登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
夕闇が街を包み込み、街灯の光が濡れたアスファルトに反射し始める時間帯。
桐生透は、校舎の裏手に広がる小さな公園の木陰で、ポケットの中の十徳ナイフを固く握りしめていた。
三白眼の視線が、闇の中に落ちる『違和感』を捕らえている。
足音がしない。
気配すら殺されている。現代の女子高生の日常にはおよそそぐわない、研ぎ澄まされた刃物のような殺気――いや、極限まで抑え込まれた「忍び」の気配。
「……出てきたらどうだ。隠密のつもりなら、ハーフリングの鼻をごまかすには甘すぎるぞ」
透が冷ややかに声をかけると、頭上の桜の枝が揺れ、ひらりと一筋の影が舞い降りた。
そこに立っていたのは、20代前半の艶やかな大人の女性だった。
夜風にたなびく漆黒の装束、引き締まった体躯、そして冷徹さと哀愁を帯びた涼やかな瞳。
小林陸斗――いや、現在は偽りの名を名乗り、裏社会のなんでも屋『影』を率いるくノ一、篝(かがり)。
かつては透や南部明とともに、泥だらけになってサッカーボールを追いかけていた小学校6年生の少年だった。
だが、あの日――透たちの登校班が迷宮に呑み込まれたのと同じ日、陸斗たちの登校班もまた世界の亀裂へと落ちていた。
落ちた先は、ファンタジーの迷宮ではなく、戦乱と呪術が渦巻く江戸時代。
陸斗は10歳ほどの見習いくノ一『篝』へと姿を改変され、里の凄惨な術式と訓練によって、精神も性別も「熟練のくノ一」として完全に塗りつぶされた。
そして3年前、敵の呪術師との死闘の最中に再び現代へと弾き飛ばされた時には――彼女の肉体は、すでに20歳前後の大人の女性へと成長を遂げてしまっていた。
「……お久しぶりね、透くん。……いいえ、今のあなたは綺麗な女の子の姿をしているのね」
しなやかな動作でフードを外した篝が、どこか切なげな女性口調で微笑む。
その声には、かつての陸斗少年の面影など微塵もない。
「陸斗……なのか? 本当にお前なのか……?」
透は息を呑んだ。
湊のネットワークから「別の世界からの帰還者」の存在は聞かされていたが、まさかかつてのサッカー仲間が、これほどまでに変わり果てた姿で自分たちの前に現れるとは思いもよらなかった。
「ええ。今のあたしは『小林篝』……裏社会で泥を啜る忍びに過ぎないわ」
篝の瞳が、僅かに揺れる。
「冴も、結衣も、あとの2人も……みんな無事よ。『影』としてなんとかこの現代を生き延びているわ。
でもね、透くん……わたしは、どうしても諦めきれないの」
篝は一歩、透へと近づいた。
「ネットの噂で聞いたわ。あなたたちが『地球の姿』と『異世界の姿』を自在に切り替えているって。
……ねえ、教えて。そのスキルの詳細を。それを修得する方法を」
その切実な声に、透は胸を刺されるような痛みを覚えた。
陸斗たちの転移先は「過去の地球(江戸時代)」だった。
迷宮の魔力によって肉体が固定され、無制限のコンティニュー機能と『切り替えスキル』を与えられた透たちとは違う。
陸斗たちは、ただの人間として江戸時代で歳月を重ね、帰還した時には既にその肉体は20歳前後の大人の女性に成長してしまっていたのだ。
侵食されきった女性としての精神は、もう元には戻らない。
けれど、せめて――せめて外見年齢だけでも17歳に戻すことができれば、元同級生たちと同じ時間を刻む「性別が変わった『小林陸斗』」として、陽の当たる日常へ戻れるかもしれない。
そんな最後の希望を抱いて、篝は透に接触してきたのだ。
「……すまない、陸斗」
透は深く息を吐き出し、首を横に振った。その三白眼には、偽りのない苦渋が満ちている。
「私たちの『姿の切り替えスキル』は、魔法や忍術の類じゃない。
地球の肉体と、異世界の迷宮に残された不老の肉体を『入れ替えている』だけなんだ。
……向こうの世界に肉体のバックアップが存在しないお前たちには、そのスキルは適用されない」
「っ……!」
篝の息が止まった。
夜風が吹き抜け、彼女の長い髪を揺らす。
「……そう。異世界ではなく、歴史の裏側に落ちたあたし達には……最初からそんな『救い』すら用意されていなかったのね」
篝は自嘲気味にほほ笑み、視線を落とした。
22歳の大人になってしまった自分。
裏社会の偽造戸籍でしか生きられない自分。
かつてサッカー部の仲間だった明や透たちが過ごす、眩しいほどの高校生活には、もうどこを探しても自分の居場所はない。
静まり返る公園。
だが、その沈黙を切り裂いたのは、公園の入口から響いたカチャカチャという賑やかな金属音だった。
「透さん! 帰りが遅いと思えば、こんなところで何をしているのですか! 晩御飯の時間が――あら?」
完璧なパッキングのランドセルを背負った小西湊が、伊達メガネを光らせて現れた。
さらにその背後からは、
「ちょっと透! 買い出しの肉が冷めちゃうでしょ……って、誰その人!?」
黒髪ポニーテールの凛が驚愕し、
「うわぁ! 本物のくノ一だ! 格好いいー!」
麦がフェルトの耳をパタパタさせ、
「な、なに……!? 刺客……!?」
蓮と葵が即座に警戒態勢をとる。
「みんな……」
透が声をかけると、湊は伊達メガネを親指でクイと押し上げ、篝の全身を完璧な観察眼で走査した。
「……小林陸斗さんですね。登校班の記録と、現在の『影』のデータが一致しました」
「……小西くん? あなた、随分とお母さん……いえ、頼もしい姿になったのね」
篝が苦笑すると、湊は迷うことなくランドセルのサイドポケットから、温かい大麦麦茶の入った水筒と、高級なカロリーメイトの箱を取り出し、篝の手に押し付けた。
「な、なに……?」
「裏社会の過酷な忍務で、著しく栄養が偏っていますね。肌のツヤと筋肉の水分量が不足しています。はい、まずはこれをお飲みなさい」
「えっ……あ、ありがとう……?」
あまりにも圧倒的な「千年の母性とお母さんムーブ」に、熟練のくノ一である篝のペースが完全に崩れ去る。
湊は凛とした表情で、篝の目を真っ直ぐに見つめた。
「陸斗さん。スキルの切り替えによる若返りが不可能だとしても、あなたが『生き延びて戻ってきた』という事実そのものは消えません。
同じ年齢で同じ時間を歩むことだけが、現代社会での生き方ではないはずです」
「湊……」
「我がパーティの総務部として提案します。
『影』の拠点における物資の補給、および偽造戸籍の法的裏付けの補強は、私たちが全面的にバックアップします。ですから――」
湊はふっと、どこまでも優しい笑みを浮かべた。
「時々は、私たちの元へ羽を休めにいらっしゃい。あなたはもう、暗闇の中で一人で戦う忍びではないのですから」
「……っ」
篝の目から、溢れそうになる涙を、彼女は即座に指先で拭った。
くノ一としてのプライドと、消し去れない過去。
けれど、目の前にいる異世界からの帰還者たちは、どんな姿になろうと自分を「陸斗」として、仲間として受け入れてくれている。
「……ふふ。変なパーティね、あなたたち」
篝は艶やかな笑みを浮かべ、夜の闇へと一歩下がった。
「スキルの手掛かりが得られなかったのは残念だけど……いい『お土産』をもらったわ。
……また来るわね、透くん。……裏社会の情報が欲しい時は、あたし達『影』にまかせてちょうだい。」
「ああ。いつでも来い、陸斗。……いや、篝」
トッと軽やかな足音を残し、篝の影は夜の街へと消えていった。
二つの世界の理、異世界と過去の歴史。
それぞれが抱える不可逆のバグと傷痕を抱えながらも――彼女たちの日常は、新たな絆と賑やかさを巻き込んで、どこまでも続いていくのだった。