登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
果てしない宇宙と迷宮の境界線を歩み続けていたはずの足が、ふと、奇妙な感覚に捕らわれた。
石畳の冷たい感触が、ふわりと柔らかい「アスファルト」のそれに変わる。
天井を覆っていた終わりのない闇の代わりに、目が眩むほどの青空が頭上に広がっていた。
そして、どこからともなく聞こえてきたのは、微かに風に揺れる街路樹のざわめきと――遠くで鳴り響く、聞き覚えのある「キーンコーンカーンコーン」という学校のチャイムの音だった。
「……は?」
クロエが思わず足をとめ、目をしばたたかせた。
腰の短剣に手をかけようとしたが、そこにあったはずの錆びた革の鞘は消えており、代わりに指先が触れたのは、なぜか見慣れた紺色のブレザーのポケット布だった。
周囲を見回す。
そこは、あの日の朝、見知らぬ路地裏に迷い込む直前に通り過ぎたはずの、ごくありふれた通学路だった。
青々とした街路樹、すれ違う制服姿の中高生たち、自転車のベルの音、そしてコンビニの自動ドアが開く音。
「ちょっと、嘘でしょ……?」
隣で声を発したリリアーネのプラチナブロンドは消え失せ、代わりに光を受けて艶やかに輝く普通の黒髪のロングヘアが、風にサラリと揺れていた。
彼女は自分の手を広げ、呆然と見つめている。その耳は、先ほどまでの長いエルフ耳ではなく、ごくありふれた人間の耳に戻っていた。
「私の魔力回路が……! ない!? ただの、普通の、運動不足の女子高生に戻ってる……!」
ムギ――ではなく、ただの「麦」が、頭の上を慌てて両手で抑える。もちろん、そこに生えていたはずのふさふさの銀色の狐耳は跡形もなく消えていた。
「おい嘘だろ、あたしの斧はどこだ!? 荷車は!? って、なんだこの……!?」
ドラガ――葵は、自分の見違えるほど華奢になった両腕を見下ろして、その場でひっくり返りそうになっていた。
「聖職者の祈りも、光の粒子も出ません……。ただの、朝の寝癖がひどい普通の女子生徒です……」
レン――蓮が、自分の制服のスカートの裾を情けなそうに引っ張る。
「ポーターとしての帳簿も、片眼鏡もありません。……ですが、私の脳内にあるこの大量の文房具のレシートの記憶は、妙に鮮明ですね」
ミナ――湊が、小さくため息をつきながら自分の頭を押さえた。
千年をも超える歳月。
老いることも死ぬこともない神話の存在となり、迷宮の深淵を永遠に彷徨い続けるはずだった彼女たちは、ある日突然、何の予兆もなく、あの日の「元の世界」の日常へと放り戻されていた。
ポケットを探ると、スマートフォンが振動した。
画面には、見慣れた文字で「午前7時45分 遅刻注意」の通知が光っている。
失われたはずの日常。
家族の温もり、普通の学校生活、テストの不安、そして、誰に笑われることもない「ただの子供」としての時間。
全員が、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
あれほど絶望し、あの世界から引き裂かれ、泥を這いずり回るようにして生き抜いた日々。
そのすべてがまるで、長すぎる悪夢だったかのように、一瞬で消え去ったかのように。
けれど。
ふと、六人の視線が交差した。
制服の着こなしがどこか怪しいクロエ。
前髪のセットを気にしているリリアーネ。
寝癖を必死に直そうとしているムギ。
大股で歩こうとして自分のローファーの歩幅に戸惑っているドラガ。
眼鏡の代わりに伊達メガネを指で押し上げるレン。
すでに鞄の中に余計な飴ちゃんをたくさん詰め込んでいるミナ。
彼女たちの脳裏には、迷宮の底で積み上げた果てしない年月、共に流した涙、そして――あのどうしようもなく恥ずかしい「小学生時代の黒歴史」が、驚くほど鮮明に焼き付いていた。
体はあの頃の若さに戻っていても、中身は千年の修羅場をくぐり抜け、互いの黒歴史もすべて握り合った「最強の腐れ縁」のままだった。
「……なんだこれ」
クロエは小さく息を吐き、そして、どこか呆れたような、しかし最高に据わりのいい笑みを浮かべた。
「神話の女神のままでいるより、こっちの方が圧倒的に面倒くさそうじゃねぇか」
「本当よ! 私、今日の午後さっそく数学の小テストがあるっていう記憶が蘇ってきて、今それどころじゃないんだけど!」
「あはは、じゃあ私たちが放課後に買い食いするプリンの代金、全員分の計算は母ちゃんに任せるね!」
「誰が母ちゃんだ、私は普通の小学生だ!」
「よし、それじゃあ遅刻するから走るぞお前ら! 朝から全速力でダッシュだ!」
誰も振り返らなかった。
もう迷宮の闇はない。そこにあるのは、どこまでも青い現実の空と、それぞれのカバンを揺らしながら並んで歩き出す、六人の少女たちの影だった。
不条理な運命に翻弄され、神話になりかけ、それでも最後には笑い合って戻ってきたこの日常で。
彼女たちの、終わらない「本当の青春」が、今度こそここから始まろうとしていた。
事の発端は、透(クロエ)が何気なく発した一言だった。
「……なぁ。お前ら、なんかこう……服のサイズというか、体のバランスに違和感感じねぇか?」
透が自分の制服のブレザーの胸元をぎゅっと掴み、青ざめた顔で仲間たちを見回す。
その整った顔立ちは、かつて迷宮の深層を凍らせた最強の女盗賊・クロエの面影をどこか宿しながらも、今や完全に「女子高生の制服」に包まれていた。
「違和感って、なにを……」
怪訝そうに眉をそびやかした凛(リリアーネ)が言いかけたとき、隣に座っていた蓮(レン)が、自分のスカートの裾をひきつった顔でまくり上げ、そして絶叫した。
「――っ、ちょっ、待って待って待って待って!!?」
蓮のその尋常ではない声に、全員の視線が一斉に集まる。
蓮は自分の胸元と、下半身を交互に見下ろし、顔面を真っ青に染め上げてガタガタと震え出した。
「なんで……! なんで私の制服、スカートなの!?
いや、女子の制服を着てるのはいいとして、私の体、中身が完全に……! 元に戻ってない!?
私、元は男の子だったよね!? なんで物理的に女子の体になってるのこれ!!?」
「は……?」
透(クロエ)もまた、慌てて自分のブレザーの胸元に手を突っ込み、そして言葉を失った。
「嘘だろ……? あたしだって……! 心は完全に男だったはずなのに、なにこの……ふざけた丸みと柔らかさは……!?」
「待って、ちょっと私も確認する……!」
湊(ミナ)も焦った様子で自分のランドセルから手鏡を取り出し、その顔を覗き込んだ瞬間、石のように固まった。
「……私の骨格、完全に人間の女性のものです。
ポーターとしての筋肉のつき方も、当時の肉体バランスもすべて『女性のそれ』として最適化されています……。
これ、元の性別に戻っているわけではありませんね」
「ええーーっ!? じゃあ私たち、中身が元男の子なのに、体は完全な女子高生(中学生)ってこと!?」
パニックを起こした蓮と透の横で、凛(リリアーネ)は呆れ果てたように深く深くと息を吐き出し、額に手を当てた。
「……アンタたちねぇ。何をいまさら大騒ぎしてるのよ」
「いや大騒ぎするだろ! 自分の体が勝手にメスになってるんだぞ!?」
透が半泣きでツッコミを入れると、凛は冷ややかに鼻を鳴らした。
「よく考えなさいよ。私たちが千年間引きずってきた肉体は、あの迷宮の魔力で構築された『最強の女冒険者パーティ』のそれよ。
たとえ日常に戻ったからって、魂のベースが勝手に元の男子の体に引っ越せるわけないでしょ。
むしろ、この制服を着られているだけでも奇跡だと思いなさいよ、このバカども」
「そ、そんな冷静に片付けられるかよ……!」
蓮が頭を抱えてしゃがみ込む。
「私、中学校で男子トイレに入ろうとして危うく変態扱いされるところだったんだぞ……! どうすんだよこれ……!」
「あははははっ! 最高じゃんそれ!」
腹を抱えて大爆笑したのは、麦(ムギ)だった。麦は自分のパーカーのポケットに手を突っ込み、ケラケラと笑い転げている。
「いいじゃん、元男子チームの女子力アップ大作戦だよ! 今度からスカートの履き方教えてあげるから安心しなよ、先輩たち!」
「笑い事じゃないわよ、ムギ!」と蓮が真っ赤になって怒鳴り返す。
その横で、葵(ドラガ)は自分の華奢になった両手をじっと見つめ、別の意味で頭を抱えてぶるぶる震えていていた。
「……あたしさ、元女子だから性別の問題はクリアしてるけどさ……」
葵の目が、絶望に潤んでいた。
「なんだこのスルメみたいな細い腕は……! あたしの愛用していた重さ数百キロの両手斧はどこだ!?
こんな細い腕じゃ、クラスの掃除の時間に机を持ち上げるだけで筋肉痛になるぞ……!
ドワーフの屈強な筋肉と、あの分厚いプレートメイルの重厚感はどこに置き忘れてきたんだよ……っ!」
「葵、落ち着きなさい。ここは戦場ではなく日本の学校です」
湊(ミナ)がいつの間にかノートとペンを取り出し、冷静な分析を始めていた。
片眼鏡(はないけれど、指でその位置を押し上げる癖は抜けていない)をクイッと動かす。
「データとして整理しましょう。
第一に、私たちの肉体は、異世界で獲得した『女冒険者としてのステータスと肉体構造』をベースに再構築されています。
第二に、元男子である透さん、蓮さん、湊(私ですね)の魂や精神に対し、肉体側のジェンダーデータが強制的に上書き、あるいは固定されている状態です。
第三に、葵さんのような元女子であっても、ドワーフの超重量級の筋力が失われたことで、現代生活における『物理的な物足りなさ』という深刻な離脱症状が発生しています。
つまり――」
湊は真剣な顔で、全員を見回した。
「私たちは、元の平和な日常に戻ったと見せかけて、その実、『中身と肉体の設定が盛大にバグったままの、史上最強で最悪にめんどくさい女子チーム』として放り込まれたということです」
その冷静すぎる分析に、その場にいた全員が絶句した。
夕暮れの風が、制服のスカートをひらりと揺らす。
元・最強の女冒険者パーティ――の、中身が男だったりドワーフだったりするポンコツたちは、ベンチに並んで座り、揃いも揃って深い深いため息をつくのだった。
「……まあ、いいさ」
透(クロエ)が一番最初に立ち上がり、ブレザーのボタンを無理やりきっちり留め直した。
「どんな体になろうと、今日から私たちがこの学校で生き残らなきゃいけない事実は変わらねぇんだ。
……行くぞ、お前たち。まずは明日の、女子としての新しい登校ルートの確認だ」
「うわぁ、なんかすごく前途多難……!」
頭を抱える蓮を引っ張りながら、元・小学生たちは、夕暮れの街へとそれぞれの足で歩き出すのだった。