一九九九年三月十二日、午後四時過ぎ。
臨時資料室での作業を定刻で切り上げたらでんは、紙袋を片手に二百階の赤い絨毯の廊下を歩いていた。
袋の中身は、下の階の売店で買ってきたリンゴと、喉が渇いたとき用のストロー付きキャップと、新しい大学ノートが二冊だ。昨日の夕方は医務室からの移動と今後の約束だけで精一杯だったから、病室らしい差し入れは何ひとつ持ってきていなかった。
立ち止まった客室の扉の前で、自分の身体を包む《纏》を一番落ち着いた薄さへ整えてから、コンコン、と控えめにノックする。
「はーい! どうぞ!」
すぐさま内側から返ってきたのは、拍子抜けするほど張りのあるキルアの声だった。
扉を開けて中へ入ると、窓際のベッドの上で、右腕を白いギプスと三角巾で固定されたゴンが、背中にクッションを二つ重ねて上半身を起こしていた。ベッドの脇の丸椅子にはキルアが腰掛け、膝の上でリンゴの皮をナイフで器用に剥いているところだった。
「こんにちは、二人とも。……あ、リンゴ被っちゃいましたね」
「よお、らでん。果物ならいくつあってもいいだろ、こいつ朝から『お腹すいた』ばっかり言ってんだから」
キルアがナイフの背でリンゴの切れ端を皿へ落としながら、呆れたように肩をすくめる。
らでんは紙袋をサイドテーブルへ置き、まず二人の身体の周りをそっと観察した。
昨日までなら、部屋の中でくつろいでいるときも二人の肩口や足元には覚えたての《纏》が白い陽炎のように揺れていたはずだ。けれど今、ベッドの上のゴンからも、椅子に座っているキルアからも、意識して留められたオーラの膜は消えている。生身の人間が呼吸しているだけの、ごく自然で静かな気配だ。
「二人とも、昨日の約束、ちゃんと守ってくれてるんですね」
「うん! 朝起きたとき、いつもの癖でちょっと出そうになっちゃったんだけど、キルアが『おい、止めろ』って言ってくれたからすぐやめたよ!」
ゴンが怪我をしていない左手を挙げて、えへへと笑う。
昨日あれだけ大きな怪我をした翌日だというのに、目の輝きはもう普段のゴンに戻りつつあった。ただ、笑った拍子に胸の固定バンドが締まるのか、すぐに「いたたっ」と小さく息を呑んで肩をすくめる。
「ほら、あんまり大きく笑うと肋骨に響きますよ。熱はどうですか? 昨夜、痛くて眠れなかったりしませんでした?」
「ううん、お医者さんにもらった薬を飲んだら、朝までぐっすり寝ちゃった。右腕と脇腹がズキズキするけど、じっとしてれば大丈夫だよ」
「それならよかったです。今日はまだ二日目ですから、少しでも横になりたくなったらすぐ言ってくださいね」
らでんは別の椅子を引き寄せてベッドの脇へ座り、紙袋から二冊の大学ノートを取り出した。
その表紙を見るなり、キルアがリンゴの皿をテーブルへ置いて身を乗り出してくる。
「なあ、らでん。昨日言ってた『燃』の続き、今日教えてくれるんだろ? 中庭で一番最初にやった、背筋伸ばして目を閉じるやつの先って、結局なにをすればいいんだ?」
「はい、今日はそのお話をしに来ました」
らでんはノートを一冊ずつ二人の前へ置き、自分の膝の上でも手帳を開いた。
ただ、いざ説明を始めようとして、自分の口元が苦笑いに緩むのを止められなかった。
「……本当は、順序が逆なんですけどね」
「順序が逆?」
ゴンが不思議そうに首を傾げる。
「ええ。二人には、あのヒソカが塞いでいた廊下を通るために、一番最初から本物の念――《纏》を教えてしまいましたでしょう? でも本来は、本物のオーラの動かし方を教えるより前に、まずこの『方便の燃』から教わるものなんです」
「へえ、そうなのか。じゃあ、らでんが最初に習ったときも、そっちが先だったのかよ?」
「そうですよ。私がジンさんに教わったときは、まずこれからでした」
その名前が出た瞬間、ベッドの上のゴンの茶色の瞳が、ぱっと大きく見開かれた。
「えっ……ジンも!? この『燃』って、ジンがらでんさんに教えたやり方なの!?」
胸のバンドが痛むのも忘れたみたいに、ゴンがぐっと上半身を前のめりにする。らでんがジンの弟子であること自体は試験のときに話してあったけれど、今から自分がやる課題に父親の名前が直結するとは思っていなかったらしい。
「あ、こらゴン君、乗り出しちゃダメですってば。背中、クッションにつけて」
「あ、うん! ごめん! でも、ほんとにジンがそう言ったの?」
ゴンはおとなしくクッションへ背中を戻しながらも、瞬きひとつせずにらでんの手元を見つめている。
昨日の夕方、四か月間の禁止ルールを言い渡されたときは、自分で納得して頷きながらも、どこか『四か月間、お預けを食らって待つしかない』という寂しさが滲んでいた。それが今は、新しい宝物の箱を開ける前みたいな目になっている。
らでんは少し懐かしくなって、あの山村の宿舎で畳の目を叩いていた師匠の指先を思い出した。
「私もね、ゴン君たちと同じで、最初は何かすごい秘伝の技を教えてもらえるんだと思ってノートを開いて待ってたんです。そうしたらジンさんが、片手の指を四本立てて、『本物を教える前に、まず方便だ。これは念を覚えた後も、毎日欠かさずやれ』って言い出して」
「ほうべん、って?」
「『使える嘘』って意味です。点、舌、錬、発って四つの言葉を教えてくれたんですけど、中身を聞いてみたら、オーラを出す話なんかひとつもなくて、すごく当たり前のことばっかりだったんですよ。だから私、思わず『ええっ、最初に嘘から教えるんですか!?』って言っちゃったんです」
「あはは、らでん、ゴンの親父にそんなこと言ったのかよ」
キルアが面白そうに笑う。ゴンも「それで、ジンなんて言ったの?」と目を輝かせた。
「隣で一緒に念の指導を受けていたはじめ――私の友達なんですけど、その子も『使える嘘って一番怪しいやつじゃん!』ってケラケラ笑ってたんです。でも、ジンさんは全然笑わなくて、私のノートをちらっと見てから、こう言いました。『本物の念を覚えた後も、こいつは絶対にやめんな。力がつきゃ、人間に出来ることは一気に増える。だがな、自分が何をしたいかまでは、力がついたからって勝手に決まるわけじゃねえ』って」
らでんは当時のジンの低い声を思い出しながら、片手の人差し指から小指までを、順番に一本ずつ立ててみせた。
「なまじ力がある奴ほど、あれもこれも出来るようになって、自分が最初に何をしたかったのか途中で分からなくなる。だから毎日やるんだ、って。……最後は、『この方便を疎かにしてるハンターは、大体ろくなもんじゃねぇ』って言われました」
部屋の空気が、すっと静かに引き締まった。
ゴンの目が、らでんの立てた四本の指先へ吸い寄せられている。
「……自分が、最初に何をしたかったのか」
「ええ。昨日の試合でも、少し似ていましたよね。ゴン君は最初、自分の《纏》が二百階でどこまで通じるか確かめたくてリングに上がったはずなのに、途中で《絶》で独楽を避けるのが楽しくなってしまって、自分の身体が限界を迎えていることまで飛んでしまったでしょう?」
「……うん」
ゴンは叱られたときのように萎縮するのではなく、自分の左手のひらを見つめて、深く頷いた。
「本物の念は、すごく強い力です。だからこそ、その力を何のために使うのか、今日自分は何をするのかを、毎日自分の言葉で確かめる習慣が要るんです。ジンさんは私に本物の念を教えてくれた翌朝も、『方便は方便で毎日やれ』って言って、山にいる間ずっと毎朝やらせてくれましたし、私は今でも続けています」
「ジンが毎日やれって言ったことなら、オレもやる! らでんさん、その四つ、どうやってやるのか教えて!」
「よし。じゃあ、本物の念の四つとは、同じ音でも漢字と意味が違いますから、ひとつずついきますよ」
らでんは新しいノートの最初のページを開き、大きな文字で四つの漢字を書き出した。
「まずひとつ目の『点』。これは、自分をよく見て、今自分が何をしたいか、目的をひとつ決めることです」
「目的をひとつ決める……」
「はい。中庭で最初にやってもらったように、背筋を伸ばして、目を閉じて、自分の気持ちが一番向いているところへ意識を一点に集めます。ただし、今日はそこからもう一歩進みますよ。――ゴン君が今、一番やりたいことは何ですか?」
ゴンは迷わずに顔を上げた。
「強くなって、ヒソカにパンチを当てて番号札を返すこと! それと、ジンに会うこと!」
「うん、それはゴン君のすごく大事な大きな『点』ですね。じゃあ、その大きな目的のために、右腕と肋骨を怪我している『今日』のゴン君が、一番しなきゃいけないことは何でしょう?」
「えっと……今日?」
ゴンが「うーん」と眉を寄せて天井を見る。
横からキルアが、ニヤッと口角を上げて茶々を入れた。
「お前、まさか『左腕だけで腕立て伏せやる』とか言うんじゃねーだろうな。そんなことしたら、らでんにまた怒られるぞ」
「うっ……ち、違うよ! 今は動いちゃダメなんだよね。ええと……早く骨がくっつくように、ちゃんと休むこと?」
「その通りです!」
らでんはペン先でノートの『点』の文字をトントンと叩いた。
「大きな目的が『強くなること』なら、今怪我をしているゴン君にとって一番の近道は、一日でも早く骨を綺麗に治すことです。無理をして怪我を長引かせるのは、強くなる目的から遠ざかる行動になっちゃうでしょう? だから、今日の『点』は、今の自分の身体をよく見て、今日できる一番大事なことをひとつ決めるんです」
「そっか……! ただ我慢して寝てるんじゃなくて、強くなるために、今日治すことを決めるんだね!」
「ええ。そして次が、ふたつ目の『舌』。決めたことを、心の中で思うだけじゃなくて、ちゃんと言葉にして口に出すことです」
らでんはノートの二行目を指差した。
「頭の中で『なんとなく大人しくしてよう』って思うだけだと、途中で退屈になったときにすぐ忘れちゃうんです。だから、具体的な言葉にして声に出します。ゴン君、今日の『点』を、自分の言葉で言ってみてください」
ゴンはクッションの上で背筋を少しだけ整え、自分の右腕のギプスを見てから、はっきりとした声で言った。
「オレは今日、骨が早くくっつくように、お医者さんに言われた通りベッドの上で安静にして、晩ご飯を残さず食べて、夜十時には寝る!」
「はい、百点満点です! すごく具体的でいいですね」
らでんが笑顔で頷くと、ゴンも嬉しそうに頬を緩めた。
「そうやって言葉にして口に出したら、みっつ目が『錬』。本物の念ではオーラを膨らませる技術のことですけど、方便の『錬』は、今口に出した『絶対にそうするぞ』っていう気持ちを、自分の中で強く保ち続けることです。そして最後、よっつ目の『発』が、それを実際の行動に移してやり抜くこと」
「点、舌、錬、発……決めて、言葉にして、気持ちを強く持って、ほんとに行動する、か」
横で腕を組んで聞いていたキルアが、自分の顎を指で撫でながら呟いた。
「なあ、らでん。ゴンのやることは分かったけどさ、オレはどうすればいい? オレはどこも骨折してないし、ただ夜十時に寝るだけじゃ修行にもなんにもならないじゃん」
「もちろん、キルア君にはキルア君の『点』を決めてもらいますよ」
らでんはもう一冊のノートをキルアの膝の上へ押しやった。
「キルア君も、ゴン君が治るまで本物の念の練習はお休みするって自分で決めてくれましたよね。じゃあ、オーラを使わないこの期間に、キルア君は何のために、今日何をしますか?」
「オレが?」
キルアは青い目をぱちくりさせ、それから少し照れくさそうに視線を窓の外へ逸らした。
いつもなら「別に、オレはこいつの暇つぶしに付き合ってるだけだし」と軽く流すところだろう。けれど、さっきのジンの言葉と、隣で真剣な目をして自分を見ているゴンの視線を受けて、キルアはすぐには茶化さなかった。
数秒考えてから、キルアはポリポリと頬を掻いて口を開いた。
「……まあ、ゴンと一緒に念の修行を再開したときに、また昨日のギドみたいな奴とやるかもしれないんだろ? だったら、オーラは使えなくても、二百階の奴らがどういう武器を持ってて、どういう間合いで仕掛けてくるのかくらいは知っておきたいよな」
「おお、いいですね。具体的には?」
「一階のロビー脇に、過去の通常興行のビデオを借りられるライブラリーがあったろ。念の秘密を勝手に調べるのはルール違反だけど、普通に公開されてる二百階の試合ビデオを見て、武器持ちの相手の間合いや癖を分析するくらいなら、らでんのルールにも引っかからないんじゃねーか?」
キルアがちらりと確認するようにこちらを見る。
らでんは感心して目を細めた。
「ええ、ただし映像を見るときも本物の念の練習はしないこと。武術や武器の間合い、足の運びを観察する分には、とてもいい勉強になりますよ。ただし、一日何本もぶっ続けで見て夜更かしするのはダメです。一日一本か二本って決めてやるなら、立派な『点』になります」
「よし。じゃあオレの今日の『点』は、ゴンが勝手にベッドから抜け出さないように見張りつつ、夕方借りてきた武器戦のビデオを一本見て、相手の踏み込みの癖を三つノートに書き出す! ……これで『舌』もオーケーだろ?」
「バッチリです! さすがキルア君、呑み込みが早いですね」
「へへっ、キルアすごいなあ! オレ、左手だとまだ字がうまく書けないから、オレの分も最初だけノートに書いてよ!」
「ったく、しょうがねーな。ほら、貸してみろよ」
キルアがゴンのノートを引き寄せ、ペンを取って日付と二人の『舌』をさらさらと書き込んでいく。
そこから二十分ほどかけて、二人は実際に目を閉じて呼吸を整え、今日決めたことを腹の底へ据える『錬』の時間を五分だけ取った。昨日の今日で長く座らせ続けるわけにはいかない。ゴンの額にうっすらと疲れの汗が滲んだところで、らでんは「はい、今日はここまで!」と手を叩き、処方されていた食後の痛み止めを飲ませて背中のクッションをひとつ抜いた。
「ふう……なんか、じっと目ぇ閉じて考えてただけなのに、らでんに言われた通りやると結構お腹のあたりが熱くなるな」
「集中するって、それだけでもちゃんと体力を使うんですよ。ゴン君、お茶のおかわり淹れてきますから、少しそのまま目を閉じて休んでてくださいね」
「うん、ありがとう、らでんさん」
ゴンが素直に布団を胸まで引き上げ、すうっと穏やかな寝息に近い呼吸へ入っていく。
らでんは空になったコップを二つ持って、客室の入り口近くにある給湯コーナーへと立った。キルアも剥いたリンゴの皿を片づけに、静かな足取りでついてくる。
ポットのお湯を湯呑みへ注ぎながら、らでんはベッドの方をちらりと振り返り、キルアにだけ聞こえるくらいの小さな声で零した。
「……なんだか、昨日と今日で、少しだけ分かってきました」
「ん? なにがだよ」
キルアがシンクの縁に肘をついて、らでんの横顔を見上げる。
「ゴン君への話し方、というか……伝え方のコツ、ですかね。ただ『危ないから我慢しなさい』『四か月間なにもしちゃダメです』って頭ごなしに止めるだけだと、あの子はどうしてもムズムズしちゃうみたいですけど、今やっていることがちゃんと自分のやりたいことへ繋がってるんだって分かったほうが、ずっと素直に聞いてくれるんですね」
自分の指導の未熟さを棚に上げるつもりはなかったけれど、ようやく目の前の生徒の歩幅が見えてきた実感があった。
するとキルアは、湯気の向こうで「ふっ」と小さく鼻を鳴らし、呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな顔で笑った。
「今さら気づいたのかよ、らでん。ゴンってそういう奴だよ。『ダメだ』って言われると自分の目で確かめたくて突っ走るくせに、自分が一回納得したルールなら、誰が見てなくてもバカみたいに真面目に守るんだ」
「やっぱり、そうなんですね」
「ああ。ま、今日はゴンの親父の名前が出たのが一番効いたっぽいけどな。『親父から教わった修行』なんて聞いたら、あいつがサボるわけねーじゃん。四か月おとなしくさせるには、一番いいやり方だったんじゃねーの」
「あはは、結果的にはそうなりましたけど、別に騙して大人しくさせようとしたわけじゃないですよ。本当に大事な基礎ですからね、これ。キルア君もですよ?」
「分かってるっての。オレだって、自分が言ったことはちゃんとやるよ」
キルアは自分の分の湯呑みを受け取ると、少しだけ得意げに胸を張ってベッドの脇へと戻っていった。
父親の権威で無理やり黙らせたのでも、都合のいい嘘で釣ったのでもない。ジンから受け取った言葉をそのまま渡したことで、止まっていたはずの二人の時間が、また前へ向かって動き始めている。
らでんは温かいお茶の湯呑みを持ち、静かに目を閉じているゴンの枕元へと歩み寄った。
◇ ◇ ◇
それから一週間あまりが過ぎた三月二十日。
天空闘技場の中層ロビーに設けられた特設ギャラリーでは、二月から準備を進めてきた『天空闘技場・二十世紀興行史展』が予定通り開幕を迎えていた。
朝一番の開場から一時間ほど経ち、らでんは広報課の担当職員と一緒に、ガラスケースの照明角度と温湿度計の数値をひとつずつ点検して回っていた。
「いやあ、らでん先生。本当に三月中のオープンに間に合ってよかったですよ。ほら、あちらのポスターの前、朝からずっと人が途切れません」
眼鏡の職員が嬉しそうに指差す先には、修復工房から戻ってきた一九六〇年代の興行ポスターと、七〇年代から八〇年代にかけての審判団記録帳が並んでいた。
らでんが二月下旬から昼休みを詰めて来歴を照合し、一枚ずつ保護用の支持板へ収めた資料たちだ。掠れた万年筆の記録帳には、当時の選手たちが持ち込んだ鎖鎌や鉄扇の寸法、場外判定の図解が開かれた状態で展示されており、脇にはらでんが書き起こした解説パネルが添えられている。
ガラスケースの前では、試合を終えたばかりらしい若い選手二人組が、審判団記録帳のページを食い入るように覗き込んでいた。
「へえ、八十年代の二百階クラスって、こんな細けえ反則規定があったのかよ」
「おい、こっちの欄見てみろよ。『双虎咬の構えより一撃にて決着』って書いてあるぞ。……でもさ、この時代の選手って、実際どういう足運びで、どうやってその構えを作ってたんだろうな。審判のメモと白黒写真が一枚あるだけじゃ、どんな技だったのかまでは全然分からねえよな」
「だな。せっかく昔の強い奴の記録なのに、名前と勝敗だけじゃもったいねえよ」
何気ない観客の立ち話だった。
けれど、記録バインダーを抱えて後ろを通りかかったらでんの足が、そこでぴたりと止まった。
ガラスケースの中の審判団記録帳を、もう一度見つめる。
確かに、紙の資料としての保存処置は完璧にできた。誰がいつ、どの階で誰に勝ったか、どんな武器が登録されていたかも正確に裏付けを取った。
けれど、その武器を握っていた手がどんなふうに胼胝を作り、どんな重心で石畳を踏みしめ、どうやって自分の『型』を練り上げていたのか――生身の人間が身体の中に積み上げた技術までは、審判の一行のメモからはどうしてもこぼれ落ちてしまう。
(……そうか。道具や紙の帳面は、蔵に入れておけば百年残るけど、人間の身体の使い方は、本人がリングを降りたらそのまま消えちゃうんだ)
先日、二百二十五階のリングで見たゴンの足の運びや、ギドの独楽の軌道がふっと脳裏をよぎった。
もし今、自分がただ古い紙の整理だけでこの仕事を終えてしまったら、三十年後の誰かもまた、このガラスケースの前で「実際どういう動きだったんだろうな」と首を傾げることになるのではないか。
◇ ◇ ◇
その日の午後、一通りの展示確認を終えて臨時資料室へ戻ると、らでんは鞄を置くよりも先に、向かいの席の広報課職員へ声をかけていた。
「あの、すみません! 今回の三月展示のことで、ひとつだけ相談に乗っていただいてもいいですか?」
「ええ、なんでしょう? キャプションにどこか誤植でもありましたか?」
「いえ、今の展示はすごくいい形になったと思うんですけど……さっき会場で、若い選手のお客さんが『昔の帳面だけじゃ、実際どういう構えでどう動いていたのか分からない』って話しているのを聞いたんです」
らでんは自分の調査ノートを開き、展示室の図面の隅へ今思いついたばかりの案を素早く書きつけながら、身を乗り出した。
「今回の歴史展示、来月の前半まで会期がありますよね。もちろん今から新しい大規模なイベントを増やすのは無理ですけど、展示の『追補記録』として、今この闘技場で戦っている現役の選手お一人かお二人に、自分の『型』や普段使っている稽古道具について聞き取りをして、写真と記録パネルを一角に足すことはできないでしょうか?」
「現役の選手の、型と稽古道具ですか?」
職員が眼鏡の位置を直して、らでんのノートを覗き込む。
「はい! 勝敗の数字やランキングなら、公式のパンフレットにいくらでも載っています。でも、その人がどんな道具を手入れして、足の裏のどこに重心を置いて、どういう工夫で自分の技を作っているかっていう『身体の文化』は、今ちゃんと言葉と写真で残しておかないと、未来の資料室には残らないと思うんです」
一気にまくし立ててしまってから、らでんは「あ、すみません、また私の『もっと見たい病』が出ちゃいましたかね……」と少し照れくさそうに首をすくめた。
だが、広報課の職員は迷惑がるどころか、ぽんと自分の膝を叩いて目を輝かせた。
「いや、それは面白いですね! うちの広報誌でも、二百階クラスの選手となると『次の相手をどうぶっ潰すか』みたいな煽り記事ばかりになりがちで、純粋な武術の技術や鍛錬の記録って、実はほとんど残せていなかったんですよ。小規模なパネル追補と資料室アーカイブへの収録という形なら、今の予算とらでん先生の契約期間の範囲内で十分に回せます!」
「本当ですか!?」
「ええ。ただ、二百階クラスの選手は自分の手の内を明かすのを嫌がる方も多いですから、人選が鍵になりますね……あ」
職員はそこで何かを思いついたように、デスクの引き出しから二百階クラスの登録選手ファイルを取り出してページをめくった。
「らでん先生、もし『独自の武器の仕掛け』ではなく、『正統な武術の型と鍛錬への誇り』を取材したいのでしたら、お一人、うってつけの選手がいますよ」
「どなたですか?」
「武闘家の、カストロ選手です」
差し出されたファイルには、端正な顔立ちと引き締まった体躯を持つ長髪の男性の写真が貼られていた。道着のような袖のない武闘着を纏い、真っ直ぐに正面を見据えている。
「カストロ選手は、二百階クラスで現在九勝一敗。二年前にヒソカ選手に敗れて以来、九連勝でフロアマスターに王手をかけている実力者です。普段はゴシップめいた取材は一切断る方なんですが、ご自身の拳法と基礎鍛錬には並々ならぬ誇りを持っていらっしゃるので、文化財ハンターであるらでん先生からの『技術の記録』という依頼なら、耳を貸してくれるかもしれません」
「二年前にヒソカと戦って、そこから九連勝……」
しかもファイルの備考欄には、来月の中旬にそのヒソカとの再戦が組まれたばかりだと記されていた。
二百階の廊下でトランプを弄んでいたあの奇術師を相手に、一度負けたあと、二年間で九つの勝ち星を積み上げてもう一度挑もうとしている武闘家。その人が毎日どんな稽古をして、どんな手元で自分の技を磨いているのか、知りたくないはずがなかった。
「ぜひ、お願いしたいです! 試合前の大事な時期でしょうから、練習の邪魔にならない短い時間で構いません。広報課から打診していただけますか?」
「分かりました、今日中にカストロ選手の連絡窓口へ企画書を通して聞いてみますよ!」
職員が受話器へ手を伸ばすのを見て、らでんは新しく空けたノートのページに『カストロ選手・質問案』と大きく書き込んだ。
◇ ◇ ◇
カストロからの快諾の返事が届いたのは、その二日後のことだった。
『興行の煽りではなく、武術の鍛錬そのものの記録であれば歓迎する。来月の試合で使う奥の手については話せないが、基礎の型と稽古場の道具なら見てもらって構わない』という、丁寧で筋の通った回答だった。
取材当日の午後、らでんはカメラと計測用のスケール、それに利用許諾書の用紙を入れた鞄を提げて、百九十階にある選手専用の個人稽古場フロアへと向かった。
案内された第三稽古場の扉をノックすると、中から低く澄んだ声で「どうぞ」と返事があった。
扉を開けると、磨き込まれた板張りの床の向こうで、白いタオルで首筋の汗を拭いながらカストロがこちらへ歩み寄ってきた。実際の彼は写真で見るよりも背が高く、立ち姿に一切の無駄な力みがない。二百階クラスの熟練者らしく、全身を包む《纏》は道着の輪郭に溶け込むほど静かに整っていた。
「初めまして、カストロさん。ハンター協会の儒烏風亭らでんと申します。本日は大事な試合を控えていらっしゃる中、お時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ、初めまして。広報課から企画の趣旨は伺っています。わざわざ歴史展示の会場まで足を運んで、昔の審判帳を整理されたそうですね」
カストロは穏やかな笑みを浮かべて一礼した。荒くれ者の多い二百階クラスにあって、拍子抜けするほど礼儀正しい人物だった。
「実は私も、先日あの三月の展示を少しだけ拝見したんです。先人たちの記録が綺麗に整えられているのを見て、いい仕事をされる方だなと思っていました」
「えっ、会場に来てくださってたんですか!? ありがとうございます!」
自分の手がけた展示を本人が見てくれていたと知り、らでんの声が一気に明るくなる。
そのまま挨拶に続けて質問へ入ろうとしたらでんだったが、カストロの背後の壁際に並んでいる稽古道具が目に入った途端、視線がそこへ釘付けになった。
年季の入った木人樁と、重さの違う砂袋。そしてその隣に、柱へ固定された厚さ五センチほどの硬木の打ち込み板があった。
「……あの、カストロさん。質問の前に、あちらの打ち込み板を近くで見せてもらってもいいですか?」
「ええ、構いませんよ。どうぞ」
許可をもらうなり、らでんはトコトコと壁際へ歩み寄り、硬木の板の前へしゃがみ込んだ。
板の表面には、長年の掌底と指先の突きによって、木目が滑らかに窪んだ跡がいくつも刻まれている。ただ力任せに殴りつけたなら、ささくれ立ったりひび割れたりするはずなのに、まるで上質な漆器の木地を何千回も布で磨き上げたみたいに、窪みの底が飴色に光っているのだ。
しかも、板の右側と左側にある二つの窪みは、深さも角度も、驚くほど寸分違わぬ対称形をしていた。
「すごい……これ、右の手刀と左の手刀、両方で同じ数だけ打ち込んでるんですね! 普通、どれだけ鍛えている武闘家の方でも、利き手と逆の手では踏み込むときの腰の入り方がほんの少し変わるから、削れる角度に癖が出るはずなのに……どうやってここまで左右同じ深さにしてるんですか?」
らでんが振り返って目を輝かせると、後ろに立っていたカストロが、少し驚いたように目を見張り、すぐに顔を綻ばせた。
「……広報の担当者が『目のつけどころが普通の記者とは違う』と言っていた意味が、よく分かりました。今まで何人も取材を申し込みに来ましたが、私の戦績ではなく、まずその板の左右の減り方に気づいた人は、儒烏風亭さんが初めてです」
「だって、あんなに綺麗に左右対称に光ってたら、誰だって気になりますよ! 当てた瞬間に力を抜いてるんですか、それとも最初から同じ重さで入るんですか?」
「両方です」
カストロは打ち込み板の前へと立ち、実際に足を肩幅より少し広く開いて、低く安定した構えを取ってみせた。
右手を前へ、左手を胸の脇へ添えた、虎が獲物を咬み砕くような構え。
「私の『
カストロがシュッ、と短く息を吐き、板の表面からわずか一ミリ手前で左右の手刀を交互に止めてみせる。
板には触れていないのに、風圧だけで硬木の表面がぴりりと震えた。しかも、右を振ったときと左を振ったときで、彼の頭の高さも、床を踏む足裏の重心も、糸で吊ったようにぴたりと動かない。
(綺麗だなあ……! ただ腕力が強いんじゃなくて、自分の身体の真ん中に一本、絶対に揺れない柱が通ってるみたいだ)
らでんは夢中になって手元のノートへペンを走らせた。
「音の高さで調整するんですね! それ、すごく面白いです。あの、脇の机に置いてある革表紙のノートは、もしかして日々の稽古の記録ですか?」
「ええ。その日に気になった重心のズレや、踏み込みの歩幅を書き留めている稽古帳です。……中を見ますか?」
「いいんですか!? もちろん、次の試合に関わるページは隠していただいて構いませんので!」
「ははは、そう言っていただけると助かります。では、一冊前の基礎をまとめた帳面をお見せしましょう」
カストロは机の引き出しから、角が少し擦り切れた黒い革表紙の稽古帳を一冊取り出し、中ほどのページを開いて見せてくれた。
そこには、定規を使ったのかと思うほど整った文字と図解で、足裏のどこへ体重を乗せれば初速が消えるか、手刀の指先をどの角度で揃えれば衝撃が一点へ集まるかが、日付とともにびっしりと書き込まれていた。
一番古い日付は、今からちょうど二年前。
「……二年前の春から、基礎の歩幅を全部一から書き直していらっしゃるんですね」
らでんが日付の欄を指差すと、カストロは静かに頷いた。
「ええ。二年前のあの日、私はこの二百階クラスでヒソカと戦い、初めて敗北を知りました。この階で言うところの『洗礼』というやつも含めてね」
カストロの声には、負けたことを恥じて隠すような響きはなかった。
「それまでの私は、自分の拳法だけでどこまでも通用すると自惚れていたんです。だが、あいつの前では、それまでの私の間合いも読みも届かなかった。……正直に言えば、最初は悔しさで眠れない夜もありましたよ。けれど、あの敗戦がなければ、私は自分の型を一から見直し、ここまで強くなることはできなかったでしょう」
カストロは自分の両手を見下ろし、それから真っ直ぐに前を見た。
「あれから九戦、私は一度も負けていません。ですが、その九連勝はすべて、次の試合でヒソカを倒すための準備運動にすぎないんです。この二年間で積み上げたものは、その先の領域も含めて、もう完成しています。来月のリングでは、二年前とは別人になった私をお見せしますよ。『借りは必ず返す』と公言してありますからね」
カストロは穏やかに笑っていた。
自分の弱さを認め、二年間毎日欠かさず板を打ち、帳面を埋め、今度こそ勝つための準備をすべて整えた武闘家の、澄み切った自信がそこにはあった。
らでんは、カストロの開いた稽古帳のページと、飴色に光る打ち込み板を交互に見比べた。
「カストロさん。もしよろしければ、この基礎の歩幅と指先の角度が書かれた見開き二ページを複写させていただいて、あの打ち込み板の写真と一緒に、今回の展示の追補パネルと資料室の記録へ残させていただけないでしょうか?」
「この基礎のページと、打ち込み板をですか?」
「はい! 新しい技の秘密は、試合当日のリングでカストロさんご自身が披露されるものですよね。でも、その技を支えているこの二年間の基礎の工夫は、これから武術を学ぶ人たちにとっても、すごく価値のある記録になると思うんです」
らでんは鞄から利用許諾の確認書を取り出し、項目を指で辿りながら丁寧に説明を続けた。
「お借りする記録の利用範囲は、今回の闘技場内の展示パネル追補と、闘技場資料室の公式アーカイブへの収録のみに限定します。外部へ勝手に販売したり、無断で別の媒体へ転載したりすることは絶対にありません。記録の所有権と著作権はもちろんカストロさんご本人に残りますし、複写と撮影のために一冊前の稽古帳を三日間だけお借りできましたら、作業が終わり次第、三日後の午後にこの稽古場か、ご指定の選手用ロッカーへ必ず原本をお返しします」
文化財ハンターとして、相手の大切な記録を預かるときの約束事だ。
カストロは確認書の文面へ目を通し、満足そうに深く頷いてから、署名欄へ力強い筆跡で自分の名前を書き入れた。
「ここまで丁寧に取り扱っていただけるなら、断る理由はありません。私の武術が、単なる興行の勝敗だけでなく『技術』としてこの塔に残るのは、武闘家として誇らしいことです。三日後の返却は、午後二時にここへお願いできますか?」
「はい、三月二十五日の午後二時ですね。必ず私が直接お返しに上がります!」
らでんは白手袋を着けた両手で一冊前の稽古帳を大切に受け取り、保護用のケースへ収めた。
それから打ち込み板とカストロの構えの手元を数枚撮影させてもらい、取材を締めくくった。扉の前で礼を言って振り返ると、カストロが「ああ、そうだ」と声をかけてきた。
「儒烏風亭さん。来月の私の試合、もしご都合がつけば、ぜひ会場へ見に来てください。今日お話しした基礎のその先――二年間で私が辿り着いた答えを、リングの上でお見せしますから」
「はい! あんなに綺麗な打ち込み板を見たあとですもん、実際の試合でカストロさんがどう動くのか、絶対に自分の目で見届けたいです。楽しみにしていますね!」
らでんが笑顔で頷くと、カストロも爽やかに手を挙げて見送ってくれた。
◇ ◇ ◇
カメラと稽古帳を入れた鞄を胸に抱え、百九十階のエレベーターホールへと歩いているときだった。
正面の到着ランプが灯り、開いた扉の奥から、見覚えのある道化師風の装束を着た男がふらりと降りてきた。
ヒソカだ。
ヒソカは、らでんが抱えている保護ケースとカメラのストラップへ金色の目を落とし、すぐに三日月型の笑みを浮かべて足を止めた。
「おや、先生じゃないか♣ こんな階でカメラなんか抱えて、今日は生徒のお見舞いじゃないのかい?」
「こんにちは、ヒソカ。ええ、昼間は自分の仕事で、選手の技術の記録を取っていたんです」
らでんは足を止めつつも、保護ケースを抱えた腕の力は緩めずに答えた。この廊下の奥に誰の稽古場があるかくらい、彼ならとっくに知っているだろう。
「フフ……このフロアということは、カストロのところかな♦ あいつも真面目な男だからね、キミの帳面に書くような話はたくさん持っていたんじゃないかい?」
「ええ、とてもいいお話が聞けましたよ。来月のあなたとの試合に向けて、すごくいい顔をしていらっしゃいました」
挑発するのでも、情報を漏らすのでもなく、自分が受け取った事実だけを真っ直ぐに返す。
するとヒソカは、指先で弄んでいたスペードのエースをくるりと裏返し、楽しそうに喉を鳴らした。
「クク……そうかい、それは楽しみだ♠ 二年間でどれだけ美味しく熟したか、リングの上で確かめさせてもらうよ。キミもせいぜい、綺麗に書き留めておいておくれ♦」
それだけ言って、ヒソカは肩を揺らしながららでんの横を通り過ぎていった。
背中に貼りつくような気配が遠ざかるのを見届けてから、らでんはエレベーターの箱の中へ入り、小さく息を吐いた。
カストロの真っ直ぐな言葉と、ヒソカの底の知れない笑み。来月のあのリングで、二人がどんな試合を見せるのか。単なる『強い選手同士の興行』ではなく、自分が直接言葉を交わし、手元の傷跡まで見せてもらった人の勝負として、その日が近づいてくるのを感じていた。
◇ ◇ ◇
三月二十五日の午後二時、らでんは約束通りカストロの稽古場を訪ねて借りていた稽古帳の原本を返却し、追補パネルの校正刷りを確認してもらった。
◇ ◇ ◇
そしてその日の夕方、らでんは数日分の着替えを詰めたボストンバッグを持って、二百階のゴンの部屋へと顔を出した。
「らでん、なんだよそのデカい鞄。どっか行くのか?」
部屋の扉を開けるなり、ベッドの脇でトランプのピラミッドを作っていたキルアが目を丸くした。
ベッドの上では、ゴンが左手でスプーンを握り、器用にプリンをすくって食べているところだった。負傷から二週間が経ち、まだ右腕のギプスと胸の固定バンドはそのままだけれど、最初はぎこちなかった左手の使い方が見違えるほど滑らかになっている。
「はい。前に少しお話ししていた、五人で集まる歌とダンスの対面練習がありまして。明日の朝から四日間だけ、スタジオのある街へ戻ってくるんです」
らでんはテーブルの上へ、自分の不在中のスケジュール表と連絡先を書いたメモを置いた。
「三月三十日の夕方にはこっちへ戻ってきます。向こうにいる間も、朝と夜ならこの番号で私の端末に繋がりますし、何かあったらすぐ闘技場の医務室と広報課の担当さんが動けるように頼んでありますからね」
「へえ、らでんたち五人でやるって言ってたやつか。四日間くらいなら全然平気だよ、こいつの見張りはオレがちゃんとやっとくし」
「うん! らでんさん、歌の練習がんばってきてね! オレたち、らでんさんがいない間も毎朝の『燃』、絶対にサボらないでノートに書いておくから!」
ゴンがスプーンを持った左手をぶんぶんと振る。
ここ二週間のノートは、さっきも見せてもらったばかりだ。
最初の二、三日は、ゴンが『点:左足だけでスクワット五十回やる!』と言い出してキルアに『バカ、脇腹に響くだろ!』と却下されたり、キルアが『ビデオを三本見る』と決めて夜更かししかけたりと小さなつまずきもあった。けれど、そのたびに三人で話し合って、『ベッドの上で足の指をグーパーする運動三十回と、左手で自分の名前を綺麗に十回書くこと』『ビデオは夕方の一本だけにして、気づいた間合いの癖を三行でまとめること』へと修正してきたのだ。
今では、らでんが夕方に行く頃には、その日の『点・舌・錬・発』がどうだったかを二人から報告してくれるようになっている。しかも、ゴンはただ安静にしているだけでなく、「動けない間に、自分の呼吸の数を数えて気持ちを落ち着ける練習」まで自分で見つけて続けていた。
「二人とも、もうすっかり『燃』が板についてきましたね。じゃあ、戻ってきたら、留守の間のノートを見るのを楽しみにしていますよ」
らでんは手を振り、翌朝一番の列車と飛行機を乗り継いで、四人の待つスタジオがある街へと向かった。
◇ ◇ ◇
三月二十七日、午後二時。
壁一面の鏡に五つの影が並び、スニーカーの底が床を蹴る軽快な音がスタジオに響いていた。
昨年末に顔合わせを済ませ、今年九月の正式なお披露目に向けて準備を進めている五人組――『ReGLOSS』の合同練習二日目である。それぞれ別の仕事や拠点を持っているため、普段の連絡や仮歌のやり取りは通信で済ませ、こうして月に一度、四日間ほど予定を合わせてスタジオへ集まっていた。
スピーカーから流れるアップテンポな仮音源に乗って、五人がサビへ向けた並びへと広がる。
らでんは練習用のハンドマイクを左手に握り直し、カウントに合わせて片足で鋭く身体を返した。ダンスというものを習い始めてからまだ日は浅いが、手本を見て自分の身体へ写し取る作業そのものに迷いはない。踏み切る位置も、跳んだあとに床へ降りる角度も、頭の中で描いた通りの場所へぴたりと収まる。靴底を鳴らさずに着地して次のステップへ移るたび、鏡の中の自分の輪郭が音楽と噛み合っていくのが純粋に面白かった。
右隣では、ダンスの経験がある青が長い手足を活かして滑らかに体重を移し、その後ろで奏が真剣な目つきでカウントを追いかけている。反対の端にいる莉々華は、移動の歩幅を合わせるのに精一杯なのか、腕を振り上げるタイミングが半拍ほど遅れて必死に食らいついていた。
それでも、らでんの視線はついつい左隣――はじめの方へと吸い寄せられてしまう。
今まさに自分と同じ振付を踊っているはずなのに、鏡に映るはじめの姿は、まるで音楽そのものが身体の奥から湧き出しているみたいだった。鋭く踏み込むところは誰よりも速く、それでいて音が伸びる拍では、指先や鎖骨のあたりにふっと力が抜ける。ただ正確に形をなぞるだけではない、視線の流し方や一拍の溜めに、圧倒的な余裕があった。
(うわ、今の首の残し方、すごく粋だなあ……!)
らでんはサビ前のキメで、はじめが肩をわずかに落として音を待つ動きをそのまま真似てみた。
ところが、意識が肩と目線へ持っていかれた瞬間、自分のパートの歌い出しが喉の奥でつっかえた。
「『重ねた――』……あっ、んぐっ!?」
「わわっ、ちょっと待って、私いま足が逆!?」
らでんの声が裏返るのと、端から中央へ寄ってきた莉々華が青の目の前へ飛び出すのが同時だった。
「――はい、ストップ! 一回音止めまーす!」
莉々華が慌ててスピーカーの前へ小走りに駆け寄り、リモコンの停止ボタンを押す。音楽が途切れたスタジオに、五人の荒い息と笑い声がこぼれた。
「ごめん青くん、私いま完全に逆の足から踏み出しちゃった! みんな右へ流れてるのに、私だけ青くんの方へ突撃してなかった!?」
「うん、びっくりした。莉々華がすごい真剣な顔で僕の真正面へ迫ってくるから、急遽そういう情熱的なペアダンスに変更になったのかと思ったよ」
「誰が情熱的なペアダンスよ! ターンしたあと、右足と左手のどっちが先か分からなくなっただけだもん!」
「いやあ、でも今の僕、とっさに半歩引いてぶつからないようにしたの、ちょっとスマートなエスコートって感じじゃなかった?」
「自分で言わなければ格好よかったのにね、青」
はじめが腰に手を当ててさらりと突っ込むと、青が「えっ、今のは加点対象でしょ!?」と胸を押さえる。そのやり取りに笑いながら、らでんはマイクを持っていない方の手で自分の喉元を押さえた。
「ごめんなさい、私もサビ前のところで完全に歌が飛んじゃった。はじめの踊りを見てたら、息を吸うタイミングを通り過ぎちゃって」
「あはは、らでん、足元はあんなにビシッと止まってたのに、声だけ急にどこかへ行っちゃったね!」
奏がけらけらと笑いながら、壁際に置いてあったペットボトルの水を取って手渡してくれる。礼を言って一口飲むと、青が自分の肩を回しながら感心したように鏡の中のらでんとはじめを見比べた。
「でもさ、歌が飛んだって言うけど、らでんちゃんのあの回転は普通にすごくない? 僕も前に少しダンスはかじってたから、ステップの繋ぎくらいは分かるつもりなんだけど……はじめちゃんは別格として、らでんちゃんまで一回手本を見ただけで、あんな風に頭の高さがぶれずにピタッて回れるのはちょっと反則だと思うんだよね」
「えーっ、そんなことないよ! 私はただ、言われた位置に足を置いて止まってるだけだもん。ほら、はじめと並ぶと、同じ振付なのに全然違って見えるでしょ?」
「いや、らでんは身体が勝手に動くタイプだから、形はもう全部入っとるんよ」
はじめが鏡の前へ一歩出てきて、自分の肩口を軽く指差した。
「さっきらでんが真似しようとしてくれたサビ前のところ、もう一回やってみよっか。らでん、あそこでターンしたあと、すぐ次のポーズを作って待っとるでしょ」
「うん。四拍目で止まって、次の『重ねた――』の歌い出しを待ってるよ」
「そこなんよね。身体が利くから、四拍目の頭でピタッと止まれちゃう。でも、曲のベースは四拍目の裏まで『ドゥーン』って残っとるから、先に形を固めきっちゃうと、そこだけ映像を一時停止したみたいに硬く見えるんよ」
そう言って、はじめは同じ二回転からのストップをその場で踊ってみせた。
キュッという靴音すら立たない静かな回転のあと、はじめの身体は確かに四拍目で止まっている。けれど、止まった瞬間にはまだ肩と視線がわずかに斜め下へ残っていて、音の余韻が消える最後の半拍で、胸の力がふっと抜けて顔が正面へ上がった。
大きく跳んだり派手に手足を振り回したりしたわけではない。ただ、止まったあとのわずかな「抜き」があるだけで、鏡の中の姿から目が離せなくなる。
「うわあ、それ! その、止まったあとにまだ動いてるみたいな感じ! どうなってるの、それ!?」
「はは、そんな難しいことじゃないって。ほら、横に並んで。回って、足は止めるけど、肩と目線はまだ残す――まだ、まだ、はい、ここで抜く!」
はじめの掛け声に合わせて、らでんも隣で同じように回って足を止めた。
この振付では、止まる形を崩さないようにと、上半身まで必要以上に固めていた。今度は足裏で重心を保ったまま、肩と視線をすぐには戻さず、はじめが「ここ」と言った半拍遅れのタイミングで息を吐きながら顔を上げた。
すると、鏡の中で自分のシルエットが、さっきまでよりずっと自然に音楽の拍へ溶け込んだ気がした。
「……あっ! 今、なんか分かったかも! 動けるからって、全部を一番速く決めちゃえばいいってわけじゃないんだ!」
「そうそう! 今のめっちゃいいじゃん、らでん! 最初からそれができたら苦労せんってくらい綺麗に入ったよ」
「やった! ねえ、今の感覚忘れないうちに、もう一回だけ――」
「あーっ、ちょっと待って、らでん!」
もう一度回ろうとしたらでんの袖を、横から見ていた奏がぱっと掴んだ。
「今の踊り方、すっごく格好よかったけど、そこで『ふーっ』て息を吐ききっちゃったら、次の『重ねた日々の――』の歌い出し、どこで息を吸うの!?」
「……あっ」
らでんは鏡の前で目を丸くして固まった。
言われてみればその通りである。さっき歌が詰まったのも、はじめの動きを真似して音を待とうとしたせいで、いつも吸っていたタイミングを逃したからだった。
「あはは、やっぱり! 立ってマイクの前で歌うだけなら、前に合わせた『前のフレーズの最後の二文字を少し抜いて吸う』でいけてたもんね。でも今のらでん、ちょうど息を吸いたいところで、肩を抜くのと一緒に息まで吐いちゃってたよ」
「そっか……! どうしよう奏ちゃん、私、今の肩を残すやつもやりたいし、歌もちゃんと歌いたいんだけど!」
「うん、どっちもやろう! ちょっとその四拍前から、私と一緒に歌いながら動いてみて」
奏が自分のマイクを構えて、らでんのすぐ右隣へ並ぶ。
「いい? ターンに入る前の『遠く――』は伸ばしすぎないで、回りながら鼻と口で半分だけ吸っちゃうの。で、はじめさんの言った通りに四拍目で止まって肩を残したら、力を抜くときに吐くんじゃなくて、左足をスッて寄せながら、残りの半分を胸の横へ入れる感じ! せーのっ」
奏がカウントを口ずさみ、二人の足が同時に床を蹴る。
回って、止まって、肩を残す。そこまではじめに教わった通りに溜めてから、左足を引き寄せる動きと一緒に、奏が背中をぽんと軽く叩いてくれた。その合図に引っ張られるようにして息を吸い込むと、窮屈だった胸の奥がすっと広がり、次の『重ねた――』の高音が驚くほど楽に喉から飛び出した。
「――出た! 今、全然苦しくなかった!」
「でしょ!? どこで吸おうって頭で考えながら踊ると迷っちゃうから、『左足を寄せるときに吸う』って振付とセットにしちゃえばいいんだよ!」
「奏ちゃん天才! ありがとうございます、先生!」
「えへへ、歌のことならいつでも聞いて! ……と言いたいところなんだけど、私はその次の自分のパートに入るところで、歌に引っ張られて右足が小さくなっちゃうんだよね。ワン、ツー、スリー、フォー……」
奏は照れくさそうに笑ったかと思うと、すぐに真剣な顔に戻って自分の足元を見つめた。
ダンスは初心者だと言っていた奏だが、一度引っ掛かったところを絶対にそのままにしない。今もらでんへ教えた直後に、自分が斜め前へ出るステップを何度も踏み直し、三回目にはもう膝の向きを揃えて、顔を上げたまま伸びやかな声を響かせていた。
その横では、青と莉々華が鏡の端で最初の移動ステップを合わせている。
「ほら、莉々華、そこは右足からじゃなくて、一回左へ体重を逃がしてからだよ。あんまり足元ばっかり見てると、次に腕を上げるのが遅れちゃうから」
「うーん、頭では分かってるんだけどさあ! 青くんみたいにスッて足が出ないんだってば! らでんちゃーん、ちょっとこっち来て一緒にやってくれない?」
「いいよー! どこから? 最初の横へ動くところ?」
らでんは莉々華の隣へ駆け寄り、同じ向きに並んで立った。
正面から見ているだけでは「少し遅れているな」としか分からなかったが、実際にすぐ横へ並んで同じ歩幅で動いてみると、莉々華がどこで詰まっているのかが驚くほどよく見えた。莉々華は自分の足がちゃんと合っているか不安なのか、一歩ごとに足元を見て、かかとまでべったり床へ着けてから、慌てて腕を動かしていた。
「あ、莉々華ちゃん、今のところね、足を出してから腕を上げようとすると二回に分かれちゃうから、あまりかかとを着けないで、親指の付け根で『ト、トン』って跳ねるのと同時に肘を上げちゃうといいかも!」
「えっ、同時に? ちょっとゆっくり隣でやってみて!」
「うん、行くよ。せーの、左、ト、トン! そう、そこで胸の前!」
「僕も反対側で一緒にやるよ。ほら、腕は真横から回すんじゃなくて、少し肘を内側へ絞ってから上げると、身体が遅れないと思うんだよね」
らでんと青の二人で莉々華を挟み、カウントを半分に落として同じステップを三度、四度と繰り返す。
最初は腕と足が別々に動いて「あーっ、待って待って!」と笑っていた莉々華だったが、両隣でらでんと青が同じリズムで床を鳴らし続けるうちに、ふっと肩の力が抜けた。五回目には、かかとが浮いたまま軽やかに足が入れ替わり、ピタリと拍の頭で両腕が上がる。
「……あっ、できた! 今、遅れないで入れたよね!?」
「うん、ばっちり! 今のすごく軽かったよ、莉々華ちゃん!」
「やったー! 一人で鏡見てると足ばっかり気になっちゃうけど、隣で同じ速さで動いてもらうと、どこで跳ねればいいかすぐ分かるね!」
莉々華がぱっと顔を輝かせてハイタッチを求めてくる。ぱちんと手を合わせたところで、一歩後ろへ下がって全体を見ていた青が、「あ、今のいいじゃん」と指を鳴らした。
「ねえ、ちょっと今のまま五人でサビの並びになってみない?」
青に呼ばれて、はじめと奏もそれぞれの立ち位置へ入る。青は自分の場所から鏡の中の五人をぐるりと見渡し、少し考えるように顎へ指を当てた。
「やっぱりそうだ。あのさ、このサビで横一列に広がるところ、全員でもう半歩ずつだけ内側へ寄ってみない? 僕、さっきは格好つけて端まで広く使いすぎてたみたいで、カメラの画角で見ると、真ん中のはじめちゃんとらでんちゃんの周りにちょっと隙間が空いちゃってるんだよね」
「隙間?」
「うん。二人の動きがすごくキレがあるから、周りが離れすぎると、真ん中と端で別のグループみたいに画面が割れちゃうんだ。だから、完全な真横じゃなくて、僕と莉々華がほんの少しだけ前へ出て、五人の肩が画面の中で少し重なるくらいのV字っぽくしたらどうかな?」
言われた通りに半歩ずつ内側へ寄り、青と莉々華が靴一足分だけ前へ出る。
たったそれだけの違いなのに、鏡の中に映った五人のシルエットが、ばらばらの点からひとつの塊へと変わったのがらでんにもはっきりと分かった。
「わあ、ほんとだ! こっちの方が、五人で前に迫ってくる感じがしてすごく格好いい!」
「おー、さすが漫画家。立ち位置ちょっと詰めただけで、急に強そうなチームに見えるじゃん」
「ふふっ、画面の構図と視線誘導なら任せてよ。……あ、でも今の位置だと、僕がターンしたときに奏ちゃんのマイクと近いかも。僕の方で半歩だけ後ろへ引くね」
「あ、青くんの言う通りかも! ちょっと待って、今のカメラのモニターで確認してみる!」
莉々華が鏡の前の三脚に据えられたビデオカメラへ駆け寄り、小さな液晶画面で今の並びを確かめた。それから、録画していた直前の練習まで戻して再生する。自分のステップではあんなに苦戦していたのに、画面全体のバランスや進行を見る目つきは誰よりも頼もしい。
「うん、今の青くんが半歩引いた位置なら、五人全員が綺麗にフレームに入ってる! それと……あ、らでんちゃん、さっきのサビで右腕を高く上げたとき、練習用ジャケットの右肩、ちょっと突っ張ってなかった?」
「えっ!? あ、うん、実はちょっとだけ脇の下が引っ掛かる感じがあったんだけど、踊ってるうちに直るかなって」
「だめだめ、そういうのをそのままにしておくと、本番の衣装を作るときに同じところで腕が回らなくなっちゃうから! よし、キリもいいし、ここで十五分休憩にしよっか。今のうちに、らでんちゃんの右肩の仮留め、少しゆるめておくね。青くん、そこにある明日の仮歌収録用のセリフ割りプリント、みんなに配っておいてもらっていい?」
「はーい、任せて。僕の格好いいセリフのところ、ちゃんと蛍光ペン引いておかなきゃ」
「全員同じ白黒のコピーだからね!」
莉々華のツッコミに笑いながら、五人は鏡の前の床へ思い思いに座り込んだ。
裁縫ケースを持ってきた莉々華に後ろからジャケットの肩口をつまんでもらいながら、らでんは青が配ってくれたプリントを受け取る。向かい側では、はじめと奏がペットボトルを片手に「今のサビ前のハモリ、もうちょっと息の量を揃えてみる?」と早速次の相談を始めていた。
(……なんだか、すごく贅沢な時間だなあ)
らでんはプリントの余白を見つめながら、さっき自分が出せた高音と、肩の力を抜いて音を待ったときの感覚をもう一度胸の中で反芻した。
自分一人で鏡の前に立っていたら、きっと「言われた通りに動けているから大丈夫」で終わっていたと思う。それを、はじめが隣で一緒に回って音の待ち方を教えてくれて、奏がすぐ横で背中を叩いて息を吸う場所を合わせてくれた。青が全体の見え方を整えてくれて、莉々華が自分では見えない背中の引っ掛かりまで見つけて直してくれる。
そして何より、さっき莉々華の隣に並んで、同じ歩幅でゆっくりステップを踏んだときの「あ、できた!」という嬉しそうな顔が、らでんの胸に温かく残っていた。
教える側だからといって、離れた場所から腕を組んで見ている必要なんてないのだ。分からないところがあったら、すぐ隣に座って、同じ画面を見て、同じ速さで呼吸を合わせてみればいい。
(うん。三十日に闘技場へ戻ったら、あの二人とも、ああやって隣に並んで一緒にやってみよう)
二百階の部屋でノートを広げているだろうゴンとキルアの顔を思い浮かべて、らでんがひとりでに口元を緩めていると、ストローを咥えた奏がひょいと顔を覗き込んできた。
「ん? なに一人でニヤニヤしてんの、らでん」
「あ、ううん、なんでもない! なんだかすごく楽しくなっちゃって!」
「はい、右肩の仮留め、ゆとりを足したよ! ちょっと腕を回してみて、らでんちゃん」
莉々華が背中を軽く叩いて離れる。らでんがその場で立ち上がって右腕をぐるりと回してみると、さっきまでのつっぱりが嘘みたいに消えて、指先まで気持ちよく伸びた。
「わあ、すごい、全然引っ掛からない! ありがとう莉々華ちゃん!」
「どういたしまして! 本番の衣装の採寸シートにも、今の肩周りのゆとりを書いておくね」
「よーし、じゃあ休憩が終わったら、今の立ち位置と息継ぎのまま、一回も音を止めずに最後まで通してみるよ!」
はじめが床から跳ねるように立ち上がり、手をぱんと叩いた。
「おっ、いいね! 次は僕も最初からクールに決めるよ!」
「青くん、さっきみたいに莉々華と正面衝突しないでよー?」
「もうしないってば!」
マイクを握り直した五人の笑い声が、午後のスタジオに明るく弾けた。
◇ ◇ ◇
四日間の対面練習と仮歌収録を終えてらでんが天空闘技場へ戻ってきたのは、約束通り三月三十日の夕方だった。
そこから四月上旬にかけての十日間あまり、らでんの毎日は、昼間の追補展示の仕上げと、夕方の二百階への訪問で小気味よく回っていった。
昼の特設ギャラリーでは、カストロから許諾を得た『虎咬拳の基礎歩法・稽古帳複写』と『左右対称に摩耗した打ち込み板』の写真パネルが、七〇年代の審判団記録帳のすぐ隣へ追加展示された。
古い紙の帳面に書かれた文字と、現役の武闘家が毎日打ち込んでいる手元の写真とが並んだことで、展示コーナーの前で足を止める観客や選手の数は、開幕直後よりもさらに増えていた。カストロ本人にも完成したパネルの写真と礼状を届け、今回の歴史展示と追補記録の仕事は、ひとつの確かな形となって収まりつつあった。
そして夕方四時過ぎに二百階の部屋を訪ねるたび、ゴンとキルアの二人もまた、目に見える変化を見せていた。
らでんがスタジオへ行っていた四日間のことは、帰ったその日に二人のノートと報告でたっぷり聞かせてもらった。
キルアの報告によれば、らでんが不在の三日目の夜、ゴンが「なんか腕も脇腹も全然痛くなくなってきたから、ちょっとだけギプス外して腕回してみようかな」と言い出したらしい。それを聞いたキルアが「おい、らでんのルールと医者との約束を忘れたのかよ!」と即座に止め、翌朝の『燃』でゴン自身が『点:お医者さんがいいって言うまで、絶対に自分でギプスを触らない』と声に出して『舌』をやり直したことで、無茶をせずに乗り切ったのだという。
「えへへ、だってあのとき、ギプスの中がすっごく痒かったんだもん。でも、キルアが止めてくれて、朝に自分でちゃんと言葉にしたら、そのあとはもう気にならなくなったよ!」
そう笑うゴンは、四月に入った頃には、ベッドの上であぐらをかいて目を閉じ、一分間に自分が何回呼吸をしているかを正確に数えながら、心拍をすっと落ち着かせる『錬』の集中を、二十分以上も乱れずに続けられるようになっていた。
それだけではない。変化があったのはキルアも同じだった。
◇ ◇ ◇
四月八日の夕方、らでんが部屋を訪ねると、キルアはテレビモニターの前で一時停止ボタンを押したまま、自分の大学ノートへびっしりと図を描き込んでいた。
「こんにちは、キルア君。今日もライブラリーのビデオですか?」
「おう、らでん。ちょっとこれ見てくれよ」
キルアが振り返ってノートを差し出す。
そこには、過去半年間に二百階クラスで行われた通常興行のうち、武器を使う選手と素手の選手が戦った五試合について、リングのどこで最初の接触が起き、どちらが先に足を止めたかが、簡単な矢印と秒数で整理されていた。
「この一か月、毎朝『点』と『舌』をやってからビデオを一日一本ずつ見てたんだけどさ。最初はただ『こいつ強いな』『この武器リーチ長いな』くらいしか見てなかったんだ。でも、毎日『今日は相手の足が止まる瞬間だけ見る』ってひとつ決めて見るようにしたら、すげー面白いことが分かったぜ」
「へえ、どんなことですか?」
らでんはキルアの隣へしゃがみ込み、ノートの図と一時停止された画面を交互に見た。
対面練習で奏やはじめにやってもらったのと同じように、上から採点するのではなく、同じ目線で画面を覗き込む。
「ほら、この槍使いの選手も、前の試合の鎖使いの奴もさ、自分の得意な必殺技を出す一拍前に、必ず軸足の踵がほんのちょっとだけ浮くんだよ。たぶん、強いオーラを武器へ集めようとして、一瞬だけ足元の意識が抜けてんじゃねーかな」
「……っ、本当だ。キルア君、動きをそこまで細かく見ていたんですか!?」
らでんは思わず目を見張った。
画面の中で踵が浮く瞬間を、らでんも巻き戻して確かめた。オーラを集めることとの関係は、動きの癖だけでは断定できない。それでも、キルアは『毎日ひとつだけ目的を決めて観察する』という燃の習慣を続け、わずかな動きの癖を拾っていた。そこから、オーラの扱いにまで仮説を広げている。
「まあね。ゴンが休んでる間、本物の念の練習は一切やらねーって決めたけどさ、ただボケーッと待ってるだけじゃつまんねーだろ? こうやって毎日『今日やること』を決めて潰していくの、最初はめんどくせーと思ったけど、やってみると案外悪くないな。次に念の修行を再開したら、オレは自分が動くときに絶対この『一瞬足が浮く癖』が出ないように、オーラを保ち続ける練習からやりたい」
一か月前、中庭でペットボトルを捕ったときに「背中のほうがちょっと抜けたな」と舌打ちしていた少年が、今は自分の頭で次の修行の課題を具体的に掴んでいる。
らでんは嬉しくなって、キルアの銀色の髪をわしゃわしゃと撫でたくなったのをぐっと堪え、代わりにノートの隅へ大きく花丸を書いた。
「すごいです、キルア君。本物の念を休んでいた一か月が、少しも無駄になっていませんね。むしろ、ただ闇雲にオーラを出す練習をしていたら気づけなかったことに、自分の目で辿り着いていますよ」
「よ、よせよ、ガキみたいに花丸なんか書くなっつの!」
キルアは耳の先を少し赤くしてノートを引っ込めたが、その口元は隠しきれないほど誇らしげに緩んでいた。
ベッドの上からは、ゴンも「キルアのノート、もう半分以上埋まってるんだよ! オレも左手で書いたページ、最初よりずっと真っ直ぐ書けるようになったんだ!」と自分のノートを掲げてみせる。
二人の九十日の戦闘準備期間も、改めて手帳で確かめてある。
ゴンは三月十一日の初戦から数えて六月九日まで。まだ一度も試合に出ていないキルアは、二月二十四日の二百階登録から数えて五月二十五日まで。どちらもまだ一か月半から二か月近い余裕が残っており、焦って無理な日程を組む必要はなかった。
「三日後の四月十一日は、ゴン君の一か月目のレントゲン検査の日ですね。最近、右腕や脇腹の痛みはどうですか?」
「うん、もう全然痛くないよ! 深呼吸しても走る真似しても、どこも響かないんだ。でも、らでんさんと約束したから、お医者さんが外してくれるまでは絶対にこのままだよ!」
元気よく胸を張るゴンの顔色は、怪我をする前よりもずっと艶やかで力強かった。
全治四か月という最初の診断からすれば、まだ四分の一が過ぎたところにすぎない。ただ、ギプスから覗くゴンの指先の血色や、寝返りを打つときの軽やかさを見ていると、もしかすると予定よりずっと早くギプスが外れるのではないか――そんな予感を抱きながら、らでんは三日後の診察予約票を鞄へ収めた。
◇ ◇ ◇
一九九九年四月十一日、午前十時。
一か月前、ストレッチャーに乗せられたゴンが運び込まれた闘技場医務室の診察室で、担当の医師はライトボックスに掛けられた二枚のレントゲン写真を前に、何度も眼鏡を押し上げていた。
左側は、三月十一日の試合直後に撮影された写真だ。右腕の橈骨と尺骨が完全に折れてずれ、肋骨のいたるところに痛々しい骨折線と亀裂が走っている。
そして右側は、今しがたギプスと固定バンドを外して撮影し直したばかりの、今日の写真だった。
「……信じられんな。おい、看護婦さん、これ本当に別の患者のフィルムと取り違えていないかね?」
「は、はい先生! 今しがたゴン=フリークス君を撮影したばかりの現像フィルムで間違いありません!」
看護師の返事を聞いてもなお、医師は「ううむ……」と唸りながら、丸椅子に座っているゴンの右腕を取り、手首から肘、肩にかけての関節を慎重に曲げ伸ばしした。続いて胸郭の横を軽く圧迫し、深く息を吸わせて聴診器を当てる。
診察室の隅で並んで見守っていたらでんとキルアも、息を詰めて医師の手元を見つめていた。
「ゴン君、今押したところで、少しでも痛む場所や違和感のあるところはあるかね?」
「ううん、全然痛くないです! 右腕も、前と同じくらい軽く動きます!」
ゴンが右手の指をグーパーと元気よく握り開いてみせる。一か月間ギプスで固定されていたはずなのに、筋肉が痩せて動かしづらくなっている様子さえない。
医師は聴診器を外すと、呆気に取られたように大きく息を吐き、付添人のらでんの方へと向き直った。
「……驚きましたよ、儒烏風亭さん。右腕の完全骨折していた二本も、肋骨の三か所の骨折と十二か所の亀裂も、すべて綺麗に骨癒合しています。仮骨の盛り上がりもすでに落ち着いており、関節の可動域にもまったく制限がありません」
「えっ……すべて、ですか? あの、一か月前は全治四か月というお話でしたよね?」
らでんは思わず手元のカルテ控えと、ライトボックスの写真を交互に見比べた。
「ええ、通常の十二歳の少年であれば、どれほど順調にいっても三か月から四か月はかかる重傷でした。ですが、この子の骨の再生速度は私の医者人生でも見たことがないレベルです。しかも、この一か月間、変に自分で固定を緩めたり無理な負荷をかけたりせず、初期の安静と栄養・睡眠を徹底してくれたおかげで、ズレひとつなく真っ直ぐに付いています。……今日付で『完治』として構いません。もうギプスもバンドも不要ですし、運動の制限も解除します」
医師が太鼓判を押すようにカルテへ『完治・制限解除』の印を押した瞬間、隣にいたキルアが「ぷっ」と吹き出し、半分呆れ、半分感嘆したような大声を上げた。
「おいおい、全治四か月のケガをたった一か月で完治させやがったぞ、こいつ……」
「えへへ、よく寝てよく食べたからかな! ありがとう、お医者さん!」
ゴンが診察台からぴょんと飛び降り、一か月ぶりに自由になった右腕をぐるぐると大きく回してみせる。
らでんも、自分の胸の奥にずっと張りつめていた重たい氷が、すうっと溶けていくのを感じていた。
『燃』をやったから魔法のように骨が繋がったわけではない。ゴンが生まれ持った底知れない生命力と、この一か月間、自分の『点』を毎日言葉にして、一度もギプスを勝手に外さず安静を守り抜いたこと。その両方が噛み合って、四か月かかるはずだった道のりを一か月で駆け抜けたのだ。
医師に何度も礼を言って診察室を出ると、三人はそのまま足取りも軽く二百階の客室へと戻った。
部屋へ入るなり、ゴンは自分の右腕と左腕を交互に伸ばして、嬉しそうに何度もジャンプしてみせた。しかし、途中でハッと動きを止めると、テーブルの前へ戻ってきて、キルアと二人で真っ直ぐにらでんの前へと並んだ。
「……らでんさん!」
ゴンの茶色の瞳が、期待でいっぱいに輝いている。
それでも、ゴンは自分の判断で勝手に《纏》のオーラを出したり、「治ったから今日から修行するね!」と走り出したりはしなかった。一か月前に結んだ『お医者さんに身体の状態を確かめてもらって、どう過ごせたかも見て、私から改めて話す』という約束を、最後の最後まで守って、先生の言葉を待っているのだ。
らでんは丸椅子に腰を下ろし、テーブルの上に置かれた二人の二冊の大学ノートを手に取った。
三月十二日から今日、四月十一日の朝まで。
三十一日分の『点・舌・錬・発』が、一日も欠けることなくそこに並んでいる。
最初はキルアの代筆だったゴンのノートも、途中からは大きな左手の文字になり、休養の目標から呼吸の練習へと少しずつ中身が深まっていた。キルアのノートには、本物の念を休む代わりに自分の目で積み上げた観察の記録と、再開後に試したい課題がびっしりと書き込まれている。
らでんは二冊のノートをそっと重ねてテーブルへ戻し、背筋を伸ばして二人の顔を交互に見つめた。
「ゴン君、キルア君。一か月間、私との三つの約束、本当によく守りましたね」
「うん!」
「ま、当然だろ」
「お医者さんから、ゴン君の身体が完全に治ったという確認もいただきました。それに、二人がこの一か月、ただ我慢して時間を潰すんじゃなくて、自分の目的を見失わないために毎日どうやって『燃』を続けてきたかも、私はずっと隣で見てきました」
らでんはそこで一拍置き、今までで一番明るい笑顔を浮かべて言った。
「当初は四か月とお話ししていましたが、もう待つ必要はありません。――先生の判断として、今日から二人の本物の念の修行再開を許可します!」
「やったあああっ!!」
ゴンが両手を突き上げて、ベッドの高さくらいまで勢いよく飛び上がった。
「よっしゃ! やっと普通にオーラ出せるぜ! 一か月間、身体が鈍らないようにすんの大変だったんだからな!」
キルアも拳を握ってニッと笑い、ゴンと空中でハイタッチを交わす。
喜び合う二人の姿を見守りながら、らでんは肩掛け鞄から自分のスケジュール帳を取り出し、もうひとつのページを開いた。
「それとね、二人とも。修行の再開と一緒に、もうひとつ許可したいことがあります」
「もうひとつ?」
ゴンとキルアが同時に首を傾げてこちらを見る。
「はい。一か月前は、ゴン君が途中で自分でも試したくならないように、他の人の試合を見に行くことも止めていましたよね。……でも、近く行われる、ヒソカ対カストロの試合。あれを、私と一緒に三人で会場へ観戦に行くことを許可します」
「えっ……!? ヒソカの試合、見に行っていいの!?」
ゴンの目が、さっき以上に大きく見開かれた。
隣のキルアも、驚いたように目を瞬かせてから、少しだけ眉を寄せて聞いてくる。
「いいのかよ、らでん? ヒソカの相手って、こないだらでんが取材してたカストロって武闘家だろ。二年前にヒソカに負けてから九連勝してるし、ヒソカから唯一ダウンを奪った男だって噂も聞いたぜ。そんな奴らの試合、ゴンを連れて見に行って大丈夫なのか?」
「ええ、一か月前なら止めていました」
らでんははっきりと頷いた。
「でも、今の二人なら大丈夫です。この一か月で、自分が何のためにそこへ行くのかを『燃』で確かめて、無茶な飛び込みをしない自制心もちゃんと見せてくれましたから。それに――」
らでんは、三月の終わりに百九十階の稽古場で見た、あの飴色に光る硬木の打ち込み板と、カストロの穏やかで力強い笑顔を思い浮かべた。
「カストロさんは、私の仕事に快く協力してくださって、ご自身の二年間の基礎の記録を預けてくださった大切な方です。『二年間で辿り着いた答えをリングで見せるから、ぜひ見に来てください』って言ってくださったんですよ。そして相手は、ゴン君たちが目標にしているヒソカです。二百階クラスのトップ同士が、どんな準備をしてリングに立ち、どうやって念を使って戦うのか……今の二人が自分の目で見ておくべきものが、きっとあの試合にはあります」
まだ二人は、隠されたオーラを見破る《凝》も、強いオーラを練り上げて維持する《練》や《堅》も知らない。実際の試合を見れば、今の自分たちの目だけでは追い切れない動きや、分からない仕掛けにもぶつかるだろう。けれど、それこそが、これからの本当の修行へ進むための最大の原動力になるはずだ。
「うん! 行きたい! らでんさんがお話を聞いたカストロっていう人と、ヒソカがどう戦うのか、オレも自分の目で見たい!」
「だな。ヒソカからダウンを奪った奴が、二年かけてどんな技を作ってきたのか、オレもすげー気になる」
「よし、決まりですね! ただし、会場で見るときも、勝手な無茶はしないこと。いいですね?」
「「うん!!」」
二人の声が気持ちよく重なった。
「じゃあ、今日はまず一か月ぶりのリハビリとして、この部屋の中で五分間だけ、ゆっくり《纏》を出して感覚を取り戻すところから始めましょう。もちろん、その前には――」
らでんが片手の四本の指を順番に立ててみせると、ゴンとキルアは顔を見合わせて笑い、ベッドの前の絨毯の上へ並んで背筋を伸ばした。
「よし、キルア! 今日二回目の『点』と『舌』からいくよ!」
「おう! 一か月ぶりだからって、いきなりオーラ漏らすんじゃねーぞ、ゴン!」
窓から差し込む四月の明るい陽射しの中で、二人が目を閉じ、すうっと深く息を吸い込む。
止まっていた時計の針が、もう一度力強く動き出した音を聞きながら、らでんも二人の前へ静かに立ち、来るべき次の試合の日を心の中で待ち望んでいた。