登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
第50階層の深奥、永遠の闇に包まれた祭壇の片隅に、いつからそこにあったのか分からない不気味な古代の石碑が佇んでいた。
その表面には、微かに青白い光を放つ紋様が刻まれている。
それは、迷宮を踏破する者たちの心の深淵を覗き込み、かつて彼らが捨ててきた「最も未練のある幻影」を実体化させるという、悪辣な呪術の魔道具だった。
物珍しさからそれに近づいたムギが、ふと足を止めた。
「……ねえ、これ。なんだか変な魔力が流れてるよ」
「触るんじゃないわよ、何が仕掛けられているか分かったもんじゃないわ」とリリアーネが眉をひそめたが、すでにその魔道具は起動していた。
青白い光がふわりと広がり、祭壇の周囲の空気を歪ませる。
そして、闇の中にぽっかりと浮かび上がったのは――千年前、いや、この迷宮に引きずり込まれる直前の朝に置いてきたはずの、懐かしい「リビングの風景」だった。
そこには、テレビの音が流れ、お味噌汁の香りが漂う暖かい食卓があった。
そして、その中央には、若い頃の母親と、仕事鞄を持った父親が、信じられないほど鮮明な輪郭で立っていた。
「……お母さん……?」
レンが震える声でその場に膝をついた。
リリアーネも、ムギも、ドラガも、ミナも、そしてクロエも、息を呑んでその光景から目を離せなかった。
幻影の中の母親は、心配そうな優しい顔でこちらを振り返り、こう告げた。
『透、凛、蓮、麦、葵、湊……。どうしてそんなに遠くに行っちゃったの。もう朝よ、早く学校に行きなさい。お母さん、ずっと待ってるんだから』
それは、百年前も、千年前も、彼女たちの心の奥底でずっと聞こえ続けていた「幻聴」であり、同時に、心の底から求めてやまなかった「本当の家族の温もり」そのものだった。
あの日の朝のまま止まった時間。
もしあの時、違う選択をしていれば。
もしあの門をくぐって、あの日常に戻りさえしていれば――彼女たちは、再び「普通の子供」に戻れたのかもしれない。
魔道具が放つ幻影は、彼女たちの甘い後悔と、底知れぬ郷愁を容赦なく引きずり出し、甘美な毒のようにその精神を侵していく。
(帰りたい)
(あの温かい場所に、もう一度……)
誰もが、ほんの一瞬、そう願ってしまった。
永遠の迷宮の孤独と、神話として祭り上げられる重圧に耐えかねた心の隙間を、その幻影は優しく、しかし確実に埋めようとしていた。
だが。
最初に動いたのは、クロエだった。
彼女は、目の前で微笑む「母親の幻影」をじっと見つめた。
その三白眼の瞳には、かつての少年の涙ではなく、千年の歳月を生き抜いた最強の女盗賊の、冷徹で、そしてあまりにも深い決意の色が浮かんでいた。
「……嘘だ」
クロエの低く掠れた声が、静寂の祭壇に響いた。
「そんなもの、あたしの知ってる現実じゃない」
クロエはゆっくりと立ち上がり、腰の短剣を抜いた。
リリアーネたちが驚いたように彼女を見上げる。
「ちょっと、クロエ……?」
「よく見ろよ」
クロエは冷ややかに笑い、その刃を幻影の母親に向けて構えた。
「あたしたちの母親は、あんな作り物の人形じゃない。それに……あたしたちはもう、あの朝の教室の席には座れねぇんだよ」
もし仮に、あの幻影の向こう側に戻れたとして、何が残るというのか。
今の自分たちは、血と魔力にまみれ、老いることも死ぬこともできない「化け物」だ。
そんな異形の者が、あの暖かいリビングに帰ったところで、家族を怯えさせ、傷つけることしかできない。
何より、自分たちの隣には、この千年の闇を共に駆け抜けてきた、かけがえのない「家族」がいる。
「あたしには、もう十分すぎる家族がいる」
クロエの言葉に、他のメンバーの瞳に宿っていた迷いがスッと消え去った。
リリアーネは静かにロングボウを構え、その矢に魔力を込めた。
「そうね……。私の故郷のエルフの森も、あんな薄っぺらい幻じゃないわ」
「神様気取りの悪趣味な幻影なんて、私の聖光で綺麗に浄化してあげる!」
レンが黄金の杖を力強く突き立てた。
「あたしの帰る場所は、こんな作り物の食卓じゃねぇ! あいつらと騒ぐこの迷宮の底こそが、あたしの家だぜ!」
ドラガが豪快に両手斧を振り下ろす構えをとった。
「まったく、人の心に勝手に入り込んでくる不法侵入者は、ポーターとして容赦なく排除しなくてはなりませんね」
ミナは冷徹な片眼鏡を光らせた。
「ねえ、こんなまやかし見せてくれてありがとね。お陰で、私が選んだ道が間違ってなかったって、心底すっきりしたわ!」
ムギは不敵な笑みを浮かべ、強烈な電撃の魔方陣を展開した。
「――お別れだ、幻のお母さん」
クロエの号令とともに、六人の一斉攻撃が放たれた。
閃光が走り、聖光が爆ぜ、刃が空間を切り裂く。
次の瞬間、目の前に広がっていた暖かいリビングの幻影は、ガラスが割れるように音を立てて粉々に砕け散り、霧のように消え去った。
魔道具の石碑は真っ二つに割れ、二度と二度と元に戻らない沈黙の中へと沈んでいく。
冷たい迷宮の風が、再び彼女たちの頬を撫でた。
そこには、かつての「本当の家族」の温もりはない。
けれど、彼女たちの背中を預け合う五人の仲間――永遠の時間を共に生きる、歪で最強の家族がそこにいた。
涙はもう出なかった。
ただ、胸の奥にあった最後の未練という名の棘が綺麗に抜け落ち、彼女たちの足取りは、これまで以上に晴れやかに、そして力強くなっていた。
「さあ、帰るぞ」
クロエの低い声に合わせ、最強の女冒険者パーティは、振り返ることなく、自分たちの本当の「現在(いま)」へと続く闇の奥へ歩き出した。
石碑の粉々になった残骸を背にして再び歩き出した直後、先ほどまでの神妙でドラマチックな空気は、一瞬にして別の意味での絶望へと塗り替えられた。
「……待って」
リリアーネが急に足を止め、両手で自分の顔を覆ってしゃがみ込んだ。そのプラチナブロンドの髪が震えている。
「どうしたのよ、エルフの女王様」
「違う……あれよ……!」
リリアーネが顔を真っ赤に染め、歯を食いしばりながら呻く。
「さっきの幻影が消える瞬間、脳内に変なデータが混ざり込んできたのよ!
よりによって、私があの家を出る直前に机の引き出しの奥にしまい込んだ……『中二病全開で書いたポエムノート』の記憶が……!」
その一言を皮切りに、クロエ以外の全員が、まるで背中を撃ち抜かれたかのようにその場でガクッと膝をついた。
「嘘……でしょ……?」
レンが純白のシスターローブの裾で顔を隠し、全身を震わせる。
「私、小学生のときに『選ばれし聖なる巫女』とか言って、自作の杖持って近所の公園の茂みで独り言喋ってた黒歴史が……今の浸食のどさくさに紛れて、完璧な解像度で蘇ってきたんだけど……っ!」
「やめろ、それ以上言うな!」
ドラガが両手で耳を塞ぎ、巨体を丸めて石畳に突っ伏した。
「あたしなんて、大好きなアニメの必殺技を一人でリビングで叫びながら、父親のスーツのズボンを被ってファイティングポーズとってた記憶が鮮明に再生されたぞ……!
あんなの公開処刑よりタチが悪い……!」
「あはは、みんな結構可愛いじゃん……って、笑えないわよ!」
ムギが頭の上の銀色の狐耳を自分でペタッと折りたたみ、顔を真っ青にして頭を抱えた。
「私なんて、母が隠していた『ちょっと変な趣味の同人誌』をこっそり読んで、それを学校で友達に熱弁してドン引きされた記憶が……!
なんで今そんな思い出さなきゃいけないのよ……!」
「……皆さん、静かにしなさい」
ミナは片眼鏡を完全に外し、手で目を覆ったまま微動だにしなかった。
「ポーターとしての冷静な判断力をもってしても、あの小学生特有の『万能感と痛々しさがミックスされた羞恥心』の濁流には耐えられません。
私の部屋のベッドの下にあった『誰にも見せられない宝箱』のラインナップが、走馬灯のように駆け巡りました……」
四人がそれぞれ地面を転げ回って悶絶する中、リーダーであるクロエだけは、なぜか青白い顔をしたまま、ピクリとも動かずに固まっていた。
「……クロエ?」
リリアーネが恐る恐る声をかける。
「アンタ、まさか何のダメージもないわけ?」
クロエはゆっくりと首をかしげ、かすれた声で呟いた。
「……ないわけ、ないだろ」
その三白眼は、虚空のどこか一点を見つめ、完全に焦点が死んでいた。
「あたしが小学校のとき、クラスの女子の前でかっこつけようとして、給食の牛乳をわざと鼻から出そうとしたら盛大に気管支に入って、保健室で先生に大泣きしながら背中を叩いてもらった挙句、『牛乳泥棒の透くん』ってあだ名が一ヶ月だけ定着した黒歴史が……この千年の時を超えて、今、完璧に脳内再生された……」
その告白に、それまで悶絶していた他の五人が、すっと動きを止めた。
そして、全員がじっとクロエを見上げる。
「……それ、最強の女盗賊の過去として、かなり致命的じゃない?」
「うるさい! 忘れてくれ! 今すぐあの石碑の破片をかき集めて、二度と思い出せないように粉々にすり潰してやる!」
クロエは顔を真っ赤に染め上げ、腰の短剣を抜くと八つ当たりするように石畳の隙間をガリガリと突き刺し始めた。
魔王を倒した神話の英雄。深層を統べる不老不死の守護女神。
そんな大層な肩書きも、たった一瞬の「実家での恥ずかしい記憶のフラッシュバッック」の前には完全に無力であり、最強のパーティは揃いも揃って、冷汗を流しながらその場で盛大に崩れ落ちるのだった。
クロエが石畳を短剣で八つ当たりするように突いていた手が、ピタリと止まった。
「……待て」
クロエの低く掠れた声に、先ほどまで自分の黒歴史に悶絶していたメンバーが、一斉に顔を上げた。
リリアーネが怪訝そうに眉をひそめる。
「急になによ、クロエ。そんなに牛乳のトラウマを引きずって……」
「そうじゃねぇ」
クロエは冷や汗をにじませた三白眼で、少し離れた場所に座る聖職者の少女をじっと見据えた。
「……レン。さっきお前、自分で何て言った?」
「え……?」
レンは純白のシスターローブの裾を握りしめたまま、きょとんと首をかしげた。
「私……? 『選ばれし聖なる巫女』って、近所の公園で独り言喋ってたって……」
クロエだけでなく、ミナの片眼鏡の奥の瞳が鋭く光った。
「……待ちなさい。レン、あなたの元の性別はなんですか」
「えっ? ……えっと、元は男の子、だよ……ね?」
レン自身が、おそるおそる自分の胸元を押さえた。
「うん、間違いなく男の子だった。……はず、なんだけど……。
でも、私の頭の中には『小学生のとき、近所の神社で巫女のアルバイトをしていた』っていう妙にリアルな記憶が、なぜか混ざってる……?」
その言葉の瞬間、全員の背筋に冷たいものが走った。
「ちょっと待ちなさいよ、それおかしくない!?」
ムギが狐耳をピンと立てて飛び上がった。
「レンは元・4年生の『男子』でしょ!? 神社で巫女のアルバイトなんて、日本の法凛でも年齢的にも性別的にも絶対にありえないじゃん!
なんでそんな記憶が自然に脳内に入り込んでるのよ!」
リリアーネも青褪めた顔で自分の頭を押さえた。
「私の……私のポエムノートの記憶だってそうよ。
確かあの日記には、異世界のエルフの王国を統べる『星詠みの予言』とか、中学生もびっくりのファンタジー設定がびっしり書き殴られてたはずなのに……気づいたら『小学校の家庭科の授業で、なぜかエルフ式の刺繍を完璧にこなして先生に褒められた』っていう、辻褄の合わない記憶がドッキングしてるわ……!」
ドラガもガタガタと体を震わせた。
「あたしだっておかしいぞ……!
アニメの必殺技を叫んでたはずなのに、頭の中じゃ『ドワーフの地下工房で鍛冶の基礎を叩き込まれていた頃の記憶』が、幼少期の思い出として普通に混ざってる……!」
ミナが、ガタガタと音を立てる手で片眼鏡の位置を直した。
「……そういうことですか。私たちの脳は、単に『異世界の記憶』と『現実の記憶』を並べて持っていたわけではないのですね」
ミナの冷徹な分析に、全員の視線が集中する。
「この迷宮に定着してから千年の間、私たちは幾度も死線を潜り抜け、肉体を魔力で固定し、現地の言語や技術を身体に叩き込んできました。
その過程で、脳の浅い層にある『現実の地球での記憶』が、あとから上書きされた『異世界の濃密な実体験』によって……侵食され、都合よく改変されていたのです」
男の子だったはずのレンの脳に、「巫女」という異世界の聖職者としてのルーツが、幼少期の思い出として滑らかに縫い付けられていたように。
私たちが「これが実家の記憶だ」と思い込んでいたもののいくつかは、現実の小学生時代の記憶ではなく、迷宮の魔力と異世界のアイデンティティが作り上げた「都合のいい偽りの記憶」に、巧妙にすり替えられていたのだ。
「……じゃあ、さっきの私たちの恥ずかしい黒歴史も……?」
ムギが絶望的な顔で両手で頭を抱えた。
「あれの半分くらいは、元いた地球の記憶じゃなくて、この迷宮が私たちの精神構造を維持するために勝手に捏造した『偽の恥ずかしい思い出』だったってこと……!?」
「最悪だ……」
クロエは頭を抱え、石畳の上に突っ伏した。
牛乳泥棒の思い出が本物かどうかすら怪しくなってきた。
もしあれすらも迷宮の捏造だとしたら、私たちは一体、どこまでが本当の自分なのだろうか。
神話の英雄。不老不死の守護女神。
そんな大層な存在でありながら、自分たちのルーツであるはずの「記憶」の土台すら、この迷宮の底でドロドロに溶け合い、歪められていたという残酷な真実。
けれど、しばらくの沈黙の後、クロエはゆっくりと顔を上げた。
その三白眼には、動揺を通り越した、どこかすっきりとした開き直りの色が浮かんでいた。
「……まあ、いいさ」
クロエは立ち上がり、短剣を鞘に納めた。
「記憶が改変されてようが、巫女の記憶が混じっていなかろうが、いまここで息をして、このふざけた仲間と生き残っているあたしらは、紛れもなく『このあたしら』だ」
「そうね……。今さら過去の真実なんて暴いたところで、私たちの肉体が人間に戻るわけでもないし」
リリアーネも苦笑しながら立ち上がり、プラチナブロンドの髪を払った。
「巫女だろうがなんだろうが、私の聖女としての回復魔法が本物なら、細かい設定なんてどうでもいいよ!」
レンもふっと笑い、黄金の杖を担ぎ直した。
「そうだぜ! 過去がどう改変されてようと、今日の晩肉が美味けりゃそれで百点満点だ!」
ドラガが豪快に笑い飛ばす。
「まったく、本当に手のかかる記憶の管理ですね。……ですが、ポーターとしての帳簿(データ)には、こうして生き残った私たちの絆だけは正確に記録されていますよ」
ミナが優しく眼鏡を押し上げた。
泥のように混ざり合い、歪められた記憶の澱(おり)を抱えながら。
それでも彼女たちは、自分たちの「今」を肯定するように、力強く前を向いた――。
「……待て」
――クロエのその一言で、再びメンバーの動きがピタリと止まった。
彼女は自分の頭を指でトントンと叩きながら、極めて真剣な、しかしどこか絶望的な目をしていた。
「記憶が改変されているのは確かだ。……だが、さっき思い出したあたしの『牛乳泥棒の黒歴史』。あれのディテール、妙に生々しくないか?」
「……どういうこと?」
リリアーネが怪訝そうに眉をひそめる。
「あの保健室の天井の木目の数、担任の先生のジャージのすり減り具合、あのとき鼻の奥がツンとした痛みのリアルさ……。
あんな絶妙にダサくて、他人に絶対に話せないような解像度の高い恥ずかしさが、ただの『迷宮の都合のいい捏造』で作れると思うか?」
その問いに、全員がハッと息を呑んだ。
「……たしかに」
レンがシスターローブの裾で顔を隠しながら、小声で震え始めた。
「私のあの『選ばれし聖なる巫女』の遊び、役柄はともかく、近所の公園の砂場で、しかもクラスの男子に見られて『何やってんだよレン、キモっ』って言われたあの瞬間……あの時の男子の顔、異世界のファンタジー設定とかじゃ絶対に生み出せない……」
「私の同人誌のタイトルも……!
あんな、誰にも言えないサブカル特有の痛々しいネーミングセンス、いくら魔導回路が優秀でも、この迷宮が自発的に思いつけるはずがない……!」
ムギが頭を抱えて地団駄を踏んだ。
「あたしの父親のスーツのズボンを被ってファイティングポーズをとっていたときの、あの脱衣所の異臭と、母親に目撃されて『お前何やってんだ』って冷たい目で一瞥された絶望の温度……!
あれは捏造なんかじゃねぇ、正真正銘の我が青春の汚点だ……!」
ドラガが石畳に額をすりつけて号泣した。
「私のベッドの下の宝箱に入っていた『あまりに幼稚な妄想が詰まったノート』の鍵の暗証番号……あれ、自分の誕生日に設定してました……」ミナが片眼鏡を落としそうになりながら、絶望に打ち震えた。
つまり、こうだ。
異世界としてのスキルや技術、戦闘の記憶、そして「こういう人間だったはず」というアイデンティティは迷宮の理によって巧妙に書き換えられていた。
だが、「あの地球での、どうしようもなくダサくて、二度と思い出したくない個人の恥ずかしい体験」そのものだけは、魔力の干渉すらもすり抜けて、魂の最深部にオリジナルがそのまま丸ごと温存されていたのである。
神話の英雄。不老不死の守護女神。
地上でどれほど尊い存在として崇められ、何千年の時を経てどれほど強大な化け物になろうとも、彼女たちの根底にある「地球の子供だった頃の圧倒的な黒歴史」だけは、一ミリたりとも劣化せず、完璧な鮮度で彼女たちを呪い続けていた。
「……最悪だ」
クロエは深いため息をつき、その場にぺたりと座り込んだ。
「私たちは、神話の主になっても、永遠の時間を手に入れても、あの日の給食の牛乳泥棒の呪縛から一生逃げられないってわけか……」
「もうやめて、これ以上そのワードを出さないで……!」
リリアーネが耳をふさいでうずくまり、他のメンバーも次々と崩れ落ちた。
誇張された伝説の裏側にあるのは、どうしようもなく生々しい、地球の子供たちの情けない足跡。
最強の女冒険者パーティは、深層の冷たい石畳の上で、千年の時を超えてなお、自分自身の黒歴史の破壊力に完敗して赤面し続けるのだった。
「……ってことはよ」
ムギが両手で耳をぺたりと伏せたまま、青白い顔で仲間の顔を次々と見回した。
「私たちの『かっこいい冒険者の記憶』や『エルフやドワーフとしてのルーツ』は、この迷宮が都合よく植え付けた偽物――つまり、私たちの精神が崩壊しないようにするための防衛用のハッタリみたいなものってことよね。
でも、あの黒歴史だけは一切の妥協なしで本物って……この迷宮、そこだけ妙に性能良すぎない!?」
「性能がいいというか、悪趣味の極みだろ……」
ドラガが両手斧の柄に額を押し付けたまま、ぶるぶると言葉を絞り出した。
「よりによって、あの数ある記憶の中から、わざわざ一番人に見られたくない恥ずかしい瞬間だけをピンポイントで未練タラタラに残すとか、このダンジョン、絶対私たちの脳の構造を観察して笑ってるぜ……!」
ミナはガタガタと震える手で片眼鏡のフレームを押し上げ、冷徹なポーターとしての仮面を必死に取り戻そうとしていた。
しかし、その頬の赤みは一向に引く気配がない。
「……ですが、これで一つだけジグソーパズルのピースが噛み合いました」
ミナの声は震えていたが、その眼差しには妙な納得の色があった。
「私たちがなぜ、千年も前の地球の暮らしのディテールをあそこまで鮮明に覚えていながら、肝心の自分の本名や家族の顔を少しずつ忘れていっているのか。
それは、脳のストレージが『どうでもいい壮大な異世界の記憶』で圧迫され、本当に大事な現実の記憶が隅に追いやられていたからではなく……むしろ逆だったのです」
要するに、こうだ。
迷宮は、彼女たちが「異世界の高ランク冒険者」として精神を保ち、過酷な深層を生き抜くために、カッコいい戦闘スキルやそれっぽいエピソードを大量にインストールしてくれた。
だが、人間の精神の根っこにある「あのときの痛烈な恥ずかしさ」という強烈な自我の刻印だけは、どんなに高度な魔力や迷宮のシステムであっても上書きしきれなかった。
結果として、表面は「神話の守護女神」「最強の女冒険者パーティ」という壮麗な虚構で塗り固められながらも、その下地には「牛乳泥棒」「変なポエム」「不審なファイティングポーズ」といった剥き出しの黒歴史が、新品同様の輝きを放ったままこびりついているという、あまりにも歪な構造が完成していたのである。
「……なんか、自分たちの尊厳がだんだん分からなくなってきたわね」
リリアーネが脱力したようにロングボウを床に立てかけ、ふっと自嘲気味に笑った。
「私たちが何百年も前に『森の深淵の女王』とか気取って仁王立ちしていたあの夜も、脳内では中二病ノートの恥ずかしいフレーズがリフレインしてたかもしれないわけ?」
「やめろリリアーネ! それ以上想像させるな、私の聖なる巫女としての威厳が音を立てて崩れていく……!」
レンが耳を塞いで頭をぶんぶんと振った。
だが、不思議と絶望感はなかった。
もし仮に、自分たちの過去が迷宮の魔力でいくら書き換えられていようとも、もし仮に、今自分たちが纏っている強さがすべてこのダンジョンの作り物であったとしても――あの「どうしようもなくダサくて、今思い出しても消えたくなるような黒歴史」だけは、紛れもなく「かつて地球のどこかで、確かに息をしていた普通の小学生だった自分たち」の証拠そのものなのだから。
クロエは、ふっと息を吐き出すと、これ以上ないほど晴れやかな、しかしどこか悪戯っぽい三白眼を仲間たちに向けた。
「……まあ、いいさ」
クロエは腰の短剣をカチリと音を立てて鞘に収め、おもむろに立ち上がった。
「神話の英雄だろうが、不老不死の守護女神だろうが、中身が全員『昔やらかした黒歴史を抱える痛い小学生』だってことが分かったなら、むしろ気が楽だ。
いまさら上品ぶる必要もねぇだろ」
その言葉に、リリアーネがくすっと笑い、レンが小さく肩の力を抜いた。
ムギは狐耳を機嫌よさそうにピクピクと動かし、ドラガは「それもそうだな!」と豪快に膝を叩き、ミナはれっきとしたポーターの微笑みを浮かべて荷車の引き綱を握り直した。
隠すべきかっこいい過去なんて最初からなかった。
あるのは、歪んだ記憶と、剥き出しの黒歴史と、そして千年の時間を共に駆け抜けてきたどうしようもない絆だけ。
「行くぞ、お前たち」
クロエの低い、けれど圧倒的な輝きを帯びた号令に合わせ、最強にして最芳(ほう)の黒歴史を背負った女冒険者パーティは、新たな笑い声を響かせながら、どこまでも続く迷宮の闇へと再び歩みを進めていくのだった。