グゥーッ、という低く長い音が、ビスカ森林公園の澄んだ空気を震わせた。
八十キロの地下トンネルと、霧のヌメーレ湿原を抜けてきた百四十八名の受験者たちが、開かれた鉄門の向こうで一斉に顔をしかめる。誰かの腹の虫にしては、あまりにも図太く、地面の底から響いてくるような音量だった。
会場の脇へサトツと並んで一歩下がったらでんは、赤いソファの前でバツが悪そうに頭をかいている巨漢の青年――ブハラを見上げて、思わず口元を緩めた。
「あはは、ごめんごめん、メンチ。昨日から試験の準備で何も食べてなくてさー」
「ったく、あんたのお腹の音でせっかくの威厳が台無しじゃないの」
メンチが額に手を当ててため息をつく。
けれど、その声には本気の苛立ちはない。日頃からコンビを組んで各地の食材を探し回っている相棒への、手慣れた呆れ顔だった。
らでんは二人から少し離れた運営側の待機位置に立ちながら、建物の前に広がる異様な光景へとあらためて目を走らせた。
手入れの行き届いた芝生の奥、白い石造りの本館の前には、屋根のない巨大なテラスのような空間が設けられている。そこにずらりと並んでいるのは、武闘場のリングでもなければ、罠が仕掛けられた迷路でもない。磨かれたステンレスの調理台と、レンガ造りの大きな石窯、水道が引かれたシンク、そして何十組もの鍋やフライパンが吊るされたオープンキッチンだった。
(すごい設備だなあ。森の真ん中に、いきなり大レストランの厨房を丸ごと持ってきたみたいだ)
一番手前の調理台の端には、用途の違う包丁が何本も綺麗に並んだ木製のスタンドまで置かれている。刃物の峰の厚みや柄の鋲の打ち方を見るだけで、協会の備品係が適当に買い集めた安物ではなく、プロの料理人が日常的に手入れしている道具だと分かった。
やがて受験者たちの間から、ひとりの大男が荒い鼻息とともに一歩前へ進み出た。
丸太のように太い首に、道着の袖をちぎったような荒々しい装束。胸には『255』の番号札が光っている。
「おい、試験官はこの二人で間違いねえんだな? さっさと二次試験の内容を言えよ!」
男が顎をしゃくって怒鳴ると、メンチは組んでいた腕を解き、すらりとした足で調理台の前へと歩み出た。受験者たちの視線が、ピンク色の髪を結い上げた小柄な彼女の全身へ突き刺さる。
「ずいぶん威勢がいいじゃない。言われなくても教えてあげるわよ」
メンチは片手を腰に当て、百四十八名の顔ぶれを端から端まで見渡してから、よく通る声で告げた。
「二次試験の課題は――『料理』よ!」
一瞬の沈黙のあと、会場のあちこちから間の抜けた声が漏れた。
「……は? り、料理だぁ?」
「おいおい、聞き間違いじゃねえだろうな!」
「なんでハンター試験に来てまで、飯なんか作らなきゃならねえんだよ!」
ざわめきはすぐに不満と嘲笑の混じった怒号へと変わった。
列の中ほどにいたサングラスの青年――403番のレオリオも、「料理だと!? 冗談じゃねえぞ!」と目を剥いている。その隣では、緑のジャケットを着たゴンと銀髪のキルアが顔を見合わせ、金髪のクラピカが考え込むように顎へ手を当てていた。
「何か文句でもありそうね」
メンチは騒ぎ立てる男たちを冷ややかな目で見返し、顎をわずかに上げた。
「言っておくけど、私とブハラは『美食ハンター』よ。二次試験の試験官が私たちである以上、私たちが納得する料理を作ってもらう。これ以上に分かりやすい試験があるかしら?」
「び、美食ハンター……?」
「なんだよそれ、ただのグルメ気取りかよ」
受験者たちの何人かが、露骨に鼻で笑った。
すぐ隣に立つサトツは表情一つ変えずに前を見据えていたが、らでんは思わず苦笑いを噛み殺した。
(あーあ。メンチさんの前でその言い方は、一番やっちゃいけないやつなのに)
第279期の試験を一緒に走ったときから、メンチがどれほど『食』に対して並外れた執念と誇りを持っているか、らでんはよく知っている。古い美術品や遺物を「ただのガラクタ」と呼ばれたら、らでんだって笑顔のままではいられない。それと同じで、彼女にとって料理や食材は、命を懸けて向き合う専門領域そのものなのだ。
メンチの眉がピクリと跳ね上がるより早く、その後ろからブハラがドシン、と地面を揺らして一歩前へ出た。
「まあまあ、メンチ。まずはオレの方からいこうよ」
ブハラが丸太のような腕を広げてにっこり笑うと、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「二次試験の前半は、オレが指定する料理を作ってもらうよ。それがクリアできたら、次はメンチの課題ね。両方とも合格した人だけが、二次試験を通過できるからね」
「前半と後半があるのか……それで、お前の指定する料理ってのは何だ?」
255番の大男が腕を組んで睨みつけると、ブハラは自分の大きなお腹をポンと叩いた。
「『豚の丸焼き』だよ」
「……ぶ、豚ぁ?」
「うん。このビスカ森林公園の中にいる豚なら、どんな種類でもいいよ。そこの調理場にある道具で丸焼きにして、オレが食べて満足したら合格ね」
ブハラのあまりにも大雑把で人の良さそうな注文に、受験者たちは呆気に取られたように顔を見合わせた。
「森にいる豚を捕まえて、ただ丸焼きにすりゃいいのか?」
「なんだ、料理って言うから面倒なもんかと思ったら、要するに狩りじゃねえか!」
途端に、腕に覚えのある武闘家や賞金稼ぎたちの顔に生気が戻った。獲物を仕留めて火で炙るだけなら、野営の延長のようなものだ。
「制限時間は、オレが満足してお腹いっぱいになるまで。それじゃあ、二次試験スタート!」
ブハラが片手を挙げて合図を送るなり、百四十八名の受験者たちは雪崩を打ったように会場の門を飛び出し、周囲に広がるビスカの森へと一斉に駆け込んでいった。
砂埃が舞い上がり、あっという間に広場から人影が消える。
静かになった調理場の前で、メンチが「ふう」と息を吐き、らでんとサトツの方へ歩いてきた。
「まったく、どいつもこいつも失礼しちゃうわね。美食ハンターをなんだと思ってんのよ」
「まあまあ、メンチさん。一般の受験者からすれば、ハンター試験の会場にこんな立派な厨房が用意されているだけでも驚きでしょうから」
サトツが穏やかに取りなすと、メンチは肩をすくめて、隣のらでんの顔を覗き込んだ。
「ねえ、らでんもそう思うでしょ? 食材を獲るところから始まって、どう火を通して、どう皿の上へ仕上げるかまでが全部つながってるのにさ」
「分かりますよ。食べるものには、あの頃から妥協しませんでしたもんね」
「当たり前でしょ」
即座に返ってきた声に、らでんは笑ってしまった。初めて会った地下の待機場でも、飛行船の食堂でも、食べるものの話になるとこんな調子だった。
「飛行船のスープも、一口で塩が強いって。最初に会ったときのお菓子なんて、油が古いって文句を言いながら、ちゃんと最後まで食べてましたし」
「そりゃ言うわよ。味は気になるし、食べ物を捨てる方が嫌だもの。……そういうあんただって、坑道で古い標識にかじりついてたじゃない」
「私ですか?」
「採掘区画の番号がどうとか、壁の補修がどうとか。こっちは、どっちへ行くのか聞いてるのに」
「だって、道を選ぶ手がかりですから! どこが使われてたか、分かるかもしれないんですよ」
「分かった、分かった。そういう顔。その話になると止まらないの、昔からね」
「あはは、お互い様じゃないですか」
二人が顔を見合わせて笑うと、横で聞いていたブハラが「へえ、二人は同期なんだ。道理で息が合ってるわけだね」と目を細めた。
「ええ。同じ年に合格した仲なんです。……ところでブハラさん、このビスカの森にいる豚って、普通の野生の豚じゃないですよね?」
らでんが森の方へ視線を向けて尋ねると、ブハラは太い人差し指を頬に当てて、楽しそうに笑った。
「あ、やっぱり分かる? 実はこの森の豚、一種類しかいないのよー」
「一種類だけ、ですか」
「ええ。世界一凶暴な肉食豚、『グレイトスタンプ』よ」
メンチがニヤリと唇の端を吊り上げた。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、森の奥からドォン! バキバキッ! と大木がへし折れるような凄まじい破壊音と、男たちの悲鳴が響いてきた。
(……肉食の豚! ブハラさんが『どんな種類の豚でもいい』って言ったの、そういうことか!)
嘘は言っていない。一種類しかいないのだから、どれを捕まえても必然的にその凶暴なスタンプを相手にする羽目になるのだ。先ほどの大らかそうな笑顔の裏で、ブハラもしっかり二次試験官らしいハードルを用意していたらしい。
それから十分も経たないうちに、森の入り口の茂みが大きく揺れ、最初の受験者たちが姿を現した。
先頭を走ってきたのは、ゴンとキルア、クラピカ、レオリオの四人だ。そしてその後ろからも、巨大な豚の胴体を肩に担いだり、地面を引きずったりした受験者たちが次々と戻ってくる。
「うわ、でっかい……!」
らでんは運ばれてきた豚の姿を近くで見て、思わず目を丸くした。
体長はゆうに二メートルを超えている。しかも鼻先から額にかけて、まるで鉄の兜か衝角のような分厚い骨のコブが隆起しており、口元からは鋭い牙が突き出ていた。普通の武器で正面から斬りかかっても、あの鼻先の装甲に弾き返されてしまうだろう。
けれど、ゴンたちが運んできたスタンプを他の受験者たちの獲物と見比べてみると、どれも同じ場所――その分厚い骨のコブのすぐ後ろ、額の真ん中あたりに強い打撃を受けた跡があった。
「なるほど。正面の硬いところじゃなくて、額の急所を見抜いたんですね」
「ええ。どなたか一人でも弱点に気づけば、周囲の受験者もそれに倣うでしょうから」
サトツが静かに頷く。
らでんは、釣り竿を背負い直して額の汗を拭っているゴンの方へ目をやった。誰かに教わったというより、森の中で実際に獲物の動きを見て、一番柔らかい場所を自分の感覚で引き当てたのだろう。
そこから先の調理場は、さながら戦場のような騒がしさになった。
百人近い受験者たちが一斉に石窯や焚き火台へ薪をくべ、巨大な豚を鉄串に刺して焼き始める。パチパチと爆ぜる火の音と、脂が焦げる香ばしい匂い、そして黒い煙が広場いっぱいに立ち込めた。
らでんは審査の邪魔にならないようテラスの端を歩きながら、受験者たちの手つきを興味深く眺めた。
ただ「丸焼きにする」というだけの単純な課題なのに、やり方には驚くほど性格が出る。
255番の大男や血の気の多い連中は、とにかく早く焼き上げようと薪を山盛りに放り込み、炎をボーボーと立ち上げている。そのせいで豚の表面は見る間に真っ黒な炭になっていくのに、分厚い皮の下からはまだ赤い肉汁が滲んでいた。
一方で、クラピカは火床の炭を均等にならし、鉄串の高さを一段上げて、遠火でじっくりと熱を通そうとしている。隣のレオリオは「おい、そんなに離したら日が暮れるだろうが!」と文句を言いながらも、自分の豚が焦げかけると慌ててクラピカの真似をして串の位置を直していた。
(ふふ、丸焼きって実は一番ごまかしが効かないんだよね。あれだけ塊が大きいと、外側の脂を落としつつ芯まで熱を入れるのに、ずっと串を回してないといけないし)
古い祭礼の記録や民族誌で、牛や豚の丸焼きの記述を読んだことがあるけれど、実際こうして目の前で何十頭も一斉に焼かれている光景は壮観だった。
やがて「焼けたぞ!」「食ってみろ!」と、最初の数人が大皿に乗せた豚の丸焼きをブハラの前のテーブルへと運んでいった。
表面が黒焦げになった豚を前にしても、ブハラは嫌な顔一つせず、「じゃあ、いただきます」と両手を合わせた。
次の瞬間。
ブハラは巨大な豚の両端を素手で掴むと、大口を開けて、ガブリ! と胴体の真ん中へそのまま食らいついた。
バキバキッ、ゴリッ、と太い肋骨ごと肉を噛み砕く音が響く。
受験者たちが呆然と立ち尽くす前で、ブハラはわずか数口で二メートル近い豚を丸ごと胃袋へ収め、最後に残った太い骨までポリポリとスナック菓子のように噛み砕いて飲み込んでしまった。
「……うん、うまい! 合格!」
ブハラが笑顔で丸印の札を掲げると、豚を出した受験者が「お、おお……!」と引きつった顔でガッツポーズをする。
らでんも思わずサトツと顔を見合わせた。
「サトツさん。いま、骨まで全部いきませんでした?」
「いきましたね。スタンプの骨は相当硬いはずですが……なんというか、気持ちのいい食べっぷりです」
それからも、ブハラは運ばれてくる豚を片っ端から平らげていった。
表面が焦げていようが、中が半生だろうが、ブハラは「うん、これも歯ごたえがあってうまい!」「こっちは香ばしくていいね!」と次々に丸札を上げていく。二十頭、三十頭と食べ進めても、その丸々としたお腹は少しも苦しそうにならない。
やがて数十人目の豚を綺麗に食べ終えたところで、ブハラは「げぷっ」と大きなおくびを一つ漏らし、満足そうに自分のお腹をさすった。
「ふう……ごちそうさまでした! もー、お腹いっぱい!」
ブハラが立ち上がり、まだ調理台で豚を焼いていた残りの受験者たちへ向かって両手を合わせた。
「悪いけど、これで前半の課題はおしまいね。いま合格札をもらった七十名ほどの人が、後半のメンチの課題へ進むよ!」
『な、なんだと!? こっちは火加減を丁寧に見てたんだぞ!』
『生焼けのやつが通って、なんで俺たちが落ちるんだよ!』
間に合わなかった受験者たちが悔しそうに声を上げたが、ブハラが「制限時間はオレが満足するまでって、最初に言ったよね」と穏やかに返すので、それ以上は言い返せない。要するに、多少大雑把でもブハラの胃袋が埋まる前に出し切る早さと判断力が求められていたのだ。
一方で、あっさりと合格札を手にした残りの受験者たちの間には、あからさまな安堵と慢心の空気が広がっていた。
『なんだよ、美食ハンターって言っても、結局ただの大食いじゃねえか』
『これなら後半の姉ちゃんの課題も、適当に作って出せば通るだろ』
そんな軽口が、調理場のあちこちから聞こえてくる。
だが、らでんは知っている。
ソファからゆっくりと立ち上がったメンチの目が、さっきよりもずっと冷たく、細く絞られていることを。
◇ ◇ ◇
カツ、カツ、とメンチのヒールの音が石畳に響き、調理場の中央にあるメインテーブルの前で止まった。
ブハラが「それじゃ、メンチ。あとは頼むね」と一歩後ろへ下がる。お腹がいっぱいになってすっかり眠そうな相棒とは対照的に、メンチの全身からは、研ぎ澄まされた刃物のようなピリピリとした気配が放たれていた。
「前半を通過したあんたたち、ずいぶん余裕そうね」
メンチは腕を組み、合格札を手にして笑っている受験者たちをぐるりと見渡した。
「言っておくけど、ブハラと同じ感覚で私の課題を通れると思わないことね。私は味にも、見た目にも、料理への向き合い方にもうるさいわよ」
メンチがパチンと指を鳴らすと、会場の奥の搬入口から、協会のスタッフたちが大きなワゴンを何台も押して出てきた。
ワゴンに積まれているのは、氷が敷き詰められた木箱に並ぶ新鮮な魚介類と、大きな麻袋に入った白米、そして小瓶に入った酢や醤油、塩、奇妙な形をした緑色の根茎、黒い四角い乾物などだった。
「後半の課題を発表するわ。私が食べる料理は――『スシ』よ!」
メンチの声が響いた瞬間、調理場の空気がピタリと止まった。
一拍遅れて、受験者たちの間から「……スシ?」という困惑の呟きが一斉に漏れる。
「おい、スシって何だ?」
「聞いたことねえぞ。どこの国の料理だ?」
「豚の丸焼きの次は、名前も知らねえ謎のメニューかよ!」
さっきまで余裕を見せていた男たちが、一気に血相を変えて周囲を見回し始める。
らでんはテラスの柱のそばで、思わず自分の頬を指先で押さえた。ここで笑ったり頷いたりしたら受験者へのヒントになってしまうけれど、メンチがよりによってこの課題を選んだ理由が、痛いほどよく分かったのだ。
(うわあ、そこを出してくるんだ! 確かにこれ、材料だけ見ても作り方を知らないと絶対に同じ形にならないやつだ)
らでん自身は、文化財の調査で東方の島国――ジャポン出身の職人や研究者とやり取りすることも多く、メンチとも以前、港町の寿司屋で一緒にカウンターに並んだことがある。だから「スシ」が何を指しているかはすぐに見当がついた。隣のサトツも、世界中の古文書や風俗に通じている遺跡ハンターらしく、「ほう、あの島国の伝統料理ですか」とごく小さな声で呟いている。
けれど、大陸の各地から集まった受験者たちにとっては、名前すら耳馴染みのない未知の料理なのだ。
「質問は受け付けないわ。そこにある食材と調理器具を使って、制限時間内に私が満足する『スシ』を作って出しなさい。……始め!」
メンチがストップウォッチを押すと、受験者たちは慌ててワゴンの周りへと殺到した。
そこからの調理場の光景は、らでんにとって、申し訳ないけれどお腹の底がむず痒くなるほど面白いものだった。
みんな「スシ」が何なのか分からないまま、置かれた食材から必死に推理を働かせているのだ。
まず、404番のクラピカと403番のレオリオ、そしてゴンとキルアの四人が集まっている調理台。
「スシ……確か、どこかの文献で目にした記憶がある。たしか『魚』と『米』を使った料理だったはずだ」
「お、本当かクラピカ! よし、魚と米だな!」
クラピカが記憶の糸を辿って呟くと、レオリオが勢いよく魚と米を鷲掴みにした。そこまでは実にいい線を行っている。
ところが、その先の工程で四人の手は完全に別々の方向へと迷走し始めた。
ゴンは普段から魚を捌き慣れているらしく、出刃包丁を持つ手つきだけは驚くほど堂に入っている。大きな魚の鱗を引き、頭を落として三枚におろすまでのスピードは、そこらの料理人顔負けだ。
(おっ、ゴン君、包丁の使い方がすごく上手い。背骨の上に刃を滑らせる角度にぜんぜん迷いがないな)
らでんが感心して見ていると、ゴンはその綺麗に捌いた魚の切り身を、なんと炊き上がったばかりの熱々の白米が入ったボウルへそのままドサッと放り込み、大きな木べらでグルグルとかき混ぜ始めたではないか。
「ゴン、それ何作ってんの?」
「え? 魚とご飯を合わせるんだから、よく混ぜた方が味が馴染むかなって!」
「いや、それただの猫まんまじゃん。オレはこっちで行くね」
隣のキルアはといえば、まだ生のままの魚のお腹を包丁で開き、その中に炊いたご飯と緑色の根茎――ワサビを丸ごと一本、無理やりギュウギュウに詰め込んでいる。それをフライパンに乗せて、上から酢をドボドボとかけ始めた。
「……サトツさん。あちらの99番の少年、なんだかすごい創作料理になってますね」
「ええ。詰め物料理としては合理的ですが、メンチさんの前に出たときの反応が少々恐ろしいですね」
らでんとサトツがヒソヒソとそんな会話を交わしていると、別の調理台の方で、ひとりだけ異様な挙動をしている受験者が目に入った。
スキンヘッドの頭をてかてかと光らせた、294番のハンゾーだ。
ハンゾーはワゴンの食材を見るなり、「よしっ!」と小さく拳を握りしめ、他の受験者たちから背中を隠すようにして調理台へ張り付いた。米を炊き、うちわで扇ぎながら酢と塩、砂糖を混ぜてシャリを作り、慣れた手つきで魚を薄く切りつけていく。
明らかに正解を知っている手つきだ。
ところが、ハンゾーは作業をしながら、周囲の受験者たちが「スシってのはスープの名前じゃねえか?」「いや、米をすり潰して魚に塗るんだ!」と奇想天外な調理をしているのが気になって仕方がないらしい。
魚を切る手を止めては、隣の調理台で米と魚をミキサーにかけている男をチラ見し、自分の頬を引っ叩いて「いかんいかん、黙ってれば俺一人だけ合格できるんだぞ……!」とブツブツ独り言を言っている。
(あはは、294番さん、顔に全部書いてある。地元の料理を変なふうに作られてるのが、見てて我慢できないんだろうなあ)
自分の専門分野や故郷の文化を目の前でめちゃくちゃに解釈されていると、黙っていれば得だと分かっていても、つい「そうじゃない!」と口を出したくなる。その気持ちは、らでんにも痛いほどよく分かった。
案の定、三分も経たないうちに限界が来た。
隣の受験者が「スシっていうくらいだから、酢の中に生の米と魚の頭を漬け込む保存食に違いねえ!」と叫んだ瞬間、ハンゾーが包丁をバン! とまな板に叩きつけた。
「ちがーうっ!! お前ら、いい加減にしろ! スシってのはな、酢を混ぜた飯を一口大に握って、その上に生の魚の切り身を乗せた料理のことだ!!」
調理場全体の動きがピタリと止まり、全員の視線がハンゾーへ集中した。
「……あっ」
ハンゾーが両手で自分の口を塞いだが、もう遅い。
『な、なんだって!? 握った飯の上に、生の魚を乗せるだけか!?』
『おい、いまのスキンヘッド、作り方を知ってるぞ!』
『よし、みんなあいつと同じ形にしろ!!』
受験者たちが一斉に自分の鍋やフライパンを放り出し、ハンゾーの手元を覗き込みながら米を握り始めた。ハンゾーが「くそーっ、俺のバカバカ!」と頭を抱えて地団駄を踏んでいる。
らでんは吹き出しそうになるのを堪えながら、メインテーブルの後ろに座っているメンチの方へ目を向けた。
これで全員が「握り寿司」の形には辿り着けるはずだ。
けれど、メンチの表情は少しも和らいでいなかった。むしろ、ハンゾーの言葉を聞いて「なんだ、ただ乗せるだけか」と笑いながら雑に米を丸め始めた受験者たちを見て、その瞳の温度がさらに一段冷え込んでいくのが見えた。
「できたぞ! これがスシだろ!」
一番乗りの男が、皿の上にソフトボールほどもある巨大な米の塊を二つ並べ、その上にぶつ切りにした魚の身をドンと乗せてメンチの前へ突き出した。
メンチは箸を手に取ることさえせず、皿を一瞥しただけで手で払いのける仕草をした。
「マズそう。持っていきなさい」
「なっ……食べてみねえと分からねえだろうが!」
「食べるまでもないわ。湯気の出てる熱いご飯に、そんな分厚い刺身を乗せてどうすんのよ。魚の脂がぬるく溶けて生臭くなってるのが、見ただけで分かるわよ。不合格!」
メンチの声は鋭く、一切の妥協がなかった。
そこからは、文字通りの惨状だった。
次々に皿が運ばれてくるが、メンチはほとんど口をつけない。
「シャリを強く握りすぎ。おにぎり作ってんじゃないのよ、やり直し!」
「あんた、包丁をノコギリみたいに前後に動かして切ったでしょ。魚の断面がボロボロじゃない、ダメ!」
「ワサビをどれだけ塗ってるのよ! 舌を麻痺させる気!? 論外!」
レオリオが「どうだ!」と自信満々に出した皿も、米粒が潰れて餅のようになっていたせいで「形だけ真似ても無駄よ」と一蹴され、レオリオが「くそっ、何が違うんだよ!」と頭をかきむしりながら調理台へ戻っていく。
続いてクラピカが、大きさも形も綺麗に揃えた皿を出した。けれど、彼は魚の色味を整えるために表面を軽く湯引きし、酢飯の中にも刻んだ香味野菜を混ぜ込んでいた。
「……理屈っぽくて食指が動かないわね。知らない料理を自分の知識で勝手にアレンジする前に、まず基本のバランスを見極めなさい。不合格」
「くっ……そうか、余計な手を加えすぎたか」
クラピカが唇を噛んで引き下がる。
ゴンとキルアが出した皿も、「魚のおろし方は悪くないけど、ご飯がベチャベチャよ!」「そっちの銀髪、ふざけてワサビの塊を隠してるんじゃないわよ!」と秒速で突き返された。
らでんは少し離れた場所から、メンチが皿を見るたびに見せる細かな視線の動きをじっと観察していた。
受験者たちからすれば、メンチがただ難癖をつけて全員を落としているように見えるかもしれない。
けれど、近くで見ているらでんには、彼女が何を見ているのかが分かった。
メンチは皿が置かれた瞬間、まず酢飯の粒の立ち方とツヤを見ている。次に、魚の切り身の角がピンと立っているか、包丁を入れたときに細胞を潰して水気が出ていないかを見る。そして、持ち上げたときにほろりと崩れるだけの空気が握りの中に含まれているかどうかを確かめているのだ。
(メンチさん、本当に『スシ』っていう料理の仕組みそのものを見てるんだな。ただ米と魚が重なってればいいんじゃなくて、どうしてその形になったのかっていう職人の技まで求めてる)
受験者たちは、皿を突き返されるたびに調理台とメンチの顔を見比べている。彼女がどこへ目を留め、何を確かめているのか。戸惑う顔を見ていると、その隔たりはなかなか埋まらないらしかった。
「……おい、道を開けろ。本場のスシってやつを見せてやる」
そこへ、満を持してハンゾーが皿を捧げ持って進み出た。
らでんも思わず身を乗り出して、ハンゾーの皿を見た。
白木の皿の上に、赤身と白身の握りが二貫ずつ、小ぶりで整った形で並んでいる。酢飯のツヤもいいし、魚の切りつけも今までの受験者たちとは比べものにならないほど綺麗だ。
メンチもその皿を見て、初めて「ほう」と眉を動かし、割り箸を手に取った。
調理場中の受験者たちが、固唾を呑んでメンチの手元を見守る。ハンゾー自身も、後ろで腕を組みながら「フッ、さすがの試験官もこれには文句があるまい」と言わんばかりに得意げに顎を上げていた。
メンチは赤身の握りを一貫つまみ上げ、口へと運んだ。
一拍、二拍。
静かに咀嚼していたメンチの眉根が、ピクリと寄った。
「……シャリが硬いわね」
ハンゾーの顔から、スッと余裕の笑みが消えた。
「えっ?」
「酢の合わせ方は悪くないけど、周りに作り方を知られた焦りが出てるわ。握るときに指の力が入りすぎて、口の中で米がほどけない。それに、こっちの白身は包丁の引きが甘くて筋が残ってるわよ」
メンチは箸をカチャンと皿の上に置き、冷然と言い放った。
「この程度で本場の味気取り? 私の舌を満足させるには十年早いわ。――不合格!」
「そ、そんなあぁぁっ!!」
ハンゾーが頭を抱えてその場に膝をついた。
その瞬間、会場の空気が決定的に凍りついた。
正解を知っていて、しかも一番まともな腕を持っていたはずのハンゾーすら落とされたのだ。残された受験者たちが顔色を変え、それでもヤケクソになったように二度目、三度目の皿を運んでいくが、もはやメンチは皿を見るなり「ダメ!」「論外!」「ブハラ、食べて!」と横へ流すばかりだった。ブハラが「あ、まだ少し入るよ」とパクパク食べていくのを横目に、メンチの苛立ちはどんどん募っていく。
らでんは隣に立つサトツと、静かに視線を交わした。
「……サトツさん。メンチさん、完全に自分の専門のスイッチが入りきっちゃってますね」
「ええ。受験者の方々も、次第に余裕をなくしておられます」
サトツの声にも、わずかな憂慮が滲んでいた。
ここで自分たちが割り込むつもりはない。審査を担当しているのはメンチとブハラだ。
けれど、調理場に充満し始めている受験者たちの苛立ちと、メンチの張り詰めた気配がぶつかり合う温度は、すでにただの不満の域を超えつつあった。
らでんは無意識のうちに、上着の内ポケットに収めた折り畳み扇子の硬い感触を、肘の内側でそっと確かめていた。
やがて、ストップウォッチのアラームがピピピッ、と無機質な音を立てて鳴り響いた。
最後の受験者が差し出した皿を「ダメ!」と突き返したメンチが、テーブルの前で立ち上がり、静まり返った会場を見渡した。
「制限時間終了! これにて二次試験の審査をすべて打ち切るわ!」
メンチは腕を組み、凍りつくような声で宣言した。
「二次試験の合格者は――ゼロよ! 全員、不合格!!」
◇ ◇ ◇
一秒ほどの空白のあと、調理場全体が爆発したように揺れた。
『ぜ、全員不合格だとぉ!?』
『ふざけるな! そんな試験があるか!!』
『名前も知らねえ料理を作らせて、誰も通さねえつもりだったのかよ!』
怒号とともに、何十人もの受験者たちが調理台を蹴飛ばし、メンチの立つメインテーブルへと一斉に詰め寄った。
「落ち着け、まだ何か条件があるのかもしれない……!」
クラピカが周囲を制しようとするが、レオリオでさえ「冗談じゃねえ、あんなもん最初から通す気なんかねえただの嫌がらせじゃねえか!」と顔を真っ赤にして叫んでいる。
メンチは詰め寄る男たちを前にしても、一歩も退かなかった。
「嫌がらせですって? あんたたちが未知の課題に対して、どれだけ浅い工夫と雑な手つきで向き合ったか、自分の胸に聞いてみなさいよ! そんな連中を一人だってハンターにするわけにはいかないわ!」
ガシャァン!!
その声をかき消すように、最前列にいた255番の巨漢が、目の前のステンレスの調理台を両拳で力任せに叩き潰した。
分厚い天板がベコリとへこみ、上に乗っていた皿やボウルが石畳へ散乱する。
「いい加減にしろよ、小娘がぁっ!!」
255番の男は、顔をどす黒く紅潮させ、血管の浮き上がった太い指でメンチの鼻先を指差した。
「俺たちはなあ、ハンターになりに来てんだ! 命懸けで戦ったり、秘境を踏破したりするためにここへ来てんだよ! てめえらみたいな『美食ハンター』だか何だか知らねえが、台所で鍋の番でもしてるような連中と一緒にすんじゃねえ!!」
会場のざわめきが、男の怒鳴り声のあまりの剣幕に呑まれて一瞬だけ引いた。
だが、男は止まらない。
「たかが飯ごときで偉そうに講釈垂れやがって! 美食ハンターなんてのはな、本物のハンターの足元にも及ばねえ、ただの料理好きの道楽だろうが!!」
その言葉が落ちた瞬間。
らでんの肌を、氷水でも浴びせられたような鋭い冷気が撫でた。
テーブルの向こうに立つメンチの顔から、怒りの赤みがスッと消えていた。代わってその瞳の奥に灯ったのは、言葉で言い返す段階をとうに通り越した、純粋で冷酷な『殺意』だった。
「……いま、なんて言った?」
メンチの声は、驚くほど低く、静かだった。
当の255番の男は、メンチが怯んだとでも思ったのか、さらに獰猛な笑みを浮かべて一歩前へ踏み込んだ。
「何度でも言ってやるよ! 料理なんかで俺たちを落とすなら、力ずくでそのふざけた採点を取り消させてやる!!」
男が地面を蹴り、丸太のような右拳を振り上げて、テーブル越しのメンチへと真っ直ぐに襲いかかった。
その瞬間――メンチの姿が、テーブルの前から消えた。
いや、消えたのではない。
男が拳を振り下ろすよりはるかに速く、メンチは脇のスタンドから柳刃包丁を抜き取るなり、テーブルの上を音もなく跳び越えて、男の懐のど真ん中へと滑り込んでいたのだ。
(――殺る気だ!)
らでんの思考よりも先に、足裏のオーラが弾けた。
脅しで刃を突きつける軌道ではない。メンチの右手に握られた白刃は、一点の迷いもなく、振り上げた拳のせいで完全に無防備になった255番の喉笛――頸動脈を真一文字に掻き切る角度で閃いていた。
255番の男の拳は、振り上げたまま宙に残っていた。その視線はまだ、メンチがさっきまで立っていたテーブルの向こうを向いている。
もともと運営位置のすぐ近くに立ち、いつでも踏み出せるよう重心を落としていたらでんは、床を蹴るのと同時に上着の内側から折り畳み扇子を引き抜いた。
開いている暇はない。
閉じたままの扇子の竹の親骨へ、瞬時に凝縮したオーラ――《周》を張り巡らせる。
メンチの踏み込みは、同じ一ツ星ハンターであるらでんの目から見ても惚れ惚れするほど速く、鋭い。正面から腕を掴んで止めようとすれば、刃の勢いは逸らしきれない。らでんは半歩だけ斜め横から二人の間合いへ割り込み、男の喉元のわずか数センチ手前、白刃が走り込んでくる進路の芯へ、閉じた扇子の親骨の腹をピタリと差し込んだ。
カンッ!!
竹と鋼がぶつかったとは到底思えない、硬質で澄んだ金属音のような響きが弾けた。
ズシリ、と重い衝撃が扇子を通してらでんの右手首に伝わる。
包丁は折れもしなければ、軽く弾き返りもしなかった。メンチが乗せた踏み込みの圧と刃の鋭さが、《周》で強化した親骨へ真っ直ぐに食い込み、255番の喉の皮膚まであと数ミリという位置で、ピタリとせめぎ合って止まっていた。
「なっ……!?」
同時に、後ろから回り込んだブハラが、255番の上体へ太い腕を回して肩を押さえ、グイッと後方へ引き剥がした。
さらにサトツが、騒ぎに釣られて前へ出ようとした後続の受験者たちの前へすっと立ち塞がり、「全員、そこを動かないでください!」と凛とした声で制する。
ブハラに引き戻された255番の男は、宙に浮いたままだった自分の拳をようやく下ろし、遅れて自分の首元――いましがたまで冷たい鋼の刃が触れる寸前だった場所へと視線を落とした。
「あ……え……?」
男が自分の喉を片手で押さえ、いま何が起きたのかをようやく理解したように、ドサッとその場に尻餅をついて顔面を蒼白にする。周りの受験者たちも、いつの間にか抜かれていたメンチの包丁と、それを閉じた一本の扇子で受け止めているらでんの姿を見て、息を呑んで凍りついた。
だが、白刃と扇子が噛み合った中心の二人は、周囲へ目もくれていなかった。
至近距離で、メンチの吊り上がった瞳と、らでんの真っ直ぐな目がぶつかる。メンチの右手からはまだ力が抜けておらず、ギリッ、と刃と親骨が擦れ合う音が鳴った。
「メンチさん」
らでんは声を荒らげることなく、普段と同じ落ち着いたトーンで呼びかけた。
「全員不合格にしたことに文句はありません。ここはメンチさんとブハラさんの試験会場ですから。――でも、それは違うでしょ」
「邪魔すんな、らでん。どけ」
メンチが低く、獣が唸るような声で言い返し、さらに半歩だけ包丁へ体重を乗せてくる。
らでんは靴底で石畳をしっかりと捉え、扇子を支える手首をミリ単位も引かなかった。
「どいたら
「当然でしょ! こいつ、私たちの仕事をなんだと思って……!」
「だからって、不合格にした受験者を試験官がその場で首切ってどうするんですか」
らでんは親しい敬語を崩さないまま、一歩も譲らずに同期の目を射抜いた。
メンチの審査が厳しすぎたから止めたのではない。255番の男が吐いた侮辱や暴力をかばうつもりも毛頭ない。けれど、もう拳を下ろした相手の喉へ、なお刃を届かせるのは違う。扇子を押す圧を受け止めながら、らでんはメンチの目を見返した。
頑固な一ツ星ハンター二人の視線が火花を散らし、メンチが「っ……!」と奥歯を噛みしめた、まさにその時だった。
ゴォォォォッ……!
頭上の晴れた空から、突如として低く重いプロペラ音が響いてきた。
会場にいた全員が、思わず空を見上げる。
ビスカ森林公園の真上に、ハンター協会の紋章を鮮やかな色で描いた巨大な飛行船が姿を現していた。しかも、その高度はまだ数百メートルもあるというのに、飛行船の下部ハッチがパカリと開き、そこから小さな人影が一つ、パラシュートも命綱もなしに真っ直ぐ地上へと飛び降りてきたではないか。
『なっ……おい、誰か落ちてくるぞ!!』
『この高さから飛び降りたのか!?』
受験者たちが悲鳴のような声を上げて後ずさる。
黒い点のように見えた人影は、凄まじい速度で風を切り裂いて落下してくると、調理場のすぐ横にある芝生の広場へ――
ドォォォン!!
砲弾でも着弾したかのような轟音と、猛烈な土煙を巻き上げて着地した。
吹き荒れる風圧にらでんが前髪を押さえ、メンチも思わず包丁を引いて身構える。
やがて砂煙が晴れた中心から、カラン、コロン、と暢気な下駄の音を響かせて、ひとりの小柄な老人が姿を現した。
長く白い髭を蓄え、大きく福耳の垂れた顔を柔和に綻ばせている。白い道着のような装束を着たその老人は、何百メートルもの上空から飛び降りてきた直後だというのに、膝一つ曲げず、散歩の途中で立ち寄ったかのような軽い足取りでこちらへ歩いてきた。
「会長……!」
メンチがハッとしたように息を呑み、握っていた包丁を慌てて下ろした。
それを見て、らでんも静かに扇子を引き、親骨に巡らせていた《周》を解いて胸の前で一礼した。サトツとブハラも、揃って深く頭を下げる。
そのすぐ後ろ、ブハラが手を離して安全が確保された地面の上でのことだ。
まだ腰を抜かしたまま首元を押さえていた255番の男のもとへ、近くにいたレオリオが咄嗟に歩み寄り、片膝をついてその顔を覗き込んだ。
「おい。首、切れてねえか」
レオリオはさっきまで自分も不合格にされてカンカンに怒鳴っていたにもかかわらず、真っ先に相手の喉元に指先を近づけ、皮膚が裂けていないかを確かめていた。
傷一つないと分かると、レオリオは「チッ、無茶しやがって。試験官に殴りかかってどうすんだよ」と乱暴に悪態をつきながら立ち上がる。
扇子を懐へ戻しかけていたらでんは、すぐ数歩先で行われたその短いやり取りを、自分の目でしっかりと捉えていた。
(……あれ。403番のレオリオさん、さっきまであんなに怒ってたのに、いまは他人の首が切れてないか確かめてるんだ)
一次試験の階段でも、ボロボロになりながら根性で登り切っていた姿が印象に残っていたけれど、ただ威勢がよくて短気なだけの人ではないらしい。らでんは手帳を開かずに、その番号と名前を胸の奥へそっと刻み込んだ。
その間にも、下駄を鳴らして歩み寄ってきた老人――ハンター協会会長のアイザック=ネテロは、髭を撫でながらメンチの前で足を止めていた。
『かい、会長だと……?』
『あのじいさんが、ハンター協会のトップなのか!?』
受験者たちがざわめく中、ネテロはメンチの顔をひょいと見上げ、いたずらっぽく目を細めた。
「いやあ、メンチくん。上から見ておったら、なんだか下の方がえらく殺気立っておるんでな、思わず降りてきてしもうたわい」
「ネ、ネテロ会長……その、これは……」
さっきまであれほど威勢よく包丁を振るっていたメンチが、ネテロを前にして、まるで叱られた教え子のようにバツが悪そうに視線を泳がせる。
「聞くところによると、今年の二次試験は『合格者ゼロ』じゃそうだな? しかも、いま見れば包丁まで抜いて、隣のらでんくんと何やら剣呑な睨み合いをしておったようじゃが」
ネテロがひょいとらでんの方へ目を向けたので、らでんは苦笑いしながら軽く頭を下げた。
「お久しぶりです、会長。ちょっとメンチさんの手元が滑りそうだったので、扇子で失礼しました」
「ほっほ、良いところに立っておったのう、らでんくん。おかげで会場の芝生が赤く染まらずに済んだわい」
ネテロは快活に笑うと、すぐにもう一度メンチへと向き直った。
決して怒鳴りつけたり、説教を垂れたりする口調ではない。ただ、長い年月を生き抜いてきた大人物の穏やかな目が、メンチの胸の内を真っ直ぐに見透かすように注がれる。
「で、どうなんじゃ、メンチくん。本当に今年の受験者の中には、一人として二次試験を通すに値する者はおらんかったのかね?」
メンチはしばらくの間、下唇を強く噛みしめていた。
自分の右手に握られたままの柳刃包丁を見つめ、それから、散乱した調理場と、静まり返っている受験者たちの顔を一度だけ見渡す。
やがてメンチは、観念したように大きく息を吐き、包丁を調理台のスタンドへと戻してネテロに深く頭を下げた。
「……いえ。料理をバカにされたことに腹が立って、審査の途中で完全に熱くなっていました。素人の受験生相手に、プロの職人に求めるような基準を押しつけたのは私の私情です」
メンチは顔を上げ、きっぱりと言った。
「試験官として失格です。私は二次試験官を辞退しますので、どうか別の試験官を立てて、二次試験をやり直してください!」
その潔い言葉に、さっきまでメンチを睨みつけていた受験者たちも、少し驚いたように目を見開いた。
らでんも横で聞いていて、胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。やっぱり自分の知っているメンチだ。熱くなると周りが見えなくなるくらい暴走してしまうけれど、自分が間違っていたと気づけば、言い訳一つせずに頭を下げられる真っ直ぐさを持っている。
するとネテロは、白い髭を揺らして「ほっほっほ」と愉快そうに笑った。
「そう結論を急ぐでない、メンチくん。いまから別の試験官を探してくるのも骨が折れるしのう。どうじゃ、おぬしがそのまま試験官を続けて、もう一度だけ新しい課題を出してやるというのは」
「えっ……で、でも、私がもう一度課題を出しても、受験生たちが納得しないんじゃ……」
「そこはそれ、やり方次第じゃよ」
ネテロは片方の眉を上げ、受験者たちにも聞こえるような声で続けた。
「新しい課題では、おぬし自身が受験生たちの前で手本を見せてやるのを条件にしてはどうじゃ? 美食ハンターがどれほど過酷な場所で、どんな覚悟を持って食材を手に入れておるのか。それを実際に見せてやれば、誰も文句は言わんじゃろうて」
メンチの瞳が、ぱっと大きく見開かれた。
言葉で言い負かすのでも、包丁で脅すのでもない。美食ハンターとしての本来の仕事を、その身一つで示してみせろという提案だ。
メンチの頬に、みるみるうちにさっきまでの生き生きとした血色が戻ってきた。
「……わかりました! ありがとうございます、会長!」
メンチは勢いよく顔を上げると、受験者たちの方へ向き直り、人差し指をビシッと立てた。
「いいわね、あんたたち! 二次試験の後半課題をやり直すわ! 今度の課題は――『ゆで卵』よ!!」
『ゆ、ゆで卵……?』
受験者たちがまたしても顔を見合わせる中、メンチは不敵な笑みを浮かべてネテロの方を振り返った。
「会長! 恐れ入りますが、その飛行船で全員を『マフタツ山』まで運んでいただけますか?」
「おお、マフタツ山か! なるほど、あそこの卵じゃな。よかろう、安い御用じゃ!」
ネテロが快活に頷き、上空に浮かぶ飛行船へ向かって大きく手を振った。
◇ ◇ ◇
協会の大型飛行船がビスカ森林公園の広場へ降り立ち、受験者たちと試験官一行を乗せて再び空へと舞い上がった。
飛行時間そのものは、ほんの十数分ほどだっただろう。
船窓の外に広がっていた緑の森が急速に後ろへと流れ、代わって前方に、異様な形をした岩山が迫ってきた。
まるで神様が巨大な斧を振り下ろして、山のてっぺんから麓までを真っ二つにかち割ったかのような地形だ。その名も『マフタツ山』。飛行船がその片側の頂上付近に着陸し、タラップが降りると、一行は冷たく乾いた風が吹き抜ける岩場へと降り立った。
「うわあ……すごい景色ですね、これ」
らでんは受験者たちと一緒に、山を二分している巨大な亀裂――断崖絶壁の縁へと歩み寄り、思わず下を覗き込んだ。
足元から垂直に切り立った岩壁が、はるか下の谷底まで落ち込んでいる。あまりの深さに底の方は白い靄と暗い影に呑まれて見えず、見下ろしているだけで足の裏がゾワゾワするような高さだった。
そして、その真っ二つに割れた谷の空間に、信じられないような光景が広がっていた。
左右の岩壁から岩壁へと、白く太いロープのような糸が幾重にも張り巡らされているのだ。しかも、その横に張られた一本の糸から、さらに下へ向かって十数本もの縦糸が垂れ下がり、それぞれの先端に、楕円形の白い卵がぶら下がっている。
「これ、クモの巣……?」
隣で下を覗き込んでいたキルアが呟き、ゴンが「すっげえ!」と目を輝かせた。
「あれが今回の食材、『クモワシ』の卵よ!」
メンチが崖のギリギリの縁に立ち、風になびくピンク色の髪を押さえながら声を張り上げた。
「クモワシは、地上の外敵から卵を守るために、ああやって深い谷の隙間に丈夫な糸を張って卵を吊るすの! とびきり美味しい食材よ!」
メンチは振り返り、並んでいる受験者たちを挑戦的な目で見渡した。
「あの卵を一人一個ずつ採ってきて、そこの大釜でゆで卵にしなさい。それを食べて私が納得……ううん、ちゃんとしたゆで卵になっていれば、今度こそ無条件で全員合格にしてあげるわ!」
『む、無条件で合格だと!?』
『おい、でもあんな谷底の糸にぶら下がってる卵を、どうやって採るんだよ!』
255番の男が、崖の下を覗き込んでゴクリと生唾を飲み込んだ。
クモワシの糸は、崖の縁から手を伸ばしたくらいでは到底届かない。その先に卵が垂れ下がっている。もし手が滑って糸から落ちれば、そのまま底の見えない谷底へ真っ逆さまに墜落して即死だろう。
「口先だけで美食ハンターをバカにしてたあんたたちに、私たちの普段の仕事を見せてあげるわ。――よく見てなさい!」
メンチはそう言い放つなり、命綱も何もつけないまま、断崖の縁からためらいなく空へと身を躍らせた。
『なっ……飛び降りたぞ!?』
受験者たちから悲鳴が上がる。
真っ逆さまに落下したメンチは、空中でくるりと身体をひねり、谷の間に張られた太い横糸を両手でパシッと掴んでぶら下がった。強靭な糸が大きくしなって揺れる。
メンチはそのまま腕の力だけでスルスルと縦糸を伝って降りると、先端にぶら下がっている白い卵を片手で素早くもぎ取った。
「すげえ……! でも、あそこからどうやって上へ戻ってくるんだ?」
レオリオが崖の縁から身を乗り出す。
メンチは卵を懐へ収めると、空いた手で糸を掴み直した。身体を引き上げ、横糸から岩壁へと足を掛ける。揺れる糸に振り回されることもなく、手がかりを選びながらみるみる登ってくる。
らでんは思わず崖の縁から一歩下がった。
次の瞬間には、メンチの手が岩場の上へ掛かっていた。ひらりと身を乗り上げ、受験者たちの前へ立つ。その呼吸は少しも乱れていない。
さっきまで騒いでいた男たちが、口を開けたまま彼女を見つめていた。
「降り方だけじゃなくて、戻り方もよく見ておきなさいよ」
メンチは懐から白い卵を取り出し、片手でひょいと掲げた。
「……どう? 台所で鍋の番をしてるだけじゃ、この卵は一生拝めないって分かったかしら?」
誰も言い返す者はいなかった。
さっきメンチに包丁を突きつけられた255番の男は、メンチが持ち帰った白い卵と、底知れない渓谷の闇を交互に見比べて、唇を震わせている。
らでんは胸の奥から込み上げてくる誇らしさに、思わずパチパチと手を叩いていた。
(かっこいいなあ、メンチさん! 採りに降りるところだけじゃなくて、ちゃんと無傷で持ち帰ってくるんだ。普段からどれだけ危険な場所へ食材を探しに行ってるか、一発で分かるよ)
すると、誰よりも早く崖の縁へと駆け出した影があった。
「すっげええ!! よし、いっくよーっ!」
「あ、待てよゴン! オレも行く!」
ゴンとキルアの二人だ。
二人は恐怖心などかけらもないような笑顔で、崖の縁から同時にジャンプした。その後ろから、クラピカとレオリオも「ええい、ままよ!」「行くぞ、レオリオ!」と意を決して飛び降りていく。
十二歳の少年二人が迷いなく飛んだのを見て、プライドを刺激された他の受験者たちも、「くそっ、ガキに遅れを取るな!」「続けーっ!」と次々に渓谷のクモワシの糸へと飛び降りていった。
白い糸が受験者の体重を受けて大きくしなり、あちこちで短い叫び声が上がった。卵へ手を伸ばす者、先に岩壁へ戻る足場を確かめる者。それぞれが糸にぶら下がったまま身体の向きを変えている。
らでんは崖の上から、その様子を見下ろした。
ゴンは卵を懐へ入れると、近くの岩へ手を伸ばした。指を掛ける前に表面を一度押し、少し横へずれて別の出っ張りを掴む。隣では、キルアがすでに岩肌へ足を掛けていた。
「キルア、そっちから行くの?」
「うん。そこの辺り、登りやすそうじゃん」
キルアが顎で示した先を見上げ、ゴンも「ほんとだ」と笑った。二人は互いにぶつからない間隔を取り、別々の手がかりを選んで登り始める。
その少し下から、レオリオの怒鳴り声が上がった。
「くそっ、帰りの方がきついじゃねえか!」
「降りた分は登らなければならないだろう」
「分かってんだよ、そんなことは!」
クラピカへ言い返しながらも、レオリオの手は止まらない。足を掛け直し、大きく息を吐いて身体を引き上げた。
らでんは、崖の縁から身を乗り出しかけていた上体をそっと戻した。誰の手がどこへ掛かるか、つい目で追ってしまう。隣のメンチも腕を組んだまま、岩壁を上がってくる受験者たちへ視線を走らせていた。
やがて、ゴンの手が崖の上へ掛かった。
「よいっしょ……っと!」
身体を乗り上げるなり、ゴンは懐へ手を入れた。取り出した卵を両手の間でくるりと回し、傷がないのを確かめて顔をほころばせる。
「採れたーっ!」
「あ、そ。じゃあオレのも見てよ。こっちも割れてないでしょ」
隣へ上がってきたキルアが卵を掲げると、二人は顔を見合わせて笑った。
他の場所でも、一人、また一人と受験者が岩場へ上がってくる。レオリオやクラピカ、ハンゾー、そして涼しい顔で卵を指先に乗せたヒソカや、必死に卵を抱えたトンパも、自分の足で崖の上へと戻ってきた。
だが、全員が飛んだわけではなかった。
崖の縁の少し後ろには、255番の男をはじめとする数名の受験者が、最後まで谷底へ飛び降りることができず、蒼白な顔で立ち尽くしていた。
命懸けで戦うと言っていた男たちが、未知の自然の深さと、あそこから登り戻る怖さの前に足がすくんでしまったのだ。もちろん、自分の命を守るために飛ばないという選択自体は悪いことではない。今年諦めても、生きてさえいれば来年また挑戦できるのだから。
やがて、崖の上に用意された大きな鉄釜に湯がグラグラと沸き立ち、受験者たちは採ってきた卵を次々と沈めていった。
頃合いを見て、湯気を上げる釜から自分の卵を引き上げていく。メンチはその脇を歩き、殻の割れたものや茹で足りないものがないかを確かめていた。
「あちっ、あちち……!」
ゴンとキルアが指先をフーフーと吹きながら白い殻を割り、湯気の立つゆで卵にガブリとかぶりついた。
その瞬間、二人の目が一斉に丸くなった。
「「うまっ!!」」
「おい、なんだこれ……! ただのゆで卵なのに、今まで食ったどんな料理よりうまいぞ!!」
レオリオが半分食べた卵を見つめて声を裏返し、隣のクラピカも「ああ。白身の弾力と、黄身の濃厚な甘みが信じられないほど深い。塩すら振っていないのに、これほど完成された味になるとは……」と感嘆の吐息を漏らしている。
すると、メンチが小さく切ったゆで卵を、小皿に乗せてらでんとサトツの方へ持ってきてくれた。
「ほら、一次試験官のお二人も味見してみなさいよ。茹で加減はバッチリだから」
「え、いいんですか? ありがとうございます!」
「ありがたく頂戴いたします」
らでんはサトツと一緒に礼を言い、まだ温かいクモワシのゆで卵を口へと運んだ。
前歯がプリッとした白身を噛み切った瞬間、内側からとろりと濃厚な黄身の香りが口いっぱいに広がった。
(……っ、おいしい!!)
思わず両手で頬を押さえたくなるような味だった。
鶏の卵のような生臭さがみじんもなく、まるで上質なクリームと木の実の香りを凝縮したような、深く澄んだコクがある。しかも、さっき見下ろした深い谷と、その空間に白い卵が吊るされていた景色の記憶が重なるせいか、一口噛むごとに身体の芯から力が湧いてくるようだった。
「どう? これがクモワシの卵の味よ」
メンチが胸を張って微笑む。
「すごいですよ、メンチさん。こんな美味しいものが、あの怖い谷の真ん中にぶら下がってるなんて……美食ハンターの人たちが、どうしてあんな危ない場所まで目を輝かせて飛び込んでいくのか、一口食べただけで全部納得しちゃいました」
「ふふん、そうでしょ!」
らでんが心からの感想を伝えると、メンチは本当に嬉しそうに目を細めた。
その少し向こうでは、ゴンが半分残した自分のゆで卵を持って、崖の隅でうなだれている255番の男のもとへトコトコと歩み寄っていた。
「おじさん、はい。ちょっと食べてみなよ」
255番の男は、ゴンが差し出した白い卵を複雑な顔で見つめていたが、やがて震える手でそれを受け取り、ゆっくりと口へ運んだ。
何度か咀嚼したあと、男の大きな肩から、憑き物が落ちたようにスッと力が抜けた。
「……うまい。こんなうまいもんは、生まれて初めて食ったよ」
男は立ち上がり、メンチの方へ向き直ると、その大きな身体を二つに折って深く頭を下げた。
「さっきは悪かった、試験官。美食ハンターのすごさも、新しいもんに飛び込む怖さも、よく分かった。……俺の完敗だ。また来年、鍛え直して受けに来る」
メンチはしばらく男を見つめていたが、今度は剣呑な顔ではなく、ひとりのプロのハンターとして静かに顎を引いた。
「ええ。来年は、もっとマシな料理を作れるようになってきなさい」
「おう。ごちそうさん!」
男がどこか吹っ切れたような顔で、他の脱落者たちと共に下山用の連絡艇の方へと歩いていく。
それを見送ってから、ネテロ会長がパン、と両手を打ち鳴らした。
「よし! これにて二次試験の全行程が無事に終了したようじゃな! 合格した諸君、おめでとう。これより次の第三次試験会場へと向かうゆえ、全員、わしの飛行船へ乗り込んでくれい!」
『おおーっ!!』
ゆで卵を食べ終えた合格者たちが、明るい歓声を上げながら、頂上に停泊している協会の大型飛行船へと向かって歩き始めた。
◇ ◇ ◇
マフタツ山の頂上を吹き抜ける風が、少しずつ夕方の涼しさを帯び始めていた。
ゴンやキルア、クラピカ、レオリオたちが楽しそうに話しながら飛行船のタラップを登っていく後ろから、サトツとブハラ、そしてらでんとメンチの四人もゆっくりと歩き出した。
しばらく無言で並んでいたメンチが、不意にちらりと横目でらでんの方を見て、少しだけ唇を尖らせた。
「……なによう。さっきの包丁のこと、まだ怒ってんの?」
「え? 怒ってませんよ。だって、ちゃんと止まりましたし」
らでんは目を瞬かせ、懐から折り畳み扇子を取り出して、閉じたままの親骨をメンチにひらひらと見せた。
「ほら、見てください。メンチさんの踏み込みが速すぎて、私のお気に入りの扇子の竹骨に、ちょっとだけ包丁の刃の跡がついちゃったんですからね」
「うっ……そ、それは、まあ、あんたが横から急に扇子なんか突き出してくるからでしょ」
メンチは気まずそうに視線を逸らして腕を組んだが、すぐに小さく息を吐いて、聞こえるか聞こえないかくらいの声で付け足した。
「……でも、まあ。さっきは、あんたが止めて正解だったわよ。あのまま切ってたら、会長にもっと絞られてたし、寝覚めも最悪だったわ」
「ふふ、メンチさんがそう言ってくれるなら、扇子を出した甲斐がありました」
らでんは扇子をパチンと軽く手のひらで鳴らし、いつも通りの笑顔で同期の横顔を覗き込んだ。
「じゃあ、この親骨の傷代として、試験が終わったらメンチさんオススメの美味しいお茶請けでもご馳走してくださいね」
「はあ? お茶請けなんてケチなこと言わないでよ。一ツ星の美食ハンターを誰だと思ってんのよ、今度私のフルコースをたっぷり食べさせてあげるわ!」
「わあ、ほんとですか! じゃあお腹を空かせて待ってますね!」
「ええ、美味しすぎて腰を抜かさないようにしなさい!」
メンチがいつもの勝気な調子で胸を張り、その後ろを歩いていたブハラが「あ、メンチ。そのときはオレの分も大盛りね」と呑気に手を挙げた。
「あんたは毎日食べてるでしょ、ブハラ!」
「ははは、メンチの料理は、いくら食べても飽きないからねー」
「お二人とも、本当に良いコンビですね」
サトツが穏やかに口髭を揺らして微笑む。
さっきの調理場での一触即発の空気が嘘のように、四人の間には、それぞれの専門と譲れない一線を知った仲間同士の心地よい風が流れていた。
やがて、目の前に大型飛行船の分厚い金属製のタラップが迫ってくる。
先に乗り込んでいく受験者たちの背中を見送りながら、らでんはサトツ、メンチ、ブハラと並んで、ゆっくりとタラップの第一歩を踏みしめた。
カツン、と靴底が鉄の床を鳴らす。
最初に地下百階へ降りたときには四百人を超えていた受験者たちも、一次試験と二次試験を経て、いまではずいぶん顔ぶれが絞られた。
(この船で、次の第三次試験会場まで移動するんだ。……船の中に入ったら、少しゆっくりできる時間もあるかな)
預けてあったボストンバッグも、きっと船内の控室に届いているはずだ。サトツやメンチたちと温かいお茶でも飲みながら、ここまで残った受験者たちの話を聞くのも楽しそうだし、もしタイミングが合えば、あの緑のジャケットを着た少年――ゴン君とも、もう少し言葉を交わせるかもしれない。
そんな次への楽しみを胸に抱きながら、らでんは夕暮れの風が吹き抜けるマフタツ山の空を一瞥し、明るい照明の灯る飛行船の船内へと足を踏み入れた。