登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
夕暮れの茜色がアスファルトを長く引き延ばす放課後、高校の校門を抜けた透(クロエ)の耳に、聞き覚えのある朗らかな笑い声が飛び込んできた。
「だからさ、杏奈、今日のシュークリーム一個あげるって!」
「えっ、明くん、ほんとに?」
チャリチャリと軽快なペダルの音とともに通り過ぎていったのは、健康的に日焼けしたサッカー部のユニフォーム姿の男子――南部明だった。
その傍らを、黒髪のショートカットを揺らしながら小走りでついていくのは、小学生時代に明と同じ登校班だった一年後輩の本橋杏奈だ。
二人は最近付き合い始めたばかりらしく、杏奈の頬は夕日とは違う赤みに染まり、見上げる明の顔は誇らしげに緩みきっていた。
透の足が、ぴたりと止まった。
(……南部、か)
脳裏の奥底で、かつての記憶がパチリと音を立てて噛み合う。
千年間、迷宮の深層で魔獣の血煙を浴び続け、神話の女神として祭り上げられていた「クロエ・セージ」の仮面の下で、かつての桐生透――小学6年生の給食当番だった少年の意識が、チクリと痛んだ。
南部明。
小学校の頃、同じクラスで、サッカーボールを追いかけて校庭を縦横無尽に走り回っていた活発な奴だ。
あの頃の明は、いつもすり傷だらけの膝で「透、一緒にサッカーやろうぜ!」と笑いかけてきていた。
(まさか、あんな風に後輩と恋人同士になって、青春のど真ん中を歩いてるなんてな……)
自嘲気味に息を吐きかけたその時、自転車を止めた明が振り返り、こちらに気づいた。
「おっ、桐生じゃん!」
明は爽やかな笑顔を浮かべ、サッカーボールを脇に抱えたまま、テキパキとした足取りでこちらに近づいてくる。
そのまっすぐな瞳には、千年の迷宮の闇も、血塗られた伝説の影も微塵も映っていない。
そこにあるのは、ただの「高校2年生のクラスメイト」を見る色なき眼差しだけだった。
「よお、南部。部活帰りか?」
「おう! 今日はシュート練習がイマイチでさ、ヘトヘトだわ。お前は? 図書室帰り? 相変わらず真面目だなー」
明が気さくに透の肩をポンと叩く。
その瞬間、透の身体が条件反射でピクリと硬直した。
かつてのクロスボウの奇襲や、アサシン系魔獣の不意打ちを警戒する「盗賊の反射神経」が、無意識に危険回避の姿勢をとらせかけたのだ。
だが、目の前にあるのは殺気ではなく、汗と青春の匂いだけだった。
「……あ、あの、桐生先輩、こんにちは!」
少し遅れて追いついた杏奈が、ペコリと頭を下げる。
透は慌てて表情を引き締め、高校生らしい(しかしどこか整いすぎた)笑みを貼り付けた。
「ああ、こんにちは、杏奈ちゃん。……二人とも、仲が良いんだな」
「えへへ……」
杏奈が顔を真っ赤にして明の腕をギュッと掴み、明も照れくさそうに頭をポリポリと掻いた。
「いやー、こいつ、最近ようやく俺の気持ちを受け入れてくれてさ。登校班の頃から知ってるけど、高校に入ってから一段と可愛くなっただろ?」
「ちょっと、明くん! そんなところで惚気ないで!」
眩しい。
あまりにも眩しすぎる。
千年の間、老いることもなく、生と死の境界線を彷徨い続け、神話の主として祀り上げられた自分たちには、もう二度と戻れないと思っていた「普通の人生の続き」。
あの時、同じ登校班で並んで歩いていた子供たちが、こうして時間を止めずに成長し、恋をし、未来へ向かって真っ直ぐに歩んでいる。
透の胸の奥で、千年前の「小学生の自分」と、今の「女子高生の制体裁を纏った中身・元少年の自分」が、ぐにゃりと歪むような奇妙な切なさを生み出した。
「……いいじゃねぇか。お似合いだよ、二人とも」
透がそう言うと、明はニッと白い歯を剥き出して笑った。
「だろ!? ありがとよ、桐生。お前もたまには部活見に来いよ、マネージャーでも大歓迎だぜ!」
「……いや、私はいいよ。見るより、こうして遠くから眺めてる方が性に合ってるからさ」
「なんだよそれ、相変わらずクールだなー。じゃ、俺たち寄り道していくから! また明日な、桐生!」
「うん、また明日」
明と杏奈が手を振りながら、夕暮れの商店街の方へと駆けていく。
その背中が見えなくなるまで、透はその場に立ち尽くしていた。
ため息ひとつ。
ポケットに突っ込んだ手の中で、実家の鍵をぎゅっと握り締める。
自分が男の魂を持ちながら女子高生の制服に包まれていること。
千年の迷宮の記憶と、どうしようもない牛乳泥棒の黒歴史が頭の中でごちゃ混ぜになっていること。
そんな「誰にも言えないバグ」を抱えたまま生きる自分にとって、明たちの見せるあまりにも健康的な日常は、残酷なほど眩しく、そして不思議と心地よかった。
「……さてと」
透はブレザーのボタンをしっかりと留め直すと、夕日に染まる帰り道へと再び歩き出した。
伝説の女盗賊はもういない。
そこには、自分の足で一歩ずつ明日へ向かう、一人の高校生がいただけだった。
放課後の図書室。窓から差し込む茜色の陽光が、静まり返った書架の間を美しく切り取っていた。
神崎凛――かつて異世界で『美しきエルフの狩人リリアーネ』として千年の時を疾走した少女は、返却棚の整理をしながら、ふと文庫本の背表紙に映る自分の顔を見つめた。
プラチナブロンドの長髪と尖ったエルフ耳は消え去り、そこにあるのは黒髪を端正なポニーテールに結い上げた、ごく普通の高校1年生の姿だ。
「凛ちゃん、その棚の整理終わった? 一緒に帰ろ!」
書架の陰からひょっこりと顔を出したのは、同じ図書委員でありクラスメイトの本橋杏奈だった。
スラリとした平均的な体躯に、今日は上品なハーフアップに整えられた黒髪がよく似合っている。
杏奈は本を読むのが大好きな世話焼き気質で、凛が転校(という体の帰還)をしてきてから何かと気にかけてくれる大切な友人だ。
「ええ、ちょうど終わったところよ、杏奈」
凛が柔らかく微笑むと、杏奈は嬉しそうに目を細め、ふたり並んで静まり返った校舎の廊下へと歩き出した。
「ねえねえ、今日の私の髪型、どうかな?
昨日のポニーテールも捨てがたかったんだけど、今日はなんとなくハーフアップの気分だったんだよね~」
「とても似合っているわよ。杏奈は髪型へのこだわりが強いものね。
どちらも素敵だけど、今日のハーフアップはなんだか大人っぽくて特別感があるわ」
「ふふ、鋭い! 実はね……放課後、明くんと待ち合わせしてるの!」
杏奈は頬をほんのり桜色に染め、鞄の紐をぎゅっと握りしめた。
南部明。
1年先輩のサッカー部員であり、かつて小学生時代には杏奈の登校班の班長だった男の子。
最近、二人が付き合い始めたという噂は凛の耳にも届いていた。
「……そっか。南部先輩と」
凛の脳裏に、千年前の記憶がふわりと掠める。
かつて迷宮の深層で、極上のロングボウを構え、数々の魔獣を冷徹に射抜いていた『森の深淵の女王』としての冷ややかな眼差し。
……だが、いま胸の奥を突き刺すのは、そんな大層な伝説ではなく、「かつて自分が『森のエルフの王女』だと本気で信じ込んで自作のポエムノートに書き殴っていた頃の痛烈な黒歴史」だった。
(あの頃の私は、登校班のうしろを歩きながら『私は人間に化けたエルフだから、彼らとは相容れない運命なの……』とか真顔で思ってたのよね……死にたい……)
凛が心の中で盛大に頭を抱えていると、校門の近くでサッカーボールを腕に抱えた明が、爽やかな笑顔で手を振っているのが見えた。
「杏奈ー! おーい!」
「あっ、明くん! ……凛ちゃん、明くん、もう来てた!」
杏奈はぱっと顔を輝かせると、小走りで明のもとへと駆け寄っていく。
ハーフアップの髪が夕風になびくその瞬間、凛の眼には、杏奈がまとっている「ただ一人の大好きな人に向けられた圧倒的なヒロイン感」が鮮烈に映し出された。
(な……なにこの、圧倒的な『本物のヒロイン』オーラは……!?)
凛は思わずその場に凍りついた。
エルフの女王だの、神話の守護女神だの、勝手に地上で祭り上げられていた自分たちの過剰な美化とは違う。
目の前にあるのは、現実の、等身大の、輝かしい「青春の甘酸っぱい物語」そのものだ。
「よお、神崎も一緒か! 杏奈がいつも世話になってるな」
明が気さくに笑いかけてくる。
その健康的な笑顔には、迷宮のドロドロした血煙も、異世界の理不尽な宿命も一切存在しない。
「もう、明先輩! 凛ちゃんはお世話をしてくれてる方ですー!」
「ははっ、そっか! サンキュな、神崎!」
「……いいえ、どういたしまして」
凛はなんとか「冷酷にして美しきエルフ」のメッキが剥がれないよう、必死で上品なお姉さん風の微笑みを張り付けた。
だが、その内面では心の中の女子小学生が床を転げ回って叫んでいた。
(眩しい……っ! 眩しすぎて目が潰れる……!!
私なんて『孤高の狩人』気取って弓を射ちまくってたのに、現実の同級生たちはこんなにも健康的に恋をして、髪型ひとつで一喜一憂して、本物の甘い青春を送ってるなんて……っ!!)
自分が異世界で積み上げてきた千年の孤独と、中二病全開の黒歴史。
目の前で繰り広げられる、本橋杏奈という一人の少女の、瑞々しくも完璧な「日常のドラマ」。
「凛ちゃん? どうしたの、ぼーっとしちゃって」
杏奈が不思議そうに覗き込んでくる。
そのハーフアップの毛先が、夕日に透けてとてもきれいだった。
「ううん、なんでもないわ。二人とも、本当に仲が良くてお似合いね」
凛はふっと息を吐き出し、胸の前でそっと手を組んだ。
「杏奈、明先輩。……どうか、お幸せにね」
「えっ!? 凛ちゃん、急に何のお祝い!? 早いよー!」
杏奈が顔を真っ赤にしてパタパタと手を振り、明が「ハハハ!」と大笑いする。
夕暮れの街路樹の下、仲良く並んで歩き出す二人を見送りながら、凛は静かにポニーテールを整え直した。
神話のエルフの女王はもういない。
ここにあるのは、痛々しい黒歴史を抱えながらも、友人たちの眩しい日常を少しだけ羨ましく、そして温かく見守る、一人の高校1年生の放課後だった。
「……さて。帰ったら、昔のノートを完全に破棄する方法でも考えようかしら」
凛は自嘲気味に呟くと、二人の背中に負けないよう、背筋をぴんと伸ばして自分の家路へと歩き出した。
中学校の校庭を包む夕映えの中、放課後の部活の声や部員の靴底がグランドを擦る音が、心地よい余韻のように響いていた。
日向蓮――かつて異世界で『聖者レン・アルカディア』として、純白のローブを纏い神聖な光を放っていた元・男子小学生は、昇降口の影で深く深いため息をついていた。
中身はどこからどう見ても、昔公園で秘密基地を作って暴れ回っていた元気な少年。だが、手繰り寄せた制服の裾は、虚しくも紺色のひだスカートだ。
(マジでどうすんだよこれ……。男子だった記憶はあるのに、体は完全に女子だし……。昔の知り合いに見つかったら一発で終わりじゃん……)
カバンを肩にかけ直し、目立たないようコソコソと校門へ向かって歩き出した、その時だった。
「んあ~? あれ~? もしかして、蓮ちゃんじゃない~?」
背後から届いた、どこか間の抜けた、けれど聞き覚えのありすぎるのんびりとした声。
蓮の背筋が、氷水を流し込まれたみたいにピキッと硬直した。
おそるおそる振り返ると、そこには背が高く、ガッチリとした骨格をした男子生徒が立っていた。
伸ばしかけの柔らかいくせ毛を夕風に揺らし、ヘラヘラとした「あはは~」という能天気な笑顔を浮かべている。
綾部茂。
かつて小学校時代、蓮と一緒に泥だらけになって公園の木に登り、近所の犬に吠えられては二人して半泣きで逃げ回っていた、一番の「悪ガキ仲間」だった男だ。
「し、茂……!?」
思わず叫びそうになり、蓮はあわてて口を押さえた。
声が高く、柔らかい女子のトーンで響いたことに自分で自分にショックを受けながら、後ずさりする。
「やっぱり蓮ちゃんだ~! あはは~、久しぶりだね~!」
茂は全く悪気のない大雑把な足取りで距離を詰めると、何の警戒心もなく蓮の肩をぽんと叩いた。
だが、その力加減は、部活で鍛えられた男子中学生のそれだ。
今の華奢な女子の体になった蓮の肩が、ガクンと大きく揺れる。
「っ痛ぁ!? お前、力強すぎんだよ茂……!」
「え~? ごめんごめん~、嬉しくってさ~」
茂はくせ毛をわしゃわしゃと掻きながら、つくづく感心したように蓮の顔を上から下までじろじろと覗き込んできた。
「いや~、ビックリしちゃったよ~。小学校のとき急にいなくなったからさ~、ボク、すっごく寂しかったんだよ~?
なのに、久しぶりに会ったら……なんか、すっごい可愛い女の子になっちゃってるんだもん~」
「かわっ……!? べ、別に可愛くねぇよ! っていうか、違うんだ! これは不可抗力というか、迷宮のバグというか……!」
焦りまくって支離滅裂な弁明をかます蓮に対し、茂は「あはは~、何言ってるのかさっぱり分からないよ~」と、のほほんと首をかしげている。
(だめだ……! こいつ、相変わらずマイペースすぎて話がまったく通じねぇ……!)
蓮の脳裏に、かつて異世界で繰り広げた数々の戦闘の記憶が駆け巡る。
『聖女レン』として神聖なる光の障壁を張り、仲間を癒やし、数多のアンデッドを浄化してきたあの荘厳な日々。
あの頃の自分なら、こんなのんびりした中学生の一人や二人、神の威光(?)で黙らせることくらい造作もなかったはずだ。
だが、今の目の前にあるのは――自分をかつて「悪ガキ仲間」として対等に扱ってくれていた、眩しいほどにまっすぐな友達の笑顔だった。
「……なぁ、茂。お前、俺……じゃなくて私と、また昔みたいに遊べると思ってんのかよ? 私、こんな体になっちゃったし……」
少し俯きながら、蓮が小さく呟く。
男としての自分を失い、女子の制服を着て、異世界で神聖な『聖女』なんていうわけのわからない存在として千年も過ごしてしまった自分。
もう、昔みたいに泥だらけになって笑い合える「蓮くん」には戻れないのではないかという、胸の奥をキュッと絞めつけるような寂しさ。
すると、茂は「ん~?」と間抜けな声を出すと、自分の大きな手を蓮の頭の上にポカンと乗せた。
「なに言ってるの~? 蓮ちゃんは蓮ちゃんでしょ~?」
「え……?」
「髪の毛が伸びててもスカート履いててもさ~、ボクに向かって『痛ぇだろ!』って怒る顔、昔とぜんぜん変わってないよ~? あはは~」
茂はそう言って、悪戯っぽく笑った。
「ボクね~、また蓮ちゃんと放課後に買い食いしたりさ~、公園でくだらない話したりしたいんだ~。
『女子になったから絶交~』なんて言わないよ~? ボクたち、ずっと友達でしょ~?」
「……っ」
夕陽が、蓮の視界をじんわりと赤く染め上げる。
千年間、迷宮の深層で「慈悲深き神託の聖女」として崇められ、崇高な存在として祭り上げられていた自分。
けれど、この目の前の悪ガキ仲間は、そんな神話の化けの皮なんて一瞬で見抜き、ただの「ちょっと変わった幼馴染の蓮ちゃん」として、当たり前のように隣に立ってくれているのだ。
胸の奥に詰まっていた重苦しい塊が、すっと溶けていくような気がした。
(……なんだよ、それ)
蓮は照れくささを誤魔化すように、ふいっとそっぽを向いた。けれど、その口元は抑えきれずに、どこか嬉しそうに緩んでいた。
「……当たり前だろ、バカ。絶交なんてするかよ」
「やった~! じゃあさじゃあさ~、さっそく途中の駄菓子屋でブタメン食べていこうよ~! ボク、今日お小遣いあるんだ~!」
「おい、買い食いしたら先生に怒られるぞ! ……まあ、一回くらいなら付き合ってやるけど!」
「あはは~、やった~!」
伸ばしかけのくせ毛を跳ねさせながら前を走っていく茂の背中を追いかけて、蓮は制服のスカートをなびかせながら走り出した。
『選ばれし聖なる巫女』という痛々しい中二病の過去も、男から女子になってしまった盛大な肉体のバグも、全部抱えたままでいい。
自分を自分として受け入れてくれる仲間がいるこの日常で、元・聖女の少年の青春は、やっぱり最高に騒がしく、そして愛おしいものだった。
放課後の第二理科準備室。薄暗い室内には、オイルとハンダの匂い、そしてガチャガチャと金属が触れ合うせわしない音が満ちていた。
「んん~っ! なんでここが外れないかなぁ……! あとちょっとでこのラジオの構造が完全に解明できるのにっ!」
ドライバーを手に格闘していたのは、ショートボブの前髪をカラフルなピン留めで適当に固定した小柄な少女――城之内順子だった。
勉強はさっぱりだが、機械と見ればドライバーを持ち出して分解せずにはいられない、クラスの名物「無鉄砲な機械好き小動物」だ。
「順子……それ、ネジじゃなくて裏蓋の爪(ツメ)を無理やりこじ開けようとしてるから引っかかってるのよ。説明書見なさいってば」
呆れた声をかけながら棚から試薬瓶を戻していたのは、狐塚麦だった。
頭の上のふさふさの狐耳も、青白い電撃を放っていた指先も、現代の女子中学生の姿にはどこにもない。
だが、千年の間『多重詠唱のムギ』として古代魔導回路の解読に没頭してきた知識と、理科室の機材に対する圧倒的な手際の良さは、完璧にその身に刻み込まれていた。
「えっ、爪!? どれどれ……うわっ、ほんとだ! ムギちゃんすごーい! なんでそんなパッと見ただけで分かるの!?」
順子は目を丸くし、短く切った爪でパチンと音を立ててラジオのプラスチックケースを綺麗に分解してみせた。
「すごいも何も、構造の基本理屈は一緒だから……って、ちょっと待ちなさい順子!
そのハンダごて、コンセント挿したまま可燃物のタオルの上に置かないの! 火事になるでしょ!」
「ひゃいっ!? ご、ごめんなさい……!」
間一髪でハンダごて台に押し戻す麦の手つきには、千年の戦場で仲間の事故死を防いできた「パーティの頭脳」としての反射神経が遺憾なく発揮されていた。
「もう……昔から変わらないんだから。
小学校のときも、図工の時間の電動糸ノコギリで自分の上履き切りそうになって先生に大目玉喰らってたでしょ」
「あはは、あったねぇそんなこと!
でもムギちゃんこそ、昔はもっとおとなしかったのに、いつの間にかこんなに理科も機械も詳しくなっちゃってさ~!」
順子はドライバーをクルクルと指先で回しながら、懐かしそうに麦の顔を覗き込んできた。
「小学校のころ急にいなくなったと思ったら、久しぶりに戻ってきて理科の先生より理科に詳しいんだもん。
びっくりしたよ? 私なんて未だに『電流はプラスからマイナスに流れる』って雰囲気でしか理解してないのにさ!」
「雰囲気でハンダごて握るの本当にやめて……」
麦は頭を抱え、深々とため息をついた。
(まあ……『雰囲気で電気流してる』って意味じゃ、千年前の私も大差なかったんだけどね……)
脳裏に、あの黒歴史が不意にフラッシュバックする。
異世界で『古代魔導の申し子』として青白い電撃をバリバリと放ち、古代語の呪文を朗々と唱えていたあの頃。
……だが、その実、その記憶の底には「母が隠していたちょっと変な趣味の同人誌をこっそり読んで、学校でドヤ顔で熱弁してドン引きされた」という、取り返しのつかない現実の痛烈な黒歴史が、新品同様の解像度でこびりついているのだ。
(うっ……思い出したらまた吐きそうになってきた……!)
「ムギちゃん? なんで急に頭抱えて悶絶してんの? お腹痛い?」
「なんでもない! 痛いのは頭と過去の記憶だから気にしないで!」
麦はバタバタと両足をバタつかせ、必死で照れ隠しの声を上げた。
順子は「ふーん?」とピン留めで留めた前髪を弄りながら首をかしげていたが、すぐに興味を分解途中のラジオへと戻した。
「ねえねえムギちゃん、この基板のところ、なんかカリカリってやって直してよ! ムギちゃんの手ってさ、なんか魔法みたいなんだもん!」
「魔法じゃないわよ、ただのハンダ付けと接点復活剤!
……ほら、貸しなさい。ここが皮膜で絶縁しちゃってるから、ちょっと削って……よし、これで通電するわ」
麦が手際よくピンセットとハンダを操ると、バラバラだったラジオのスピーカーから「ザザッ……~♪」とノイズ混じりの爽やかなラジオ放送が流れ出した。
「うわあぁぁっ! 鳴った! 鳴ったよムギちゃん! すごい! やっぱりムギちゃんは天才魔法使いだーっ!」
順子が目を輝かせ、小動物みたいにピョンピョンと跳ね回って麦の首に抱きついてくる。
「くっ、苦しい! 飛びつかないで順子! 電圧の調整くらい誰でもできるでしょーが!」
「できないよぉ! 私なんてドライバーで突っついて直そうとしてたもん!」
「それ一番やっちゃダメな壊し方!!」
放課後の理科準備室に、二人の甲高い笑い声とツッコミが響き渡る。
千年の時を越え、過剰な神話の呪文を唱え続けた指先。
けれど、こうして壊れた小さなラジオの回路を繋ぎ、大好きな友達の破天荒な笑顔を守るために動く今の自分の手が、麦は嫌いではなかった。
「よしっ! 次はこの壊れた理科室の扇風機を分解してみようよ、ムギちゃん!」
「待ちなさい順子!! それ学校の備品!! 勝手に解体したら今度こそ停学になるからね――っ!?」
放課後の夕日が差し込む部屋で、元・最強の魔導士は、今日も今日とて破天荒な友達の暴走を止めるために全力で走り回るのだった。
中学校の武道場から響く、威勢の良い「ヤーッ!」という掛け声と畳を叩く重い音。
放課後の部活動時間、柔道部の見学を終えた轟葵(ドラガ)は、道場の前で自分の華奢な両拳をじっと見つめていた。
赤みがかった豊かな三つ編みも、重厚なプレートメイルも、そして背丈の倍はある超重量級の両手斧も、今の彼女にはない。
あるのは、少し小さめで、どこか縮こまりがちな中学1年生の体のままだ。
(あーあ……。腕力を戻したくて柔道部を覗いてみたけど、今の体の線じゃ、女子相手の乱取りですら吹き飛ばされそうだぜ……)
かつて迷宮の深層で『豪傑のドラガ』として山を割り、ドラゴンを力任せにねじ伏せていた記憶と、目の前の華奢な自分のギャップに頭を抱え、深々とため息をつく。
「……葵……ちゃん……?」
背後から聞こえた、消え入りそうなほど小さな声。
葵がハッとして振り向くと、そこには体育館の影に身を隠すようにして立っている、小柄で華奢な少女がいた。
胸元でぎゅっとカバンの紐を握りしめ、大きな瞳を不安そうに揺らしている。
かつて肩にかかっていた黒髪のおさげは跡形もなく消え去り、耳が出そうなほどのさっぱりとしたショートカットに変わっていた。
「……小春……!?」
野沢小春。
小学校時代、クラスのガキ大将たち――男子特有の乱暴さとデリカシーのなさに恐怖し、二人で教室の隅っこに身を寄せ合っていた「男子苦手仲間」であり、葵の数少ない親友だった。
「やっぱり……葵ちゃんだ……っ! 私、葵ちゃんが突然いなくなって……すごく、寂しかったんだよ……!」
小春の目にパッと涙が浮かび、小走りで葵に駆け寄ってくる。
葵はあわてて手を出しかけたが、千年の間『ドワーフの怪力』に慣れきっていた脳が「あっ、強く抱きしめたら小春の骨が折れる!」と一瞬パニックを起こした。
だが、思い直して自分の今の力持ち度合い(ただの華奢な中学生)を認識し、そっと小春の肩を抱きとめた。
「小春……! ごめんな、急にいなくなったりして……。……って、あれ!? 髪の毛、切ったのか!?」
葵が驚いて目を見開くと、小春は照れくさそうに短いショートカットの毛先を指先でいじり、小さく頷いた。
「うん……。ほら、小学生のとき……あのガキ大将に、おさげを後ろから引っ張られて泣かされたことあったでしょ……?
あのときから、ずっと短くしたかったの。中学に入るとき、親にお願いしてバッサリ切ってもらったんだ」
「小春……」
葵の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
脳裏に、かつての黒歴史が駆け巡る。
自分だって男子が怖くて、男子から身を守るためにアニメの必殺技を叫んでは、父親のスーツのズボンを頭に被ってリビングでファイティングポーズをとっていたのだ。
……そして迷宮に落ち、ドワーフの肉体を得て「一声吼えれば山が割れる暴虐の鬼姫」なんていう過剰すぎるハッタリで自分を固めていた。
けれど、目の前の小春は違った。
異世界の魔力も、ドワーフの怪力も手に入れなかった小春は、自分の足で一歩を踏み出し、怖かった過去を断ち切るために親に頼んで髪を切り、一回り成長していたのだ。
「……すごく、似合ってるぞ。カッコいいよ、小春」
葵が心の底からの言葉をかけると、小春はぽっと頬を赤くして、嬉しそうに目を細めた。
「本当……? ふふ、葵ちゃんにそう言ってもらえると、すごく安心するな……。
あのね、髪を切ったら、ちょっとだけ男子のことも怖くなくなってきたの。……まあ、まだ急に大きな声出されるとビックリしちゃうけど」
「そうか……。そうだよな、小春はすごいよ」
葵は自分の華奢な手を見つめた。
ドワーフの筋力を失い、超重量級の斧を振り回せなくなったことに落胆していた自分が、急に恥ずかしく思えてきた。
(なんだよあたし……。筋肉がなくなったからって何だってんだ。
小春だって、こんなに小さくて華奢な体で、自分の恐怖と戦って前を向いてるんじゃねぇか)
葵はぐっと両拳を握りしめると、かつてドワーフの戦士として何千回と見せてきた、底抜けに豪快で頼もしい笑顔を小春に向けた。
「よしっ! 小春、これからはあたしが隣にいてやるからな!
男子どもが何か嫌がらせしてきたら、あたしが速攻でそいつらの前にはだかって、ガン飛ばして追い払ってやる!」
「えへへ、ありがとう、葵ちゃん。……でもね、葵ちゃんは相変わらず小さくて可愛いから、あんまり無理しないでね?」
「つっ……! か、かわっ……! あたしは可愛くねぇ! 強靭なドワーフの……じゃなくて、頼れるお姉さんなんだよ!」
真っ赤になってポカポカと小春の肩を叩く葵(威力は子猫の毛づくろい程度)。
小春は「あはは、葵ちゃん本当に変わらないね」と楽しそうに声を上げて笑った。
伝説のドワーフの怪力はもう戻らない。
けれど、かつて自分を守るために必死だった弱虫な少女は、いま、大好きな友達の笑顔を守るための新しい強さを胸に、放課後の校庭を一緒に歩き出すのだった。
夕暮れ時の通学路。黄色い横断旗を手に、下級生たちを安全に横断歩道へ渡らせ終えた少年が、大きく一息をついていた。
さらさらとした黒髪のマッシュルームカットに、きちんとした黄色のポロシャツと紺のショートパンツ。背中には、体の割に少し大きなランドセルが誇らしげに揺れている。
丸島隆二。
かつては、何かあればすぐに泣き出し、湊(ミナ)の後ろを震えながらついてきていた、同じ1年生の泣き虫仲間だった。
だが、目の前に立つ彼は、今や最高学年の6年生として、登校班の班長を立派に務め上げる凛々しい少年へと成長を遂げていた。
「よし、みんな車に気をつけて帰るんだぞー!」
下級生たちに元気に声をかけ、見送った隆二が振り返る。
その視線が、歩道の端で黄色い登校帽を被り、完璧な整理整頓がなされたランドセルを背負って立っている湊とぶつかった。
「あっ……湊ちゃん!」
隆二の顔がパッと華やぐ。
小走りで駆け寄ってくるその姿には、かつての泣き虫だった面影が色濃く残っているものの、引き締まった表情には確かな頼もしさが宿っていた。
「今日も下校の安全確認、一緒にやってくれてありがとう! 湊ちゃんがいてくれると、班長としてすごく助かるよ」
「いいえ、班長としての隆二くんの指示が的確だからこそです。通行量の多い交差点での旗振りのタイミング、とても素晴らしい判断でしたよ」
湊は伊達眼鏡のフレームを指先でクイと押し上げ、落ち着いた笑みを返した。
その所作、立ち振る舞い、そして放たれる圧倒的な包容力――。
隆二はふと息を呑み、ほんのりと頬を朱に染めて、視線を泳がせた。
(……なんか、やっぱり湊ちゃんって、すっごく大人っぽいな……)
隆二にとって、湊は「かつて一緒に1年生を過ごし、突然いなくなってしまった大切な同級生」だ。
再会した湊は、なぜか男子から女子へと姿が変わっていたが、隆二にとっては昔と変わらず親しみやすい存在だった。……はずなのだが。
小学6年生という、ほんの少し背伸びをしたくなる年頃。
周りの男子たちが女子を意識し始め、どこかギクシャクし始める中で、隆二にとっても目の前の「湊ちゃん」は、最近どうにも直視しがたい、不思議な胸の高鳴りを覚えさせる存在になりつつあった。
しかし、当の湊側の視界に広がる世界は、およそ小学生のそれとはかけ離れていた。
(……隆二くん、本当に立派な班長さんになりましたね)
湊の胸を満たしているのは、甘酸っぱいときめきなどではなく、「かつて守られる側だった小さな命が、こうして立派に成長し、次の世代を導いている」という、途方もない深みを持った慈愛と親心だった。
湊の「男子としての人生経験」は、小学1年生の6歳でピタリと止まっている。
そして、その後に積み上げたのは、迷宮の最深部で千年以上、パーティの「お母さん役(ポーター)」として手のかかる仲間たちのお世話をし続け、莫大な物資と人間関係を管理し続けてきた「熟練の包容力」だ。
結果として、12歳になった隆二に対して抱く感覚は、異性に対するそれではなく、「我が子の成長を微笑ましく見守る母親」あるいは「成長した孫を見つめる目線」に完全に固定されていた。
「ね、ねえ、湊ちゃん。このあと、公園で少し話さない……? ほら、班長と副班長(仮)の反省会っていうか……その……」
隆二が照れくささをごまかすように、ポロシャツの裾をギュッと握りしめて提案する。
男の子としての一生懸命なアプローチ。
だが、湊の返答は完璧すぎた。
「ええ、喜んで。あ、ちょうど良かったです。
隆二くん、今日の夕方は少し肌寒くなりますから、温かい大麦麦茶の水筒を持ってきて正解でした。はい、コップに注ぎましたよ。
それと、小腹が空いているでしょうから、非常食用に常備している栄養補助食品のチーズ味もどうぞ」
サッとカバンの四次元ポケットから差し出される、完璧なタイミングの水分と栄養補給。
「あ……ありがとう、湊ちゃん……」
「どういたしまして。それと、隆二くん。ポロシャツの襟の右側が少し折れてしまっていますよ。
班長さんがだらしなく見えては大変ですからね。……ほら、じっとしていてください」
「ふえっ!?」
湊が自然な手つきでスッと距離を詰め、隆二の胸元に手を伸ばす。
ふわっと漂う、石鹸とどこか懐かしいおひさまの匂い。
湊の手指が手際よく襟を整えていく間、隆二は心臓が口から飛び出しそうなほどドギマギし、全身をガチガチに硬直させていた。
(ち、近い……っ! 湊ちゃん、距離感近くない!? 僕たち、もう6年生なんだよ!?)
赤面し、目を白黒させてパニックになる隆二。
だが、湊の片眼鏡(伊達眼鏡)の奥の瞳は、どこまでも穏やかで、慈愛に満ちていた。
(ふふ、本当に可愛いですね。千年前、初めて迷宮で孤児を引き取ったときの、あの幼子の面影を感じます。
あの頃の給食の配膳の手際とか、思い出しますね……)
隆二が「男子としての甘酸っぱい意識」でドキドキすればするほど、湊から出力されるのは「完璧すぎるお母さんムーブ」という致命的なズレ。
「よし、綺麗になりました。隆二くんは骨格もしっかりしてきましたし、黄色のポロシャツがとてもよく似合っていますよ。立派な班長さんです」
頭を優しくぽんぽんと撫でられ、隆二の顔面はついに限界突破して茹でダコのように真っ赤になった。
「あ、う……ありがとう、湊ちゃん……っ!!」
「いいえ。さあ、反省会をしたら、おうちの人が心配しますから素直に帰りましょうね。
今日の晩御飯は何でしょうか? 栄養バランスには気をつけてくださいね」
「うん……(これ、僕が意識してるの、全然伝わってないやつだーーー!!)」
夕陽が沈む通学路。
甘酸っぱい初恋の入口で悶絶する6年生の班長・隆二と、千年の母性でそれを完璧に包み込んでしまう元・最強ポーターの湊。
二人の並んで歩く影は、遠くから見れば微笑ましい幼馴染の登校風景でありながら――その内実はおよそ噛み合わないまま、静かで温かな日常のなかへ溶けていくのだった。