儒烏風亭らでんと蜘蛛と奇術師   作:今日も元気ですマン

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第十九話 九月四日②

 

 正午に近づくヨークシンの大通りは、白い日差しを照り返すガラス張りのビル群と、昼食時を迎えて歩道へ溢れ出した人々の足音で満ちていた。

 

 ノストラード組が拠点とするホテルの回転扉を抜けたあと、らでんは一度も後ろを振り返らないまま、大通りのショーウィンドウに映る街路の景色へ静かに視線を滑らせた。

 磨かれたガラスの向こうには、書類鞄を抱えた会社員や買い物袋を提げた観光客、オープンカフェの席を埋める客たちの姿が流れていく。表通りを見るかぎり、昨夜までのマフィアと幻影旅団の抗争などどこにもなかったかのような平穏な昼下がりだった。

 

 けれど、胸ポケットに入れた黒革の手帳の重みは、朝に部屋を出たときよりもずっと増しているように感じられた。

 

(遺体が偽物だというヒソカの知らせ。それに、緋の眼もすり替えられた可能性がある……。団長さんたちが生きているなら、昨日ゴン君とキルア君の記憶を読んだパクノダって人は、私の名前や顔、館のことをもう報告しているかもしれない)

 

 らでんは横断歩道の信号が青に変わるのと同時に、人波の真ん中へと歩調を合わせて紛れ込んだ。

 単独で突出した動きを見せず、かといって同じ歩幅で漫然と歩き続けることもない。角を曲がるたびにガラス窓や停車中の車体の反射で後方と斜め上の視界を確かめ、オーラの気配を探る意識を薄く張り巡らせる。

 

 ホテルの上層階に残ってきたクラピカは、これからスクワラとともに管理担当やライト=ノストラードへ緋の眼の再確認を上申し、そのまま護衛業務を続けながら追加の照合に当たる手筈になっていた。もちろん、問題の一対の眼はホテルの管理区画の保管庫へ戻されており、らでんやクラピカが外へ持ち出しているわけではない。

 

 センリツが別れ際に口にした「相手の狙いがあなたのその能力に向く可能性もある」という静かな忠告が、耳の奥に残っていた。

 

 デイロード公園の脇を抜け、向かいの古い滞在用アパートメントの階段を上がると、らでんは廊下の両端に人の気配がないことを確かめてから、決められた回数で扉をノックした。

 

 内側から覗き穴の影が動き、すぐにガチャリと鍵が開く。

 

「らでん、早かったな。誰かにつけられてねえか?」

「うん、表通りから三回ルートを変えて、窓の反射でも後ろは確かめてきたよ」

 

 扉の脇で警戒していたキルアが素早くらでんを招き入れ、再び内鍵とチェーンを掛けた。

 

 ブラインドを下ろした室内では、ゴンとレオリオがテーブルの前から立ち上がってこちらを見つめている。

 

「お帰り、らでんさん! クラピカと緋の眼、どうだった?」

「あいつ、ホテルに残ったのか?」

 

 ゴンとレオリオが立て続けに尋ねるのに、らでんは一息ついてから頷いた。

 

「ええ。クラピカさんはノストラード組の護衛の仕事があるし、管理室での追加照合に立ち会うためにホテルへ残っています。センリツさんっていう仲間の人もそばについてくれていますから、今すぐひとりで無茶をすることはないはずです」

 

 らでんはテーブルのそばへ歩み寄り、ホテルの管理室で行った非破壊点検の結果を三人に手短に伝えた。

 外ケースを開けて保存瓶と木製台座を《凝》で確かめたこと。《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》で台座と瓶の外側に触れたところ、昨夜の回収時を思わせる短い感触と物音しか得られなかったこと。それだけでは偽物と断定できないが、盗難から回収までの記録の空白や、旅団討伐の知らせとともに品物まで戻った経緯、そしてヒソカからの通知を合わせれば、すり替えを疑って追加の照合をする必要があること。

 

 話を聞き終えたレオリオが、太い眉を寄せて低く唸った。

 

「……二十九億も払わされた挙句、死体も眼も偽物かもしれないってのか。あいつがホテルの部屋でどんな顔してたかと思うと、胸が痛えな」

「でも、全部終わったと思い込んだまま騙され続けるよりずっといいよ」

 

 ゴンが拳を握って言った。

 

「本物の眼につながる手掛かりが残ってるかもしれないんだ。だったら、これから取り戻す方法を考えられるよ。……それで、らでんさん。これからオレたち、どう動くの?」

「うん、そこが一番大事な話なんだ」

 

 らでんはゴンの目を見返し、それからキルアとレオリオへ視線を巡らせた。

 

「さっきクラピカさんともホテルを出る前に話したんだけど、まず、このアパートの部屋にこのまま三人で待機し続けるのは危ないと思います」

「だよな」

 

 キルアが腕を組んで頷いた。

 

「昨日オレとゴンがノブナガの監視から逃げてきたあと、今朝この近くの公園でみんなと合流したんだ。もし旅団の連中がオレたちの逃げた方角や、らでんの滞在先を洗い始めてたら、この辺りの区画に網を張られるのも時間の問題だぜ」

「その通り。しかも、向こうにはゴン君とキルア君の顔だけじゃなくて、私の名前と顔、それに《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》のことも伝わっている可能性が高いでしょう?」

 

 らでんは指を三本立てて、これからの手順を具体的に示した。

 

「だから、今から待機場所を移しましょう。私は宿へ寄って手荷物と準備を整えたいので、三人には先に移っていてほしいんです。移動中も、お互いに連絡が取れるようにしておきましょう」

「おう、それならオレに任せろ」

 

 レオリオが懐から車のキーを取り出して軽く鳴らした。

 

「いつ場所を変えなきゃならなくなっても動けるように、さっき表の通りから二本離れた駐車場に、普通のレンタカーを一台借りて回してあるんだ。連絡がつく別の滞在場所も、西側のビジネス街の近くに押さえてある」

「さすがレオリオさん、仕事が早いですね!」

「へへっ、まあな。オレにはお前らみたいな派手な念の芸当はできねえからよ、足回りと段取りくらいはきっちりやらねえとな」

 

 レオリオが鼻の下をこすってから、すぐに真剣な顔に戻って地図のメモをテーブルへ広げた。

 

「このアパートの前から北へ抜ける大通りまでは、昼間は車両進入禁止の歩行者区画になってる。オレが先に駐車場へ行って、歩行者区画を抜けた先の北側の交差点の裏手へ車を回しておく。ゴンとキルアは、人通りの多い歩行者区画の真ん中を通って、十五分後にその乗車地点へ来い」

「わかった。裏路地じゃなくて、人がたくさん歩いてる表の歩行者通路を二人で抜けるんだね」

「ああ。見通しの悪い路地より、前後を確かめやすいだろ。尾行らしい奴がいたら、そいつに近づかず、すぐ電話しろ。絶対に寄り道はするなよ。昨日みたいに自分たちから旅団を追ったり、単独で突っ走ったりするのはなしだ」

 

 レオリオが釘を刺すと、ゴンとキルアは同時に頷いた。

 

「わかってるよ。今日のオレたちの仕事は、あいつらに捕まって記憶を読まれないことだからね」

「そういうこった。……で、らでんはどうするんだ? オレたちと一緒に車へ乗るか?」

「私は一度、自分のホテルへ寄って鞄を引き取り、道具の館外貸出の準備をしてから、別の道で合流地点へ向かいます」

 

 らでんの言葉に、キルアがぴくりと眉を動かした。

 

「必要な道具って……《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》のか?」

「うん。いきなり襲われてから台帳を出して、貸出票を書いて、なんて手順を踏むのは避けたいからね。先に二枚分の手続きを済ませて、使える状態にしておくよ」

 

 らでんがそう言うと、懐の携帯端末が短く震えた。

 画面を見ると、ホテルに残っているクラピカからの着信だった。らでんはすぐに通話を受け、三人にも聞こえるよう端末をスピーカーに切り替えた。

 

「はい、らでんです。今アパートへ戻って、三人と移動の手順を決めたところです」

『……無事で何よりだ、らでん。こちらも今、スクワラから管理担当へ再確認の要請が通り、保管庫の警備体制が引き上げられたところだ。これから移動するのか?』

「ええ。レオリオさんが手配してくれた西側の待機場所へ移ります。レオリオさんが車を北の交差点へ回して、ゴン君とキルア君は人通りのある歩行者区画を二人で移動。私は一度宿で準備をしてから合流します」

『わかった。私も組の持ち場を離れられないが、端末は常に繋いでおく。少しでも異変があれば、絶対に単独で交戦せず、すぐに連絡を入れてくれ』

「はい。クラピカさんも、どうか気をつけてくださいね」

 

 通話を終えると、四人はそれぞれの荷物を手早くまとめた。

 

 最初にレオリオが廊下の安全を確かめてから階段を降りていき、数分間の間隔を空けて、ゴンとキルア、そしてらでんがアパートメントを出た。

 

「じゃあ、らでんさん。あとでね!」

「らでんも、自分のホテルの周りに変な奴がいないか気をつけろよ。何かあったらすぐ電話しろよな」

「うん、二人ともね! 絶対に無理はしないで、レオリオさんの車まで真っ直ぐ行くんだよ」

 

 明るい日差しの落ちる遊歩道の入り口で、並んで歩き出す二人の背中を見送り、らでんは反対側の通りへと足を向けた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 自分の宿泊している中堅ホテルの部屋へ戻ると、らでんは扉のロックを二重に掛け、窓のレースカーテンを引いたまま手早く身支度を始めた。

 

 ベッドの上の肩掛け鞄を引き寄せたとき、ポケットの中の個人用端末が、先ほどとは違う軽やかな通知音をひとつ鳴らした。

 画面を開くと、今夜二十時にデビュー曲のMVを一緒に公開する仲間――轟はじめからの短いメッセージだった。

 

『らでん、お昼食べたー? 今夜20時のプレミア公開ページ、予約設定ばっちり反映されてたよ。そっちの用事が落ち着いたら、夜にみんなで反応見ようねー!』

 

 文字の並びから、いつもの明るい声がそのまま聞こえてくるようだった。

 らでんは張り詰めていた肩の力をほんの少しだけ抜き、指先で素早く返信を打った。

 

『ありがとう、はじめ こっちは今ちょっと街中で調べ物の真っ最中だけど、20時には絶対に見られるように片付けるからね!』

 

 送信ボタンを押して画面を閉じる。

 

 今夜二十時には、みんなで何度も歌って作り上げた最初の動画が世界へ出る。六日には自分の貯金で挑む美術品の競売があり、九日と十日には本番の配信も待っている。もちろん、このヨークシンで起きている危険な抗争に、はじめたちを巻き込むつもりは毛頭なかった。

 

「……よし。ちゃんと今日の夜を迎えるためにも、できる限りの備えをしないと」

 

 らでんは深く息を吸い込み、右手を前へ掲げてオーラを練り上げた。

 掌の上に、重厚な革装の分厚い台帳――《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》が具現化される。

 テーブルの上に台帳を開き、見返しに挟み込まれている二枚の札――『館外貸出票(チェックアウト・カード)』の正本と副本を取り出した。

 

 館の外で収蔵品の能力を復元して運用するためには、この貸出票の『収蔵番号・使用者名・使用目的』の三つの欄を埋めなければならない。館長であるらでん自身が使う場合でも無記入で持ち出せる例外はなく、一度に館外で維持できるのは正本と副本の二枚分までだ。

 

 らでんは胸ポケットから普段使っているペンを取り出し、まず一枚目の正本の札へペン先を走らせた。

 

 収蔵番号の欄に『〇〇二』。使用目的の欄に『護身および退路・救出路の確保』。そして使用者名の欄に『儒烏風亭らでん』と自分の名を書き込む。

 

 記入を終えた正本の札を左手に持ち、台帳の該当ページへ右手を重ねてオーラを通した。

 淡い光の粒子がページの上から立ち昇り、白い鮫皮の柄に緻密な金象嵌が施された美しい一振りの刀――処刑刀《執行猶予(ラスト・マーシー)》が、鞘に収まった状態で手元へと復元された。

 館の展示ケースの中には今も原本の刀がそのまま眠っているが、手の中に現れたこの復元品(レストア)には、寸分違わぬ重みと冷たい死後念の気配が宿っている。

 


 

《執行猶予(ラスト・マーシー)》

 

 刃を通した場所に、傷にならない切断線を残す処刑刀。使い手は、選んだ線の切断を好きな時機に執行できる。

 


 

 続いて、らでんは二枚目の副本の札へペンを走らせた。

 

 副本にも台帳に載っている収蔵番号を書き写す。使用目的は『追跡阻止・領域制圧および護身』。使用者名に再び『儒烏風亭らでん』と記す。

 

 台帳のページをめくり、同じようにオーラを注ぎ込むと、今度は古雅な真鍮の枠組みと透明なガラスの火屋を備えた手提げの吊灯――《割れ物の王国(キングダム・オブ・グラス)》がテーブルの上へと姿を現した。

 真鍮の籠の奥では、昼間の室内の明るさにも負けない、琥珀色の温かな灯火が静かに揺れている。

 


 

《割れ物の王国(キングダム・オブ・グラス)》

 

 灯の光が届くガラス片から獣を生み、指定した相手を追わせる吊灯。獣は噛みつきや押さえ込みを行い、光を遮られると動きを止める。

 


 

 二枚の貸出票をそれぞれの品へ対応させたまま、らでんはテーブルの上の《遺念収蔵録(ミュージアム・アーカイブ)》をパタンと閉じた。そして意識を切り替えて、閉じた台帳そのものを手元から消去する。

 本を閉じ、手元から消しても、記入済みの二枚の貸出票による館外貸出の維持は途切れない。ふたつの死後念の媒体を同時に維持し続けるためのオーラの消費が、自分の身体から一定の拍動のように流れていくのを確かめ、らでんは頷いた。

 

「刀と、吊灯。……もし相手が複数で囲んできたり、遠くから足止めを狙ってきたりしても、この二つがあれば対応できるはず」

 

 らでんは《執行猶予(ラスト・マーシー)》を、いつでも柄を握って抜き放てるように仕立てた紺色の細長い布袋へ収めて右肩から斜めに掛け、《割れ物の王国(キングダム・オブ・グラス)》は光をすぐに外へ通せるよう、口を開けた厚手の帆布バッグの中へ入れて左手で提げた。

 首元の内側には、館の入り口を開く『鋼の雪玉』の鍵が下がっている。

 

 部屋の忘れ物がないかを一目で確かめ、らでんはカードキーをポケットへ入れてホテルの部屋を後にした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その同じ頃、アパートメントから北の交差点へと向かう歩行者区画を、ゴンとキルアは肩を並べて歩いていた。

 昼時の遊歩道は、オープンテラスの飲食店や雑貨店が軒を連ね、買い物客や昼休みの会社員たちで賑わっている。頭上の街路樹の葉が風に揺れ、石畳の上にはまだらな木漏れ日が落ちていた。

 

「……あと二区画抜ければ、レオリオが車を回してる北側の通りだな」

 

 キルアはポケットに両手を入れたまま、首を大げさに動かさず、視線だけで左右の建物の二階窓や路地の入り口を素早く点検していた。

 

「うん。今のところ、後ろからついてきてる人はいなさそうだけど……」

 

 ゴンも鼻先をわずかに動かし、周囲の風と匂い、そして人混みの中に異質な緊張感が混じっていないかを確かめながら歩いている。

 

「油断すんなよ、ゴン。昨日はオレたちが後ろから尾行してたから向こうの人数がわかったけど、もし今日は向こうがオレたちを探してるんだったら、どこから目をつけられるかわからねえ」

「わかってる。もしあの人たちを見かけたら、戦わないで全力で逃げるんだよね」

「ああ。今のオレたちの頭の中には、クラピカの鎖の条件が入っちまってる。万が一にも捕まってあのパクノダって女に肩を触られたら、クラピカまで危なくなるからな」

 

 キルアが低く言いながら、歩行者区画の終端に近い、煉瓦造りの商業ビルと古い石造りのアーケードが交差する少し開けた辻へと差し掛かったときだった。

 

 前方の昼食客の群れが、信号待ちのために左右へ分かれた。

 

 その隙間の向こう――煉瓦ビルの日陰から、一人の小柄な女がごく自然な足取りで歩道の中央へと歩み出てきた。

 

 束ねた桃色の髪に、冷ややかな瞳。昨日、下見市のあとでゴンとキルアが尾行していた相手――マチだった。

 

「っ、ゴン、止まれ!」

 

 キルアが咄嗟にゴンの腕を掴んで足を止め、即座に踵を返して今来た遊歩道の方へ引き返そうとした。

 だが、マチと視線がぶつかったのは同時だった。

 

「……またあんたたちか」

 

 マチが小さく呟くのと、振り向いたキルアの視界の正面――十メートルほど後ろの石造りアーケードの柱の陰から、黒縁の眼鏡をかけた黒髪の女がすっと進み出てきたのは、まったく同じ瞬間だった。

 

「あ。昨日の男の子たちです、団長」

 

 シズクが平らな声で言い、退路の真ん中に立ち塞がる。

 

 さらに、煉瓦ビルの横にある外階段の踊り場から、黒いコートを羽織った青年――クロロが静かに石段を降りてくるところだった。

 

(くそっ、前後を塞がれてる……! 別ルートで動いてた連中と、鉢合わせちまったのか!)

 

 キルアの背筋に冷たい汗が走った。

 前にマチ、後ろにシズク。さらに横の高所から降りてくる青年までいる。いつからこちらに気づいていたのか。キルアは確かめる暇もなく、残った退路へ目を走らせた。

 

「キルア、右の搬入用の柵の上!」

「おう、一気に飛び越えるぞ!」

 

 二人は言葉を交わすよりも速く、全身に《纏》から《練》へとオーラを跳ね上げ、同時に地面を蹴った。

 天空闘技場でらでんに基礎を叩き込まれ、昨日もノブナガの監視から脱出した二人の初動には、一瞬の迷いもなかった。ゴンが先行して右側の低い鉄柵へ踏み込み、キルアはマチの視線を自分へ引きつけるように石畳の端を蹴ってフェイントを入れた。

 

「今朝パクが言っていた通り、いい動きをする」

 

 階段から降り立ったクロロが感心したように目を細めたが、その足運びはキルアたちの予測をはるかに上回る速さだった。

 ゴンが鉄柵の上端へ手をかけて跳躍しようとした瞬間、音もなく間合いを詰めたクロロの影がゴンの真横へと滑り込み、空中でゴンの襟首と右腕を正確な角度で押さえ込んだ。

 

「うわっ……!?」

 

 襟首と腕を取られて上体が捻られる。ゴンが足を着き直すより早く、クロロはその勢いを横へ逃がし、石畳へ膝をつかせて組み伏せた。

 

「ゴンッ!」

 

 キルアが方向を変えて助けに入ろうとした瞬間、その足首と両手首に、目に見えないほど細い何かがピシリと絡みついた。

 

「二度も同じ手で逃がすわけないだろ」

 

 マチが両手の指先をわずかに引くと、張り巡らされていた《念糸》が一気に収縮し、キルアの跳躍を空中で縫い止めた。

 

「く、そっ……!」

 

 キルアは咄嗟に手首へオーラを集めて糸を引き千切ろうとしたが、細い糸はびくともせず、力を込めるほど皮膚へ食い込んだ。両腕が背後へ引かれる。クロロに押さえられていたゴンの足元にもシズクが回り込み、マチから伸びた別の糸がその両手首を後ろ手に拘束した。

 

 遭遇からわずか数秒。

 

 通りかかった一般人たちが何事かと振り返るより早く、二人はアーケードの奥の、表通りから死角になる搬入スペースの壁際へと引き込まれた。

 

「……放せよ! オレたちは何も知らないって言っただろ!」

 

 ゴンが壁に背中を押しつけられたまま、目の前に立つクロロを睨みつけた。キルアも奥歯を噛み締め、口を閉ざしたまま、三人の手元と通路の隙間へ視線を走らせている。

 

「昨日はそうだったな。パクが調べたとき、お前たちの記憶に鎖野郎はいなかった」

 

 クロロは縛られた二人の前に立ち、静かな黒い瞳でゴンとキルアを見下ろした。

 

「だが、昨日オレたちから逃げたはずのお前たちが、今日もこうして街の真ん中を警戒しながら移動している。……あの『館』のハンターと連絡を取っていたのか、それとも鎖野郎と繋がりができたのか」

「……っ」

 

 ゴンとキルアはぴたりと口を閉ざし、一言も返さなかった。

 

「殺すかい、団長? それともパクのところへ連れて行く?」

 

 糸の端を指先にかけたマチが尋ね、シズクも横から「また逃げる前に気絶させておきますか?」と首を傾げた。

 

 クロロはわずかに首を振った。

 

「いや、生かしておけ。鎖野郎の手掛かりを持ってるかもしれないし、今からシャルとフランクリンが接触する『儒烏風亭らでん』に対するカードにもなる」

 

 クロロは周囲の壁に店名や番地などの目印が一切映らない角度を選び、手元の小型端末で、拘束されたゴンとキルアの姿をごく短く撮影した。クロロ自身の姿も声も入れず、ただ二人が今ここで捕らえられて生きているという事実だけが分かる数秒の映像だ。

 

「らでんさん、来ちゃダメだ……! こっちに来るなあっ!」

 

 ゴンが画面の向こうへ届くように声を張り上げたところで、クロロは録画を止め、その短いデータをシャルナークの端末へと送信した。

 

「マチ、シズク。人目につかない上の空き部屋へこの二人を移すぞ。パクたちと合流するまで、今度こそ目を離すな」

「わかったよ」

「了解です」

 

 三人が少年二人を連れてアーケードの奥の通用階段へと姿を消していく。

 

 そこから二区画離れた北側の交差点の裏手では、レンタカーの運転席に座ったレオリオが、腕時計の針が約束の十五分を過ぎたのを見て、焦燥に眉をひそめていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ホテルを出たらでんは、約束の北側の交差点へと向かうため、ショーウィンドウが並ぶ商業区の歩行路を足早に進んでいた。

 右肩から掛けた紺色の布袋には《執行猶予(ラスト・マーシー)》が収まり、左手の帆布バッグの中では《割れ物の王国(キングダム・オブ・グラス)》が静かに灯りを保っている。

 

(……そろそろ十五分になる。ゴン君たち、もうレオリオさんの車に着いたかな)

 

 角の時計店の前を通り過ぎながら、らでんはポケットの端末に連絡が入っていないことを少しだけ不審に思った。予定通り車へ乗れたなら、キルアかレオリオから「合流したぞ」と一言入るはずだ。

 

 歩行路の少し先には、横へ折れる角があり、その奥には商店の裏口や荷捌き場が続く短い搬入路が見えている。

 

 らでんが立ち止まって端末を取り出そうと、その角の近くまで歩み寄ったときだった。

 

「やあ。こんにちは、儒烏風亭らでんさん、だよね?」

 

 前方の人混みが途切れた場所から、ひどく明るく、日常の挨拶でもするような軽い声が落ちてきた。

 

 らでんの足がぴたりと止まる。

 五メートルほど先の歩行路の真ん中に、金髪を短く切り揃えた細身の青年が立っていた。人の良さそうな笑みを浮かべているが、その足運びには一切の隙がなく、左手にはごく普通の携帯端末を、右のポケットの近くには何か小さな器具を携えている。

 

 そして、それとほぼ同時だった。

 

 らでんが今歩いてきたばかりの後ろの歩行路――一直線に伸びる石畳の通路の向こう側から、周囲の買い物客たちが思わず道を空けるほどの大柄な男が、ゆったりとした歩幅で姿を現した。顔にいくつもの縫い傷があり、長く垂れた耳たぶをした巨漢だ。

 

 前方に一人、後方の長軸上に一人。

 

 挟み撃ちの形になったことを悟り、らでんは右手を肩の布袋の口元へ、左手を帆布バッグの持ち手へと自然に添えたまま、前方の金髪の青年を見返した。

 

「……前と後ろを塞いで、私に何の用ですか。動画の感想を言いに来たわけではなさそうですね」

「あはは、実はさっき君の美術解説動画もちょっとだけ見せてもらったよ。古い木箱の傷から職人の手癖を読むやつ、すごく面白かった」

 

 シャルナークは人懐っこい調子で言いながら、一歩も間合いを詰めずに左手の携帯端末を軽く掲げてみせた。

 

「オレたちは幻影旅団の者さ。今日はね、オレたちの団長がどうしても君と直接会って、君の『館』について話がしたいって言うから迎えに来たんだ」

 

 『幻影旅団』。そして『団長』。

 

 らでんの胸の奥で、今朝見た手帳の四日の欄――灰色の背景に浮かんでいた赤い『面会』の文字と、その横の黒い星が鮮やかに重なった。

 

(やっぱり、団長は生きていて、パクノダって人から私の《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》のことが伝わっている……!)

 

 もし自分ひとりの身であれば、今すぐ近くの建物の扉へ駆け込んで『鋼の雪玉』を差し込み、館の中へ避難してしまえばいいと思うかもしれない。

 

 けれど、シャルナークがその次に口にした言葉が、その選択肢を即座に封じた。

 

「あ、もちろん急にそんなことを言われても困るだろうと思ってさ。ほら、まずはこれを見てよ」

 

 シャルナークが左手の端末の画面をこちらへ向け、再生ボタンを押した。

 数メートル離れた位置からでもはっきりと見える液晶画面に、見覚えのある二人の少年の姿が映し出された。

 飾りのない灰色のコンクリートの壁を背に、両手首と胴を細い糸のようなもので縛り上げられたゴンとキルアだ。背景には窓も看板も映っておらず、カメラを持った人物の顔も声も入っていない。ただ、糸を食い込ませながら画面のこちらを睨みつけるキルアの鋭い目と、直後に響いたゴンの必死な声だけが、小さなスピーカーから流れた。

 

『らでんさん、来ちゃダメだ……! こっちに来るなあっ!』

 

 プツン、と短い映像が止まり、画面が暗転する。

 

「っ……ゴン君、キルア君……!」

 

 らでんの息が詰まり、帆布バッグを握る左手の指先にぎゅっと力がこもった。

 聞き慣れたゴンの声だった。二人の服も、今朝見たものと同じだ。数分前に別れたばかりの二人が、今は縛られている。らでんは暗くなった画面から目を離せなかった。

 

「安心しなよ、二人ともちゃんと生きてる。ほんのさっき、別ルートで動いてた団長たちが捕まえたところさ」

 

 シャルナークは端末をポケットへ戻し、穏やかな声で続けた。

 

「団長はね、君の《遺念収蔵館(ミュージアム・オブ・エコーズ)》にすごく興味を持ってるんだ。おとなしくオレたちと一緒に来てくれれば、あの子たちのいる場所へ連れて行ってあげるよ。どうかな、悪い話じゃないと思うけど」

 

 らでんは激しい動揺を奥歯で噛み殺し、呼吸を深く整えながら頭をフル回転させた。

 

(レオリオさんと合流するまでの間に、捕まったらしい……。まだ生きている。すぐに殺さないのは、二人から聞きたいことがあるか、私を連れて行くための人質にするつもりだから?)

 

 だからこそ、ここで自分が館の扉へ逃げ込むわけにはいかなかった。

 

 入口を開いて身を隠すことはできても、それでは二人の居場所が分からないままだ。目の前の男は、映像だけを見せて居場所を伏せた。おとなしく従ったところで、ゴンとキルアの無事まで約束されるわけでもない。まずは話を引き出せるだけの余地を、こちらにも残さなければ。

 

 同時に、らでんは周囲の状況を目で測った。

 ガラス張りの洋品店や宝石店のショーケースが並ぶ歩行路で、買い物客たちがこちらを見始めていた。道を空けて立ち止まる人もいる。ここでそのまま戦闘になれば、逃げ遅れた人が射線へ入る。

 

 すぐ右手には、建物の角を曲がって裏手へと続く短い搬入路があった。

 そちらには人通りがなく、建物の側面には金属製の通用扉や配管が収まった浅い凹みがあった。頭上には日除けの庇や仕切り枠が張り出している。搬入路は奥で左へ折れ、その曲がり口には隣の建物の鉄扉が内側へ半開きになっていた。らでんの位置からは覗けるが、後方の男との間には角の壁が挟まっている。

 

「……あの子たちに怪我はさせていませんね?」

 

 らでんはシャルナークの目を見つめたまま、交渉に応じるような口調で問いかけ、同時に靴底を鳴らさず半歩、また半歩と右手の角――搬入路の入り口の方へと自分の立ち位置をずらしていった。

 

「うん、見ての通りピンピンしてるよ。君が素直に来てくれさえすれば、あの子たちに乱暴をする理由もないからね」

「あなたの団長さんが私の『館』の話を聞きたいというのは分かりました。でも、その団長さんは今どこにいるんですか? ここへ呼ぶのではなく、私が連れて行かれるということは、別の場所で待っているんですよね」

「あはは、さすがに場所までは今ここで全部は教えられないなあ。でも、そんなに警戒しなくても大丈夫だって。まずはその右肩に掛けてる細長い袋と、左手のバッグを地面に置いてくれるかい?」

 

 シャルナークの視線が、らでんの右肩の布袋と左手の帆布バッグへと真っ直ぐに向けられた。

 白柄の刀を見せたことまで、少年たちの記憶から知られたのだろうか。それとも、単に袋の形を警戒しているのか。どちらにせよ、武器になり得るものを手放させるつもりらしい。

 

 らでんは角のすぐ手前まで位置を移し終え、後方のフランクリンとの射線に建物の角柱がわずかにかかる角度を作ってから、静かに首を振った。

 

「大事な友人を縛り上げておいて、『丸腰になってついて来い』というのは、さすがに虫が良すぎませんか?」

「やっぱり、言葉だけじゃ無理か」

 

 後方の通路を塞いでいたフランクリンが、低い声で呟いて一歩前へ踏み出した。

 

「もういいだろ、無理やり団長のところまで連れて行くぞ」

「気をつけなよフランクリン。こいつは死(・)後(・)念(・)を使える」

 

 シャルナークの口元から親しげな笑みが消え、鋭い警戒の声が飛んだ、その瞬間だった。

 

 フランクリンの巨大な右腕が持ち上がり、五本の指先が歩行路の長軸に沿ってらでんへと向けられる。

 その指先に濃密なオーラが集まるのを《凝》で捉えたらでんは、弾が放たれるより先に地面を強く蹴った。右肩の布袋に鞘を残して白柄の処刑刀《執行猶予(ラスト・マーシー)》を抜き放ち、横の搬入路の角へと一気に跳び込む。

 

 ドドドドドドッ!!

 

 直後、商業区の昼の空気を引き裂くような凄まじい連射音が炸裂した。

 フランクリンの指先から撃ち出された無数の念弾が、らでんがコンマ数秒前まで立っていた歩行路の石畳を粉々に抉り飛ばし、背後にあった洋品店の分厚いショーウィンドウと宝石店のガラス張りの陳列棚を、紙細工のように粉砕した。

 

 ガシャアアアンッ!!

 

 強化ガラスの巨大な窓が続けざまに爆ぜ飛び、飾り壁のレンガが砕け散って、大量のガラス片が歩行路から搬入路の入り口にかけて白い雨のように降り注ぐ。

 

「きゃあああっ!!」

「な、なんだ!? 銃撃戦だ、逃げろっ!」

 

 歩行路にいた買い物客たちが悲鳴を上げ、フランクリンたちの立つ側とは反対の表通りへと一斉に駆け出していく。らでんが交渉の間に搬入路の角へと位置をずらしていたおかげで、フランクリンの射線は搬入路の入り口へと向き、逃げる群衆の背中とは重なっていなかった。

 

(っ、なんて威力……! 普通の念弾じゃない、石畳もレンガ壁も一撃で吹き飛んでる!)

 

 角の太い構造柱の陰へ滑り込んだらでんは、頬をかすめたガラスの破片を払いながら、今の連射の破壊力を冷静に測った。

 装甲車すら正面から蜂の巣にして破壊し得るほどの、圧倒的な放出系の弾幕だ。もし中遠距離でまともに射線へ身を晒せば、搬入路にある薄い木箱やトタンの仕切り板、あるいは刀の峰で受け止めようとしても、腕ごと撃ち抜かれて終わる。遮蔽物のない広場であれば、なすすべはなかっただろう。

 

 だが同時に、フランクリンの撃ち方には明確な意図があった。

 弾は、らでんのいた場所から次の足場へと線を引いてくる。角を覗けば先回りして石畳が爆ぜ、奥へ退けば今度は横の壁が抉れた。それなのに、男自身はすぐ裏まで踏み込んでこない。命を奪う意図は感じられなかった。

 捕らえるために動きを狭めつつ、こちらの反撃も警戒しているのだろう。

 

(中遠距離の火力は向こうが圧倒的に上。でも、指先の向きと足裏の荷重を見れば、撃ち出される角度は読める。一箇所に止まらず、視線が切れる一拍を使って動く!)

 

 らでんが角の裏から次の動きへ移ろうとした、まさにそのときだった。

 

「う、おおおおおっ!!」

 

 砕けたショーウィンドウの粉塵の向こうから、ドタドタと重い足音を響かせて、一人の人影が搬入路の入り口へと真っ直ぐに突っ込んできた。

 

 シャルナークではない。

 

 スーツの上着を着た、四十代ほどの小太りな一般人の男性だった。先ほどの銃声に腰を抜かして逃げ遅れた通行人の一人だろう。

 

 しかし、その男性の動きは異様だった。

 瞳はどこも見ていないように虚ろに開かれ、顔面は蒼白に引き攣っているのに、足元のガラス片で革靴が滑るのも構わず、らでんの胴体へ抱きつこうと全力で突進してくる。

 

「えっ……一般の人!?」

 

 らでんは反射的に右手の《執行猶予(ラスト・マーシー)》の刃を返し、男性を斬らないように切っ先を上へ逃がした。

 その一瞬、らでんの《凝》を凝らした瞳が、突進してくる男性の左の首筋――スーツの襟元のすぐ上に突き刺さっている、小さな金属製のアンテナのような針と、そこに宿る他者のオーラを捉えた。

 

 さらに、男性の背後の角の外側を、シャルナークが軽やかなステップで回り込んでくるのが見えた。

 シャルナークの左手にはコウモリの羽のような飾りがついた携帯端末が握られており、その親指がボタンを操作している。そして彼の右手の指先には、男性の首筋に刺さっているのとまったく同じ形の、もう一本のアンテナが光っていた。

 

(操作系強制型の念……! あの針を人間の身体に刺して、手元の端末で動きを操っているんだ!)

 

 らでんの頭の中で、現象と仮説が瞬時に繋がった。

 男性が腕を伸ばすのに合わせて、金髪の男がその肩の後ろへ隠れる。右手にはもう一本の針。一般人を受け止めて足を止めたところへ、横からそれを刺すつもりか。らでんは両方の手元を視界から外さなかった。

 もしあの二本目の針を自分の身体に刺されれば、あの男性と同じように身体の自由を奪われ、その場で捕縛が完了してしまう。

 

 しかも、搬入路の正面の延長線上にはフランクリンが構えており、らでんが男性を避けて表の歩行路側へ飛び出せば、即座に念弾の斉射が飛んでくる。

 

「もらったよ!」

 

 突進する男性の肩越しに、シャルナークが死角から踏み込み、右手のアンテナをらでんの左肩へと真っ直ぐに突き出した。

 

 一般人を傷つけず、シャルナークの針も通さず、フランクリンの射線にも入らない。

 

 その三重の縛りを前にして、らでんは迷わなかった。

 

 らでんは後ろへ跳ぶのではなく、突進してくる男性の脇の下をくぐり抜けるように低く半身を沈め、搬入路の壁際へと斜めにステップを踏んだ。

 男性の両腕が空を切ってらでんの羽織りの裾をかすめる。

 そのすれ違いざま、らでんは右手の《執行猶予(ラスト・マーシー)》の白柄を滑らかに返し、男性の身体ではなく、自分の刃が届く搬入路の周囲の構造物へと、流れるような連撃で刀身を通した。

 

 ひとつ、搬入路の入り口の頭上に張り出した金属製の日除け庇を支える、細い鉄の支柱。

 

 ふたつ、壁際に立てかけられた荷捌き用の鉄パイプの仕切り枠の留め具。

 

 みっつ、建物の側面に沿って走る太い換気ダクトを固定している錆びた金具と、その下の手すりの継ぎ目。

 

 白い刃が、まるで水の中を通るようにそれらの金属や支柱をすり抜けていく。

 音も立たなければ、その場で傷がつくこともない。だが、実際に刃が通過したその断面には、使い手であるらでんが念じるだけでいつでも切断を引き起こせる《執行猶予(ラスト・マーシー)》の『切断線』が、目に見えない刻印として確かに残された。

 

 同時に、らでんは左手でバッグの中の吊灯《割れ物の王国(キングダム・オブ・グラス)》の輪を掴んだ。空になった帆布バッグを足元へ落とし、真鍮とガラスの灯を前へ掲げる。

 琥珀色の温かな灯火が、昼間のビルの影が落ちる搬入路の石畳と、先ほどフランクリンの連射によって入り口一面に散乱したショーウィンドウの無数のガラス片を照らし出す。

 

(対象指定――あの針を持った金髪の人! 操られている一般の人は狙わない!)

 

 らでんが左手の吊灯へオーラを通し、シャルナーク本人だけを追跡対象として明確に指定した瞬間だった。

 

 ジャリ、ジャリジャリッ!

 

 吊灯の光が実際に届いている床面のガラス片が、一斉に硬い音を立てて跳ね上がった。

 大小の透明な破片が磁石のように吸い寄せ合い、鋭い牙と四肢を持つ三頭の小型の『ガラスの猟犬』となって石畳の上に立ち上がる。

 ガラスの獣たちは、すぐ横で体勢を崩している一般人の男性には目もくれず、らでんの背後へ回り込もうとしていたシャルナークの足元へと、光の筋を滑るようにして飛びかかった。

 

「うわっ、なんだこれ!?」

 

 シャルナークが目を見張り、突き出しかけたアンテナの手を引いて咄嗟に後ろへ跳び退いた。

 

 ガチィンッ!

 

 一頭のガラス獣の顎がシャルナークの靴先を噛み砕きそうになり、ズボンの裾を鋭く裂く。シャルナークは空中で身を捻り、オーラで強化した右足の踵で二頭目のガラス獣の頭部を強く蹴り砕いた。

 

 パリンッ! と獣が砕け散る。

 

 だが、砕けた破片はそのまま搬入路へ差し込む吊灯の琥珀色の光の中で即座に蠢き、元より小さな二頭のガラス獣へと組み上がった。着地したシャルナークのふくらはぎへ、再び牙を剥いて跳びつく。

 

「ちっ、壊しても停止せず組み直されるのか!」

 

 シャルナークが舌打ちをしながら連続でバク転を打ち、ガラス獣の追跡を振り切るために搬入路の入り口から外側へと距離を取る。

 

 追う獣の一頭が、壁際の荷箱の陰へ足を踏み入れた。途端に動きが鈍り、光の切れた床でぴたりと止まる。ほかの獣は明るい縁を走って追いすがった。

 

 らでんは灯を持ち上げ、足元から入り口までの破片へ光を伸ばした。砕かれた窓のガラスは、まだ石畳のあちこちで煌めいている。

 

「シャル、下がれ!影の中までは追ってこれねぇみたいだぞ!」

 

 歩行路側のフランクリンの目が、荷箱の陰で止まった獣かららでんの左手へ動いた。

 向けられた五指が、足元の獣を追うのをやめた。指の延長にあるのは、らでんの掲げた吊灯だ。

 フランクリンが太い両腕を構え直し、角の隙間から覗く吊灯を直接撃ち抜こうと、歩行路の横へ大きくステップを踏んで射角を変えようとする。

 

(やっぱり、灯り本体を狙ってくるよね!)

 

 らでんはその動きを予測していた。

 

 らでんは搬入路の側面――レンガ壁が内側に一段深く窪んだ、鉄製の通用扉とメーターボックスがある『浅い凹み』へと素早く身を寄せ、左手に持っていた《割れ物の王国(キングダム・オブ・グラス)》の真鍮の輪を、凹みの内側にある配管のフックへと引っ掛けて置いた。

 歩行路にいるフランクリンの位置からは、吊灯の輪郭が凹みの手前のレンガの角に隠れる。五指が一度、灯を追いかけて止まった。

 

 凹みの横へ開いた口からは、琥珀色の光が斜めに床へ差し込んでいた。明るい帯の中へ戻った獣が首を上げ、入り口の縁にいるシャルナークへと再び駆ける。

 

 らでんは灯の輪から左手を離した。

 

「角の窪みに灯りを隠したか。なら、そこまで踏み込んで壁ごと撃ち抜く!」

 

 フランクリンが巨体を揺らし、吊灯とらでんを直接射界へ収めるため、搬入路の入り口の角まで一気に距離を詰めて右手を突き出そうとした。

 

 その踏み込みの足が、角の石畳を踏んだ瞬間。

 

 らでんは右手で《執行猶予(ラスト・マーシー)》の白柄を強く握り、数秒前に自分が刃を通したばかりの二つの箇所――頭上の金属製の日除け庇の支柱と、壁際の鉄パイプの仕切り枠の留め具を選び、頭の中で鮮明に念じた。

 

(――執行!)

 

 バキィンッ! ガララララッ!!

 

 フランクリンの目の前で、何の前触れもなく頭上の日除け庇の支柱がスパッと斜めに断ち切れ、重いトタンと鉄骨の庇がフランクリンの頭上と視界の真正面へと雪崩れ落ちた。同時に、横の鉄パイプの仕切り枠も留め具から切断され、フランクリンの踏み込みの足元へと倒れ込む。

 

「なっ……!?」

 

 さっき刀が素通りしたはずの支柱が、遅れて勝手に斬り落ちた。

 

 フランクリンは咄嗟に右手の五指から念弾を連射し、落ちてきた日除け庇のトタン板を空中で蜂の巣にして吹き飛ばした。

 落ちた庇が念弾を防ぎ切る盾になるわけではない。だが、自分の目の前で急に構造物が崩れ落ち、それを撃ち抜くために指先と視線がほんの一拍だけ上へと向いた。

 

 らでんが欲しかったのは、そのコンマ数秒の死角だった。

 

「――っ!」

 

 らでんは脚部に《流》でオーラを集中させ、粉砕された庇の破片が舞う下をくぐり抜けるようにして、フランクリンの懐――長距離射撃手が最も嫌う、刃の間合いの内側へと一気に踏み込んだ。

 

 下から飛び込んできたらでんの気配を察知するや否や、巨体に似合わぬ鋭い反応で左腕へオーラを寄せた。裏拳がらでんのこめかみへ迫り、同時に右手の指先が至近距離でその胴へ向き直る。

 

 だが、完全に間合いを詰めた近接戦において、念能力を駆使するらでんの太刀筋と体捌きは、フランクリンの予測を明確に上回っていた。

 らでんはフランクリンの左肩の筋肉の張りと膝の向きから裏拳の軌道を読み切り、空いた左手の掌にオーラを集めて、フランクリンの左の手首を外側から内側へと滑らせるように弾いた。

 柔らかな受け流しによって、フランクリンの巨大な左腕が自分の右腕――まさに念弾を撃とうとしていた右肘の前へと交差して塞がる。

 その一瞬の隙に、らでんは半歩内側へ踏み込んだ。右手の《執行猶予(ラスト・マーシー)》が、身体から浮いたコートの裾と、その背後にある外階段の鉄の手すりの支柱を一閃で通る。返した刀の柄頭が、フランクリンのみぞおちの脇へ鋭く叩き込まれた。

 

「ぐ、うっ……!」

 

 ドォン、と鈍い衝撃音が響き、フランクリンの巨体が半歩後ろへと仰け反る。

 フランクリンは踏みとどまった。胴を覆うオーラは厚い。らでんが柄頭を引き戻すと、その目が白い刃を追い、続いて刀の通ったコートの裾へ落ちた。

 膝が沈み、次の瞬間には後ろへ跳ぶ体勢へ変わる。

 

 フランクリンは無理にその場で殴り合いを続けようとはしなかった。

 即座に足元の砕けたレンガ塊を蹴り上げてらでんの視界を遮り、もう一段後ろの歩行路側へと大きく跳び退きながら、牽制の念弾を地面へ撃ち込んで間合いを引き離した。

 

「フランクリン、大丈夫かい!?」

 

 外側からガラス獣を蹴り飛ばして合流しようとしたシャルナークが声をかける。

 

 だが、らでんは後退したフランクリンを深追いして本道へ飛び出すようなことはしなかった。

 

 らでんがフランクリンを入り口から押し返し、シャルナークをガラス獣で外へ釘付けにした本当の理由は、この搬入路のすぐ内側にある。

 

「う、あああああっ!!」

 

 先ほど空振りで壁際に転がり、再び立ち上がった操り人形の一般人の男性が、背後かららでんへ組みつこうと両腕を広げて突っ込んできたのだ。

 

 フランクリンが距離を取り直して射線を整えるまでの、わずか二秒足らずの空白。

 

 そして凹みの吊灯《割れ物の王国(キングダム・オブ・グラス)》から伸びる光の中で、ガラスの獣たちがシャルナークの足元へ飛びかかり、その踏み込みを止めている一拍。

 

(今だ!)

 

 らでんはくるりと振り返り、突進してくる男性の正面へは立たず、半身をかわして男性の右側面へとぴたりと身体を寄せた。

 右手には《執行猶予(ラスト・マーシー)》を握ったままだが、刃は外側の地面へ向けて絶対に男性の皮膚へ触れさせない。らでんは刀を持った右の前腕と自分の肩を使い、突っ込んできた男性の勢いをそのまま利用して凹みの脇の壁へと押し当て、自分の体重と膝で男性の右腕と胴体の動きをしっかりと封じ込めた。

 

 ただ殴って気絶させればいいというものではない。

 

 あの針が刺さっているかぎり、たとえ意識を失わせても操作系の命令によって身体が無理やり動かされ続ける危険があるし、何より無関係な一般人を強い打撃で傷つけたくなかった。

 

 男性が操作の力で暴れようとするのを右腕と体幹で抑え込みながら、らでんは吊灯を置いて空けておいた『左手』を、男性の左の首筋へと素早く伸ばした。

 

 襟元に突き刺さっている、小さな金属のアンテナ。

 

 らでんは左手の指先でそのアンテナの根元をしっかりと摘まみ、迷わず真っ直ぐに引き抜いた。

 

 スポッ、と軽い感触とともに針が抜ける。

 

 途端に男性の肩が落ちた。振りほどこうとしていた腕から力が抜け、足が石畳の上で止まる。

 

「あっ、抜かれた!」

 

 外でガラス獣をかわしていたシャルナークが、手元のコウモリ型の端末の反応を見て声を上げる。

 

「はあっ、はあっ……!? え、なんだ、俺は……なんでこんな路地に……っ!?」

 

 正気に戻った男性は、急に自分の意思と無関係に全力疾走させられた反動で激しく息を切らし、転んだときに擦りむいた手のひらと膝を震わせながら、その場へへたり込みそうになった。

 

 らでんは抜いたアンテナを左手の指の間に挟み、その手で羽織りの内ポケットを開いた。中のハンカチの折り目に針先を収め、布越しに奥へ押し込んで留め具を掛ける。拾い直せる所へ、これを落とすわけにはいかなかった。

 

「頭を上げないで、そのまま低く!」

 

 らでんは空いた左手で男性の腕を支え、搬入路の奥へ身体を向けさせた。左へ折れる曲がり口の、半開きの鉄扉。そこまで行けば、表の歩行路からの射線を外せる。

 

「そのまま前のめりに走って、あの奥の鉄の扉からビルの中へ入ってください! 表の通りへは絶対に出ないで、建物の奥の階段室で頭を低くして隠れていてください、いいですね!?」

「ひ、ひいっ……わ、わかった、ありがとう……っ!」

 

 らでんの迷いのない、はっきりとした声が、パニックに陥りかけていた男性の耳へ真っ直ぐに届いた。男性は靴を滑らせながらも必死に四つん這いから立ち上がり、弾の飛んでこない搬入路の奥の裏口へと駆け出していく。

 

「逃がすかよ!」

 

 体勢を立て直したフランクリンが、搬入路の入り口の正面へ回り込み、男性の背中ではなく、それを庇う位置にいるらでんの足元と凹みの角へ向けて両手の十指を突き出した。

 

 ドドドドドドッ!!

 

 再び放たれた念弾の暴風が、搬入路の入り口の石畳とレンガ壁を凄まじい勢いで削り取る。

 

 らでんは男性が裏口の扉へ飛び込むまでの一秒を稼ぐため、凹みの陰へ身を沈めた。右手の《執行猶予(ラスト・マーシー)》を握り、先に刃を通した換気ダクトの固定金具と、フランクリンの背後で刀を当てた外階段の手すりの支柱を同時に選ぶ。

 

(――執行!)

 

 ガキィンッ! ズガァンッ!!

 

 壁の上を走っていた金属製の太い換気ダクトが金具から一気に切り離され、搬入路の入り口を斜めに塞ぐように轟音を立てて落下した。同時に、フランクリンのすぐ脇にあった外階段の手すりも根元から切断されて崩れ落ち、粉塵と金属片が射線の真ん中に舞い上がる。

 

 念弾の連射が落下した換気ダクトを瞬く間に穴だらけにして貫通していくが、その一拍の間に、奥を走っていた男性の姿がビルの裏口扉の内側へと滑り込み、バタンと重い鉄扉が閉まった。

 

 鉄扉の向こうへ足音が遠ざかっていく。らでんは短く息を吐いた。少なくとも、あの人を避けながら二人と戦わずに済む。

 

 らでんは粉塵の舞う搬入路の凹みの脇で、フックに掛けた《割れ物の王国(キングダム・オブ・グラス)》の真鍮の持ち手へ左手を添え直し、右手の《執行猶予(ラスト・マーシー)》を構えたまま、入り口の向こうの二人を真っ直ぐに見据えた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 搬入路の入り口の外側では、フランクリンが指先から立ち昇るオーラの煙を鎮め、その斜め後ろにシャルナークが着地して、二人は崩れ落ちた換気ダクトとガラス片の散乱する路地の中を睨んでいた。

 

 シャルナークは左手のコウモリ型の端末を一度ポケットへ戻し、右手の指先に挟んだままの『最後の一本のアンテナ』へと目を落とした。

 

「……やられたね。操ってた一般人を傷つけずに押さえ込んで、針だけ抜いて懐へしまわれちゃったよ」

 

 シャルナークの声は軽かったが、その目からは最初の余裕が完全に消えていた。

 アンテナは二本。そのうち一本を懐へしまわれた。残った一本を別の通行人に使うことはできるが、そうすればらでんへ刺す分がなくなる。取り返すにも、あの刀と獣の間を抜けなければならない。

 

 そして、二人にとってそれ以上に厄介だったのは、今目の前で立て続けに起きた『現象』の方だった。

 

「おい、シャル。今の見たか」

 

 フランクリンが、自分のすぐ横で斜めにスパッと断ち切られて転がっている外階段の鉄の手すりと、路地の入り口に落ちた換気ダクトの断面を顎でしゃくった。

 

「あいつ、さっきオレの懐へ飛び込んできたときに刀を振っただけで、そのあと一度も刃を当ててねえ。なのに、少し遅れてから支柱とダクトが勝手に斬り落ちたぞ」

「うん。最初に落ちてきた日除けの庇も、仕切りのパイプもそうだね」

 

 シャルナークは眉を寄せ、今朝アジトでパクノダから聞いた報告と、クロロに書いてもらった自分の占いの詩を頭の中で重ね合わせた。

 

 白い鮫皮の柄をした処刑刀、《執行猶予(ラスト・マーシー)》。

 

 そして、『貴方を斬る刃は途中で止まり/捕らわれた者が貴方の命を握るだろう』。

 

「……そういうことか。あの白柄の刀、その場では斬らずに通り抜けて、『切断の予約』みたいなものを残してるんだ。通した所へもう一度近づかなくても、あとから斬れるらしいね」

「ちっ。道理でさっきから、通行人を避けるついでみたいに周りの柱やパイプへ刃を滑らせてたわけだ」

 

 フランクリンが低く唸り、搬入路の壁面や足場のあちこちへ険しい視線を走らせた。

 どこにいくつその『切断の仕掛け』が残されているのか、またそれがどういう条件で消えるのかまでは、二人にも分からない。

 

 だが、ひとつだけ確実なことがある。

 

 あの女が刀を持って戦場を動き回る時間が長引けば長引くほど、周囲の柱、壁、庇、足場のあちこちに目に見えない切断の罠が増えていくということだ。

 そうなれば、フランクリンが射線を取り直すために踏み込む場所も、シャルナークが回り込むための足場も、いつ崩れ落ちて視界や体勢を崩されるか分からなくなり、こちらが使える地形の選択肢がどんどん削られていく。

 

「長引かせるのはまずいね、フランクリン」

 

 シャルナークが右手のアンテナを握り直し、低い声で言った。

 

「時間が経つほど、あの刀の仕込みが増えてこっちの踏み込み先が制限され、戦場が思いのままだ。遠巻きに撃って消耗させるやり方じゃ、相手の思う壺になる」

「ああ。小細工で揺さぶるのは終わりだ」

 

 フランクリンが太い両肩を沈め、全身のオーラを一段と強く膨らませた。

 

「まずあの凹みの灯りを押さえてガラスの獣を止める。その隙に、お前とオレで一気に詰めて本人を短時間で捕るぞ」

「了解。手元のアンテナはあと一本だけど……あいつに刺せば、それで全部終わりだからね」

 

 二人の呼吸がぴたりと重なり、それまでの様子見を含んだ包囲から、最短の手数でらでん自身の身体をねじ伏せるための鋭い殺気へと変わった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 搬入路の奥、琥珀色の灯火が揺れる凹みの脇で、らでんは二人の足元の重心とオーラの質が一変したのを肌で感じ取っていた。

 

(来る……。一人を助けて針を一本取ったことで、向こうも長期戦をやめて、一気に私自身を捕まえに来る気だ)

 

 逃げ場のない袋小路ではない。だが、ゴンとキルアがどこにいるのかを突き止め、あの二人を助けるまでは、ここで背中を見せて退くわけにはいかなかった。

 

 らでんは左手で《割れ物の王国(キングダム・オブ・グラス)》の真鍮の持ち手を掴み、右手の《執行猶予(ラスト・マーシー)》の白い切っ先を、砕けたガラスが煌めく路地の入り口へと静かに向けた。

 


 

【巻末解説】

 

 今回らでんが館外へ持ち出した、二つの収蔵品の能力を整理する。

 

処刑刀《執行猶予(ラスト・マーシー)》

 

【来歴】

 革命で消えた王国の、国宝である「赦免の王剣」。白い柄と金象嵌は、王が最後まで罪人を赦せることを象徴していた。末期の王はその猶予を恐怖による服従に利用し、赦免を求めて逆らった処刑人も殺した。処刑人の未完了の処刑への執着が刀に残り、数十年後の旧刑場解体を経て、記録と切断跡を辿ったセザールの蒐集品となる。王国も法律も失われたあとに、未執行の刑だけが残された。

 

【効果】

 刃を通した場所に、その場では傷にならない「切断線」を残す。対象は人の身体だけでなく、武器、扉、支柱、足場などにも及ぶ。切断線を仕込むことと、実際に切断を起こす「執行」は別の操作である。

 

【執行の方法】

 使い手が刀を手に持ち、執行する線を選び、意図して念じる。発声や振り直しは不要で、一つずつでも複数同時でも執行できる。必ず時間を置かなければならないわけではなく、仕込んですぐに執行することも可能。ただ怖がったり、執行を考えたりしただけでは勝手に発動しない。

 

【死後念による変化】

 生前は翌朝まで執行されなければ線が消える、赦免の猶予があった。死後はその期限が失われ、未執行の切断線が残り続けるようになった。一度残した線は使い手自身にも任意に取り消せず、本を閉じることや貸出の返却、復元品の消失によっても自動では消えない。

 

【線が残ることと、刀を使うこと】

 残留する線そのものが、自動で執行するわけではない。館外で新たに執行するには、有効な貸出と刀の保持など、使用条件が必要になる。使い手の気絶や死亡をきっかけに、一斉に切断する機能もない。あらゆる念や防御を無条件で無効化する刀ではない。

 


 

吊灯《割れ物の王国(キングダム・オブ・グラス)》

 

【来歴】

 ガラス工芸で栄えた小王国の宮廷最高傑作として、国賓を迎える宴で披露された国宝の吊灯。割れた作品を獣へ変える余興は、国の工芸技術と豊かさを示していた。貴族たちによる作品の破壊と人間の見世物扱いを拒み、作家は最後の宴で死亡する。王国が失われたあとも、当時の客を閉じ込めたガラスの獣が残った。セザールは、古い獣の腹の中で小人の目が動くのを発見して蒐集した。そのときの被害者を救出できたかは分かっていない。

 

【効果】

 吊灯の光が届くガラス片から獣を生み、指定した相手を追わせる。小型は噛みついて足を止め、大型は押さえ込みや丸呑みを狙う。指定していない者を勝手に襲うことはないが、噛み傷は現実の負傷となり、殺傷も起こり得る。

 

【光とガラス片】

 光を遮られた獣は動けなくなり、再び灯の光が届けば動き出す。昼間だから使えないのではなく、その吊灯の光が届いているかが重要。砕かれた獣は小型へ分かれ、同じ光の下で再集合できる。ただし、分裂するほどガラスの総量や威力が無限に増えるわけではない。

 

【丸呑みによる捕獲】

 全身を呑まれた生者は、小さなガラス人形となって獣の透明な腹に収められる。意識はあるが声は外へ届かず、捕獲時の状態が保存される。呼吸や飢えによる自然死はさせないが、傷を治したり不死にしたりする能力ではなく、人形を壊されれば本人にも危険が及ぶ。

 

【死後念による変化と解放】

 生前は消灯すれば獣が解け、呑まれた人も戻った。死後は消灯しても、獣が硬いガラスの置物になるだけで囚人を解放しない。救出するには、暗くして獣を止め、腹を割り、内部の人形を傷つけずに外へ出す。人形が取り出されると、人間の姿へ戻る。

 


 

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