登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
それから、どれほどの歳月が流れたのか正確な数は誰も数えていなかった。
迷宮の深層には太陽の昇る朝も、カレンダーをめくる音もない。ただ底知れぬ闇と、血と魔力の匂いが染み付いた石畳の回廊が続くだけだった。
異世界へ迷い込んでから、およそ二十年――。
かつて小学生だった彼女たちの肉体は、あの夜営地で怯えていた頃から一ミリたりとも老いることなく、もっと言えば、あの出会った当時の最も脂の乗った、美しく完成された「冒険者の全盛期」のまま完全に固定されていた。
その異変に、最初に気づいたのはミナだった。
第15階層の安全地帯。
薄暗いランプの光の下で、ミナは手鏡を取り出し、自分の顔をじっと見つめていた。
(……おかしいですね)
ポーターとしての過酷な肉体労働を続け、幾度となく死線を潜り抜け、酸いも甘いも噛み分けたはずの二十年。
人間の基準で言えば、顔の端々に微かな小ジワが増え、体力の衰えを計算に入れなければならない年齢のはずだった。
しかし、片眼鏡の奥にある瞳の輝きも、シニヨンにまとめた滑らかな黒髪の一本も、エプロン風レザーベストの引き締まったウエストラインも、二十年前のあの夜から全く変わっていなかった。
「……みなさん、ちょっと手を止めてください」
ミナの低い、しかしただならぬ緊迫感を孕んだ声に、全員の動きがぴたりと止まった。
焚き火の周りで武器の手入れをしていたクロエ、弓の弦を確かめていたリリアーネ、魔導書のページをめくっていたムギ、斧を磨いていたドラガ、そして聖印を拭いていたレンが、一斉に彼女の方を向いた。
「どうしたの、母ちゃん。また荷車の車軸がどうこうって説教?」
ドラガが怪訝そうに眉をひそめたが、ミナは無言で首を振った。
彼女は自分の手のひらを広げ、そして仲間たちの顔を順に回し見た。
「私たち……二十年、経ちましたよね?」
「……は? 何を言い出すんだ急に。そんなの、数えてすらいないけど、まあそれくらいはとうに過ぎてるだろ」
クロエが短剣を鞘に収めながら、不審そうに返す。
「私たちの肉体です。……誰も、老いていません」
その一言に、その場の空気が凍りついた。
リリアーネがハッと息を呑み、反射的に自分の頬に触れた。プラチナブロンドの長い髪をかき上げ、肌のハリを確かめる。
人間の数十年など瞬きほどの間にすぎないエルフの彼女ならともかく、人間の身であるはずのミナやレン、そしてハーフリングのクロエが、二十年前の少女だった頃――正確には、この異世界に定着した瞬間の肉体のままで、一歳たりとも「年齢を重ねていない」という事実。
「嘘……でしょ?」
レンが震える手で自分の胸元を押さえた。
「私……人間なのに。二十年も経ったら、お母さんみたいに少しは年をとるはずなのに……。
どうして、私のシスター服のサイズはあの頃のままなの……?」
ムギは慌てて自分の髪を引っ張り、狐耳をピクピクと揺らした。
「待って、私の魔力嚢の成長曲線も、肉体の代謝も、ずっと完全に一定のところでロックされてる……!
これじゃあ、私の身体がまるで、時間の流れから切り離されたみたいに……っ!」
「ど、どういうことだ……?」
ドラガはガシガシと自分の頭をかきむしり、その屈強なドワーフの筋肉を見下ろした。
「あたしたち、いつの間にか歳をとらない化け物になってたってことか……?
じゃあ、さしあたってあの時びくびくしてた『寿命の差で仲間が先に老いぼれて死んでいく恐怖』って、なんだったんだよ……!」
二十年前、焚き火を囲んであれほど絶望し、涙を流しながら「それでも一緒に歩こう」と誓い合ったあの不安。
寿命の不揃いという、絶対に避けて通れない残酷な別れが来ることを前提に、彼女たちは震えながら絆を確かめ合っていたのだ。
なのに――。
誰も老いない。
誰も衰えない。
誰も、先に死なない。
この迷宮の深層に深く根を下ろした彼女たちは、異世界の理(ことわり)そのものに組み込まれ、「死なない高ランク冒険者」という名の、永遠の囚人と化していたのだ。
重い沈黙が、夜営地を支配した。
誰も笑わなかった。
誰も喜ばなかった。
人間である以上、いつかは老いて土に還るという当たり前の諦めさえも、この迷宮は彼女たちから奪い去っていた。
やがて、その静寂を破るように、クロエが小さく、乾いた笑い声を漏らした。
「……はっ。なんだそれ」
クロエは立ち上がり、腰の短剣を鳴らしながら仲間たちの真ん中へと歩み寄った。
その三白眼には、動揺の色はもう消え失せ、底知れぬ皮肉と、そしてどこか救われたような複雑な光が宿っていた。
「二十年前、あたしたちは『先に老いぼれて置いていかれるかもしれない』って泣きべそをかいてたんだぞ。
それがどうだ……見事に全員、揃いも揃って永遠の未成年、ってわけか」
「笑えないわよ、そんなの……」
リリアーネは苦笑しながらも、その美しいエルフの瞳から一筋の涙を零した。
「私だけが何百年も生き残るわけじゃなかったのね。
……あなたたちがずっと、そのふざけた顔で私の隣に居続けるなんて、迷惑ことこの上ないわ」
「いいじゃん、最高じゃない!」
ムギがケラケラと狂気じみた笑い声をあげ、銀色の尻尾を大きく揺らした。
「老いてボケる心配もないし、私の研究室の古文書を解読する時間はあと何百年だってある!
永遠に私たち五人――いや、六人で、このクソみたいなダンジョンを遊び尽くせるんだよ!」
「まったく……。これだから計算外のトラブルは困るんです」
ミナは片眼鏡を外し、濡れた目元をハンカチでそっと押さえると、いつもの実直な笑みを浮かべて荷車の車軸をポンと叩いた。
「ですが――これなら、寿命の計算をする必要はもうありませんね。ポーターとしての荷物の管理が、一段と楽になりそうです」
「おう! そうと決まったら悩んでる暇はないぜ!」
ドラガは巨大な両手斧を高々と担ぎ上げ、迷宮の天井に向かって豪快に吠えた。
「老いないなら老いないで、これから何百年でも暴れ放題じゃねぇか! 行くぞお前ら、今日の晩飯は特大の魔獣肉だ!」
レンは涙を拭い、聖なる光をその杖の先端にパッと灯した。
「そうだね……神様なんていないって思ったけど、私たちをこの腐った永遠に閉じ込めたこの迷宮だけは、少しだけ感謝してあげてもいいかもしれない」
そして、リーダーであるクロエは、かつての少年の面影を完全に脱ぎ捨てた圧倒的な美貌と冷徹な笑みを浮かべ、仲間たちを見渡した。
「決まりだな」
老いることも、死ぬこともなく、歪んだ記憶と強大な力を抱えたまま、迷宮の深層に永遠に固定された六人。
元の世界にはもう戻れない。家族の温もりも、普通の幸せも、すべては二十年という遠い彼方に置き去りにしてきた。
けれど、恐れるものはもう何もなかった。
終わりがないのなら、この終わらない闇の果てまで、彼女たちは「最強の女冒険者パーティ」のままで歩き続ける。
「――行くぞ。私たちの旅に、終わりなんて最初からなかったんだからな」
クロエの号令に合わせ、闇を切り裂くように一歩を踏み出したその背中は、どんな神々よりも美しく、そして途方もなく残酷に、永遠の迷宮の奥底へと溶けていくのだった。