから歩いて三分だ、まずは中へ入ろうぜ」

 

 レオリオが先頭に立ち、五人は公園の向かいにある古い滞在用アパートメントの一室へと移動した。

 

 扉の鍵を閉め、窓のブラインドを下ろして外の視線を遮る。キルアが念のため窓際と廊下側の気配を確かめてから頷くのを見て、らでんはパイプ椅子へ腰を下ろしたクラピカと向かい合った。

 

「それで、ゴン、キルア。昨日お前たちに何があった」

 

 クラピカが静かに尋ねると、ゴンとキルアは互いに一度視線を交わし、昨日の昼下がりからの出来事を順序立てて話し始めた。

 懸賞金の情報を頼りに、下見市でらでんと別れたあと、マチとノブナガの二人を尾行したこと。人気のない路地で引き返そうとしたとき、背後にパクノダとフィンクスが現れ、前後を塞がれて捕まったこと。

 そこで『鎖野郎』について尋問され、仲間だったウヴォーギンという大男が鎖野郎に殺されたと聞かされたこと。ノブナガという刀を持った男とゴンが何回も腕相撲をして、その男が死んだ仲間のために涙を流し、最後にゴンたちを旅団へ勧誘しようとしたこと。そして、ノブナガひとりの監視になった隙を突き、壁を破る音と投げ込んだ瓦礫で進む方向を誤らせ、反対側の外壁を抜けて脱出したこと。

 

 一息に語られた顛末に、部屋の空気がぴんと張り詰めた。

 

「……お前たち、また旅団と接触していたのか」

 

 クラピカの声が低く沈む。しかしキルアは、そのクラピカの目を真っ直ぐに見返して言った。

 

「なあ、クラピカ。先にひとつだけ確認させてくれ。あいつらが血眼になって探してた『鎖野郎』って……お前のことだよな?」

 

 部屋の中に、短い沈黙が落ちた。

 

 レオリオが息を呑み、ゴンが心配そうにクラピカの顔を見つめる。

 

「ノブナガが言ってたんだ。旅団に深い恨みを持ってて、最近ノストラード組に雇われた奴だって。それだけ条件が揃ってて別人だなんて、オレには思えねえ」

「……ああ。お前たちの言う通りだ」

 

 クラピカは目を逸らさず、短く頷いた。

 

「ウヴォーギンを倒したのは、私だ」

 

 昨日から抱いていた推測が、本人の口から事実として重なる。キルアは小さく息を吐き出すと、表情をさらに引き締めて自分の左肩へ手を当てた。

 

「やっぱりな。……だからこそ、ここからが本当にヤバい話なんだ。クラピカ、それにらでんも聞いてくれ」

「私?」

 

 自分の名前が出て、らでんは背筋を起こした。

 

「オレたちが捕まって、車でアジトへ連れていかれる途中だ。パクノダっていうスーツを着た女が、オレとゴンの肩に指先を触れたまま、二つ質問をしてきたんだ」

「うん。最初は『鎖を使う念能力者に心当たりはあるか』って聞かれたんだ。そのときは、オレもキルアもクラピカが鎖を使うなんて全然知らなかったから、ほんとに知らないって答えたんだけど……」

 

 ゴンが言い、キルアがその後を継いだ。

 

「そしたらその女、オレたちの言葉を信じたんじゃなくて、『本当に何も知らないみたいね』って言い切ったんだ。オレたちの頭の中に鎖野郎の記憶がないのを、直に確かめたみたいな口ぶりでさ」

「……触れた相手から、記憶を読み取る能力か」

 

 クラピカの眉が鋭く寄る。キルアは頷いた。

 

「たぶん、質問をきっかけにして、生きてる人間の奥にある記憶をそのまま引っ張り出す能力だ。で、問題は二つ目の質問なんだよ。あの女、オレたちが《絶》や《堅》を使ったのを見て、『その念を誰に、どんなふうに教わったか』って聞いてきた」

 

 らでんの胸が、どくりと大きく鳴った。

 

「オレは口じゃ『闘技場で知り合ったプロハンターだ』としか言わなかった。名前も能力も一言も喋ってねえ。……でも、相手の能力が頭の中の記憶をそのまま読むもんだったら、話は別だ」

 

 キルアの視線が、申し訳なさそうに、けれど真っ直ぐにらでんへと向けられた。

 

「あの瞬間、オレもゴンも、らでんのことを思い浮かべちまった。名前も、顔も、闘技場の部屋で《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》へ入れてもらったときのこともだ。……ごめん、らでん。オレたちが捕まったせいで、らでんの能力や館のことまで、あの女に読まれたかもしれない」

「ごめんなさい、らでんさん。オレ、クラピカにもらでんさんにも、昨夜のうちにそれを伝えたかったんだけど……」

 

 ゴンが唇を噛んで頭を下げる。

 

 らでんは一瞬だけ目を丸くし、それからすぐに二人へ向かって両手を振った。

 

「ちょっと待って、二人とも頭を上げて! ゴン君もキルア君も、自分から口を割ったわけじゃないんでしょう? それどころか、自分が危ない目に遭って逃げてきたばっかりなのに、まず私やクラピカさんに知らせようとしてくれたんじゃない」

「でも、もし本当にあの館のことまで知られてたら……」

「知られたかもしれないって、今こうして朝一番に教えてくれた。それだけで、何もしらないまま不意打ちを受けるのとは天と地ほど違うよ。……無事で戻ってきてくれて、本当にありがとう」

 

 らでんがはっきりと言うと、ゴンの肩から少しだけ強張りが抜け、キルアも気まずそうに鼻の頭を掻いた。

 

 しかし、らでん自身の頭の中では、今聞いたばかりの情報が急速に噛み合い始めていた。

 

(質問を投げかけて、触れた生者の記憶を読む能力……。私の《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》は品物に宿る断片しか読めないけれど、向こうは生きた人間そのものから記憶を掬い取るんだ)

 

 自分とどこか似た領域の力を持つ相手がいるという事実に、調査屋としての好奇心がちらりと首をもたげる。けれどそれ以上に、二人が館で見聞きした範囲――入口の鍵、品物の記憶を読む本、三枚の探索絵、一か月の予定を示す暦、そして《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》から白柄の刀を復元してみせた光景までが旅団へ渡ったかもしれないという事実は、背筋を冷やすのに十分だった。

 もちろん、二人に話していない『寿命三十年の前払い』や『館外貸出票の副(・)本(・)の存在』『復元利用の四条件』『刀の線が任意に消せないこと』までは、二人の記憶にもない以上、漏れてはいないはずだ。

 

 だが、パクノダという女が車の中で「団長に、ちょっと話したいことができた」と口にしていたなら。

 

「……私の手帳の四日の欄に、黒い星がついてた理由、なんだか少し見えてきた気がするなあ」

「黒い星って、あのカレンダーのか?」

「うん。害意や危ない不利益を持った相手と接触する印。もしそのパクノダって人が、団長さんに私の館のことを報告するとしたら……」

 

 らでんがそこまで言ったとき、椅子に座っていたクラピカが静かに口を開いた。

 

「その点については、ひとまず心配しなくていいはずだ」

「え?」

「昨夜、ゴンへの電話でも短く伝えた通りだ。……幻影旅団の団長と、主だったメンバーの何人かは、昨夜の墓地ビルでの戦闘で十老頭の手の者に討たれた。私自身が現場へ入り、この目で団長の遺体を確かめてきた」

 

 キルアとレオリオが顔を見合わせる。ゴンが昨夜電話で聞いたという言葉を、今朝になって二人も共有していたが、クラピカ本人から改めて断言されると、部屋の空気がまた違った重さを帯びた。

 

「でもよ、クラピカ。お前がウヴォーギンって奴を倒したときに使った鎖のことも、もし今後オレたちが残党に捕まったりしたら、今の記憶ごと読まれちまうんじゃねえか?」

 

 キルアが鋭く問いかけた。

 

「あいつら全員が死んだわけじゃないんだろ? あのパクノダって女やノブナガがまだ生きてて、もしまたオレたちを捕まえて『鎖野郎は誰だ』って聞いたら、今度はオレたちの頭の中に『クラピカだ』って答えがあるんだぜ」

「そうだぜ、クラピカ。お前、今までオレたちを巻き込まないために一人でやってたんだろうが、ここまで首を突っ込んじまった以上、中途半端に隠しておく方がかえって危ねえんじゃないか?」

 

 レオリオの言葉に、クラピカは少しの間だけ目を伏せ、自身の右手を静かに持ち上げた。

 袖口の下から、細い鎖が姿を現す。

 

「……分かった。お前たちがそこまで危険を冒して知らせに来てくれたのだ。私の能力と、それに課した条件について話しておこう。何か引っかかる点があれば、途中で聞いてくれて構わない」

「うん。教えて、クラピカ」

 

 五人の視線が、クラピカの右手の鎖へと集まった。

 

「私の五指の鎖には、それぞれ異なる働きがある。そのうち、旅団を相手にするうえで中心となるのは『中指』と『小指』の二つだ」

 

 クラピカはまず、中指に繋がる鎖をわずかに揺らした。

 

「《束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)》。捕らえた対象を強制的に《絶》の状態へ閉じ込め、オーラの行使を完全に封じる鎖だ。純粋な膂力で引き千切る以外に脱出の術はないが、旅団で随一の怪力を誇っていたウヴォーギンでも、この鎖を切ることはできなかった」

「強制的に《絶》に……!? そんな無茶な拘束、具現化系の能力だけで普通にできるもんなのか?」

 

 キルアが驚いて身を乗り出すと、らでんも頷いてクラピカの目を見た。

 

「相手を《絶》にするうえに、あのウヴォーギンにも引き千切れない強さでしょう? 何の条件もなしにできることとは思えません。……クラピカさん、どんな制約と誓約を置いたんですか?」

「命を賭けた」

 

 クラピカは迷いのない声で答えた。

 

「この《束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)》は、幻影旅団の団員にしか使わないという制約だ。もし旅団以外の人間にこの鎖を使えば、私自身が死ぬという誓約を立てている。普段からこうして鎖を具現化したまま手元に繋いでいるのも、実物の鎖を操る操作系だと敵に誤認させ、隠した鎖で不意を突くためだ」

「なっ……旅団以外に使ったら死ぬって、どうやってそんな誓約を成立させたんだよ!?」

 

 レオリオが声を上げる。クラピカは左手を自分の胸元――心臓の上へと軽く当てた。

 

「それがもうひとつの鎖、《律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)》だ。対象の心臓に鎖の刃を巻きつけ、私が定めた掟を宣告する。もしその掟に背けば、鎖が心臓を貫いて対象は死ぬ。私はこの小指の刃を、自分自身の心臓に刺している」

 

 部屋の中が、水を打ったように静まり返った。

 

 ゴンが息を詰めてクラピカの胸元を見つめ、らでんもまた、自分の胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。

 

 能力を完成させるために、自分自身の命や人生を削って天秤に乗せること。らでんもかつて、自分の録と館を今すぐ完成させるために残りの寿命の半分を一括で支払う誓約を選んだ。だからこそ、自分の心臓へ常に刃を突きつけたまま歩いている目の前の友人の覚悟が、ただの理屈ではなく、肌を刺すような現実の重みとして伝わってくる。

 

 その静寂の中で、キルアがふと眉をひそめて顔を上げた。

 

「……ひとつ確認させろ、クラピカ」

「何がだ?」

「旅団以外に使ったら死ぬのは、中指だけなんだな? 小指にまで同じ縛りがあったら、自分の心臓には刺せねえもんな」

 

 レオリオも、二つの鎖を見比べるように視線を落とした。

 

 クラピカはわずかに口元を緩めるような、けれどどこか苦い表情で頷いた。

 

「その通りだ。対象を旅団に限っているのは、あくまで《束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)》だけだ」

「じゃあ、小指には別の条件があるんですね?」

 

 らでんが尋ねると、クラピカは頷いた。

 

「ああ。《律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)》の発動条件は別にある。私の眼が『緋色』に変わっているとき――すなわち、私が《絶対時間(エンペラータイム)》に入っているときだけ使えるという条件だ」

 

 クラピカは自分の瞼へそっと指先を近づけた。

 

「私の一族の眼は、感情が高ぶると緋色に変わる。そのとき、私のオーラは本来の具現化系から特質系へと変化し、自分が修得したどの系統の能力であっても、威力と精度を百パーセント引き出せるようになる。小指の鎖は具現化系に放出系と操作系を組み合わせる高度な技だが、緋の眼になっている間だけその精度が成立する」

「なるほど……。中指の鎖を強化するために自分の心臓へ小指の刃を刺したんであって、小指の鎖そのものは、緋の眼になりさえすれば誰にでも使えるわけですね」

 

 らでんが整理するように言うと、キルアの顔色がさっと変わった。

 

「おい、ちょっと待てよ。それってつまり……もし旅団の生き残りに『旅団以外に絶対使えないのは中指の鎖だけで、他の鎖なら旅団以外にも使えるし、中指だって純粋な力ずくなら壊せる可能性がある』って知られたら、クラピカの最大の強みが対策されちまうってことじゃねえか!」

「その通りだ。だからこそ、この秘密は外へ漏れてはならない」

「でも、オレとゴンはもう今聞いちゃったぜ!? もしまたあのパクノダって女に捕まって肩に触られたら、オレたちが喋らなくても頭の中から全部抜かれちまう! ……なあクラピカ、いっそオレたちの心臓にもその小指の鎖を刺して、『旅団に近づいたら死ぬ』とかルールを決めた方が――」

「断る」

 

 キルアが言い終えるより先に、クラピカがぴしゃりと言い切った。

 

「仲間を守るために、お前たちの心臓に刃を刺すような真似はしない。第一、相手の能力が接触による記憶の読み取りであるなら、口を閉ざす掟を課したところで、捕まって触れられれば記憶は読まれる。それを防ぐために『捕まったら死ぬ』などという刃をお前たちに刺せるはずがないだろう」

「クラピカ……」

 

 ゴンがまっすぐにクラピカを見た。

 

「オレ、絶対に捕まらないよ。それに、クラピカにもこれ以上、その鎖で人を殺してほしくないんだ」

「ゴン。今回のことでは、確かにその心配はなくなったはずだ」

 

 クラピカはゴンの視線を受け止め、静かに息を吐いた。

 

「私にとって最優先だった旅団の頭は死に、中心メンバーも討たれた。残党にわざわざこちらから仕掛けるつもりはない。これからは本来の目的――奪われた同胞の『緋の眼』を取り戻すことだけに力を向けるつもりだ。昨夜も、再開された競売に出品された一対の眼を、組の資金で落札して回収することができた」

 

 張り詰めていた部屋の空気が、そこでようやく少しだけ緩んだ。

 

 レオリオが「そうか、一対取り戻せたのか……!」と安堵の息を漏らし、らでんも「それなら、あとは残りのメンバーと鉢合わせしないように街を出るなり対策を立てれば……」と言いかけた、まさにそのときだった。

 

 ピピッ。

 

 クラピカの懐で、先ほど電源を入れたばかりの携帯端末が短い着信音を鳴らした。

 

 通話ではない。文字メッセージの受信だった。

 

「……失礼する」

 

 クラピカは端末を取り出し、小さな液晶画面へ目を落とした。

 

 その瞬間、クラピカの全身から、すべての温度が抜け落ちたかのように動きが止まった。

 指先が端末の縁を強く握りしめ、プラスチックの筐体がぎしりと軋む音がする。

 

「クラピカ? おい、どうしたんだよ」

 

 レオリオが覗き込もうとしたが、クラピカは画面を伏せるようにして顔を上げた。

 伏せられた瞳の色が、わずかに揺れている。

 

「……死体は、偽物だそうだ」

「「えっ!?」」

 

 ゴンとキルアが同時に声を上げ、らでんも椅子から立ち上がった。

 

「偽物って、昨夜クラピカさんが自分の目で確かめたっていう、旅団の団長たちの遺体がですか!?」

「ああ。今、情報源から連絡が入った。『死体は偽物』――ただそれだけだが、わざわざこのタイミングで嘘をつく理由がない相手だ」

「情報源って、誰だよ?」

 

 キルアの問いに、クラピカは短く答えた。

 

「ヒソカだ」

 

 ゴンとキルア、レオリオの顔が一斉に引き攣った。らでんの脳裏にも、闘技場で見た奇術師の笑みが浮かんだ。

 

「あいつ、旅団の中にいるんだぞ! そんな奴のメール、本気で信用していいのかよ!?」

「ヒソカは旅団の団長と一対一で戦うことだけを目的に、偽って入団している男だ。先日も私と接触し、自分の邪魔になる団員を減らすために、ウヴォーギンとシズクという二人の団員の能力を正確に教えてきた。もし本当に団長が死んでいたなら、誰より失望して去っているはずの男が、こうして『死体は偽物だ』と送ってきたのだ」

 

 クラピカの声は低く、震えるような緊張を孕んでいた。

 

「もちろん、ヒソカの言葉を鵜呑みにするわけではない。だが、もし昨夜の六体の遺体が念能力によって作られた精巧な偽物だったとしたら……!」

「ちょっと待って!」

 

 らでんが思わず声を上げた。

 

「もし遺体が念で作られた偽物で、旅団の団長さんたちが全員ピンピンして生きてるんだとしたら……二つ、とんでもないことになりますよ!」

「二つ?」

「はい! ひとつは、昨日ゴン君たちの記憶を読んだパクノダって人が、生きてる団長さんに私の館のことや二人のことを今朝にも報告するってこと。……そしてもうひとつ!」

 

 らでんはクラピカの顔を真っ直ぐに見た。

 

「昨夜の地下競売って、旅団に一度盗まれた品物を、団長たちの遺体があった現場からマフィアが取り戻して出品したんですよね? もし死体が偽物だったなら、その現場に一緒に残されていた競売品――クラピカさんが昨夜落札して回収したっていう『緋の眼』は、どうなるんですか!?」

 

 クラピカの息が、はっと止まった。

 

 昨夜、二十九億ジェニーで競り落とし、受け渡し窓口で両手に抱え、病院のネオンの病室へと届けたあのケース。

 

 ケースのガラス越しに見つめた、あの赤い一対の眼。

 

「……品物まで、すり替えられている可能性があるというのか」

「まだ偽物だと決まったわけじゃありません。でも、もし遺体を偽装できるほどの念能力者が旅団にいるなら、品物だけ本物を素直に置いていくなんて考えにくいです。クラピカさん、その緋の眼は今どこに?」

「昨夜のうちに、依頼主であるネオン嬢の元へ納品した。現在はホテルのノストラード組の管理区画に保管されているはずだ」

 

 クラピカはすぐさま携帯端末を握り直した。

 

「らでん。もし現物を見れば、お前の《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》で何か確かめられるか?」

「中の眼そのものをガラス越しに透視して読むことはできませんし、未開封の保存容器を開けるわけにもいきません。でも、保存瓶や展示台座に直接触れさせてもらえれば、その容器が辿ってきた断片と、競売の目録や保管記録、昨夜の回収経路を照らし合わせて、不自然な点がないか検証することはできます!」

 

 言いながら、らでんは自分の判断を冷静に付け加えた。

 

「ただし、私の能力で断片が薄かったからといって、それだけで偽物だと決めつけることはしません。現物の状態と資料、それに今のヒソカからの情報を合わせて、本当に本物として受け取っていい品なのかを確かめましょう」

「……十分だ。すぐにライト=ノストラードへ連絡を取り、管理上の非破壊点検として、お前を同行させて現物を確認する許可をもらう」

 

 クラピカが即座に番号を呼び出し、部屋の隅へと歩み寄る。

 

 終わったはずの夜が、音を立てて裏返っていく。らでんはポケットの中の手帳の重みを確かめながら、クラピカの背中を見つめていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 同じ九月四日の朝、旧市街の廃ビル群にある幻影旅団のアジトには、崩れた天井の隙間から斜めに朝の光が差し込んでいた。

 冷え切ったコンクリートの床の上には、昨夜の大立ち回りを終えた団員たちが思い思いの場所に腰を下ろしている。中央の壊れた長机の近くでは、クロロが黒いコートの肩口を軽く整えながら、コンクリートブロックの上に座っていた。左頬と右肩には昨夜ゼノとシルバから受けた傷の手当てが済んでいるが、その立ち居振る舞いに痛みを気にする様子はない。

 

 そのクロロの前へ、長い脚を揃えて歩み出たのはパクノダだった。すぐ横の瓦礫の上では、シャルナークが小型のノート端末を膝に乗せて画面を開いている。

 

「団長。昨夜保留にしていた別件だけど、今いいかしら」

「ああ、聞こう。昨日捕まえた二人の少年のことだな」

 

 クロロが静かに促すと、パクノダは頷き、周囲にいたシャルナークたちにも聞こえる落ち着いた声で口頭での報告を始めた。

 

「ええ。昨日、尾行してきた少年二人を車で連行する間に、私の能力で原記憶を調べたわ。鎖野郎については、二人の記憶には本当に何の手掛かりもなかった。本当に知らずに、懸賞金目当てで私たちを探していただけよ」

「なんだよ、じゃあやっぱりあいつらはただの無関係なガキだったんじゃねえか」

 

 壁際で刀の手入れをしていたノブナガが口を挟む。しかしパクノダは言葉を切らず、クロロの黒い瞳を真っ直ぐに見つめて続けた。

 

「問題は二つ目の質問よ。あの子たち、あの年齢で驚くほど正確な《絶》と《堅》を使っていたから、『その念を誰に、どんなふうに教わったか』を聞いたの」

「ほう。誰か知った顔のハンターでも出てきたかい?」

 

 シャルナークが端末から顔を上げて尋ねる。パクノダは小さく首を振った。

 

「いいえ、師匠は一人だけ。白と黒のツートンの髪に金のメッシュを入れた若い女で、フルネームは『儒烏風亭らでん』。天空闘技場で知り合ったプロハンターよ」

 

 クロロの視線が、わずかに動いた。

 

 パクノダは、少年たちの原記憶から流れ込んできた光景を、事実と自分の所見を分けながら淡々と語った。

 

「彼女は闘技場の二百階にある自分の部屋の扉に、首から下げた『鋼の雪玉』という鍵を当ててオーラを通し、本来の間取りにはない窓のない展示室へと少年たちを招き入れていたわ。本人はそこを《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》と呼んでいた」

 

 『遺念収蔵館』。

 

 そして、そこに集められているのは、死んだ人間の強い念が宿った品々――。

 

 クロロの懐にある花柄の便箋の一節が、音もなくその報告と重なり合う。

 

 『死者の集う館を奪うなら』

 『未完の本は古い殻を脱ぐだろう』

 

「続けてくれ、パク」

「ええ。彼女はまず《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》という本で、品物に残された持ち主や作り手の断片的な記憶を読み取り、現物の傷や史料と照らし合わせて来歴を調べるのだと説明していたわ。そして少年たちがその展示室で実際に見た収蔵品は三つよ」

 

 パクノダは指を折りながら、三つの品の概要を挙げた。

 

「ひとつは、古い投函箱と三枚の絵が並んだ《あなたへ至る三景(ディア・サムワン)》。探したい相手への手紙を箱に入れると、翌日に探し始める場面、途中の場面、出会う場面の三枚の絵が浮かび上がる探索の念。ふたつ目は、月が替わってから頁をめくると、その本人の一か月の予定が記される装飾暦《来月もここで(ファミリー・スケジュール)》。当月に本人一人だけという条件があるそうよ」

「へえ、探索に未来のスケジュールか。ずいぶん便利なコレクションじゃないか」

「そしてみっつ目が、白い鮫皮の柄をした処刑刀《執行猶予(ラスト・マーシー)》よ」

 

 パクノダの声が、一段低くなった。

 

「彼女はもう一冊の分厚い台帳――《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》を開いて、ガラスケースの中に原本の刀を残したまま、自分の手元へまったく同じ白柄の刀を復元してみせたの。しかも、その台帳を閉じても、復元した刀は消えなかったわ。館の外で使うときには、人と品と目的を別に記録する手続きが要るとも話していた」

 

 シャルナークの口から、ひゅっと小さな口笛が漏れた。

 

「原本を館に残したまま、本から同じ死後念の道具を取り出して、しかも本を閉じても消えない……? それって、ずいぶん珍しい仕組みだね」

「ええ。品物から記憶を引き出すところは私に近いし、他人の念を本に収めて扱うところは団長を思わせるわ。ただ、相手から奪い取るんじゃなくて原本を保全して復元することや、本を閉じたあとも維持できる点は違っているけれど……その二つが、同じ一人の人間の中で繋がっている」

 

 パクノダはそこまで報告し、最後に最も重要な事実を付け加えた。

 

「それと、少年たちの記憶では、昨日の午後、あの子たちが私たちを尾行し始める直前に、このヨークシンの下見市でその『儒烏風亭らでん』本人と会って別れているわ。……彼女は今、この街にいる」

 

 クロロは顎に手を添えたまま、静かに目を細めた。

 

 昨夜、陸橋の上で読み返したときには、どこにあるかも分からなかった『死者の集う館』。それが今、具体的な名前と能力の輪郭を持って目の前に現れたのだ。

 

「儒烏風亭、らでん……ずいぶん特徴的な名前だな。シャル、その名前で何か表に出ている情報は引けるか?」

「うん、今ちょうど検索にかけてみたとこ。ハンターサイトの裏名簿まではすぐに出ないけど、一般のネットの方に同じ名前のアカウントと、公開済みのItube動画がいくつも引っかかったよ」

 

 シャルナークがキーを叩き、ノート端末の画面をクロロの方へと向けた。

 

「骨董品や古い道具、美術品の解説をしてるチャンネルみたいだね。ほら、これが一番再生されてる公開済みの美術解説動画――」

 

 シャルナークが再生ボタンを押す。

 小さなスピーカーから、明るく弾むような、それでいて言葉の端々に丁寧な熱を帯びた若い女の声が流れ出した。

 

 画面の中に映っていたのは、白と黒のツートンに金のメッシュが揺れる髪。古い木彫りの小箱を両手で大切そうに支えながら、その傷跡がどんな職人の手癖でついたものなのかを、本当に楽しそうに目を輝かせて語っている顔だった。

 

 クロロの呼吸が、ほんの一拍だけ止まった。

 

 膝の上に置いていた右手の指先が、わずかにぴくりと揺れる。

 

 見覚えのある顔だった。聞き覚えのある声だった。

 

 リーネの美術館で、三度、名も仕事も知らないまま作品を眺め、言葉を交わした女だ。互いが念能力者だということさえ、まだ知らなかった。

 

(……そうか。あのときの彼女が、『儒烏風亭らでん』だったのか)

 

 最後に並んで見た絵でも、彼女は描かれた楽器の切れた弦に目を留めていた。その道具を使っていた誰かの時間を、絵の細部から追いかけようとしていた。

 

 なるほど、そういう人間だからこそ、死者が遺した念や品物の記憶をただの道具として消費するのではなく、『館』という形で丁寧に集めて保存しているのだろう。

 

 胸の奥を、名付けようのない微かな風が通り過ぎる。

 

 もしあの日、ただの美術好きの青年と観客のまま終わっていれば、別のどこかでまた絵の話をすることもあったのかもしれない。

 

 だが、クロロがまばたきをひとつしたときには、その黒い瞳はすでにいつもの静かな深淵へと戻っていた。

 

「……団長? どうかしたかい?」

 

 画面を覗き込んでいたシャルナークが、クロロの横顔を見て首を傾げる。

 

「いや。顔と声はよく分かったよ」

 

 クロロは画面の中で笑っている女から視線を上げ、周囲の団員たちを見渡した。

 

「ちょうどいい。今のパクの報告と合わせて、みんなに見せておきたいものがある」

 

 クロロは懐から四つ折りの花柄の便箋を取り出し、最初の三連だけが見えるように折り返して、長机の上に置いた。

 

「昨日、ノストラードの娘――ネオン本人に、オレの今月の運勢を書いてもらった。占いの能力を盗んだのは、そのあとだ。パクが今報告してくれた『館』のことが、ここにはっきりと出ている」

 

 近くにいたシャルナークやマチ、パクノダ、ノブナガ、そして少し離れた柱の脇でトランプを弄んでいたヒソカたちが、机の上の便箋へと視線を集めた。

 

 そこには、丸みを帯びた文字でこう記されていた。

 

  大切な暦が一部欠けて
  遺された月達は盛大に葬うだろう
  死者の集う館を奪うなら
  未完の本は古い殻を脱ぐだろう

 

  菊と水無月が 緋の目もろとも土に還り
  遺る手足は半分となるだろう
  館の主に幕を下ろさせてはいけない
  行く末はまだ貴方が選べるのだから

 

  半身を失う痛みを受け入れるなら
  本は生まれ変わり 蜘蛛は完全となる
  あるいは独り 東へ旅するのもいい
  きっと求める人に会えるから 

 

 最初の三連十二行を、シャルナークが声に出して読み上げる。紙の折り返した部分はそのままに、クロロはこの三連へ議論を向けた。これからの行動を選ぶ手掛かりが、そこにはある。

 

「ネオンの占いは、一か月の未来を週ごとの詩で示す。第一連の最初の二行、『大切な暦が一部欠けて/遺された月達は盛大に葬うだろう』は、ウヴォーが死に、昨夜オレたちが街中で鎮魂歌を捧げたことそのものだ」

「……ああ。十一番の霜月が欠けたってことだな」

 

 ノブナガが低く呻くように言う。シャルナークはすぐさまその下の行を指差した。

 

「そして第一連の後半。『死者の集う館を奪うなら/未完の本は古い殻を脱ぐだろう』。この『未完の本』が団長の《盗賊の極意(スキルハンター)》だとしたら、『死者の集う館』は間違いなく、今パクが報告した儒烏風亭らでんの《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》のことだよね!」

「だが、その次の第二連を見てくれ」

 

 クロロは二連目の文字を静かに示した。

 

「『菊と水無月が 緋の目もろとも土に還り/遺る手足は半分となるだろう』」

「菊月って旧暦の九月……つまり九番のパク。水無月は六月だから、六番のオレか!」

 

 シャルナークが自分の胸を指して目を丸くし、パクノダも静かに眉を寄せた。マチが鋭い声で続く。

 

「それに『緋の目もろとも土に還り』……緋の目って、昨夜の競売の最後に出された、あのクルタ族の眼球のことかい?」

「おそらくは、その眼そのものではなく『緋の目を持つ人間』――つまり、ウヴォーを殺した鎖野郎のことだろう」

 

 クロロの言葉に、団員たちの視線が集まる。

 

「鎖野郎はノストラード組に雇われている。そしてノストラードの娘は人体蒐集家で、昨夜の競売で『緋の目』を欲しがっていた。もしクルタ族の生き残りが、奪われた同胞の眼を取り戻すことと、オレたち旅団への復讐の両方を狙ってノストラードへ近づいたのだとすれば、すべての筋が繋がる」

「なるほどね……! 鎖野郎の正体は、緋の目を持つクルタ族の生き残りか!」

 

 シャルナークが膝を打ち、ノブナガの目がぎらりと光った。

 

「だが、このまま何の対策もなしにぶつかれば、パクとシャルが鎖野郎と相討ちになり、蜘蛛の団員は半分になる。そして『館の主に幕を下ろさせてはいけない』。館の能力を奪うにせよ、鎖野郎を仕留めるにせよ、先手を打って未来の分岐を知る必要がある」

 

 クロロは右手を掲げ、黒い表紙の《盗賊の極意(スキルハンター)》を具現化した。

 

「今からオレが、みんなの分を占う。自分のフルネーム、生年月日、血液型をそれぞれ紙に書いて渡してくれ。占いは悪い未来を避けるための警告だ。何が書かれているかを知れば、選ぶ道は変えられる」

 

 シャルナークが用意した白い便箋とペンが配られる。

 

 ただし、必要な情報を揃えられなかったフェイタン、フィンクス、コルトピの三人は対象から外れ、ノブナガ、マチ、ヒソカ、シャルナーク、フランクリン、シズク、パクノダ、ボノレノフの八人がそれぞれの紙へ必要事項を記入した。

 

 クロロが一人目の紙を受け取り、ペンを握ると、その右手の周囲に不気味な一つ目の怪物が浮かび上がり、クロロ自身の意識とは無関係に猛烈な速さで文字を綴り始める。

 

 《天使の自動筆記(ラブリーゴーストライター)》。

 

 クロロはペンを握る手に任せた。八人分の紙面が次々と埋められ、それぞれの手元へと返されていった。

 

「……オレのから読むぜ」

 

 最初に紙を受け取ったノブナガが、自分の便箋へ目を落とした。ほかの団員たちの紙と同じく、四、五週目まで詩は続いている。彼はその冒頭の二連を読み上げた。

 

  大切な暦が一部欠けて
  遺された月達は盛大に葬うだろう
  加わり損ねた睦月は一人で
  霜月の影を追い続ける

 

  菊が暦に残るなら
  頭のない蜘蛛はなおも歩くだろう
  帰った者の沈黙に剣を収めるといい
  次に追う影にはまだ息があるのだから 

 

「『加わり損ねた睦月』ってのは、昨夜アジトで留守番をしてた一番のオレのことだな。……だが、二連目の『菊が暦に残るなら/頭のない蜘蛛はなおも歩くだろう』『帰った者の沈黙に剣を収めるといい/次に追う影にはまだ息があるのだから』ってのは、どういう意味だ?」

「その先の週まで続いてるんだね。……『頭のない蜘蛛』っていうのが、引っかかるけど」

 

 シャルナークが覗き込んで首を捻る。

 

「次は私のを読むわ」

 

 シズクが眼鏡の位置を直しながら、自分の紙を平らな声で読み上げた。こちらは二連で途切れていた。

 

  大切な暦が一部欠けて
  遺された月達は盛大に葬うだろう
  貴方は仲間と墓標に血をそえる
  霜月が寂しくないようにと

 

  死者を収めた館を訪ねるなら
  二人きりでも数が合わない
  何よりも孤独を恐れなさい
  独りなのは貴方だけなのだから 

 

「……ねえ団長。『死者を収めた館を訪ねるなら/二人きりでも数が合わない』『独りなのは貴方だけなのだから』って、お化けでも出るってことですか?」

「いや、幽霊が増えるという意味じゃないだろう」

 

 クロロはシズクの紙を受け取り、静かに分析した。

 

「『死者を収めた館』は、儒烏風亭らでんの能力だ。彼女が死者の遺した複数の念を同時に、あるいは次々と切り替えて運用できるなら、たとえその場に彼女とシズクの『二人きり』しかいなくても、手数の上では一対複数になる。『独りなのは貴方だけ』というのは、シズクが単独で彼女と向き合えば、複数の死後念を相手に孤立して敗れるという警告だ」

「なるほど。じゃあ私は、あの館の人とは絶対に二人きりにならないように気をつけます」

 

 シズクが素直に頷く横で、今度はシャルナークが自分の紙を見て眉をハの字に下げた。

 

「うわあ、オレのも二連しかないや。しかも結構物騒なことが書いてあるよ」

 

 シャルナークが読み上げたのは、次の八行だった。

 

  大切な暦が一部欠けて
  遺された月達は盛大に葬うだろう
  貴方を斬る刃は途中で止まり
  捕らわれた者が貴方の命を握るだろう

 

  電話を掛けてはいけない
  返事が届けば蜘蛛の頭が落ちるから
  敵の言葉が鞘の代わりとなり
  貴方は刃を抱いたまま歩くだろう 

 

「『貴方を斬る刃は途中で止まり/捕らわれた者が貴方の命を握るだろう』……。パク、さっきの報告で、あの儒烏風亭らでんが持ってる白柄の処刑刀の名前、なんて言ったっけ?」

「《執行猶予(ラスト・マーシー)》よ」

 

 パクノダが答えると、シャルナークは苦笑いを浮かべて自分の首筋を撫でた。

 

「『執行猶予』に、『途中で止まる刃』か。なんだかそのまま繋がりそうな言葉だなあ。斬られても途中で止まるなら即死じゃないのかもしれないけど、その代わり捕虜に命を握られるし、電話を掛けたら団長の首が落ちるって……どういう状況なんだろうね、これ」

「刃が止まるからといって、安全とは限らない。止まったあと、こちらの意志で外せるとも書いていない。捕らえた相手に命を握られるという警告だ」

 

 クロロが釘を刺すと、シャルナークは「わかってるって。変な電話は絶対に掛けないようにするよ」と肩をすくめた。

 

 続いてパクノダが、自分の手元の紙へ静かに目を落とした。

 

  菊を隠す小部屋へ、ふたつの願いが訪れる
  ひとつは帰る名、ひとつは帰せぬ言葉
  戸口に立つ者が、空の手を選ぶ夜がある
  抱えて帰る声まで、そこで置いてゆくな

 

  帰った貴方の言葉には穴が残る
  その穴を弾丸で埋めてはいけない
  蜘蛛は答えを待たずに歩くだろう
  貴方の沈黙を連れたまま 

 

 パクノダの指先が、二連目の『その穴を弾丸で埋めてはいけない』という一行の上でわずかに止まった。

 

 パクノダが、読み取った記憶を弾丸に込めて他者へ撃ち込む《記憶弾(メモリーボム)》を使えることを、クロロだけは詳しく知っている。言葉で伝えられない事情を、記憶弾で渡す――その手段まで、この紙は禁じているのか。彼はパクノダの指が止まった行へ目を落とした。

 

 マチが自分の紙をパクノダの横へ並べた。フランクリンとボノレノフも、気になった行を示すように便箋を机へ寄せる。三人とも五連ずつの詩を受け取っており、その二連目や三連目には、パクノダとノブナガの紙に呼応するような言葉が並んでいた。

 

 マチの紙には、こんな一連があった。

 

  帰った者の袖には、語らぬ夜がまとわりつく
  染みを確かめるために、布を裂いてはならない
  差し出されぬ言葉を、引き抜く糸は要らぬ
  その手を離さぬだけで、保たれる形がある 

 

 さらに、別の一連にはこうある。

 

  遠くへ続く線ほど、強く引けば切れてしまう
  返事のない端にも、持つ者の指は残る
  追う手を休めて、結び目の形を見よ
  乱暴な刃より遅い手が、道を開くこともある 

 

 フランクリンの紙にも、同じ沈黙を指す四行があった。

 

  問いの数だけ、帰った者の影が細くなる
  答えを求める口を、まず自分の側から閉じよ
  何も聞かぬことと、信じぬことは同じではない
  静かな席にも、守るべき者は座っている 

 

 ボノレノフの紙にも。

 

  戻った声が細くとも、偽りと決めてはならない
  言えぬ名の代わりに、帰った足を迎えよ
  沈黙へ刃を入れれば、聞く耳の側が裂ける
  音を出さずに守るものを、今だけは覚えておけ 

 

「……ねえ、団長。シャルとパク、それからシズク。この三人の紙だけ、その先がない。……三人とも死ぬってことかい?」

 

 マチが自分の五連の紙から顔を上げて尋ねた。

 

「今のまま進めば、三人は死ぬ。そういう警告だ」

 

 クロロは三枚の紙を見比べた。

 

「だが、占いはそれを避けるためにある。占えなかった三人も、何も書かれていないから安全というわけじゃない。オレの紙の『半分』を忘れるな。館へどう近づき、鎖野郎とどう向き合うか。ここからの選び方で、未来は変えられる」

 

 クロロはそこまで言って、まだ紙を見せていない最後の一人――柱の脇に立つヒソカへと視線を向けた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 クロロから自分の便箋を受け取ったとき、ヒソカは他の団員から少し離れた窓際の逆光の中で、ひとり静かに紙面へ目を落としていた。

 

 そこに綴られていた本物の文字は、二連八行。

 

  赤目の客が貴方の店を訪れる
  半身は天使で半身は死神
  月達の秘密を売るといいだろう
  霜月のそれが特に喜ばれるはずだ

 

  熱い日に件の客の仲介で
  逆十字の男と2人きりになれるだろう
  偽りの卯月は暦からはがされる
  これで残りは6枚となる 

 

(……ククッ、これはまた、ずいぶんと露骨な詩が出たものだねえ)

 

 ヒソカの薄い唇が、誰にも見えない角度で三日月形に歪んだ。

 

 『赤目の客』――先日、廃遊園地でヒソカが密かに会い、取引を持ちかけたクラピカのことだ。そこでヒソカが『月達の秘密』、とりわけ十一番の霜月であるウヴォーギンの能力を売ったことまで、一言一句そのまま言い当てられている。

 

 さらに二連目だ。

 

 『熱い日に件の客の仲介で/逆十字の男と2人きりになれるだろう/偽りの卯月は暦からはがされる/これで残りは6枚となる』。

 

 逆十字の男――クロロと、ついに二人きりになれるという予言。

 

 旅団が六人を失おうと、ヒソカにはどうでもよかった。

 

 ウヴォーは既に死に、偽りの卯月――自分はいずれ抜ける。予言どおりに進めば、シャルナーク、パクノダ、シズクに加え、占えなかった三人のうち誰かも失われる。それで十二の月は六枚になる。だが、クロロと二人きりになれるなら、そんな欠落を惜しむ理由などなかった。

 

 ただ、この本物の紙をこのまま団長や他の連中に見せれば、ヒソカが自分から進んで仲間の秘密を鎖野郎へ売ったことがその場で露見する。それどころか、クロロが危険を避けてこのまま街を去る方を選べば、せっかくの狩りの機会そのものが遠のいてしまう。

 

 ヒソカは先ほどシャルナークが読み上げたクロロの三連を頭の中で反芻した。

 

 『死者の集う館』『未完の本』『古い殻を脱ぐ』。そして『遺る手足は半分となるだろう』。

 

 クロロが今もっとも関心を寄せているのは、あの『儒烏風亭らでん』という女が持つ『館』を奪い、自分の未完の本に古い殻を脱がせることだ。そして同時に、その過程で蜘蛛の手足が半分失われるという警告を警戒している。

 

(なら……ボクが選ぶべき『嘘』はひとつしかないよね)

 

 ヒソカは紙面の上へそっと右手の指先を滑らせ、オーラを薄く広げた。

 

 《薄っぺらな嘘(ドッキリテクスチャー)》。

 

 自分のオーラにイメージを焼きつけ、極薄の質感として紙の上へ貼りつける。本物の二連の上から、まったく同じネオンの筆跡を模した『偽りの二連』が音もなく上書きされていった。

 

 ひとつ目の連では、自分が秘密を売った事実を、赤目の客が持つ『掟の剣』によって強制的に奪われた被害であるかのように装う。

 そしてふたつ目の連では、クロロの欲求と警戒心の真ん中へ、甘い毒のような誘いを置く。館に背を向ければ本は未完のまま残ること、そしてこの街に留まれば『足を失わず殻を脱ぐ道もある』という、ヒソカ自身が勝手に作り上げた虚偽の希望だ。

 

 紙面の書き換えは、ほんの数秒で完了した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「ヒソカ。お前の分も見せてくれるか」

 

 クロロが声をかけると、ヒソカはそれまでの不敵な笑みをふっと消し、どこか苦々しいような表情を作って長机のそばへと歩み寄った。

 

「……あまり見せたくはないんだけどね♣」

 

 そう言って差し出された紙を、クロロが受け取って広げた。

 

 そこには、次のように書かれていた。

 

  赤目の客が貴方の店を訪れて
  貴方に物々交換を持ちかける
  客は掟の剣を貴方に差し出して
  月達の秘密を攫って行くだろう

 

  蜘蛛が館に背を向ければ
  本は未完のまま残るだろう
  貴方はまだこの街を去ってはいけない
  足を失わず殻を脱ぐ道もあるのだから 

 

 横から紙面を覗き込んだノブナガの顔が、一瞬にして朱に染まった。

 

「てめえ、ヒソカァッ!! 『赤目の客』に『月達の秘密を攫って行くだろう』だと!? ウヴォーを殺した鎖野郎に、仲間の能力を喋りやがったのか!!」

 

 ガシャン、とノブナガの腰の刀の鍔が鳴り、殺気が部屋中へ爆ぜる。マチやフランクリン、フィンクスたちの視線も一気に険しくなり、ヒソカを包囲するように足音が動いた。

 

「待て、ノブナガ」

 

 クロロが片手を挙げてノブナガの踏み込みを制し、ヒソカの目を見て静かに問うた。

 

「ヒソカ。『客は掟の剣を貴方に差し出して』とあるな。これはどういうことだ? 話せる範囲で説明してくれ」

「……そのままの意味さ♠ 先日、ボクのところへ赤目の客がやってきてね。条件を呑まなければ命に関わる『掟の剣』を突きつけられて、ボクが知っている団員の能力――八人分の秘密を渡すことと引き換えに、それ以上の詮索や他言を禁じられたんだ♦」

 

 ヒソカは肩をすくめ、自分の胸元を軽く指先で叩いてみせた。

 

「だから、その客の顔や詳しい能力についてこれ以上ボクの口から喋ることはできないよ♣ もっとも、ボクが知っていた範囲の八人分だけだけどね♠」

「ふざけるな! そんなもん、その場で死んででも黙り通すのが筋だろうが!!」

 

 ノブナガが怒鳴りつけ、今にも斬りかかろうとするのを、フランクリンが太い腕で前に出て押し留めた。

 

「落ち着け、ノブナガ。今のヒソカの詩がネオンの占いだというなら、ヒソカが自分の意思で裏切ったんじゃなく、相手の能力で無理やり取引させられたってことだ。それに『掟の剣』――先手を打たれてルールを押しつけられれば、ヒソカでも逆らえない能力だったと見るべきだろう」

「ちっ……!」

 

 ノブナガが忌々しそうに歯噛みする横で、クロロはヒソカの紙の二連目へと視線を落としていた。

 

 『蜘蛛が館に背を向ければ/本は未完のまま残るだろう/貴方はまだこの街を去ってはいけない/足を失わず殻を脱ぐ道もあるのだから』。

 

「……団長。ヒソカの二連目には、この街を去るなって書いてあるね」

 

 シャルナークがクロロの顔を見る。

 

「団長の詩では、館を奪おうとすればパクとオレが死んで手足が半分になるって出てたけど、ヒソカの詩だと『足を失わず殻を脱ぐ道もある』ってなってる。つまり、やり方次第では誰も死なずにあの『館』を奪えるってことかな?」

「いや。占いにその道があるからといって、無傷で済む保証が与えられたわけじゃない」

 

 クロロはヒソカの紙を机の上に置き、冷静に思考を巡らせた。

 紙の文言だけを盲信するつもりはなかった。しかし、今朝パクノダがもたらした報告によって、状況は昨夜とは決定的に変わっている。

 

 第一に、『死者の集う館』の持ち主が『儒烏風亭らでん』という特定のプロハンターであり、その顔と声、そして『品物の記憶を読む本』『三景の探索絵』『一か月の装飾暦』『白柄の処刑刀と収蔵録』という具体的な能力の輪郭までが判明したこと。

 

 第二に、シズクの詩から『彼女と一対一になってはいけない』こと、シャルナークの詩から『途中で止まる刃と電話に注意すべき』こと、そしてヒソカの件から『赤目の鎖野郎には掟の剣という能力がある』ことまで、敵の手札の端々が浮かび上がったことだ。

 

 相手が何者かも分からないまま闇雲に踏み込めば、予言通り手足の半分を失っただろう。

 

 だが、標的の顔と名前が分かり、しかも彼女自身が今このヨークシンに滞在しているなら、確かめる余地は十分にある。

 

「この街に残る」

 

 クロロが静かに告げると、団員たちの視線が一斉に集まった。

 

「鎖野郎の追跡と、儒烏風亭らでんの確保。その二つを同時に進めるぞ」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午前十時を回った頃、らでんはクラピカとともに、ノストラード組が滞在拠点としている高級ホテルの上層階へと足を踏み入れていた。

 

 ゴンとキルア、レオリオの三人は、万が一にもホテルの周辺に旅団の目が光っていた場合を考えてアパートメントの部屋に残し、連絡用の携帯端末を常時繋げる態勢を取っている。

 

 先ほどクラピカがライト=ノストラードへ直接電話を入れ、「昨夜回収された競売品の一部について、管理上の真贋と状態の再確認を行いたい。ついては、古美術や特殊な遺物の来歴調査に長けた信頼できるプロハンターを同行させ、容器を開封しない非破壊点検の許可をいただきたい」と申し出たところ、ライトからは「ネオンのために二十九億を出した品だ。傷ひとつつけるなよ。護衛の立ち会いのもとでなら構わん」とあっさり許可が出たらしい。

 もちろん、らでんが新しくノストラード組に雇われたわけでもなければ、鑑定料を受け取る契約を結んだわけでもない。らでんの《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》や寿命の誓約についても一切伏せたまま、あくまでクラピカの要請による一時的な立ち会いという形だった。

 

 絨毯の敷かれた廊下を進み、収集品の管理室として使われているスイートの一室へ入ると、そこには小柄で穏やかな顔立ちの女性――センリツと、バンダナを巻いた護衛の男――スクワラが待機していた。

 

「クラピカ。それに、あなたがらでんさんね。話は聞いているわ」

 

 センリツが柔らかな声で迎え、らでんは丁寧に頭を下げた。

 

「はじめまして、儒烏風亭らでんです。急なお願いでお時間をいただいてすみません」

「いいえ。昨夜からクラピカの心音がずっと張り詰めたままだったから、きちんと確かめられるならその方がいいわ。……スクワラ、例のケースをお願いできる?」

「おう、わかってる。ボスからも話は通ってるからな、このテーブルの上で見てくれ」

 

 スクワラが奥の保管庫から、頑丈な金属製の外ケースを両手で運んできて、部屋の中央の大きなテーブルの上へ置いた。

 カチリ、とロックが外され、外ケースの蓋が開かれる。

 緩衝材の中央に収められていたのは、黒檀のような重厚な木製の展示台座と、その上に固定された円筒形の透明なガラス製保存瓶だった。保存瓶の蓋は封蝋と金属の留め具で厳重に密封されており、その中の澄んだ保存液の真ん中に、鮮やかな緋色を帯びた一対の眼球が静かに浮かんでいる。

 

 隣に立つクラピカの呼吸が、わずかに浅くなったのをらでんは感じた。

 

 同胞の身体の一部が、こうして美しい台座とガラス瓶に収められ、二十九億ジェニーという値札をつけられて取引された『品物』。それを前にして、クラピカが昨夜どんな気持ちで入札の札を上げ続けたのか。らでんはそれを軽々しく言葉で代弁して慰めるようなことはせず、調査屋としての礼節をもって静かに一礼してからテーブルの前へと進み出た。

 

「では、まず手元の資料と外観から確認させてください。保存瓶の封印は一切解きません」

「ああ、頼む」

 

 らでんはクラピカから受け取った地下競売の出品目録と、ノストラード組が競売側およびマフィアの回収班から受け取った管理・受渡記録の控えをテーブルの脇に広げた。

 まず目に《凝》を集め、保存瓶と展示台座の周囲を観察する。

 ガラスの表面にも木製の台座にも、罠を疑わせるような異変は見つからない。だが、目に見える異常がないからといって、来歴まで確かめられたわけではなかった。

 

「目録の写真と、外見は一致していますね。こちらにあるのが、盗難前の出品記録と、昨夜の回収・受渡しの控えですか?」

「ああ。一日に品物が奪われ、昨夜、墓地ビル本館のホールで団長たちの遺体とともに発見・回収された。その間にどこへ運ばれ、どう扱われたかまでは追えていない」

 

 クラピカが説明する。

 

 らでんは頷き、次に目録の写真と現物の木製台座の細部を見比べた。

 

「形も木目の模様も、封印金具の位置も、写真と寸分違いません。……じゃあ、少しだけこの台座と保存瓶の外側に触れさせてもらいますね」

 

 らでんは深呼吸をひとつして意識を集中させ、オーラを掌から指先へと整えると、まず木製の展示台座の側面へ、続いてガラスの保存瓶の胴へとそっと右手の指先を触れさせた。

 

 《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》。

 

 ガラスと保存液の向こうにある『眼』そのものに直接触れているわけではないから、中の眼が辿った生前の記憶や、奪われた夜の出来事を透過して読み取ることはできない。らでんが今読もうとしているのは、あくまでこの『木製の台座』と『ガラス瓶』という物体そのものが経験した記憶の断片だ。

 

 一秒、二秒、三秒。

 

 集中した指先の奥へ、ごく短い感覚の断片がふっと浮かび上がった。

 

――――――

 

 ――冷たい石床の感触。

 

 ――砂埃と硝煙の匂いがわずかに漂う薄暗い空間で、誰かの手がこのケースを床から持ち上げ、すぐにパチンと外蓋を閉じた短い物音。

 

 それだけだった。

 

 それより古い保管や運搬の手掛かりを待っても、何も浮かんでこない。断片は短いまま途切れた。

 

――――――

 

 らでんは指先を離し、一度まばたきをして呼吸を整えた。

 

「……どうだった、らでん」

 

 クラピカが低く尋ねる。センリツとスクワラも固唾を呑んでらでんの手元を見守っていた。

 

 らでんは、指先に残る感覚を確かめながら口を開いた。

 

「台座と保存瓶のどちらからも、埃っぽい場所で誰かがこれを扱い、蓋を閉じたような短い感触と物音が得られました。昨夜の回収を思わせる状況ですが、それより前の保管や運搬の記憶は、今の読み取りでは得られませんでした」

「昨夜の感触だけ……? それじゃあ、やっぱり!」

「待ってください、クラピカさん。私の能力で『古い記憶が読めなかった』『断片が浅かった』という理由だけで、これを偽物だと断定することはできません。古い品物でもほとんど記憶が残らないことはありますし、私は瓶の外側に触れただけで、中の眼そのものを直接調べたわけじゃないですから」

 

 らでんはそこで言葉を切り、テーブルの上の受渡記録と回収経路の書類を指先でトントンと叩いた。

 

「でも、資料や状況と照らし合わせると、どうしても説明がつかない不自然な点が三つ重なります」

「三つ……?」

「はい。ひとつ目は、ここの空白です。盗難前の記録と回収後の記録はあります。でも、その間に何があったかは繋がっていません。私が読めたのも、回収時を思わせる短い断片だけです。写真と同じ形で戻ってきた、それだけでは、盗まれる前と同じ品だとは確かめられません」

 

 クラピカとセンリツが、らでんの示す記録へと視線を落とした。

 

「ふたつ目は、昨夜の回収経路そのものです。あれだけ大掛かりに奪い去ったはずの財宝を、旅団がわざわざ昨夜の襲撃現場のホールへ全部持ち込んで、しかも自分たちの遺体のすぐ横に並べて置いていったなんて、盗賊の動きとして不自然すぎます。そしてみっつ目が、今朝クラピカさんのところへ届いた『昨夜の遺体は偽物だ』という情報です」

 

 らでんはクラピカと、立ち会っているセンリツ、スクワラへと真っ直ぐに視線を向けた。

 

「形は同じです。でも、盗まれる前の品と今ある品を、記録も私の読んだ断片も繋いでくれません。遺体の偽装という情報まである以上、品物もすり替えられた可能性を考えるべきです」

 

 スクワラが「なっ……すり替えだと!? おいおい、二十九億だぞ、ボスになんて報告すりゃいいんだ……!」と青ざめて声を上げた。

 

「少なくとも、このまま『間違いなく本物です』と保証して受け取っていい状態ではありません。出品元の事前記録や、同じ夜に回収された他の競売品の状態とも突き合わせて、追加の照合を行う必要があります」

 

 らでんは丁寧に保存瓶と台座を外ケースの緩衝材の中へ戻し、蓋を閉めてスクワラへと返却した。

 

「……わかった。これはオレから管理担当とボスへ、至急再確認が必要だと上げておくぜ」

 

 スクワラがケースを抱えて慌ただしく保管庫の方へと戻っていく。

 

 部屋の中に、クラピカとセンリツ、そしてらでんの三人が残された。

 

 クラピカはテーブルの縁に片手をついたまま、しばらく黙って床を見つめていた。しかし、その横顔からは、今朝公園に現れたときのあの虚ろな喪失感が消え、代わりに研ぎ澄まされた刃のような光が戻っていた。

 

「……ありがとう、らでん。お前がいなければ、私は偽物の遺体と、すり替えられたかもしれない品物を前にして、すべてが終わったと思い込むところだった」

「お礼を言われるようなことじゃありませんよ。……ただ、クラピカさん」

 

 らでんは少しだけ声を落とし、隣に立つクラピカの横顔を見た。

 

「昨夜、あの競売場で……同胞の眼が『品物』として競りにかけられるのを見ながら、ひとりで札を上げていたんでしょう?」

 

 クラピカの肩が、わずかに揺れた。

 

 らでんはそれ以上、クラピカの心の中を勝手に決めつけるような言葉は重ねなかった。ただ、品物に宿る人の思いを追いかけてきた者として、それを取り戻すために値段をつけなければならなかった友人の昨夜の時間を、そのまま通り過ぎたくなかっただけだ。

 

「……何をしていても、あそこにいた連中の笑い声が耳に残っていた。だが、もし本物の眼がまだ旅団の団長の手の中にあり、そして団長が生きているというなら……私のやるべきことはまだ終わっていない」

「ええ。それに、団長さんが生きているなら、パクノダって人が私の『館』のことを報告しているかもしれません。もう知られたつもりで備えた方がよさそうですね」

 

 らでんは苦笑しながら、自分の胸ポケットの手帳の上から軽く手を当てた。

 

「センリツさん。クラピカさん。今から私たちは一度アパートへ戻って、ゴン君たちとも今後の動き方を相談します。旅団が生きていて、しかも私たちの顔や記憶の一部を知っている以上、絶対に単独で不用意な接触はしないこと。移動するときは必ず連絡を取り合うこと。クラピカさんも、ひとりで突っ走らないでくださいね」

「……ああ。肝に銘じておく」

「私もクラピカのそばについているわ。らでんさん、あなたもどうか気をつけて。あなたの心音、とても落ち着いているけれど……相手の狙いがあなたのその能力に向く可能性もあるのだから」

 

 センリツの静かな言葉に、らでんは「はい、ありがとうございます!」と頷いて部屋を出た。

 ホテルのエレベーターを降り、ロビーを抜けて昼前の明るい街路へと出る。

 

 アパートメントで待つゴンとキルア、レオリオと合流して、まずは安全な待機場所と連絡手順を固め直さなければいけない。今夜二十時には、予約してある『ReGLOSS』のデビューMVも公開される。六日の私費での競売も、九日・十日の本番配信も、この街でやり遂げたい予定はたくさん残っているのだ。

 

 らでんは眩しい日差しの下で一度だけ足を止め、街のビル群を見上げた。

 

 館のことが知られているなら、相手はどこから近づいてくるのだろう。らでんは人波の向こうを見渡した。『蜘蛛の頭』がどんな顔をした人間なのか、彼女はまだ知らない。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その同じ頃、旧市街のアジトでは、クロロを中心として団員たちがそれぞれの持ち場へと動き出そうとしていた。

 

「――整理しよう。オレたちがこれから追う標的は二つだ」

 

 クロロは長机の上に置かれた八枚の占いの紙と、シャルナークのノート端末の画面を交互に示した。

 

「ひとつは、ノストラード組の中にいる『緋の目の鎖野郎』。パクとノブナガ、コルトピは、昨日分かったノストラード組の護衛たちの線から鎖野郎の正体と居場所を洗ってくれ。オレとマチ、シズクも別ルートから動く。昨日パクが記憶を読んだ二人の少年が、鎖野郎やノストラードの周辺と繋がっている可能性があるなら、もう一度あの二人を見つけて確かめるのも手だ」

「おう、任せとけ! 今度こそ鎖野郎の首根っこを引っ掴んでやるぜ!」

 

 ノブナガが刀の柄を叩いて意気込み、パクノダとマチ、シズクも静かに頷いた。

 

「そしてもうひとつの標的が、パクが少年の記憶から見つけたプロハンター――『儒烏風亭らでん』だ」

 

 クロロの指先が、端末の画面に一時停止されたまま映し出されている、白と黒のツートンに金のメッシュが揺れる女の顔を示した。

 

「オレの占いにあった『死者の集う館』の持ち主は、間違いなく彼女だ。ただし、シズクの詩に『二人きりでも数が合わない』と出ていた通り、彼女は死者が遺した複数の念を扱う可能性の高い未知の能力者だ。しかもシャルナークの詩には『貴方を斬る刃は途中で止まり/捕らわれた者が貴方の命を握るだろう』ともある。誰か一人が単独で接触して簡単に制圧できる相手だと侮るな」

「うん、そこはしっかり警戒しておくよ。で、誰が彼女の方を担当するんだい?」

 

 シャルナークの問いに、クロロはシャルナークとフランクリンの二人を見た。

 

「シャル、フランクリン。お前たち二人で、儒烏風亭らでんの現在の滞在先と足取りを割り出し、彼女を確保してくれ。殺してはならない。『館の主に幕を下ろさせてはいけない』とある通り、館の能力をオレの《盗賊の極意(スキルハンター)》へ盗み取るためには、彼女を生きたままオレの前へ連れてくる必要がある」

「了解だ、団長。シャルと二人なら、相手がどんな死後念を出してきても遅れは取らねえよ」

「オッケー。公開動画の投稿履歴や通信の足跡を辿れば、この街のどこに泊まってるかくらいはすぐに絞れると思うよ。ただ、オレの占いにあった『電話を掛けてはいけない』だけは気をつけないとね」

 

 フランクリンが落ち着いた声で請け負い、シャルナークが端末を小脇に抱えて立ち上がる。

 

 クロロは動き始めた団員たちの背中を見送りながら、画面の中の女の顔をもう一度だけ静かに見つめた。

 

 美術館の展示室で、古い絵画の筆致について楽しそうに語っていた彼女は、あのとき名乗り合わなかった青年の正体が幻影旅団の団長だとは夢にも思っていないはずだ。そして今、自分が持つ『館』そのものが、蜘蛛の頭によって最大の獲物に定められたことも。

 

「……また会えるな、館長さん」

 

 誰にも聞こえないほど低く呟き、クロロは端末の画面を閉じた。

 

 九月四日の太陽が真上へと昇り、ヨークシンの街の上で、二つの狩りが静かに動き始めていた。

 

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