午後三時十五分。
展示の引き継ぎを終えたその足で一階のライブラリーへ立ち寄ったらでんは、昨日ゴンが受け取っていた予約票で登録されたばかりの公式記録ビデオを借り出し、二百階の客室へと向かった。
扉をノックして中へ入ると、部屋の真ん中にあるテレビモニターの前には、すでに二つの丸椅子と二冊の大学ノートが綺麗に並べて用意されていた。
「あ、らでんさん! お仕事、全部終わったの!?」
「おう、らでん。ちょうど三時過ぎたところだぜ、その袋に入ってるのが昨日のビデオか?」
待ち構えていたゴンとキルアが、同時に立ち上がって駆け寄ってくる。
二人の身体の周りには、今日も朝から丁寧に続けていたらしい、落ち着いた《纏》のオーラが揺れていた。
「はい、お待たせしました。展示の引き継ぎも、カストロさんの記録を資料室のアーカイブへ収めるお仕事も、さっき無事に全部終わりましたよ」
らでんは紙袋から黒いビデオカセットを取り出し、ラベルに印字された『1999.4.13 200F カストロVSヒソカ』の文字を二人に見せた。
「カストロさんの記録、ちゃんと残せたんだね。よかった……!」
ゴンがほっとしたように胸を撫で下ろし、それからビデオカセットのラベルを真っ直ぐに見つめた。
「うん。カストロさんが二年間どれだけ練習して、昨日の試合でどう戦ったかも、全部嘘のない形で残してきました」
らでんはビデオデッキの横へカセットを置き、二人の顔を交互に見た。
「私の資料室の仕事は今日で一区切りつきましたから、明日からは昼間の時間も、二人の念の修行にしっかり付き合えます。――さあ、昨日はあんなに悔しがっていましたけど、自分の目で確かめる準備はできていますか?」
「うん! オレ、昨日の夜も今日の午前中も、ずっとあの試合でどこが見えなかったのか考えてたんだ!」
「オレもだ。ヒソカがあの手品の間に何をやってたのか、絶対に見破ってやるからな。なあ、らでん、その《凝》ってやつ、どうやってやるんだよ?」
キルアが身を乗り出し、ゴンも目を輝かせて拳を握る。
生きている二人の、真っ直ぐで熱を持った視線。
これからこのビデオを再生すれば、あのリングの映像がもう一度画面に映し出される。そこには、二人がこれから学んでいくべき念の駆け引きと、そして昨日らでんが見届けたあの最期の瞬間が、そのまま記録されているはずだ。
仕事をすべてやり遂げても、昨日のあの瞬間に自分が美しいと感じてしまった記憶が消えてなくなるわけではない。いつかゴンがヒソカと向き合う日が来たら、自分はきっとまた、教え子が届く動きの美しさに胸を震わせながら、それでも絶対に生きて帰ってきてほしいと願うのだろう。
その両方を自分の中に抱えたまま、らでんはテレビモニターの脇へ立ち、ビデオカセットへそっと手を添えた。
「よし。じゃあ、映像を回す前に――まずは、隠されたものを見るための『目』のお話から始めましょうか」
二百階の客室の丸テーブルの上には、開かれたままの二冊の大学ノートと、削りたての鉛筆が並んでいた。
窓の外には四月十四日の明るい午後の陽射しが広がっている。テレビモニターの脇に立ったまま、らでんが黒いビデオカセットの背にそっと指先を添えると、丸椅子に腰掛けていたゴンとキルアが同時に背筋を伸ばした。
「隠されたものを見るための『目』って、それが《凝》なんだよね、らでんさん?」
「うん。でも、カセットをデッキに入れる前に、まず昨日のリングでどうして二つの違いが起きたのかを整理しておきましょうか」
らでんはビデオカセットを一度モニターの上へ置き、二人の正面へ歩み寄った。
「昨日、カストロさんが分身を出したとき、二人にもあの分身の姿ははっきり見えていたでしょう?」
「ああ。最初はどこから殴られたのか分かんなかったけど、カストロが横へ並んで見せたときは、オレたちの目にも普通に二人の人間が見えてたよ」
「だよね。なのに、ヒソカが右腕をくっつけたり、切られた左腕やトランプを飛ばしたりしたときは、何で引っ張ってるのかぜんぜん見えなかったんだ」
キルアとゴンが交互に頷く。
らでんは自分の右手を胸の前へ掲げ、まずは普段通りの静かな《纏》を肌の表面へ浮かべてみせた。二人の目にも、陽炎のように淡く揺れるオーラの輪郭が見えているはずだ。
「カストロさんの分身みたいに、オーラを物質のように具現化したものは、基本的には念を知らない一般のお客さんにも見えます。そして、普段私たちが身に纏っているこういうオーラも、今の二人の目ならそのまま見えますよね」
「うん、見えるよ。らでんさんの手の周りが、うっすら白く光ってる」
「じゃあ、これはどうかな」
らでんはすっと息を吐き、右手首から先の精孔を閉じて《絶》を行った。
掌を包んでいた淡い光が、ろうそくの火を吹き消したようにぷつりと消える。
「あ、消えた。これは《絶》だよね! オレが森の中で獲物を待つときや、前のギド戦のときにやったやつだ」
「そう。《絶》は自分の精孔を閉じて、オーラを体外へ出さないようにする技術です。気配を消したり疲労を回復したりするときには役立ちますが、外へ出さない以上、今の私の手みたいにオーラで身体を包んで守ることはできません」
そこでらでんは、もう一度右手の精孔を開き、今度は指先から細い糸のようなオーラを十センチほど伸ばした。
最初は二人にも見えるようにそのまま保ち、二人が「あ、指から細いのが出てる」と頷いたところで、その糸の威力や張りを少しも落とさないまま、すっと《隠》へ切り替えた。
「……えっ?」
「おい、今、消えたぞ! けど、らでんの手首の《纏》は消えてねえよな……?」
キルアが目を細め、身を乗り出してらでんの指先を睨む。
「ええ。今私が使ったのは、《絶》を応用した高等技術のひとつで、《隠》といいます。オーラを出さないようにする《絶》とは違って、自分の出したオーラの強さや働きをそのまま残したまま、相手の目から見えにくく隠してしまう技術なんです」
「オーラを出したまま、隠す……!? そんなことができるのかよ!」
「はい。昨日の試合でヒソカが使っていたのも、この《隠》です。だから、二人の目が悪かったわけでも、よそ見をしていたわけでもなくて、普通に目で追っているだけでは見えなくて当然だったんですよ」
ゴンが「そっかあ……」と悔しそうに眉を寄せ、それからぱっと顔を上げた。
「じゃあ、その《隠》で隠されたオーラを見破るには、どうしたらいいの?」
「そこで使うのが、昨日お話しした《凝》です。ただね、《凝》っていうのは、いきなり目だけに力を入れればできるものじゃないんです。まずは土台として、普段の《纏》よりもたくさんのオーラを身体から生み出す《練》が必要になります」
らでんは二人の前へ半歩下がり、両足を肩幅に開いて立った。
一か月前、ゴンの腕が折れていた間に言葉と呼吸の訓練として教えた『点・舌・錬・発』の四つ。そのうちの『錬』を、今度は本物のオーラの操作である《練》として見せる番だった。
「二人とも、毎朝の『燃』で、心の中の『点』で集中した思いを『錬』で大きく膨らませる練習を続けてきたでしょう? 本物の念の《練》も同じです。《纏》で身体の周りに留めているオーラを、お腹の底からぐっと押し上げるようにして、普段以上の量と強さへ一気に高めるんです。――見ていてくださいね」
らでんは静かに息を吸い、丹田から全身の精孔へと意識を通わせた。
次の瞬間、肌の表面を薄く覆っていただけのオーラが、ぶわっと音を立てるように厚みを増し、揺らめく白い炎のようにらでんの全身から立ち昇った。
「うわあっ……!」
「す、すげえ……! さっきまでの《纏》と、濃さも圧力もぜんぜん違うぞ!」
ゴンとキルアが、肌を撫でる空気の密度に目を丸くする。
「これが《練》です。この《練》で高めたオーラを、身体の一部へ意識して集める技術が《凝》。今日は目の周りへ集めて、隠されたオーラを見る練習をします」
らでんは全身で膨らませたオーラをすっと絞り込み、両目の周辺へと集約させた。
肩や腕のオーラが通常の《纏》の薄さへ戻る代わりに、らでんの双眸の周りだけに、澄んだ密度の高い光が宿る。
「あ、目のところだけオーラが濃くなった!」
「なるほどな……! 《練》でオーラを増やしてから、それを目に集めることで、隠されたオーラが見えるくらい目の力を引き上げるってわけか!」
「その通りです、キルア君。さあ、ビデオを回す前に、まずは二人とも立って《練》から試してみましょう。今まで毎朝やってきた『燃』の感覚を思い出しながら、今の《纏》をもう一段強く押し出してみてください」
「うん! やってみる!」
「よし、いくぜ!」
ゴンとキルアが丸椅子から立ち上がり、部屋の絨毯の上で並んで構えた。
二人とも、四月十一日に《纏》を再開してから三日間、焦らず丁寧にオーラの膜を整えてきたばかりだ。
ゴンが大きく息を吸って拳を握ると、その肩口から背中にかけて、元気のいいオーラがぼわっと二回りほど大きく膨らんだ。隣のキルアも、青い目を鋭く細めて呼吸を詰めると、少し硬質で張り詰めたオーラを全身から立ち昇らせる。
「おおっ、出た! キルア、今すごくオーラが濃くなったよ!」
「お前もな、ゴン! なんだ、いつもやってた『錬』のイメージでそのまま押し出せば、結構すぐ出せるじゃねーか!」
「ええ、二人ともすごく綺麗な《練》ですよ。一か月間、毎日言葉と呼吸でイメージを固めていたから、身体が迷わずに反応してくれていますね」
らでんは目を細めて頷き、そこからもう一度、自分の右手の人差し指に《隠》で隠した短いオーラの糸を作った。
「じゃあ、今出した《練》のオーラを、そのまま目の周りへ集めてみてください。眉間やこめかみに筋肉の力を入れすぎると、かえってオーラが散ってしまいます。『もっと遠くの細いものを見よう』とするときみたいに、目の奥へすっとオーラを流し込むイメージですよ」
「目の奥へ、流し込む……」
ゴンがぐっと唇を結び、らでんの指先を睨みつけた。
しかし、力みすぎたせいか、ゴンのオーラは額や拳の方へばかり集まってしまい、数秒でぷしゅっと元の《纏》に戻ってしまう。
「あれっ? なんかおでこのあたりが熱くなっただけで、らでんさんの指先には何にも見えなかったよ」
「オレもだ。目に集めようとすると、せっかく《練》で増やしたオーラが途中でふわっと逃げちまう。……ちっ、言葉で聞くよりずっと細かいコントロールが要るな、これ」
キルアも悔しそうに瞬きをして、自分のこめかみを指先で押さえた。
「最初から一瞬でできたら、世の中の念能力者は誰も苦労しませんよ。しかも、これから二人が見ようとしているのは、動いている試合のビデオです。まずは私の指先のオーラがうっすらとでも見えるようになるまで、十分やっては少し目を休める、というペースで練習していきましょう」
「わかった! もう一回やる!」
「絶対今日中に見破ってやるからな、らでん!」
そこからの数時間は、静かな熱気との戦いだった。
らでんは二人の集中が切れ始めると練習を止め、目を休ませた。濡らしたタオルをまぶたに当ててひと息ついてから、オーラを全身から顔へ、顔から眼球の周囲へと絞っていく感覚を、もう一度確かめていく。
何度も休憩を挟むうち、窓の外は茜色から夜の群青色へと変わっていた。
何度目かの休憩を挟んだあと、絨毯の上にあぐらをかいていたキルアが、ふいに「……あ」と小さく声を漏らした。
「キルア、見えたの!?」
「待て、喋んなゴン。今、ちょうどピントが合いそうなんだ……」
キルアの全身から立ち昇っていた《練》のオーラが、すうっと静かに肩口から引き、その分だけ青い瞳の周りに濃い光の輪となって集まっていく。
そしてキルアは、向かいの椅子に座っているらでんの右手――親指と人差し指の間を見つめて、ぴたりと息を止めた。
「……ある。らでんの親指と人差し指の間に、数字の『8』みたいにねじれた細いオーラの輪っかが浮いてるだろ!」
「――っ、正解です! 見えましたね、キルア君!」
らでんが隠していた《隠》の輪郭をそのまま解いてみせると、キルアは「よっしゃあ!」と小さくガッツポーズを作った。
「すげえ、今の感覚か! 目に力を入れるんじゃなくて、目の周りにオーラのレンズをもう一枚重ねるみたいにしたら、急にボヤけてた線が浮き出てきたぞ!」
「ほんと!? 目の周りにレンズ……! らでんさん、オレにももう一回問題出して!」
友人の成功に火がついたゴンが、自分の両頬をぱちんと叩いて前のめりになる。
今まで拳や額に散っていたゴンのオーラが、キルアの言葉をヒントにした途端、驚くほど素直に両目の周りへと吸い寄せられていった。
一分、二分。
らでんが左手の掌の上に《隠》で小さな星形のオーラを浮かべて待っていると、ゴンの茶色い瞳の周りでオーラの密度がぐっと定まり、その目が大きく見開かれた。
「……見えた!! らでんさんの手のひらの上、ちっちゃい星の形が光ってる!」
「すごい、ゴン君も合格です! 二人とも、ほんとに一日で《凝》の入口を掴んじゃいましたね!」
時計の針は、午後七時を少し回ったところだった。
まだ何十分も《凝》を保ち続けられるわけではないし、動いている相手を追いながら使うにはかなりの集中が要る。それでも、隠されたオーラを自分の目で捉えるという最初の壁を、二人はわずか数時間の試行錯誤で本当に越えてみせたのだ。
「よし、じゃあ約束通り――本番のビデオを回しましょうか」
らでんが立ち上がってテレビモニターの電源を入れ、黒いビデオカセットをデッキへ差し込むと、ゴンとキルアはすぐさまモニターの正面へ丸椅子を引き寄せた。
画面に砂嵐が一瞬走り、すぐに昨日の二百階特別試合の映像が映し出される。
らでんはリモコンを操作して、カストロがヒソカの右腕を斬り落とし、ヒソカが落ちた右腕を拾い上げてスカーフを被せる場面の少し手前で再生速度を標準に戻した。
「ここからです。ヒソカが数字当ての手品の口上を始めてから、最後のカードが飛ぶまでの間、二人とも《練》から《凝》を保って画面をよく見ていてくださいね」
「うん!」
「任せろ。一秒も見逃さねえよ」
二人の目の周りに、再び濃いオーラの光が集まる。
モニターの中では、ヒソカが血の垂れる右腕に布を被せ、軽やかな声で計算の話をしながらトランプを足元の石畳へ散らしていた。
らでん自身も、リモコンを持ったままモニターの画面へ《凝》を向けた。
画面の中を走る、薄桃色の細いオーラの線。昨日の現地では全体の流れを追うのに必死だった部分も、こうして固定カメラの映像で見直すと、ヒソカの指先がどれほど迷いなく、どれほど滑らかに動いていたかがよく分かる。
「……っ、おい、見えるぞ! ゴン、ヒソカの指先を見ろ!」
「う、うん! なんかピンク色っぽい細い線が、ヒソカの指から伸びてるよ!」
ゴンとキルアが、画面に食い入るように身を乗り出した。
画面の中で、ヒソカが布の下から『スペードのエース』を抜き出し、次に左腕をカストロへ差し出す。二人のカストロが跳躍して左腕を斬り飛ばしたその瞬間、右肩から伸びていたオーラの線が猛烈な勢いで縮み、布の下で右腕を引き寄せて繋ぎ止めるのが、ビデオの映像の上でもはっきりと映し出されていた。
「あそこだ! 左腕を切らせてカストロが跳んだ瞬間に、最初から繋いでおいたオーラの糸を縮めて、右腕を肩へ引き戻してやがったんだ!」
「ほんとだ……! 傷が治ったんじゃなくて、オーラの糸で引っ張ってくっつけてただけだったんだね!」
さらに映像が進み、ヒソカの指摘でカストロの意識が揺らいだ直後、石畳に落ちていた左前腕がオーラの線に引かれてカストロの顎を突き上げる。
そして、ヒソカが右手の指先を動かした瞬間、床のトランプから伸びていた十数本のオーラの線が一斉に張り詰め――白いカードがカストロの全身へと突き刺さる。
画面の中でカストロが仰向けに倒れ込み、審判が駆け寄ったところで、らでんはリモコンの停止ボタンを押した。
ぴたりと止まった青い停止画面の前で、らでんはほんの一拍だけ、リモコンのボタンに置いた自分の親指を見つめた。昨日の客席で胸を貫いたあの冷たい美しさの記憶が、画面の向こうからかすかに指先へ触れた気がしたけれど、らでんは静かに息を吐いて、すぐ隣の二人へと向き直った。
「……どうでしたか、二人とも。自分の目で見えましたか?」
「うん! すごくはっきり見えたよ、らでんさん!」
ゴンが興奮に頬を紅潮させて振り返った。
「ヒソカが手品の話をしてる間に、トランプとか右腕にオーラの糸をつけてたのも見えたし、左腕をわざと切らせてるときに右腕を引っ張ってたのも全部見えた! 昨日あんなに不思議だったのが、嘘みたいだよ!」
「だな。……ただ、ちょっと待てよ」
キルアは目の周りの《凝》を解きながら、手元の大学ノートを引き寄せ、鉛筆で素早く数字を書き込んだ。
「ゴン、お前、今のビデオでヒソカが出してたオーラの線、全部で何本あったか数えたか?」
「えっ? 何本って……いっぱいあったよ! 床のトランプにもついてたし、腕にもついてたし……」
「やっぱり数えてねーのかよ。いいか、オレが今数えた限り、ヒソカがあの場面で出してたオーラの線は、全部で『十五本』だ」
「じゅ、十五本!? キルア、あの一瞬で全部数えたの!?」
ゴンが目を丸くしてキルアのノートを覗き込む。らでんも思わず感心して、キルアが書いたメモへ視線を落とした。
「ああ。最後にカストロへ飛んでいった床のトランプに十三本。右腕を隠してたあの布に一本。それから、最初に斬り落とされた右腕に一本で、合計十五本だ。左腕が顎へ飛んでいったときは、手品のあとで新しく繋ぎ直した線を使ってた」
キルアは鉛筆の尻でノートの数字をトントンと叩き、さらに眉根を寄せて考え込んだ。
「でさ、らでん。オレ、その十五本の動きを見てて気づいたんだけど……あれ、ただの『糸』じゃねーよな?」
「ただの糸じゃない、というと?」
らでんが答えを先回りせずに問い返すと、キルアは自分の両手を広げて、空中で引っ張るような仕草をしてみせた。
「最初は、磁石みたいに引き合う力か、目に見えない釣り糸みたいなもんかと思ったんだよ。けど、もし磁石なら、手品の間にいちいち指先でカードや腕に触って線をくっつける必要がねーだろ? 逆にただの糸なら、離れた右腕やカードがあんなバネみたいな猛スピードで勝手にヒソカの手元やカストロの身体へ縮んでいくのおかしくねーか?」
「あ……っ、そっか! 釣り糸だったら、自分でリールを巻かないと引っ張れないもんね!」
ゴンが「なるほど!」と手を打つ。
「だろ? しかもあの線、ヒソカが後ろへ跳んだときはビヨーンと伸びて、指を動かした瞬間に一気に縮んで、カストロの顎やカードにペタッと貼り付いてた。……つまりあいつのオーラは、指で触ったところに貼り付いて、しかもゴムみたいに伸び縮みする性質を持ってんじゃねーのか?」
静かな客室に、キルアの落ち着いた推理の声が響いた。
らでんは胸の奥から湧き上がる純粋な驚きと嬉しさに、思わず拍手をしそうになった。能力の名前こそ知らなくても、映像を一度《凝》で見ただけで、本数を正確に数え上げ、『伸縮性と粘着性を持つオーラ』という性質の核心まで、キルアは自分の頭で辿り着いてしまったのだ。
「……すごいです、キルア君。私が昨日リングを見て気づいたことと、ほとんど同じところまで一発で当ててしまいましたね」
「へへっ、やっぱりそうか! タネが分かれば、あいつのやってることは手品でも何でもねーよ。貼り付けたオーラのゴムを、いつ伸ばしていつ縮めるかをごまかしてただけだ」
得意そうに鼻を鳴らすキルアの隣で、ゴンは自分のノートとテレビの画面を交互に見比べ、それから「うーん……」と頭を抱えて唸った。
「どうしました、ゴン君? せっかく《凝》で見えたのに、難しい顔をして」
「あのね、らでんさん。オレ、さっき《凝》でヒソカのオーラの線が見えたとき、すごく嬉しかったんだ。あ、これでもうヒソカの仕掛けが分かったぞって思ったんだよ。……でも、今キルアの話を聞いてたら、オレ、線が見えただけで、それが何本あるかも、ゴムみたいに伸び縮みしてくっつくってことも、ぜんぜん気づけてなかったんだ」
ゴンは自分の拳をぐっと握りしめ、真っ直ぐにらでんを見上げた。
「もし今のままオレがヒソカと戦ってたら、たとえ《凝》でピンク色の線が見えても、『あ、なんか線があるな』って思った次の瞬間には、もうカードをぶつけられてたと思う。……見えるようになっただけじゃ、まだぜんぜん足りないんだね」
その言葉に、らでんははっと息を呑み、それから深く頷いた。
見えるようになったことをただ無邪気に喜ぶだけでなく、友人の観察力と自分を比べて、すぐに『見えたあとにどう考え、どう動くか』という実戦の壁に気づいている。
「いいところに気づきましたね、ゴン君。実は、今日このビデオを見てもらった一番の理由もそこにあるんです」
らでんは二人のノートの上へ手を置き、穏やかだけれど真剣な声で言った。
「《凝》は、隠されたものを見破るための大切な目です。でも、椅子に座って画面を見ているときと、実際にリングの上で相手の攻撃を避けながら《凝》を使うのとでは、難しさが何倍も違います。それに、ヒソカのオーラがどういう条件でくっついて、どれくらいの強さまで伸びるのか、どうして試合後の通路であんなふうに両腕が綺麗に見えていたのかまでは、今のビデオだけではまだ全部は分かりません」
「だよな。あの布の下で、切られた右腕の傷口がなんで綺麗にくっついたみたいに化けてたのかは、オーラのゴムだけじゃ説明つかねーもん」
「ええ。だからこそ、隠された仕掛けに気づくための《凝》と、たとえ相手の仕掛けを全部は知らなくても、攻撃を受けたときに自分の身を守り抜くための基礎の力が、これから二人には絶対に必要になります」
らでんは壁の時計を見上げた。もうすぐ午後八時になる。
「今日は二人とも、初めての《練》と《凝》で目も頭もたくさん使いましたから、これ以上ビデオを繰り返し見るのはおしまいです。温かいご飯を食べて、しっかり目を休めて、明日からは『戦いの中でも崩れないオーラ』を作る修行へ入りましょう!」
「うん! ありがとう、らでんさん!」
「おう。明日からの修行、どういうことやるのか楽しみにしてるよ!」
元気よく返事をする二人の笑顔を見ながら、らでんはデッキからビデオカセットを取り出し、ケースへと丁寧に収めた。
◇ ◇ ◇
翌四月十五日からは、らでんの展示とアーカイブの仕事が完了したことで、午前中からたっぷり時間を取って二人の修行に付き合えるようになった。
朝の『燃』でその日の目的を言葉にして確かめたあと、三人はゴンの客室の家具を壁際へ寄せて作った広いスペースで向かい合っていた。
「昨日は《練》から目へオーラを集める《凝》をやりましたね。今日からは、毎日の修行の柱になる『四つの基礎』と、その土台をはっきり決めて反復していきます」
らでんは指を一本ずつ折りながら説明した。
「まず、すべての土台になるのが《纏》です。そして、毎朝続けている方便の『燃』、オーラを普段以上に高める《練》、必要なときに目へ集める《凝》――ここにもうひとつ、実戦で自分の身体を守るための応用技である《堅》を加えます」
「《けん》……? それって、昨日の《練》とは違う技なの?」
ゴンが首を傾げて尋ねる。
「別々の必殺技というより、《纏》と《練》を組み合わせた実践の形だと思ってください。《練》で普段以上に大きく生み出したオーラを、《纏》の技術で自分の全身の周りにぴたりと留めて、そのまま維持し続けること。これが《堅》です」
らでんはその場で軽く構えを取り、《練》で一気に高めたオーラを、全身の輪郭から一定の厚みでぴたりと固定してみせた。
ただ《練》で噴き出していたときよりもオーラの揺らぎが少なく、密度の高い透明な鎧を頭から爪先まで隙間なく纏っているような状態になる。
「へえ、見た目は《練》をちょっと落ち着かせただけみたいだけど……そんなに難しいのか?」
「キルア君、簡単そうに見えますか? じゃあ、まずはその前に、もうひとつの基本である《絶》を二人で確認してから、実際に《堅》を何分保てるか試してみましょう」
らでんはまず、ゴンとキルアに並んで《絶》を行わせた。
ゴンは森での経験とギド戦での実戦があるだけに、目を閉じて一呼吸置くと、すっと全身の精孔を閉じてオーラを消すことができる。以前は無意識に近い状態だったが、今は自分の意思でオンとオフを切り替えられるようになっていた。
一方のキルアは、暗殺術として足音や気配を消す技術には飛び抜けて長けていたものの、精孔そのものを閉じて念のオーラを完全に断つ《絶》は、今回が本格的な練習だった。
「……ちっ、ただ気配を殺すだけならいつでもできるのに、《纏》で慣れた精孔を全部ピタッと閉めるとなると、背中のあたりにちょっとだけオーラが残りやがるな」
「でも、今ので九割以上は消えていますよ、キルア君。もともと自分の身体の感覚を掴むのがすごく上手だから、毎晩寝る前と修行の合間に数分ずつ確認していけば、すぐにゴン君と同じくらい綺麗に閉じられるようになります」
そうして《絶》の基礎を確認したあと、いよいよ《堅》の実習へ入った。
「いいですか、二人とも。《堅》の練習で一番大事なのは、『弱いオーラで時間だけ長く稼がないこと』です。実戦で相手の打撃から身を守れるだけの強い《練》を出して、それを全身へ均等に留め続ける。まずは私が手を叩いてから、どのくらいその強さを保てるかやってみましょう。――はい、スタート!」
パン、とらでんが手を鳴らした瞬間、ゴンとキルアの全身から力強い《練》のオーラが噴き出し、二人はそれを必死に身体の周りへと抑え込んだ。
最初の一分は、二人とも「なんだ、いけるじゃん!」という顔をしていた。
だが、二分を過ぎたあたりから、ゴンの額にぷつぷつと大粒の汗が浮き始め、キルアの呼吸が目に見えて浅くなってきた。
「う、うぐ……っ! なにこれ、ただ立ってるだけなのに、全力で坂道を走ってるみたいに体力が減ってくよ……!」
「くそっ、オーラを出し続けるだけならまだしも、それを全身から逃がさねえように押さえ込むのが、こんなにキツいのかよ……!」
三分を少し過ぎたところで、まずゴンの足元のオーラがふっと薄くなり、代わりに力んだ両拳の方へオーラが偏ったかと思うと、限界が来て全身の《堅》がぷしゅっと弾けるように崩れた。
その十数秒後には、キルアも肩口から細かくオーラが波打ち始め、「……っ、ダメだ!」と片膝をついて荒い息を吐いた。
「はあっ、はあっ……! らでんさん、オレ、三分ちょっとしか保てなかった……!」
「オレも三分半ってとこかよ……。らでんがさっき涼しい顔でやってたから、十分や二十分くらいすぐできると思ってたよ」
絨毯の上にへたり込み、肩で息をする二人へ、らでんは冷たい水を入れたコップを配りながら微笑んだ。
「初めてで三分以上しっかりした強さを保てたなら、上出来ですよ。今の《堅》は、全身のどこから攻撃が来ても守れるようにオーラを張り詰めている状態ですから、普通に《纏》をしているときの何倍も体力と集中力を使うんです」
「それなりに腕の立つ能力者と戦うなら、まずは今くらいの強さの《堅》を、三十分は維持できるようになりましょう。これが最低限の目標です。そこに余裕が出てきたら、三時間は欲しいところですね」
「三時間!? 今のを、ずっと続けるの!?」
「三十分でも、今のオレたちの何倍もあるな。そこまで伸ばすの、どのくらいかかるんだ?」
「《練》を保てる時間を今より十分間延ばすのに、一か月はかかるとも言われています。ですから、じっくり、こつこつです。今日できたことを明日も確かめて、少しずつ続けられる時間を増やしていきましょう」
らでんはコップを握る二人の顔を順に見て、にこっと笑った。
「大丈夫。二人なら、こうして鍛錬を積み重ねていけば、必ずそこまで届きますよ。三十分にも、その先の三時間にも。焦らず、一緒にやっていきましょうね」
「うん! オレ、三十分できるようになりたい! よし、頑張るぞ!」
「じゃ、まずは今の時間を安定させるところからだな。ゴン、どっちが先に三十分いくか、勝負しようぜ」
「いいよ! 負けないからな、キルア!」
らでんは二人が水を飲むのを待ってから、今観察していたそれぞれの癖を伝えた。
「それにね、今の一回で、二人が疲れてきたときにどこから集中が抜けやすいかもよく分かりましたよ。ゴン君は、苦しくなってくると意識が『殴るための拳』や上半身に集まってしまって、膝から下のスネや背中のオーラが先に薄くなります」
「あっ……! 言われてみれば、最後の方、足元のことぜんぜん考えてなかったかも!」
「そしてキルア君は、全身を均一に保とうとする感覚はすごく正確なんだけれど、限界が近づくと肩と指先にギュッと力が入って、そこからオーラの膜が細かく震えて崩れていきます」
「……確かに。我慢しようとして奥歯と肩を固めちまったら、急にオーラが言うこと聞かなくなったわ」
二人が自分の身体の感覚を確かめるように、足元や肩口へ手を当てる。
「どこが先に崩れるかが分かれば、次はそこを意識して直せます。ただし、この《堅》の練習は、一回やったら必ずしっかり呼吸と筋肉を休めること。疲れてボロボロのまま形だけ何時間も続けようとしても、出力の低い《纏》に戻るだけで意味がありませんからね」
その言葉通り、四月十五日と翌十六日の二日間、らでんは二人に無理な長時間耐久はさせず、同じ強さの出力で『昨日より三十秒長く保つ』『疲れてきたときに足元や肩の抜ける箇所を立て直す』という反復を、十分な休憩と昼寝、そして夜十時の就寝を守らせながら丁寧に積み重ねさせていった。
二日目の夕方には、二人とも同じ強い出力のまま五分近く《堅》を維持できるようになり、さらに《堅》を保った状態から一瞬だけ目へ《凝》を集めて、また全身の《堅》へ戻すという切り替えの練習にも手が届くようになっていた。
◇ ◇ ◇
四月十七日の午前十時。
その日の朝の《練》と《堅》の反復を終えたあと、らでんは給湯コーナーから透明なグラスと水差し、そして一階の観葉植物の鉢から許可をもらって分けてもらった小さな葉っぱを一枚、丸テーブルの真ん中へ運んできた。
「あれ、らでんさん、そのコップと葉っぱは何に使うの?」
「水見式……ってやつか? 前に『点・舌・錬・発』の話を聞いたとき、名前だけちょっと出てきたよな」
汗を拭いていたゴンとキルアが、興味津々といった顔でテーブルの周りへ集まってくる。
「ええ、よく覚えていましたね。二人が一昨日と昨日で、《纏》を土台にした《練》と《堅》、そして《凝》の基礎をしっかり掴んでくれたでしょう? だから今日は、念の四大行の最後である《発》の入口として、この『水見式』で二人が生まれつきどの系統のオーラを持っているのかを確かめてみようと思います」
らでんはグラスを白い受け皿に置き、縁ぎりぎりまで水を注ぎ、その水面の中央へ小さな緑の葉をそっと浮かべた。
「《発》というのは、自分のオーラを自在に操って働きを持たせる、念の集大成のような技術です。でも、いきなり自分だけの必殺技を作ってから『自分は何系かな』と調べるわけじゃありません。まずはこうしてグラスの水に両手を近づけて、昨日から練習している《練》を行うんです。そうすると、その人のオーラの性質によって、水や葉っぱにそれぞれ違う変化が表れます」
「へえーっ! 《練》をやるだけで、自分が何系か分かっちゃうんだ!」
「オーラの系統って、前に聞いた六つだよな。強化系、変化系、放出系、操作系、具現化系、特質系。……よし、どっちからやるよ、ゴン?」
「ジャンケンで決めよう! 最初はグー、ジャンケンポン!」
ゴンがパーを出し、キルアがグーを出して、一番手はゴンに決まった。
ゴンは丸椅子に座り直し、グラスの左右へそっと両手のひらをかざした。ガラスの表面には触れないよう、数センチの隙間を空けて構える。
「じゃあ、いくよ、らでんさん!」
「はい。特別なことをしようとせず、いつも通りの真っ直ぐな《練》を出してみてください」
ゴンが深く息を吸い、ぐっとお腹の底から《練》のオーラを立ち昇らせた。
力強く澄んだオーラがゴンの両手からグラスを包み込んだ、その直後だった。
ちゃぷ、と小さな音がしたかと思うと、グラスの縁まで満たされていた水がみるみるうちに盛り上がって溢れ出し、グラスの下の受け皿へとさらさらと流れ落ちたのだ。
「うわあっ!? みず、水が増えたよ、らでんさん! オレ、グラスにぜんぜん触ってないのに、水がどんどん溢れてきた!」
「おいおい、すげえな! 葉っぱが動くんじゃなくて、水の量そのものが増えたぞ!」
ゴンが驚いて《練》を止めると、水の溢れもぴたりと止まった。
らでんはテーブルの上の皿に溜まった水を見て、嬉しそうに顔をほころばせた。
「水の量が増える変化ですね。――ゴン君、あなたのオーラの系統は『強化系』です! 物の持つ働きや力を強める性質を持った系統ですよ」
「強化系……! オレ、強化系なんだ!」
ゴンが自分の両手のひらを見つめて、ぱあっと明るい笑顔を咲かせる。
「なんだかゴン君にぴったりですね。じゃあ次はキルア君の番です。一度グラスの周りを拭いて、お水を縁まで入れ直しますね」
らでんがタオルでグラスを拭き、再び縁ぎりぎりまで水を注いで葉っぱを浮かべると、今度はキルアがゴンと入れ替わって椅子に座った。
「強化系か変化系か、どっちかだとは思うんだけどな。……よし、いくぜ」
キルアがグラスの左右に両手をかざし、すっと鋭い《練》のオーラを立ち昇らせた。
十分な密度のオーラがグラスを包んでいる。一秒、三秒、五秒――。
だが、水面はぴくりとも盛り上がらず、浮かんでいる葉っぱも動かず、水の色も透明なまま少しも変わらなかった。
「……あれ? キルア、なんにも変わんないよ?」
「おい、ウソだろ? オレ、今ちゃんと昨日と同じ強さで《練》を出してるぜ? なんで水も葉っぱもシーンとしてんだよ」
キルアが眉をひそめて《練》を解き、グラスの中を覗き込む。
「見た目には変化がない、ですね。じゃあ二人とも、そのグラスの水を指先にちょっとだけつけて、舐めてみてください」
「舐めるの?」
ゴンとキルアが顔を見合わせ、それぞれ人差し指の先へグラスの水を少しだけつけて、ぺろりと舌の上へ乗せた。
その瞬間、二人の目が同時に丸くなった。
「あれっ、甘い! さっきの水と味が違うよ!」
「ほんとだ、さっき飲んだ水道水と同じやつだよな!? なんで急に甘くなってんだ!?」
キルアが自分の指先とグラスの水を見比べる。らでんも少しだけ指先で水を舐めて、ほんのりとした蜂蜜のような甘みを確認してから頷いた。
「水の味が変わりましたね。――キルア君は、オーラの性質そのものを別のものへ変える『変化系』です!」
「変化系……! そうか、見た目は変わんなくても、水の味が甘くなってたってわけか!」
「うん。ゴン君が『強化系』で、キルア君が『変化系』。念の六つの系統の図で見ると、強化系と変化系はすぐ隣り合った系統なんです。二人の性格や戦い方は全然違うのに、オーラの資質がすぐお隣同士だなんて、なんだか面白いですね」
「へへっ、ほんとだ! オレが強化系で、キルアが変化系かあ!」
二人が嬉しそうに笑い合うのを、らでんは一歩下がった場所から静かに見つめた。
そして、テーブルの上のグラスを脇へ寄せると、らでんはすっと背筋を伸ばし、いつもより少しだけ改まった姿勢でゴンの正面へと向き直った。
「――さて。ここで、ゴン君にひとつ大切なお知らせがあります」
「えっ? お知らせ?」
らでんの改まった声に、ゴンがきょとんと瞬きをして姿勢を正す。隣のキルアも「なんだよ、急に真面目な顔して」と首を傾げた。
「ゴン君。あなたは今年の一月、ハンター試験の本試験に合格して、ハンターライセンスを受け取りましたね」
「うん。でも、最後の試験でハンゾーに腕を折られて、気がついたら終わってたから、なんだかあんまり合格した気がしなかったんだ」
「実はね、ハンター協会には、本試験に合格してライセンスを手にした新人ハンターに対して、公には知らされない『裏ハンター試験』というものが存在します」
「裏ハンター試験……!?」
ゴンとキルアが同時に息を呑む。
「はい。ハンターとしてこれから世界の危険な場所や未知の遺跡、凶悪な犯罪者と向き合っていくためには、どうしても『念』の力を身につける必要があります。ただ、念の力は悪用されればとても危険な武器にもなるから、本試験の会場で全員にいきなり公表するのではなく、合格したあとに一人ひとりの資質や姿勢を見ながら、念の基礎を修めさせる決まりになっているんです」
らでんはそこで一拍置き、ゴンの真っ直ぐな茶色の瞳を見つめて、はっきりとした声で告げた。
「この天空闘技場であなたに念を教え、基礎や向き合い方を見てきたのも、その裏試験を兼ねていたんです。一か月間、腕が使えない中でも毎日欠かさず自分の目的を言葉にして『燃』を続け、《纏》と《絶》を自分のものにし、《練》と《凝》と《堅》の基礎を掴み、そして今日こうして《発》の入口である自分の系統まで辿り着いたこと。――それらすべてを見て、試験官である私から伝えます」
らでんは胸の前で軽く手を合わせ、晴れやかな笑顔で頭を下げた。
「ゴン=フリークス君。本日をもって、あなたの裏ハンター試験はすべて終了です。――本当のハンターへの合格、おめでとうございます!」
一瞬、客室の中がしんとなった。
ゴンは目を大きく見開いたまま、らでんの顔と自分の胸ポケット――ハンターライセンスが入っている場所を交互に見つめ、それから耳まで真っ赤にして弾けるように飛び上がった。
「う、うわあああっ!! ほんとに!? 裏試験なんてあったんだ! オレ、ほんとに全部合格したの、らでんさん!?」
「ええ、文句なしの合格です! 水見式を一回やっただけで誰でも合格になるわけじゃありませんよ。ゴン君がこの二か月近く、どんなときも腐らずに基礎を積み上げてきたからこその合格です」
「やったあああっ! キルア、聞いた!? オレ、裏の試験も合格したって!」
「おう、すげえじゃねーか、ゴン! ってことは、らでん、オレもゴンとまったく同じ修行を今日まで全部クリアしたわけだけど、オレはどうなんだよ?」
キルアがニヤリと笑いながら、少しだけ期待を込めた目でらでんを見る。
らでんは悪戯っぽく片目をつぶり、それから優しく頷いた。
「もちろん、キルア君がゴン君とまったく同じ『念の基礎課程』を今日まで立派に修めたことは、師匠である私が百パーセント太鼓判を押します。呑み込みの速さも観察力も、本当に見事でした。――ただね、キルア君」
「……あー、待てよ。言わなくても分かった。オレ、一月の『表のハンター試験』で失格になってるから、まだハンターライセンスそのものを持ってねーんだった」
「ふふ、そういうことです。裏の課程を先に修めてしまっても、表の本試験に合格してライセンスを取らないことには、公式なハンターにはなれませんからね」
「ちぇっ、順番が逆になっちまったか。ま、いいさ。来年のハンター試験なんて、今のオレなら寝てても一発でパスしてやるよ」
キルアは肩をすくめて軽口を叩いたが、その口元はゴンの合格を自分のことのように喜ぶように柔らかく緩んでいた。
「でさ、らでんさん! オレが強化系で、キルアが変化系って分かったってことは、それぞれの系統に合った練習方法とかもあるの?」
「それ、オレも聞きたい。変化系ってことは、オーラの性質や形を変える練習があるんだろ?」
目を輝かせる二人に、らでんは「ええ、少しだけ紹介しましょうか」と頷いた。
ジンから念の基礎を教わった際、自分の得意な系統だけでなく、隣り合う系統の基礎的な動かし方を知っておくことがどれだけ身体の制御に役立つかも、らでんはみっちり叩き込まれていた。
「六つの系統の図で見ると、ゴン君の『強化系』の右隣がキルア君の『変化系』、そして強化系の左隣が、オーラを身体から離して飛ばす『放出系』になります。今日は特別に、この三つの系統のほんの入口になる練習方法を一つずつお見せしますから、二人とも一度だけ試してみましょう」
らでんはまず、自分の右手の人差し指を立てた。
「最初は『放出系』の入口です。指先に親指の先くらいの小さなオーラの玉を作って、それを指からパッと離したあと、消えずに数秒間そこへ留めておく練習です」
らでんが指先から小さな光の玉をすっと五センチほど浮かせると、オーラの玉はシャボン玉のように空中でぴたりと止まり、五秒ほどそのままの形を保ってから静かに消えた。
「次に『強化系』の入口。これは私がいつも鞄に入れている調査用の小さな丸石ですけれど、こういう小さな物に自分のオーラを込めて、込めないときと比べてどれくらい硬さや打ち合わせたときの手応えが変わるかを確かめる練習です」
らでんが小石を掌に乗せてオーラを込め、もう一つの同じくらいの小石と軽く打ち合わせると、カンッ、とまるで鋼鉄を叩いたような硬く澄んだ音が鳴った。
「そして三つ目が、キルア君の『変化系』の入口です。掌の上にオーラを出して、それをただの丸い塊ではなく、たとえば数字の『1』でも四角形でもいいから、単純な形に整えて輪郭がぼやけないように保つ練習です」
らでんが左手の掌の上にオーラを浮かべると、その光がすっと綺麗な正三角形の輪郭へと変わり、角が丸まることなくくっきりと浮かび上がった。
「うわあ、おもしろそう! オレも全部やってみたい!」
「よし、まずはその形を作るやつと、指から離すやつをやってみようぜ!」
二人はさっそく見様見真似で、三つの初歩練習を順番に試してみた。
小石にオーラを込める強化の練習では、ゴンがオーラを込めてもう一つの石と打ち合わせると、何もしていないときより硬い響きが返り、キルアが試しても音と手応えに違いが出た。逆に、掌の上でオーラを四角形や数字の形に整える変化の練習では、キルアが一回目からすっとシャープな四角形の輪郭を作ってみせたのに対し、ゴンが作ろうとした四角形はすぐにお餅のように角が丸まってしまう。
そして、指先から小さなオーラを切り離して保つ放出の練習では、ゴンの方が指から離れたあともぽわんと三秒ほど玉が残ったのに対し、キルアが指から離したオーラは、離れた瞬間にシュッと霧のように消えてしまった。
「あっはっは! キルア、オーラが指から離れた途端に消えちゃったよ!」
「うるせーな、お前の四角形だってただの丸い団子になってんじゃねーか! ……へえ、でもこれ面白いな。自分が変化系だからって強化の練習がぜんぜんできないわけじゃねーし、逆に変化系の反対側にある放出系は、指から離すだけでもこんなに難しいってのが肌で分かるぜ」
「そうなんです。ただ、三つとも同じ量ずつ練習するわけではありませんよ。系統別の練習を組むときは、自分の生まれ持った系統を中心にしてください」
「得意なやつを、もっと伸ばすってこと?」
「ええ。やってみたいことと、自分が向いていることは、必ずしも同じではありませんからね。ここは、カストロさんの試合を思い出してみましょうか」
らでんは、テレビモニターの脇に置いたビデオカセットへ目を向けた。
「私が取材した稽古の内容や、あの拳の強さを見る限り、カストロさんは強化系の資質が高かったはずです。けれど、あの《
「苦手なところを二つも使って、あんなにそっくりなのを作ってたのか」
キルアが、自分の掌に残っていた四角いオーラを消した。
「はい。あれほどのものを作れたこと自体、才能も努力も並外れていたのでしょう。ただ、得意な拳を磨くために使えたはずの稽古を、扱いの難しい別の技へ大きく割いてしまった。しかも、その技を動かすだけで頭も身体も手いっぱいになれば、肝心なときに自分を守る余裕までなくなってしまいます。いくつも道具を抱え込んで、いちばん手に馴染んだ道具を使う手が塞がるようなものですね」
「じゃあ、分身が出せるようになったから、それで強くなれたってわけじゃないんだ」
「ええ。負傷したり、動揺したりしたときにも扱えるか。相手を《凝》で確かめながら、自分の身も守れるか。あの試合では、カストロさんは途中から分身を立て直せず、ヒソカの仕掛けにも対応できなくなっていました。得意な拳を生かすはずの能力が、苦しい場面では、その拳を支える他の技術まで圧迫してしまったんです」
借りた稽古帳に並んでいた、丁寧な書き込みが脳裏をよぎる。積み重ねたものの重さを知っているからこそ、ここは曖昧にして教えられなかった。
「でもね。どうしてカストロさんが、その難しい方を選んだのかも、二人には考えてほしいんです」
「拳を強くするだけじゃ、ヒソカには勝てねーと思ったから?」
「それもあると思います。カストロさんは、二年前にヒソカから洗礼を受けたと、私に話してくださいました。ここからは私の想像なんですけれど――あのときの恐ろしさが、もう一人の自分を欲しくさせたのかもしれません」
「もう一人いると、怖くなくなるから?」
「自分が二人いれば、一人を前へ出せます。危ない攻撃を、先にそちらで受け止めさせられる。自分と同じ力を持った誰かが盾になってくれると思えたら、その怖さを少しでも遠ざけられるかもしれないでしょう?」
キルアの視線が、ノートの上かららでんへ戻った。
「……あの通路で、らでんがオレたちの前に立ったときみたいに、か」
「そうですね。二人も、まだ念で身を守ることを知らないとき、ヒソカの前で足が動かなくなりましたよね。正体も分からない力で押し潰されそうになる。その怖さを、リングの中で味わったのだとしたら……もう一人いてほしいと願う気持ちも、分かる気がしませんか?」
ゴンは自分の膝へ視線を落とした。
「……分かるよ。あのとき、ヒソカが動いたら何をされるかも分かんなかった。なのに、オレは前にも進めなかったんだ」
「一人を前に出して、本物はその隙を狙える。どっちが本物か分かんなきゃ、ヒソカも簡単には手を出せねー……そう考えたってことか」
「ええ。そう考えると、なぜあれほど精巧な分身を作ったのかも、少し分かる気がするんです。似ているだけの人形では、ヒソカには通用しない。あの相手さえ本物だと信じてくれるくらい、顔も身体も動きも、自分と同じでなければ安心できない。そう思い詰めたのかもしれません」
二人のカストロがリングに並んだ姿を、らでんも思い返していた。髪も服も、構えた指先までもが、あれほどよく似ていた。その精密さを作り上げるまでに、どれほどの稽古を重ねたのだろう。
「もっとそっくりに、もっと自由に動くように……って、そっちへどんどん力を使っていったんだね」
「はい。自分の身体や拳を強くするよりも、『自分の代わりに前へ立てる、完全なもう一人』を作ることが切実になってしまったとしたら、苦手な系統へあれほどの力を注いだことにも、理由が見えてきます」
キルアは自分の掌へ視線を落とし、しばらく何も言わなかった。
「……もしそうなら、カストロさんは怖かったのに、もう一度ヒソカと戦おうとしたんだ」
ゴンの声は、先ほどより少し小さかった。
「そうだったのかもしれませんね。あの分身は、怖い相手へもう一度向かうために、二年間かけて用意したものでもあったのかもしれない。けれど、それがなければ戦えない、という形で頼ってしまうと、崩れたときに自分を支えるものまで失ってしまいます」
らでんは二人の表情を確かめ、ゆっくりと言葉を継いだ。
「念は、その人が強く願ったことや、生きてきた中で受けたものにも引かれて、形になっていきます。だから、得意な系統を知るだけで、自分に合う技を選べるとは限らないんです。何が怖くて、その技が欲しいのか。それで本当に自分を守れるのか。能力を作っていくときは、自分の気持ちも客観的に理解する必要があります」
「……じゃあ、オレもヒソカと戦いたいからって、ただ技を増やせばいいわけじゃないんだね。自分がちゃんと使えるやり方で、強くならなきゃ」
ゴンが、自分の右拳を左手で包む。
「そうです。何がしたいかは、とても大切ですよ。その目的を、自分に合うオーラの使い方でどう形にするか。そこを考えながら鍛えていきましょう」
らでんは二人のノートへ目を落とし、系統の図を指先で辿った。
「まずは、自分の系統を主役にして、隣り合う系統はその補助に。今の二人が系統別の練習に使う時間や分量は、隣の系統一つにつき、自分の系統の半分以下に収めるのを基本にしましょう。自分の系統を十やるなら、お隣はそれぞれ五まで、という目安です」
「オレなら、強化を一番多くやって、変化と放出は少しずつ?」
「はい、ゴン君はその組み方です。三つを同じ量ずつやろうとして、一番伸ばしやすい強化系の稽古が薄くならないようにしてくださいね」
「オレは変化が一番で、隣の強化を少し、か。……でもさ、変化の反対隣って、具現化なんだろ? そっちは何を練習するんだ?」
キルアが、強化系とは反対側の項目を鉛筆の先で示した。
「具現化は、まず何を形にしたいのかを決めてからです。たとえば一つの道具を作るなら、実物をじっくり見て、目を閉じて触って、形も重さも手触りも覚える。何百枚も写生したり、音や匂い、場合によっては味まで確かめたりして、五感を使って具体的なイメージを身体に刻んでいきます」
「そんなに細かいところまで覚えるんだ……!」
「ええ。やがて、実物が手元になくても重さや冷たさ、動かした音まで感じられるくらいにする。そういうイメージ修行を重ねて、オーラから実際の物を形作っていくんです。さっき掌で三角形を作ったのは、オーラの輪郭を整える変化系の練習でしたけれど、こちらは作りたい物そのものの感覚を覚え込むところから始めます」
「なるほど。何を作るか決めてもいないのに、そこだけ練習しようがねーな」
「はい。結論から言うと、具現化したい物が決まるまでは、具現化のための専門的な鍛錬はしなくて大丈夫です。キルア君は変化系を中心に、隣の強化系の練習を少し添える。それで今は十分ですよ。自分に合う能力の形は、基礎を積みながら考えていきましょう」
「よし。まだ決めてもねー道具に時間を使うより、まずはこっちをちゃんと扱えるようにするか」
キルアがもう一度、掌の上へ小さな四角形を浮かべようとする。その輪郭へ目を凝らしたところで、らでんが軽く手を挙げた。
「では、その系統別の練習を毎日のどこへ入れるかも、最後に確認です。さっき手元に集中していたとき、足元や背中の《纏》はどうなっていましたか?」
「えっ……? あ、手元のオーラばっかり見てて、背中の《纏》がほとんど消えかけてたかも」
「オレもだ。指先の形を綺麗にしようとしたら、一昨日から練習してた《堅》どころか、普通の《纏》までバラバラになってたわ」
二人がはっとしたように自分の肩口を見直す。
「でしょう? いくら手先で面白い形を作ったり小石を硬くしたりできても、実際の試合で相手の攻撃を受けながらそれを使うには、土台になる《纏》が絶対に崩れないことと、強い《練》や《堅》を長く保てる体力がどうしても先に要るんです。土台がグラグラのまま屋根の上に大きな飾りをつけようとしたら、一発殴られただけで全部壊れてしまいます」
らでんは二人の目を見て、はっきりと指を立てた。
「だから、毎日一番時間をかけるのは、これまで通り『燃』・《練》・《堅》・《凝》、そしてその土台の《纏》です。系統別の練習は、基礎メニューを終えたあとの短い時間で、さっきの配分に沿って少しずつ。得意な技を作るためにも、まずはそれを支える基礎を育てましょう。――いいですね?」
「うん! オレ、まずは《堅》を保ったまま、ちゃんと《凝》を使えるようになりたい。そのあとで、強化系の練習をやるよ!」
「だな。オレは変化を中心にして、強化はその半分以下。で、そっちに夢中になって《纏》が崩れてたら話になんねーってことだろ。よし、まずは《堅》を今の倍は保てるようにするぜ!」
二人が自分の言葉で納得して頷くのを見て、らでんは心から安堵の息をついた。
新しい技術を知るとついそちらへ飛びつきたくなる年頃なのに、二人は自分たちが何のために修行しているのかを少しも見失っていなかった。
◇ ◇ ◇
それから一週間あまりの日々は、驚くほど規則正しく、そして充実した熱量の中で過ぎていった。
毎朝の『燃』から始まり、《纏》を整え、同じ強い出力での《練》と《堅》の維持時間を少しずつ伸ばしていく。らでんが指先に《隠》で隠したオーラの数を、二人が軽くステップを踏みながら《凝》で読み取る練習も重ねた。
その後に取る短い系統別の時間も、教わった配分で進めた。ゴンは小石へオーラを込める強化を中心に、形を整える変化と、離したオーラを保つ放出を少しずつ添える。キルアは数字や図形の輪郭を保つ変化を繰り返し、強化の練習はその半分以下にとどめた。具現化したい物はまだ決めず、まずは自分のオーラを自在に扱う稽古に取り組んでいる。
四月二十五日の午後二時過ぎには、当初は三分そこそこで崩れていた二人の《堅》も、実戦に使える密度を保ったまま十分近く安定して維持できるまでに伸びていた。
「よし、二人とも今のセットはすごく良かったですよ。ゴン君の足元のオーラも、最後まで薄くなりませんでしたね」
「へへっ、今日は足の裏で床を踏む感じをずっと意識してたんだ!」
「オレも肩の力を抜くコツがだいぶ掴めてきたよ。ちょっと喉乾いたな」
「じゃあ、これから少し休憩にしましょう。私、一階の売店で飲み物を買い足してきますね。二人はお部屋で水分を摂って休んでいてください」
「うん、ありがとう! いってらっしゃい、らでんさん!」
「ん、部屋で水飲んで待ってる」
らでんはタオルで手を拭き、部屋のカードキーと小さなポーチだけを持ってゴンの客室を出た。
一階の売店で飲み物を買い、袋を提げて直通エレベーターへ乗り込む。二百階の廊下へと戻ってきたのは、部屋を出てから二十五分ほどのちのことだった。
エレベーターホールを抜けて、ゴンの客室がある北側の回廊へ曲がったとき。
「――だから、もう大丈夫だってば、ズシ!」
「で、でもキルアさん、ゴンさん……僕のせいで、お二人があんな奴らの言う通りの日程で……」
部屋の扉の前で、聞き慣れた二人の声に混じって、ズシの今にも泣き出しそうな声が聞こえてきた。
(えっ……? ズシ君?)
らでんは袋の持ち手を握り直し、足音を速めて三人のもとへ駆け寄った。
扉の前に立っていたのは、ゴンとキルア、そして道着の襟元が少し乱れ、片方のサンダルを履き直したばかりらしいズシの三人だった。ゴンとキルアの全身には、ついさっきまでいつでも戦える態勢を取っていたような、張り詰めた《纏》の余韻が残っている。
「どうしたんですか、三人とも! ズシ君、どこか怪我は……!?」
「あっ、らでん先生……!」
「らでん、戻ったか。ちょうど今かららでんとウイングさんのところへ連絡しようと思ってたんだ」
キルアが険しい目つきのまま振り返り、隣でゴンが握りしめていた片方のサンダルと、メモ用紙をらでんに見せた。
「まずは中へ入りましょう。廊下で立ち話をするより、お部屋でしっかり話を聞かせてください」
らでんは素早く扉を開けて三人を客室へ入れ、内側からロックをかけてから、まずズシの両肩と首筋に外傷がないかを自分の目で確かめた。
幸い、出血や骨折のような怪我はない。ただ、ズシの顔色は青白く、小さな肩がまだ細かく震えていた。
「ズシ君、もう安全ですからね。ゆっくり息をして。……キルア君、ゴン君、私が一階へ降りていた間に何が起きたんですか?」
「うん。あのね、らでんさん、らでんさんが下へ行ってすぐ、オレが汗を流そうと思ってシャワーを浴びてたら、部屋の電話が鳴ったんだ」
ゴンがテーブルの上にメモ用紙を置き、悔しそうに唇を噛んで話し始めた。
「電話に出たら、知らない男の声で『ズシを預かっている。ウソだと思うならドアの外を見ろ』って言われて……急いでドアを開けたら、廊下にズシのサンダルが片方だけ落ちてたんだよ。それで、ズシを無事に返してほしければ、四月三十日にサダソ、五月四日にギド、五月十日にリールベルトと試合をするって今すぐ登録しろって脅されたんだ!」
「――っ、なんですって!?」
らでんの眉が思わず吊り上がった。
「で、オレの方は、ジュースの自販機まで行って戻ってくる途中で、そのサダソって左腕のない男に直接声をかけられたんだよ」
キルアが腕を組み、冷たい光を宿した青い目で続けた。
「あいつ、ズシを人質にしてるって言って、オレにも四月二十九日に自分と試合をしろって迫ってきた。……その場でサダソをぶちのめしてやろうとも考えたんだけどさ、あいつの後ろにギドとリールベルトっていう仲間がいて、そのどっちかが別の場所でズシを押さえてる可能性があっただろ? オレが一番最初にしなきゃいけなかったのは、とにかくズシを傷ひとつない状態でこっちへ返させることだった」
「キルア君……」
「だからオレ、その場で試合の日程を呑む代わりに、『今すぐ目の前でズシを無傷で返せ』って条件を突きつけたんだ。そしたらあいつら、オレとゴンが試合の登録に応じたのを確認して、すぐそこの連絡通路でズシを解放して引き揚げていった。……そこへゴンも飛び出してきて、今ここで合流したところだよ」
自分がほんの二十数分、一階の売店へ降りていた隙を狙ったかのような犯行だった。
ズシは丸椅子の上で両膝の上の拳を強く握りしめ、ぽろぽろと涙をこぼしながら頭を下げた。
「す、すみません、らでん先生、ゴンさん、キルアさん……! 急に廊下の角であのサダソっていう人とすれ違って……その人の『左側』が近づいた瞬間、急に目に見えない大きな何かにギュッと全身を掴まれたみたいに息もできなくなって、そのまま気を失っちゃったっす……! 僕が弱いせいで、お二人の大事な修行の邪魔をして、あんな卑怯な奴らの言う通りの試合を組ませちゃって……っ!」
「ちがうよ、ズシ! ズシはぜんぜん悪くないよ!」
ゴンがすぐさまズシの正面へしゃがみ込み、その両手をぐっと握った。
「悪いのは、リングの上じゃなくて廊下でズシを捕まえたりしたあいつらなんだ! それに、オレもキルアも、もうらでんさんから許可をもらって念の修行も再開してるし、もともと二百階の試合には出るつもりだったんだよ!」
「そうだぜ、ズシ。お前が謝ることなんか一個もねえよ。どっちみち五月中に試合はやるつもりだったんだから、相手の方から勝手に日取りを決めて出てきてくれたと思えば、探す手間が省けたってもんだ」
キルアもズシの頭をぽんと軽く叩き、少しでも負い目を減らそうと気安い声で言った。
らでんは二人の頼もしい背中を見つめ、それからズシの隣へ膝をついて、ハンカチでその頬の涙をそっと拭った。
「ゴン君とキルア君の言う通りです、ズシ君。不意打ちで格上の念能力者に襲われて、それでもこうして無事に私たちのところへ戻ってきてくれただけで、本当に良かったんですよ。そしてキルア君、ゴン君――目の前のズシ君の安全を何より一番に考えて、すぐに私へ全部話してくれてありがとう」
ハンカチを畳む指に、思わず力が入った。
自分たちより弱い子供を念で捕まえ、助けたければ勝ち星をよこせと迫る。二人が判断を誤れば、ズシは無事に帰ってこられなかったかもしれない。腹の底で、怒りが煮えたぎっていた。
(――ふざけないでくださいよ。子供を何だと思っているんですか)
らでんは細く息を吐き、ハンカチを置いた。ズシの頬へもう一度触れてから、キルアに顔を向ける。
「三人が今どこにいるか、分かりますか?」
「東側の選手控室だ。ズシを返したあと、三人とも一番奥の部屋に入ってくのが見えた。……なあ、らでん。ズシはもう戻ってきたんだし、今ならオレが――」
キルアが扉へ目を向け、椅子から立ち上がった。
らでんはその肩へそっと手を置いた。
「私が、三人と話をしてきます」
「いや、あいつらに普通に文句言ったって聞かねーよ。首筋にナイフでも当てて、二度と近づくなって教えてやった方が早いぜ」
「キルア君がズシ君やゴン君を守ろうとしてくれた気持ちは、ちゃんと分かっています。あの場で怒りを抑えて、ズシ君を無傷で返させてくれたことも、本当に正しい判断でした。……でも、そういう時は、大人を頼ってください」
「……え?」
「相手を脅したり、もしもの時に手を汚したりする責任まで、キルア君が一人で引き受ける必要はありません。私は二人の師匠で、ここに一緒にいる大人なんですから」
その言葉を口にしても、胸の奥の怒りは収まらなかった。直接ズシを捕らえたという、欠けた左腕の男。四日後の試合まで待っているつもりはなかった。
「二人は、ズシ君とここで待っていてください。三人のところへは、私が行きます」
「らでんさん……。相手は三人いるんだよ?」
ゴンが心配そうに見上げてくる。
「ええ。だからこそ、私に任せてくださいね」
らでんはすぐに立ち上がって客室の内線電話を取り、中層フロアに滞在しているウイングの部屋へと連絡を入れた。
事情を聞いたウイングは、わずか五分足らずで二百階のゴンの客室へと駆けつけてきた。
「ズシ! 無事ですか!?」
「ウイング先生……! すみません、僕、油断して……っ!」
「いいのです、無事でさえいてくれれば! ……儒烏風亭さん、ゴン君、キルア君、本当にありがとうございます。ズシを無事に救い出してくださったこと、なんとお礼を申し上げればいいか……」
普段は穏やかなウイングが、眼鏡の奥の目を険しくして深く頭を下げた。
らでんは首を横に振り、ズシにお茶を持たせてから、ウイングへ向き直った。
「ウイングさん。私は今から、サダソさんたち三人のところへ話をしに行きます。戻るまで、ここでこの子たちを見守っていただけますか?」
ウイングはらでんの目を見た。眼鏡の奥の目が、わずかに細くなる。
「……分かりました。三人は、私が責任を持ってお預かりします」
「ありがとうございます。……ゴン君、キルア君、ズシ君。私が戻るまで、ウイングさんのそばを離れないでくださいね」
キルアはしばらくらでんを見ていたが、やがて椅子へ腰を下ろした。
「……分かったよ。任せる」
らでんは頷き、客室に置いていた鞄を肩に掛けた。カードキーとポーチを収め、中身を手早く確かめる。
「すぐに戻ります」
三人とウイングを部屋に残し、らでんは扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
受付ロビーの脇を抜けると、東側の選手控室へ続く通路があった。一般客の立ち入りが制限されている一角は、係員の姿もなくひっそりと静まり返っている。
一番奥の控室の扉の前から、かすかに下品な笑い声と話し声が漏れてくる。
らでんは扉の手前の死角で足を止め、肩から提げていた鞄の中から、黒い革表紙の『録』と一枚の館外貸出票を取り出した。
万年筆を走らせ、貸出票の収蔵番号欄を埋め、自分の名と使用目的をさらさらと記入していく。
記入を終えた貸出票を頁の間へ挟み込むと、紙面から淡い光が立ち昇り、古びた真鍮の枠に厚みのある硝子を組み合わせた一基の吊灯――《
一度正規の手続きで貸し出された復元品は、『録』を閉じてもそのまま維持される。らでんは『録』と万年筆を鞄へしまうと、吊灯の取っ手を左手に提げ、控室の扉を二度ノックした。
「失礼します」
返事を待たずにノックのすぐあとでノブを回し、中へ入ってから背後の扉をパタンと閉める。
十畳ほどの殺風景な控室の中には、三人の男が揃っていた。
長椅子に腰掛け、欠けた左腕の袖を垂らしている痩せた男がサダソ。壁際で鉄の義足を鳴らしながら独楽を弄んでいたのがギド、そして複数のマフラーが突き出た特殊な車椅子に深く身を預けている大男がリールベルトだ。
「……どなたかな? 係員じゃなさそうだ」
サダソが胡乱げに眉をひそめ、やがて合点がいったように口の端を歪めた。
「ああ、なんだ、あのガキどもと一緒にウロウロしてたお姉ちゃんか。もう話を聞いて飛んできたのかい。人の控室まで乗り込んでくるとはいい度胸だね。なんだ、あの銀髪のガキが怖気づいて、どうか手加減してくださいって泣きつきにでも来たのかな?」
ギドとリールベルトも、くっくっと嘲るような笑い声を漏らす。
らでんは表情を少しも変えず、扉のすぐ脇にある備え付けのコート掛けの鉤へ、持っていた吊灯をそっと掛けた。
「いいえ。私はゴン君とキルア君に稽古をつけている、儒烏風亭らでんと申します。先ほど、あなた方がズシ君を人質に取って二人を脅迫された件と、これからの試合について、少しお話をしに参りました」
「ハッ、人質だって? なんのことだか知らないよ。ゴンくんたちが自分から俺たちと試合がしたいって登録したんだろ」
サダソが長椅子から立ち上がり、だらりと垂れた左袖を揺らしながら、ゆっくりとらでんの正面へと歩み寄ってきた。
「いいか、姉ちゃん。二百階ってのはな、甘っちょろいお遊びの場所じゃないんだ。これ以上ガキどもの周りで嗅ぎ回って邪魔する気なら、テメェから先に――」
サダソが言い切るより早く、その左肩の空間がぐにゃりと歪んだ。
らでんは部屋へ入った瞬間から、両目へ《凝》を集めていた。ズシが『左側が近づいた瞬間に見えない大きな何かに全身を掴まれた』と証言していた通り、サダソの欠けた左腕の袖口から、人間の胴体ほどもあろうかという巨大なオーラの腕が膨れ上がり、らでんの頭から胸元までを一息に握り潰そうと横薙ぎに迫ってくる。
(――遅いですね)
《凝》を向けた目には、迫る五指の軌道まではっきりと捉えられていた。
らでんは迫りくるオーラの五指の軌道を《凝》で正確に見切り、半歩だけ内側へ滑るように踏み込んでその懐へと潜り込んだ。
「なっ――!?」
巨大な左腕が空を掴み、サダソの顔が驚愕に歪む。その瞬間には、《堅》を保ったらでんの右掌が、オーラを乗せてサダソのみぞおちへと真っ直ぐに叩き込まれていた。
ドォンッ! と重く鈍い衝撃音が控室に響く。
「が、はっ……!?」
サダソの身体がくの字に折れ曲がり、足が床から浮いて、背後のテーブルを跳ね飛ばしながら床の上へと激しく叩きつけられた。
「サ、サダソ!?」
「おい、今の何をした……!?」
ギドとリールベルトが顔色を変えた。
だが、らでんは二人に一瞥もくれず、コート掛けに吊るした《
琥珀色を帯びた青白い光が、遮るもののない控室の床一面へと静かに広がる。
らでんは、吊灯の光が届く床へ視線を落とした。
青白い光の中に、薄いガラスの欠片が次々と形を結ぶ。灯を通して、らでん自身のオーラから具現化したものだ。
ぱらぱらと澄んだ音を立てて床へ降り注ぎ、大小無数のガラス片が光を反射してきらめく。
その瞬間――吊灯の光を受けた床の上のガラス片が、シャリン、と一斉に硬質な音を鳴らして跳ね起きた。
破片と破片が生き物のように噛み合い、継ぎ合わさり、ほんの一拍のうちに、鋭い結晶の牙を持った四匹の猟犬ほどの『ガラスの小獣』へと姿を変える。
「な、なんだこれ――ぎゃああっ!?」
サダソが体勢を立て直すより先に、二匹のガラスの小獣が弾丸のように床を蹴り、サダソの両足首とふくらはぎへガラスの牙を突き立てた。
革靴とズボンの布地が裂け、鮮血が散る。激痛にサダソの体勢が崩れたところへ、らでんが再び一歩で間合いを詰め、その右肩を上から掴んで床へと力任せに叩き伏せた。
「ぐあああっ!!」
肩と頬を床へ打ちつけられても、サダソは必死に左のオーラの腕を振り回し、自分の足首に噛みついているガラスの獣を二匹まとめて殴りつけた。
ガシャンッ!!
派手な音を立てて、ガラスの小獣が粉々に砕け散る。
「ハ、ハハッ、ただのガラス細工じゃねえか……!」
サダソが引きつった笑みを浮かべたのは、ほんの一秒にも満たなかった。
吊灯の青白い光に照らされたまま、床に散らばった無数の細かいガラス片が、シャラララッ、と不気味な音を立てて一斉に蠢き出したのだ。
砕かれたはずの破片は、消えるどころか十数匹のさらに小さな噛みつき獣へと分裂し、サダソのブーツから太腿、さらには床をついていた右手の甲へと次々に飛びかかって鋭い牙を食い込ませる。そして残りの破片は、もう二匹の小獣の周囲へと吸い寄せられるように滑り寄り、以前よりもひと回り大きな獣の骨格へとその場で再集合していく。
「ひ、ひいいっ!? な、なんでだ、今壊したはずだろうがっ! 離れろ、離れろよおおっ!!」
サダソは悲鳴を上げながら右手を振り払い、見えない左腕で何度も床の獣を叩き割ろうとした。
だが、割れば割るほど、吊灯の光の下でガラスの群れは小刻みに分裂と再集合を繰り返し、サダソの両脚と右手に容赦なく噛みついていく。痛みに耐えかねて扉の方へ這って逃げようとしても、片足のブーツを小獣に噛み止められ、立ち上がろうとした瞬間に、らでんの容赦のない蹴りが背中へと落ちて床へ縫い止められる。
「あがっ、う、うあああっ……!」
二度、三度と床へ叩き伏せられ、見えない左腕のオーラすら維持できずに霧散したころには、サダソは足や右手の傷から血をにじませながら、床の上で芋虫のように震えることしかできなくなっていた。
そして、吊灯の光を浴びたガラスの群れが、サダソのすぐ目の前で最後の再集合を終える。
シャリィン――と冷たい結晶の音を響かせて立ち上がったのは、大人の身体を優に呑み込めるほど巨大な、獅子にも似た透明な『大型のガラス獣』だった。
大型のガラス獣は、動けなくなったサダソの身体を前脚で仰向けに返した。ずしり、と重いガラスの前脚が、その胸板と右肩を真上から押さえ込む。肋骨がきしむほどの重量と、首筋に突きつけられた鋭利なガラスの爪に、サダソは「ひっ、あ、あ……」と声にならない吐息を漏らして硬直した。
壁際のギドとリールベルトも、らでんの全身から静かに立ち昇る底知れない《練》の圧力と、目の前の異様な光景に呑まれ、独楽や鞭に手をかけることすらできずに青ざめている。
大型のガラス獣が、サダソの顔の真上で、ギシリと音を立てて巨大な顎をいっぱいに開いた。
剃刀のように鋭いガラスの牙の並びの奥に、ぽっかりと空いた『透明な腹』の内部が、サダソの目の前わずか数センチのところまで迫る。
「あ、あ、あ……っ!」
全身を丸呑みにされる直前の位置で、らでんはガラス獣の動きをぴたりと止めた。
そして、すぐ隣へしゃがみ込み、恐怖で瞳孔の開いたサダソの目を覗き込んで、普段と少しも変わらない丁寧な声で語りかけた。
「サダソさん。落ち着いて……ほら、ゆーっくりと深呼吸してください……よく聞いて……この子の透明なお腹の中が、よく見えますか?」
「ひ、ひぃっ……な、なんだよこれ、やめろ、食うな……っ!」
「もしこのまま、この子があなたを丸呑みにしたらね。あなたの身体は、その場で小さなガラスの人形になって、この透明なお腹の中へ収められるんです」
らでんの穏やかな声が、静まり返った控室に澄み渡る。
「ガラスの人形になっても、意識は今のままはっきり残ります。けれど、いくら中で叫んでも、声は外へは届きません。そして、お腹の中では呼吸ができなくても、どれだけお腹が空いても、自然に死んで終わることはないんです。……もちろん、内側から自分の力で出てくることもできません」
サダソの喉が、ひゅうっと引きつった音を立てた。
ガラス獣の開いた顎の先から、冷たい光の反射がサダソの顔へと落ちている。
「誰にも声が届かないガラスのお腹の中で、意識はしっかり残ったまま自分の力では出ることもできないまま、時間だけが過ぎていく。……サダソさん、このままここで永遠を過ごすか、それともどうなさいますか?」
「で、出て行く……っ! で、出て行きます、今すぐだ、今すぐここから消える……っ!!」
サダソは頭上の牙に額が触れそうになるのも構わず、涙と脂汗にまみれた顔で必死に首を振った。
「ズシ君を、直接その念の腕で捕まえたのはあなたですね。試合を組むために自分より弱い子供を力ずくで攫って、勝ち星のための人質にした。それも、《念》を使って。その行いを、私は許すつもりはありません。……二十九日のキルア君との試合も、三十日のゴン君との試合も棄権して、ここから消えていただけませんか。二度とこの闘技場へは戻らないでください」
らでんは少しだけ目を細め、凍りつくような静かな声で付け加えた。
「次に私やあの子たちの前へ姿を見せたら――その時はもう。容赦しませんから」
「わ、分かった、分かったから!! 今すぐ荷物を置いてこの塔から出て行く! 二度とあいつらにもアンタにも近づかねえ、誓う、誓うからそれをどけてくれええっ!!」
サダソが子供のように泣き叫びながら懇願するのを確かめてから、らでんはガラス獣にサダソの胸を押さえさせたまま、ゆっくりと首を巡らせて壁際のギドとリールベルトを見やった。
視線が合った瞬間、二人の肩がビクッと大きく跳ねる。
「……お二人も、今の話は聞こえていましたね?」
「お、おう……っ」
「き、聞いてたぜ……」
ギドが冷や汗を拭いもせずに頷き、リールベルトは車椅子の肘掛けを白くなるほど強く握りしめている。
「お二人には、ここで約束をしていただきます。それを守るつもりがないのでしたら、サダソさんと一緒に闘技場を去ってください」
らでんは立ち上がり、二人の前へ一歩進み出た。
「――あの二人と戦うのは、リングの上で、ルールを守って正々堂々と戦うときだけです。リングの外でゴン君やキルア君、ズシ君、それに私たちの関係者へ手を出したり、人質や脅迫、待ち伏せのような卑怯な真似で勝ちを得ようとしたりしないこと。それをここで約束していただけますか?」
「や、約束する! 俺たちはもう絶対にリングの外じゃ手を出さねえ! 五月四日の試合も、ルール通りリングの上だけで戦う!」
「お、俺もだ! 人質なんて二度と取らねえし、待ち伏せもしねえ! 正々堂々と試合をするって約束する!」
リールベルトとギドが、怯えきった声で即答した。
らでんは二人を真っ直ぐに見据え、ほんの少しだけ小首を傾げて微笑んだ。
「約束ですよ? ……もし破ったら、次はお二人のところへ伺いますね」
その静かな一言に、ギドとリールベルトは声も出せずに何度も首を縦に振った。
らでんが指先を軽く動かすと、サダソの胸を押さえつけていた大型のガラス獣がすっと顎を閉じ、重みを解いて半歩後ろへと退いた。
「どうぞ、サダソさん。今すぐ手続きを済ませて、闘技場から出てください」
「ひ、ひいいっ……!」
解放されたサダソは、右手と両膝で扉まで這いずり、ノブを掴んでどうにか身体を起こした。足を引きずりながら転げるように廊下へ飛び出し、不揃いな足音が通路の向こうへと遠ざかっていく。
残された控室の中で、らでんは壁際に張りついたままのギドとリールベルトへ一瞥を向けた。
誰も腹に収めていないことを確かめると、空の獣の形をゆっくりとほどきながら、吊灯へ遮光用の布を被せる。
光が途絶え、ガラスの動きがぴたりと止まった。獅子の輪郭を作っていた欠片が、シャララ、と澄んだ音を立てて床へ崩れ落ちる。
数秒の沈黙が、控室に落ちた。
らでんが獣を生む念を解くと、床に散らばっていたガラス片が端から淡い光へとほどけ、跡形もなく消えていった。
吊灯をコート掛けから外し、布を被せたまま『録』を取り出す。挟んであった貸出票に触れ、返却の意思を込めて、吊灯の復元品の貸出維持も解いた。
帳面を閉じたらでんの足元には、危険な破片ひとつ残っていない。控室に残ったのは、倒れたテーブルと、サダソが残したわずかな血痕だけだった。
「それでは、五月四日のリングで。お二人とも、どうぞお大事になさってくださいね」
ぺこりと丁寧にお辞儀をして控室を後にするらでんを、ギドとリールベルトは最後まで指一本動かせないまま見送るしかなかった。
◇ ◇ ◇
ゴンの客室へ戻ったのは、部屋を出てから十五分も経たないうちだった。
「あ、らでんさんが戻ってきた!」
「早かったな、らでん。……どうだったんだよ?」
ウイングのそばで待っていたゴンとキルア、そしてズシが一斉に立ち上がって駆け寄ってくる。
らでんはまずウイングに向かって「ありがとうございました、ウイングさん」と一礼してから、心配そうに見上げてくる三人の前へ向き直った。
「三人とも、お待たせしました。もう大丈夫ですよ。サダソさんは、二十九日のキルア君との試合も、三十日のゴン君との試合も棄権して、闘技場から出て行くことになりました。ズシ君や二人に二度と近づかないようにも、きちんと伝えてきました」
「えっ!? サダソ、戦わないで出て行っちゃったの!?」
ゴンが目を丸くして声を上げる。
「はい。それと、残ったギドさんとリールベルトさんともちゃんとお話をして、これからはリングの外でズシ君や二人に手を出したり、卑怯な脅しを使ったりせず、リングの上でルールを守って正々堂々と戦うって約束してもらいましたよ」
「……おいおい、マジかよ」
キルアが呆れたように目を瞬かせ、らでんの頭のてっぺんから靴先までをじろじろと見た。
「ほんの十数分で、どんな『話し合い』をしたら、人質まで取った連中がそんな素直に尻尾巻いて逃げ出すんだよ」
「ふふ、大人同士ですから、礼儀正しく丁寧にお話ししただけですよ。『もし約束を破ったら、次は少し怖いことになりますよ』って、しっかりお伝えしてきましたから」
らでんがいたずらっぽく人差し指を口元に当てて笑うと、キルアは「……絶対それだけじゃねーだろ」と苦笑しながらも、ふっと肩の力を抜いた。
「ま、らでんに任せて正解だったってことか。ズシに手を出した一番タチの悪い野郎が二度と戻ってこねーなら、それで十分だよ。ありがとな、らでん」
「どういたしまして。キルア君がちゃんと私に任せてくれたおかげです」
「らでん先生、本当にありがとうございます……! これでゴンさんもキルアさんも、変な邪魔をされずに試合ができますね!」
ズシが頭を下げるのを見届けてから、らでんはゴンとキルアへ向き直った。
「それで、残るお二人との試合ですけれど。人質を取られて受けた日程だからといって、二人が無理に戦う必要はありません。キルア君の本来の出場期限は五月二十五日、ゴン君は六月九日まであります。どうしたいですか?」
「オレは戦いたい! 前のギド戦では何も分からないまま《絶》をして腕を折られちゃったけど、今度は今までらでんさんに教わった基礎を使って、ちゃんと自分の力で勝ちたい!」
「オレもだ。ズシをダシに使ったあいつらには、リングの上でたっぷり後悔させてやるよ」
「分かりました。ここ二週間で、二人の《纏》と《練》、《堅》、そして《凝》は、初戦のころとは比べものにならないほど強くなっています。戦うための基礎はできてきました。私も、すべて会場へ同行します」
二人の目を確かめ、らでんは言葉を継いだ。
「ただし、約束をしたからといって、油断はしないでくださいね。試合が終わるまでの移動や控室への出入りは、必ず私と一緒に。少しでもおかしな気配があったら、すぐに共有してください。危険を我慢するのを修行だなんて思わないでくださいね」
「わかった!」
「ああ。……ありがとな、らでん」
ウイングもズシの肩へ手を置いた。
「ズシも、一連の試合が終わるまでは私のそばを離れないこと。二百階や連絡ロビーへ一人で来てはいけません。稽古も、私の目の届く場所で行いましょう」
「はい、ウイング先生……!」
大人二人が責任を持って保護と移動のルールを固めたことで、ズシの顔にもようやく安心した色が戻り、ウイングに付き添われて階下の部屋へと戻っていった。
残った四日間、ゴンとキルアはこれまで以上に研ぎ澄まされた集中力で、『燃』と《練》・《堅》・《凝》の最終調整を積み重ねていった。
◇ ◇ ◇
四月二十九日、予定されていたサダソ戦は、キルアの不戦勝として記録された。翌三十日のゴンの試合も同じ結果となり、サダソが再び二百階へ姿を現すことはなかった。
こうして、ズシを人質に取って二人を脅迫した三人組のうち、サダソは一度もリングへ上がることなく闘技場から姿を消し、残るカードは五月四日の『ゴン対ギド』『キルア対リールベルト』の二試合、そしてその後の二試合となった。
◇ ◇ ◇
五月四日の午後。
二百階の中央闘技場には、初戦の雪辱戦となる『ゴン対ギド』、そしてメインカードとして組まれた『キルア対リールベルト』の二試合を見ようと、多くの観客が集まっていた。
最初の試合は、ゴン対ギドだ。
らでんとキルアは客席の最前列近くの手すり際まで進み、西側ゲートから入場してくるゴンの姿を見守った。
今日のゴンの右手には、愛用の釣り竿がしっかりと握られている。初戦で、同じこのリングの上からギドの独楽に吹き飛ばされ、右腕を折られて担架で運ばれた少年は、今、落ち着いた《纏》を全身に馴染ませ、真っ直ぐな目で正面のギドを見据えていた。
『それでは、二百階クラス、ゴン選手対ギド選手の一戦を開始します! レディ……ファイッ!』
開始の合図とともに、ギドが懐から十数個の鉄独楽を取り出し、オーラを込めて一斉に石畳の上へと放った。
ギュルルルッ! と甲高い金属音を立てて、複数の『舞闘独楽』が四方八方へ跳ね回り、同時にギド自身もその場で高速回転する『竜巻独楽』の防御態勢へと入る。
「きたぞ……! ゴン、焦んなよ!」
キルアが手すりを握る。らでんも目元へ《凝》を集め、石畳の上を跳ねる独楽の群れとゴンの立ち姿を追った。
ゴンの全身から、ぐっと力強い《練》のオーラが立ち昇り、そのまま全身を覆う《堅》へと定着する。一度だけ目へ《凝》を集めて独楽のオーラを確かめると、すぐ全身の《堅》へ戻し、跳ね回る独楽へ身体ごと向き直った。
背後と左右から、三つの独楽が同時にゴンの背中と脇腹へと殺到した。
ゴンは二つをステップでかわし、避けきれなかった一つを、左腕と脇腹の《堅》でまともに受け止めた。
ガァンッ! と硬い衝撃音が響く。
初戦のときなら、体が宙へ浮いて吹き飛ばされていたはずの一撃だ。だが、毎日同じ強い出力で十分間保ち続ける鍛錬を重ねてきたゴンの《堅》は、独楽の体当たりを受けても崩れず、ゴンは靴底をわずか数センチ滑らせただけで石畳の上に踏みとどまった。
「よしっ!! 耐えた!」
「すごい、足元の《堅》も少しも抜けていませんよ!」
もちろん、《堅》をしたからといって痛みがゼロになるわけではないし、すべての攻撃を無傷で弾き返せるわけでもない。それでも、決定的なダメージを負わずに立ったまま耐えられるということは、攻撃を受けながら相手の動きを観察する時間が作れるということだ。
リングの上で、ゴンは目で跳ね回る独楽の軌道をじっと見極めていた。
らでんの目にも、独楽を包む赤黒いオーラの動きが見えている。
(……あの独楽、一つずつゴンを追っているわけではなさそうだ)
別の独楽にぶつかった一つが、跳ね返ってゴンの前を横切る。ゴンが一歩横へ動いても、近くの独楽がすぐに向きを変える様子はなかった。少なくとも今見えている範囲では、一つずつ精密に追わせるより、跳ね返る軌道で逃げ場を狭める使い方らしい。
そして、ゴンも自分の目でその『隙』に気づいたらしい。
「――そこだ!」
ゴンは独楽の群れが外周へ跳ねた一瞬の合間を突き、右手の釣り竿を頭上で大きく振りかぶった。
狙ったのは、高速回転しているギドの身体ではない。ギドが回っているすぐ足元――一辺一メートルほどの分厚い石畳の『継ぎ目』だった。
ビュッ、と風を切って飛んだ頑丈な釣り針が、石板と石板のわずかな隙間へ深々と引っかかる。
「な、なにっ!?」
回転中のギドが異変に気づいたときには、もう遅かった。
ゴンは両足で床を強く踏みしめ、強化系の《練》を両腕から背中へとみなぎらせて、釣り竿を力任せに真上へと引き抜いた。
ガゴォンッ!!
凄まじい音とともに、ギドが乗っていた分厚い石板そのものが、釣り針を掛けた側からめくり上げられ、高速回転していたギドの身体がそのまま真上の空中へと放り出されたのだ。
「うわあああっ!?」
床という回転軸を失い、空中で無防備に体勢を崩すギド。
その瞬間、周囲を跳ね回っていた独楽のオーラがぷつりと乱れて勢いを失った。
ゴンは釣り竿を脇へ置き、床を蹴って一直線に宙へ跳躍した。
狙うは、ギドの生身の身体ではなく、回転軸となっている一本の『鉄の義足』。
「これで――終わりだあっ!!」
ゴンの右足から繰り出された強烈な踵落としが、落下してくるギドの鉄製義足を真上から打ち据えた。
メキィッ! と金属がへし折れる鈍い音が会場に響き渡り、ギドの身体が石畳の上へ叩きつけられて動かなくなる。
着地したゴンは、うめき声を上げるギドのすぐそばに立ち、真っ直ぐに見下ろして言った。
「次にまたズシに手を出したら、今度はこんなもんじゃ済まさないからな!」
ギドが青ざめた顔で何度も首を縦に振り、審判が慌ててゴンの勝利を宣言した。
『しょ、勝者、ゴン選手!! 見事な一撃でギド選手を撃破しましたーっ!』
「やったな、ゴン! 石畳ごとひっくり返すなんて、あいつらしい戦い方じゃねーか!」
「ええ! 独楽を受け止めたあとも、相手の動きと足場をよく見ていましたね。ゴン君自身の工夫の勝利です!」
誇らしげに手を振りながら退場ゲートへ戻ってくるゴンを迎え、そのすぐあとには、いよいよメインカードである『キルア対リールベルト』の呼び出しがかかった。
「よし、次はオレの番だな。ゴン、らでん、あいつがどんな手を使ってきても、五分以内に片付けてくるから見てろよ」
「うん! がんばれ、キルア!」
「気をつけてね、キルア君!」
ゴンと一緒に再び客席へ戻ると、リングの上にはすでに、複数のマフラーが突き出た特殊な車椅子に乗った大男――リールベルトが待ち構えていた。
主審の合図とともに試合が始まる。
リールベルトは車椅子の背から二本の長い鞭を抜き出し、自分の周囲で竜巻のように高速で振り回し始めた。近寄るものを弾き返す防御の渦が、車椅子を包む。
さらにキルアが間合いを詰めようとすると、車椅子の後部から圧縮したオーラを一気に噴射する『オーラバースト』で、猛烈な速度でリングの上を滑走し、正面から轢き潰そうと突進してくる。
「うわ、あの車椅子、オーラを後ろから噴き出してロケットみたいに走ってるよ!」
「ええ。でも見ていてください、キルア君の目は最初から車椅子の噴射口と鞭の先を《凝》で捉えています」
キルアは突進してくる車椅子の軌道を紙一重でひらりとかわし、リールベルトが二本の鞭を伸ばしてキルアの身体へ巻きつけようとした瞬間――避けるどころか、自分から両手を伸ばして、その二本の鞭の先端をがっしりと素手で掴み取った。
『な、なんとキルア選手、リールベルト選手の鞭を素手で捕まえました! しかし、これはリールベルト選手の罠かーっ!?』
リングの上で、リールベルトが勝ち誇ったように口角を吊り上げ、グリップのスイッチを押し込んだ。
「掴んだな! 二本合わせて百万ボルトだ!」
バチバチバチッ!!
青白い火花が鞭の全長を走り、激しい電撃がキルアの両腕から全身へと流し込まれる。
「キルア!!」
ゴンが思わず立ち上がって叫んだ。
キルアの銀色の髪が逆立ち、全身の筋肉が電流の衝撃でビクッと硬直する。
(……っ、痛いのは間違いない。でも、意識も《纏》も飛んでいない!)
らでんは《凝》を凝らした目でキルアを見つめた。
キルアの奥歯は強く噛み締められ、眉間には苦痛の皺が寄っている。それでも、鞭を握る指は緩まなかった。
「……悪いね。電気の拷問なら、家で一通りやってんだよ。痛いことには変わりないけどさ……!」
電撃で両腕を強張らせたまま、キルアは二本の鞭を渾身の力で引き絞った。
「な、なんだとおおっ!?」
驚愕するリールベルトの身体が、車椅子ごと高い弧を描いて宙へと引きずり出される。悲鳴とともにグリップから両手が離れ、青白い火花が途切れた。
「た、頼む! 受け止めてくれえっ!」
キルアは落下地点へ滑り込み、相手を車椅子ごと受け止めた。そのまま床へ戻すと、足元へ落ちた二つのグリップを拾い、相手が動くより早く二本の鞭を胴へ巻きつける。
「助けはしたからな」
親指がスイッチを押し込む。バチッと火花が散り、リールベルトの身体が大きく跳ねた。
「ぎゃあああああっ!!」
キルアがスイッチを離すと、リールベルトは白目を剥いて、車椅子の上でぐったりと動かなくなった。
『ノ、ノックアウトーーッ!! なんという冷静さ、なんという強さでしょうか! 勝者、キルア選手!!』
会場中が割れんばかりの拍手と歓声に包まれる中、キルアは少し痺れたらしい両手をぷらぷらと振りながら、客席のゴンとらでんに向かってニッと白い歯を見せて笑った。
◇ ◇ ◇
その五日後の五月九日に予定されていた『キルア対ギド』の試合は、五月四日のゴン戦で義足を折られ負傷したギドが出場を辞退したため、キルアの不戦勝となった。
◇ ◇ ◇
そして五月十日。
脅迫から始まった一連の再戦の締めくくりとなる、『ゴン対リールベルト』の試合当日がやってきた。
二百階の中央闘技場の客席で、らでんとキルアは並んでリングを見下ろしていた。
「なあ、らでん。ゴンってさ、オレみたいに昔から電気の訓練なんて受けてねーだろ? あいつ、どうやってあの車椅子と電気の鞭を攻略する気なんだ?」
「昨日の夜、ノートを見ながら何か一生けんめい考えていましたけど、私にも『明日のリングでやってみる!』としか言わなかったんです。でも、今のゴン君なら、きっと自分の長所を活かしたやり方を見せてくれますよ」
開始のゴングが鳴り響く。
リールベルトは開始から距離を取り、二本の鞭を振り回していた。車椅子の噴射口にはオーラが溜まり、ゴンが間合いへ入ろうとするたびに車輪の向きが変わる。
するとゴンは、釣り竿も使わず、リングの中央でふっと腰を落とし――足元の分厚い石畳の縁へ、素手の両指をぐっと差し込んだ。
「えっ……? おい、あいつ素手でまた床をめくる気か!?」
キルアが目を見張る。
ゴンは強化系の《練》を全身にみなぎらせると、「ふんっ!」と気合とともに一枚目の石板を素手で剥がし上げ、そのままリールベルトの頭上へと投げ飛ばした。
それだけではない。二枚目、三枚目、四枚目と、ゴンは凄まじい怪力で次々に周囲の石板を剥がしては、リールベルトの前後左右を取り囲むように投げ込んでいったのだ。
ドゴォン! ガシャァン! と巨大な石板が次々に突き立ち、リングの一角に石の壁のような障害物が出来上がる。
「あ、分かったぞ!」
キルアが思わず手すりを叩いて身を乗り出した。
「ゴン、あいつがオーラバーストで逃げるのを分かった上で、わざと『一箇所だけ』石板を投げないで逃げ道を空けてやがる!」
「ほんとだ……! 右も左も後ろも石板で塞いで、斜め前の一本道しか走れないように誘導したんですね!」
まさにその瞬間だった。
降り注ぐ石板から逃れようとしたリールベルトが、唯一空いていた斜め前の通路へ向かって『オーラバースト』を全開にし、猛スピードで飛び出した。
だが、その逃げ道の真正面には――ゴンが先回りして仁王立ちで待ち構えていたのだ。
「なっ……!? しまっ――!」
急ブレーキも効かない至近距離。リールベルトが、二本の鞭をゴンへ向かって振るった。
ゴンは《堅》を崩さず、唸りを上げる二本の鞭を素手でバシッと掴み取った。
摩擦と衝撃で、ゴンの掌から赤い血が滲む。
だが、ゴンはリールベルトがグリップのスイッチを押すよりも一瞬早く、二本の鞭を力任せに引っ張った。車椅子の前輪が浮き、リールベルトの手がグリップから離れる。ゴンは鞭をたぐって、足元へ落ちたグリップを拾い上げた。
「あ、ああっ……!」
武器を奪われ、ゴンの目の前で立ち往生するリールベルト。
ゴンは車椅子の肘掛けを片足で踏み止めた。二本のグリップを右手にまとめ、左手で鞭の先端を相手の首筋へぴたりと当てる。スイッチへ親指を添えて、にっこりと笑った。
「ねえ、このボタン押したらどうなるの? オレ、一回押してみるね!」
「ひ、ひいいいいっ!! や、やめろおおおっ……!」
ゴンが本当にスイッチを押すよりも先に、リールベルトは恐怖のあまり白目を剥き、泡を吹いて車椅子の上でそのまま気絶してしまった。
ゴンはきょとんと目を瞬かせ、スイッチを押さないまま鞭を床へ置いた。
『け、決着うううっ!! リールベルト選手、戦意喪失によるノックアウト! 勝者、ゴン選手です!!』
大歓声が湧き上がる中、客席のキルアが腹を抱えて吹き出し、らでんも思わず両手を叩いて笑ってしまった。
「ぷっ、あっはっはっは! 電気を我慢するんじゃなくて、スイッチ押すフリだけで気絶させやがった! あいつ、見た目によらず結構エグい脅し方するじゃねーか!」
「ふふっ、でも本当に電流は流さずに、自分の力と知恵だけで完勝しましたね!」
掌の擦り傷を審判に消毒してもらいながら、ゴンが誇らしげに客席の二人へ大きく手を振った。
◇ ◇ ◇
試合終了から二十分ほどが過ぎ、選手退場口から続く二百階の白い回廊で、らでんとキルアは消毒を終えて出てきたゴンと合流した。
「おつかれさま、ゴン君! 手のひら、深く切れていませんか?」
「うん、ちょっと皮がむけただけだから、もう血も止まったよ、らでんさん! 《堅》をちゃんとしてたから、骨もぜんぜん平気だった!」
「お前な、最後の『一回押してみるね』の顔、客席から見てても悪人面だったぞ」
「ええっ、うそだあ! オレ、キルアみたいに電気に強くないから、スイッチを押される前に取り上げて、ギブアップしてもらおうと思っただけだよ!」
三人で笑い合いながら回廊を歩きかけた、そのときだった。
パチ、パチ、パチ――と、静かな回廊の奥から、乾いた拍手の音が響いてきた。
三人が同時に足を止めて前を向くと、窓際の柱に背中を預けていた長身の奇術師――ヒソカが、トランプのカードを片手で弄びながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるところだった。
ゴンとキルアの全身の《纏》が、反射的にぴんと張り詰める。らでんも二人の半歩横へ立ち、いつでも動ける間合いを保ったままヒソカを見据えた。
「フフ、いい試合だったよ、ゴン♦ 一か月前とは見違えるくらい、オーラのまとまりも身のこなしも良くなったじゃないか」
ヒソカは金色の目を細め、らでんの顔をちらりと一瞥してから、真っ直ぐにゴンを見下ろした。
「これで二百階クラスでの勝ち星も揃ったね♠ 約束通り――ボクへの挑戦権を認めよう。試合の日取りが決まったら、あのリングの上で、キミがどれだけ美味しくなったか確かめさせてもらうよ♣」
ゴンは一歩も退かず、包帯を巻いた右手の拳をぐっと握りしめて、ヒソカの金色の目を見返した。
「……うん。次は、オレがヒソカと戦う番だね。絶対に、ヒソカの顔にパンチを叩き込んで、あのプレートを返すから!」
「ククッ、楽しみにしているよ♥」
ヒソカはそれだけ言うと、それ以上足を止めることもなく、すれ違いざまにトランプの角を軽く鳴らしてエレベーターホールの方へと去っていった。
不気味な気配が回廊の角へ消えていくのを見届けてから、キルアがふうっと息を吐いた。
「……いよいよだな、ゴン。これで、正式にヒソカとの試合が組まれるんだな」
「うん!」
ゴンの声には、恐れよりもずっと強い、澄み切った闘志が宿っていた。
ゴンはくるりと振り返り、らでんとキルアの顔を交互に見て、胸を張って言った。
「ねえ、らでんさん、キルア。オレ、今回のギドとリールベルトとの試合、らでんさんにやり方を全部教えてもらうんじゃなくて、今まで練習した《堅》と《凝》を使って、自分の頭で考えて勝てたのがすごく嬉しかった!」
「ああ、オレもだよ。基礎のオーラが前よりずっと長く持つようになったから、リングの上で相手の動きを見ながら『どう料理してやろうか』って考える余裕ができたしな」
「ええ。二人とも、本当に立派でした。誰かに借りた答えじゃなくて、自分たちの目と頭で掴み取った勝利ですよ」
らでんは二人の肩にそっと手を置き、微笑んだ。
「でもね、らでんさん。次の相手はヒソカだもんね」
ゴンが自分の胸ポケット――『44』の番号が刻まれたヒソカのナンバープレートが入っている場所を軽く叩いた。
「ビデオでオーラの糸が見えただけじゃ、まだヒソカには届かない。試合の日が決まるまで、オレ、もっともっと《練》と《堅》と《凝》を続けて、ぜったいにヒソカに一撃を入れて、このプレートを突き返してみせるよ!」
窓から差し込む五月の明るい光の中で、前を向く二人の瞳が真っ直ぐに輝いていた。
【今回の能力補足】
吊灯《
吊灯の光が届くガラス片から獣を作り、指定した相手を追わせる。砕かれても分裂・再集合できるが、光を遮られると動きを止める。
人を丸呑みにすると、意識のある小さなガラス人形として腹に閉じ込める。今回は捕食直前で止めている。自ら具現化した空の獣とその破片は、使い手が解除すれば消える。実物のガラスまで消去する能力ではない。
もとは、ガラス工芸で栄えた小王国の宮廷作家が遺した、国宝級の吊灯。国賓を迎える宴では、割れた器が獣となって広間を駆け、その国の工芸の粋を示していた。しかし、貴族たちによる作品の破壊と、人間まで見世物にしようとする扱いを拒み、作家は最後の宴で命を落とす。王国が失われたあとも、宴の客を腹に閉じ込めたガラスの獣が残った。
録と館外貸出票
収蔵品の記録から復元品を取り出し、館外で使う品と使い手を札に記して貸し出す。貸出後は本を閉じても維持される。今回は吊灯一品を一枚の札で使い、獣を解除した後に吊灯も返却した。