少しだけ話を加えたので。
5話面白かったので、愛里寿の話を書きました。
一つ。二つ。三つ——
邪念を振り払う。
心の中には、八万四千もの煩悩が心に存在していると聞いたことがある。
欲望、怒り、羨望、孤独…俺の心の中にも煩悩が数多く存在している。
それらを、この竹刀で振り払う。
一つ。二つ。三つ——
「……ふぅ」
そして、竹刀を動かす手を止めると、長く、深い息を腹の底から吐き出した。
道場には、夕陽の淡い光が差し込んでいた。磨き込まれた床板には、窓枠の影が細長く伸びており、道場全体から乾いた木の香りがほのかに漂っていた。
俺は道場の真ん中を陣取り、そこで正座をし、すぐ横に竹刀を置いた。
先ほどまで繰り返していた素振りを止めると、竹刀が空を切る音も、床を踏みしめる音も消失し、あたりは静寂に包まれていた。
額に浮かんだ汗が頬を伝い、熱で暖まった腕にはまだ竹刀の重みが残っており、それを身体全体で感じていた。
「やはりここにいたのですね」
不意に、後ろから声がした。
振り返ろうとした瞬間、肩にピシャリと衝撃が走った。肩に目を向けると、あずき色の扇子が静かに横たわっていた。
「そのままでいいですよ」
そっと肩から扇子を外し、その人は俺の前まで歩み寄ると、感情を窺わせないような静かな瞳で俺を見下ろした。
その人は貴婦人と形容するにふさわしい、落ち着き払った佇まいの女性だった。
すらりと伸びた背筋に、無駄のない所作。容易には間合いに踏み込めない凛としたオウラをまといながらも、その立ち居振る舞いには、人を包み込むような柔和さと大人の女性ならではの余裕みたいなものが滲んでいた。
「…お久しぶりです」
俺はその女性に向かって、軽く会釈をした。
「ええ。ずいぶんと久しぶりですね、
彼女の名は、
戦車道の名門、" 島田流 "の家元である。
戦車道において、島田という名は大きな意味を持つ。
かの西住流と並び称される、戦車道の名門・島田流。卓越した戦術眼と柔軟な発想を武器に、独自の戦い方を築き上げて、戦車道にその名を轟かせてきた。
その歴史は古く、島田家の女性たちは代々、格式高き戦車道の伝統と、その名に込められた誇りを背負ってきた。
目の前にいるこの女性もまた、その島田流に連なる人間であり——そして、俺の母親でもあった。
「道場にいると思いましたよ。剣道は今でも続けているのですね。大学でも?」
「大学ではしていません。うちのところはかなりガチ…いえ、かなり強豪なので、勉学に差し支えてしまいますから」
「…………………そうですか」
母さんは何か言いたげな様子ではあったが、心中に言葉を飲み込み、短く頷いた。
「それで道場までお越しになって、如何されましたか?」
俺は聞いた。
母さんがこうしてわざわざ道場まで足を運ぶことなど人生で指折り数える程度だから、そんな人が何の用もなく訪ねてくるとは考えにくかったし、用件を尋ねるのは当然のことだった。
相手も俺の疑問は当然といった様子で、少しも動じることなく口を開いた。
「
またしても聞き慣れない言葉が飛び出してきて、思わず虚をつかれた。
目を何度か瞬かせて、母さんの顔を注視した。
鳩が豆鉄砲を食らうとはまさにこういうことを言うのだろうと、齢二十にして、俺はようやくその言葉の意味を理解した。
「自分のできることなど、たかが知れてると思いますが」
自嘲するように言葉を返す。
「そんなことはありません。自分の能力を知った気でいるのは、慈心のよくない癖ですよ」
「自分の能力は、自分が一番よく知っていますから」
「本当にそうでしょうか?」
「往々にして」
このままでは水掛け論になる。
…そんなことでも言いたげな風に、母さんはふぅ…とため息を吐いた。その後すぐさま、何事もなかっように話を本題に戻した。
「——それで頼みというのは、愛里寿のことです」
その名を聞いて、俺は眉をひそめた。
島田家の次代を担う少女。中学生の年齢ながら、飛び級で大学に進学し、幼くして大学選抜チームの隊長を務めるほどの実力を持つ傑物である。
その卓越した戦術眼と指揮能力は、島田流を踏襲しつつ、時代を新たにしているようなものであった。
彼女は間違いなく戦車道史に名を刻む、天才少女であり——そして、俺にとって血を分けた妹でもあった。
「先の試合を知っていますか?」
「もちろん存じていません」
「大洗vs大学選抜チームで試合が行われました。その界隈では、かなり大きな話題となったのですが。ニュースなどでご覧になっていないのですか?」
「戦車道とは距離を置いていますから……。って大学選抜チームということは、愛里寿が隊長を務めている?」
「ええ」
大学選抜チーム。
それは、各大学に所属する戦車道選手の中から、優れた実力を持つ者たちを選び抜いて編成された精鋭部隊だ。特定の学校に属するチームとは異なり、大学の垣根を越えて集められた選手たちが一つのチームとなっている。
だからかなり強い筈だが。
「…その試合は勝ったのですか?」
「おや、気になるのですか。戦車道とは距離を置いているのでは」
「いえ…そういう訳では」
俺は視線を切った。
気になるとは、語弊がある言い方だ。
今年はどの球団が優勝したのかとか、どの選手が金メダルを獲得したかとか、その程度の興味にすぎない。それ以上の気持ちはどこにも無い。
「ふふっ、意地悪でしたね」
「それで試合は?」
「……結果は負けでした」
そう端的に告げられ、俺はハッとした。
思わず目を見開いて、母さんの顔を見る。
「負けた……そうですか……。じゃあ、愛里寿は……その、大丈夫でしたか?」
「分かりません。私は母として、戦車道の技術や心構えを教えることはできても、あの子の心の内までは分かりませんから」
母さんはそう言いながら、どこか悔やむような表情を隠すことなく俺に向けた。
だんだん理解してきた。
つまり、母さんの頼みというのは――。
「……愛里寿の、メンタルケアのようなことでしょうか?」
そう俺が言った瞬間、母さんは俺に微笑みで返した。
「そうです」
「…必要など無いと思いますがね。強い子ですから。それにどういう風の吹き回しです? こんな頼み事らしくもないですよ」
「らしくもないのは、私自身もそう思います」
「なら何故でしょうか?」
「先の試合で、大洗側の大隊長・隊長を務めていたのは、西住家のご令嬢二人だったのですよ。西住流を継ぐ、長女の西住まほさんと、その妹、西住みほさんです」
西住流。
島田流と並び称される、戦車道の二大流派の一つ。その伝統は長く、厳格な規律と正面から敵を打ち破る力強い戦い方を重んじることで知られている。
西住みほさんも、その姉であるまほさんも、昔、屋敷を訪れたことがあったから、俺も二人の顔は見覚えがあった。
姉のまほさんは、年齢の割に落ち着いていて、理知的な印象の娘さんだった。一方、妹のみほさんは、姉とは対照的に活発で、どこかやんちゃな雰囲気があった。
「姉妹はある事情から仲違いをしていたようなのですが……今では、愛里寿を打ち負かすほどに関係が修復されたようです。私は観覧席からその様子を見ていて……胸に込み上げるものがありました」
母さんは目をつぶり、まるで自らに問いかけるように、自分の胸に手を触れた。
俺は何も言葉を発さず、母さんの言葉を待った。
「だから私も、過去を顧みようと考えたのよ」
すると彼女は床に膝をついて、俺と目線を合わせると、そう告げた。
告げられた内容を脳内で反芻する。
だが答えは出ない。俺は何も答えられない。
先程の素振りで振り払った邪念が、ヘドロのように底からぶくぶくと湧き立つ。
だが一方で、母さんの顔をじっと眺めていたら、その面影を色濃く受けた妹の顔が脳裏に浮かんできて——そして思い出す。
妹がまだもう少し幼かった頃の、懐かしい記憶を。
だから
「…分かりました。少しだけなら、愛里寿のために」
俺は不服ながら、母さんの望む風に動いてみるのだった。
いちおう、続くようです。
2話はすぐにあります。