第四話 二百階の、その前に
片耳に挿したイヤホンの奥で、五人分のブレスが揃う。
軽快なピアノのイントロが跳ねて、一番手の声から順番にフレーズがバトンみたいに手渡されていく。先月合わせた仮録音のときより、ずっと滑らかだ。前の人の語尾が消えるほんの少し手前で次の声が滑り込むから、別々の場所で録った音源なのに、同じ部屋の空気を吸っているみたいに聞こえる。
(うん、いい感じ。ここの繋ぎ、すごく綺麗になったな……)
らでんは作業机の端でペン先を揺らしながら、端末の再生バーを眺めていた。
けれど、そのバーが真ん中を過ぎて自分のパートへ差し掛かった途端、眉間が勝手にきゅっと寄った。
一拍に四つも五つも言葉を押し込む早口のラインだ。リズムから遅れてはいない。遅れてはいないのだけれど、息を継ぐ隙間を惜しんで子音を立てすぎるせいで、そこだけ急に早口言葉の発表会みたいに肩へ力が入っている。
「……うーん。また詰め込みすぎてるなあ、これ」
一時停止ボタンを押して、思わず机の上へ突っ伏しそうになる。
言いたいことが多すぎると一息で全部まくしたてようとするのは、好きな美術品の解説をするときからの悪い癖だ。マイクの前で原稿を読むだけならまだしも、メロディに乗せて五人で声を重ねるとなると、自分ひとりが前のめりになった分だけ、後ろへ続く仲間の足元まで窮屈にしてしまう。
画面の通知欄がぴこんと光り、準備室のグループチャットに新しいメッセージが二つ続けて落ちてきた。
歌の話から仲良くなった奏の遠慮のない一言に、ハンター試験の同期で昔馴染みのはじめが続く。少し前には青や莉々華からも衣装の採寸やスケジュール表の確認が上がっていたから、別々の街で動いていても、同じ九月のデビューに向かって時計の針が進んでいるのが分かった。
らでんは片頬を軽く掻きながら、画面のキーボードを素早く叩いた。
送信ボタンを押してイヤホンを外すと、耳の奥に残っていた音楽がすっと引き、代わりに空調の低い稼働音が戻ってきた。
ここは天空闘技場の中層区画にある、催事用の臨時資料室だ。
ハンター試験の一次試験官の担当を終えて、トリックタワーの屋上で受験生たちを見送ってから、もう一か月半ほどになる。その後は先約だった博物館の搬入立会いを片づけ、協会本部で精算を済ませてからも、こうして各地の資料確認や調査の仕事をこなしながら、夜は宿で歌の練習音源を録る日々が続いていた。
二月四日には、二十一歳になった。
二十歳になったばかりの頃と比べれば、遠征先の荷物のまとめ方も、仕事の合間に喉を休める段取りも、だいぶ手慣れてきたとは思う。それでも、自分の専門である文化財の現場を一歩出てマイクの前に立てば、奏やはじめたちに音源を聴いてもらっては、歌い方をあれこれ試している。
「さてと。休憩終わり、っと」
らでんは端末をポケットへしまい、新しい白手袋の指先を一本ずつぴんと引き締めた。
目の前の広い作業台には、天空闘技場の開設初期から数十年前にかけて刷られた興行ポスターや、当時の階級別トーナメント表、審判団の記録帳がずらりと並んでいる。来月この闘技場のロビーで開催される歴史展示に向けて、倉庫に眠っていた古い競技資料の来歴と保存状態を点検してほしい――それが、今回らでんが引き受けた依頼だった。
ルーペを右目に当てて、一番手前に広げられた大判の多色刷りポスターへ身を屈める。
当時の人気闘士が拳を構えた鮮やかな図柄だが、四つ折りにされて木箱へ詰められていた期間が長かったのだろう。紙の折り目の繊維が毛羽立ち、裏面には誰かが後から補修しようとして貼ったらしい茶色いセロハンテープの跡が、経年で飴色に変色してこびりついていた。
「あー……これはちょっと危ないな。折り目のそばまで紙が弱ってる。このまま持ち上げたら裂けかねないぞ」
らでんは手元の調査票に『裏面中央・旧補修テープ周辺に変色と脆弱化。額装は保留。紙とインクの状態を確認し、修復担当と処置方針を協議』と万年筆で書き入れ、部屋の隅で帳簿を整理していた闘技場広報課の職員へ声をかけた。
「すみません、三番の木箱から出た一九六〇年代の興行ポスターなんですが、少し見ていただけますか?」
「はい、なんでしょうか」
小走りにやってきた眼鏡の職員に、らでんはピンセットの先で折り目の端を示した。
「ここ、昔の補修テープが劣化して紙が脆くなっています。来月の展示にそのまま出すと、外すときに真ん中から裂けてしまうかもしれません。ただ、インクの乗り自体はすごく良い状態ですし、右下の印刷所の版元印もはっきり残っているので、先に専門の修復工房で、紙やインクを傷めずにテープを扱えるか調べてもらいたいです。除去するかどうかは、その結果を見てから決めましょう」
「版元印ですか? ああ、この隅の小さな文字ですね。……なるほど、来歴を確かめる手掛かりになるわけですか」
「ええ。当時、闘技場の周辺で勝手に刷られた海賊版のビラも多かったみたいなんですけど、この印と裏の承認番号は、受入記録や当時の興行一覧と照らせる手掛かりになります。そこが一致するか、もう少し確かめたいですね。展示の照明や期間も、紙とインクの状態を見て相談しましょう」
「ありがとうございます、らでん先生! 倉庫の番人からは『ただの古い紙束だ』なんて聞いていたんですが、見てもらって本当によかったです」
職員が慌ててメモ帳へ書き留めるのを見て、らでんは自然と口元が緩んだ。
誰かにとっては倉庫の隅の古紙でも、紙の折り目や小さな印を辿っていけば、何十年も前にこの場所で拳を交えた人たちの熱気や、それを見守った観客のざわめきがちゃんと浮かび上がってくる。それを見つけて次の世代へ渡せる形に整えるのは、何度やっても飽きない仕事だった。
「では、午前の分の仮目録はここまでにしておきますね。午後の状態撮影に入るまで三十分ほど、外の空気を吸ってきてもいいですか?」
「ええ、もちろんです! 一般フロアの飲食店街は今ちょうど昼前の試合の合間で賑わっていますから、どうぞごゆっくり」
白手袋を外して机の端に揃え、らでんは肩をぐるりと回してから資料室の扉を開けた。
◇ ◇ ◇
関係者用の静かな廊下を抜けて一般コンコースへ出ると、途端にポップコーンの焦げる甘い匂いと、何千人もの観客が作り出す地鳴りのような歓声が押し寄せてきた。
高さ九百九十一メートル、地上二百五十一階建て。世界最大の格闘施設である天空闘技場は、一歩ロビーへ出るだけで街が丸ごとひとつ建物の中に詰まっているような活気がある。
(おー、今日もすごい人だなあ。まずは冷たいお茶でも買って……)
らでんが売店の並びを探して吹き抜けの柱の脇を通りかかった、そのときだった。
頭上に吊り下げられた大型の共用モニターから、カーン、という軽快なゴングの音と、アナウンサーの弾んだ実況が降ってきた。
『さあ、百階クラス・Cリングの第三試合! ここまで無敗で駆け上がってきた十二歳の少年、ゴン選手が入場してまいります!』
売店へ向かいかけていたらでんの足が、ぴたりと止まった。
えっ、と顔を上げてモニターを見上げる。
分割された画面の左半分に映し出されていたのは、見覚えのある緑色のジャケットと、ツンツンと逆立った黒髪。大きな瞳をまっすぐ前へ向け、少しも緊張した様子もなくリングの階段を駆け上がっていく少年の姿だった。
「……ゴン君!?」
思わず声が漏れた。
しかも、画面の右下に並んでいる次の試合予定のテロップには、同じ百階クラスの別リングで『キルア選手』の名前まで出ている。
(うそ、二人ともここに来てたの!? しかも、もう百階クラスって……!)
トリックタワーの屋上で「気をつけて行ってらっしゃい」と手を振ってから、まだ一か月半しか経っていない。その間にあの三次試験と、その先の試験がどうなったのか、らでんはまだ協会の最終報告書を見る機会がなかったから知らなかったのだ。
モニターの下に表示されているリング番号と階数案内を素早く確かめる。現在地からなら、直通エレベーターを使えば二分もかからない。午後の作業開始までは、まだ三十分近く残っている。
(よし、お茶はあと! 今のうちに観に行こう!)
らでんは上着の裾を翻し、人波を縫って百階クラスの観客席入口へと駆け出した。
案内表示に従ってCリングのスタンド席へ滑り込むと、ちょうどリングの中央で、ゴンが自分の二倍はありそうな巨漢の闘士と向かい合っているところだった。
開始のゴングが鳴る。
大男が床を踏み鳴らし、丸太のような右腕を振りかぶって突進していく。客席のあちこちから「うわあ、あんなのまともに食らったらひとたまりもないぞ!」と悲鳴に近い声が上がった。
だが、通路の階段で足を止めたらでんには、まったく別のものが見えていた。
ゴンは相手の巨大な拳から、一度も目を逸らしていない。怯えて下がるどころか、相手が踏み込む足の裏の重心がどこへ落ちるかを、まるで森の中で獲物の跳ぶ方向を見極めるみたいに、澄み切った目で見つめている。
大男の拳が風を切った瞬間、ゴンの小さな身体がすっと低く沈み込んだ。
大振りのフックが空を切る、そのすぐ下。相手の脇腹が完全に無防備になった懐へ、ゴンは文字通り一直線に飛び込み、両手のひらを揃えて下から真っ直ぐに突き上げた。
ドォン、と重く腹に響く音がして、巨漢の身体が信じられないほどあっさりと宙へ浮き、そのままリングの床へ沈んだ。
『だ、ダウンーっ! なんてことだ、わずか数秒! ゴン選手の強烈な押し出し一発で、勝負ありーっ!』
わあああっ、と客席が総立ちになって揺れる。
らでんは手すりに両手を乗せたまま、思わず「ひゃあ……」と感嘆の息を漏らした。
力任せに殴り合ったのではない。相手の一番強い場所を紙一重でやり過ごし、一番バランスが崩れる瞬間へ迷いなく飛び込んだのだ。
しかも、審判に勝ち名乗りを受けたゴンは、誇らしげに胸を張るよりも先に、隣のDリングの方へぱっと首を巡らせていた。
視線の先にあるDリングでは、ポケットから抜いたばかりのような無造作な立ち姿のキルアが、今まさに自分の対戦相手の背後へ音もなく回り込み、手刀ひとつで相手をマットへ沈めるところだった。
ゴンがリングの上から大きく手を振り、キルアが肩越しにそちらを見て、ニッと白い歯を見せる。
(……あはは。あの飛行船の夜、会長からボールを取ろうとして飛びかかってたときと、ぜんぜん変わってないや)
かわされるたびに目を輝かせて、二人で息を合わせて踏み込んでいた、あの深夜のホールの熱気がふっと重なる。それと同時に、一か月半前よりも二人の足捌きや間合いの取り方が、見違えるほど実戦に馴染んでいることも一目で分かった。
らでんはスタンドの階段をトントンと降りて、選手たちが引き揚げてくる退場通路の脇へと回った。
タオルを首にかけたゴンと、涼しい顔で歩いてくるキルアが、通路の奥から並んで姿を現す。
「二人とも、お見事でした!」
らでんが柱の影から一歩出て声をかけると、先頭を歩いていたゴンがピタリと足を止め、くるりとこちらを向いた。
大きな茶色の瞳が、ぱちくりと二度瞬きをする。
「……あれ? らでんさん!?」
「お久しぶりです、ゴン君、キルア君」
「うわああっ、ほんとにらでんさんだ! ねえ、今の試合、見てたの!?」
ゴンが顔をくしゃくしゃに輝かせて駆け寄ってくる。その後ろから歩いてきたキルアも、驚いたように目を見開いてから、すぐに人懐っこい笑みを浮かべて手を挙げた。
「よお、お姉さん! なんでこんなところにいるんだよ。まさか、ここでもハンター試験の続きで採点してるとか?」
「それだったら、受付でちゃんと試験官の名札をつけてますよ」
らでんは笑って胸元を軽く叩いてみせた。
「今日は普通のお仕事です。来月ここで開かれる展示のために、昔の試合のポスターや記録を見に来たんですよ。休憩時間にロビーへ出たら、モニターに二人の名前が出てたからびっくりして」
「昔の試合の資料? へえーっ、じゃあさ、オレたちの今の試合も、いつかそういう資料になったりする?」
ゴンが興味津々といった顔で、らでんの手元を覗き込んでくる。
「なるかもしれませんね。これだけ派手に勝ち上がってたら、何十年かあとのハンターが『この十二歳の二人は誰だ』って調べることになるかも。だったら私、さっきのゴン君の潜り込み方と、キルア君の回り込み方、ちゃんと覚えておかなきゃいけませんね」
「へへっ、今の、すっごく綺麗に決まったでしょ!」
「おいおい、オレの方はただ軽く首の後ろを叩いただけだっての。それよりお姉さん、今から少し時間あるんだろ? なんか食いに行こうぜ、腹減った!」
キルアが自分のお腹を叩いてみせる。
試験会場や飛行船で会ったときは、どれだけ打ち解けて話していても、自分の側には『試験官』という役目があった。けれど今は、ただ同じ建物の中でばったり再会した知り合いだ。その気楽さがなんだか嬉しくて、らでんは時計を確かめてから大きく頷いた。
「あと二十分ちょっとありますから、冷たいものでも飲みに行きましょうか。あ、お祝いかどうかも聞きたいですし、今日は私がご馳走しますよ!」
「やったー! じゃあ、あっちのジューススタンド行こう!」
ゴンの元気な声に引っ張られるようにして、三人はコンコースの奥にある吹き抜けのテラス席へと向かった。
◇ ◇ ◇
昼前の光がガラス屋根から差し込むテラス席で、山盛りのホットドッグと大カップのフルーツジュースをテーブルに並べると、ゴンはさっそく自分のポケットをごそごそと探り、一枚のプラスチックカードをテーブルの上へぱちんと置いた。
二重丸の紋章が刻まれた、見紛うことのないハンターライセンスだ。
「らでんさん、見て! オレ、ハンター試験に合格したよ!」
らでんは自分の前のグラスを置き、差し出されたライセンスとゴンの誇らしげな顔を交互に見てから、胸の前でぱちぱちと手を叩いた。
「わあ……! おめでとうございます、ゴン君! 本当に、自分の力で合格したんですね!」
「うん! トリックタワーもその次の島も、すっごく大変だったけど、ちゃんと最後まで残れたんだ。あ、そうだ、クラピカとレオリオも一緒に合格したよ!」
「お二人ともですか!? よかったあ、飛行船でお話しした皆さんが通ったなんて、私も鼻が高いです」
二次試験の会場で他人の首の傷を真っ先に気にかけていたレオリオの顔と、古い文献や品物の来歴の話に真剣に耳を傾けていたクラピカの落ち着いた瞳が思い浮かぶ。あの二人が今頃どこかで同じライセンスを手にしていると思うと、自分のことのように胸が温かくなった。
そこで、らでんはストローを咥えたまま窓の外を見ているキルアへ、そっと視線を移した。
「……オレは、今年は落ちてんだけどね」
キルアは、らでんが何か聞くより先に、自分から肩をすくめて言った。
「最終試験の途中でさ、ルール違反で失格になっちゃって。だから、ハンターになったらタネ明かししてくれるって言ってたお姉さんの扇子の話は、まだお預けってわけ」
わざと茶化すような軽い口調だったけれど、横でゴンが小さく眉を下げてキルアを見ている。
サトツがあれほど手放しで褒めていたキルアの足捌きや、今のリングでの動きを見れば、実力が足りなくて落ちたはずがないことは誰の目にも明らかだ。本人が詳細を語らないなら、そこに踏み込んで理由を詮索するのは野暮というものだろう。
「そっか、今年は残念でしたね。でも、今の試合を見てたら、キルア君がどれだけ強いかは一目で分かりましたよ。……試験のあとは、ずっと二人で行動してたんですか?」
らでんがごく自然に尋ねると、ゴンがぱっと顔を上げて頷いた。
「ううん、試験が終わったあと、キルアは一度家に帰っちゃってたんだ。だから、オレとクラピカとレオリオの三人でキルアの家まで迎えに行って、それからここまで来たんだ!」
「ほら、あのおっさん――レオリオは医者になる勉強をするって言って戻っていったし、クラピカも自分の仕事を探すって言って別れたからさ。で、オレとゴンでこれからどうしようかって話になったわけ」
キルアがホットドッグを一口かじり、ジュースで流し込んでから言葉を継いだ。
「ゴンが次の目標に行く前に、まずはもっと修行して、ついでに旅の資金も稼ごうってなってさ。ここなら勝ち上がれば賞金も出るし、部屋代もタダになるだろ?」
「なるほど。それで天空闘技場へ来たんですね」
らでんは納得して頷きかけた。
けれどそこで、ゴンの握りしめた小さな拳が、テーブルの上のライセンスの横でぎゅっと固くなっているのに気づいた。
「……お金のためだけじゃないんだ、らでんさん」
ゴンが、少しだけ低い、けれど真っ直ぐな声で言った。
「オレ、試験のときにヒソカからこの番号札をもらったんだ。助けられて、貸しを作ったままなんだ。『パンチを一発でも顔に当てられたら受け取ってやる』って言われたから……オレ、ちゃんと強くなって、自分の手でこれをヒソカに返したいんだよ」
ゴンのもう片方の手には、44番の丸い番号札が握られていた。
一次試験の湿原の霧の中で飛んできたトランプの鋭さと、飛行船の夜の通路でこちらを値踏みしていた金色の瞳が、らでんの脳裏をかすめる。
あの44番の奇術師が、どれだけ危険で底の知れない相手かは、肌で知っている。普通の大人なら「そんな危ない相手には近づくな」と止めるところなのかもしれない。けれど、目の前の少年の瞳は、飛行船のホールでネテロ会長のボールを追いかけたときと同じ、いや、それ以上に澄んで真っ直ぐに前を向いていた。
(ああ、そうか。ゴン君にとっては、これも自分の足で前へ進むための大事な約束なんだ)
「……だから、ここでいっぱい戦って、強くなりたいんだ」
「そっか。ヒソカに、自分の手で返しに行くためなんですね」
らでんは番号札を見つめてから、ふっと顔を上げてゴンとキルアを見比べた。
「ちなみに、ここへ来てから今日で何日目なんですか?」
「えーと、十七日に着いたから、今日で四日目!」
「四日で百階クラスですか!? すごいペースですね。その調子だと、あっという間に二百階まで届いちゃいそう」
「うん! このままどんどん上まで行くつもりだよ!」
無邪気に頷くゴンの横で、キルアも「ま、今のところ敵なしだしね」と余裕の顔をしている。
だが、その言葉を聞いた瞬間、らでんは手元のグラスから指を離し、少しだけ真面目な声に切り替えた。
「ゴン君、キルア君。二人がすごく強いのは分かっていますけど、ひとつだけ約束してもらえますか?」
「約束?」
「はい。この天空闘技場は、百九十階までと、その上の『二百階クラス』とで、戦っている人たちの世界がまるで違います。今のまま何も知らずに二百階へ上がってしまうと、二人がどれだけ速く動けても、本当に危ない目に遭うことがあるんです」
らでんは懐から自分の携帯端末を取り出し、画面の連絡先コードを表示して二人の前へ差し出した。
「私は展示資料の調査が終わるまで、もうしばらくこの闘技場と近くのホテルを行き来しています。だから、もし途中で何か変なことに気づいたり、二百階へ上がる試合が決まったりしたら、必ずその前に一度、私へ連絡してくれませんか」
ただの心配性の姉さんとしてではなく、先にこの世界の裏側へ足を踏み入れたハンターとしての、はっきりした声だった。
キルアは少し意外そうに目を丸くしたが、らでんの目が冗談を言っていないと分かると、すぐに自分の端末を取り出して番号を読み取った。
「へえ、二百階ってそんなに違うのか。ま、らでんがそこまで言うなら、番号は入れとくよ。ほらゴン、お前も貸してみろって」
「うん! ありがとう、らでんさん。何かあったらすぐ連絡するね!」
二人の端末に着信確認のベルが鳴るのを確かめてから、らでんはようやくいつもの笑顔へ戻った。
「よし、これでいつでも繋がりますね。じゃあ、私はそろそろ午後の資料整理へ戻ります。二人とも、怪我だけはしないように気をつけて!」
大きく手を振って見送ってくれる二人を背に、らでんは再び関係者用のエレベーターへと向かった。
◇ ◇ ◇
夕方の陽が傾きかけた頃、らでんが資料室の作業台で古いトーナメント表の裂け目を撮影していると、ポケットの中の端末が短く震えた。
画面を見ると、三日前に登録したばかりのゴンの番号だ。
「はい、もしもし。ゴン君?」
『あ、らでんさん! 今、お仕事中? もし時間があったら、オレとキルアでちょっと聞きたいことがあるんだけど……!』
電話の向こうのゴンの声と、すぐ横から割り込んでくる『おいゴン、電話じゃ説明しにくいって!』というキルアの声が重なる。どうやら緊急の怪我やトラブルではなさそうだが、二人の声には妙に真剣な熱がこもっていた。
「ちょうど今日の分の作業を片づけるところだったから、大丈夫ですよ。百階クラスの選手用ラウンジの近くにある、小さい中庭のベンチは分かりますか? 十分後くらいにそこへ行きましょう」
『うん、分かった! そこで待ってるね!』
通話を切って道具を木箱へ戻し、職員に挨拶をしてから中庭へと向かう。
◇ ◇ ◇
闘技場の中層に設けられた吹き抜けの中庭は、試合を終えた選手たちが夕涼みをするための静かなスペースで、今は他に人影もなかった。植え込みの脇のベンチに腰掛けていたゴンとキルアが、らでんの姿を見つけてすぐに立ち上がる。
「お待たせしました。それで、聞きたいことって何ですか? もう百五十階も抜けたんでしょう?」
らでんが隣のベンチへ荷物を置いて尋ねると、ゴンとキルアは一度顔を見合わせた。
先に口を開いたのは、ポケットに両手を突っ込んだキルアだった。
「なあ、らでん。オレたちがここへ来てすぐ、五十階クラスで『ズシ』っていう心源流拳法のやつと知り合ったんだ。オレ、そいつと試合して勝ったんだけどさ」
「ええ。五十階で対戦した相手、ですか」
「そう。あいつ、歳もオレたちと同じくらいだし、動きだってオレよりずっと遅いんだ。力もオレの方が全然上だったし、何回叩きつけてもすぐ倒れるようなやつだった」
キルアはそこで言葉を区切り、自分の靴先を見下ろすようにして、少し苛立たしげに眉を寄せた。
「……なのにさ、試合の途中で、あいつが変な構えを取った瞬間、空気が変わったんだ。なんて言ったらいいか分かんないけど、皮膚のすぐ外側がザワザワして、一瞬だけ『これ以上近づいちゃいけない』って感じがした」
らでんは、黙ってキルアの横顔を見つめた。
「そのときはズシの師匠が止めたから、あいつもすぐやめたんだけど、今日また通路であいつと師匠に会ってさ。『ネン』って言葉が出てきて……あれ、らでんが二次試験でメンチの包丁を扇子で止めたときや、一次試験でヒソカのトランプを捕まえたときと、何か関係あるんだろ?」
隣のゴンも、身を乗り出して真っ直ぐにらでんを見た。
「オレも、試合を見ててびっくりしたんだ。ズシが構えたとき、キルアが急に後ろへ跳んだから。ねえ、らでんさんも、ああいうことできるの?」
夕暮れの風が中庭の葉を揺らす。
二人の目は、単に珍しい手品の種明かしをせがんでいる子どもの目ではなかった。
キルアの声には、自分がこれまで当たり前だと思っていた強さの物差しだけでは測れない『何か』にぶつかり、それを知らないままではいられないという切実な張り詰め方がある。そしてゴンには、自分の目の前に現れた未知のものを、その手で確かめずにはいられない真っ直ぐな衝動があった。
「……そのズシ君っていう子は、ちゃんと先生について習ってるんでしょう?」
らでんが静かに確認すると、キルアが頷いた。
「ウイングさんって人。シャツがズボンから出てる、ちょっと抜けた感じのメガネの人だけど……あいつが師匠って呼んでるくらいだから、その人も使えるんだと思う」
「そっか。ウイングさんっていうんですね」
名前を聞いたことはなかったけれど、五十階クラスでまだ発展途上の弟子に、危ないところでブレーキをかけさせたというだけでも、きちんとした指導者なのだろうと察しがつく。
らでんはベンチの背もたれから背中を離し、二人の顔を正面から見た。
「ズシ君を止めたのは、その子の修行の進み具合を見てのことなんでしょうね。二人は、ウイングさんから何か教わったんですか?」
「いや、オレたちはまだ何も。ズシが何をやってたのか気になったから、らでんに聞きに来たんだ」
キルアが少しもどかしそうに答える。隣で頷いたゴンも、らでんの返事を待っていた。
「そっか。じゃあ、私からお話ししましょう。その前に確認です。二人は今、何階ですか? このまま二百階まで上がるつもりなんですよね?」
「うん! 今、百八十階まで来たから、次の百九十階で勝てば二百階だよ」
「ですよね。……ではまず、心を燃やすって書く『燃』という考え方から、入口のお話をしましょうか」
らでんは立ち上がり、中庭の石畳の上で二人と向かい合った。
誰かの受け売りの教科書を読むつもりはない。自分がジンに叩き込まれ、毎日欠かさず身体を動かして確かめてきた感覚を、一番噛み砕いた言葉にして置いてみる。
「二人とも、試合の前や、誰かと本気で向かい合うとき、自分の気持ちがどこへ向いているか意識したことはありますか?」
「気持ち?」
ゴンが首を傾げる。
「ええ。たとえばゴン君が、森の中で獲物を待っているときでもいいですし、さっきみたいに大きな相手の懐へ飛び込むときでもいいです。余計なことを考えずに『ここへ行くぞ』『絶対に当てるぞ』って、心の中の熱をひとつの方向へぎゅっと集めること。それを、自分の呼吸と一緒に身体の真ん中へ据えるのが、心の力を燃やすって書いて『燃』って言われる入口です」
らでんは自分の胸の前で、両手を軽く合わせるようにして息を吸い、静かに吐き出した。
オーラを練り上げて威圧するような真似はしない。ただ、足の裏から頭のてっぺんまで、自分の意識の芯を一本の糸のようにピンと通して立つ。
「ちょっと、その場で同じように息を吸って、自分が一番集中してるときの感覚を思い出してみてください」
「こう?」
ゴンは言われるがまま、すぐに足を肩幅に開いて、すーっ、と深く息を吸い込んだ。
驚くほど素直な集中の仕方だった。目を閉じて息を整えた途端、ゴンの周りから無駄な力みがすっと消え、いつでも跳び出せる野生の小動物のような静けさが生まれる。
一方、隣で同じように息を吐いてみたキルアは、数秒で片目を開け、納得がいかないという顔で腕を組んだ。
「……らでん。確かにこうすると頭はスッキリするし、集中もできるよ。でもさ、これだけじゃ、あのときズシから感じた『近づいたらヤバい』っていう、あの空気の重さにはならないだろ」
やっぱり、とらでんは内心で舌を巻いた。
実際に肌で異常な圧力を浴びたことのあるキルアは、集中の話だけではあの感覚を説明できないと、もう分かっている。
「さすが、よく見てますね。そうです、今やってもらったのは一番最初の入口だけ。自分の心と身体の向きを揃えるための準備運動みたいなものです」
らでんは隠さずに頷いた。
「そこから先、実際に身体の周りへ力を出したり、私が扇子で包丁を受け止めたりする技術へ進むには、もっと時間をかけて少しずつ身体を慣らしていくのが一番安全なんです。無理に順番を飛ばして先へ行こうとすると、自分の身体を壊してしまうこともあるから、見よう見まねで勝手に試したりしちゃダメですよ」
「へえ、やっぱりその先があるんじゃん!」
キルアの目が鋭く光り、一歩前へ出てきた。
「飛行船で別れるとき、ハンター試験に合格したら教えてくれるって言ってたもんな。……オレ、今年は落ちてるけどさ」
「ええ、本当は試験を全部終えて、落ち着いてから少しずつお話しするつもりでした」
らでんはキルアの目を真っ直ぐに見返した。
「でも、三日前に言いましたよね。二百階クラスは、その『先の力』を使える人たちが当たり前に戦っている場所です。今の二人の勝ち上がるスピードを見たら、何ヶ月もかけてゆっくり準備運動をしているうちに、二百階の扉の前へ着いてしまいます」
「じゃあ、二百階へ上がったら、その先も教えてくれるの!?」
ゴンがぱっと顔を輝かせた。
「二百階へ上がるって決まったら、です。ただし、条件が三つあります」
らでんは指を三本立てて、二人の鼻先へすっと出した。
「ひとつ、百九十階の試合に勝って二百階への昇格が決まったら、その場で必ず私に連絡すること。ふたつ、私が合流するまでは、絶対に二人だけで二百階の通路の奥へ入らないこと。みっつ、上で実際に試合をする前に、必要な準備を私と一緒にすること。……この三つを守れるなら、今の『入口』の続きも、ちゃんと私が教えます」
勝手に危険な独学へ走らせないための、そして知らないまま二百階の洗礼へ飛び込ませないための、はっきりした線引きだった。
ゴンとキルアは顔を見合わせ、それから同時に、力強く首を縦に振った。
「分かった! 百九十階に勝ったら、すぐ電話する!」
「ああ、約束するよ。どうせ明日には百九十階の試合が組まれるだろうし、すぐ連絡するから待っててよね、らでん」
「はい、楽しみに待ってますよ。明日は私もすぐ動けるように、仕事の区切りをつけておきますね」
この二人なら、きっと本当に明日勝ってしまうのだろう。らでんは午後の作業の順番を考えながら、大きく手を振って別れた。
◇ ◇ ◇
午後三時を少し回ったところで、らでんの端末に『百九十階、二人とも勝ったよ! 今から二百階へ行くエレベーターの前で待ってる!』というゴンからの元気な連絡が入った。
「ほんとに一日で抜けてきちゃった……!」
想定していたとはいえ、あまりの快進撃に思わず笑いがこみ上げる。
らでんはすでに午前中のうちに傷んだ資料を支持板へ移し、修復担当への連絡も終え、広報課の職員へ「午後は少し長めに席を外します」と引き継ぎを済ませてあった。白手袋を外して肩掛け鞄を掴み、すぐさま高層階行きのエレベーターへと乗り込む。
二百階への乗り継ぎロビーで待っていたゴンとキルアは、らでんの姿を見つけると、二人で手を振った。「らでんさん、こっちこっち!」と呼びかけたのはゴンだった。
「二人とも、昇格おめでとうございます! 約束通り、ちゃんと待っててくれましたね」
「うん! ここから先は、らでんさんと一緒に行くって決めてたもん」
「で、らでん。まずはどこへ行けばいいんだ? このエレベーターで二百階へ上がればいいのか?」
「はい。まずは二百階の受付へ行って、クラスの登録手続きと、どういうルールになっているのかを確認しましょう。そのあとで、昨日の続きのお話をします」
三人で二百階直通のエレベーターへ乗り込む。
百九十階までの喧騒が嘘のように消え、階数表示のランプが静かに『200』を灯して扉が開いた。
足を踏み出した先は、赤い絨毯が敷かれた、ひどく静かで長い廊下だった。観客の歓声もアナウンサーの実況も届かない。窓のない壁面に一定の間隔で照明が並び、ずっと奥の方に受付カウンターらしき案内板が見えている。
らでんが二人の半歩前に出て、その廊下を曲がった瞬間だった。
ぴたり、とらでんの足が止まった。
ゴンとキルアも、ほぼ同時に息を呑んで足を止める。
赤い絨毯の廊下の真ん中。受付へと続く一本道の途中に、ひとりの男が壁へ背を預けるようにして座り込み、長い指先でトランプのカードをもてあそんでいた。
赤みがかった逆立った髪に、頬の星と雫のペイント。
ヒソカだった。
(……っ、まずい)
らでんの背筋に、冷たい緊張が走った。
二百階に念の使い手がいること自体は、最初から分かっていた。だからこうして付き添ってきたのだ。けれど、よりによって今このタイミングで、この二人を一番面白がっていて、しかも試験のときからこちらにも妙な関心を向けていたこの奇術師が、廊下の真ん中で待ち構えていようとは。
ヒソカがゆっくりと顔を上げ、金色の細められた瞳でゴンとキルア、そしてその前に立つらでんの姿を順番に撫でた。
「やあ、よく来たね♣ ……おや、一次試験のお嬢さん。今度は試験官じゃなくて、付き添いかな♠」
低く、粘りつくような甘い声が廊下に響く。
らでんは上着の下で静かに重心を引き下げ、自分の身体の周囲を包む《纏》の密度を一段高めながら、普段通りの落ち着いた声で返した。
「ええ。今日はこの二人と、これからの手続きの話をしているところなんですけどね」
「フフ、仲がいいね♦ でも、特にそこの二人にはまだ早いよ」
ヒソカがすっと立ち上がった。
その瞬間、廊下の空気が、鉛を流し込まれたみたいに重く歪んだ。
ヒソカの全身から、むき出しの殺意と悪意を塗り込めた膨大なオーラが、どす黒い突風となって通路いっぱいに膨れ上がったのだ。
「っ……!?」
「な、なんだ、これ……!?」
後ろにいたゴンとキルアの喉から、押し潰されたような呻きが漏れる。
ズシが五十階で見せた一瞬の圧力などとは桁が違う。肌を直接刃物で撫でられるような悪意の奔流に、生身のままの少年二人は一歩も前へ出られず、震える足で床を踏ん張るのがやっとだった。
「なら、ちょうどいいじゃないか♠ 先生役のお嬢さんが、ここから先のことも教えてあげたらどうだい?」
ヒソカの視線は、らでんひとりに向けられているのではない。
必死に歯を食いしばって前へ踏み出そうとするゴンの目と、冷や汗を浮かべながらも睨み返しているキルアの目、そしてその二人の前で盾になるように立つらでんの反応を、心底楽しそうに値踏みしている。
(私がひとりで前へ出ても、意味がない……!)
らでんは瞬時に判断した。
自分なら、このオーラの圧力を押し切り、向こうの受付まで歩くことはできる。けれど、ここでヒソカと正面からぶつかり合えば、すぐ後ろにいる無防備なゴンとキルアが余波をまともに浴びてしまうし、自分だけが受付へ行ったところで二人の登録はできない。
らでんは自分の《纏》を保ったまま、二人の前へ身体を入れた。ヒソカから目を離さず、片手を後ろへ伸ばしてエレベーターの方を示す。まだ動けるうちに、この場を離れさせなければ。
「ゴン君、キルア君。今は無理に前へ出なくていいです。私のすぐ後ろについて、ゆっくり足を引いて」
「で、でも、らでんさん……オレ、行かなきゃ……!」
「今すぐここを通らなくても、道はあります。ほら、昨日の約束の三つ目、覚えてるでしょう?」
らでんの静かで揺るがない声に、キルアがハッと息を呑み、今にも踏み出そうとしていたゴンの腕を横から強く掴んだ。
「……待て、ゴン! 今らでんの言う通りにしないと、本当に動けなくなるぞ!」
そこへ、廊下の脇の扉から、二百階クラスの受付係の女性がバインダーを抱えて慌てて顔を出した。
「あの、本日二百階へ昇格されたゴン様とキルア様ですね! クラス登録の手続きは、今夜の零時が締め切りとなっております!」
受付係の声が、張り詰めた廊下に響く。
「午前零時までにそちらのカウンターで登録を済ませられない場合、ゴン様は一階からのやり直しとなります。また、キルア様は以前にも一度、二百階での未登録による降格記録がございますので……規定により、今回登録を逃されますと、今後一切この天空闘技場での出場登録ができなくなってしまいます! どうぞお気をつけください!」
らでんはヒソカから目を離さないまま、耳だけでその言葉を正確に拾い上げた。
(今日中の零時まで。しかもキルア君は、前にも一度ここへ来て登録しなかったことがあるんだ……!)
時計の針は、まだ午後の三時半を過ぎたばかりだ。零時までは八時間以上ある。
「案内、ありがとうございます。時間までには必ず伺いますので」
らでんは受付係へ短く声を返し、そのままヒソカの視線を正面から受け止めながら、ゴンとキルアを背にかばって一歩ずつエレベーターホールへと下がった。
「フフ……待っているよ、お嬢さん。そして、良い目をした少年たち♦」
ヒソカはそれ以上追ってはこなかった。ただ、廊下の真ん中に立ったまま、三人を乗せたエレベーターの扉が閉まるまで、三日月型の笑みを浮かべてこちらを見送り続けていた。
◇ ◇ ◇
百階クラスのフロアまで一度降りて、らでんが資料整理の拠点として借りている控え室の扉を内側からロックすると、ゴンとキルアはようやく肩で大きく息をついた。
二人とも、額から首筋にかけてびっしょりと冷や汗をかいている。
らでんは冷蔵庫から出したミネラルウォーターのボトルを二本渡し、向かいの椅子に腰を下ろした。
「二人とも、まずはお水を飲んで、少し呼吸を整えてください」
「……なんだよ、あれ」
キルアがボトルのキャップを捻り開けながら、まだ自分の手のひらに残っている震えを睨みつけるように言った。
「ズシのときより、何十倍もヤバかった。風が吹いてるわけでもないのに、前へ一歩出たら全身を切り刻まれそうな感じがして……あんなの、ただの気合いなんかじゃないだろ。なあ、らでん、あれが本当の『燃』なのか!?」
「うん。オレも、身体が勝手に止まっちゃった」
ゴンもボトルを両手で握りしめ、悔しそうに唇を噛んでいる。
「らでんさんの声が聞こえて、やっと後ろへ動けたけど……自分ひとりだったら、きっとあそこから動けなかった」
らでんは静かに頷いた。
「ええ。あれが、昨日お話しした『燃』の先にある力――『念』です。人の身体からは、誰にでも少しずつ『オーラ』っていう生命エネルギーが湯気みたいに漏れているんですけど、それを自分の意思で操れるようにした技術のことを念って呼びます」
机の上のメモ用紙を裏返し、らでんは万年筆で簡単な人の輪郭を描いた。
「さっきヒソカがやっていたのは、そのオーラに『これ以上近づいたら殺す』っていう強い悪意を乗せて、二人の身体へ直接ぶつけてきていたんです。生身のまま、つまり自分のオーラをまとっていない状態でその中へ突っ込んでいくのは、真冬の吹雪の中へ裸で飛び込むのと同じくらい危険なんですよ」
「自分のオーラを、まとう……?」
「はい。全身にある『精孔』っていうオーラの出口を開いて、そこから出てくる自分のオーラを、服や鎧みたいに身体の周りへ留めておく技術です。それを『纏』って言います。あの圧力から自分の身体を守るには、二人も自分のオーラをまとえるようになる必要があります」
らでんは描いた人影の周りを、一本の線で囲んだ。まずは、自分の身を守れるところまで。二人の視線がその線を追うのを待ってから、顔を上げる。
「じゃあ、オレたちもその『精孔』っていうのを開いて、『纏』ができるようになれば、あそこを通れるようになるんだね!」
ゴンがガタッと椅子から立ち上がりかけた。
だが、らでんはすぐに頷かず、万年筆を机に置いて二人の目を真っ直ぐに見た。
「方法は、ふたつあります。ひとつは、昨日やった呼吸や集中を何ヶ月も続けて、自分の力で少しずつ精孔を開いていく方法。これが一番安全で、身体にも負担がかかりません」
「何ヶ月もって……それじゃ、今日の夜中の零時に間に合わない!」
キルアが身を乗り出した。
「そうです。零時に間に合わせるなら、もうひとつの方法――すでに念を使える私が、自分のオーラを二人の身体へ送り込んで、その刺激で精孔を一気に開かせるやり方しかありません」
らでんはそこで、はっきりと言葉を切った。
「ただし、このやり方にはちゃんとした危険があります。外からの力で急にすべての出口が開くわけですから、何もしないでいると、身体の中のオーラがどんどん外へ溢れ出してしまいます。それを自分の力で身体の周りへ留める――つまり、開いたその場で『纏』を掴めなければ、全身のエネルギーが抜けきって、動けなくなってしまうこともあるんです」
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
らでんは二人の顔を見比べながら、あえてもうひとつの選択肢をテーブルの上へ置いた。
「さっき受付の人が言っていた通り、今日の零時を過ぎれば、ゴン君は一階からやり直しになりますし、キルア君は前にも一度登録を見送っているから、この天空闘技場ではもう試合ができなくなります。……でも、命や身体と引き換えにしてまで、今日絶対に上がらなきゃいけない場所じゃありません」
脅すのでも、試すのでもない。大人が年下の二人に危険な橋を渡らせる以上、引き返す道があることも隠さずに示す義務がある。
「もし少しでも不安なら、今回の二百階登録は見送って、明日から時間をかけてゆっくり覚える道を選んでもいいんですよ。闘技場に出られなくなっても、強くなる場所は他にいくらでもありますから。……二人は、どうしたいですか?」
ゴンとキルアは、すぐには答えなかった。
けれど、迷っている沈黙ではなかった。
先に顔を上げたのは、ゴンだった。
「オレ、今日やりたい」
迷いのない、まっすぐな瞳だった。
「せっかくここまで来たのに、ヒソカの前に立ったまま引き返すのは嫌だ。それに、誰かに守ってもらって通るんじゃなくて、ちゃんと自分の足で、あの廊下の先へ行けるようになりたい!」
その隣で、キルアもふっと口の端を上げ、椅子から立ち上がった。
「オレもやるよ。六歳のときに親父から『二百階まで行ったら帰ってこい』って言われて、あのときは何があるかも知らないまま登録しないで降りたんだ。でも、今日やっとその先にあるものが分かったのに、また知らないまま尻尾巻いて帰るなんて絶対にゴメンだね」
キルアは、ゴンに続くようにではなく、らでんをまっすぐ見て答えた。もう知らないままでいたくない。その言葉を、らでんは受け取った。
らでんは二人の目を順番に見つめ、それから深く息を吐いて、自分も椅子から立ち上がった。
「……分かりました。二人とも、自分の言葉でちゃんと決めましたね」
らでんは上着の袖口をきゅっと捲り上げ、いつも文化財の重い木箱や危うい遺物を扱うときと同じ、真剣で澄んだ顔つきになった。
「じゃあ、今からは私の話もちゃんと聞いてくださいね。途中で苦しくなったら、無理をしないで必ず言うこと。二人が自分の力でオーラを留められるようになるまで、私も最後まで責任を持って見ますから」
「うん! よろしく、らでんさん!」
「ああ、よろしく、らでん」
試験官と受験生として出会い、街で再会した三人が、教える者と教わる者へと変わった瞬間だった。
◇ ◇ ◇
控え室の中央にある絨毯の上へ椅子を片づけ、らでんは二人を自分の前へ横並びに立たせた。
「まずは上着を脱いで、力を抜いて立ってください。私が後ろから、二人の背中に手を当ててオーラを流します。敵意や攻撃の気持ちは一切入れませんから、怖がらずに、自分の身体の内側で何が起きるかだけをよく感じていてくださいね」
ゴンが緑のジャケットを脱ぎ、キルアも身軽なシャツ一枚になって深呼吸をする。
らでんは二人の背後へ回り、自分の呼吸を深く静かに整えた。
両手のひらへ、穏やかで均質なオーラを集める。傷つけるための鋭い練ではない。凍えた手を温めるお湯のように、柔らかくて密度のある流れだ。
「いきますよ。――はい」
らでんの両手が、ゴンとキルアの背中の真ん中へ、そっと同時に触れた。
手のひらから送り出した温かいオーラが、二人の皮膚を通り抜け、眠っていた全身の精孔へと静かに波紋を広げていく。
一秒、二秒。
ボワッ、と音を立てるように、二人の小さな背中から、真っ白でみずみずしいオーラが一斉に噴き上がった。
「うわあっ……!?」
「な、なんだこれ、体中が熱い……!」
ゴンが目を丸くして自分の両手を見下ろし、キルアがバッと振り返ってらでんを見た。
そのキルアの瞳が、らでんの身体の周りを包んでいる淡いオーラの揺らぎを捉えて、大きく見開かれる。
「ら、らでんの周り、なんか白く光ってるぞ……!? ゴン、お前の体からも、湯気みたいなのがぶわーって出てる!」
「ほんとだ! すごい、さっきまで何も見えなかったのに、今ははっきり見えるよ!」
目の奥にある精孔も一緒に開いたことで、今まで見えなかったオーラが、二人の視覚にはっきりと映り始めたのだ。
(よかった、二人とも綺麗に全部の精孔が開いた……! しかも、なんて綺麗で勢いのあるオーラなんだろう)
だが、感心している暇はない。開いたばかりの精孔から、二人の生命エネルギーが白い蒸気のように天井へ向かってどんどん立ち昇り、空気中へ溶けて消えていっている。
「二人とも、見惚れてないで! 今見えているその白い湯気が、自分たちのオーラです。そのままだと全部外へ逃げて疲れ切ってしまいますから、今すぐそれを自分の身体のすぐ近くに留めるイメージを持って!」
らでんは二人の正面へ回り込み、自分の身体を包む《纏》の輪郭を、少しだけ分かりやすく濃くしてみせた。
「外へ飛び出していくものを、無理やり手で押し戻そうとしちゃダメですよ。昨日やった『燃』の呼吸を思い出して、自分の皮膚の上にもう一枚、温かい空気の服を着るみたいに、身体の周りをぐるっと巡らせるんです!」
むかし、宿の縁側で初めて自分のオーラに触れた夜も、見たい、捕まえたいと焦るほど、その薄いぬくもりを見失いそうになった。答えを急がず、頬のすぐ外側から全身へ感覚をつないでいった、あの呼吸。今はそれを、目の前の二人が試せる言葉にして渡す。
「温かい空気の服……!」
ゴンはすぐに目を閉じ、足の裏で絨毯をぐっと踏みしめた。
最初は肩や頭のてっぺんからボワボワと不規則に噴き出していたゴンのオーラが、深い呼吸ひとつごとに、少しずつ丸みを帯びていく。途中、力みすぎて胸のあたりだけが大きく膨らみ、背中側が薄くなりかけた。
「ゴン君、前だけじゃなくて、背中や足の後ろ側も同じ温度ですよ。焚き火の熱を、自分の身体の周りだけでくるくる回す感じ!」
「……うん、後ろも一緒……!」
その一言で、ゴンの肩からスッと余計な力が抜けた。
噴き上がっていた白い蒸気が、まるで透明な繭が落ち着くみたいに、ゴンの小さな身体の輪郭に沿ってピタリと張りつく。外へ霧散していた流れが止まり、穏やかで力強いオーラの層が、全身を均一に包み込んだ。
一方、隣のキルアは、目を開けたまま自分の腕から立ち昇るオーラをじっと睨みつけていた。
感覚で一気に掴んだゴンとは違い、キルアは指先や肘のあたりから逃げていくオーラの筋を、自分の目で追いかけながら、ひとつずつ頭でコントロールしようとしている。そのため、腕の周りを抑えれば肩から漏れ、肩を抑えれば足元から抜ける、という具合に少しだけ波立っていた。
「くそ、なんだよこれ、あっちを止めるとこっちから出るぞ……!」
「キルア君、一箇所ずつ蓋をしようとしなくていいんです!」
らでんはキルアの手元を指差した。
「キルア君がいつも音もなく歩くとき、右足と左足を別々に考えて動かしたりしないでしょ? 全身の重心をひとつにまとめて滑らせるみたいに、オーラも『頭の先から爪先まで全部でひとつの流れ』だと思ってみてください」
キルアの瞳が、ハッと動いた。
「……全部で、ひとつ」
キルアがふっと息を吐き、リングの上で相手の背後へ滑り込むときのような、自然で無理のない立ち姿へ重心を落とした。
すると、それまであちこちで跳ねていたオーラの毛羽立ちが、嘘のようにすうっと静まり、滑らかな薄い膜となってキルアの全身をぴたりと覆った。
「……お。止まった」
キルアが自分の両手を握ったり開いたりして、皮膚のすぐ外側を流れる温かい層の感触を確かめる。
ゴンも目を開け、自分の身体とキルアの身体を包んでいる安定したオーラを見て、ぱあっと顔を輝かせた。
「できた! ねえキルア、らでんさん、オレたちちゃんと留められてるよね!?」
らでんは、目の前で並んで立つ十二歳の二人を見つめたまま、思わず目を瞬かせた。
外からオーラを送り込んで強制的に精孔を開いた場合、普通なら自分のオーラを落ち着かせるだけでも何時間も悪戦苦闘し、ヘトヘトに座り込んでしまうものだ。それを、たった十数分、しかも二言三言のアドバイスを自分の感覚へ置き換えただけで、ここまで綺麗に《纏》の形へまとめてしまうなんて。
(……すごいなんてもんじゃないぞ、この二人。教えてる私の方がびっくりしちゃった)
見事だ。もっと驚いていたいけれど、先に二人の息と、漏れ出すオーラを確かめなければ。
らでんは自分の驚きを笑顔の奥へしまい込み、二人の肩口や足元のオーラの揺らぎをぐるりと一周して点検した。
「……はい、合格です! 二人とも、今のでちゃんと『纏』ができていますよ。外へ漏れていた分がしっかり身体の周りに留まっているから、さっきより身体が温かくて、軽く感じるでしょう?」
「うん! なんだか、このまま何時間でも走れそう!」
「へえー、これが纏か。……なあらでん、これならもう、さっきのヒソカのところも通れるよな? 他にもなんか技があるなら、今のうちに全部教えてくれよ!」
キルアが目を輝かせて身を乗り出してくる。
らでんは「こらこら」と人差し指を立てて、キルアの額の前で軽く振った。
「欲張らないの。今日は精孔を開いて、初めての纏を掴んだばかりです。今は楽しくて元気いっぱいに見えても、初めてオーラを動かしたあとは、自分が思っている以上に神経も体力も使っています。今夜これ以上別のことを詰め込んだら、それこそ明日動けなくなっちゃいますよ」
「えー、ケチだなあ」
「ケチじゃなくて、大事な順番です。まずはその『纏』を、歩いているときも、誰かと話しているときも、意識しすぎずに保てるかどうか確かめましょう。……ほら、その状態で部屋の中を少し歩いてみてください」
二人が顔を見合わせ、部屋の中をぐるりと歩いてみる。
最初は足元のオーラが少しだけ揺れたが、二周目にはもう、歩調に合わせて自然な厚みのままオーラがついてくるようになっていた。
時計の針を見ると、午後五時を少し回ったところだ。零時の締め切りまでは、まだたっぷりと時間がある。
「よし、息の乱れもありませんね。これなら大丈夫です」
らでんは控え室の扉のロックを外し、二人を振り返った。
「じゃあ、二百階へ戻りましょうか。今度は私の後ろに隠れるんじゃなくて、二人とも自分の足で、あの廊下を歩いてみてください」
「「うん!!」」
ジャケットを羽織り直したゴンと、ポケットに手を入れたキルアが、力強く頷いた。
◇ ◇ ◇
再び二百階直通のエレベーターへ乗り込み、扉が開く。
赤い絨毯の廊下には、さっきと同じように、ヒソカが壁際に立ってトランプを弄んでいた。
三人がエレベーターから降り立った瞬間、ヒソカの金色の瞳が細まり、再びあの粘りつくような悪意のオーラが廊下いっぱいに吹き荒れた。
ゴォッ、と空気が重く鳴る。
だが――。
ゴンとキルアは、足を止めなかった。
もちろん、ヒソカの放つオーラの総量と悪意の鋭さは、今の二人の覚えたての《纏》よりもずっと大きく、肌を刺すような冷たさは消えていない。二人の額にうっすらと汗が滲む。
それでも、生身の皮膚へ直接突き刺さっていたさっきとは違う。自分自身の身体を包む温かいオーラの膜が、ヒソカの悪意の風を確かに一枚外側で受け止めている。
ゴンは真っ直ぐ前を見据えて一歩を踏み出し、キルアも隣で肩を並べて、赤い絨毯の上をしっかりと歩いていく。らでんは今度は前に出ず、二人の一歩後ろから、いつでも支えられる距離を保って静かに続いた。
「……ほう♠」
ヒソカの手の中で、トランプの動きが止まった。
わずか二時間足らずで全身に《纏》をまとって戻ってきた少年二人と、そのすぐ後ろを涼しい顔で歩いてくるらでんを見て、ヒソカの口元がぞっとするほど嬉しそうに深く裂けた。
「いい先生を見つけたみたいだね、ゴン♦ ……いいよ、ここは通してあげる。この二百階クラスでキミがどれだけ育つか、楽しみに待っているから♠」
ヒソカの圧力が、ふっと潮が引くように収まった。
ゴンはヒソカのすぐ横を通り過ぎるとき、一度だけ足を止めずに真っ直ぐ彼を見返し、そのままキルアと一緒に奥の受付カウンターへと進み出た。
「い、いらっしゃいませ! 二百階クラスへのご昇格、おめでとうございます!」
先ほどの受付係の女性が、目を丸くしながらも慌てて登録用紙を二枚差し出す。
「こちらにお名前をご記入いただければ、二百階クラスの選手登録は完了となります。なお、二百階クラスは原則としてファイトマネーが支給されず、名誉を懸けて戦っていただくことになります。また、武器の使用も認められております。九十日間の戦闘準備期間がございます。その期間内で希望日を申告できますので、実際の試合のお申し込みは、準備が整われてから別窓口にてお願いいたします!」
「やったあ、間に合ったーっ!」
ゴンがペンを受け取って大きく自分の名前を書き、キルアも隣でさらさらとサインを済ませる。
二枚の登録証が発行されたのを見届けて、らでんも後ろでほっと胸を撫で下ろした。
「二人とも、よく頑張りましたね。これで立派な二百階クラスの選手です」
「へへっ、らでんさんのおかげだよ! あの廊下、ちゃんと自分の足で歩けた!」
「ああ。まだちょっと肌がピリピリしたけど、さっきみたいに足がすくむ感じは全然なかったよ」
登録証を手に笑顔を見せる二人に、らでんは優しく、けれど釘を刺すのも忘れずに言った。
「今日できたのは、二百階の入り口に立つための『纏』です。さっき受付の人も言っていた通り、この階では武器を使う人もいますし、自分だけの特別な念の技を使って戦う人ばかりです。上で実際に試合をするための準備は、ここからが本番ですよ。まだ勝手に試合の申し込みをしちゃダメですからね」
「うん、分かってる! ねえ、らでんさん、明日もこの続きを教えてくれる?」
ゴンが期待に満ちた目でらでんを見上げた。
「はい、もちろんです。まずは今日できた『纏』を、明日も同じようにすぐ出せるか、そしてもっと長く保てるようにするところから練習しましょう」
らでんが頷くと、横からキルアがひょいと首を傾げて尋ねた。
「でもさ、らでん。そっちの昔のポスター調べる仕事とかは大丈夫なのかよ? オレたちに付き合ってたら、時間がなくなっちゃうんじゃないの?」
「あ、気を使ってくれてるんですか? 優しいですねえ、キルア君」
「別に、そういうんじゃないって。 途中で『仕事があるから帰る』とか言われたら困るから聞いただけ!」
顔を少し赤くしてそっぽを向くキルアに、らでんはくすっと笑った。
「大丈夫ですよ。展示資料の点検は昼間の決まった時間に集中して進めて、夕方からの時間を二人の修行に充てられるように、明日の朝のうちに広報課の人とスケジュールを組み直します。最後まで見るって言ったからには、そこもちゃんと相談して決めましょう」
「ほんと!? やったあ、ありがとう、らでんさん!」
「じゃあ、今夜は二人とも割り当てられた部屋へ入って、お風呂に入ってぐっすり寝ること。明日の夕方四時に、またあの中庭で待ち合わせましょう」
二百階の自分の部屋番号が記されたカードキーを受け取り、元気よく「おやすみなさい!」と廊下の奥へ駆けていく二人を見送ってから、らでんはひとりエレベーターへと戻った。
◇ ◇ ◇
一階ロビーへ向かう箱の中で、ふとポケットの端末を取り出す。
画面には、夕方からそのままになっていた準備室のチャットに、奏からの『らでん、録り直しは無理しなくていいですよー! また聴かせてね!』という気遣いのメッセージと、みんなが合わせた新しい練習音源のファイルが届いていた。
(……ふふ。二人には『無理しないで』って言ってきたばかりなのに。今度は私が言われちゃった)
片耳にイヤホンを挿し、ロビーの自動扉を抜けて夜の街路へと歩き出す。
再生ボタンを押すと、夜風の中で五人の声が明るく重なった。念の修行ではあの二人の少し先を歩きながら、こちらの新しい挑戦では自分も仲間たちに頼って一歩ずつ覚えていく。
らでんは自分のパートの入りを確かめるように小さくハミングしながら、ホテルの明かりが並ぶ大通りへと軽やかに足を踏み出した。