粉塵の舞う搬入路の入り口で、二つの影が同時に沈み込んだ。
奥の曲がり口にある鉄扉が閉まり、操られていた男性の足音が建物の内側へと遠ざかっていく。あの男性は、射線の外へ逃がせた。
らでんはレンガ壁が一段窪んだ浅い凹みの脇に立ち、配管のフックに掛けた《
足元の石畳には、吊灯を取り出したときに落とした厚手の帆布バッグが口を開けて転がっている。凹みから斜めに差し込む琥珀色の光の帯の中では、砕けたショーウィンドウの破片から組み上がったガラスの猟犬たちが、硬い爪音を鳴らして低く身を伏せていた。
(来る……。針を一本抜かれて、向こうも遠巻きの揺さぶりをやめた。この狭い路地で、一気に私を捕まえに来る気だ)
らでんは両目に《凝》を施し、入り口の外側に立つ大柄な男――フランクリンと、その斜め後ろに立つ金髪の青年――シャルナークの重心の変化を測った。
もしここが自分ひとりの戦場なら、フックから吊灯を外して搬入路の奥の曲がり口へと退き、壁の死角とガラス獣を使って時間を稼ぐ手もあっただろう。あるいは、すぐ横の通用扉に首元の『鋼の雪玉』を差し込み、《
だが、数分前にシャルナークの端末で見せられた短い映像が、脳裏に焼きついて離れなかった。
灰色のコンクリートの壁を背に、細い糸のようなもので両手首と胴を縛り上げられていたゴンとキルア。そして『こっちに来るなあっ!』と叫んだゴンの必死な声。
ここで自分が館へ逃げ込めば、二人の居場所を知る相手からも遠ざかってしまう。まずは目の前の二人を退かせ、交渉の糸口を掴みたい。
だからこそ、らでんはまず左手の吊灯をフックから持ち上げ、光の届く角度を搬入路の入り口全体へと広げようとした。
その左手の指先に力が入った、まさにその瞬間だった。
「シャル、行くぞ!」
フランクリンの低い咆哮とともに、丸太のような両腕が搬入路の入り口で水平に突き出された。
十本の指先に、オーラが密に収束する。
狙いは、凹みの内側に身を寄せるらでんの胴体そのものではなかった。
ドドドドドドドッ!!
鼓膜を叩き割るような連射音が炸裂し、無数の念弾が搬入路の凹みのすぐ手前のレンガ角と、らでんが退路にするはずだった路地奥の曲がり口の壁面へと同時に叩き込まれた。
ガガガガガンッ! バキィンッ!!
分厚いレンガの角柱が内側から爆ぜるように砕け散り、奥の曲がり口の石畳と排水管が粉々に抉り飛ばされる。跳ね返った石片と赤茶けたレンガの粉塵が、凹みの出口を塞ぐカーテンとなって一気に噴き上がった。
「っ……!」
らでんは反射的に頭を低くし、フックから外しかけた《
もし今、半歩でも凹みの外へ吊灯を持ち出していれば、火屋のガラスごと念弾の暴風に巻き込まれて粉砕されていたところだ。奥の曲がり口へ走るコースも、絶え間なく撃ち込まれる弾幕によって完全に塞がれている。
(凹みから動ける先を、射撃の角度だけで全部潰してきてる……!)
フランクリンは刃の間合いへ踏み込まず、入り口から射撃を続けていた。先ほど柄頭を叩き込んだ距離まで、近づいてくる気配がない。
中遠距離における圧倒的な火力と射角の広さをそのまま使い、らでんが吊灯を持って移動できる空間そのものを、外側から一寸ずつ削り取っているのだ。
しかも、粉塵の向こうで動いたのはフランクリンだけではなかった。
フランクリンの連射が凹みの角を削り、らでんの視界と歩幅を釘付けにしたその同じ拍に、もう一人の影が崩れ落ちた換気ダクトの脇から音もなく滑り込んできた。
シャルナークだ。
らでんは舞い上がるレンガの粉塵越しに、踏み込んでくるシャルナークの両手元へと鋭く視線を走らせた。
さっきまで彼の右手の指先に光っていたはずの、一本のアンテナ。
それを突き出してくるのなら、踏み込みの瞬間を狙って手首ごと弾くか、ガラスの獣を足元へぶつければいい。
だが――らでんの《凝》が捉えたシャルナークの動きは、その予測と違っていた。
シャルナークは走り出しながら、右手に持っていたアンテナを、自分の上着の内側の収納へとすっと戻したのだ。
左手のコウモリ型の端末もすでにポケットの中にある。
つまり、今のシャルナークの両手には、針も端末も握られていなかった。
(えっ……針をしまった!? ううん、違う、両手を空けたんだ!)
らでんの頭の中で、相手の狙いが瞬時に組み替わる。
(針を刺す隙を窺うんじゃない。フランクリンが私を凹みに縫い止めている間に、灯りを潰しに来る!)
ジャリッ、ガチィンッ!
床面に差し込む琥珀色の光の帯の中で、ガラスの猟犬たちが一斉に牙を剥き、侵入してきたシャルナークの脚へと飛びかかった。
しかし、シャルナークは光の帯の真ん中を突っ切らなかった。
先ほどらでんが切り落とした太い金属製の換気ダクトと、壁際に転がる荷捌き用の木箱。それらが吊灯の光を遮って石畳の上に落としている、細長い『濃い影の縁』だけを正確なステップで踏み抜いてきたのだ。
飛びかかったガラス獣の一頭が、換気ダクトの影の中へ前足を踏み入れた途端、まるで糸の切れた人形のようにピタリと動きを止める。
吊灯《
シャルナークはその境界線をわきまえた足運びで、止まったガラス獣のすぐ横をすり抜けると、凹みのすぐ手前――らでんが吊灯を取り出したときに足元へ落としたままになっていた『厚手の帆布バッグ』へと左手を伸ばした。
バサッ、とシャルナークの左手が石畳の上の帆布バッグを鷲掴みにする。
そのまま低い姿勢からバネのように身体を伸ばし、左手の帆布バッグを凹みのフックに掛かった吊灯へと被せようとしながら、空いた右手をらでんの左腕へと真っ直ぐに突き出してきた。
(させないっ! 灯りを塞がれたら、獣が全部止まって二人に囲まれる!)
らでんの判断に迷いはなかった。
左手でフックの吊灯を外している暇はない。だが、右手には抜き身の処刑刀《
この距離なら、袋が吊灯を覆うより先に刃が届く。
しかも、目の前の二人はほんの数秒前、この白柄の刀が通った支柱や換気ダクト、外階段の手すりが、あとから一斉に断ち切られるのをその目で見ている。
この刃を身体に通されればどうなるか、分からないはずがない。
らでんは凹みの縁で右足を半歩引き、シャルナークの胸元と吊灯の間を断ち切る軌道で、右手の《
刀身を避けて後ろへ跳び退くか、あるいは腕を引いて体勢を立て直すか。相手がどちらを選んでも、その一拍で左手の吊灯をフックから外し、光の位置を動かしてガラス獣を再び差し向けることができる。
白い刃が、風を切ってシャルナークの目の前へと迫った。
シャルナークの瞳に、白く光る刀身がはっきりと映った。
――なのに。
シャルナークの足は、一ミリも止まらなかった。
上体を反らすことも、腕でガードすることも、ステップを踏んで軌道を外すことさえしない。
彼は、自分の胸の前を横切る白い処刑刀の軌道へ、まるで最初からそこに何もないかのように、自分自身の胴体を真っ直ぐに突っ込ませたのだ。
スッ――と。
音も抵抗もなく、《
服の布地も裂けず、血も流れない。
らでんは、白い刃が彼の胴を端から端まで横切るのを見た。今、その線を執行すれば、目の前の身体は上下に断たれる。
(――えっ!?)
らでんの呼吸が、思考ごと一瞬だけ止まった。
避けなかった。
見えなかったのではない。刃の軌道を見て、通れば後から斬られる刀だと分かっていて、それでもこの人は、自分の胴体を刃の中へ差し出しながら手を伸ばしてきたのだ。
《
刀を振り直す必要もなければ、声に出す必要もない。ただ右手の白柄を握ったまま、今付けたばかりの線を頭の中で選び、『切る』と意図して念じさえすれば、その瞬間にシャルナークの身体は真っ二つに断ち切られる。
けれど、自分の命が断たれる線の中へ、笑いすら浮かべそうなほど迷いのない目で飛び込んできた人間の姿が、らでんの判断をほんの一拍――コンマ数秒だけ遅らせた。
その一拍の遅れで、すべてが決まった。
「――捕まえた!」
刃に胴を通してなお踏み込んだシャルナークの右手が、吊灯の持ち手に添えていたらでんの左手首をガッと掴んだ。持ち手から引き離し、そのまま凹みのレンガ壁へと強く押しつける。
同時に、シャルナークの左手が握っていた厚手の帆布バッグが、フックに掛かった《
「あっ……!」
らでんが左手を振りほどこうとするより早く、シャルナークは余った布を左手で押し込み、バッグの口をフックと壁の隙間へ噛ませた。
フッ、と。
搬入路の石畳を照らしていた琥珀色の温かな光が、嘘のように掻き消えた。
ピタリ、と外側の床で音が止まる。
吊灯の光を遮られたガラスの猟犬たちは、牙を剥いた姿勢のまま石畳の上に静止した。透き通った牙も、脚も、その場に残っている。
そして、光が消えた暗がりの中へ、入り口から一気に間合いを詰めてきたフランクリンの巨体が飛び込んできたのは、シャルナークがらでんの左腕を押さえたのとほぼ同時だった。
「動くなっ!」
フランクリンの鉄の万力のような左手が、らでんが《
「く、うっ……!」
らでんは咄嗟に膝と腰へ《流》でオーラを回し、重心を落として受け流そうとした。
一対一の近接戦なら、フランクリンの腕力をいなす余地はあった。だが今は、左の手首と肩をシャルナークに壁へ縫い止められ、足場の逃げ道もない凹みの隅で、二人の旅団員に左右から同時に腕の関節と重心を殺されている。
フランクリンはらでんの右手首と右肘を固定したまま、白い刀身の切っ先を自分やシャルナークの身体へ向けさせないよう、刃の向きを外側の石畳へと低く押し下げた。
シャルナークがらでんの左腕を背中側へ回す。フランクリンは左手で右手首を押さえたまま、右手をらでんの背へ回し、その左手首を引き継いだ。大きな身体が寄り、両肩が壁へ押しつけられる。
両手が空いたシャルナークは、バッグの口を折り込んでフックへ挟み直してから、腰のポーチから樹脂製の拘束帯を取り出した。まず左腕を背へ寄せ、手首と上腕、胴を繋ぐように帯を締める。
続けて右前腕を胴の前へ寄せ、肘と手首にも帯を回す。その間もフランクリンの左手は右手首を放さず、切っ先が二人へ向かない位置を保った。カチリ、と硬いロック音が重なる。
らでんが肩を動かそうとするたび、背後からの圧力が強くなる。帯を引きちぎるために力を溜める余地も、二人は与えようとしなかった。
それでも、らでんの右手の指先だけは、《
二枚の館外貸出票による維持は、今も途切れていない。
手首と肘を固定されても、右手の掌は確かに白柄に触れている。
目の前、わずか数十センチの距離には、荒い息を吐くシャルナークの胴体がある。
らでんが今ここで、頭の中でひとつ念じさえすれば。
腕をミリも動かすことなく、目の前の青年の身体をその場で断ち切ることができる。
だが、らでんは奥歯を強く噛み締めた。執行する線を選びかけた意識を、二人の少年へと引き戻す。
(今ここで執行したら、この人は死ぬ。でも、ゴン君とキルア君は、まだ向こうに捕まってる……!)
すぐ横ではフランクリンが右腕を押さえている。別の場所では、あの『団長』たちがゴンとキルアを捕らえている。ここでシャルナークを斬ったところで、二人を帰せるわけではない。
未執行の線を残し、刀を握っていれば、シャルナークの命はまだこちらにある。あの二人を帰すために、使わなければならない。
◇ ◇ ◇
腕を押さえ込まれても、らでんの視線はシャルナークから離れなかった。
刃が通った場所に、まだ傷はない。その身体が今もつながっている理由を、らでんは知っている。
「何考えてるんですか、あんたは!」
シャルナークは息を整えながら、顔を上げた。
「……何って?」
「あのまま切ってたら、死んでたんですよ。分かってて、どうして――」
「いや、オレの代わりなんていくらでもいるしね」
続きを言おうとした口が、そのまま止まった。
聞き違いかと思った。けれど、シャルナークは笑っている。自分の命に付いた線より、らでんを捕まえられたことの方が、よほど大事らしかった。
「君を逃がしたら、次も同じように捕まえられるとは限らないだろ?」
「だからって、自分が死んでもいいって話にはならないでしょう!」
「シャル」
フランクリンの声が割って入った。
「代わりがいるかどうかは、お前一人で決めることじゃねえ」
シャルナークは彼を見て、わずかに肩をすくめた。
そのやり取りに、らでんはますます言葉を失った。
仲間の命がどうでもいい連中なら、まだ分かった。今の声には、そういう冷たさはなかった。それなのに、当の本人はあんなことを言う。
自分の手で付けた線が、急にひどく重いものに思えた。
「刀を離せ」
フランクリンの言葉に、らでんは柄を握ったまま顔を上げた。
「……振り直す必要は、ないんです」
シャルナークが、らでんの手元へ視線を落とす。
「手を動かさなくても、切れるってこと?」
「これ以上、試させないでください」
フランクリンは刀を見て、それからシャルナークを見た。
「……刀はそのままでいい。腕は動かすな」
低い声でそう告げると、フランクリンはらでんの右手の指を無理にこじ開けようとする手を止めた。
らでんは柄を握り直した。フランクリンはその指を見届けてから、右肩に残っていた紺色の布袋から鞘を引き寄せ、露出した白い刀身へ被せた。肘を胴へ寄せたまま拘束帯を締め直し、肩を押さえる位置へ手を戻す。
鞘に収まった刀を、右前腕ごと胴の前に押さえられる。新しい対象へ刃を通す隙はない。それでも、白柄はらでんの右手の中に残った。
「所持品を確かめるよ。変な動きはしないでね」
シャルナークがすぐ正面から手を伸ばし、まずらでんの羽織りの内ポケットを開いた。
先ほど一般人の男性から引き抜いて留めておいた、ハンカチの包み。シャルナークはそれを布ごと抜き取ると、折り目の中から自分の金属製のアンテナを取り出し、傷がないかを確かめてから、先ほどしまった一本と合わせて自分の収納へと戻した。
これで二本のアンテナは両方ともシャルナークの手元へ戻ったが、彼はその針をらでんの首筋へ向けようとはしなかった。
続いてシャルナークの指先が、らでんの襟元の内側へ下がっていた細い鎖に触れる。
「……この丸い金属、ただのアクセサリーじゃないよね。扉か何かに使う鍵かな」
シャルナークは首元の鎖から『鋼の雪玉』を外し取り、さらにらでんのポケットに入っていた個人用の携帯端末を抜き取って、両方とも自分の上着の深いポケットへと別々に収めた。
胸ポケットの黒革の手帳にも一瞬だけ指が触れたが、この場で中身を開いて読み耽るような真似はせず、らでん自身の両手が届かない位置へ押さえ直して手を引く。
両腕を拘束帯で固定され、『鋼の雪玉』と携帯端末を預かられたことで、らでんは自分の手で館の扉を開くことも、外へ連絡を発信することもできなくなった。
シャルナークは最後に、凹みのフックに掛かっていた《
光が一切外へ漏れないように袋の口を折り畳み、持ち手と一緒に片手で提げる。
袋の中の吊灯も、らでんの右手が握る刀も、二枚の貸出票による維持はそのまま続いている。搬入路の石畳には、光を失ってただのガラス細工に戻った獣たちが静かに転がっていた。
「フランクリン、団長への連絡、頼むよ」
「ああ。少しでも妙な気配を見せたら、腕ごと潰す。大人しくしてろ」
歩き出す前に、フランクリンはらでんを壁際へ押し留めた。左手で右肘を掴み、鞘に収まった刀を前腕ごと胴へ押しつける。シャルナークは吊灯の袋を左手に提げたまま、右手でらでんの左肩を押さえた。
フランクリンが空けた右手で自分の携帯端末を取り出し、耳元へ当てる。スピーカーにはせず、通信の向こうの声はらでんの耳には届かない。
「団長。女は確保した。今からそっちへ連れて行く。……それと、シャルが《念》を喰らった。詳しくは着いてから話す。……ああ、五分もかからねえ」
通話を終えたフランクリンは端末をしまい、らでんの左肩と右肘を背後から掴み直した。シャルナークは肩から手を離し、らでんのすぐ横――互いの表情と呼吸がひと目で確かめられる距離に並ぶ。
三人が歩き出した、その直後だった。
シャルナークの上着のポケットの中で、たった今らでんから預かったばかりの携帯端末が、ブゥン、ブゥン、と控えめな振動を繰り返した。
らでんの肩が小さく揺れる。
(……レオリオさん? それとも、クラピカさん……? 約束の十五分を過ぎたから、確認してくれてるのかもしれない……!)
シャルナークはポケットかららでんの端末を半分だけ覗かせ、着信画面を一瞥すると、応答ボタンを押さずにそのまま着信音を消してポケットの奥へと戻した。
「仲間からの電話みたいだけど、今は出られないからね。そのまま前を見て歩いて」
表の商業通りの喧騒を避け、建物の裏手を繋ぐ人通りのない連絡通路を、三人は揃った足音で進んでいく。
らでんは拘束された右手の掌に《
◇ ◇ ◇
同じ時刻、歩行者区画を抜けた北側の交差点の裏手では、路肩に停めたレンタカーの運転席で、レオリオが携帯端末を耳に押し当てたまま苛立たしげにハンドルを叩いていた。
トゥルルルル……トゥルルルル……。
無機質な呼び出し音が一定の拍で続いたあと、応答のないまま通話が自動的に切れる。
「……チッ、らでんも出ねえ!」
レオリオは画面を睨みつけ、額に滲んだ脂汗を手の甲で拭った。
アパートメントを出てから、すでに二十分以上が経過している。
約束では、ゴンとキルアは人通りの多い歩行者区画の真ん中を通り、十五分後にこの北側の乗車地点へ来るはずだった。らでんもホテルで鞄と道具の準備を済ませてから、別の道でここへ合流する手筈になっていた。
それなのに、十五分を過ぎても誰も姿を現さない。
最初にゴンの端末へかけ、次にキルアの端末へかけたが、どちらも応答がなかった。そして今、らでんの端末にも、呼び出し音が鳴ったきり誰も出なかった。
「まさか、三人とも途中で旅団の連中に鉢合わせしたのか……!? いや、あいつらは人通りのある表の道を選んで動いてたはずだぞ……!」
レオリオは一度ドアを開けて車の外へ立ち、大通りの向こうに見える歩行者区画の北口へと目を凝らした。
昼下がりの遊歩道には、買い物客や会社員の姿が普段通りに行き交っている。ただ、ずっと南側の商業区の方角で、数分前に何か騒ぎがあったらしく、遠くの通りを警備車両のサイレンがひとつ掠めていっただけだ。
ここから見渡せる範囲に、ゴンたちの姿も、旅団らしき不審な連中の影もない。
このまま車を飛び出して歩行者区画を逆戻りし、三人の通ったはずの道を探しに行きたい衝動が、喉元までせり上がってきた。
だが、レオリオはドアの縁を強く握り締め、その足を踏みとどめた。
(待て、落ち着けオレ……! ゴンとキルアだけじゃなく、あのらでんまで連絡が取れなくなってるんだ。もし向こうが本気で網を張ってたんなら、念の戦闘力じゃ一番下のオレがひとりでノコノコ探しに飛び出したら、ミイラ取りがミイラになるだけだぜ……!)
アパートを出る前、スピーカー越しに聞いたクラピカの言葉が脳裏に蘇る。
『少しでも異変があれば、絶対に単独で交戦せず、すぐに連絡を入れてくれ』
レオリオはすぐに運転席へと戻り、ドアを閉めて周囲の安全を確かめると、短縮登録してあったクラピカの番号を迷わず発信した。
ワンコールも待たずに、通話が繋がる。
『レオリオか。みんなと合流できたか?』
ホテルの控え室にいるらしいクラピカの、低く抑えた声が返ってきた。
「……いや、まずいことになったぞ、クラピカ。落ち着いて聞け」
レオリオは自分の声が上ずらないよう、腹に力を込めて事実だけを正確に伝えた。
「約束の十五分をとうに過ぎてるのに、ゴンとキルアが北側の乗車地点に来ねえ。らでんもまだ姿を見せねえし、今、三人の電話に順番にかけたが、誰ひとり出やしねえんだ」
電話の向こうで、クラピカが短く息を呑む気配がした。
『……三人とも、か』
「ああ。南の方の商店街でさっき少し騒ぎがあったみてえだが、ここからじゃ何が起きたかまでは分からねえ。とにかく、移動の途中で何かあったのは間違いねえと思う」
数秒の張り詰めた沈黙のあと、クラピカの声が一段と鋭い響きを帯びて返ってきた。
『わかった。知らせてくれて感謝する、レオリオ。お前は絶対にひとりで歩行者区画へ戻ったり、路地を探し回ったりするな。そのままエンジンをかけて、いつでも車を動かせる状態で近くを回りながら待機してくれ』
「わ、わかった! お前の方も、ホテルを飛び出してひとりで突っ込むんじゃねえぞ、クラピカ!」
『ああ、分かっている。まずは状況を確かめる。電話はすぐに出られるようにしておいてくれ』
通話が切れる。
レオリオは端末を助手席のホルダーへ固定し、キーを回してエンジンを始動させると、祈るような目でバックミラーと前方の通りを交互に睨みつけた。
◇ ◇ ◇
商業区の裏手から古い石造りのアーケードの脇へと抜け、表通りの人目から完全に隔てられた建物脇の空きスペースへと足を踏み入れたときだった。
高い外壁に囲まれた日陰のコンクリートの床に、いくつかの人影が立っているのが見えた。
街で二組が合流すると、らでんはまずゴンとキルアの姿を探した。
「らでんさん!」
こちらへ寄ろうとしたゴンを、紫の髪の女――マチが腕を伸ばして制する。眼鏡のシズクは、キルアの向こう側に立っていた。キルアはその場で、らでんの顔から腕へ、素早く目を走らせた。
「二人とも、怪我は?」
「オレたちは平気。それより――」
「なら、よかったです」
声を聞いた途端、少しだけ息が通った。
まだ帰せる。二人とも生きていて、話ができる。何を聞かれても、そのことを忘れないようにしなければ。
近づいてきた足音が止まった。
「連れて来られたようだな」
らでんは顔を上げた。
知っている声だった。
団員の向こうから進み出た青年が、こちらを見る。青い耳飾りが、顔の横で小さく揺れた。
「……あなたは」
冬の展示室が、一瞬だけ目の前に戻った。
絵を見る場所を譲ってくれた人。こちらが何を面白がっているのか、説明しきる前に分かってくれた人。
「団長。先に、シャルのことで話がある」
フランクリンの言葉を聞いて、らでんは青年を見直した。
団長。
この人が。
「久しぶりだね」
青年は静かに言った。
らでんのことを、もう知っていた声だった。
「……九月の」
「ん?」
「大きな仕事があるって。あのとき言っていたのは……このことだったんですか」
「ああ」
短い返事だった。
らでんは、青年の顔を見続けた。何か言い間違えたと、そう返してほしかったのかもしれない。
あのときは嬉しかった。同じ九月に、仲間と大切な仕事をする。それだけの偶然が、ずいぶん心強かった。
「美術館で話したときも、私のことを?」
「いや。君が誰なのか知ったのは、今朝だ」
では、あれは本当に、ただ楽しく絵を見ていた時間だったのだ。
そのことが、かえって苦しかった。
青年――クロロは、シャルナークへ視線を移した。
「何があった?」
「シャルが念の刀で切られた。切られた跡に基づいて斬撃が遅れて執行される傷が付く。シャルは今、未執行の状態だ」
報告しながらフランクリンがシャルナークのシャツをめくりあげた。胴を割るように臍のあたりに横一線に長い線が入っている。
クロロの目が、らでんに戻る。
「そうなのか」
「……はい」
そこを偽る意味はなかった。
「傷は消せるか?」
「消せません」
「君にも?」
「私にも、です。一度付けた線を、なかったことにはできません」
シャルナークが自分の身体を見下ろした。らでんは、その顔を見たくなかった。
「執行しなければ、シャルは無傷のままか?」
「……はい」
クロロは少し黙った。
それからシャルナークへ、落ち着いた声を向けた。
「その状態を、勝手に軽く見るな」
らでんは唇を結んだ。
仲間を気遣う声だった。絵を前にして話していたときと同じように、何かを大切にしている人の声でもあった。
だからこそ、分からない。
あの競売会場で死んだ人にも、それぞれそういう相手がいたはずなのに。
「ゴンとキルアを帰してください」
クロロがこちらを見た。
「私に用があるのなら、私にしてください。二人を使わなくても、話を聞きますから」
声の震えが、最後に少し残った。それでも、言い直さなかった。
「そうだな」
クロロは答えた。
「君には、聞きたいことがいくつもある」
同じ絵の前で、何度も聞いた声だった。
「君の美術館について、話そう」
高い石造りの外壁に挟まれた日陰の空きスペースに、その静かな声が落ちた。
表通りの商業区を行き交う車や人々の喧騒は、幾重もの古い壁に遮られてここまで届かない。足元に広がる灰色のコンクリートの床と、頭上を細く切り取る昼下がりの空だけが、この閉ざされた一角を街の日常から切り離していた。
らでんは、目の前に立つ青年の顔を真っ直ぐに見返した。
耳元で揺れる青い飾り。落ち着いた黒い瞳。冬のリーネの美術館で、同じ絵の前に並び、こちらの言葉が最後まで形になる前にその先を汲み取ってくれた、あの穏やかな声。
その同じ人間が、幻影旅団の『団長』と呼ばれている。
らでんの左腕は背中側へ回され、手首と上腕、胴を繋ぐように樹脂製の拘束帯で硬く締め上げられていた。右の前腕も肘を曲げた形で胴の前へ寄せられ、同じ帯で固定されている。さらにすぐ背後にはフランクリンの巨体が控え、鉄の万力のような左手がらでんの右肘を、右手が左肩を上から掴んで、いつでも関節ごと押し潰せる重みを預けていた。
それでも、胴の前へ寄せられたらでんの右手の掌の中には、鞘に収まった処刑刀《
ざらりとした鮫皮の硬い粒が、汗ばんだ指の腹に食い込んでいた。
ホテルを出てここへ至る前に手続きを済ませた、二枚の館外貸出票。その維持は今も途切れていない。
らでんの視界のすぐ右端――わずか一歩余り離れた場所には、金髪の青年、シャルナークが立っていた。
その左手には、搬入路のフックから外された吊灯《
そして、そのシャルナークの脇腹からみぞおちの下にかけて、先ほどらでんが水平に振るった《
服の布地は裂けておらず、血も一滴も流れていない。外から見れば無傷の身体だ。
けれど、一度付けた線を術者であるらでん自身の意思で取り消すことはできない。そして、有効な貸出が続き、右手がこの白柄を握っている限り、刀を鞘から抜き直す必要も、腕を動かす必要も、声に出す必要もなかった。ただ頭の中でシャルナークの胴に残る線を選び、『切る』と念じさえすれば、その瞬間に彼の身体は上下に断ち切られる。
らでんがそれを実行しない理由は、空きスペースの奥の壁際にあった。
灰色のコンクリートの壁を背にして立たされている、ゴンとキルア。
二人の両手首と胴には、すぐ脇に立つ紫の髪の女――マチの指先から繋がる細い念の糸が幾重にも張り巡らされている。キルアの向こう側には、眼鏡をかけた黒髪の女――シズクが静かに立ち、外へ抜けるわずかな隙間を塞いでいた。
二人に目立った外傷はない。だが、自分がシャルナークを斬ったところで、背後の手も、少年たちを縛る糸も消えない。その間に二人へ何かされれば、取り返しがつかなくなる。相手の命を手元に残したまま、話を進めるしかなかった。
この細い均衡の上で、二人を無傷のまま帰すための糸口を見つけなければならなかった。
「団長。その前に、もう一つだけ報告しておきたいことがあるんだ」
シャルナークが続けた。
自分の胴にいつ断たれるとも知れない線を抱えているというのに、その声には震えも焦りもなかった。帆布バッグを提げた左手を自然に下げたまま、ほんの数分前に搬入路で起きた交戦の事実を、淡々と整理して口にする。
「その刀と、袋に入れたこの灯は同時に具現化されていたよ。刀を振ってる間も、吊るした灯の光の中ではガラスが止まらずにこっちを追ってきたし、その間、どちらの手にも『本』は持ってなかった」
あの狭い搬入路での数分間。フランクリンが両手指先からの連射でレンガの角柱と奥の退路を砕き、シャルナークが針をしまって両手を空け、切り落とされた換気ダクトの濃い影の縁だけを踏み抜いて帆布バッグを被せに来た、あの一連の動き。
二人はただ力押しで距離を詰めてきたのではなかった。
琥珀色の光が差し込む帯の中でガラスの猟犬たちがどう動くか。らでんが右手で白い刀を振るっている間も、フックに掛けた吊灯の能力が途切れずに稼働し続けていること。さらに、刀身が通り抜けた支柱や換気ダクト、外階段の手すりが遅れて断ち切られ、自分たちの踏み込める足場そのものが一寸ずつ削られていくこと。そして何より、その二つの念具を同時に動かしている間、らでんがどちらの手にも『本』を持っていなかったこと。
戦いながらも、この二人は刀と灯の動きを見ていた。何を見せてしまったのか、らでんはあらためてその報告を聞いた。
「遅れて切れる刀に、光でガラスを動かす灯か。どちらも他人が遺した念――君自身が一から作った能力ではないんだな」
らでんは答えなかった。
背後のフランクリンは、さっき電話で『シャルが念を喰らった』と伝えていた。あの一言で、この刀の出所にも見当がついているのだろう。らでんは、白柄を握る指を動かさないようにした。
だが、ここで頷けば、それが次の問いの足場になる。らでんは唇を引き結び、視線だけをクロロに据えた。
「今朝、パクノダから話を聞いたよ。そこの二人が、前に君の館へ招かれたときのことだ」
クロロはゴンたちを一瞥した。
「品物の原本は館に保管されていて、君は本を開いて同じ品を手元へ取り出す。本を閉じたあとも取り出した品は消えないし、館の外で使うときには別の手続きをするそうだね」
糸を掛けられたゴンの指が、手の内へ折り込まれた。
その隣で、キルアが奥歯を噛み締め、眉根を寄せてクロロを睨みつけていた。
昨日、この二人が旅団に捕まったときのことだ。
パクノダ――人の記憶を読み取るという団員の能力で、以前らでんが《
あの日、らでんは二人に展示室を見せ、《
展示室のガラスケースの中に原本の刀を残したまま、分厚い台帳――《
二人が見たその光景が、パクノダを通じてすでにクロロの頭の中へ渡っている。
らでんは二人に視線を向け、首を横に振った。二人が自分から話したのではない。そのことまで、この男の説明に決めさせるつもりはなかった。
ゴンの大きく見開かれた瞳が、らでんの視線を受けてわずかに揺れる。二人がどれほど必死に口を閉ざしていても、記憶そのものを覗き込む能力の前では防ぎようがなかったはずだ。それなのに、まるで二人が情報を漏らしたかのように響く言い方で、あの子たちにこれ以上重荷を背負わせたくはなかった。
クロロの視線が、再びらでんへと戻る。
「だから君は、本を持たないまま戦えていたわけだ。たとえ君に本を閉じさせても、その刀の働きを止めたことにはならない。そういう理解でいいか」
静かな問いだった。
らでんの喉元で、呼吸がひとつ止まる。
今、ホテルで貸出の手続きを済ませたあとに閉じた《
姿を消した本をどう扱っても、シャルナークの胴に残った線がなくなるわけではない。そこを取り違えたまま刀を奪いに来られれば、この均衡はそこで崩れる。
今も、らでんの右手には刀の柄がある。二人を帰すために残したこの手を、意味のないものだと思わせるわけにはいかなかった。
「……本を閉じることと、貸出を終えることは別です」
シャルナークの命がかかっている以上、そこを取り違えさせるわけにはいかなかった。
それなのに。
「なるほど、貸出か。品を取り出すだけなら本で足りるのに、終わらせる手続きが別にある。取り出すための本と、取り出したあとも使わせる仕組みを、分けたのか」
クロロが考える間を置いた。
日陰のコンクリートの上に、張り詰めた沈黙が落ちる。
クロロは視線をわずかに落とした。パクノダから聞いた今朝の報告と、二人が見た戦い、らでんが口にした訂正。その三つをどう結び付けるつもりなのか。焦らず口を閉ざす相手を、らでんは見守った。
「君の本は、その一冊だけで完結していない。複数の仕組みを噛み合わせて動かしているな」
らでんは、その言葉を聞き逃すまいとした。
「まず、実物の原本を保管して、外へ出た品の力を支え続ける館。次に、記録からその品を呼び出して扱うための本。そしてもう一つ、本を閉じたあとも誰が何を持ち出しているかを管理し、館の外で貸出の状態を保つための能力だ」
自分の能力を説明しているような、迷いのない話し方だった。
他人の未知の能力を推測している人間の口調ではなかった。まるで、本という形をとった念能力がどういう制約に縛られやすく、それを克服するためにはどこにどんな補助の仕組みを噛ませる必要があるのかを、最初から自分の手で知り尽くしている人間のような言葉の選び方。
「その三つの仕組みの上に、今ここで動かしている刀と灯、二つの念が加わる」
クロロはらでんを見た。
「合わせて五つの念の同時運用か。クインティプルだな」
言葉を返せなかった。
目の前に出ているのは二品。その二品を使う間にも、館と録と収蔵出納は働いている。どれも、正しかった。
らでんの背中を、じわりと冷たい汗が伝った。
今、この空きスペースで目に見えている道具は、らでんの右手が白柄を握る《
けれど、その二つの死後念を館の外で同時に稼働させているこの瞬間も、裏では三つの仕組みが絶え間なく働き続けている。
ひとつは、実在する原本と念の核を収蔵庫に保ち、外へ持ち出された復元品を根底から支える基盤としての《
ふたつ目は、記録に基づいて品を復元し、その接続と使用管理を司る《
そしてみっつ目が、二枚の館外貸出票によって使用者と品を対応づけ、館の外での貸出状態を維持する《
館の正式な名を口にせず、書類を見もしないまま、問いがここまで届いている。外に出ている二品から、その下で働く仕組みへ。
「……今だけで、五つも?」
シャルナークが言った。クロロは彼へ視線を移す。
左手に帆布バッグを提げたシャルナークの目にも、かすかな驚きが浮かんでいた。搬入路で対峙していたとき、彼らが見ていたのはあくまで刀と吊灯という二つの道具だったからだ。その背後にさらに三つもの維持機構が重なっているとは、戦っていた当人たちでさえそこまでは整理しきれていなかったらしい。
「ただ本から能力を引き出すだけなら、そんな回りくどい分担は要らない。だが、館に原本を残して守らせ、外での貸出を別の能力に肩代わりさせれば、術者は本を閉じて両手を空けられる。お前達が報告してくれた、本を持たずに刀と灯を同時に操る戦い方は、その三つの仕組みがあって初めて成り立つものだ」
クロロの声は、仲間に種明かしをするように穏やかだった。
もし本から直接能力を引き出すだけの仕組みなら、術者は使用中ずっとその本を手に持ち、該当する頁を開き続けなければならないかもしれない。そうなれば片手は常に本で塞がり、右手で処刑刀を振るいながら左手で吊灯の光を差し向け、同時に周囲の足場を切っていくような立ち回りは不可能になる。
本を閉じて手放しても能力が消えないようにし、しかも原本を戦場で壊されないよう安全な館に残したまま、外で二つの道具を同時に扱う。シャルナークとフランクリンがあの搬入路で苦しめられた戦い方そのものが、なぜそんな複雑な三段構えの仕組みを作ったのかという答えになっていた。
らでんは、自分が何を答えたかを思い返した。
本を閉じることと、貸出を終えることは別。
訂正したのは、それだけだった。
今朝の報告に、その一行を重ねただけで、見えなかった役割の分かれ目を描き出されてしまった。
「それにしても、館に実物の原本を残しておく必要がある、というのも面白いね」
クロロの関心は、もう先へ進んでいた。
シャルナークの胴に残る線をどうするかという当面の問題から、彼の目はすでに離れている。どうやって五重の運用が成り立っているのかを見抜いたその足で、今度は「どうやって他人の念をその館へ収めるのか」という入り口の条件へと踏み込んでいた。
「噂や知識だけで何でも再現できる本ではないということだ。まず念の宿った実物を君自身が手に入れて、原本として館に収めておく必要があるんだろう」
「……それ以上は、お答えしません」
「構わないよ。少し考えさせてくれ」
そう言われて、背中が冷えた。
黙っていれば守れる、という話ではなくなっていた。
らでんが口を閉ざしても、クロロは少しも困った様子を見せなかった。返事のないまま考える時間さえ、初めから折り込んでいたように静かだった。
沈黙したら、しただけのことを読まれるのではないか。そんな気がして、らでんは唇を閉じる力を抜けなかった。
「ただ品物を手に入れて館へ置いただけでも、本から取り出せるようにはならないんじゃないか」
クロロは、らでんの返事を待たずに続けた。
「まず品物の形や傷を隅々まで調べる。何のために作られ、誰の手でどう使われてきたのかという来歴を知る。そこに残る念が何をするもので、どうすれば動くのかを確かめる。そして分かったことを、君自身の手で本へ記録する」
らでんは唇の内側を噛んだ。
硬い歯が粘膜に食い込み、じんわりと熱が滲む。顔色ひとつ変えてはいけないと分かっていても、胴の前で白柄を握る右手の指先に、思わず強い力がこもった。
実在する原本と念の核を確保して収蔵庫へ保管するだけでは、それを復元して使うことはできない。
形を調べ、記憶の断片をほかの記録と突き合わせ、働きを確認して録へ残す。使える状態へ至るため、らでん自身が一つずつ踏んできた手順だった。
クロロが口にしたのは、故人の遺した原本から初めて復元利用を解禁するためにらでんが定めている四つの条件――その大枠そのものだった。
「そこまで筋を通して初めて、本から復元して君の手で使える品になる。そんな条件を自分に課していそうだね」
「……パクノダさんが、そこまで?」
抑えきれずに、声が漏れた。
ゴンとキルアを館へ招いたとき、展示室で《
それなのに、なぜこの男は、まるで自分が横でその登録作業を見ていたかのように言い当てられるのか。
「いや、彼女の報告は入り口だけだ。ここからは、オレが美術館で君と話したことを思い出している」
クロロの目元が、わずかに和らいだ。
冷たい日陰の空きスペースで、その表情だけが、あの冬のリーネの美術館へ戻ったかのようだった。
「二人で見たあの絵の、切れた弦を覚えているか」
覚えている。
あの一本が気になって、誰かがさっきまで弾いていたのかと話した。青年が、絵の中の開かれた冊子へ目を向けさせてくれて、そこから棚の上と下の違いが見えてきた。
脳裏に、静かな冬の展示室の光がよみがえる。
立派な毛皮の上着や衣装をまとった二人の人物と、そのあいだの棚にずらりと描き込まれた数々の道具。らでんが最初に目を留めたのは、棚の下段に置かれた弦楽器の、一本だけぷつんと切れて途中で垂れ下がった弦だった。
筆が滑ったような線ではなく、切れた端がくるりと小さく丸まり、楽器の胴の上に細い影まで落としている。さっきまで誰かがここで弾いていて切れたところをそのまま描いたのだろうかとらでんが話したとき、隣に立った青年は『うまく鳴らないことを示すために、わざと切れた楽器を置いたのかもしれないよ』と返し、すぐ隣――絵の中の弦楽器の手前に置かれた、開いたままの冊子へと視線を導いてくれたのだ。
細かい文字と譜面のようなものがびっしり描き込まれたその冊子と、地球儀の脇で閉じきらない頁のあいだに四角い定規が栞のように挟まれた小さな本。
そこから、空や時間を測る道具が綺麗に整えて並べられた上の段と、傾いた地球儀や定規の挟まった本、切れた弦の楽器が置かれた下の段との違いが浮かび上がってきた。画面の左端で短剣の柄を握る指の節にわずかな力が入っている人物と、閉じた本の上に片肘を乗せてこちらを見ている右側の人物。
「君は描かれた道具の形だけでなく、それを誰がどんな手で使っていたのかを知りたがった。棚を挟んで立つあの二人についても、どんな暮らしや立場にある人間なのかを気にしていたね」
あのときは、話せば話すほど楽しかった。
自分ひとりで見ていたら、手元の道具に残る使用感にばかり目を奪われて、上の段と下の段の配置の違いにはすぐ気づかなかったかもしれない。逆に、らでんが持ち主の手の感触や暮らしぶりを想像して口にすると、青年もまた面白そうに耳を傾け、足元に描かれた奇妙な頭蓋骨や二人の立場について言葉を返してくれた。
三度出会う中で、互いの名前も、念能力者であることも明かさないまま、ただ一枚の絵や展示品を前にして言葉を交わす時間。自分が何を大切に見て、どこに心を動かされるのかを、説明しきる前に分かってくれる相手がいることが、あのときは純粋に嬉しかったのだ。
「あれだけ持ち主の手の跡や背景を大切にしていた君が、他人の遺した念を扱う能力を作るなら、まずその来歴を知ることを条件にすると思ったんだ。外見だけ似せればいい、便利な効果だけ引き出せればいい、という仕組みにはしないだろう」
クロロの静かな声が、胸の奥を直接撫でた。
らでんが古い品物や遺された念に向き合うとき、一番おろそかにしたくないと思っていたこと。それを誰が作り、どんな思いで使い、どういう経緯で今ここにあるのかを知ろうとすること。
美術館の展示室で楽しく語り合ったその価値観そのものが、今、この男の手の中で、らでんの能力の条件を割り出すための最も確かな手掛かりに変えられていた。
「……品物から調べたことが、そのまま全部正しいとは限りません」
言ってから、口を閉じた。
しまった、と思ったときには遅かった。
品物から読み取れる記憶の断片や、本人の主観的な思い込みが、そのまま事実とは限らない。だからこそ、知覚したものと解釈と裏付けられた事実を分け、不明な箇所を勝手に埋めないようにしている――その自分自身のルールを、反論のつもりの一言で裏付けてしまったのだ。
「だから、品物に残る断片だけで決めつけず、ほかの史料や記録と照らし合わせて裏を取る。君なら、そうするだろうね」
クロロは静かに返した。
違う、と言いたかった。けれど、この人が絵の前で見せた理解の早さを、らでんは知っていた。気持ちよく続きを話せた、その同じ早さで、今は守りたい場所へ近づかれている。
壁際で、キルアが小さく息を呑む気配がした。ゴンもまた、らでんとクロロの顔を交互に見つめながら、ただ事ではない空気の重さに唇を噛んでいる。二人を縛るマチの視線すら、わずかにクロロの横顔へと向いていた。
この男は、脅して自白を引き出しているのではない。
らでんという人間がどんな目で物を見、何を尊び、何を嫌うのか。あの美術館で共有した理解の深さをそのまま使って、館の仕組みの骨格を、外側から描き起こしていく。
「その袋で光を塞いだ灯も同じだ。光が届く場所でしか動かないような元の能力の条件も、君は都合よく消したりはしない。使い勝手の悪いところまで含めて、そのまま残そうとしているはずだ」
らでんは刀の柄を握る指に力を込めた。
白い鮫皮の凹凸が、掌の皮膚に深く食い込む。
《
元の術者が定めた発動手順や制限、使い勝手の悪さまで含めて、らでんはそれを勝手に作り変えたり消したりしない。それこそが遺された念に対する筋だと考えているからだ。
今朝の報告に、二人が見た戦い。その限られた材料から、元の条件を保つという姿勢にまで話が進んでいる。らでんは、袋で覆われた灯を見た。
「死者の遺した念にそこまで筋を通すのなら、もし生きている人間の能力まで扱える場合でも、まずは本人の了解を得ることから始めそうだな」
クロロが、さらに一歩踏み込んだ仮説を口にする。
『もし』と、彼は言った。どこまで確信があって尋ねているのか、分からない。ただ、死者の遺したものを調べる姿勢から、生きている人間とどう向き合うかにまで手を伸ばしてきた。その近さが怖かった。
これ以上、彼の思考の歩調に合わせて言葉を返していれば、まだ知られていない細部まで次々に輪郭を暴かれてしまう。
「……あなたの質問は、刀の安全を確かめるためだったはずです」
クロロは一度、口を閉じた。
「そうだったね」
短い沈黙が落ちた。
高い外壁の間を、乾いた風が通り抜けていく。
背後でらでんの右肘と左肩を押さえるフランクリンの掌は、ピクリとも緩まない。すぐ右隣に立つシャルナークは、自分の命を握る白い柄がらでんの右手にあることを知りながら、静かにクロロの次の言葉を待っている。
ここで返事をすれば、何が手掛かりになるのか。否定すれば、何が分かるのか。らでんには、もう簡単には選べなかった。
ただ、クロロの視線がらでんの拘束された腕や刀の柄から、らでん自身の存在そのものへと深く沈んでいくのを感じて、喉の奥が強く引き攣った。
「……ただ、そこまで手順を重ねるのなら、君は一つの品を使う前にずいぶん多くの手間を引き受けていることになる」
クロロが言った。
原本を手に入れ、形を調べ、来歴を照らし合わせ、作用と条件を確かめて本へ記録し、外へ持ち出すときにはさらに別の管理手続きを踏む。普通に一つの念能力を鍛えて振るうのに比べれば、気が遠くなるほど多くの段階と制約を、使う前の段階で自ら引き受けていることになる。
クロロの黒い瞳が、わずかに細められた。
「それでも、館と本を成り立たせてこれほどの仕組みを揃えるには、調べる手間だけでは足りないはずだ。君自身に、もっと重い条件を課していそうだね」
息を吸うのが、わずかに遅れた。
胸の奥が、ひゅっと冷たく縮み上がった。
言い当てられたわけではない。何を知っていて、どこから探りを入れているのかも分からない。
ゴンとキルアには、館と本を完成させるためにらでんが何を差し出しているかなど、一言も話したことはない。だからパクノダが二人の記憶からそれを読み取ったはずはなかった。
調べることや記録することより、さらに重い何か。そこへ話を向けられたのだと感じた。何を払ったかは言っていないのに、差し出したものの重みだけを測られている。
ここで少しでも目線を泳がせたり、言葉に詰まって言い訳を探したりすれば、それ自体が答えになる。
だから、それだけは答えなかった。
「その質問には、お答えしません」
らでんは、できる限り平らな声でそう言い切った。
クロロはしばらくらでんを見ていたが、やがて頷いた。
無理に聞き出そうとはしなかった。らでんがどの問いで言葉を濁し、どの問いで明確に拒絶の線を引いたか。その反応の温度差だけでも、彼の中では十分な答え合わせになったかのようだった。
「なるほどね。大体の輪郭は分かったよ。今ここで、無理に全部を聞く必要はなさそうだ」
らでんは顔を上げた。
「……何が、分かったというんですか」
「君の館と本が、どういう考え方で作られ、どう噛み合って動いているかだ」
クロロの声には、見通しを得た者の落ち着きがあった。
「仕組みの筋道が見えれば十分だ。あとは、こちらで確かめて、準備する」
らでんは、その言葉を頭の中で繰り返した。
『あとは、こちらで確かめて、準備する』。
なぜ、そんな言い方をするのだろう。
もし目の前の敵を無力化し、仲間のシャルナークに付いた刀の線を処理したいだけなら、言うべき言葉は『対策する』か『封じる』のはずだ。あるいは、館の中にどんな危険な武器や収蔵品が眠っているのか、その種類や数を吐かせようとするはずだ。
なのに、この男は最初から最後まで、そこを聞かなかった。
刀の威力でも、ガラスの獣が何体作れるかでもない。この男は、原本の入手、本への登録、他人の念を使える状態にする手順へ、話を集めていた。
さっき、彼が五重の仕組みを言い当てたときの、あの迷いのない口調が耳の奥で蘇る。
『取り出すための本と、取り出したあとも使わせる仕組みを、分けたのか』。
なぜ、本から能力を取り出す仕組みの不便さや、それを分ける意味に、あんなにもすぐ気づけたのか。
なぜ、他人の遺した念を本へ記録して使うための条件に、あれほど強い関心を示したのか。
冬の展示室で、青年と並んだ感覚が戻ってきた。物に残った誰かの手を追いたがるらでんに、彼は、物の配置や、それを見る人の動きまで教えてくれた。
互いの一言で、同じ絵が面白くなった。
あの絵の前で、二人は同じように細部を観察し、同じようにその背後にある構造や意図を読み解いていた。
けれど今は、知った先に何をしたいのかが、まるで違う。
らでんが品物の形や来歴を知ろうとするのは、それを遺した人の思いや背景を損なわずに預かり、収蔵するためだ。
ならば、幻影旅団の頭であるこの男が、他人の能力の『手に入れ方』と『使えるようにする条件』ばかりを確かめ、『あとはこちらで確かめて、準備する』と告げた理由は――ひとつしかない。
搬入路でフランクリンとシャルナークが、弾幕で退路を塞ぎ、シャルナーク自身の胴に処刑刀の刃を通されてまで、らでんを殺さずに生け捕りにした理由。
今朝パクノダから館の話を聞いたこの男が、網を張ってらでんをここへ連れて来させた理由。
すべての符合が、一本の冷たい線になってらでんの頭の中で繋がった。
「……あなた、他人の念を盗めるんでしょう」
クロロは、すぐには答えなかった。
空きスペースの空気が、一瞬で張り詰めた。
壁際で、キルアの目がハッと見開かれる。ゴンの呼吸が止まり、すぐ横のマチや、帆布バッグを提げたシャルナークの視線が、わずかに鋭さを増してらでんへと集まった。
その中心で、クロロだけが表情をひとつも動かさずに問うた。
「なぜそう思う?」
「刀の安全を確かめたあとも、あなたの質問は、どう手に入れて、どんな条件を満たせば使えるのかという手順へ向かっていたからです。本で他人の念を扱う不便さまで、まるで自分で知っているみたいに話していた。美術館で会った時もそうです。興味の向かう先は私とびっくりするほど似ていたのに、最後に向いている方向が違いました」
クロロの視線は、らでんから動かなかった。
自分の能力がどんなものか、どういう条件で他人の念を奪うのか、彼自身の口からは何ひとつ語らない。けれど、らでんの言葉を否定しようともしなかった。
「それに、あなたが欲しがっているのは、この手にある刀でも、その袋の灯でもありません」
何が収蔵されているかよりも先に、なぜそれを使えるのかを確かめている。その順番に、ようやく意味が見えた。
もし処刑刀や吊灯という個別の道具が欲しいだけなら、その道具自体の奪い方や使い方を聞けばいい。けれど彼が掘り下げていたのは、原本を保管する館と、記録から復元する本と、外での使用を管理する仕組み――つまり、らでん自身が持つ根幹の能力の方だった。
「……だから私を生け捕りにしたんですね。目当ては私の能力そのものだ。館と本を動かす仕組みごと奪って、収蔵している品まで全部、自分のものにするつもりなんですね」
クロロは、肯定も否定もしなかった。
ただ、静かな黒い瞳が、らでんから動かない。その読みを確かめる答えは返ってこなかった。
その沈黙を前にして、らでんの胸の奥から、恐怖よりもずっと強く、熱いものがせり上がってきた。
あの館の品は、一つずつ調べ、預けてくれた人たちと話して、ようやく扱えるようになったものだ。この男が欲しがっているのは、その先で自分が使うための力なのだと思った。
誰かが大切な人に宛てて投函した手紙の思いも、家族の時間を守ろうとした暦の記録も、処刑刀や吊灯に刻まれたそれぞれの来歴も。らでんにとっては、どれひとつとして単なる『便利な道具のコレクション』ではない。手間をかけて調べ、記録し、重い誓約を引き受けてでも残しておきたいと願った、誰かの生きた痕跡だ。
それを、仕組みごと根こそぎ奪い取って、自分の手札として引き出せるようにする。
どれほど絵を見る目が似ていても、どれほど同じ速さで物の仕組みを理解できたとしても、そこだけは絶対に相容れない。
背後からフランクリンの大きな手に押さえつけられ、両腕を拘束帯で縛られたまま、らでんは胴の前で《
らでんは、青年から目を逸らさなかった。
青年も、らでんから目を離さなかった。