朝の九時ちょうどに臨時資料室の扉を開けると、闘技場広報課の職員はすでに奥の書架の前で木箱の番号札を並べ替えていた。
「おはようございます、らでん先生。昨日は遅くまでお疲れさまでした」
「おはようございます。すみません、今朝は作業へ入る前に、ひとつだけ日程の相談をお願いしたくて」
らでんは肩掛け鞄を下ろすより先に、手元のスケジュール帳を開いて作業台の端へ置いた。
昨夜、二百階の廊下でゴンとキルアを見送ったあと、ホテルへ戻ってから書き直しておいた段取りのメモだ。昼間のうちに展示資料の来歴確認と状態撮影をどこまで進められるか、日ごとの割り振りを細かく書き出してある。
「今日からしばらくの間、夕方四時以降にどうしても外せない用事ができまして。その代わり、朝九時から午後三時半まではお昼休みを詰めて作業台へ張りつきますし、夜に部屋でできる目録の清書や承認番号の照合は宿泊先へ持ち帰って進めます。来月の展示準備に遅れが出ないよう、この工程表で組み直させてもらえないでしょうか?」
眼鏡の職員は差し出されたメモへ目を落とし、一拍だけ目を丸くしてから、すぐにほっとしたように顔を綻ばせた。
「なんだ、急に改まっておっしゃるから、てっきり別の大きな調査が入って引き揚げられるのかとヒヤヒヤしましたよ! ええ、もちろん構いませんとも。実は修復工房の方からも、連絡を入れるなら午後三時までにしてほしいと言われていたところなんです」
「あ、本当ですか? じゃあ、傷んだポスターや記録帳の引き渡し時間も、ちょうどその枠で噛み合いますね」
「はい。昼間のうちに現物の確認さえ済ませていただければ、夕方の施錠や倉庫への戻し作業はこちらでやっておきますから、どうぞお時間になったら気兼ねなく上がってください」
職員が快く工程表へ確認の印を入れてくれるのを見て、らでんは胸を撫で下ろした。
これで誰かに嘘をついたり、引き受けた調査を雑に切り上げたりせずに、夕方からの時間を二人の修行へ回せる。約束を守るための足場がちゃんと固まると、白手袋へ通す指先まで自然と軽くなった。
そこからは宣言通り、脇目も振らずに資料の束と向き合った。
昨日見つけた一九六〇年代の興行ポスターを保護用の支持板ごと修復担当へ引き渡し、続いて七〇年代から八〇年代にかけての審判団記録帳を一冊ずつ開いていく。万年筆のインクが掠れた古いページには、当時の選手がどんな武器を持ち込み、何階でどんな反則や場外負けがあったかが、審判ごとの癖のある字でぎっしり書き込まれていた。
(へえ……この頃の二百階クラス、鎖鎌だの鉄扇だの、ずいぶん大掛かりな得物を持ち込んでたんだなあ。それを紙の帳面ひとつでさばいてた審判の人たちも、相当な手練れだったんだろうな)
気になる記述を見つけては付箋を貼り、展示パネルの解説に使えそうな箇所を抜き出していくうちに、時計の針はあっという間に午後の三時半を指していた。
らでんは使ったルーペと万年筆をケースへ戻し、机の上の仮目録を揃えて立ち上がった。
◇ ◇ ◇
午後四時少し前、中層フロアの吹き抜けにある中庭へ出ると、植え込みの奥からパシッ、パシッ、と小気味よく空気を切る音が聞こえてきた。
石畳の広場で、ゴンとキルアが向かい合って軽く拳を合わせている。
本気の組手ではない。お互いの掌を標的代わりにして、踏み込みと引きのタイミングを確かめるような動きだ。けれど、二人の小さな身体の周りには、昨日覚えたばかりの白いオーラが薄い陽炎のようにしっかりと留まっていた。
「こんにちは、二人とも。昨日はよく眠れましたか?」
らでんがベンチの脇から声をかけると、二人は同時に足を止めて振り返った。
「あ、らでんさん! うん、二百階の部屋、すっごく広くてびっくりしたよ!」
「よお、らでん。ほんとに四時ぴったりに来たな。仕事の調整、ちゃんとうまくいったのか?」
「ええ、広報課の人がすごく協力的で、昼間のうちに現物確認をまとめる形にしてもらえました。だから夕方からは予定通り、二人の時間です」
らでんは鞄をベンチに置きながら、二人の肩口や足元を包んでいる《纏》の層をそっと観察した。
昨日、控え室で精孔を開いた直後は、意識を少し逸らすだけで湯気のように外へ逃げかけていたオーラが、今はだいぶ落ち着いている。部屋へ戻ってからも、寝る前や今朝起きたあとに自分たちで何度も試してみたのだろう。
「来るなり早速やってみせてくれてたんですね。立ったまま集中しているときは、昨日よりずっと輪郭が綺麗です」
「へへっ、朝起きてすぐやってみたら、昨日よりすぐ出せたんだ! 身体の周りがずっとポカポカしてて、なんか不思議な感じ!」
「じゃあ、そのままの状態で、私のところまで普通に歩いてきて、このペットボトルを片手で受け取ってみてください。――はい、キルア君から」
らでんは鞄から出したお茶のボトルを、予告なしにひょいとキルアの胸元へ放った。
「おっと」
キルアは反射的に右手を伸ばしてボトルを掴み取った。
だが、その瞬間、ボトルへ意識が向いたキルアの左肩と背中側のオーラが、ふっと風に吹かれたように薄くなり、一拍遅れてまた元の厚みへと戻った。
「……あ。今、背中のほうがちょっと抜けたな」
らでんが指摘するより先に、キルア自身が自分の肩を振り返って舌打ちした。
「よく気づきましたね。次はゴン君、そのベンチの背もたれを飛び越えて、こっちへ着地してみて!」
「うん!」
ゴンが元気よく地面を蹴り、軽々とベンチを跳び越えて石畳へ着地する。
跳ぶ瞬間までは均一だったオーラが、着地で膝を曲げた拍子に足元へどっと偏り、頭のてっぺんから白い湯気がぽわっと一筋だけ外へ漏れた。
「あれっ? 今、頭の上からちょっと逃げちゃったかも」
ゴンが自分の頭を両手で押さえて目をぱちくりさせる。
らでんは二人の前へ歩み寄り、自分の身体を包む《纏》を保ったまま、片足で軽くステップを踏んでみせた。
「二人とも、一日でそこまで自分のオーラの動きに気づけるのは本当にすごいです。ただ、今やってみて分かった通り、『纏を保つこと』だけに集中しているときは綺麗でも、急に物を捕ったり、跳んだりして別のことに気を取られると、意識から外れた場所のオーラがすぐ揺らいでしまうんです」
「そっか。らでんの周りの白いのは、さっきボトルを投げたときも全然形が変わらなかったもんな」
キルアがボトルのキャップを指で弾きながら、じっとらでんの足元から肩口までを観察している。
「なあ、らでん。この纏っていうのはさ、ずっと練習してれば、寝てるときでも勝手に消えないようになるのか? それとも、戦うときだけ出すもんなの?」
「理想は、起きている間も寝ている間も、息をするのと同じくらい当たり前に保てるようになることです。そこまで身体に馴染むと、不意打ちを受けても生身で直撃をもらわずに済みますし、普段の疲れ方も全然違ってくるんですよ」
らでんが答えると、キルアは「へえ、寝てるときもかよ」と面白そうに目を細めた。
だが、その隣で自分の手のひらをじっと見つめていたゴンは、いつもならすぐ「じゃあもう一回跳んでみる!」と駆け出すはずなのに、その場から動かなかった。
開いた手のひらをゆっくりと握りしめ、自分の拳の周りで揺れている淡いオーラを見つめている。それから、すっと顔を上げてらでんを見た。
「ねえ、らでんさん」
「はい、なんでしょう?」
「オレ、二百階の試合に申し込んで、今、戦ってみたいんだ」
中庭を吹き抜ける夕方の風が、植え込みの葉をさらさらと鳴らした。
唐突なようでいて、思いつきで口にした声ではなかった。昨日あの赤い絨毯の廊下を自分の足で歩き、登録証を受け取ったときから、ずっと胸の真ん中で温めていた言葉をそのまま取り出したような、澄んだ声だった。
らでんはすぐには笑わず、ゴンの真っ直ぐな茶色の瞳を見つめ返した。
「……ゴン君。昨日、受付の前でお話ししたこと、覚えていますか? 勝手に試合の申し込みはしないって約束しましたよね」
「うん、覚えてる。だから、勝手に申し込むんじゃなくて、先にらでんさんに言おうと思って」
ゴンは一歩も退かずに頷いた。
「昨日、纏を教えてもらって、ヒソカの前に立ったとき、さっきまで一歩も動けなかったのにちゃんと前へ歩けたよね? それがすっごく嬉しかったんだ。だから、今のオレがこの纏を使って、二百階の人と戦ったらどこまでできるのか、自分で確かめてみたいんだ」
「おい、ゴン。お前なあ……」
横からキルアが、呆れたように肩を落として割り込んだ。
「さっきペットボトル捕ったりベンチ跳んだりしただけで、まだオーラが揺れてたばっかりだろ。らでんが昨日言ってたじゃんか、二百階のやつらはただ纏ってるだけじゃなくて、武器使ったり特別な技使ったりするって。オレだって早く強いやつとやりたいけどさ、昨日のヒソカみたいなのを相手に、これだけで突っ込むのはさすがにヤバいって分かるだろ」
キルアの言葉は、驚くほど冷静で真っ当だった。五十階でズシの異質な気配を肌で感じ、昨日はヒソカの殺意を正面から浴びたからこそ、今の自分たちがまだ『入り口に立っただけ』だと正確に理解している。
それでも、ゴンはキルアの方を向いて、困ったように、けれど少しも揺らがずに笑った。
「うん。勝てるって思ってるわけじゃないんだ、キルア。ヒソカにパンチを当てて番号札を返すには、今のままじゃ全然足りないのも分かってる。……でも、自分が今どのくらい足りないのか、ほんとの試合でぶつかってみないと分からない気がするんだ」
キルアが「ったく……」と言葉に詰まり、ちらりとらでんの方を見た。
『ほら見ろ、こいつは一度言い出したら絶対に聞かないぞ』とでも言いたげな、友達の無茶を知り抜いている目だった。
らでんは胸の奥で深く息を吸い、二人の前へしゃがみ込む代わりに、背筋を伸ばしたまま静かに口を開いた。
「ゴン君。約束を守って、申し込む前にちゃんと私へ話してくれたことは、ありがとうございます。でも、教えてる立場からはっきり言いますね。――今のまま試合に出るのは、私は反対です」
柔らかい声ではあったけれど、曖昧な笑顔は混ぜなかった。
「昨日のヒソカの廊下を通れたのは、ヒソカが『通路にオーラを広げて威圧していただけ』だからです。向こうは拳もトランプも振っていませんでした。でも、実際の試合は違います」
らでんは自分の右手に、普段の《纏》よりも少しだけ密度を上げたオーラを集めてみせた。
「《纏》は、自分の身体から漏れるオーラを留めておく一番基本の技術です。もちろん生身のときよりはずっと丈夫になりますけど、相手の念攻撃をなんでも跳ね返せる魔法の鎧じゃありません。二百階の選手たちは、ここからさらにオーラを大きく膨らませたり、武器に強いオーラを乗せてぶつけてきたりします。それを今の覚えたての纏だけで受け止めたら、簡単に防ぎきれない重さが身体へ通ってしまうんです」
「防ぎきれない重さ……」
「はい。相手を倒すにしても、自分の身を守るにしても、まずはもっとたくさんのオーラを生み出す練習と、それを動きの中で強く使う技術が要ります。だから、戦うのはせめて二か月我慢してください。九十日の準備期間があるんですから、その間に私ができる限りのことを教えます。試合に出るのは、それからでも遅くないはずです」
言えるだけの理屈は、隠さずに全部並べた。
自分がジンに基礎を叩き込まれたとき、ただオーラをまとうだけの段階から実戦で使えるようになるまで、どれだけ地味な反復が要ったかを知っている。十二歳の少年の身体が、格上の念能力者の攻撃でどうなるかも想像がつく。
ゴンは、らでんの言葉を遮らずに最後まで聞いていた。
自分の拳を見下ろし、それからもう一度顔を上げる。
「……ごめん、らでんさん」
ゴンの声は、静かだった。
「二か月待ったほうが安全なんだっていうのは、ほんとに分かる。らでんさんがオレの身体のことを心配して言ってくれてるのも、ちゃんと分かってるんだ。……でも、どうしても今、戦ってみたい」
「ゴン君……」
「頭で『危ないからやめよう』って思うだけじゃなくて、自分の身体で、二百階がどういう場所なのか知りたいんだ。だから、お願い。一回だけ、今のオレで戦わせてほしい」
らでんは唇を結んだ。
ここで大人の腕力と念を使って、無理やりゴンの襟首を掴んで部屋へ閉じ込めることはできる。あるいは「勝手にしなさい、私はもう知りません」と突き放して帰ってしまうこともできるだろう。
けれど、目の前の少年は、嘘をついてこっそり受付へ走ったのではない。自分を信じて、真正面から「今、戦ってみたい」とぶつけてきているのだ。飛行船の夜、到底かなわないネテロ会長を相手に、何度も何度も床を蹴って跳びかかっていったあの瞳と、同じ光がそこにある。
(……力ずくで取り上げたら、この子はきっと納得しない。でも、私がここで頷いたら、この子が怪我をするかもしれない責任は、間違いなく私にもある)
物分かりのいい先生ぶって「きっといい経験になるよ」なんて綺麗事で背中を押す気にはなれなかった。そんな保証はどこにもない。
数秒の重い沈黙のあと、らでんはふうっと長く息を吐いた。
「……やれやれ。本当に、一度決めたら梃子でも動かないんですね、ゴン君は」
らでんは自分の額に片手を当てて苦笑し、それから真っ直ぐにゴンの目を見た。
「いいですか、ゴン君。私は今でも、今回の試合には反対です。『よし、行ってらっしゃい』って笑顔で太鼓判を押すことはできません」
「うん」
「でも、ゴン君が約束を守って私に相談してくれて、そのうえでどうしても自分の身体で確かめたいって決めたなら、私が力ずくでそれを止めることはしません。……その代わり、申し込みも試合も、私が必ず横で見届けます。そして、その一戦が終わったら、結果がどうであっても、その先は私の言う通りの順番で修行してもらうこと。いいですね?」
ゴンの顔が、ぱあっと明るく輝いた。
「うん! ありがとう、らでんさん!」
「お礼を言われるようなことじゃありませんよ。先生としては、止めきれなかった時点で落第点なんですからね」
らでんが肩をすくめると、横で聞いていたキルアが「あーあ、結局らでんも押し切られたじゃん」と頭を掻いた。
「で、お前はほんとに申し込むんだな、ゴン? 言っとくけど、オレは今回の申し込みはやめとくぜ。お前がどうなるか見てからでも全然遅くないしな」
「うん、キルアは見てて! じゃあ、今のうちに申し込みの窓口へ行ってくる!」
こうしてその日の夕方、三人は再び二百階の受付奥にある参戦申告窓口へと向かった。
差し出された申し込み用紙は、九十日の戦闘準備期間の中で希望する日程にチェックを入れる四択の様式になっていた。特定の日付を三つまで指定する欄や、期間を指定する欄が並ぶ中、ゴンは迷わず三番目の『いつでもオーケー』の四角に大きくチェックを入れて窓口へ提出した。
対戦相手をこちらから選べるわけではない。あとは闘技場側のマッチングで戦闘日が決まり次第、客室のモニターへ通知が届く手筈になっていた。
◇ ◇ ◇
ゴンへの試合決定通知が届いたのは、それから数日後のことだった。
二百階の客室にある大型モニターへ『戦闘日決定!! 225階闘技場にて 3月11日午後3:00スタート!!』という文字が映し出され、対戦相手として『ギド』という登録選手の名前が告げられたと、すぐさまゴンから電話が入ったのだ。
二月二十四日に精孔を開いてから、三月十一日の初戦まで、およそ二週間。
翌日にいきなりリングへ放り込まれる日程ではなかったことに、らでんはほんの少しだけ安堵しつつも、決して気を緩めなかった。
そこから三月前半にかけての毎日は、昼間の調査と夕方の修行が規則正しく回る日々となった。
昼の臨時資料室では、修復工房から戻ってきた一九六〇年代のポスターの状態確認を皮切りに、数十年分の興行記録の照合が順調に進んでいた。面白い発見もあった。昔の二百階クラスの記録帳を辿っていくと、ただ腕っぷしが強いだけの選手が二百階へ上がった途端に一勝もできず姿を消している一方で、体格の小さな選手が何年も同じ階に留まり、独自の武器や戦法で勝ち星を重ねている例がいくつも出てきたのだ。
(やっぱり、この階は昔から『自分の型』を完成させた人たちの場所なんだな……)
帳面の数字や審判の短い所見を読むたび、あと十日あまりでそのリングへ上がるゴンの背中が頭に浮かんだ。
夕方四時になると、らでんは約束通り中庭や選手用の空きラウンジへ顔を出し、ゴンとキルアの基礎練習に付き合った。
といっても、二週間のうちに《練》や《発》といった先の技術を次々に詰め込むような真似はしなかった。今のゴンに中途半端な攻撃技の理屈だけを教えても、昨日今日で実戦の威力にはならないし、かえって基礎の《纏》を崩して自滅する元になる。
だから、らでんが徹底させたのは、どんな体勢で走っても、急に方向転換しても、相手のフェイントに反応しても、全身を包む《纏》の膜を均一に保ち続けることだけだった。
「よし、今のステップは二人とも足元のオーラが全然乱れませんでしたね! 最初の頃みたいに、跳んだ瞬間に頭から湯気が抜けることもなくなりました」
三月に入ったある日の夕方、石畳の上で軽快に足を止めた二人を見て、らでんは素直に褒めた。
実際、二人の飲み込みの速さは目を見張るものがあった。十日ほど毎日欠かさず身体を動かしたことで、今では会話をしながら走っても、不意に横からタオルを投げつけても、二人の《纏》はぴたりと皮膚のすぐ外側に定着している。
「へへっ、もう意識しなくても、ずっと温かい服を着てるみたいになってきたよ!」
「まあな。でもさ、らでん。これだけ纏が安定してても、やっぱりらでんと打ち合ったら全然歯が立たないじゃん。十一日の試合、ほんとにこれだけで行くのかよ?」
キルアが首にかけたタオルで汗を拭きながら、少し心配そうにゴンとらでんを見比べる。
らでんも頷いた。基礎の定着としては百点満点に近い。けれど、それと『二百階の念能力者に勝てること』の間には、まだ埋まらない大きな隔たりがある。
「キルア君の言う通りです。今のゴン君ができるのは、自分のオーラを逃がさずに守ることまで。もし十一日の相手が、自分の武器や技に強い念を乗せて攻めてきたら、纏の上からでも重いダメージを受けることは絶対に忘れないでくださいね。危ないと思ったら、無理に勝ちに行くんじゃなくて、まず自分の身を守ること。いいですね?」
「うん! ちゃんと気をつける!」
元気よく頷くゴンの声に嘘はない。けれど、その真っ直ぐな目が『どこまで通じるか試す気満々』であることも隠せていなくて、らでんは帰り道のエレベーターの中でひとり小さくため息をつくのだった。
◇ ◇ ◇
試合を数日後に控えた夜、ホテルの自室で録音マイクを片づけていると、机の上の端末が明るく鳴った。
準備室のグループチャットに、先ほどらでんが送ったばかりの再録音ファイルへの返事が届いている。
画面の文字を見ただけで、奏が向こうでぱちぱちと手を叩いている姿が目に浮かぶようだった。らでんはベッドの端に腰掛けたまま、思わず口元を緩めて返信を打つ。
画面の上でポンポンと跳ねる同期たちの言葉が、心地よい温度で胸に落ちてくる。
文化財の調査や念の世界では、自分が『先生』と呼ばれて年下の二人を導く立場に立っているけれど、この五人の場所へ戻ってくれば、得意なことも苦手なことも持ち寄って、遠慮なく「ここはこうして」「そっちは任せた」と言い合える友達がいる。
それでも、『全部を一息で詰め込もうとすると苦しくなる』『一回ちゃんと息を継いだ方が次へ繋がる』という奏との何気ないやり取りは、不思議と今の自分の胸にも静かに響いていた。
らでんは端末の画面を閉じ、窓の外にそびえる天空闘技場の無数の明かりを見上げた。
◇ ◇ ◇
一九九九年三月十一日、午後三時少し前。
二百二十五階の闘技場フロアは、百階クラスまでの明るいスポーツ会場のような空気とは打って変わって、どこか薄暗く重々しい熱気に包まれていた。
すり鉢状にせり上がった観客席の中央に、四角い石造りのリングが浮かび上がっている。ファイトマネーが出ない名誉だけの階層とはいえ、二百階クラス特有の武器戦や異様な技を目当てに集まった観客たちで、スタンドはかなり埋まっていた。
「らでん、ここならリングの端まで全部見えるよ」
キルアが最前列に近い通路脇の席を確保して手招きする。
らでんはその隣へ歩み寄り、手すりのすぐ向こうにあるリングとの距離を確かめた。ここからなら、床の石畳の継ぎ目も、選手たちの呼吸やオーラの揺らぎもはっきりと見て取れる。先ほど選手控え室の前でゴンを送り出したとき、彼の《纏》はここ二週間で一番落ち着いた厚みをしており、顔色も良かった。
「あの……失礼ですが、ゴン君とキルア君のお知り合いの方ですか?」
不意に横から控えめな声が掛かり、らでんとキルアが同時に振り向いた。
通路を挟んだすぐ隣のブロックに、白い道着を着た少年と、メガネをかけた青年が並んでいた。青年のワイシャツの裾は、キルアが以前言っていた通り、ズボンの後ろから少しだけはみ出している。
「あ、ズシ! それとウイングさんじゃん。二人もゴンの試合見に来たのかよ」
「オス! ゴン君が二百階で初めての試合をするって掲示で見たので、師匠と一緒に応援に来ました!」
ズシが背筋を伸ばして元気よく頭を下げる。
その隣で、ウイングと呼ばれた青年が穏やかな目でらでんを見て、軽く会釈した。
「初めまして、ズシの師匠をしているウイングといいます。二人が無事に二百階の登録を済ませたと聞いて気になっていたのですが……あなたが、お二人に念の手ほどきをされた先生ですね」
声は物腰柔らかいが、レンズの奥の瞳には、こちらの《纏》の整い方を静かに見極める熟練者の光があった。五十階でズシの《練》を的確に制止したというのも頷ける、落ち着いた佇まいだ。
「初めまして、ハンター協会の儒烏風亭らでんと申します。先日、中庭で二人からズシ君のお話を伺いまして、そのまま成り行きで私が基礎を見ることになりました。よそのお弟子さんのお話から入ることになってしまって、すみません」
「いえいえ、とんでもない。あの日、私の方こそキルア君に中途半端な嘘をついて警戒させてしまいましたから、ちゃんとした導き手の方がそばにいてくださって安心しました」
ウイングはほっとしたように微笑んだが、すぐにリングの方へ視線を向け、少しだけ眉をひそめた。
「……ただ、登録からまだ二週間ほどですよね。もう初戦に出るというのは、少し早い気がしますが」
「はい。私からも二か月は待つように止めたんですが、どうしても今の自分で確かめたいと本人が決めまして」
らでんが正直に答えると、ウイングは「なるほど……あの子らしいですね」と小さく息をついた。ウイングは唇を結び、ズシを自分の脇へ寄せた。らでんもリングへ目を戻した。
そのとき、会場の照明が一段落ち、入場口へスポットライトが当たった。
『さあ、お待たせいたしました! 二百二十五階闘技場、本日の第三試合! 無敗のまま二百階クラスへと駆け上がってきた十二歳の新星、ゴン選手の登場です!』
わああっ、と歓声が上がる中、緑のジャケットを着たゴンがリングへと上がってくる。
その全身には、二週間毎日欠かさず磨き上げた《纏》のオーラが、揺らぎのない白い膜となってしっかりとまとわれていた。ゴンは客席のらでんとキルアを見つけて一度だけ小さく頷き、リングの中央へと進み出る。
続いて反対側の花道から、ゴツゴツとした金属の釣鐘のような防具で下半身を覆った男――ギドが、硬い金属音を響かせながら現れた。
『対するは、この二百階クラスで数々の挑戦者を葬ってきた独楽の闘士、ギド選手! 本日もあの不気味な音がリングを支配するのかーっ!』
キルアが身を乗り出し、目を細めてギドの下半身を見つめた。
「……おい、らでん。あいつの周りにもオーラが出てるけど、なんか懐から小さいコマをいっぱい出してないか?」
「ええ。ただの飾りじゃありませんね」
らでんは手すりを握る指に少し力を込めた。
開始のゴングが鳴り響く。
その瞬間、ギドの全身から《纏》よりもはるかに強く練り上げられたオーラが膨れ上がり、手元から放たれた十個の独楽が一斉にリングの床へと散らばった。
ギュルルルルッ! と空気を裂くような高い回転音が響く。
ただの独楽ではない。ギド自身のオーラが一つ一つの独楽にたっぷりと込められており、石畳の上を猛烈な速度で跳ね回りながら、不規則な軌道でゴンの方へと迫っていく。
「っ……!」
ゴンは《纏》を固めたまま、正面から飛んできた独楽を拳で弾き返そうとした。
だが、ガヂンッ! と硬い音が弾けた途端、ゴンの小さな身体が後ろへと大きく弾き飛ばされた。
「なっ……!? あんなちっちゃいコマに当たっただけで、ゴンが飛ばされたぞ!?」
キルアが驚きの声を上げる。
リングの上では、体勢を立て直したゴンが、今度は散らばる独楽の間を縫ってギド本体へ直接飛び込もうとしていた。しかし、ギド自身が下半身の金属カバーを軸にして高速で回転を始めると、ゴンの繰り出した蹴りは竜巻のような回転の壁に弾かれ、そこへ背後から回ってきた別の独楽がゴンの背中と肩を立て続けに打ち据えた。
ドォン! と重い衝撃音がして、ゴンがリングの端まで転がり、危うく場外へ落ちかけるのを両手で踏みとどまる。
「くそっ、あのコマ、ゴンを追いかけ回してるのか!?」
「いいえ、よく見てください、キルア君」
らでんはリングの上を跳ね回る独楽の軌道を、瞬きもせずに追っていた。
ゴンの背後を襲った独楽のうちの二つが、直後にリングの中央で鉢合わせし、ガキンと火花を散らして別々の方向へ弾け飛んでいる。
「今、独楽同士でもぶつかって弾けましたよね。ゴン君だけを見分けて追っているわけではなさそうです」
隣の通路の向こうで、ウイングも小さく頷いているのが見えた。
「回る力と、ぶつかったものを弾く力に、オーラを集中させているんだと思います。動きは単純でも、あの数で進路を塞がれて、ギド本体にも近づけない。ゴン君には、抜ける場所を選ぶ余裕がないんです」
「じゃあ、どうすりゃ勝てるんだよ!? あのコマを全部壊すか、本体をぶっ飛ばすしかないだろ!」
「理論上はそうです。ギドが疲れ果ててオーラが切れるまで耐えるか、あの回転の防御を上回るだけの強いオーラで一気に吹き飛ばすか。……でも、そのどちらをやるにしても、今のゴン君には圧倒的にオーラの量が足りません」
らでんは奥歯を噛みしめた。
ゴンはまだ《練》を覚えていない。オーラを瞬時に大きく膨らませる術も、それを自分の技として撃ち出す《発》も知らない。二週間で《纏》をどれだけ綺麗に保てるようになっても、オーラを武器に乗せて攻防を組み立てるギドとの間には、何年分もの技術の差が横たわっている。
リングの上で、肩で息をしながら立ち上がったゴンも、今の数回の激突でそれを嫌というほど肌で理解したはずだった。上着の袖が裂け、《纏》で守っていたはずの腕や肩にはすでに赤黒い打撲の跡が浮かんでいる。
『さあ、ゴン選手、早くも追い詰められたーっ! ギド選手の舞闘独楽の陣を前に、近づくことさえできないのかーっ!』
さらにギドが追加の独楽を放ち、リングの上を跳ね回る独楽の数は五十個近くにまで増え上がった。石畳の床が生き物のようにうねり、逃げ場のない弾幕が四方八方からゴンを囲む。
(もう十分確かめたはず。これ以上は、本当に防ぎきれなくなる……!)
らでんが立ち上がりかけ、いつでも声を張り上げられるように息を吸った、そのときだった。
リングの中央に立つゴンが、ふっと両目の瞼を閉じた。
ダラン、と両腕の力が抜ける。
次の瞬間――ゴンの全身を包んでいた白い《纏》のオーラが、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え失せた。
「……えっ!?」
らでんの喉から、息を呑む音が漏れた。
隣のキルアが「おい、ゴンのオーラが消えたぞ!?」と立ち上がり、通路の向こうのウイングとズシも「なっ……!」「絶!?」と目を見開いて身を乗り出す。
(《絶》……!? うそ、私、まだゴン君に《絶》なんて一言も教えてない……!)
全身の精孔を完全に閉じ、自分の身体から出るオーラと気配をすべて断ち切る技術。
なぜ、基礎の《纏》しか教えていないはずの少年が、そんな高度な切り替えをいきなりリングの上でやってのけたのか。
もしや、念という言葉を知るより前から、森の暮らしの中で気配を消すやり方を覚えていたのか。くじら島で育ったと聞いたことが、らでんの頭をよぎった。
だが、その驚嘆は一瞬で凍りつくような恐怖へと変わった。
「ゴン君、ダメ!! 今ここでオーラを消したら――!」
らでんが思わず手すりを叩いて叫びかけた瞬間。
ヒュン、と背後から迫った独楽を、目を閉じたままのゴンが、首をほんの紙一重傾けただけでかわした。
続けて右から飛んできた二つ目の独楽を、半歩の体重移動でやり過ごし、足元を掠めた三つ目を軽く跳んで躱す。
「……あ、当たらない……!?」
キルアが信じられないものを見るように呟いた。
さっきまで目を開けて《纏》を張り、必死に構えていたときよりも、今のゴンの動きは比較にならないほど滑らかで、鋭かった。
自分のオーラを断ち、目まで閉じたゴンは、独楽が近づくたび、触れる直前に身体をずらす。音か、気配か、空気の動きか。らでんにはまだ判別できなかった。
(あの子……勝つためじゃない。この試合の真っ最中に、相手の念を感じ取って避ける修行をしてるんだ……!)
らでんの背筋に、冷たいものと熱いものが同時に駆け上がった。
普段でさえ微弱に流れている生命エネルギーまで完全に閉ざした《絶》の状態では、念攻撃に対する防御力は文字通りのゼロになる。《纏》を張っていたさっきでさえ吹き飛ばされたあの独楽を、もし今の完全な無防備の身体で一発でもまともに食らえば、ただの打撲では済まない。骨が砕け、打ち所が悪ければ命に関わる。
今すぐ止めるべきだ。先生として「棄権します」と審判へ叫ぶべきだ。
けれど――。
手すりを握りしめたらでんの目の前で、ゴンは四つ、五つ、十と、四方から襲いかかる独楽の嵐を、まるで森の風と戯れるみたいに次々とすり抜けていく。
一分が過ぎ、五分が過ぎ、十分が過ぎた。
最初は『一発でも掠ったらすぐに止めよう』と息を詰めていた。だが、ゴンは五分前よりも今、今よりも次の瞬間へと、目に見える速さで独楽の軌道を読み切り、足の運びを研ぎ澄ませていく。
そのあまりにも純粋で、底知れない吸収の速さに、らでんの目が奪われた。
(すごい……本当に、自分の身体ひとつで、二百階の念の速さを掴みかけてる……)
「今、戦ってみたい」と言ったゴンの言葉が、頭の中で反響する。
あの子は自分の力で確かめると決めてあのリングに立ち、今まさに自分の感覚を切り拓いている。これだけ避け続けられているなら、あともう少しだけ、本人が納得するまで見守れるのではないか。もし足が止まりかけたら、その瞬間に私が声を上げて止めればいい――。
そんな甘い計算が、らでんの胸をよぎった。
時計の針が回り、三十分が過ぎ、四十五分が過ぎても、リングの上の奇妙な光景は終わらなかった。
『な、なんということだーっ! ゴン選手、目を閉じたまま一切の攻撃を出さず、ギド選手の五十個の独楽をひたすら避け続けています! その時間は、もう六十分を超えましたーっ!』
アナウンサーの興奮した絶叫が会場に響き渡る。
一時間以上。
十二歳の少年が、一発当たれば大怪我をする念の弾幕の中で、神経を極限まで張り詰めて回避だけを続けていた。
「おい、らでん……ゴンの息、だいぶ上がってきてないか?」
キルアの硬い声に、らでんはハッと我に返った。
見れば、ゴンの額から顎にかけて滝のような汗が流れ落ち、石畳を踏むふくらはぎがわずかに震えている。どれほど野生の勘が鋭くても、一時間を超える極限の集中で、体力と神経が限界まで削り取られているのは明らかだった。
そして、リングの端で弾け合った独楽が、折り重なるようにゴンへ向かって跳ねた、その瞬間だった。
右から迫った独楽を避けたゴンの左足が、汗で濡れた石畳の上で、ほんのわずかに滑った。
(あっ――!)
「ゴン君、もうやめて! レフェリー、ストップ――!!」
らでんが客席の手すりから身を乗り出し、喉が裂けるほどの大声で叫んだ。
だが、らでんが叫び終わるより先に、ゴンのすぐ脇で独楽が跳ねた。
体勢が崩れたゴンの懐へ、三つ、四つの独楽が同時に飛び込む。
とっさに目を開けたゴンが、顔を庇うように右腕を前へ出した。だが、守りのオーラが戻った様子は、らでんの目には見えなかった。
ゴキッ、と会場のざわめきを突き抜けるような、鈍く嫌な音が響いた。
生身の右腕を直撃した独楽が骨を砕き、そのまま弾かれた勢いで別の独楽がゴンの無防備な右脇腹――肋骨へとめり込むように激突した。
「ぐあっ……!!」
ゴンの小さな身体が、糸の切れた人形のように宙を舞い、リングの外の硬い床へと叩きつけられた。
「ゴン!!」
キルアが通路の階段を飛び降りるより早く、らでんは手すりを飛び越えてリングサイドへと駆け下りていた。
◇ ◇ ◇
リング脇の床に倒れ込んだゴンのそばへ膝をついたとき、審判はすでにカウントを止めて試合終了のゴングを鳴らし、救護班の担架を呼んでいた。
「ゴン君! 息はできる!? 動かなくていいからね!」
らでんは震えそうになる自分の指先を必死に抑え込みながら、ゴンの肩口へと手を添えた。
つい二時間前まで「行ってきます!」と元気よく手を振っていた少年の右腕が、不自然な角度に腫れ上がり、緑のジャケットの下の胸郭が、浅い呼吸のたびにひゅうっと苦しげに鳴っている。
自分のオーラを流したところで、折れた骨が繋がるわけでも、砕けた肋骨の痛みが消えるわけでもない。らでんにできるのは、救護班の医師が到着するまでの数十秒間、ゴンが無理に身を起こして折れた骨で内臓を傷つけないよう、そっと肩を支えておくことだけだった。
「……らでん、さん……キルア……あはは、ごめん、最後、よけきれなかった……」
脂汗で前髪を張りつかせたゴンが、白い唇でかすかに笑おうとする。
「喋るな、バカ! お前、右腕も脇腹もめちゃくちゃに腫れてるじゃねーか!」
駆けつけたキルアが、悔しさと焦りで声を荒らげながらも、ゴンの邪魔にならないよう必死に拳を握りしめて立っている。そこへウイングとズシも駆け下りてきて、担架を持った救護スタッフのために周囲の野次馬を静かに押し分けてくれた。
◇ ◇ ◇
そこからは、医務室の医師による処置が最優先で進められた。
レントゲンと固定処置が終わるまで、らでんとキルアは医務室の前の廊下で待たされた。
白い消毒液の匂いが漂う中、ようやく出てきた担当医の説明は、重いものだった。
右腕の橈骨と尺骨の完全骨折に加え、上腕骨にも亀裂が入っていること。そして肋骨は三か所が完全に折れ、さらに十二か所に亀裂骨折が見られること。幸いにも折れた骨が肺などの臓器を突き破ってはいないものの、全治には四か月ほどを見込む重傷だという。当面は固定と安静を保ち、経過を診ながら動ける範囲を決めていく必要があった。
ストレッチャーに乗せられたゴンが、右腕を肩から白いギプスと三角巾で厳重に固定され、胸から脇腹にかけて厚いバンドを巻かれた状態で、二百階の自室へと運ばれていく。
らでんは医師への礼と今後の通院確認の署名を済ませ、カルテの控えを受け取ってから、一歩遅れて二百階の廊下へと向かった。
◇ ◇ ◇
赤い絨毯が敷かれた、あの静かな廊下だ。
二週間前、三人で肩を並べて歩いたこの道を、今は重傷を負った十二歳の少年を運んだあとで、ひとりで歩いている。
(……私が、止めなかったからだ)
バインダーを抱えた自分の手を見る。
ゴンが《絶》に入った瞬間、それがどれほど危険か、らでんには分かっていた。一時間もの間、いつ骨が砕けてもおかしくない綱渡りを見つめながら、「あともう少し見たい」「本人が決めたことだから」と自分に言い訳をして、決定的な一撃が入るまで声を上げるのを遅らせたのは、他の誰でもない、指導者である自分自身だ。
そのときだった。
「――止めなかったんだね♣」
廊下の角の柱に背を預けて、ヒソカが立っていた。
いつからそこにいたのか、気配さえ消していたわけではないのに、らでんは数歩手前まで近づいて、ようやくその存在に気づいた。
ヒソカはトランプの束を指先で滑り落としながら、金色の細められた瞳でらでんの顔を覗き込んだ。
「入り口でキミが盾になったときは、もっと過保護な先生かと思っていたよ♦ まさか、あの子がオーラを消してからの一時間、骨が折れるまでリングの下で黙って見ているとはね♠」
慰めるような響きは微塵もない。かといって、怪我をした少年を心配して責めているのでもない。
ただ、あの二百二十五階の客席からすべてを観察していた奇術師が、『止めると言いながら止めきれなかった教師の選択』を、極上の見世物でも味わうみたいに面白がっている声だった。
らでんの胸の奥が、ちくりと冷たく刺されたように痛んだ。
言い返す言葉なら、いくらでも作れたかもしれない。「本人の意思を尊重したんです」「あなたに言われたくありません」と。けれど、ここでヒソカを相手に自分の正しさを言い募ったところで、ベッドの上で痛みに耐えているゴンの骨が一本でも元に戻るわけではなかった。
らでんは足を止め、ヒソカの金色の瞳を正面から見返した。
「……ええ。私の判断が甘かったんです。先生としては、大失敗ですね」
隠さず、逸らさず、それだけを静かに言った。
「だから、これからあの子のところへ行って、ちゃんと話し直してきます。失礼しますね」
ヒソカの目が、わずかに見開かれ、すぐに三日月型へと細まった。
「フフ……そうかい♣ 次にその子とキミがどんな顔で出てくるか、また楽しみにしておこう♦」
らでんはそれ以上振り返らず、ヒソカの横を通り過ぎてゴンの部屋の扉へと向かった。
◇ ◇ ◇
コンコン、とノックをして広い客室の扉を開けると、窓際のベッドの上で、ギプスで固められた右腕を胸の前に抱えたゴンが上半身を少しだけ起こしていた。ベッドの脇の椅子には、キルアが腕を組んで座っている。
「あ、らでんさん……」
ゴンが、バツが悪そうに眉を下げてこちらを見た。
「ごめんなさい。らでんさんが『まだ早いから反対だ』って止めてくれたのに、オレがわがまま言って出たせいで、こんなになっちゃった……」
素直に頭を下げようとして、胸のバンドが障ったのか「いたたっ」と小さく顔をしかめる。
らでんはベッドのすぐ脇まで歩み寄り、ゴンの目線と同じ高さになるように丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「動いちゃダメですよ、肋骨に響きますから。……それと、謝るのはゴン君だけじゃありません」
らでんは膝の上で両手を揃え、ゴンの目を真っ直ぐに見て頭を下げた。
「ごめんなさい、ゴン君。ゴン君は約束通り、申し込む前にちゃんと私へ相談してくれました。それに対して『反対だけど見届ける』なんて中途半端な頷き方をして、試合中も止めるタイミングを逃したのは私です。ここまで大きな怪我をさせてしまったのは、先生である私の責任です」
「えっ……ううん、そんなのらでんさんのせいじゃ――」
「いいえ、お互いに自分の選んだことはちゃんと言葉にしましょう。……ねえ、ゴン君。まずは教えてもらえますか? どうして試合の途中で、急にオーラを消したんですか?」
頭ごなしに叱りつけるのではなく、本人があのリングの上で何を感じ、何を考えていたのかを確かめる声だった。
ゴンは少しだけ目を伏せ、自分の左手でシーツの端を掴みながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……最初はね、教えてもらった纏で守って、なんとかギドの近くまで行こうとしたんだ。でも、コマにぶつかったらすごく重くて、本体にも全然近づけなくて……あ、これじゃ今のオレは絶対に勝てないなって分かったんだ」
「ええ。あそこで攻撃が通らないと分かったんですね」
「うん。だから、攻撃するのはやめて、よけることだけに集中しようと思ったんだ。でも、最初は何回かコマにぶつかっちゃって……そのとき、思ったんだよね。『あ、これだけ痛くても、まあ急所さえ外せば死ぬことはないかな』って」
「……っ」
横で聞いていたキルアが「お前な、それ本気で言ってんのかよ……」と呆れ果てたように額を押さえた。
ゴンは、嘘や強がりではなく、本当にそう実感したという顔で言葉を続けた。
「でね、よけることだけに集中しようとして目を閉じて、森の中で動物を待つときみたいに気配を消してみたら……コマがどこから来るのか、さっきよりすっごくよく分かるようになったんだ! 空気の動きとか、コマの嫌な感じとかが肌で分かって、どんどんよけられるようになって、途中からすごく楽しくなってきちゃったんだ。……でも、最後は足が重くなって、よけきれなかった」
痛々しいギプス姿のまま、それでも『新しく分かったこと』を話すときだけは、ゴンの瞳にいつもの輝きが混じる。
らでんは、その言葉を最後まで黙って受け止めてから、静かに、けれど今までで一番厳しい声で口を開いた。
「ゴン君。森の中で自然に覚えた気配を消すやり方――あれは念では《絶》って言います。自分のオーラを完全に止めるから、周囲のオーラに敏感になれるのは本当です。でもね、『急所さえ外せば死なないと思った』っていうのは、大きな間違いですよ」
らでんはゴンの固定された右腕と、胸の包帯をそっと指差した。
「最初に何回か当たって『死なない』って思えたのは、あのときゴン君がまだ《纏》をまとっていたからです。《絶》でオーラを完全に消したあとは、念に対する防御力はゼロになっていました。最後に当たったのがもし腕や脇腹じゃなくて、首や頭だったら……いいえ、脇腹だって、あともう少し深く入っていたら、今こうして私と話すこともできなかったかもしれません」
ゴンの表情から、ふっと笑みが消えた。
「自分の力を確かめたいっていう気持ちは、私は嫌いじゃありません。でも、自分の命をチップにして、生きるか死ぬかの丁半博打をリングの上でやるのは、修行とは言いません。……それに、ほら。二か月待つのがもどかしいからって順番を飛ばした結果、お医者さんから全治四か月って言われてしまったでしょう? 一番早く強くなりたかったはずなのに、かえって遠回りになってしまいましたね」
怒鳴り声も、手が出ることもない。
ただ、事実と結果だけを静かに並べられたことで、ゴンはさっきよりもずっと深く、自分の無茶の意味を噛みしめるように唇を噛んだ。
「……うん。オレ、途中で楽しくなって、そこまで考えてなかった。ほんとにごめんなさい」
「はい。ちゃんと分かってくれたなら、これからの約束を結び直しましょう」
らでんは背筋を伸ばし、人差し指と中指、薬指の三本を立てて、ベッドの上のゴンの前へ差し出した。
「お医者さんの治療方針とは別に、私からゴン君に、今日から四か月間のルールを三つ出します。――ひとつ、今日から四か月間、一切の試合に出ることを禁止します。ふたつ、その四か月間、念の修行をすることも禁止します。みっつ、念について自分で調べたり試したりすることも許しません」
「えっ……!? 試合に出られないのは分かるけど、四か月間、念の練習も調べものも全部ダメなの!?」
ゴンが驚いて目を見開く。
横からキルアも、椅子から身を乗り出して口を挟んだ。
「おいおい、ちょっと待てよらでん! 試合は無理でも、左腕とかは元気なんだし、ベッドの上でオーラを出す練習くらいやってもいいんじゃないのか? 四か月間なんにもするなって言ったら、こいつ絶対ムズムズして我慢できなくなるだろ」
「今は、身体を休めるのが先です。ゴン君は試すだけのつもりでも、できるようになると夢中になって続けてしまうでしょう。それに、中途半端に『念の調べものならいいですよ』って言ったら、ゴン君のことだから、誰かの試合を見に行って目を凝らしたり、ベッドの上でこっそり《絶》を試したりするでしょう?」
「うっ……」
図星を突かれたゴンが、小さく首をすくめた。
らでんはふっと口元を緩めてから、もう一度真剣な目に戻った。
「ただし、中庭で最初に話した『燃』は、身体に無理のない範囲で続けて構いません。あのときは集中する入り口だけでしたから、次に来たときに、その先も一緒に確かめましょう。オーラを動かす練習とは別のものですよ。それと、身体の痛みが落ち着いてきたら、普通に私やキルア君とお喋りしたり、私が持っていった音楽を聴いたりして過ごすのは自由です」
そこで、らでんは言葉を区切り、ゴンの瞳の奥をまっすぐに見つめた。
「これは、私とゴン君の、先生と生徒としての約束です。……でも、もし今度この約束が守れなかったら、先の修行は始められません。まずは四か月、きちんと休むつもりでいてください。再開する時期は、お医者さんに身体の状態を確かめてもらって、ゴン君がどう過ごせたかも見て、私から改めて話します。自分で『もう大丈夫』と決めて始めないこと。……どうしますか、ゴン君?」
見捨てるための脅しではなく、もう一度最初から一緒に歩くための線引きだった。
ゴンは、自分のギプスで固められた右腕を一度見下ろし、それから顔を上げて、一点の曇りもない声で答えた。
「……うん! 約束する! 四か月休むつもりで、らでんさんがいいって言うまで、試合も念の練習も調べものも、絶対にしない! だから、ちゃんと治ったら、またらでんさんに教えてほしい!」
「よし。言いましたね」
らでんは立てていた三本の指を下ろし、ゴンの怪我をしていない左手の甲へ、自分の手のひらをそっと重ねた。
「じゃあ、約束成立です。……試合の期限も、次の予定を決める前に確認しておきましょう。ゴン君は今日からまた九十日ですが、キルア君は二月二十四日の登録から数えます。キルア君は、どうしますか?」
水を向けられたキルアは、頭の後ろで両手を組んで天井を見上げ、すぐに「けっ」と鼻を鳴らした。
「……オレも、念の練習はやめとく。ゴンが休んでる間にひとりで進むのも、抜け駆けみたいだし。こいつがちゃんと約束を守れたら、一緒に始めるよ。さっき言ってた、燃のほうなら一緒にやってもいいんだろ?」
「ありがとう、キルア!」
「勘違いすんなよ、お前が勝手に抜け駆けしないように見張るだけだっての! ……そういうわけだからさ、らでん。昼間のポスターの仕事が終わったら、こっちにも顔出せよな。燃の続き、オレにも教えてくれよ」
「ええ。今回の歴史展示の準備と、五人で集まる予定も調整して、次に来られる日を連絡しますね。来られない日も、連絡は取れるようにしておきます。……あ、そうだ。ゴン君が休んでいる間と、その先の予定を、私も今日から書き直しておかなきゃ」
らでんが肩掛け鞄から手帳を取り出してページをめくると、ゴンとキルアが顔を見合わせて笑った。
窓の外には、夕暮れの光に染まる街並みが遠くまで広がっている。
痛みを伴う遠回りにはなったけれど、教える側も教わる側も、ようやく本当の意味で同じスタートラインに立ったのだと、らでんは手帳へペンを走らせながら静かに息をついた。