大型飛行船の分厚いハッチが背後で閉まると、マフタツ山の頂上を吹き抜けていた乾いた風の音がぴたりと遠ざかった。
代わりに靴底から伝わってくるのは、船体の奥深くで唸りを上げるエンジンの低く規則的な振動だ。離陸の準備に入った船内は、空調でほどよく温められている。磨かれた真鍮の手すりが、照明の下で鈍く光っていた。
「お預けになっていたお荷物は、すでに上層の試験官用ラウンジへ運ばせてあります。受験者の方々が大広間へ落ち着くまで、私たちも向こうで一息つきましょう」
先頭を歩くサトツが、懐中時計を一度確かめてから振り返った。
「助かります。地下を走ってからずっと手ぶらだったから、そろそろ自分のバッグが恋しくなってたところなんです」
「あたしも、あの埃っぽい調理場のあとはさっさと顔を洗いたいわ。ブハラ、あんたはその前に手も洗いなさいよ。まだ豚の脂がついてるんじゃないでしょうね」
「えー、さっき川の水でちゃんと流したよー。あ、でもラウンジに軽食があるなら、もうちょっと何か摘まみたいなあ」
「あんた、あれだけ豚を丸呑みしておいて、まだ入るっていうの……?」
呆れたように肩をすくめるメンチと、呑気に自分のお腹をさするブハラのやり取りを聞きながら、らでんはサトツの案内で一般通路から関係者用の階段へと上がった。
試験官たちに割り当てられたラウンジは、船首に近い静かな区画にあった。
丸窓の外には、夕暮れの紫から群青色へと移り変わっていく空が広がっている。部屋の隅には、一次試験の開始前に地下の鉄籠へ預けた見慣れたボストンバッグが、サトツの端正な革鞄と並んでちょこんと置かれていた。
らでんはまずバッグの脇ポケットに手を触れ、緩衝材に包まれた小型カメラや銀色のスタンドマイク、それに四冊目の記録ノートが無事なのを確かめてから、小さく息を吐いた。
(よし、どれも無事。……さてと、私もお湯をもらおうかな)
壁際のワゴンには、保温ポットに入った紅茶やコーヒー、それに一口大のサンドイッチや焼き菓子を並べた銀盆が用意されていた。
洗面所で手と顔を洗ってきたメンチが、カップに紅茶を注ぎながら丸テーブルのソファへ腰を下ろす。ブハラはその隣で、さっそくハムの挟まったサンドイッチを三つまとめて指でつまみ上げ、ひょいと口へ放り込んだ。
「んー、やっぱり飛行船のパンはふわふわでうまいねー」
「少しは味わって食べなさいよ、ブハラ。……ほら、らでんも座りなさい。立ちっぱなしだったんだから」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」
らでんは温かい紅茶のカップを両手で包みながら、メンチの斜め向かいの椅子に腰を下ろした。サトツも自分の分のカップを手に、背筋を伸ばしたまま静かに席へ着く。
飛行船がふわりと浮き上がり、雲の層を抜けて巡航高度へ入ると、窓の外の景色はいよいよ夜の闇へと溶け込んでいった。
ひとしきりお茶で喉を潤したところで、メンチがカップをソーサーへ置き、ふと思い出したように三人を見渡した。
「ねえ。せっかく一次と二次の試験官が揃ってるんだし、ちょっと聞いてみたいんだけどさ」
「なんでしょうか、メンチさん」
「今年の受験生の中で、それぞれ誰が一番気になった? ほら、これだけ人数が絞られると、嫌でも目につく連中が出てくるじゃない」
採点表を広げて順位をつけるような硬い口調ではなく、仕事上がりに同業者同士で感想を持ち寄るような、どこか楽しげな声だった。
メンチは自分の人差し指を立てて、少し得意げに唇の端を上げた。
「あたしはね、新人の中だと294番のスキンヘッド――ハンゾーよ」
「ああ、スシの作り方をうっかり叫んでしまった方ですね」
サトツが穏やかに頷くと、メンチは「そう、あいつ!」と膝を叩いた。
「最後は焦ってシャリを握り潰しちゃったし、白身の筋も残ってたけど、包丁の扱いそのものは本物だったわ。魚をおろすときの刃の入れ方を見れば、普段からどれだけ手元を鍛えてるかすぐ分かるもの。それに、あの崖のクモワシの糸へ飛び降りたときの身のこなしも、まるで曲芸師みたいに軽かったしね」
「確かに、調理台の前でひとりで葛藤してるところから、すごく目立ってましたよね。自分の国の料理をメチャクチャにされて、黙ってられなくなっちゃうところも含めて、なんだか憎めない人でした」
らでんが思い出し笑いを浮かべると、メンチも「ま、料理人としてはまだまだだけどね」と鼻を鳴らした。
だが、そこでメンチの声のトーンが、ほんの少しだけ低くなった。
「……ただ、実力だけで言ったら、もうひとり別の意味で目が離せないのがいたわね。44番の奇術師」
その番号が出た瞬間、隣でサンドイッチに手を伸ばしかけていたブハラの動きが止まった。
「うん。オレも、一番気になったのは44番のヒソカかな」
ブハラはいつもの穏やかな調子のまま、けれど丸い目をまっすぐ前に向けて言った。
「前半の豚の丸焼きのときも、あいつだけは森から戻ってくるのがすごく早かったし、息も全然乱れてなかったんだよね。それに、メンチが全員不合格って言ったあと、会場がピリピリしたでしょ? あのとき、あいつがトランプをいじりながら笑ってるのを見たら、なんだか背中がゾワッとしたよ」
「あんたがそこまで言うなんて珍しいじゃない、ブハラ。でも同感よ」
メンチは腕を組み、忌々しそうに眉を寄せた。
「あたしが255番の男の前に出たときも、あの44番だけは、まるでショーの続きでも待つみたいにこっちを見てたのよ。受験生っていうより、血の匂いを嗅ぎつけて紛れ込んだ獣って感じだわ」
「……一次試験でも、湿原の霧の中でその44番には少し手を焼きました」
サトツが静かに言葉を継いだ。
「私とらでんさんが本物の試験官かどうか確かめるという名目で、トランプのカードを投げてきたのです。二度目があれば即刻失格にすると警告はいたしましたが、隙あらば誰かに牙を剥きかねない危うさがありますね」
「えっ、カードって……あんたたち、一次試験であいつに攻撃されたの!?」
メンチが驚いて身を乗り出し、らでんの方をバッと見た。
「らでん、あんたさっきそんなこと一言も言ってなかったじゃない! 怪我はしなかったの!?」
「あ、はい。私は指で挟んで止めただけなので、怪我は全然してないですよ。サトツさんがすぐビシッと釘を刺してくださったので、それっきりでしたし」
「指で止めたって、あんたねえ……相変わらず変なところで肝が据わってるんだから」
メンチが呆れたようにため息をつく。
けれど、霧の中で飛んできたあの紙の刃の鋭さと、カードを落としたあとにヒソカが向けてきた粘りつくような金色の瞳は、らでんの記憶にもあまり気持ちのよくない感触として残っていた。ブハラやメンチが二次試験の会場で感じたという肌寒さは、きっと気のせいではないのだろう。
「では、サトツさんはいかがですか? 先頭で八十キロ以上走られて、どなたか印象に残った方は」
らでんが話題を切り替えるように尋ねると、サトツはカップを置いて、口髭の端をわずかに和ませた。
「私は、99番のキルア君ですね」
「ああ、あの銀髪の子? 最初にスケートボードに乗ってたっていう」
「ええ。十二歳という年齢であれだけの長距離を走り抜いた体力もさることながら、特筆すべきはその足音と重心の運びです。階段に入ってからペースを上げた際も、彼は隣を走る12歳――405番のゴン君と談笑しながら、最後まで呼吸ひとつ乱さずに登り切りました。相当に特殊な訓練を積んできたのでしょう」
サトツはそこで少し目を細め、どこか楽しそうに付け足した。
「もっとも、本人は退屈しのぎに受けに来たような顔をしていましたが……ゴン君と並んで走っているときの表情を見ていると、案外、年齢相応の少年らしいところもあるようでしたよ」
「へえ、サトツさんがそこまで褒めるなんてね。……で、らでんはどうなのよ? あんたもその銀髪の子か、一緒にいた緑の服の子かしら」
メンチが頬杖をついて、らでんの顔を覗き込んだ。
らでんは紅茶のカップをソーサーへ戻し、少し考えてから首を横に振った。
「ゴン君とキルア君ももちろんすごかったですけど……今日一日を通して、私が一番『おっ』と引っ掛かったのは、403番のレオリオさんですね」
「403番……って、え? あのサングラスかけた、背の高いスーツの男?」
メンチが目を丸くして、素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと、冗談でしょ? あいつ、前半の豚は焦がしかけるし、後半のスシなんてお餅みたいに米粒を潰して出してきて、そのあと一番でっかい声で『ただの嫌がらせじゃねえか!』って怒鳴ってたやつじゃない!」
「ええ、そうです。その声の大きい403番さんです」
らでんは苦笑いしながら頷いた。
「確かに、スシの課題のときもすごく大雑把でしたし、メンチさんが全員不合格って言った瞬間は、顔を真っ赤にしてテーブルの近くまで詰め寄ってましたよね」
「じゃあ、なおさらどこが良かったっていうのよ」
「そのあとですよ。メンチさんが255番さんの前へ飛び出して、私が扇子で包丁を止めたあとです」
らでんは上着の内ポケットに収めたままの折り畳み扇子の上から、軽く胸元へ手を当てた。
「ブハラさんが255番さんを引き離して、会長も空から降りてこられて、ひとまず危険が収まったあと、周りの受験生たちはみんな呆気に取られて動けなくなってたんです。なのに、あの403番のレオリオさんだけは、尻餅をついてる255番さんのところへ真っ先に歩いていって、片膝をついて『おい、首、切れてねえか』って喉元を確かめてたんですよ」
メンチが「え……」と小さく息を呑み、瞬きをした。
「あたし、そのときは会長の方を見てたから気づかなかったわ。……ほんとに?」
「はい、すぐ数歩先でしたから、はっきり見えました。しかも、傷がないって分かった途端に『試験官に殴りかかってどうすんだよ』なんて乱暴に悪態をついて立ち上がったんです。さっきまで自分も不合格にされてあんなにカンカンに怒ってたのに、いざ危ない場面が終わったら、赤の他人の首が切れてないか気にしてるんだなって思ったら、なんだかすごく印象に残っちゃって」
らでんがそう言うと、隣で聞いていたブハラが「へえー、あの人、見かけによらず優しいんだねー」と感心したように頷いた。
サトツも深く納得したように口髭を撫でる。
「なるほど。403番の方は、到着したときもかなり苦しそうでしたね。受験者同士のそうしたやり取りまでは、私も見ておりませんでした」
「そうなんです。なんだか、ただ威勢がよくて短気なだけの人じゃないんだなって。ああいう人がこれから先の試験でどんなふうに進んでいくのか、ちょっと見てみたくなりますよね」
「……ふうん。あんたって昔から、人が見てないような細かいところばっかり拾うわよね」
メンチは少し照れくさそうに鼻先を掻いたが、その目元はすっかり柔らかくなっていた。
「ま、あたしが危うく首を切りかけた相手を心配したって聞くと、ちょっと複雑だけど……とりあえず、その403番の顔も覚えておいてあげるわ」
「ふふ、ありがとうございます。あ、そうだサトツさん、私、自分のバッグの荷物を少し整理したら、船内の通路をちょっとだけ歩いてきてもいいですか?」
らでんが立ち上がって尋ねると、サトツは懐中時計を見て快く頷いた。
「ええ、構いませんよ。これから夜にかけては自由時間ですし、明朝のトリックタワー到着までは、受験者の方々も各自で休息を取るだけですから」
「じゃあ、ちょっと外の空気を吸ってきますね。メンチさん、ブハラさん、また後で!」
らでんはボストンバッグのファスナーが閉まっているのをもう一度確かめ、上着の襟元を整えてからラウンジの扉を開けた。
◇ ◇ ◇
試験官用の区画を出て階段を一つ降りると、通路の照明は少し落ち着いた暖色に変わり、窓の外には黒い夜の雲海がどこまでも広がっていた。
受験者たちの多くは大広間や食堂の方に集まっているらしく、中層の連絡通路にはほとんど人影がない。一次試験の長い走行と、二次試験の調理場にマフタツ山の崖下りと、朝から晩まで動き詰めだったから、早めに壁際で眠り込んでいる人も多いのだろう。
(ゴン君たち、どの辺にいるかな。食堂か、それとも大広間の方かな……)
らでんが窓枠の真鍮の継ぎ目を眺めながら、ゆるやかなカーブを描く通路を曲がったときだった。
前方の窓際に、背の高い人影がひとつ、音もなく立っていた。
逆立てた赤みがかった髪に、頬に描かれた星と雫のペイント。44番の番号札を胸につけた奇術師――ヒソカが、夜の雲海を背にして、長い指の間で一枚のトランプをくるくると回していた。
らでんは歩調を乱さず、けれどいつでも動けるように重心を保ったまま、通路の反対側を通って通り過ぎようとした。
だが、すれ違う一歩手前で、ヒソカの金色の瞳がすっと横へ動き、らでんの姿を捉えた。
「やあ、一次試験のお嬢さん♠」
低く、どこか甘く響く声だった。
らでんは足を止め、ヒソカから一定の距離を保ったまま向き直った。彼の視線は、らでんの顔ではなく、上着の裾のあたりに下げている右手――一次試験の湿原で、飛んできたカードを挟み止めた指先へと真っ直ぐに注がれていた。
「さっきの会場でも、ずいぶん楽しそうに動いていたね。……君とは、試験じゃないところでも会いたいな♠」
手元のトランプが、彼の指先でパチンと乾いた音を立てて消える。
サトツから失格の警告を受けている以上、ここで直接攻撃してくるつもりはないのだろう。けれど、その細められた目の奥には、試験官という肩書きが外れたあとの個人を値踏みするような、隠しようのない好戦的な光が揺れていた。
らでんは眉ひとつ動かさず、普段の仕事場で厄介な交渉相手に対するときと同じ、落ち着いた声で返した。
「……一次試験の続きなら、お断りしますよ」
「フフ。ボクは楽しみにしてるよ♦」
ヒソカの唇が、三日月型に深く吊り上がる。
「私は楽しみじゃないです。では、失礼しますね」
らでんは短く一礼だけして、そのまますっとヒソカの脇を通り抜けた。
その瞬間、通路のずっと奥の方――食堂へ続く階段のあたりから、「あーっ、だからオレが窓側だってば!」「ジャンケンで決めようよ、キルア!」という、明るく弾んだ少年たちの声が風に乗って響いてきた。
らでんが肩越しに振り返ると、ヒソカの視線は声のした通路の奥へと動いていた。
追いかけてくる足音はない。ただ、背中に貼りつくような冷たくて熱い視線の残り香だけを振り切るように、らでんは角を曲がって階段の方へと足を早めた。
小さく肩を揺らして息を吐くと、ちょうど階段の下の踊り場から、見覚えのある四人組がひょっこりと顔を出したところだった。
◇ ◇ ◇
「あれ? 一次試験のお姉さんだ!」
緑のジャケットを着たゴンが、らでんの姿を見つけるなり、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
その後ろから、ポケットに両手を突っ込んだキルアと、落ち着いた足取りのクラピカ、そして背広の上着を肩に引っ掛けたレオリオが続いて上がってくる。
「こんばんは、皆さん。二次試験の合格、おめでとうございます」
らでんが笑顔で声をかけると、四人はそれぞれに足を止めた。
「よかったら、少し座ってお話ししませんか?」
近くの案内表示を確かめ、らでんは四人と一階下の談話室へ移った。扉を閉めると、行き交う人たちの声が遠くなる。空いていたテーブルを囲み、らでんも四人と一緒に腰を下ろした。
「おう、あんたも試験官の仕事、お疲れさん」
最初に口を開いたのは、レオリオだった。
レオリオはサングラスの奥の目を細め、らでんの右手の方へちらりと視線を落とすと、少しぶっきらぼうな調子で言った。
「なあ、あんた。さっきの会場で、あのピンクの髪の試験官が抜いた包丁を止めたろ。……手、怪我してねえのか?」
らでんは少し驚いて瞬きをし、それから自分の右手を見下ろして、ふっと頬を緩めた。
(やっぱりこの人、そういうところを一番に気にするんだ)
「はい、私は大丈夫ですよ。心配してくださってありがとうございます。ただ、包丁を受けたこの扇子には、ちょっとだけ傷がついちゃいましたけど」
らでんが懐から折り畳み扇子を取り出し、竹の親骨の腹についた白く浅い刃の跡を見せると、キルアが「へえ」と興味深そうに横から首を伸ばしてきた。
「それ、ただの竹の扇子じゃん。あんなスピードで振り下ろされた包丁を、どうやって折れずに止めたのさ? 一次試験でヒソカのトランプを捕まえたときも思ったけど、お姉さん、手品師かなんかなの?」
「手品師じゃないですよ。私は文化財ハンターっていって、古い美術品や遺跡の品物を調べたり、直したりするのが本業なんです。この扇子も普段から仕事場に持ち歩いてるお気に入りなんですよ」
「へえーっ、扇子で包丁が止まるんだ! すっげえなあ!」
ゴンが目を丸くして扇子の親骨を覗き込み、レオリオが「いや、お気に入りなら盾代わりに使うんじゃねえよ! 危ねえだろうが!」と大声で突っ込む。
「あはは、すみません。でも、咄嗟に手元にあるのがこれだけだったもので」
「まったく、レオリオ。お前はすぐ声が大きくなるな。試験官の方に対して失礼だろう」
クラピカが小さくため息をついてレオリオをたしなめ、それから改めてらでんの方へ丁寧に向き直った。
「先ほどは会場での混乱を収めていただき、ありがとうございました。私はクラピカといいます。……いま、『文化財ハンター』と仰いましたが、普段はどのような調査をされているのですか?」
ただの社交辞令ではなく、クラピカの落ち着いた瞳には、言葉の端々に確かな関心の色が宿っていた。
自分の専門分野について真っ直ぐに尋ねられると、らでんは思わず胸の奥が弾んで、少しだけ身を乗り出してしまった。
「あ、気になります? ええとですね、私の名前は儒烏風亭らでんっていいます。仕事としては、新しく見つかった遺物の状態を確認して保存の手配をしたり、あとは昔からいろんな人の手を渡り歩いて、途中で行方が分からなくなっちゃった古い工芸品や絵画の『来歴』を辿ったりしてるんです」
「来歴を辿る……ですか。すでに散逸して記録が途絶えた品を、どのようにして追うのです?」
「もちろん、古い競売の目録や輸送の帳簿も調べるんですけど、それだけだと途中で名前が書き換えられてることが多いんですよね。だから、実際に残っている関連の品物を見て、木箱の底の削れ方とか、修理に使われた接着剤の癖とか、そういう『人の手が触れた跡』から順番に糸を繋いでいくんです。帳簿の記載とそういう痕跡を照らし合わせると、途中で辻褄が合わないところが見つかることもあるんですよ」
そこまで一気に喋ってから、らでんは「……あ、すみません、私、仕事の話になるとつい長くなっちゃう癖があって」と自分の頬を軽く押さえた。
だが、クラピカは少しも退屈そうにするどころか、深く考え込むように顎へ手を当てて頷いた。
「いえ、非常に興味深いお話です。目録の文字だけでなく、品物に残された人の手の痕跡から経路を辿る、というのは……確かに、表向きの記録を消されたものを探す上で、とても重要な視点ですね」
「そうなんですよ! クラピカさん、すごく話が早くて嬉しいです。もし古い文献や品物のことで何か調べたいことがあったら、いつでも聞いてくださいね」
「ありがとうございます。ぜひ、参考にさせていただきます」
クラピカが穏やかに微笑むと、横で聞いていたレオリオが「なんだよ、古美術の捜索ってことは、見つけりゃやっぱり凄え報酬が出るのか?」と身を乗り出し、キルアが「おっさん、また金の話かよー」と呆れたように肘で小突いた。
そんな三人のやり取りを微笑ましく眺めながら、らでんは隣でニコニコと話を聞いているゴンへと視線を向けた。
背中には、二次試験でもずっと手放さなかった愛用の釣り竿。二次試験の調理場で、誰よりも迷いなく出刃包丁を滑らせて大きな魚を三枚におろしていた手つきが、自然と頭に浮かぶ。
「ねえ、ゴン君」
「ん? なあに、らでんさん」
「ゴン君、二次試験でスシを作ろうとしてたとき、魚を捌くのがすごく上手でしたよね。背骨の上に包丁を入れる角度にぜんぜん迷いがなかったから、普段からよく大きな魚を釣ってるのかなって見てたんです」
「うん! オレ、くじら島っていう島で育ったから、小さい頃から海でも沼でもいっぱい釣りをしてたんだ!」
ゴンが胸を張って元気よく答えた。
その『くじら島』という名前を本人の口から聞いた瞬間、らでんの胸の奥で、ずっと引っ掛かっていたパズルの最後のピースが、カチリと音を立てて噛み合った。
(――やっぱり! カイト君がメールで書いてきた、くじら島の森で助けたっていう男の子……本当に、目の前のこのゴン君だったんだ!)
一次試験の地下トンネルで『ゴン』という名前を耳にしたときから、もしかしたらとは思っていた。けれど、こうして本人から島の名前を聞いて確信に変わると、驚きと一緒に、なんとも言えない不思議な嬉しさが込み上げてくる。
「そっかあ、やっぱりくじら島なんだ……!」
らでんが思わず声を弾ませると、ゴンがきょとんと目を丸くした。
「え? らでんさん、くじら島を知ってるの? そんなに大きな島じゃないのに」
「はい、実は私、その島へ行った知り合いから、ゴン君のことを聞いたことがあったんです。――ゴン君、島で『カイト』っていう、背が高くて帽子を被ったハンターの青年に会ったこと、ありませんか?」
その名前を出した途端、ゴンの大きな瞳が、ぱあっと音を立てるように見開かれた。
「えっ!? カイト!? らでんさん、カイトを知ってるの!?」
「うん、よく知ってますよ! だってカイト君は、私の弟弟子なんです」
「お、おとうとでし……?」
ゴンが口をあんぐりと開けたまま固まり、隣のキルアやクラピカ、レオリオも「ん?」「どういうことだ?」と一斉にらでんとゴンの顔を交互に見た。
らでんは、目を白黒させているゴンへ少しだけ身を乗り出し、いたずらっぽく人差し指を立てて笑った。
「つまりですね、カイト君にハンターのいろはを教えた師匠と、私の師匠が同じ人なんです。――ゴン君のお父さん、ジンさんに、私もいろいろ教わったんですよ」
一拍の沈黙が落ちた。
次の瞬間、ゴンの顔がみるみるうちに真っ赤になるほど輝き、部屋いっぱいに響くような大声が弾けた。
「えええええっ!? らでんさん、ジンのお弟子さんなのーっ!?」
「わっ、ゴン君、声が大きいですって!」
「だって、だってさあ! カイトの他にもジンの弟子がいたなんて、オレ初めて聞いたよ! しかも今回のハンター試験の試験官が、カイトの姉弟子だったなんて……すっげえええ!!」
ゴンがその場でぴょんぴょんと跳ね上がらんばかりに喜ぶものだから、らでんもつられて笑ってしまった。
「おいおい、ちょっと待てよゴン! 話が飛びすぎてサッパリ分からねえぞ!」
レオリオが慌てて両手を振って割り込み、キルアも目を丸くしてゴンの方を振り返った。
「ジンって、ゴンが探してる親父さんの名前だろ? お姉さん、ゴンの親父の弟子だったの!?」
「ええ、そうなんです。私がハンター試験に合格したあと、ご縁があってジンさんに師事することになって。そのあと、同じようにジンさんの弟子だったカイト君とも知り合ったんです」
らでんが説明すると、ゴンはうんうんと何度も首を縦に振り、自分のことのように嬉しそうに三人へ振り返った。
「あのね、オレがまだ九歳のとき、くじら島の森でキツネグマっていう凶暴な熊に襲われちゃってさ。そのとき助けてくれたのが、ジンの弟子のカイトだったんだ! オレ、それまでミトさんからは『両親は事故で死んだ』って聞いてたんだけど、カイトが『お前の親父のジンは生きてて、最高のハンターだ』って教えてくれて!」
「なるほど……! 以前ゴンが『親父がどんな仕事をしているのか知りたくてハンター試験を受けに来た』と言っていたのは、そのカイトという方との出会いがきっかけだったのだな」
クラピカが納得したように頷き、レオリオも「へえー、世の中狭えもんだな! まさか試験会場で親父さんの弟子にぶつかるとはよ」と感心したように口笛を吹いた。
らでんは、ゴンの口から直接語られた当時の話を聞いて、あらためて胸の奥が温かくなるのを感じた。
(そっか。カイト君からのメールには『島の森で危ないところだった子どもを助けたら、まさかジンさんの息子だった』としか書いてなかったけど……ゴン君にとっては、お父さんが生きてるって知った、大事な出会いの日だったんだ)
あの頃、カイトはジンから出された「俺をもう一度見つけ出せ」という課題をクリアするために、一人で手掛かりを追ってくじら島へと渡った。らでんも行く前のカイトと一緒に地図や記録を覗き込んだことはあったけれど、島でそんな劇的な出会いがあったとは、あの短いメールの文字だけではとても想像しきれなかった。
「ねえ、らでんさん! カイトは元気にしてる? それに、ジンってどんな師匠だったの?」
ゴンがキラキラと目を輝かせて、身を乗り出してきた。
らでんは少し困ったように眉を下げて、けれど親しみを込めて苦笑いした。
「カイト君から島に着いたって連絡をもらったときは、元気そうでしたよ。……で、師匠のジンさんの方なんですけど、うーん、なんて言ったらいいかな。ハンターとしては間違いなくとんでもなく凄い人なんですけど、師匠としては、すっごく困った人です」
「困った人?」
「はい。大事な用件なのに、事前の相談もなしに全部自分で話を決めてから『あとはよろしくな』って短いメッセージだけ送ってきたり、こっちが真面目に質問してるのに『そんなもん自分で動いて考えろ』って言って、いつの間にかふらっとどこかへ行っちゃったりするんです」
カイトを紹介されたときの、あの乱暴なくらい短い伝言を思い出して、らでんは思わず肩をすくめた。
「カイト君と初めて会ったときも、『うちの師匠、本当に説明が足りないよね』『人使いが荒すぎる』って、二人で散々ため息をついたんですよ」
「あははは! なんだそれ、めっちゃくちゃ勝手な人じゃん!」
キルアが腹を抱えて笑い出し、レオリオも「おいおい、そんな放任主義でよく弟子が育つもんだな」と呆れ顔をする。
けれど、らでんはそこでふっと表情を和らげた。
「でもね、ただ放り出すだけじゃないんです。私が古い遺物の調査でどうしても行き詰まってたとき、ジンさんがポロッとこぼした一言のおかげで、見落としてた一番大事な手掛かりに気づけたことが何度もあって。……それに、ジンさんが見てきた遺跡や世界の話をしてくれるときは、本当に楽しそうで、聞いてるこっちまで『いつか自分の足で見に行きたい!』ってワクワクしちゃうんです」
ゴンは、らでんの言葉を一つひとつ噛みしめるように、じっと耳を傾けていた。
やがてゴンの口元が、本当に嬉しそうに大きくほころんだ。
「そっかあ……カイトが言ってた通りだ。やっぱりジンは、すっごく面白いハンターなんだね!」
「ええ、それはもう、私が保証しますよ。……ただ、ごめんなさいね、ゴン君。私、ジンさんの弟子ではありますけど、あの人がいま世界のどこにいるのかは、本当に全然知らないんです。あっちから気まぐれに連絡が来ることはあっても、居場所を教えてくれる人じゃないから」
「ううん、それでいいの!」
ゴンはぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「だって、もし誰かにすぐ居場所を教えてもらっちゃったら、なんだかズルしてるみたいで面白くないもん。カイトも『ジンを探すのが最後の試験だ』って言ってたし、オレもまずは自分の力でハンターになって、それから自分の足でジンを見つけたいんだ!」
少しの迷いもない、澄み切った声だった。
らでんは思わず目を細めて、目の前の少年の顔をもう一度見つめた。
(ああ、やっぱりこの子、ジンさんの息子なんだなあ。誰かに答えをもらうより、自分の足で探しに行く方が楽しいって思っちゃうところが、そっくりだ)
「ところでゴン君、お父さんに会えたら、何を一番聞いてみたいんですか?」
らでんが尋ねると、ゴンは自分の胸元を指差して、真っ直ぐに答えた。
「オレね、親父がどうしてオレを置いてまでハンターを続けてるのか、それほど夢中になれるハンターってどんな仕事なのか、まずは自分でなってみて確かめたいんだ。それで、いつかジンに会えたら、いろんな話をしたいなって思ってる!」
「いいですね。きっとジンさんも、ゴン君が自分の力で会いに来たら、ぶっきらぼうな顔をしつつすごく喜ぶと思いますよ」
「へへっ、だといいな!」
ゴンが照れたように鼻の下をこすると、隣で腕を組んでいたキルアが、ひょいと口を挟んだ。
「でもさ、そのジンって人がそんなに神出鬼没なら、探すの大変そうだぞ、ゴン。お姉さんたち弟子でも居場所が分かんないんだろ?」
「だからこそ探し甲斐があるんじゃねえか。なあ、クラピカ」
「ああ。どれほど巧妙に姿を隠していても、人が生きて活動している以上、先ほどらでんさんが仰ったように、どこかに必ず『痕跡』は残るはずだからな」
レオリオとクラピカがそれぞれの言い方で応じると、キルアも「ま、それもそうか」と楽しそうに肩をすくめた。
四人が自然に言葉を交わし合う空気は、まだ出会って数日しか経っていない受験者同士とは思えないほど、心地よく噛み合っている。
ひとしきり話して、五人は席を立ち、談話室から通路へ出た。
「あ、そうだ、らでんさん!」
ゴンが何かを思いついたように顔を上げた。
「オレとキルア、これからこの飛行船の中をちょっと探検してみようと思ってたんだ。らでんさんも一緒に行く?」
「探検、ですか? うーん、私はあとでサトツさんと明日の引き継ぎの打ち合わせがあるから、あまり遠くまでは行けないんですけど……ホールまでなら、途中まで一緒に行きましょうか」
「うん、いこういこう!」
「じゃあ、オレとクラピカは先に大広間へ戻って休んでるぜ。お前ら、あんまり夜更かしして明日の三次試験に寝坊すんじゃねえぞ!」
「分かってるって、レオリオ! おやすみー!」
レオリオがひらひらと片手を振り、クラピカが「では、らでんさん、また明日」と丁寧に会釈をして、大広間へと続く反対側の通路へ歩いていく。
それを見送ってから、らでんはゴンとキルアの二人と並んで、船内の奥へと続く階段を降りていった。
◇ ◇ ◇
中層の通路を進んでいくと、ゴンとキルアは窓の外の夜景を見たり、船体の壁に並んだリベットの数を数えたりしながら、とにかく楽しそうに喋り続けていた。
「ねえ、らでんさん。一次試験で走ってたとき、らでんさん全然汗をかいてなかったよね。あれってやっぱり、ハンターになるといっぱい走れるようになるの?」
「いえ、私はもともと遺跡の階段や山道を歩く仕事が多いから、足腰だけは鍛えてあるんですよ。でも、キルア君やゴン君だって、あの地下トンネルを走ったあとにマフタツ山の崖まで登ってきたんですから、体力なら負けてないじゃないですか」
「ま、オレたちはまだ全然余裕だけどね。あのおっさん――レオリオなんか、階段の途中で半分死にかけてたしさ」
「でもレオリオ、途中でクラピカと荷物を持って助け合ってたよ。すごく根性あるよね」
二人の軽快なやり取りを聞きながら歩いていると、やがて通路の突き当たりに、両開きの広い扉が見えてきた。
扉の隙間から、明るい照明の光が漏れている。船内にあるレクリエーション用の空きホールか、体育館のような区画らしい。
「あれ、ここだけ電気がついてる。誰かいるのかな?」
ゴンが首を傾げて扉の隙間から中を覗き込むと、そのすぐ内側から、カラン、コロン、と聞き覚えのある下駄の音が響いてきた。
「ほっほ、こんな夜更けに誰かと思えば、元気のよい少年たちじゃな。おや、らでんくんも一緒かね」
扉の向こうに立っていたのは、白い道着姿のネテロ会長だった。
だだっ広いホールの床には余計な家具が一切なく、ネテロの手の中には、どこから持ってきたのか、ごく普通の白い革張りのボールが一つ握られている。
「こんばんは、会長。お休み中にお邪魔してすみません、ゴン君たちと少し通路を歩いていたところなんです」
「なに、構わんよ。わしも食後の運動に、ちと身体を動かそうかと思っておったところじゃ」
ネテロは白い髭を撫でながら、ゴンの顔とキルアの顔を交互に見比べて、にやりと悪戯っぽく目を細めた。
「どうじゃ、そこの少年二人。まだ有り余っておるようじゃし、寝る前にわしとちっとばかり『遊び』をしてみんかね?」
「遊び?」
ゴンとキルアが同時に声を揃えた。
ネテロは片手に持ったボールを、ぽん、と軽く宙へ放り投げて受け止めた。
「ルールは至って簡単じゃ。わしが持っているこのボールを、おぬしら二人で奪い取ってみい。わしは一切、攻撃はせんよ。ただ避けて、ボールをキープするだけじゃ」
ネテロはさらりとそう言うと、もう片方の手で自分の白い髭を引っ張った。
「もし明日の朝、飛行船が次の目的地へ着くまでに、わしからこのボールを奪うことができたら――おぬしら二人、その時点で無条件で『ハンター試験合格』にしてやろう!」
「「えっ!?」」
ゴンとキルアの目が、同時に大きく見開かれた。
後ろで聞いていたらでんも、思わず「うわあ、会長らしい無茶振りだ」と心の中で苦笑いする。
「ほんとに!? このボールを取るだけで、ハンターになれるの!?」
「うむ、わしはハンター協会の会長じゃからな。それくらいの権限はあるわい。どうじゃ、やってみるかね?」
「やる!! ねえキルア、やろうよ!」
「へえ、おもしろそうじゃん。おじいちゃん、あとで手加減しろって言っても知らないからね」
キルアが不敵に口角を上げ、ゴンと一緒にホールの中へと踏み込んだ。
らでんは邪魔にならないよう、入り口の扉の脇へすっと下がって壁に背を預けた。自分がここへ混ざってボールを取るわけにはいかないし、試験官として攻略のヒントを出すつもりもない。ただ、あの二人が天下のネテロ会長を相手にどんな動きを見せるのか、少しだけ見てみたかったのだ。
「よし、ではいつでもかかってきなさい」
ネテロがボールを片手の指先に乗せ、全く隙だらけに見える立ち姿で手招きをした。
「じゃあ、まずはオレからいくよ!」
キルアがすっと重心を落としたかと思うと、次の瞬間には、床を滑るような鋭いステップでネテロの懐へと飛び込んでいた。
子供の遊びとは思えない、音のない高速の踏み込みだ。キルアの右手が、ネテロの持つボールへと真っ直ぐに伸びる。
だが――。
ヒュッ、と空気を切る微かな音がしたときには、ネテロの身体はすでにキルアの真後ろへと回り込んでいた。
「おっと、なかなか速いのう」
「……なっ!?」
空を切ったキルアが目を見開いて振り返るより早く、今度はゴンが「だったらこっちからだーっ!」と反対側から跳びかかった。
ネテロはまるで風に揺れる柳のように、ほんの半歩だけ足を引いてゴンの両手をかわし、そのままボールを指の上でくるくると回してみせる。
「ほっほ、元気があってよろしい!」
「くっそー、いま絶対触れたと思ったのに!」
「おいゴン、今度は左右から同時に挟むぞ!」
「うん!!」
そこから先の数分間、ホールの中にはキュッ、キュッと床を蹴る二人の靴音と、カランコロンというネテロの軽やかな下駄の音だけが響き続けた。
ゴンは野生の獣のようなバネで天井近くまで跳躍して上から狙い、キルアは残像が見えるようなフェイントを混ぜて死角から手を伸ばす。十二歳の少年二人が見せる動きは、そこらの熟練の格闘家が束になっても敵わないほど鋭く、しかも一合ごとにどんどんスピードが上がっていく。
けれど、ネテロは右手と左足をほとんど使わないまま、ただひょい、ひょいと最小限の体重移動だけで二人の猛攻をすべて紙一重でかわし続けていた。
(すごい……会長が底知れないのは分かっていたけど、ゴン君もキルア君も、全然諦めないどころか、かわされるたびに目がギラギラしてきてる)
普通なら、これだけ圧倒的な差を見せつけられたら「勝てるわけがない」と心が折れてしまいそうなものだ。なのに、ゴンは悔しそうに歯を食いしばりながらもどこか楽しそうに次の踏み込みを探っているし、キルアも額に汗を浮かべて本気の目つきになってきている。
「ほっほ、どうしたどうした。まだわしに指一本触れとらんぞ!」
「もう一回だ、キルア!」
「ああ、次は絶対かすらせてやる!」
二人の熱気がホールいっぱいに膨れ上がっていくのを見て、らでんは時計の針を確かめ、そっと口元を緩めた。
(この調子だと、この二人、本当に夜更けまでずっと飛びかかり続けそうだな。……よし、邪魔しないうちに私は戻ろう)
勝負の行方を最後まで見届ける必要はない。二人がすっかりゲームに夢中になっているのを見計らって、らでんは足音を立てないようにホールの扉からすっと外へ出た。
扉を静かに閉めると、中からまだ「あーっ、惜しい!」「くそっ!」という元気な声と、ネテロの快活な笑い声がくぐもって聞こえてくる。
深夜の飛行船の通路には、エンジンの低い唸り声だけが静かに満ちていた。
らでんは丸窓から外の暗い雲海を一度だけ眺め、明日で自分の担当が終わることを思いながら、試験官用の控室へと続く階段をゆっくりと上がっていった。
◇ ◇ ◇
翌朝、飛行船が高度を下げ始めた頃には、窓の外には抜けるような青空が広がっていた。
船体が向かっているのは、切り立った山岳地帯の真ん中に、まるで天を突く巨大な円柱のようにそびえ立つ石造りの塔――第三次試験会場『トリックタワー』だ。周囲を深い断崖に囲まれ、地上からの入り口すら見当たらないその頂上へと、飛行船はゆっくりと接岸していく。
らでんは自分のボストンバッグを船内の待機室に置いたまま、サトツ、メンチ、ブハラの三人と一緒に、屋上へと続くタラップの脇に立っていた。
手元に持っていた一次試験の通過者名簿と経過記録の綴りを、らでんは両手でサトツへと差し出した。
「サトツさん、こちらが一次試験からここまでの記録書類です。私の担当は、このトリックタワーへの引き継ぎまでとなりますので、ここから先の見届けをよろしくお願いいたします」
「確かに預かりました、らでんさん」
サトツは書類を受け取ると、いつもの折り目正しい姿勢で深く頭を下げた。
「地下トンネルの先導から二次試験会場での立ち会いまで、らでんさんが隣にいてくださって本当に助かりました。このあと、先約の文化財のお仕事へ直行されるのですよね?」
「はい。この飛行船が協会の連絡港へ折り返す便にそのまま乗せてもらって、午後から搬送と状態確認の現場へ立ち会うことになっています」
「そうですか。お忙しい日程ですが、どうぞお気をつけて」
「あんた、また古い箱だの壺だのを覗き込みに行くわけ?」
隣に立っていたメンチが、腰に手を当てて呆れたように口を挟んだ。
「ええ、大事な仕事ですから。でも、メンチさんとの約束も忘れてませんよ。私の扇子の親骨の傷代、今度とびきり美味しいフルコースをご馳走してくれるんですよね?」
「もちろんよ! あんたの仕事が一段落したら、すぐ連絡しなさい。ブハラに全部食べられる前に、最高の前菜からデザートまで用意しておいてあげるから」
「あ、メンチ、オレの分もちゃんと残しておいてねー。らでんさん、また今度一緒にご飯食べようね」
「はい、ブハラさん! 楽しみにしています!」
同期のメンチと、すっかり打ち解けたブハラに笑顔で頷き返していると、船内のハッチの方から、三次試験の会場へ降り立つ受験者たちがぞろぞろと姿を現した。
高山の冷たく澄んだ風が屋上を吹き抜け、受験者たちが周囲を見回して「なんだここ、塔のてっぺんかよ!?」「降りる階段も何もねえぞ!」とざわめき始める。
その列の中から、ゴンとキルア、クラピカ、レオリオの四人が、タラップの脇に立つらでんたちの姿を見つけて歩み寄ってきた。
ゴンとキルアは、昨夜どれだけ動き回ったのか少し眠そうな目をこすっていたけれど、朝の光を浴びた顔つきはすっきりとしている。
「おはよう、らでんさん! あれ、らでんさんは荷物持ってないけど、ここから先は一緒に行かないの?」
ゴンが不思議そうに首を傾げた。
「おはようございます、ゴン君、皆さん。ええ、私の試験官としての担当は、皆さんをこの三次試験会場へお送りするところまでなんです。別の仕事が入っていて、この飛行船でそのまま街へ戻ることになっていて」
「なんだ、ここまでなのかよ。せっかく知り合ったのに、ちっとばかり寂しくなるじゃねえか」
レオリオがサングラスを押し上げながら、少し残念そうに言った。
「ありがとうございます、レオリオさん。私も、皆さんともう少しお話ししたかったです」
らでんは四人の顔を順番に見渡した。
昨夜の通路で言葉を交わした時間は決して長くはなかったけれど、この四人がこれからどんなふうにこの塔を抜け、どんなハンターになっていくのか、不思議なくらい楽しみな気持ちが湧いていた。
「クラピカさん、もし無事に試験を終えられて、古い文献や品物の来歴で何か知りたいことが出てきたら、本当にいつでも協会を通じて声をかけてくださいね。同業者としてお話できるのを待ってますから」
「ありがとうございます、らでんさん。必ず合格して、いつかそちらの専門のお話もじっくり伺いたいと思います」
クラピカが胸に手を当てて、誠実な目で頭を下げる。
「お姉さん、もしまたどこかで会ったら、あの扇子とカード止めのタネ明かし、絶対教えてよね!」
「ふふ、キルア君がちゃんとハンターになったら、そのときに少しだけお話ししますよ」
キルアがニッと笑い、その隣でゴンが、大きく両手を振った。
「らでんさん、カイトやジンの話をしてくれてありがとう! オレ、絶対この試験に合格して、カイトにもらでんさんに会ったって報告するからね!」
「ええ、カイト君によろしく伝えておいてください。――ゴン君も、キルア君も、クラピカさんもレオリオさんも、ここから先の試験、気をつけて行ってらっしゃい!」
「「うん! いってきまーす!!」」
ゴンとキルアが元気よく駆け出し、レオリオとクラピカも「じゃあな!」「お元気で!」と手を挙げて、トリックタワーの広大な石畳の屋上へと降り立っていく。
やがてすべての受験者が塔の屋上へ降り、説明を終えた役員たちが船内へと戻ってくると、飛行船のタラップが重い音を立てて引き上げられた。
ゴォォォッ、とプロペラが回転数を上げ、船体がゆっくりとトリックタワーの屋上から離れていく。
らでんはデッキの丸窓から、どんどん小さくなっていく塔の屋上と、そこからこちらへ向かって大きく手を振っている緑色の小さな影を、見えなくなるまでじっと見送っていた。
◇ ◇ ◇
山岳地帯から連絡港へと戻ったらでんは、その足で先約のあった博物館の収蔵庫へと向かい、古い木彫の仏像と漆塗りの調度品の搬送作業に立ち会った。
試験会場での剣呑な空気や断崖絶壁の風とは打って変わって、空調の温度と湿度が厳密に管理された静かな荷解き場だ。白手袋をはめた手で梱包の麻布を一枚ずつ捲り、輸送の振動で漆の浮きや木組みの緩みが出ていないかをルーペで確かめ、状態確認の調書に万年筆でサインを入れていく。
数日がかりの搬入と点検をすべて滞りなく終え、依頼主の学芸員から「らでん先生が立ち会ってくださると、本当に安心できます」と送り出された頃には、一月の冷たい空気の中にも、どこか仕事が一区切りついた心地よい疲れが混じっていた。
(よし、これで今月の搬送立会いは全部完了っと。……あとは、ハンター協会の本部へ寄って、一次試験官の完了報告書と経費の精算書を出せばおしまいだ)
らでんは書類の入った革ケースを小脇に抱え、街の中心部にそびえるハンター協会の本部ビルへと足を運んだ。
事務フロアの窓口で一次試験の完了書類を提出し、職員から受領印をもらってロビーの方へ引き返そうとした、そのときだった。
「あれ? らでんさんじゃないですか。一次試験のお仕事、お疲れ様でした」
明るく、どこまでも人当たりの良い声が、廊下の奥から響いた。
振り返ると、そこには仕立ての良い明るい色のスーツを着こなし、金色の髪を綺麗に整えた青年――パリストン=ヒルが、眩しいくらいの笑顔を浮かべて立っていた。
らでんの背中が、無意識のうちにすっと伸びる。
第279期のハンター試験で、最終試験の試験官として受験生たちの心を引っ掻き回した張本人であり、数年前の秋には、あのセザール記念館の調査依頼を仲介してきた相手でもある。
「……お久しぶりです、パリストンさん。お疲れ様です」
らでんは仕事の礼儀を崩さないよう、丁寧にお辞儀をした。
「ふふ、そんなに堅くならないでくださいよ。それにしても、あの第279期で僕に噛みついていたらでんさんが、今年は試験官として受験生を先導してくださるなんて、なんだか感慨深いですねえ。向こう側の景色はいかがでした?」
「サトツさんやメンチさんたちのおかげで、とても勉強になりましたよ。少なくとも、誰かの心をわざと煽って投票させるような試験よりは、ずっと健全だったと思います」
らでんがすかさず軽い棘を混ぜて返すと、パリストンは「あはは、まだ根に持ってるんですか?」と心底楽しそうに目を細めた。
それからパリストンは、手にしていたバインダーを胸元に抱え直し、まるでつい今しがた思い出したかのような軽い口ぶりで、ひょいと首を傾げた。
「そういえば、セザール記念館の件。お電話でも、素晴らしい品だったと仰っていましたね。あれからの調査も、面白かったんじゃありませんか?」
らでんは、革ケースを抱えた腕に少しだけ力を込めた。
あの朝も、この人は同じように成果の方へ話を向けた。その前に口にした『ご無事だったんですね』という柔らかな声まで、今も耳に残っている。
「保全も調査も、記念館と相談しながら進めています。必要な報告も、その都度提出していますよ」
「ええ。今日はお仕事の報告ではなくて、らでんさんご自身の感想を伺いたいんです」
パリストンが、にこりと笑った。
「僕に頼まれて行った先で、あれだけ調べる価値のあるものに出会えた。らでんさんにお願いして、やっぱり正解だったでしょう?」
「……どの口が、それを言うんですか」
危険な念の仕組みを隔離したことは、あの電話で直接伝えている。知らずに尋ねているのではない。目の前の笑顔を見ていると、どんな返事をするか、その顔まで確かめたくて持ち出された話に思えた。
「作品は、今も大切にお預かりしています。調べる価値もありました。……でも、ただ単に面白かった話にしないでください」
「そんなつもりではありませんよ。ただ、気になるものがあったら、放っておけない方だと思っていましたから」
その言い方に、すぐには返す言葉が見つからなかった。
三枚の絵と手紙を辿っていた時間も、その後に預かった品を一つずつ調べてきた時間も、自分にとって大切なものだった。それをこの人に認めたところで、あの依頼の渡され方まで納得したことにはならない。
パリストンは、返事を待たずに声を少し落とした。
「でも、先輩としてひとつだけ忠告しておきますね。――そのやり方だと、長生きできませんよ?」
胸の奥が、一度だけ冷えた。
あの場所から帰るために何を払ったのかは、電話でも、提出した報告でも伏せている。
知っているのだろうか。それとも、危ないものでも調べずにはいられない性分を指しているだけなのか。
確かめようとして、自分から答えを渡すわけにはいかなかった。
「……ご忠告は覚えておきます。今度は、誰が何のために持ってきたお話なのか、考えてからお返事しますので」
「なるほど。それは頼もしいですね」
パリストンは少しも困った様子を見せず、明るい声に戻った。
「実は、そんならでんさんに、またいつかお願いしたいお仕事があるんですよ」
「お話だけなら伺います。でも、今ここではお返事できませんよ」
らでんが念を押すと、パリストンは「ええ、もちろんです」と片手を挙げた。
「今度は、王家の所蔵品に関わる調査のお話なんです。『カキン』という国はご存じですよね?」
「ええ、もちろん。歴史の古い、大きな国ですよね」
「そのカキン王家が、近く国を挙げたとても大きな祭事を予定しているらしくてですね。国王府直轄の『典儀院』から、ハンター協会へ内々に打診が来ているんです」
「典儀院……王家の祭祀を預かるところですか?」
「ええ。代々の祭祀や所蔵品を扱っているところです。窓口はヌグイ氏。国王陛下のお側で、今回のお話を取り次いでいらっしゃいます。普段は外部の研究者には公開されない、王家の古い儀礼施設と宝物庫の品を、一度専門家に整理・調査してほしいって」
パリストンがさらりと口にした言葉に、らでんの耳がピクリと動いた。
外部の研究者に公開されない、王家の儀礼施設と宝物庫。しかも、代々の祭祀を預かる典儀院が管理してきた品々。
(……非公開の宝物庫。それって、歴代の王の儀式で使われた古い祭具や、外へ出たことのない古文書が、当時のまま眠ってるってことだよね……?)
目の前の相手がパリストンだと分かっているのに、頭の中に古い青銅器や祭礼具の輪郭が浮かんだ途端、らでんの口から自然と質問がこぼれ落ちていた。
「あの……その儀礼施設にある祭具って、過去の遺物として保管されてるだけじゃなくて、今も実際の祭事で使われてるものなんですか?」
らでんが思わず半歩だけ前へ寄って尋ねた、まさにその瞬間だった。
パリストンはぱっと嬉しそうに目を輝かせ――それから、わざとらしく自分の額に手を当てて「ああ」と声を上げた。
「でも、らでんさんは今、試験官のお仕事が終わったばかりでお忙しそうですもんね。それに、このあと他にもいろいろ新しいご予定があるんでしょう?」
「えっ……あ、いえ、今はちょっと立て込んではいますけど……」
「無理をさせてはいけませんから、今日はやめておきましょう。またそちらが落ち着いた頃に、改めてご連絡しますね」
一歩踏み込ませたところで、すっと手元の糸を引くような鮮やかな引き際だった。
まだ聞きたいことはいくつもあった。らでんは口を開きかけてから、質問を一つ、先に出すことにした。
「では、依頼元と調査範囲の分かる資料を、先に送っていただけますか。お返事は、確認してからにさせてください」
「ふふ、承知しました。あ、それと、らでんさんが時々やってらっしゃる、あのI-tubeの配信……僕、けっこう楽しみに見てるんですよ。先日の、古い小盆の傷から昔の持ち主のお茶の作法を推理するお話も、すごく面白かったです」
「なっ……! パリストンさん、あれ見てるんですか!?」
「ええ、公開されてるものですから、一ファンとして拝見してますよ。これからも面白いお話を期待してますね。では、僕は会議がありますので、この辺で」
パリストンは綺麗に一礼すると、呆気に取られているらでんの横を通り過ぎ、廊下の奥にある一室へと軽やかな足取りで歩いていった。
一人残されたらでんは、閉ざされたその部屋の扉をしばらく睨みつけていたが、やがて大きく息を吐いて頭を振った。
(……っ、ほんっとうに、どこまで人の神経を逆撫ですれば気が済むんだか! 絶対にあの人のペースには乗らないようにしないと!)
革ケースをぎゅっと抱え直し、らでんは靴音を響かせて協会ビルのロビーへと向かい、外の冷たい風が吹く街路へと出ていった。
◇ ◇ ◇
コツ、コツ、と遠ざかっていくらでんの足音が、廊下の向こうで完全に消えた。
静まり返った部屋の中で、パリストンはデスクの後ろの椅子に深く腰を下ろし、手元に置かれていた数枚の書類の角を、指先でトントンと綺麗に揃えた。
窓の外には、一月の冬の陽光を反射する街並みが広がっている。
パリストンは揃えた書類をデスクの端へ置き、誰もいない部屋の天井を見上げて、ぽつりと独り言をこぼした。
「……釣れるかなあ。暗黒大陸攻略に向けて、ああいう人材も欲しいんですよねえ」