登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
そこから、時計の針は途方もない速度で、しかし確実に、失われていった。
百年の歳月が瞬きのように過ぎ、さらにその先――五百年、八百年、そして千年の時が、迷宮の石畳の摩耗と、天井から滴る水滴の音だけで刻まれていった。
かつて自分たちが守り、送り出した孤児たちの血脈は、世代を重ねるごとに数え切れないほどの枝分かれを見せた。
彼女たちとすれ違う冒険者たちは、もう「クロエたちを知る者」ですらなくなっていた。
彼らにとって、この最深部に君臨する六人の女冒険者たちは、かつての「子孫から聞いた祖先の恩人」という枠組みすらとうに超え、この迷宮そのものに組み込まれた「不文凛の自然現象」あるいは「動く神話」へと変貌していた。
幾度もの文明の興亡が地上で繰り返され、いつしか人間たちが語る「元の世界」の記憶――学校のチャイム、鉛筆の匂い、セメントの校庭、あたたかいリビングのテレビの音――すら、六人の脳裏では遠い海底の砂のように沈み、かすかな輪郭しか留めなくなっていた。
けれど、完全に消え去ったわけではなかった。
第50階層、誰も踏み入ることができないはずの最果ての祭壇。
その暗がりの中で、かつての「小学生たち」は、今日も変わらぬ瑞々しい少女の姿のまま、焚き火を囲んでいた。
「……ねえ」
静寂を破ったのは、ムギだった。
その背中で揺れる銀色の尻尾の毛並みは、一千年前と変わらず艶やかで、ふさふさとしている。
彼女は手元に浮かべたホログラムのような複雑な古代魔術の光を指先でいじりながら、ふとぽつりと呟いた。
「私さ、最近思うんだけど……。
私たちの名前、もう人間の歴史の教科書とかじゃなくて、ファンタジーの神話大系の方に載っちゃってるんじゃないかな」
「今更なにを言っているのよ、ムギ」
リリアーネが優雅に足を組み、冷ややかに、しかしどこか呆れたような笑みを浮かべた。
そのエルフ耳は千年前と同じ高慢な美しさを保っているが、その瞳の奥には、数え切れないほどの時間を共にしてきた仲間への、深い、底知れぬ家族愛のような感情が満ちていた。
「地上じゃもう、私たちのことを『世界を支える六柱の守護女神』とか何とか呼んで、勝手に神殿まで建ててる馬鹿な一団がいるらしいわよ。
『慈悲深き聖女』だの『森の女王』だのって……、私たちが給食のプリンを懸けてジャンケンで本気で喧嘩してたなんて、誰も想像できないでしょうね」
「ぎゃははっ、神様だってさ!
あたしが祀られてる神殿の像、なんかやたらと筋肉モリモリの豪快な戦士になってて、見るたびに笑いそうになるぜ!」
ドラガはガハハと豪快に笑い声を上げ、身の丈の何倍もある巨大な斧を片手で軽々と放り投げてキャッチした。
「でも、悪くはないさね。……千年もこうして一緒に暴れ回って、誰も欠けてないんだからさ」
レンは聖なる光を灯した杖を傍らに置き、穏やかな笑みでその光景を見つめていた。
「神様なんかじゃないよ。私たちはただ、帰る場所をなくして、この迷宮にしがみついてるだけの、どうしようもない子供の集まりだもの。
……ただ、ずっと一緒だったってだけ」
ミナは、いつものように実直な片眼鏡をそっと外し、クロスで丁寧に磨き上げながら小さく頷いた。
「……まったく、本当に長い長い旅でしたね。ポーターとして荷車の車軸を何万回修理したことか。
ですが、私たちの荷物の中身は、いつだって『あの日の教室の思い出』と、この不条理で愛おしい仲間たちだけでした」
誰も、老いない。
誰も、死なない。
肉体は永遠の全盛期に縛られ、時間の流れから切り離されたまま、世界が何度生まれ変わろうとも、彼女たちはこの迷宮の底で生き続ける。
元の世界には、もう二度と戻れない。
あの朝、登校途中に引きずり込まれた路地裏の景色も、両親の顔も、今はもう遠い夢のまた夢だ。
けれど、クロエは立ち上がり、腰の短剣の柄にそっと手を触れた。
彼女の三白眼は、かつての少年の怯えの色を完全に脱ぎ捨て、この迷宮のすべてを見通すかのような、圧倒的な美しさと、途方もない深淵の輝きを宿していた。
クロエは仲間たちを見渡し、そして、目の前にどこまでも広がる暗い深淵の回廊へと視線を向けた。
「……行くぞ」
その低く掠れた、懐かしくも神々しい声に、全員が一斉に立ち上がった。
リリアーネが矢を番え、レンが聖光を広げ、ムギが青白い電撃の輪を舞わせ、ドラガが斧を肩に担ぎ、ミナがガタゴトと音を立てる荷車の引き綱をしっかりと握り締める。
かつては学校の隅っこで怯えていた小学生たち。
異世界に呑み込まれ、改変され、絶望し、そして永遠という名の呪いと祝福をその身に引き受けた最強の女冒険者パーティ。
彼女たちは人間を辞め、歴史を抜け出し、やがては誰もが語り継ぐ「神話」そのものになりながらも――その胸の奥底では、今でもあの日のままの無邪気で、少し恥ずかしがり屋な子供たちの心を抱きしめたまま、終わりのない冒険の続きへと歩みを進めていく。
「――私たちの物語に、終点なんて最初からないんだからな」
第50階層の最果ての祭壇、焚き火の微かな明かりを囲んで、いつものように武器の手入れをしていた最中だった。
ふと、ムギが手元の魔導書をパタンと閉じ、退屈そうに銀色の尻尾を揺らしながら口を開いた。
「ねえ。地上じゃさ、私たちが祀られている神殿の神話とかで『六人の女神の永遠の誓い』とか勝手に美化されてるけどさ……。
実際のところ、みんなにとって『結婚』とか『パートナー』って、今さらどういう感覚なわけ?」
その唐突すぎる質問に、リリアーネが弓の弦を引っ張っていた手をピタリと止め、冷ややかに鼻を鳴らした。
「いきなり何を言い出すのかと思えば……。
そんなの、数百年も前に考えるのを辞めた話題じゃないの。私たちが誰かと結ばれるなんて、それこそ生物学的な冗談よ」
「まぁまぁ、そう言わずにさ。
永遠の命を持っちゃった私たちが、これから先の果てしない時間の中で、誰かと寄り添うことについてどう思ってるのかちょっと気になったのよ。
ね、母ちゃんはどう?」
ムギに振られたミナは、磨いていた片眼鏡を布で丁寧に拭いながら、穏やかに首を横に振った。
「私ですか?
ポーターとして幾千もの荷物を見てきましたが……そうですね、人間の結婚というのは、互いの人生の期限――つまり『限りある時間』を共有するための誓約だと私は解釈しています。
しかし、私たちに用意されたのは『終わりのない時間』です」
ミナは少しだけ目を細め、目の前にいる仲間たちを順に見渡した。
「そんな不老不死の化け物と化した私たちが、誰かと軽々しく契りを交わすことは、相手にとってあまりにも残酷な呪いになりかねません。
それに……私の荷車には、すでにこの手のかかる五人のガラクタが満載ですから、他人が入る隙間など最初からないんですよ」
「ちょっと、誰がガラクタよ、誰が!」とドラガが豪快に笑いながらツッコミを入れる。
「でもよ、母ちゃんの言うことも一理あるぜ。
地上じゃあたしたちのことを『慈愛の女神』だの『聖戦の姫君』だのって祭り上げて、あわよくば神託の生贄にでもしようって輩がごまんといるだろ?
そんな連中に『結婚してください』なんて言われたら、即座にこの両手斧で頭突きかましてやるところだ」
ドラガは豪快に胸を張ると、ふっと表情を少しだけ和らげた。
「……まあ、もし万が一、誰かと一緒に暮らすってなったら、毎日の晩酌に付き合えて、あたしのくだらない愚痴を文句言わずに笑い飛ばしてくれて、いざとなったら背中を預けられる奴じゃなきゃ務まらないだろうよ。
……そんな人間、この世界にそうそういるわけねぇけどな」
レンは純白のシスターローブの裾を整え、聖なる光の粒子を指先で遊ばせながら静かに微笑んだ。
「聖職者としての建前で言うなら、神への永遠の奉仕と純潔が求められるところだけど……今の私たちには、神様なんていないしね。
ただ……『誰かと愛し合って、家庭を作って、歳をとって共に老いていく』っていう営みは、私たちが失ってしまった、一番眩しくて羨ましい『普通の人間だけの特権』なんだと思う」
レンの言葉に、焚き火のパチパチと爆ぜる音だけが周囲に響いた。
誰もが、心の奥底でその意味を理解していた。
自分たちは人間を辞め、老いることも死ぬこともない「神話の存在」になってしまった。
だからこそ、普通の人間が当たり前のように行う「結婚」や「家族の形成」は、もう自分たちの手には届かない、あまりにも遠いおとぎ話なのだ。
「……で、最後はリーダーの番よ」
リリアーネが冷ややかな、しかしどこか含みのある笑みを浮かべてクロエに視線を向けた。
「百戦錬磨の最強の女盗賊、そして神話の主であるアンタは、自分の『結婚観』についてどう考えてるわけ?
まさか、いまだにどこかの王子様が白馬に乗って迎えに来る夢でも見てるわけじゃないでしょうね」
クロエは腰の短剣の手入れを止めると、じっと焚き火の炎を見つめた。
その三白眼の奥には、かつての小学生だった頃の記憶――日曜日のテレビドラマで見たような、ありふれた結婚式のワンシーンが、遠い幻影のように微かにかすんでいた。
「……結婚、か」
クロエは低く、掠れた声で呟いた。
「そんなもん、考えたこともねぇよ。あたしたちの日常にあるのは、罠の解除と、魔獣の解体と、次の階層への道行きだけだ。
そもそも、この先を永遠に歩き続けるあたしたちに、『結婚』なんていう区切りやゴールが用意されてるわけがない」
クロエはそこで言葉を切り、ゆっくりと顔を上げた。
その視線の先には、同じように傷だらけで、同じように歪んだ肉体を抱え、けれど千年の時を経てもなお、こうして同じ焚き火を囲んでいる五人の仲間がいた。
「……だけどさ」
クロエはかすかに口元を緩め、どこか照れくさそうに目をそらした。
「わざわざ他人の苗字に変えて、赤の他人と家族ごっこをする必要なんてないだろ。
……もう何百年も前から、あたしにとっての『一番面倒くさくて、一番離れがたくて、一生縁が切れない腐れ縁のパートナー』は、このクソみたいなパーティーの面々だけで十分お腹いっぱいだ」
その言葉に、リリアーネは「っ……、相変わらず口が減らないリーダーね」と顔を赤らめてそっぽを向いた。
ムギは「うわ、クロエのくせにちょっとカッコいいこと言うじゃん!」とケラケラ笑い、ドラガは「おう、それじゃああたしたちは永遠の夫婦ってわけか!」と豪快に笑い飛ばした。
ミナは優しく眼鏡を押し上げ、レンは穏やかに微笑みながら聖光をふわりと広げた。
地上でどれほど神話として祭り上げられようとも。
自分たちがどれほど強大な「化け物」になろうとも。
結婚という世俗の契約など必要ない。
お互いの過去も、恥ずかしい昔の自分も、歪んだ肉体も、すべてを共有したまま、この終わらない迷宮の底で永遠に手を取り合って歩いていく――それこそが、このどうしようもない六人にとっての、唯一にして絶対の「誓い」だった。