登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
それは、毎朝訪れる小さな「乗っ取り」から始まった。
目を覚ました瞬間、脳裏に流れ込んでくるのは、温かい布団の感触でも、お母さんが階下で朝食を準備するフライパンの音でもない。
石造りの冷たい寝台、湿った藁の匂い、そして昨夜手入れしたばかりの武器の冷たい金属光沢だった。
「……おはよう、お姉ちゃん……って、ちがう!」
ベッドの上で飛び起きた日向蓮――今は『白百合のレン』と呼ばれる、銀白色の髪を持つ聖職者の少女は、シーツをきつく握りしめて荒く息を吐いた。
鏡に映る姿は、かつてのやんちゃな4年生の面影すらない。
整った中性的な顔立ちに、気高いシスターのヴェール。
しかしそれ以上に恐ろしいのは、肉体的な変化ではなく、内側からじわじわと染み出してくる「異世界の記憶」の侵食だった。
ポケットを探る代わりに、自然と胸元の聖印に指が伸びる。
困った時に「お母さーん」と叫ぶ代わりに、唇が勝手に神聖な祈りの言葉を紡ぎかけそうになる。
(いやだ……。私は昨日、ドッジボールの補欠で悔し涙を流した日向蓮だ……。
あんな高尚な神殿の修行なんて知らない、友達とゲームセンターでハイチュウを分け合ったんだ……っ!)
心の中で必死に自分の名前を叫び、小学生としての記憶にしがみつく。
しかし、脳の引き出しを開ければ開けるほど、『迷える子羊を導くのが我が使命』という、自分のものではない崇高で厳かな生き様が、まるで最初からそこにあったかのように定着していく。
抵抗しているのは、蓮だけではなかった。
夕暮れ時のギルドの自室。
クロエとしての革ベストを脱ぎ捨て、ベッドの隅で膝を抱えていた桐生透は、自分の震える両手を見つめていた。
その手のひらには、見知らぬ裏通りの暗殺者や、幾多の罠をかいくぐってきた冷徹なナイフ捌きの感覚が、ぬるりと染み込んでいる。
(みんなをちゃんと、元の小学校に連れて帰らなきゃいけないのに……)
そう強く思っているはずなのに、頭の片隅で冷酷な声が囁くのだ。
『――甘いな。あんな足手まといのガキども、いつか足を引っ張るだけの荷物になる。見捨てて一人で逃げた方が生存確率は上がる』
「っ……ふざけんな……!」
透は自分の頭を両手で激しく叩いた。
違う。
あのエルフのツンデレ野郎も、あの魔術オタクの狐耳も、あの暴れん坊のドワーフも、あの肝っ玉母さんのポーターも、みんな昨日まで同じ教室で給食を食べていたクラスメイトだ。
見捨てるものか。
自分がしっかりして、この異世界から全員揃って連れ帰るんだ。
そう決意を新たに立ち上がろうとした瞬間、足音が聞こえてドアがノックされた。
「ちょっと、クロエ。いつまで部屋にこもってるの? 今日の第3階層の探索ルート、もう一回確認するわよ」
そこに立っていたのは、黄金のエルフ耳をピクピクとさせ、腕を組んでツンとした横顔を向けるリリアーネ(神崎凛)だった。
冷ややかなエルフの仮面を被っているが、その目の奥が微かに怯えているのを、透は見逃さない。
彼女もまた、脳裏を支配する高慢な選民意識と、「お母さんのハンバーグが食べたい」という小学生の記憶の狭間で、狂いそうになりながら耐えているのだ。
「……あぁ、今行くよ、リリアーネ」
「っ、なによその馴れ馴れしい呼び方は! 早くしなさいよ、この低脳なハーフリングが!」
捨て台詞を残してスタスタと歩いていく背中は、紛れもなくプライドの高いエルフの戦士のものだったが、その歩幅の端々に、かつての5年生のお姉さんらしい気遣いが不器用に混じっていた。
偽りの人格が本物を塗りつぶそうとする。
記憶が溶け合い、元の輪郭が少しずつ削られていく。
それでも彼らは、泥水にまみれた迷宮の底で、失われかけた「本当の名前」を心の中で叫び続ける。
いつかいつの日か、黄色い登校帽を再びかぶるその日のために。