儒烏風亭らでんと蜘蛛と奇術師   作:今日も元気ですマン

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《第287期ハンター試験編》
第一話 サトツと、もう一人の試験官


 地下百階へ降りるエレベーターの扉が閉まると、鉄の箱を吊るす太いワイヤーが低く唸り始めた。

 

 コンクリートの縦坑を滑り落ちていく冷たい風の中に、長年染みついた機械油と、湿った石灰岩の匂いが混じっている。二十歳の儒烏風亭らでんは、肩に掛けたボストンバッグのベルトを軽く引き直し、胸ポケットに収めた協会本部からの委嘱状の角を指先でそっと押さえた。

 

 八期前――十二歳で受けた第279期の冬、自分もこうして地下へ降りる箱の中に立っていた。あのときは周囲の受験者が放つ殺気や値踏みの視線に肩をすくめながら、ただ目の前の試験を生き残ることだけで頭がいっぱいだったものだ。

 

 見られないものを、自分の目で見たかった。図録や画面の向こうにある遺跡や古い品の前へ行って、写真には写らなかったところまで確かめたい。そのためにハンターになろうと思ったのだった。

 

 合格後、初めての仕事の現場で出会ったのが、憧れていた遺跡ハンターのジン・フリークスだ。そこで念――身体を巡る生命の力を扱う技術を教わった。ライセンスを持っただけでは、踏み込めない世界がまだあった。

 

 ジンのもとで基礎を学んでも、自分だけの能力がすぐにできたわけではない。各地の仕事をしながら修練を続け、古文書の共同調査で組んだ先輩ハンターのピヨンには、発の相談にも乗ってもらった。何ができて、何がまだ分からないのか。小さな試みを記録して、結果を一つずつ確かめた。

 

 調べたものを、面白かったで終わらせずに残す。現場で見つけた安全な運び方や、傷みかけた品の保護の手順をまとめ、次の調査で使える形にして渡す。そうして積み重ねた文化財の仕事を認められて、一ツ星の称号を受けた。

 

 気づけば、あの冬から八期が過ぎていた。

 

 今度は自分が、これからハンターになろうとする人たちを迎えるのか。

 

 らでんは少しだけ口元を緩め、胸ポケットの封筒を押さえ直した。

 

 今日使っているのは、受験者用の昇降機ではない。

 

 通路の壁面に『協会関係者・連絡用』と小さな真鍮のプレートが打ち込まれた、運営側専用の搬入エレベーターだった。

 

 階数表示の赤いランプが『B100』で止まり、重い扉が左右へ開く。

 

 そこは受験者たちが集まる巨大な地下トンネルの手前に設けられた、石造りの連絡控室だった。天井の裸電球が照らし出す簡易テーブルの前で、すでに一人の男性が背筋を真っ直ぐに伸ばして立っている。

 

 綺麗に撫でつけられた薄紫色の髪と、両端がくるりと大きく跳ね上がった見事な口髭。仕立てのいい燕尾服のような濃色のスーツを隙間なく着こなし、手元の懐中時計と集計盤を静かに見比べているその姿には、地下の湿気さえ寄せつけないような折り目正しさがあった。

 

「おはようございます。文化財ハンターの儒烏風亭らでんです。本日より一次試験の共同担当を拝命いたしました」

 

 らでんが一歩踏み出して頭を下げると、男性は懐中時計の蓋をパチンと閉じ、穏やかな目元を和ませて向き直った。

 

「お待ちしておりました、らでんさん。遺跡ハンターのサトツです。遠方からのご移動、お疲れ様でした」

 

「いえ、今朝の連絡便で真っ直ぐ入れましたので。サトツさんこそ、早くから会場の点検をされていたんですか?」

 

「ええ。古い地下水道と鉱道をつなぎ合わせた区画ですから、水捌けや換気孔に問題がないか、試験前に確かめておきました」

 

 サトツの声は、高くも低くもない、不思議なほど耳にすっと馴染む響きをしていた。

 

 らでんは挨拶を交わしながら、思わずサトツの足元に目を留めた。石畳の上に揃えられた革靴の底が、驚くほど清潔で、しかも踵の減り方に一点の偏りもない。遺跡の調査や長距離の踏破を本業にする人間が、これほど左右均等に重心を置いて立っているというだけで、どれほど正確な身体の軸を持っているかが伝わってくる。

 

「まずは荷物をそちらの搬送籠へ預けてしまいましょう。一次試験が始まれば、ここから先はすべて自分の足で進むことになりますから」

 

「あ、ありがとうございます。助かります」

 

 らでんはサトツに促され、部屋の隅に置かれた地上回収用の鉄籠へボストンバッグを下ろした。

 

 バッグの脇ポケットには、いつもの小型カメラや銀色のスタンドマイク、それに四冊目の記録ノートが緩衝材に包まれて入っている。いくら足腰を鍛えてあるとはいえ、これから何十キロも走る一次試験にスタンドマイクを背負っていくわけにはいかない。この籠に入れておけば、協会の回収班が地上へ引き上げ、後の試験会場や飛行船の待機所まで運んでくれる手筈になっていた。

 

 ファスナーを閉める前に、らでんはバッグの内ポケットからハンターライセンスと、受験者名簿を挟んだ黒革の手帳、そして普段から手元に置いている一本の折り畳み扇子だけを抜き出し、上着の内側へすっと滑り込ませた。地下の熱気や湿った霧の中で風を送るのにも使えるし、何より手慣れた小物が一つ懐にあるだけで、いつもの仕事と同じ落ち着きが戻ってくる。

 

 身軽になったところでテーブルの前へ戻ると、サトツがクリップボードに挟まれた進行表を半分だけらでんの方へ向けた。

 

「それでは、開始時刻まであと二十分ほどありますので、役割の分担を確認しておきましょう。本部からの通達通り、今回の一次試験は私とらでんさんの二名で先導を務めます」

 

「はい。コースはここから北東へ延びる地下トンネルを抜けて、地上のヌメーレ湿原を横断し、ビスカ森林公園の二次試験会場まで、ですね」

 

「その通りです。基本的なペース配分と、要所での全体への告知や警告は私が主となって行います。らでんさんには同じ先導の位置に並んでいただき、進行の分担と、先頭付近の受験者への対応、それから階段上や二次会場到着時の人数確認をお願いいたします」

 

「承知しました。最後尾の追い立てや救護ではなく、私もサトツさんと一緒に前を走る形でよろしいんですね」

 

「ええ。私たちの試験は、どこまで続くか分からない道のりを、先導者を見失わずに走り抜けるかどうかを測るものですから。試験官が後ろから手を貸してしまっては、試験になりません」

 

 サトツはそこで一度言葉を区切り、申し訳なさそうに口髭の端を揺らした。

 

「それと、事務局からの引き継ぎ書類で拝見しましたが……らでんさんはこのあと、先約の文化財の搬送と状態確認の立会いがおありだそうですね。お忙しい中、急な委嘱を引き受けてくださってありがとうございます」

 

「いえ、そちらは協会からお話をいただいた時点で、第三次試験会場への引き継ぎまでと調整していただいたんです。むしろ、サトツさんとご一緒できると聞いて、どんなふうに試験を進めていかれるのか楽しみにしてきました」

 

「そう言っていただけると心強いです。第279期の合格者で、すでに一ツ星として各地の保存現場を回っておられると伺っています。専門は違いますが、古い時代の遺物を扱う者同士、どうぞよろしくお願いいたします」

 

「こちらこそ、よろしくお願いします!」

 

 互いの立ち位置と領分が、短い言葉ですっきりと噛み合う。

 

 見習いや見学者として後ろについていくのではない。サトツと同じ一次試験官として先頭に立ち、受験者たちを二次会場へ引き渡すまでが自分の仕事なのだ。

 

 そのとき、控室の奥の壁に取り付けられた表示盤がカチリと鳴り、緑色の『最終受験者到着』の文字が点いた。

 

「おや。どうやら最後の受験者が、トンネル側へ降りてきたようですね」

 

 サトツが懐中時計を開き、秒針の動きを確かめてから顔を上げた。

 

「参りましょうか、らでんさん」

 

「はい!」

 

 らでんは上着の襟元を一度だけ整え、サトツと肩を並べて連絡扉の向こうへと足を踏み出した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 鉄の連絡扉を抜けた瞬間、むっとするような人いきれと、張り詰めた視線の束が肌を刺した。

 

 かまぼこ型にくり抜かれた巨大な石造りの地下トンネルに、四百人を超える受験者たちがひしめき合っている。剥き出しの岩肌から染み出す水滴の音と、低くざわめく足音。屈強な武道家や傭兵風の男、怪しげな装束の術師、得物を布で巻いて背負った賞金稼ぎなど、一癖も二癖もありそうな人間たちが、突然通路の奥から現れた二人の人物へ一斉に目を向けた。

 

『おい、あれって試験官か?』

『髭の紳士と……隣の小柄な姉ちゃんもか?』

『いや、遅れてきた受験者じゃねえのか』

 

 そんな囁きが最前列のあちこちから漏れてくる。

 

 番号札を胸に付けていない自分たちの姿を見て、値踏みするように目を細める者もいれば、拍子抜けしたように肩をすくめる者もいる。自分が受験者だった頃は、この重苦しい空気の中にいるだけで背中がこわばっていたけれど、こうして先導側のラインに立って正面から見渡してみると、一人ひとりの立ち方や荷物の持ち方に、その人間のこれまでの暮らしや余裕のなさが驚くほどよく表れて見えた。

 

 サトツが最終開始のベルを待つために一歩前へ出て懐中時計を見つめた、その横でのことだ。

 

 らでんが最前列の端から順番に受験者たちの顔ぶれへ目を走らせていると、右手の壁際で、オレンジ色のシャツを着た小太りの中年男性とばっちり目が合った。

 

 胸には『16』の番号札。肩からは大きな茶色い鞄を提げ、人の良さそうな丸い顔に愛想笑いを浮かべていたその男は、らでんの顔を見るなり「げっ」とでも言いたげに目を丸くして、半歩だけ後ろへ退いた。

 

「……あれ。もしかして、トンパさんですか?」

 

 らでんが思わず声をかけると、男――トンパは額にうっすらと汗を浮かべながら、引きつった笑顔で片手を上げた。

 

「い、いやあ……これはこれは。第279期のときの、らでんちゃんじゃないか。まさかもう一度受験しに来るとは思わなかったよ……って、番号札がないってことは」

 

「はい、今回は協会側の試験官としてお手伝いに来てるんです。お久しぶりですね、トンパさん。今年も受けに来られたんですね」

 

「あ、ああ、まあね! ほら、俺もなんだかんだで毎年挑戦だけは続けてるからさ、ははは……」

 

 トンパの視線が、気まずそうにらでんの隣のサトツへと泳ぐ。

 

 八期前には、同じ受験者としてこの人と並んでいた。番号札をつけていない自分を見直すようなトンパの視線に、らでんも少しくすぐったくなる。

 

「それじゃあ、今年も頑張ってくださいね」

 

「そ、そうだな! よろしく頼むよ、ははは……」

 

 トンパが慌てて鞄の紐を握り直し、愛想笑いのまま人の陰へすっと下がっていく。

 

 そのすぐ近くで、トンパと話をしていたらしい数人の受験者たちが、不思議そうにこちらを見上げていた。

 

 一人は、こんな薄暗い地下トンネルだというのに濃いサングラスをかけ、紺色のスーツにアタッシュケースを提げた長身の青年。その隣には、青い民族衣装のような上着を着た、端正な顔立ちの金髪の少年。そしてもう一人、緑色のジャケットに短いパンツを履き、背中に大きな釣り竿を背負った黒髪の少年が立っている。

 

「おいおい、トンパさんよ。今の若い姉ちゃんが試験官だってのか? なんかお前、ずいぶん変な汗かいてなかったか?」

 

「い、いや、ちょっとした昔馴染みだよ、レオリオ! 気にするなって!」

 

 スーツの青年――レオリオと呼ばれた男が、サングラスの奥の目をすがめて大声で言い、その横で釣り竿の少年が「へえ、あの人も試験官なんだ!」と真っ直ぐな目でらでんの方を見た。

 

 その屈託のない明るい声にらでんが小さく会釈を返したところで、トンネルの天井に設置されたスピーカーから、ジリリリリッ! とけたたましいベルの音が鳴り響いた。

 

 ピタリ、と場内のざわめきが止まる。

 

 サトツが懐中時計を胸ポケットへ収め、静かに、しかしトンネルの奥までよく通る声で口を開いた。

 

「ただいまをもって、本年度のハンター試験・受験受付を終了いたします。これより一次試験を開始します」

 

 受験者たちの視線が、一斉にサトツとらでんの二人へ集まった。

 

「私は一次試験の試験官を務めます、サトツと申します。そして隣にいるのが、同じく一次試験官の儒烏風亭らでんです」

 

「儒烏風亭らでんです。二次試験会場への引き渡しまで、サトツさんと共に先導を担当いたします。よろしくお願いいたします」

 

 らでんが一歩前へ出て、簡潔に一礼する。

 

 さっきまで「遅れてきた受験者か?」と囁いていた男たちも、サトツの横に並んだらでんの落ち着いた立ち姿を見て、ようやく正式な試験官だと理解したように表情を引き締めた。

 

「これより皆様を、二次試験会場までご案内いたします」

 

 サトツは片手を軽く挙げ、淡々とした口調で続けた。

 

「合格の条件はただ一つ。私とらでんさんについて、二次試験会場まで無事に辿り着くことです」

 

 ざわっ、と受験者たちの間に戸惑いの波が広がった。

 

 最前列の近くにいたサングラスの青年――レオリオが、思わずといった様子で一歩前へ出て声を張り上げる。

 

「おい、ついていくだけって……それだけかよ!? どこまで行くのかとか、何時間かかるのかとか、そういう説明はねえのか!」

 

「ええ、お伝えできるのはそれだけです。いつ、どこへ到着するのかは、皆様には伏せさせていただきます」

 

 サトツは少しも表情を崩さず、くるりと踵を返してトンネルの暗い奥へと向き直った。

 

「それでは、参りますよ」

 

 カツ、カツ、と乾いた靴音が石畳を打ち、サトツが歩き始める。

 

 らでんもその半歩斜め後ろ、右側のレーンにぴたりとついて足を踏み出した。

 

 最初のうちは、本当にただの早歩きくらいの速度だった。後ろについた受験者たちからは『なんだ、歩くだけかよ』『脅かしやがって』と拍子抜けしたような笑い声さえ上がっている。

 

 けれど、隣を並走しているらでんには、開始からわずか数分でサトツの歩幅の変化がはっきりと分かった。

 

 膝をほとんど上下に揺らさず、股関節から先だけを振り子のように大きく前へ送り出す独特の歩法だ。しかも一歩ごとに、靴底が地面を蹴る間隔がほんの少しずつ詰まっていく。外から見れば歩いているような姿勢のままなのに、実際の速度はすでに軽いジョギングから、本格的な長距離走の領域へと滑らかに切り替わっていた。

 

(なるほど……これ、自分のペースで走ってるつもりで後ろから見てると、いつの間にか歩幅を狂わされるやつだ)

 

 らでんは足裏からふくらはぎへと巡らせるオーラの流れをごく薄く整え、石畳のわずかな凹凸を靴底で吸い取るようにして、サトツの横を静かに走った。

 

 自分の呼吸と足の運びがぴたりと定まると、周囲の受験者たちの足音や息遣いがよく聞こえてくる。

 

 肩越しに目をやると、先頭集団のすぐ後ろでは、さっきの緑のジャケットの少年が、背中の釣り竿を少しもガチャつかせずに軽やかな足取りで走っていた。そのすぐ横を、シャーッという滑らかな車輪の音を立てて、銀髪の少年が黄色いスケートボードに乗って並走している。

 

「おい、そこのガキ! スケボーなんか使いやがって、それは反則だろうが!」

 

 後ろから肩を揺らして走ってきたレオリオが、スケートボードの少年を指差して怒鳴った。

 

「え、なんで?」

 

 銀髪の少年はポケットに手を入れたまま、涼しい顔で首を傾げる。

 

「なんでって、お前、これは持久走の試験だろうが!」

 

「ちがうよ、レオリオ」

 

 すぐ隣を走っていた釣り竿の少年が、振り返ってあっけらかんと言った。

 

「試験官の人は『ついてこい』って言っただけだよ?」

 

 らでんも前を向いたまま、肩越しに少しだけ声を飛ばした。

 

「はい、その通りです。私たちが指定したのは、二次試験会場までついてくることだけですので、移動の工夫は自由ですよ」

 

「なっ……なんだよ、それ!」

 

 レオリオが悔しそうにうめき、金髪の少年が「彼の言う通りだな、レオリオ。ルールにない制限を勝手に思い込む方が危ない」と落ち着いた声でなだめている。らでんは少年の胸の番号を、手帳に挟んだ名簿とさっと照らし合わせた。クラピカ、という名前らしい。

 

 スケートボードの少年は、らでんの返答を聞いて「ふーん」と面白そうに目を細めると、隣を走る釣り竿の少年の方へボードを寄せた。

 

「ねえ、お前、いくつ?」

 

「オレ、十二歳!」

 

「へえ、じゃあ同い年だ。オレもちょっと走ろっと」

 

 銀髪の少年が足先でボードの端を蹴り上げ、空中でくるりと回転したスケートボードを片手で鮮やかにキャッチする。そのまま自分の足で石畳を蹴り出し、緑のジャケットの少年とぴたりと歩調を合わせた。

 

「すっげえ! いまのカッコいいな!」

 

「オレ、キルアっていうんだ」

 

「オレはゴン! よろしくね、キルア!」

 

 すぐ斜め後ろから聞こえてきた二人の明るいやり取りに、らでんの耳がぴくりと動いた。

 

(……ゴン、って言った?)

 

 思わず半拍だけ首を巡らせて、緑のジャケットの少年の横顔を見る。

 

 ツンツンと立った黒髪に、日焼けした健康的な肌。十二歳という年齢と、背中に括り付けられた年季の入った釣り竿。

 

 らでんの脳裏に、以前カイトから届いた一通の短いメールの文面がふっと浮かび上がった。

 

 ――『くじら島で、ゴンという子に会いました。ジンさんの息子です』。

 

 カイトが師匠であるジン・フリークスを探す旅の途中で、一人であの島へ渡ったときに送ってくれた報告だ。あのメールには詳しい背格好や姓までは書かれていなかったし、らでん自身もその少年と顔を合わせたことはない。

 

 けれど、ジンさんの息子が今年十二歳になってハンター試験を受けに出てきたとしても、時期としては少しもおかしくないのだ。

 

(もしかして、あの『ゴン』君なのかな……? いや、でも名前が同じだけってこともあるし、走ってる最中に『お父さんってジンさんですか?』なんて聞くわけにもいかないよね)

 

 らでんは胸の奥で小さく首を振り、すぐに視線を前方のトンネルへと戻した。

 

 今は一次試験の最中で、自分は試験官の立場にある。個人的な知り合いの話や身元の確認を持ち出して、特定の受験者に特別な声をかけるべき場面ではない。もし本当にカイトが言っていたあの少年なのだとしたら、無事に試験が進んで、どこかでお互い一息つけるタイミングが来たときに確かめればいい。

 

 それでも、後ろでキルアと並んで軽やかに地面を蹴っているゴンの弾むような足音を聞いていると、なんだか自然と口元が綻んでしまうのだった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 一時間、二時間と時が経つにつれて、地下トンネルの空気は次第に重く、単調なリズムだけがあたりを支配するようになった。

 

 最初は威勢よく前へ出ようとしていた受験者たちも、二十キロ、四十キロと距離が伸びるにつれて口数が減り、荒い吐息と引きずるような靴音が反響し始める。景色はどこまで行っても同じ灰色の石壁と、等間隔に並んだ薄暗い照明ばかりだ。

 

 そんな中を、サトツとらでんの二人は最初から少しも乱れない一定のリズムで先頭を走り続けていた。

 

「……らでんさん」

 

 六十キロを過ぎたあたりで、隣を走るサトツが周囲には聞こえないほどの静かな声で話しかけてきた。

 

「はい、なんでしょう」

 

「実に綺麗な走り方をされますね。これだけの距離を走って、靴底が石畳を擦る音が最初から一度も変わっていない」

 

「あ、分かります? 実は私、最初の一キロくらいでサトツさんの足の運びをこっそり観察してたんです。膝から上をぜんぜん揺らさないで、地面からの反発をそのまま前へ逃がしてるんだなって思って」

 

「ほう、もうそこまで見抜かれましたか」

 

 サトツの口髭が、わずかに嬉しそうに持ち上がった。

 

「遺跡の暗い回廊や足場の悪い地下道を長く歩くときは、上下に跳ねる動きが一番体力を奪いますからね。ですが、らでんさんの足運びはそれともまた少し違う。足裏の必要な場所だけに、その都度ぴたりと力が集まっているようです」

 

「師匠や先輩方に、基礎の足腰と集中の切り替えだけは徹底的にしごかれましたから。古い器や壊れやすい品を抱えて走ることも多いので、上が揺れないようにするのは本業の癖かもしれません」

 

「なるほど。道理で懐の荷物一つ鳴らないわけです」

 

 短い言葉を交わしながらも、二人の呼吸は少しも乱れない。

 

 らでんは前方の路面を見据えながら、トンネルの壁面の石組みが少しずつ変わってきていることに気づいていた。スタート付近では近代的なコンクリートの補修が目立っていたのに、七十キロを越えたあたりから、明らかに数百年前の手鑿で削り出された大ぶりな切り石のアーチが増えている。しかも目地の漆喰には、地下水を外へ逃がすための細い水抜き溝が一定の間隔で刻まれていた。

 

(へえ……この区画、ただの廃坑じゃなくて、かなり古い時代の城塞か地下運河の遺構をそのまま流用してるんだ。この鑿の跡の角度、帰りの控室でサトツさんにどの時代の遺跡か聞いてみたいな)

 

 そんな職人仕事の痕跡を見つけると、単調な暗い道でも不思議と目が冴えてくる。

 

 八十キロを過ぎたところで、前方のトンネルの天井がぐっと高くなり、視界の奥に途方もない高さへと続く石造りの大階段が現れた。

 

 一段一段が分厚い岩で組まれた、先が見えないほど長い上り階段だ。

 

 後ろにつけていた受験者たちの間から、絶望したようなうめき声が漏れる。ここまで八十キロを走ってきて、膝も肺も限界に近づいているところへ、この急勾配である。

 

「皆様、ここからは足元に気をつけて、少しペースを上げて参りましょう」

 

 サトツは涼しい声でそう告げるなり、なんと平地を走っていたときよりもさらに一段速いテンポで、長い階段をスッ、スッ、と軽快に駆け上がり始めた。

 

 らでんも即座に歩幅を階段の段差へ合わせ、つま先で石の角を的確に捉えてサトツの隣を駆け上がる。平地から階段へ切り替わると、使う筋肉が一気に太腿の前面や臀部へと移るため、それまで惰性で走っていた人間ほど一気に足が止まりやすい。

 

 実際、階段に入った途端に、後方からはドサッ、ドサッと膝をついて倒れ込む音がいくつも響いてきた。もちろん、らでんは足を止めない。ここで自力で登り切れるかどうかを見るのが一次試験であり、脱落した者には後から協会の回収班が入ることになっている。

 

 すると、サトツとらでんのすぐ数段後ろで、二つの小さな足音がタタタッとリズムを上げた。

 

「ねえゴン、あの階段の上にある出口まで、どっちが先に着くか勝負しよっか!」

 

「いいよ! 負けた方が、ゴールしたあとご馳走おごりね!」

 

「よし、決まり!」

 

 キルアとゴンの二人だ。

 

 八十キロを走ってきたあとだというのに、二人はまるで近所の裏山でも駆け上がるみたいに目を輝かせ、一段飛ばしでぐんぐん速度を上げてくる。

 

 後ろからレオリオの『くそっ、ガキどもに負けてたまるかーっ!』と叫ぶ声が響き、階段を蹴る力強い足音がもう一度盛り返してくるのが聞こえる。

 

(すごいなあ、あの二人。八十キロ走ってきて、まだ階段でかけっこできるんだから)

 

 らでんはサトツへちらりと目を向けた。

 

 サトツもまた、後ろから迫ってくる二人の少年の軽快な足音に、どこか楽しげに目を細めている。二人は試験官としてさらに一段速度を引き上げ、飛ぶようなステップで長い石段の最後の区間を駆け上がった。

 

 やがて頭上に、四角く切り取られた眩しい外光の出口が見えてくる。

 

 サトツとらでんがほぼ同時に最上段の石畳を踏みしめて地上への連絡回廊へと躍り出た、まさにその一拍後――。

 

「「ゴール!!」」

 

 ゴンとキルアの二人が、並んだままの勢いで最上段へと飛び出してきた。

 

「オレが先だったよ、キルア!」

 

「いや、オレの方が半歩速かったって!」

 

「えーっ? じゃあ試験官の人に聞いてみようよ! ねえ、サトツさん、らでんさん、いまどっちが先だった?」

 

 ゴンが息を弾ませながらも、キラキラした目でこちらを見上げてくる。

 

 間近で見るその目は、明るい茶色がかった黒で、驚くほど澄んでいた。自分の損得や駆け引きよりも先に「いまどっちだった?」と純粋に知りたがるその温度が、どこかカイトから聞いていた師匠の話や、カイト自身の真っ直ぐな眼差しと重なる気がして、らでんは思わず声を立てて笑った。

 

「うーん、私とサトツさんの横から見ても、つま先がラインを踏んだのは本当に同時でしたね」

 

「ええ、同時と見て差し支えないでしょう」

 

 サトツも穏やかに頷いて答える。

 

「そっかあ、同時か! じゃあキルア、お互いにおごり合いっこだね!」

 

「なんだそれ、結局自分で払うのと変わんないじゃん」

 

 キルアが呆れたように肩をすくめ、それでも満更でもなさそうに笑って壁際へ腰を下ろした。

 

 ゴンもその隣にぺたんと座り込み、水筒の水を美味しそうに飲んでいる。

 

「二人とも、見事なペースでしたね。八十キロのあとにあの階段を競り合って登ってくる受験者は、そう多くはありませんよ」

 

 らでんが声をかけると、ゴンは水筒の蓋を閉めながら「へへっ、キルアと一緒に走ってたからあっという間だったよ!」と笑顔を返し、キルアは「らでんさんたちこそ、ぜんぜん息切れてないじゃん。ハンターってやっぱりみんなそんなに体力あんの?」と興味深そうに聞いてきた。

 

「どうでしょうね。少なくとも、サトツさんのあの独特のステップについていくのは、私も最初はちょっと集中がいりましたよ」

 

「いやいや、らでんさんも実に落ち着いた並走でした」

 

 そんな会話を交わしているうちに、階段の奥から次々と後続の受験者たちが姿を現し始めた。

 

 らでんはサトツの隣で手帳を開き、上がってくる受験者たちの番号を名簿と照らし合わせていった。スキンヘッドの忍者風の男はハンゾー、不気味な笑みを浮かべたまま涼しい顔で歩いてくる奇術師風の男はヒソカ。その後からも、荒い息を吐きながら一人、また一人と石段を登り切っては、出口の床へ倒れ込むようにして肩で息をしている。

 

 やがて、閉門時刻のギリギリになって、クラピカと、そしてボロボロになりながらも気力で足を前へ運んできたレオリオが階段の上へと転がり込んできた。らでんは二人の番号を確かめ、通過確認の欄へ静かにチェックを入れた。

 

 その直後、重い鉄のシャッターがゴウッと音を立てて降りきり、地下へと続く階段を完全に閉ざした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 トンネルの出口を一歩抜けると、そこには白く濃い霧が立ち込める広大な湿地帯が広がっていた。

 

 冷たく湿った風が草木の匂いを運んでくる。足元の土は水分を含んで柔らかく、少し先にある枯れ木や岩の輪郭さえ、乳白色の霧の中にぼんやりと溶け込んでいた。

 

 息を整えた受験者たちが外へ出てきて、目の前の景色にざわめき立つ。

 

「これより向かう二次試験会場は、この先に広がる『ヌメーレ湿原』――別名『詐欺師の塒』と呼ばれる湿地帯のさらに奥、ビスカ森林公園にあります」

 

 サトツが受験者たちの前に立ち、静かだがよく通る声で警告を発した。

 

「この湿原には、非常に珍しく、かつ獰猛で狡猾な生物が数多く生息しています。中には人間の言葉や姿を巧みに模倣し、獲物を欺いて捕食する連中も少なくありません。くれぐれも彼らの罠に惑わされぬよう、私とらでんさんの後ろをしっかりとついてきてください。もし惑わされれば……命はありませんよ」

 

 らでんも一歩横へ出て、視界の悪い霧の奥へ目を凝らした。

 

 風向きによって霧の濃淡が絶えず変わっている。こういう場所では、ほんの数十メートル先導者から遅れただけでも、足跡や声の方向を見失ってしまうだろう。

 

「霧が深くなると、前後の間隔がすぐに開きます。皆さん、周囲の物音や呼びかけに気を取られて列から外れないよう――」

 

 らでんがそう注意を促しかけた、まさにその時だった。

 

「ま、待ってください……! 騙されるな、皆さん……!」

 

 トンネル出口の脇、岩陰の茂みの奥から、しゃがれた悲痛な声が響いた。

 

 受験者たちが一斉にそちらを振り向くと、ボロボロに汚れた燕尾服を着て、顔中に傷を作ったサトツそっくりの男が、岩壁にすがりつくようにして這い出してきたではないか。

 

『なっ……なんだあいつ!?』

『試験官と同じ顔だぞ!』

 

「わ、私こそが本物の試験官です……!」

 

 傷だらけの男は地面に膝をつき、サトツとらでんの方を震える指で差して叫んだ。

 

「その口髭の男は偽物……ヌメーレ湿原に棲む『人面猿』が化けた姿だ! 私は不意を突かれて襲われ、こうしてなりすまされた……! 隣にいる協会の若い女性試験官も、そいつに本物だと信じ込まされて、湿原の奥へ一緒に誘い込まれようとしているんだ!」

 

 男は地面を叩き、必死に訴えた。

 

 受験者たちの間に、一気に動揺が広がった。

 

「おい、どういうことだ!? どっちが本物なんだよ!」

 

 レオリオがサトツと岩陰の男を交互に見て叫び、周囲の男たちも武器の柄に手をかけながらジリジリと距離を取り始める。

 

 だが、サトツの隣に立っていたらでんは、岩陰から現れたその「もう一人のサトツ」を一目見た瞬間、眉をわずかにひそめていた。

 

(……いや、これ、似てるのは顔の造作と服の表面だけだ)

 

 普段から古い肖像画や彫像の修復、あるいは職人の手癖を見比べている目からすると、違和感はあちこちにあった。

 

 何より決定的なのは、腕の長さと重心の位置だ。本物のサトツは八十キロを走っている間も、背骨の真下にぴたりと重心が落ちていたのに、岩陰の男は地面に手をついたときの肩甲骨の浮き方が明らかに四足歩行に近い獣のそれだし、しゃべっているときの顎の動きも、言葉の音と唇の筋肉の引き方が微妙にずれている。しかも「若い女性試験官も騙されている」などと、二人体制の隙間を突くようなもっともらしい嘘を混ぜて受験者の疑心暗鬼を煽ろうとしているのが見え透いていた。

 

 らでんが「サトツさん、あれ――」と口を開きかけた瞬間。

 

 ヒュンッ!!

 

 霧の空気を鋭く切り裂く音が、受験者たちの群れの真ん中から弾けた。

 

 誰かが言葉を挟むより速く、白いトランプのカードが数枚、白い閃光のように宙を走ったのだ。

 

 一組の刃は岩陰で叫んでいた偽者の胸元へ真っ直ぐに突き刺さり、そしてもう一組のカードが、まるで別の生き物のように軌道を分けて――サトツと、その隣に立つらでんの身体へと同時に襲いかかった。

 

(――こっちにも来る!)

 

 誰かを庇うとか、考えるよりも先に、らでんの視界の中で高速回転するカードの縁がくっきりと浮かび上がった。

 

 ただの紙切れではない。投げ手の指先から乗せられた並外れた威力と鋭い殺気が、カードの薄い縁を剃刀以上の凶器に変えている。

 

 らでんは瞬時に両目と右手の指先へオーラを集め、半歩も退かずに手首をわずかに内側へ返した。

 

 《凝》でカードの回転軸の芯を捉え、《流》で指先へ防御のオーラを集める。正面から弾き返せば周囲の受験者に跳ねるし、無造作に掴めば指の皮を裂かれる。回転の勢いが一番逃げる角度へ親指と人差し指・中指の腹をすっと滑らせ――

 

 パシッ!

 

 乾いた小気味いい音が、二つほぼ同時に鳴った。

 

 左隣では、サトツが飛来したカードを片手の指の間で綺麗に挟み止めている。

 

 そしてらでんの右手でも、自身の鎖骨のわずか十センチ手前で、高速回転していたスペードのカードが一枚、人差し指と中指の間にピタリと挟み止められていた。指先に伝わってきた重い衝撃が、手首の柔らかい返しの中でスッと消えていく。

 

 同じ瞬間、岩陰の方では『グギャアアッ!』という獣の断末魔が上がり、胸にカードを突き立てられた偽者が後ろへひっくり返った。長い手足が振り出され、そのまま茂みへと転がり落ちて動かなくなる。

 

 静まり返った受験者たちの列の中から、赤みがかった髪を逆立て、頬に星と雫のペイントを施した奇術師風の男――44番のヒソカが、手元のトランプをシャッフルしながら楽しげに声を上げた。

 

「ククッ……やっぱりそちらが本物だったね♦」

 

 ヒソカは細めた金色の瞳を、まずサトツへ、そして見事な手捌きでカードを止めたらでんへとゆっくり移した。

 

「ハンター試験の試験官ともあろう人が、この程度の攻撃も止められないはずがないと思ってね。どこまで本物の試験官なのか確かめておきたかったんだ♠」

 

 すぐ近くにいたゴンが目を丸くし、その隣のキルアは、らでんがカードを指先で挟み止めた右手の手首を、鋭い目でじっと見つめていた。

 

 らでんは指の間に挟んだトランプを一度だけ見下ろし、それからヒソカの方を真っ直ぐに見返して、小さく息を吐いた。

 

「……あのですね、44番さん。確認の仕方がちょっと物騒すぎません? 名札と自己紹介じゃ足りなかったですか」

 

 怒鳴るでもなく、かといって怯えるでもない、普段の仕事場で無茶な扱いをする相手をたしなめるような落ち着いた声だった。らでんが指先を軽く振ってカードを地面へ落とすと、ヒソカの唇が三日月型に深く吊り上がった。

 

「フフ、これは失礼。二人ともあまりに静かに走っているものだから、つい手応えを確かめたくなってね♣」

 

 自分の投げた一手を、サトツだけでなくこの若い女性試験官までが涼しい顔で処理してみせたことが、よほど面白かったらしい。ヒソカはそれ以上カードを抜くことはせず、値踏みするような愉悦の視線をらでんと、その少し後ろにいるゴンたちへと滑らせた。

 

 その隣で、サトツが手に挟んでいたカードを静かに下ろし、一歩前へ出た。

 

 いつもの穏やかな笑顔は消え、氷のように冷徹な試験官の響きが霧の湿原に広がる。

 

「その言葉、お褒めの言葉として受け取っておきましょう。ですが――」

 

 サトツの視線が、ヒソカを真っ直ぐに射抜いた。

 

「次にいかなる理由であれ、私や、同じく試験官であるらでんさんに対する攻撃行為があった場合は、試験官への敵対行為とみなし、即座に失格処分といたします。よろしいですね?」

 

「……ああ、もちろんだよ♦」

 

 ヒソカは片手を軽く挙げて肩をすくめ、何事もなかったかのように列の中へと下がった。

 

 倒れた人面猿のもとには、いつの間にか巨大なハゲタカのような怪鳥たちが集まり、死骸へと群がっていた。

 

「お分かりいただけましたか。いまの生物が、この湿原に棲む『人面猿』です」

 

 サトツは受験者たちへ向き直り、何事もなかったかのように説明を再開した。

 

「人間の新鮮な肉を好み、手足は長くても力自体はさほど強くないため、こうして人間に化けて旅人を欺き、仲間と共謀して湿原の奥へ誘い込むのです。今回はあちらの一体だけでしたが、湿原の内部にはさらに多くの罠が待ち受けています」

 

 受験者たちがゴクリと生唾を飲み込み、さっきまで疑いの目を向けていたレオリオたちもバツが悪そうに顔をしかめた。

 

「サトツさん、お怪我はありませんか?」

 

「ええ、問題ありません。らでんさんこそ、見事なご対応でした」

 

「いえ、急に飛んできたのでびっくりしましたよ。せっかくの服の襟元を切られるところでした」

 

 二人がいつも通りの落ち着いたトーンで言葉を交わすと、受験者たちのざわめきが収まった。らでんは、こちらへ揃って向けられた顔を見渡した。

 

「それでは、先を急ぎます。くれぐれも私たちを見失わないように」

 

 サトツが踵を返し、白く渦巻く霧の海へと足を踏み入れる。

 

 らでんもその後ろの受験者たちへ「行きますよ!」と短く声をかけ、サトツの隣に並んで湿原の踏み分け道へと駆け出した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ヌメーレ湿原の内部は、一歩踏み込むごとに視界が狭まっていった。

 

 足元の泥濘は場所によって深さがまるで違い、油断すればくるぶしの上まで一気に沈み込む。甘い花の香りが霧に混じって流れてくる。その向こうからは、人間の助けを求める声そっくりに鳴く怪鳥の声がいくつも重なって聞こえてきた。

 

 らでんはサトツと共に先頭を走りながら、自分の周囲数メートルの足場と気配だけに集中を保っていた。

 

 広大な湿原全体にオーラを広げて後方の受験者一人ひとりを監視するような真似はしないし、そもそも先導の役目は「正しいルートを一定の速度で示し続けること」にある。後ろで遅れた受験者がどんな罠にかかり、誰と遭遇しているかは、それぞれの受験者が自分の力と判断で切り抜けるべき領域だ。

 

 時折、霧の切れ間から巨大なイチゴのような実を背負った亀の群れや、地面の下から大口を開けて飛び出してくる巨大なカエルの影が見えたが、サトツとらでんの二人はそれらの縄張りの境界を縫うようにして、迷いなく固い地盤を選んで駆けていく。

 

「……チッ、ほんとにタチの悪い霧だな」

 

 先頭を行く二人のすぐ後ろから、キルアの舌打ちが聞こえた。

 

 振り返らずとも、キルアが先頭集団のすぐ背中、サトツとらでんの姿が確実に見える位置をキープして走っているのが分かる。いつの間にか、その隣にいたはずのゴンの足音は後方の霧の中へと遠ざかっていた。

 

「キルア君、いい位置取りですね。この霧の中では、前の人間の背中より、足元の泥の跳ね方と足音を追う方がはぐれにくいですよ」

 

 らでんが肩越しにちらりと顔を向けて声をかけると、キルアは少し意外そうに顔を上げた。

 

「へえ、お姉さん、さっきのトランプといい、ただの案内係じゃなかったんだな。……ねえ、いまの44番のやつが投げたカード、どうやって止めたの? お姉さんの手、普通の速さじゃなかったよね」

 

 やはり見ていたらしい。

 

 十二歳の少年とは思えないほど、人の動きの急所を正確に捉える目だ。

 

「あはは、企業秘密ですと言いたいところですけど……まあ、飛んでくるものの勢いを正面から止めないで、回転の向きに合わせて指を添えただけですよ。古い掛け軸や刀身を扱うときも、無理に力を込めると傷んじゃいますからね」

 

「ふーん……? そういうもんかなあ」

 

 キルアは半分納得し、半分はまだ何か引っ掛かっているような顔で自分の右手を見つめていたが、それ以上深くは踏み込まず、「ま、まずはここを抜けてからだよね」と前を向き直した。

 

 そのまま湿原を走り続けること、さらに一時間あまり。

 

 後方の霧の奥から、時折ドォンという重い衝撃音や、獣の咆哮、受験者たちの悲鳴が遠くくぐもって響いてくる。どれだけの人数がこの『詐欺師の塒』で脱落したのかは、ゴールに着いてみるまで分からない。

 

 やがて、前方に立ち込めていた白い霧が少しずつ薄くなり、湿った泥の匂いに代わって、乾いた針葉樹と草の匂いが風に乗ってきた。

 

 視界が一気に開ける。

 

 霧の壁を抜けた先に現れたのは、高くそびえる鉄格子のフェンスと、重厚な石柱に囲まれた緑豊かな森林公園――二次試験会場がある『ビスカ森林公園』の入り口だった。

 

「皆様、お疲れ様でした。ここが二次試験会場です」

 

 サトツが門の手前の広場で足を止め、振り返って声を張り上げた。

 

 直後、霧の中からキルアを先頭に、ハンゾーやポックル、トンパなど、湿原を無事に走り抜けた受験者たちが次々と広場へと飛び出してくる。誰も彼もが泥と汗にまみれ、その場にへたり込んだり、膝に手をついて荒い息を吐いたりしていた。

 

 らでんは懐から手帳とペンを取り出し、到着した受験者たちの番号を一人ずつ確認していく。

 

 到着者を確かめていくうちに、ゴンとクラピカの姿も見つかった。レオリオも会場にいる。

 

「お、いたいた! おーい、ゴン!」

 

 木陰に座っていたキルアが手を振り、ゴンも「キルア!」と手を上げた。霧の中で彼らに何が起きたのか、らでんは見ていない。けれど、二次会場まで辿り着いたゴンの顔を見て、らでんは手帳の番号欄に小さく丸をつけた。

 

 やがて規定の到着時間を迎え、霧の向こうから出てくる人影が完全に途絶える。

 

「サトツさん、到着者の確認が終わりました。通過者は、百四十八名です。こちらが一覧です」

 

「ありがとうございます、らでんさん。ずいぶん人数が絞られましたね」

 

 サトツは静かに頷くと、広場で息を整えている受験者たちの前へ立ち、懐中時計を閉じた。

 

「これにて、第287期ハンター試験・一次試験の全行程を終了いたします。私とらでんさんの案内はここまでです。ここからは、すでに会場内で待機している二次試験の試験官へ皆様を引き渡します」

 

 サトツの言葉とともに、広場の奥にある巨大な鉄門が、ギィィ……と重い音を立てて内側へと開いていった。

 

 門の向こうには、白い石造りの大きな建物と、手入れの行き届いた芝生の庭が見える。

 

 そしてその建物の前のスペースに、二人の人物が待ち構えていた。

 

 一人は、見上げるほど巨大な体躯をした大男だ。丸太のような腕をゆったりと下げ、穏やかだがどこか底知れない余裕を湛えた表情でこちらを見下ろしている。

 

 そしてもう一人、その大男の前方に置かれた赤いソファに浅く腰掛け、足を組んでこちらを見据えている小柄な女性の姿があった。

 

 鮮やかなピンク色の髪を後ろで独特の輪のように結い上げ、露出の多い軽快な装いに身を包んだ、気の強そうな美女。その鋭い目元が、門の入り口に立つサトツと、その隣のらでんの姿を捉えた瞬間、ぱっと大きく見開かれた。

 

「メンチさん、もうこちらに気づいてますね」

 

「ええ。二次試験を担当される美食ハンターのメンチさんと、ブハラさんです」

 

 サトツとらでんは受験者たちの先頭に立ち、開かれた門を抜けて二人のもとへと歩み寄った。

 

 大男のブハラが「やあ、お疲れさまー」と太く穏やかな声で会釈をし、ソファからひらりと立ち上がったメンチが、腰に手を当ててこちらへ歩いてくる。

 

「メンチさん、ブハラさん。一次試験を通過した百四十八名を、予定時刻通りに二次試験会場へ引き渡します」

 

 サトツが丁寧な礼とともに引き継ぎの書類ボードを差し出すと、ブハラが「うん、確かに引き受けたよ」と頷き、メンチが書類の数字をざっと一瞥してから、すぐ隣のらでんへと視線を移した。

 

「ご苦労さま、サトツさん。……って、ちょっと! やっぱりらでんじゃないの!」

 

 それまでの試験官としての険しい顔が嘘のように、メンチが声を弾ませて一歩近づいてきた。

 

 第279期ハンター試験を一緒に戦い抜き、同じ年にライセンスを手にした同期である。こうして直接顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。

 

「お久しぶりです、メンチさん! 二次試験の担当、メンチさんだったんですね」

 

「それはこっちの台詞よ! 本部から『今年は一次試験がサトツさんと二人体制になる』って連絡だけは聞いてたけど、まさかあんたが走ってくるとは思わなかったわ。なに、八十キロと湿原を走ってきたわりには、ずいぶん涼しい顔してるじゃない」

 

「あはは、サトツさんのペース配分が完璧でしたから。それにメンチさんの前でへばった顔は見せられませんよ」

 

「言うじゃない。……で、どう? 今年の受験生は。見たところ、ずいぶん大所帯で連れてきたみたいだけど」

 

 メンチは親しげに肩を並べながらも、その視線をすぐ後ろに集まってきた百四十八人の受験者たちへと鋭く走らせた。

 

 ただの気のいい同期の顔ではない。食材を見極め、未知の環境へ踏み込んでいくプロの一ツ星美食ハンターとしての厳しい目が、そこには光っている。

 

「ええ、なかなか面白い人たちが残ってますよ。メンチさんとブハラさんがどんな試験を用意してるのか、私は横で見守らせてもらいますね」

 

「ふふん、せいぜい楽しみにしてなさい。私たちの二次試験は、ただ足が速いだけじゃ絶対に抜けられないんだから!」

 

 メンチが不敵に胸を張り、後ろのブハラと視線を交わしてニヤリと笑う。

 

 そのすぐ横で、ブハラのお腹がグゥーッと驚くほど大きな音を立てて鳴り、受験者たちの間から戸惑ったようなざわめきが上がった。

 

 受験者たちを二次の試験官へ無事に引き渡し終えた安堵と、これから同期のメンチがこの会場で一体どんな課題を出してくるのかというワクワクに胸を弾ませながら、らでんはサトツと共に会場の脇へと一歩下がり、晴れやかな空の下で始まる二次試験の幕開けを見守った。

 

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