登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
異世界に迷い込んだ日
黄色い登校帽のつばが、ひときわ眩しい朝の光を遮っていた。
いつも通る通学路の角、電柱の影を曲がった瞬間、世界の色が不自然に裏返った。
アスファルトの匂いが消え失せ、代わりに鼻腔を突いたのは、湿った泥と、何百年も放置された古文書のような埃の匂いだった。
「……え?」
桐生透の足元が、急にぐにゃりと沈んだ。
スニーカーの柔らかい感触ではない。冷たく尖った石畳が、いきなり剥き出しの足の裏――ではなく、硬い革底のブーツ越しに伝わってきた。
バランスを崩してよろめいた瞬間、身体のあちこちからメキメキと奇妙な音が響く。
それは骨が組み替わり、筋肉が引き延ばされ、肉体が全く別の構造へと再構築されていく圧倒的な拒絶反応だった。
「っ、ぐ……あ、熱……っ!」
ランドセルの重みが消え去り、代わりに腰のあたりがやけに軽い。
ふと自分の手を見下ろすと、そこにあったはずの日焼けした少年の手は、すっきりと引き締まった小柄な少女の手に変わっていた。
手のひらには、なぜか使い込まれたナイフの柄を握り慣れている証拠のような硬いマメがある。
紺色のブレザーと半ズボンはどこへやら、肌にピタリと張り付くオイルドレザーのベストと、深緑色の重厚なマントが全身を包み込んでいた。
混乱しているのは透だけではない。
すぐ隣では、元・5年生の神崎凛が、頭を抱えてその場にしゃがみ込んでいた。
「嫌……! やだ、これ……何よ私の身体……っ!」
彼女の美しい黒髪のポニーテールは、いつの間にか腰まで届くプラチナブロンドの長髪へと変わり、頭部の両脇からはピンと尖った黄金色のエルフ耳が突き出している。
幾何学模様の刺繍が入った革の軽鎧が、彼女の誇り高い胸元を窮屈そうに締め付けていた。
その少し離れた場所では、白いローブに身を包んだ元・4年生の日向蓮が、自分の胸元で淡く光る黄金の聖印をびくびくさせながら見つめている。
「うそ……お母さん……俺、男の子だよな……? なんでこんな、おしとやかな服着て、頭にヴェールなんか被ってんだよ……っ!」
やんちゃ坊主だった彼の身体は、中性的な少女の聖職者『レン・アルカディア』へと変貌していた。
さらに奥では、元・3年生の狐塚麦が地面に這いつくばり、頭から生えたふさふさの銀色の狐耳をピクピクとさせている。
元・2年生の轟葵は、自分の身長の倍はある超重量級の両手斧を片手で引きずりながら「なんだこの筋骨隆々な腕は!」と半狂乱になっていた。
そして、元・1年生の小西湊は、片眼鏡をかけ、巨大な荷車の引き綱を握りしめたまま、すっかり肝っ玉の据わった大人の女性のような顔つきで固まっていた。
変化の痛みと冷や汗が引きかけたその瞬間、脳の奥底で、ごとり、と巨大な歯車が噛み合う音がした。
――きいぃぃぃん……っ!
「あ、がっ……頭が……頭が割れる……っ!」
透の脳髄に、血を吐くような勢いで「他人の記憶」が洪水のように流れ込んできた。
算数の九九や、昨日の夕飯のハンバーグの味が急速に霧散していく。
代わりに脳の引き出しを埋め尽くしたのは、薄暗い裏通りでの殺伐とした駆け引き、盗賊ギルドの親分からの冷徹な命令、そして「罠の感度は指先で覚えろ。仲間なんて背中を預けた瞬間に裏切られると思え」という、冷めきった生存の技術だった。
「違う、違うんだ……! アタシは去年の冬、北のゴブリン街道で――っ、て、違う!
私、今日の朝、お母さんに『遅刻するよ』って言われて家を出たんだ……っ!」
頭の中のふたりの自分が、激しく殴り合いを始める。
小学生としての「桐生透」の記憶は、みんなの面倒を見るしっかり者の6年生でなければならないと泣き叫ぶ。
しかし、脳裏にこびりついて離れない『影渡りのクロエ』の記憶は、そんな甘ったれた日常を「ぬるい茶番」と一蹴する。
自分の声を出そうとしたのに、喉から飛び出したのは、ハスキーで少し冷ややかな、大人の女性一歩手前の少女の声だった。
「……おい、いつまで頭を抱えてやがる。……まったく、手のかかる連中だな」
口から勝手に飛び出したその言葉に、透自身が一番驚いて息を呑んだ。
いまの台詞は、誰だ?
私じゃない。でも、私の口が、勝手にそう喋った。
隣では、リリアーネに改変された凛が、黄金のエルフ耳を真っ赤に染めながら、荒く息をついていた。
「ふんっ、人間どもの前衛なんて足手まといよ! 私に頼らなきゃ、この迷宮の最初の一歩で野垂れ死にするくせに……っ!」
そう吐き捨てた彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
エルフ族の選民意識と高慢さが彼女の口を無理やり動かしているが、その中身は「お母さんに早く会いたい」と泣き出したい5年生の女の子そのものだった。
プライドと恐怖のギャップで、彼女のツンデレな態度は激しく歪んでいた。
聖職者のローブを着せられた蓮もまた、神聖な祈りの言葉を紡ぎかけながら、その場でガタガタと震えている。
「主よ、導きたまえ……って、うわあ、泣いちゃダメだ、男だろ! いや、私いまシスターだし……っ! どっちなんだよ!」
偏屈な魔術オタクの狐人に作り替えられた麦は、地面に這いつくばったまま「ああっ、この古代文字の魔力回路が美しすぎて発狂しそう!」とヨダレを垂らし、共働きの寂しさを暴力的なマウント欲にすり替えられた葵は「どこだ、文句あるやつは全員この斧で叩き切ってやる!」と周囲を威嚇し、肝っ玉母さんに成り果てた湊は「ほら、先輩方、いつまでメソメソしてらっしゃるの」と愛ある毒を吐く。
全員の身体が、精神が、容赦なく「異世界の女冒険者パーティ」としての完成形へと強制されていく。
(嫌だ……こんなの私じゃない……。私は、みんなを連れて、絶対に無事に元の小学校に……)
そう強く念じようとした瞬間、脳裏のクロエとしての冷徹な人格が、冷ややかに囁き返した。
『甘いな。そんな綺麗事じゃ、この迷宮の底で肉片すら残らない。――生き残りたいなら、その短剣を抜け』。
「うるさい……! うるさい、私は桐生透だ……っ!」
石畳に爪を立て、自分の髪を引き抜くように頭を抱える透を、冷たい迷宮の風が通り抜けていく。
体はすっかり戦いのためのプロフェッショナルとして調凛され、心だけが置き去りにされた少女たちは、未完成の絶望と引き攣った笑顔をたたえたまま、血に塗れた迷宮の闇へと足を踏み出すことを余儀なくされていた。