儒烏風亭らでんと蜘蛛と奇術師   作:今日も元気ですマン

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第七話 カストロVSヒソカ

 

 一九九九年四月十三日、午後一時半過ぎ。

 

 天空闘技場二百階の中央闘技場へ続く大階段は、開場直後からいつも以上の熱気とざわめきに満たされていた。

 

「わあ、すごい人だね、キルア! オレが前に出たときより、お客さんがずっとぎっしり座ってるよ!」

 

 入場ゲートを抜けたところで、ゴンがすり鉢状に広がる客席を見渡して声を弾ませた。

 

 チケットの半券を握っているのは、二日前の診察でギプスが外れたばかりの右手の指先だ。一か月間ずっと白い固定具と三角巾で胸の前に吊られていたその腕は、今や歩調に合わせてごく自然に前後へ振られており、肘の曲げ伸ばしにも少しの引っかかりもない。

 

「そりゃそうだろ。今日はただの二百階クラスの試合じゃねーもん」

 

 隣を歩くキルアが、ポケットに片手を突っ込んだまま天井近くの大型電光掲示板を見上げた。

 黒いボードの上には、今日の対戦カードとして『カストロ VS ヒソカ』の白い文字がくっきりと灯っている。

 

「片方は二年間で九連勝してフロアマスターに王手をかけてるカストロで、もう片方はあのヒソカだぜ。二百階の他の選手たちだって、どっちが勝つか気になって見に来てる奴が結構いるんじゃねーか」

 

「そっか! ねえ、らでんさん、オレたちの席ってどのあたりなの?」

 

「中段の少し前寄り、北側の通路沿いのブロックですよ。リング全体が見渡せて、しかも出入り口に近い場所を取ってもらいましたから」

 

 らでんは肩掛け鞄のストラップを軽く握り直し、二人の背中を促して階段通路を下りていった。

 

 広報課の担当職員が追補展示の協力者枠として手配してくれた三枚並びの指定席だ。一か月前のギド戦のときは、らでんひとりでこの客席からヒヤヒヤしながらゴンの背中を見守っていたけれど、今日はこうして三人で並んで階段を下りている。

 

 座席に腰を下ろすと、正面には一辺十数メートルほどの石畳のリングが、天井からの強い照明を受けて白っぽく浮かび上がっていた。

 

 らでんはまず、両隣に座ったゴンとキルアの肩口をそっと確かめた。

 

 一昨日の午後、部屋の絨毯の上で一か月ぶりに再開した《纏》のリハビリは、二人とも驚くほど滑らかだった。ひと月欠かさず毎朝の『燃』で自分の呼吸と目的を確かめ続けていたおかげか、以前よりもオーラの輪郭が落ち着いていて、今も客席の喧噪に呑まれることなく、ごく薄い《纏》を肌の表面へ静かに馴染ませている。

 

「二人とも、今朝の『点』と『舌』で確認した通りですね。どれだけすごい技が出ても、客席の手すりから身を乗り出したり、途中で自分のオーラを大きく膨らませたりしないこと。今日は自分の目で、二人がどういう間合いで、どういう準備をして戦うのかをしっかり見る日ですよ」

 

「うん! ちゃんと覚えてるよ、らでんさん」

 

 ゴンが背筋を伸ばして頷き、それから自分の右手の拳を膝の上で軽く握りしめた。

 

「オレ、今日はカストロさんの動きと、ヒソカがどういうふうに攻撃を避けたり当てたりするのかを最後までちゃんと見るって決めたんだ」

 

「オレは、ヒソカの野郎が素手の武闘家相手にどういう間合いを取るかだな」

 

 キルアも座席の背もたれに肩を預け、青い目を細めて正面のリングを見据えた。

 

 二人の横顔を見ていると、一か月間本物の念を休んでいたことが嘘のように、頼もしい集中が備わっているのが分かる。ここへ連れてきてよかったと、らでんは改めて胸の中で頷いた。

 

 そして何より、らでん自身もこの試合が始まるのを心から楽しみにしていた。

 

 膝の上に乗せた鞄の中には、いつも使っている調査用の手帳が入っている。三月の下旬、百九十階の第三稽古場でカストロ本人から見せてもらった、あの飴色に光る硬木の打ち込み板。左右の手刀で毎日同じ数、同じ音の高さになるまで打ち込み続け、寸分違わぬ対称の窪みを刻んでいた指先。

 

 『来月の私の試合、もしご都合がつけば、ぜひ会場へ見に来てください。今日お話しした基礎のその先――二年間で私が辿り着いた答えを、リングの上でお見せしますから』

 

 扉の前でそう言って爽やかに手を挙げたカストロの声が、今も耳の奥に温かく残っている。

 

 二年前にヒソカに敗れ、そこから基礎の歩幅をすべて一から稽古帳へ書き直し、九つの勝ち星を積み上げてきた武闘家が、今日ついにその借りを返すためにリングへ上がるのだ。

 

 会場の照明が一段落ち、リングの中央だけを照らすスポットライトがひときわ強く輝いた。

 

『お待たせいたしました、皆様! 本日最大の注目カード、二百階クラス特別試合の開始です! まずは西側ゲートより――現在九勝一敗、怒濤の九連勝でフロアマスターへの挑戦権まであと一勝と迫る実力者、カストロ選手の入場です!』

 

 場内アナウンスと同時に、西側の花道からカストロが姿を現した。

 大歓声が湧き起こる中、袖のない道着を纏った長身の体躯が、一定の歩幅で真っ直ぐリングへと向かってくる。

 

「あ、あの人がカストロさんだね! らでんさんが言ってた通り、歩いてるときから頭がぜんぜん揺れてないよ」

 

「ほんとだな。足音もほとんどしねーし、オーラのまとまり方が今までビデオで見た奴らよりずっと静かだ」

 

 ゴンとキルアが揃って身を乗り出す。

 

 リングへ上がったカストロは、軽く周囲の客席へ礼をしてから、北側のスタンド――らでんたちが座っている方角へちらりと視線を向けた。強い照明の逆光の中でも、その端正な顔立ちに穏やかで迷いのない笑みが浮かんだのが分かり、らでんは思わず胸の前で小さく手を振った。

 

 そこには、死地へ赴く悲壮感など欠片もない。自分の鍛錬を信じ抜き、今日ここで勝つために立っている人間の、澄み切った佇まいがあった。

 

『続きまして東側ゲートより――現在の戦績は八勝三敗! その三敗はいずれも出場義務期限切れによる不戦敗であり、リングの上ではいまだ無敗の不気味な奇術師、ヒソカ選手の入場です!』

 

 歓声とどよめきが入り混じる中、東側の通路から、星と雫の化粧を施した男がふらりと歩いてきた。

 

 隣で、ゴンの呼吸がほんの一拍だけ深くなる気配がした。それでもゴンは立ち上がったりはせず、膝の上の拳をぐっと握ったまま、リングへ上がるヒソカを真っ直ぐに見つめている。

 

 ヒソカは観客の声援など気にも留めない様子で、細い腰を揺らしながらカストロの正面へと立ち、金色の目を細めて三日月型の笑みを浮かべた。

 

 リングの中央で、主審が開始の合図のために片手を高く掲げる。

 

 らでんも自然と背筋を伸ばし、石畳の上で向き合う二人の足元へと意識を集中させた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

『――それでは、これより二百階クラス、カストロ対ヒソカの一戦を行います! レディ……ファイッ!』

 

 主審が手を振り下ろし、後方へ飛び退いた。

 

 両者はすぐには動かず、数歩の間合いを置いたまま言葉を交わしているようだった。カストロが低く落ち着いた構えを取り、左右の腕を二本の牙のように前へ添える。あの第三稽古場の打ち込み板の前で見せてくれた『虎咬拳』の構えだ。

 

 次の瞬間、石畳を蹴る乾いた音とともに、カストロが動いた。

 

 予備動作のまったくない、滑るような踏み込み。らでんが複写させてもらった稽古帳の図解そのままに、足裏の重心移動だけで初速の溜めを消し、カストロの右手刀がヒソカの胴へ向かって一直線に突き出される。

 

 だが、ヒソカはそれを見切っていたかのように、上体を後ろへ引いて手刀の軌道をかわした。

 

(かわされた――)

 

 らでんがそう思ったのと、隣のキルアが「あ、届かねえ」と呟いたのは同時だった。

 

 カストロの指先は、ヒソカの胴へ届かず手前の空を切っている。誰の目にも、ヒソカが余裕を持って避けたように見えた。

 

 ――その直後だった。

 

 バシッ、と肉を打つ鋭い音が鳴り、かわしたはずのヒソカの胴へ衝撃が入った。長身がくの字に折れ、口から血が散る。

 

「えっ!?」

 

「な、なんだ今の!? おい、今ぜったい当たってなかったよな!?」

 

 ゴンとキルアが同時に目を見張る。客席のあちこちからも「今何が起きた?」「手刀は空振りしてただろ!」という驚きの声が上がった。

 

 ヒソカ自身も、数歩後ろへ下がりながら口元の血を指先で拭い、不思議そうに首を傾げている。

 

(……おかしい。カストロさんの踏み込みは、本当に最初の一撃の軌道だけだった。フェイントで逆の手を出したんでもないし、足の裏の重心も一回しか動いてないのに、どうして反対側から衝撃が入ったの……?)

 

 らでんは瞬きもせずにカストロの立ち姿を追った。

 オーラの塊を飛ばした可能性も考え、らでんは目元へ意識を集めた。だが、ヒソカの周囲には弾や軌道の手掛かりを捉えられなかった。

 

 ヒソカが何かを呟き、カストロが再び低く腰を落とした。

 

 二度目の踏み込み。

 

 今度こそ見落とすまいと、らでんはカストロの両肩と足元の石畳を同時に視野へ収めた。

 

 カストロが正面から迫り、ヒソカがそれを読んで半身になりながら防御の構えを取る。だが、カストロの身体がヒソカの目の前でふっと掻き消えたように見えたかと思うと、その一瞬後には、ヒソカのすぐ背後――完全に死角となる位置から、カストロの強烈な打撃がヒソカの顔面へまともに叩き込まれていた。

 ドォンッ! と重い衝撃音が会場に響き渡り、ヒソカの身体が石畳の上へ仰向けに吹き飛んだ。

 

『ダ、ダウンだあああっ!! カストロ選手のクリーンヒット! あのヒソカ選手が、たまらずリングに沈みましたーっ!』

 

 実況の絶叫とともに、会場全体が揺れるような大歓声に包まれた。

 

「す、すげえ……! あのヒソカから、ほんとにダウン奪ったぞ!」

 

「ちょっと待って、キルア! 今、カストロさんどうやって後ろに回ったの!? オレ、足元ずっと見てたのに、横に回り込むステップなんか踏んでなかったよ!」

 

 ゴンが興奮と戸惑いの入り混じった声でキルアを見る。キルアも眉根を寄せて、リングの中央で静かに構えを解くカストロを睨みつけていた。

 

「ああ……オレも見てた。足が速すぎて見えなかったんじゃねえ。正面にいたはずの奴が、いきなり後ろから殴ってた。……らでん、今のなんだ? 念の技なのか?」

 

「たぶん、そうです。でも、ただ速く動いたんじゃないですね……」

 

 らでんは胸の鼓動が早くなるのを感じながら、ゆっくりと立ち上がるヒソカと、その正面に立つカストロを見比べた。

 正面から踏み込んだ瞬間のカストロの重心と、背後から打ち込んだ瞬間のカストロの重心。その二つは、いくらなんでも一人の人間が移動できる時間差ではなかった。まるで、最初から『そこにもう一人いた』としか思えないような角度だ。

 

 リングの上では、仰向けに倒れていたヒソカが起き上がり、口の端の血を拭いながら、なぜか嬉しそうに肩を揺らして笑っていた。

 そして何を思ったか、ヒソカは自分の右腕をだらりと前へ突き出し、カストロに向かって手招きをするような仕草を見せたのだ。

 

「おい、あいつ何やってんだ……? なんで自分から右腕なんか前に出してんだよ」

 

 キルアの声に警戒が滲む。

 

 カストロが短く言葉を返し、再び『虎咬拳』の構えを取った。左右の掌を揃え、一切の迷いなくヒソカの突き出した右腕へと踏み込む。

 

 ヒソカは避けなかった。

 

 ただ金色の目をカストロの手元へ向けたまま、自らの右腕を晒し続けた。

 

 次の瞬間、カストロの左右の手刀が上下から牙のように交差し――ヒソカの右肘から先の前腕が、鮮血とともにスパッと宙へ跳ね飛んだ。

 

「――っ!!」

 

 ゴンが息を呑み、座席の肘掛けを掴む。

 

 ゴロゴロと石畳の上を転がったヒソカの右腕が、リングの中央で止まった。切断された断面から赤い血が滴り落ち、客席の歓声が悲鳴混じりのどよめきへと変わる。

 

 二年間、硬木の板を左右同じ深さになるまで打ち込み続け、指先の角度をミリ単位で揃えてきた『虎咬拳』。それが人間の肉体へまともに決まれば、骨ごと一刀のもとに断ち切る威力があることは、あの打ち込み板を見たときから分かっていたはずだった。

 

 けれど、らでんの背筋を粟立たせたのは、カストロの手刀の鋭さ以上に、自分の右腕を斬り落とされたまま、ククッ、と喉を鳴らして笑っているヒソカの横顔だった。

 

(……わざとだ。相手の技の正体を見るためだけに、自分の生身の右腕を差し出したんだ、あの人……!)

 

 異常だ、と頭では思う。

 

 それなのに、血の噴き出る右腕の断面を見下ろしながら、まるで極上の謎解きに出会った子供のように目を細めているヒソカの姿から、らでんはどうしても視線を外すことができなかった。

 

 ヒソカが何かを口にし、カストロの背後を指差した。

 

 すると、カストロはもう隠す必要はないと判断したのか、静かに一歩横へと足を開いた。

 

 その隣の空間が陽炎のように揺らぎ――次の瞬間、リングの上には、寸分違わぬ顔立ちと道着姿をした『二人のカストロ』が、肩を並べて立っていた。

 

『な、なんとーっ! カストロ選手が二人!? 分身です! リングの上に、まったく同じカストロ選手が二人並んでいます!』

 

「ええっ!? ふ、二人になった!?」

 

「分身……!? だからさっき、ヒソカが避けたのに外側から当たったり、正面にいながら後ろから殴れたりしたのか!」

 

 ゴンとキルアが驚きの声を上げる。

 

 隠されたオーラの糸などとは違い、念によって具現化された分身は、こうして姿を現してしまえば一般の観客にも、まだ《凝》を知らないゴンやキルアの目にもはっきりと見える。

 

 リングの上では、カストロが落ち着いた声で自らの技について言葉を紡いでいた。会場の集音マイクを通しても断片的に聞こえてくるその声は、二年間ですべてを完成させたという誇りに満ちている。もう一人の自分を念で作り出し、本体と分身(ダブル)で同時に打ち込む『虎咬真拳(ここうしんけん)』、そして本体と分身を瞬時に入れ替えることで、相手の防御も読みも無効化するのだと。

 

「すごい……! らでんさん、カストロさんが言ってた『二年間の答え』って、この分身のことだったんだね」

 

 ゴンが目を輝かせて振り返る。

 

 あのヒソカが片腕を失い、対するカストロは無傷のまま二人の姿で並び立っているのだ。誰の目にも、勝負の流れは完全にカストロへ傾いたように見えた。

 

 けれど、らでんは「ええ、すごい技ですね」と頷き返しながらも、自分の胸の奥に小さな棘のような引っかかりが生まれるのを感じていた。

 

(……人間の姿を、あそこまで本物そっくりに具現化して、しかも本体と同じ動きで戦わせるなんて)

 

 ジンから念の基礎と系統の話を教わったとき、一度だけ似たような話を聞いたことがある。

 自分の肉体を鍛え上げて手刀で腕を断ち切るような武闘家が、まったく別の領域である『精巧な人間の具現化』と『それを自在に操る操作』を同時に行うには、想像を絶するほどの容量と集中力が要るはずだ。

 

 もちろん、カストロが二年間どれほど血の滲むような鍛錬を重ねてそこへ辿り着いたかは、あの稽古場の空気を知っているからこそ疑いようがない。ただ、それを目の前のヒソカという男が、ただ感心して見ているだけで終わるだろうか。

 

 リングの上で、ヒソカが石畳に転がっていた自分の右腕を左手でひょいと拾い上げた。

 そして、どこから取り出したのか一枚の布――スカーフのような布を、切断された右腕の上へふわりと被せた。

 

「……? なにすんだ、あいつ」

 

 キルアが怪訝そうに目を細める。

 

 ヒソカは血の垂れる右腕を布で隠したまま、まるで劇場のステージに立つ奇術師のような軽やかな口調で、会場全体へ聞こえるように数字当ての手品を始めたのだ。

 好きな数字を思い浮かべさせ、そこに計算を重ねさせていく、ひどく場違いで芝居がかったお喋り。カストロが苛立ったように言葉を挟んでも、ヒソカは涼しい顔でトランプのカードを弄び、足元の石畳へバラバラとカードを散らしながら、布を被せた右腕を揺らしてみせる。

 

「なんだよあれ……! 片腕斬られたばっかりなのに、なんで急に計算の手品なんかやってんだ? カストロのペースを乱そうとしてんのか?」

 

「わかんない……でも、なんかすごく嫌な感じがするよ」

 

 ゴンとキルアは、ヒソカの広げた布と、その口から滑らかに出てくる言葉の方へ気を取られている。観客席のほとんど全員がそうだった。

 

 だが、らでんはそこで、すっと息を止めて両目へオーラを集めた。

 

 ――《凝》。

 

 奇術師が一番派手に口を動かし、観客の視線をひとつの布へ集めているときほど、本当の手元は別のことをしている。それは舞台や展示の見せ方にも通じる、一番基本的な注意の誘導だ。

 

 一気に視野の解像度が切り替わり、通常の目では見えなかったオーラの濃淡が浮かび上がる。

 

(……っ、ある!)

 

 らでんは息を呑んだ。

 

 リング全体を一度にすべて見渡せるわけではないし、ヒソカの速い手の動きを完璧に止められるわけでもない。それでも、《凝》を凝らしたらでんの目には、ヒソカの指先や布の陰から、ごく細く透き通った薄桃色のオーラの線が何本も伸びているのが見えた。

 一本は布の下の右腕やその周囲へ。さらに別の細い線が、ヒソカが雑に足元へ撒き散らしたはずのトランプのカードの方へと、蜘蛛の糸のように石畳の上を這っている。

 

(ただの口上じゃない……! 計算の話でカストロさんと会場の意識を止めている間に、隠したオーラの線をあちこちに繋いでるんだ!)

 

 その直後、ヒソカが「答えはこれさ」と言うように布の下へ手を差し入れ、切断された右腕の断面から、血に濡れた『スペードのエース』を抜き出して高く掲げてみせた。

 

 会場が気味の悪さにどよめき、カストロの表情が険しく歪む。

 

 そしてヒソカは、今度はいまだ繋がっている自分の『左腕』を、挑発するように前へと突き出した。

 右腕に続いて、残る左腕までもくれてやると言わんばかりの構え。

 

 カストロの全身を包むオーラが、怒りとともに大きく膨れ上がった。二人のカストロが同時に地面を蹴り、左右からヒソカを挟み撃ちにする形で跳躍する。

 

「あ、また腕を狙う気だ!」

 

 ゴンが叫ぶ。

 

 二人のカストロの手刀が交差し、ヒソカの左前腕が斬り飛ばされて、高い弧を描いて宙へ舞い上がった。

 それと同時に、ヒソカの身体も後方へと大きく跳び退く。

 

 舞い上がる左腕、翻るスカーフ、飛び散る血飛沫――その激しい動きの真っ只中で、《凝》を保っていたらでんの目は、ヒソカの右肩口から伸びていた薄桃色のオーラの線が、ゴムを弾いたように猛烈な速さで『収縮』するのを見た。

 ビュッ、と空気を裂いて引き戻された切断済みの右腕が、布の陰でヒソカの右肘の断面へと吸い寄せられる。

 

 そしてヒソカが石畳の上へ着地し、被せていた布を払いのけた瞬間――。

 

『な……なんだとおおっ!? み、皆様ご覧になれますでしょうか! 先ほど斬り落とされたはずのヒソカ選手の右腕が……元通りに繋がっています!!』

 

 実況が裏返った声を上げた。

 

 本当に、客席から見るヒソカの右腕は、つい数分前に切断されたはずの継ぎ目すら見えず、滑らかな白い肌のまま五本の指を軽やかに動かしていた。

 

「う、嘘だろ!? おい、さっき切られたの右腕だったよな!? なんで傷跡まで消えてくっついてんだよ!」

 

「そんな……ヒソカって、切られた腕をすぐ治せる能力まで持ってるの!?」

 

 キルアとゴンが、信じられないものを見る目でヒソカの右腕を凝視している。

 

 リングの上のカストロもまた、ピタリと足を止め、自分の目と耳を疑うようにヒソカの右腕を見つめていた。

 

(違う……今のは、本当に傷が治ったんじゃない)

 

 らでんは自分の掌に冷たい汗が滲むのを感じながら、ヒソカの右肘のあたりを見つめた。

 《凝》で見えたあのオーラの線が、切られた右腕を引き寄せて繋ぎ止めたのは間違いない。ただ、どうして表面の皮膚まで傷跡ひとつなく元通りに見えるのかまでは、今のらでんにも正確には分からなかった。布を被せた一瞬の間に、何か薄い膜のようなもので傷口の表面を覆い隠したのかもしれないが、少なくとも、生命力や治癒の力で肉体が再生したのではないことだけは確かだった。

 

 けれど、カストロの視線は戻った右腕に縫い留められたようで、仕掛けを追えている様子がなかった。

 

 カストロの呼吸が、初めて目に見えて乱れた。

 

 あの第三稽古場で、どんなに速く手刀を振っても糸で吊ったように揺れなかった頭の高さが、今はわずかに浮き足立っている。なぜ右腕が治ったのか、なぜ左腕を切らせたのか、その疑問がカストロの意識を内側から食い荒らしているのが、客席のらでんにさえ痛いほど伝わってきた。

 

 ヒソカは、その揺らぎを逃さなかった。

 

 にやりと口角を吊り上げたヒソカが、並び立つ二人のカストロを見比べ、何かを軽く指摘する。

 片方のカストロの道着には、ここまでの攻防で浴びたヒソカの返り血と石畳の汚れが付いている。だが、もう片方のカストロの道着は、今おろしたばかりのように真っ白で、染みひとつ付いていなかった。

 

「あっ……! ほんとだ、右にいるカストロさんの服だけ、血がぜんぜん付いてない!」

 

 ゴンが気づいて声を上げた瞬間には、もう遅かった。

 

 ヒソカの切断された左前腕が宙を走り、道着の汚れた方のカストロ――本体の下顎を、下から鋭く突き上げた。

 

 ゴッ、と鈍く重い音がして、カストロの隣に立っていた無傷の分身が、煙のようにふっと掻き消えた。

 

 カストロが数歩よろめき、石畳の上に片膝をつきそうになって、かろうじて踏みとどまる。

 顎を強く揺さぶられたせいで、焦点の合わない目が虚空を彷徨っていた。それでもカストロは、二年間毎日身体に刻み込んできた武闘家の本能だけで、もう一度両手を前へ掲げ、分身を呼び出そうと構えを取る。

 

 ――だが、隣には誰も現れなかった。

 

 もう一度構え直しても、カストロの隣の空間は空いたままだった。

 

(あ……っ)

 

 らでんが小さく息を呑んだ。

 《凝》で見据えたままの目に、カストロの顎や身体から、足元の石畳に散らばった十数枚のトランプへと繋がる薄桃色のオーラの線が、ぴんと張り詰めるのが見えた。

 

 ヒソカが、右手の指先を軽く鳴らすように動かした。

 その瞬間、石畳の上に平たく落ちていたはずのトランプのカードが一斉に跳ね起き、張り詰めたオーラの線が収縮する猛烈な速度に乗って、四方八方からカストロの全身へと白い閃光となって殺到した。

 

 ほんの一秒にも満たない、短い現実の出来事だった。

 

 天井の強いスポットライトの下で、白いトランプの群れが幾何学的な直線を描いて空間を切り裂く。

 喉元へ、胸板へ、肩へ、四肢へ――鋼の刃よりも鋭く加速した紙片が深々と突き立ち、その衝撃でカストロの鍛え上げられた長身の身体が、真ん中の軸を折られたようにゆっくりと後ろへ傾いていく。

 

 傷口から散った鮮やかな紅い飛沫が、白い照明の光を透かして、まるで空中に吊り下げられた無数の硝子玉のように宙へ浮かび上がった。

 

 今まであれほど正確に動いていた手足が、ぴたりとすべての意図を失って静止する。

 

 数千人の観客が息を呑み、歓声も悲鳴もまだ追いつかない、真空のような静寂の間。

 

 散乱していたカードも、自らの両腕を餌にして張り巡らせた見えない糸も、相手が二年間積み上げてきた本気の鍛錬すらも、この一瞬の崩壊へ収束したように見えた。らでんの目には、それが冷酷で完璧な均衡として映っていた。

 

 頭で考えるよりも先に。

 

 いけないと制止する言葉よりも、ずっと先に、らでんの目の奥と胸の底を、ひとつの感覚が貫いていた。

 

(――綺麗だ)

 

 砕け散る瞬間の形そのものが、息を呑むほどに美しいと思ってしまった。

 

 相手の本気も、自分の生身の肉体も、嘘も、手品も、会場の期待も、そこにあるものすべてを惜しみなく注ぎ込んで、自分が望む最高の一瞬を現出させるヒソカという男の妥協のなさに、自分の感性がどうしようもなく震えて見惚れていた。

 

 ――ドサッ。

 

 石畳の上へ、カストロの身体が仰向けに倒れ込む音が響いた。

 

 その乾いた音が耳に届いた瞬間、止まっていた会場の時間が一気に決壊したように、地鳴りのような大歓声とどよめきが頭上から降り注いだ。

 

『け、決着うううっ!! 勝者、ヒソカ選手! 全身にカードを浴びたカストロ選手、ピクリとも動きません!』

 

 主審が慌てて駆け寄り、リング脇から救護班が担架を持って飛び出してくる。

 

 その慌ただしい人の動きを見た途端、らでんの頭の中に、遅れてひとつの声が甦った。

 

 ――『来月の私の試合、もしご都合がつけば、ぜひ会場へ見に来てください。今日お話しした基礎のその先――二年間で私が辿り着いた答えを、リングの上でお見せしますから』

 

 百九十階の第三稽古場。

 

 汗を拭いながら穏やかに笑っていた、カストロの声。

 

 定規で引いたように整った黒い革表紙の稽古帳の文字。右で百本、左で百本、毎日同じ音の高さになるまで打ち込み続けて飴色に光っていた硬木の板。確認書の署名欄に、力強い筆跡で『カストロ』と名前を書いた、あの大きな手。

 

 今、石畳の上で赤い血溜まりの中に横たわり、救護班が首筋へ手を当てて首を横に振っているあれは、他の誰でもなく、三週間前に自分と向かい合って笑っていたカストロその人だった。

 

 勝つつもりでリングに上がり、その先の未来も当たり前に続くと信じていた人が、もう二度と起き上がらない。

 

「……っ」

 

 らでんは、自分の喉の奥がひゅうっと冷たく窄まるのを感じた。

 

 すぐ隣で、ゴンが「……しんじゃった、の?」と掠れた声で呟き、肘掛けを握ったまま固まっている。キルアも唇を強く噛み締め、担架へ乗せられていくカストロから目を逸らさずにいた。

 

 それなのに、らでんが何度瞬きをしても、瞼の裏に焼き付いて消えないのは、さっきの白いカードの軌跡と、光の中で宙に散った紅い飛沫の『美しい』と思ってしまった形ばかりだった。

 

 あの人の技術がすごかったから見入ったのだとか、武闘家としての誇りに感動したのだとか、そんな綺麗な言葉で今さら自分の目を騙すことはできなかった。自分は確かに、カストロが壊れていく最期の一瞬そのものに、まず美を感じてしまったのだ。

 

 そのとき、リングの中央に立っていたヒソカが、ふと顔を上げて北側の客席――らでんたちのいるブロックへと視線を向けた。

 大勢の観客が立ち上がって歓声を上げる中、座席に座り込んだまま動けずにいるらでんの目と、リングの上のヒソカの金色の目が、まっすぐに合った。

 悲鳴を上げるのでもなく、怒りに顔を歪めるのでもなく、ただ大きく見開かれたまま凍りついているらでんの瞳を、ヒソカはほんの一秒ほど楽しそうに細めた目で眺め――それからくるりと踵を返し、東側の退場ゲートへと消えていった。

 

「……らでんさん? 大丈夫? 顔、すごく白いよ」

 

 ゴンの声に呼ばれて、らでんははっと我に返った。

 自分の手が、膝の上の鞄の留め具を強く握りしめたまま、白くなっていることに気づく。いつもなら試合が終わればすぐに取り出して気づいたことを書き留めるはずの手帳に、指先が触れたまま、どうしても蓋を開けることができなかった。

 

「……あ、ううん。大丈夫ですよ、二人とも」

 

 立ち上がろうとして、自分の膝にすぐには力が入らないことに気づき、らでんは一拍だけ深く息を吸ってから、ゆっくりと座席から腰を上げた。

 

「すごい試合、でしたね。……人が一気に動くから、足元に気をつけて出ましょうか」

 

「……うん」

 

「だな。一回ロビーの方へ出ようぜ、ゴン」

 

 キルアがゴンの肩を軽く叩き、三人はざわめきの収まらない客席の階段を、来たときよりもずっと静かな足取りで上っていった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 中央闘技場の混雑を抜けて、二百階の回廊へと戻ってきた頃には、試合終了から四十分あまりの時間が過ぎていた。

 

 赤い絨毯が敷かれた広い通路には人影もまばらで、窓から差し込む午後の陽射しだけが、さっきまでと同じように静かに床を照らしている。

 

「あ、らでんさん。あそこの角にあるの、試合の記録ビデオの受付端末だよね?」

 

 通路の三十歩ほど先、エレベーターホールへ曲がる手前の壁際に設置されたライブラリー連絡用の端末カウンターを見つけて、ゴンが足を止めた。

 

「ほんとだ。なあ、らでん、今日の試合の公式ビデオって、いつから借りられるようになるかあそこで聞いてきてもいいか? さっきの試合、そのままだとどうしても納得いかねーところがいくつもあるんだよ」

 

 キルアが真っ直ぐにらでんを見上げて言った。

 

 ゴンも「うん! オレも確かめたい!」と強く頷いている。ショックを受けていないはずがないのに、二人の目はただ怖がって縮こまるのではなく、すでに『あそこで何が起きていたのかを自分の目で知る』という次の一歩へ向かっていた。

 

「ええ、いいですよ。あそこの係の人に、今日の特別試合のテープがいつ登録されるか聞いてみてください。私はここからちゃんと二人を見ていますから、手続きが終わったらすぐ戻ってくるんですよ」

 

「わかった! いこう、キルア!」

 

「おう!」

 

 二人が揃ってカウンターの方へと駆けていき、端末の前にいる係員へ声をかける。

 

 見通しのいい一直線の通路だから、ここからでも二人の背中ははっきりと見える。らでんは柱の脇で立ち止まり、二人の様子を見守りながら、無意識のうちに肩掛け鞄のフラップへ手を添えていた。

 その中には、明日で会期の一区切りを迎える追補展示の記録ファイルと、カストロの取材ノートが入っている。

 

 明日には、この公式アーカイブの最終記録を仕上げて広報課へ引き継がなければならない。頭では分かっているのに、鞄の革に触れる指先がまだ少しだけ冷たかった。

 

「――おや、先生じゃないか♣」

 

 すぐ横の、選手用控室エリアへ繋がる脇通路から、ふいに低く艶のある声が落ちてきた。

 

 らでんは反射的に《纏》を引き締め、声のした方へと向き直った。

 そこには、試合のときとは違う清潔な上着を羽織ったヒソカが、片手をポケットに入れ、もう片方の手で一枚のトランプをくるくると弄びながら立っていた。

 

(……っ、両腕とも……!)

 

 らでんの視線が、思わずヒソカの両手首へと吸い寄せられた。

 反射的に目元へ《凝》を走らせる。

 

 さっきのリングの上では、ヒソカの右腕には薄桃色のオーラの線が絡みつき、切断された腕を無理やり引き寄せて繋ぎ止めていたはずだった。そして左腕は、間違いなく前腕を斬り飛ばされて石畳の上へ転がっていた。

 

 それなのに今、袖口から覗く両手が、何事もなかったように滑らかにカードを挟んでいる。切断されていた箇所は袖に隠れて見えなかった。

 治療を受けたのか、まだ別の仕掛けがあるのか。それは、この距離から手元を見ているだけでは判別できない。

 

「フフ、そんなにボクの手が気になるかい?♦ タネも仕掛けも、舞台の上だけのものさ」

 

 ヒソカが左手の指先でカードをぴんと弾き、それから一歩だけらでんの方へ歩み寄った。

 

 三十歩先のカウンターでは、まだゴンとキルアが係員の説明を聞きながら画面を覗き込んでいる。らでんはいつでも二人の間へ割り込める位置を保ったまま、ヒソカの金色の目を見返した。

 

「このあいだ百九十階で会ったとき、キミはあいつのことをずいぶん熱心に調べていたよね♠ 二年間でどれだけ美味しくなったか、キミも客席から最後まで見ていてくれたようだ」

 

「……ええ。カストロさんに、見に来てくださいと招かれていましたから」

 

「そうかい♣ 決着がついたとき、リングからキミの席がよく見えたよ。周りの連中が大騒ぎしている中で、キミだけ、ずいぶんいい目をして座っていたじゃないか」

 

 ヒソカがそこで言葉を止め、まるで秘密を分け合う共犯者を覗き込むように、わずかに首を傾げた。

 

「どうだい、先生♠︎。――綺麗だっただろう?」

 

 短い問いだった。

 

 挑発するような大声でも、長々とした演説でもない。ただ、らでんがさっき客席でどんな目をしてリングを見ていたか、そして今どんな顔をするかを、すぐそばで確かめるような静かな声。

 

「………………」

 

 すぐに「そんなことはありません」と言えばよかった。

 

 私が取材でお世話になった大切な人を殺しておいて、何を言うんですか、と怒鳴り返すことだって、言葉としてならいくらでも知っているはずだった。

 

 けれど、らでんの唇は、すぐには動かなかった。

 

 一秒、二秒と、否定できない沈黙が二人の間に落ちる。

 

 そのわずかな『間』を見た瞬間、ヒソカの金色の瞳が、ぞっとするほど嬉しそうに細まった。

 

「……ククッ♥」

 

 らでんが答えられずにいる間、ヒソカはただ、その顔を見ていた。問いかけるようだった目が、今は満足そうに細まっている。

 

 ――見抜かれた。

 

 そう感じた途端、否定し損ねた沈黙まで、自分の答えとして渡してしまった気がした。

 

 らでんは鞄のストラップを握る指に力を込め、逸らさずにヒソカの目を見上げて、短く答えた。

 

「……ええ。見ていました」

 

 綺麗だったとも、違ったとも言わない。ただ、自分が一瞬たりとも目を逸らさずにあの最期を見たという事実だけを、そのまま返した。

 

「フフ……素直な目は嫌いじゃないよ♦ キミのその帳面に、今日の試合がどう書かれるのかも楽しみにしておこうかな」

 

 そのとき、カウンターの前で手続きを終えたキルアが振り返り、ヒソカの姿を見つけて即座にゴンの前へ半歩出た。

 

「……っ、ヒソカ!」

 

 ゴンも顔を上げ、茶色の瞳を強く見開いてこちらを見る。

 

 二人がこちらへ駆け寄ってくる気配を感じて、ヒソカはちらりとゴンの方へ視線を流した。

 

「おや、生徒たちが戻ってきたね♠ あの子も、良い目をするようになってきたじゃないか。せいぜい壊れないように、キミが磨いておいておくれよ、先生♣」

 

 それだけ言い残すと、ヒソカはそれ以上ゴンたちに絡むこともなく、来たときと同じ軽やかな足取りでエレベーターホールの方へと立ち去っていった。

 

「らでん! 今、あいつ何しに来たんだよ!? なんか変なこと言われなかったか!?」

 

 駆け寄ってきたキルアが、ヒソカの消えた角を睨みつけながら声を張る。ゴンも「らでんさん、怪我してない?」とすぐ隣へ並んだ。

 

「ええ、大丈夫ですよ。偶然通りかかって、少し言葉を交わしただけです」

 

 らでんは二人の前では普段通りの落ち着いた声を作って微笑み、ゴンの手にある控えの紙へ目を落とした。

 

「それより、ビデオのことは分かりましたか?」

 

「うん! 今日の特別試合の公式ビデオは、審判団の記録確認があるから、明日の午後三時以降にライブラリーへ入るんだって! 一番最初に借りられるように、予約番号の紙をもらってきたよ!」

 

 ゴンが白い予約票を掲げてみせる。

 

「そうか、明日の午後三時ですね。じゃあ、ちょうど私の展示と資料室の引き継ぎが終わる時間と同じくらいです。今日はまずお部屋へ戻って、さっきの試合で二人が何を見て、どこが分からなかったのか、一度ノートに整理しておきましょうか」

 

「おう、そうしようぜ。言いたいこと、山ほどあるからな」

 

 キルアが頷き、三人は並んでゴンの客室がある廊下の奥へと歩き出した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 二百階の客室へ戻ると、ゴンとキルアは上着を脱ぐのもそこそこに、丸テーブルの上へそれぞれの大学ノートを広げた。

 

 らでんは給湯コーナーで三人分の温かいお茶を淹れ、湯呑みをテーブルへ並べてから向かいの椅子へ腰を下ろした。今日すぐここで新しいオーラの技術を詰め込むつもりはない。まずは二人が自分の目で受け止めたものを、自分の言葉で吐き出させることが先だった。

 

「……なあ、らでん」

 

 最初に口を開いたのは、ペンを持ったままノートの白紙を見つめていたキルアだった。

 

「カストロがさ、あんなふうに死ぬなんて、オレも思ってなかったよ。あいつ、最初のダウンを取ったときも、右腕を斬り落としたときも、ほんとに強かったじゃん。分身を出して二人で並んだときなんか、ヒソカのほうが絶対に詰んだと思ったくらいだ」

 

「うん……」

 

 隣のゴンも、自分の右手のひらを見つめながら、静かな声で続けた。

 

「オレ、カストロさんが分身の説明をしたとき、すごくびっくりしたけど、どうして最初のパンチが当たったのかはちゃんと分かったんだ。二人のカストロさんが入れ替わったり、一緒に殴ったりしてたからだったんだよね。最後の、服の血の汚れで本体がバレちゃったのも、ヒソカが言ったから分かった。……でもさ、らでんさん」

 

 ゴンが顔を上げ、悔しそうに眉を寄せた。

 

「オレ、一番大事なところが、ぜんぜん見えなかったんだ」

 

「一番大事なところ?」

 

「うん。どうしてヒソカの左腕が切られたときに、最初に切られたはずの右腕がくっついたのかも分からなかったし、どうして切られた左腕がカストロさんの顎へ飛んでいったのかも、どうして床に落ちてたトランプが最後に全部飛んできたのかも、ぜんぜん分からなかったんだよ!」

 

 ゴンは自分のノートの上へ両手をつき、身を乗り出して言った。

 

「カストロさんは、らでんさんに『二年間の答えを見せる』って言って、ほんとにヒソカに勝つつもりであのリングに上がったんだよね? それなのに、オレ、カストロさんがどうして負けたのか、自分の目じゃ半分も分からなかった。こんなの、このままじゃヒソカにパンチを当てることだってできないよ」

 

 大人のような理屈で悲しみをまとめるのではなく、自分が何を見たかったのか、そして何が見えなくて悔しかったのかを、ゴンは真っ直ぐな言葉でぶつけてきた。

 

 するとキルアも、自分のノートに書いた簡単なリングの図を指先で叩きながら頷いた。

 

「オレもそこなんだよ、らでん。さっき通路でヒソカとすれ違ったとき、あいつの両腕、普通に動いてたろ? けど試合中、右腕が戻ったあとも、左腕は最後まで切れたままだったじゃん。もしほんとに『切られた腕を一瞬で治す能力』なんだったら、左腕だってその場で治せばいいし、切られた左腕が顎めがけて飛んでく説明がつかねー」

 

「ええ。その通りですね」

 

「だよな! でさ、オレ、この一か月ビデオばっかり見てたからちょっと気づいたんだけど……ヒソカが右腕に布を被せて、あの長ったらしい数字当ての手品をやってた時間あったろ」

 

 キルアの青い目が、鋭く光った。

 

「あいつ、ただカストロをイライラさせるためだけに喋ってたんじゃなくて、あの手品をやってる間に、手で床のトランプや右腕の周りに『何か』を仕込んでたんじゃねーのか? オレとゴンの目には、ただカードを撒いて布を揺らしてるようにしか見えなかったけどさ」

 

「……っ、キルア君、そこまで気づいてたんですか」

 

 らでんは思わず感嘆の息を漏らした。

 《凝》を知らない今の段階で、しかもあれだけ衝撃的な結末の直後に、ヒソカの口上が『物理的な仕込みの時間』だったというところまで自分の観察だけで辿り着いている。

 

「やっぱりそうなのか! じゃあ、らでんには見えてたんだな!? あいつ、どうやって腕を繋いだりカードを飛ばしたりしてたんだよ!?」

 

「知りたい! らでんさん、教えて!」

 

 二人が同時に前のめりになる。

 

 ここで「実はヒソカの指からオーラの線が伸びていてね」と口で答えを教えてしまうのは簡単だ。けれど、それでは二人がせっかく自分の目で掴みかけた疑問を、ただの知識として終わらせてしまうことになる。

 

 らでんは小さく首を横に振り、二人のノートの上へ人差し指を立てた。

 

「キルア君の推測は、すごくいい線いってます。本当にすごいですよ。――でも、ヒソカが何を使って、どのタイミングでどこへ仕掛けをしていたのかは、私が今ここで言葉で全部説明してしまうより、明日、二人が自分の目で見て確かめた方が絶対に力になります」

 

「オレたちの目で?」

 

「だって、さっきの試合じゃ見えなかったんだよ? 明日のビデオを見たら、見えるようになるの?」

 

 ゴンが不思議そうに首を傾げる。

 

「ただ今のままの目で見たら、ビデオでも同じようにしか見えません。でもね、二人がこの一か月、毎朝の『燃』を続けて、一昨日から《纏》の感覚も綺麗に取り戻してくれたでしょう? 今の二人なら、隠されたオーラを見破るための新しい目の使い方――《凝》の練習へ進むことができます」

 

「《ぎょう》……! 隠されたオーラを見る技か!」

 

「はい。実はそれ、記録された映像の上でも、練習すればちゃんと見えるようになるんです。明日の昼過ぎまで、私は今回の展示の追補記録と公式アーカイブの最終仕上げがありますから、それをきちんと終わらせて、午後三時過ぎに今日の試合のビデオを持ってここへ来ます。そうしたら、そのビデオを使って、二人が自分自身の目でヒソカの仕掛けを見破る修行をやりましょう」

 

 らでんがそう提案すると、ゴンとキルアは顔を見合わせ、さっきまでの重苦しい空気を吹き飛ばすように力強く頷いた。

 

「うん! らでんさんから答えだけ聞くんじゃなくて、オレ、自分の目でヒソカが何をしたのか見たい!」

 

「だな。手品のタネなんて、人に教えてもらうより自分で暴いた方が百倍スッキリするしな。よし、じゃあ明日の午後三時までは、今まで通り《纏》を安定させる練習をして待ってるぜ、らでん!」

 

「ええ、約束ですよ。今日は二人とも、あの試合を見て思った以上に頭も神経も疲れているはずですから、夜はいつも通り十時には休んでくださいね」

 

 二人がノートへ今日の気づきと疑問を書き込み始めるのを見届けて、らでんは夕方遅くにゴンの部屋を後にした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 自分の宿泊室へ戻り、机の上へ鞄を下ろして一人きりになると、昼間の気丈な声はすうっと消えていった。

 

 机のスタンドライトを点け、明日の最終整理のために鞄からカストロの取材ファイルを取り出す。

 クリアファイルの一枚目には、三月二十五日に原本を返却する前に許可を得て複写した、あの黒い革表紙の稽古帳の見開き二ページが入っている。そしてその下には、飴色に光る硬木の打ち込み板の写真と、カストロ本人が署名した利用許諾の確認書。

 

 ファイルを開こうとして、らでんの指先が、プラスチックの表紙の上でぴたりと止まった。

 

 目を閉じると、白い照明の下で四方から突き立ったカードと、宙に浮いた紅い飛沫の輪郭が、まるであの瞬間だけ時間が標本になったみたいに鮮明に浮かび上がってくる。

 

 ――『どうだい、先生。綺麗だっただろう?』

 

 回廊で聞いたヒソカの低い声が、耳の奥で静かに反響していた。

 

 らでんはしばらくの間、開けないファイルの上に両手を置いたまま、動けずに机の前へ座り続けていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 翌四月十四日、午前十時。

 

 中層ロビーの奥にある臨時資料室へ出勤したらでんは、昨日のうちに下書きを進めてあった公式アーカイブ用の記録台帳を机の上に広げていた。

 

 三月から始まった『天空闘技場・二十世紀興行史展』も、今日で初期の特別展示期間が一区切りとなり、明日からは常設の資料室アーカイブへと記録が移管される予定になっている。

 

 らでんは机の上の確認書と写真をもう一度見つめ、それから万年筆を手に取った。

 

 公式アーカイブ収録用の台帳の最終ページ。

 

 そこへ、らでんは一文字ずつ、丁寧な楷書で記録を書き入れていった。

 

 『資料番号・追補〇〇一:武闘家カストロにおける「虎咬拳」基礎歩法および鍛錬記録。一九九九年三月二十二日取材、同二十五日原本返却・複写許諾済』

 

 続けて、左右の手刀の打撃音を揃える調整法と、二年間書き直された歩幅の記録を簡潔にまとめ、その一番最後の備考欄に、一行だけ事実を書き添える。

 

 『付記:一九九九年四月十三日、二百階クラス特別試合(対ヒソカ戦)において、念で作り出した分身と連携する「虎咬真拳」を使用するも敗北。同日、リング上にて死去。生前の本人許諾に基づき、本技術記録を当闘技場公式アーカイブへ永久収録する』

 

 ペンを置き、インクが乾くのを待ってから、写真と複写図版を保存用の中性紙フォルダへと収める。

 

 午後二時半、広報課の担当者と資料室長立会いのもとで常設アーカイブ庫への収録と引き継ぎ確認書への捺印を終え、二月から続いた天空闘技場でのらでんの展示・記録依頼は、すべて正式に完了した。

 

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