登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
夕暮れ時の美術室には、オイル塗料とキャンバスの独特な香りが立ち込めていた。
窓から差し込む茜色の光が、制作途中の絵画を鮮やかに浮かび上がらせている。
神崎凛(リリアーネ)は、細い筆先をパレットの絵の具に浸しながら、キャンバスに向かっていた。
彼女が描いているのは、切り立った断崖絶壁にそびえ立つ古城と、その上空を舞う紫焔の竜――かつて迷宮の第50階層で目撃した「神話の景観」そのものだった。
「う~ん、やっぱり神崎さんの絵は世界観が凄すぎるよ……!
この重厚なタッチと、絶望的なまでに美しい背景の書き込み! まるで古代の叙事詩から抜け出してきたみたい!」
隣でイーゼルを立てていた栗山まりあが、目を輝かせながら凛のキャンバスを覗き込んできた。
まりあは凛と同じ高校1年生で、同じ美術部に所属する友人だ。
少し個性的で重厚なダークファンタジーや中二病的な世界観の芸術をこよなく愛する彼女は、凛が無意識に描いてしまう「神話的すぎる絵」の最大の理解者であり、熱狂的なファンでもあった。
「ありがとう、栗山さん。でも、少し彩度が強すぎたかもしれないわ。城の影の表現をもう少し深く直さないと……」
「謙虚だなぁ。……あ、そういえば神崎さん! これ、今日の放課後に靴箱に入ってたやつ!」
まりあが制服のポケットから取り出したのは、薄桃色の可愛らしい封筒だった。
裏面にはハート型のシールが貼られ、角の丸い丁寧な文字で『神崎凛様へ』と書かれている。
凛は筆を止め、眉をひそめた。
「手紙……? 美術部の連絡事項かしら」
「ううん、違うよ! これ、絶対『ラブレター』だってば!」
「は……? ラブレター……?」
凛の思考が途端にフリーズした。
千年の旅路において、リリアーネ・シルヴァーナというエルフの狩人は、王国の騎士や異種の英雄たちから幾度となく愛の告白や求婚を受けてきた。
だが、現代の日本の高校生活において、このような甘酸っぱいイベントに遭遇するのは初めてのことだった。
「誰からなの……?」
「差出人の名前、見てごらんよ」
まりあに促され、凛が封筒を裏返すと、そこには同じ1年生の女子生徒の名前が記されていた。
『1年B組 佐藤芽衣』
「……女の子、から……?」
凛は思わずプラチナブロンドの髪をさっと揺らし、絶句した。
凛の肉体は、エルフの血を引く異次元の美貌をそのまま現代社会へ持ち込んだかのような、息を呑むほど高嶺の華な女子高生だ。
クールでミステリアスな雰囲気、無心で描く圧倒的な絵画の才能、そして気品ある佇まい――それらが相まって、校内の男子生徒はもちろんのこと、一部の女子生徒からも「神話に出てくる王子様みたい」「凛様」と密かに崇拝されていることは、凛本人も薄々感づいてはいた。
だが、まさか同性の同級生から直接ラブレターが届くとは、完全に想定外だった。
「さ、佐藤さんって……先週の放課後、美術室の前の廊下で派手にデッサン用具をぶちまけて、一緒に拾ってあげた子……?」
「そうそう! あの時の神崎さん、拾った画用紙を渡しながら『怪我はない? 気をつけなさいね』って、めちゃくちゃ格好よく微笑んでたもん!
あの瞬間、芽衣ちゃん完全にハート撃ち抜かれてたよ!」
「っ……! あ、あれはただの反射的な配慮というか、お姉さん気質が出ちゃっただけで……!」
凛は顔を真っ赤にしてパニックに陥った。
中身は小学生時代に「森の深淵の女王」なるポエムノートを書いていた痛々しい中二病のお姉さん気質であり、千年の過酷な冒険を経てツッコミ役に回る苦労人だ。
そんな純粋すぎる少女からの本気の恋情を受け止めるキャパシティなど、どこにも存在しない。
「ど、どうしよう……!
私、元々は女の子でお姉さんぶってただけで、今は女子高生だけど、こんな……同性の女の子からの真剣な想いに、どう応えればいいの……!?」
頭を抱えて震える凛を見て、まりあはニヤニヤと楽しそうに笑みを浮かべた。
「ふふふ……神崎さん、まずは落ち着いて手紙を開けてみなよ。なんて書いてあるの?」
凛は震える指先で慎重にハートのシールを剥がし、中の便箋を開いた。そこには、びっしりと真面目な文字が躍っていた。
『神崎さんへ。突然の手紙でごめんなさい。あの日、優しく声をかけてくれた神崎さんの姿が頭から離れません。
神崎さんの描く絵も、クールで綺麗な佇まいも、すべてが私の憧れです。
もしよろしければ、今度の土曜日に一緒に美術館に行っていただけませんか?』
「お~! 美術館デートのお誘いだ!」まりあが手を叩く。
「デ、デートだなんてそんな……! 憧れって書いてあるわ! これは恋情というより、ただのファンアート的な……敬愛の情なのでは……!?」
「いやいや、便箋の柄といいハートシールといい、どう見てもガチの告白&デートの申し込みでしょ!
さすが校内一のイケメン美少女、神崎凛様!」
「からかわないで栗山さん! 私は真面目に悩んでいるのよ!」
凛は便箋を胸に抱え込み、深い溜息をついた。
もしこれが男子からの告白であれば、毅然とした態度で「ごめんなさい」とお断りすることもできただろう。
だが、相手は自分を「憧れの対象」として純粋な目で見てくれている同じ学年の女の子だ。
傷つけたくはない。
けれど、曖昧な態度で期待を持たせるのも不誠実だ。
「……私、ちゃんとお返事を書くわ」
凛の三白眼に、決意の光が宿った。
かつてパーティの遠隔攻撃手(アーチャー)として、射抜くべき標的から決して目を逸らさなかったように。
「えっ、手紙で返事書くの? 手紙で直接撃沈させるスタイル?」
「違うわ! 誠意には誠意で応えるのが、人の道でしょう!
……それに、お誘い自体を断るにしても、彼女の想いを無下に踏みにじるような真似は絶対にしたくないの」
凛は自分の鞄から、シンプルな上質の便箋を取り出した。
「栗山さん……少し、アドバイスをくれないかしら。私、こういう『誰かの想いを丁寧に拝辞する文章』なんて書いたことがなくて……」
「いいよ! 私、少女漫画も中二病小説も読み込んでるから、文章の指導なら任せて!」
まりあが腕まくりをして凛の隣に座り込んだ。
そこから、二人の「返信文作成会議」が始まった。
「まずは感謝の言葉ね。『お手紙をいただき、とても光栄に思います』……よし」
「そこはさ、『貴女の紡いだ言葉は、私の胸の奥深くに留まりました』とかどう?」
「重いわ! 厨二病ポエムに戻さないで栗山さん! 普通に感謝を述べるの!」
「じゃあデートの断り方は? 『先約がある』とか?」
「ううん……嘘をつくのは嫌なの。
『とても嬉しいお誘いですが、私は誰か特定のどなたかと特別な関係を結ぶ準備ができていません』……うぐ、これだと高飛車すぎるかしら……?」
「エルフの女王感出ちゃってるよ神崎さん!
『お気持ちはとても嬉しいですが、いまは絵の制作に集中したくて』くらいが角が立たないんじゃない?」
ふたりで推敲を重ねること三十分。
便箋には、凛の丁寧で美しい筆跡で、相手への深い感謝と尊敬、そして「今は誰ともお付き合いするつもりはないけれど、美術を愛する友人としてなら喜んでお話ししたい」という、誠実の塊のような文章が綴られた。
「……できたわ」
凛は完成した手紙をそっと封筒に収め、ホッと大きな息を吐き出した。
「う~ん、完璧! 優しくて、誠実で、でもちゃんと一線は引いてて……これ受け取った芽衣ちゃん、失恋するけどもっと神崎さんのこと好きになっちゃうかもね!」
「もう、変なこと言わないでよ……」
凛は苦笑しながら、手紙を鞄の奥へと大事に仕舞い込んだ。明日、登校したら直接、彼女の靴箱へ入れるつもりだ。
千年の迷宮を生き抜き、神話の弓を引いてきた自分。
だが、現代社会の高校生活で押し寄せてくる甘酸っぱく、ちょっぴり甘苦い「青春のトラブル」の数々は、どんな魔獣との戦闘よりも遥かに難解で、そして胸をくすぐるものだった。
「さて……絵の続きを描かなくちゃ」
凛は再び筆を握り直した。
窓の外では、夕闇が静かに街を包み込み始めていた。
キャンバスに描かれた紫焔の竜の横で、凛の横顔は、いつになく柔らかく、等身大の女子高生らしい温もりに満ちていた。