登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
冷たい石畳に膝をついた瞬間、脳の奥でプツリと何かが切れる音がした。
――あぁ、そうか。昨日の夕飯はハンバーグじゃなくて、酒場の硬い干し肉だったな。
そんな思考が、妙に自然に頭をよぎる。
桐生透は、自分の両手を見つめた。
その指先は、かつては野球ボールやシャープペンシルを握っていたはずなのに、今はすっかり暗い路地裏で錠前をピッキングするための硬いマメと、毒の塗布による微かな色素沈着に覆われている。
「……あれ?」
声に出そうとして、耳を疑った。
そこから響いたのは、あどけなさを残した少年の声ではなく、低く、冷ややかで、けれどどこか気だるげな、ハーフリングの女盗賊としての艶やかな声だった。
脳内であれほど必死に叫んでいた「みんなを連れて帰らなきゃ」という決意が、まるで遠いテレビの向こうの物語のように、急速に色あせていく。
いやだ、消えたくない。
私は桐生透だ。
小学校の登校班の班長で――。
『何を言っている。お前の名前はクロエ・セージ。かつてスラムの泥を這いずり回り、数々の罠をくぐり抜けて生き延びてきた盗賊だろう』
頭のなかのもう一つの声が、冷酷なまでにクリアな響きで透の記憶を上書きしていく。
算数の九九の代わりに短剣の急所突きが、友達の名前の代わりにギルドの裏切者たちの顔が、鮮明な「実体験」として脳のハードディスクに焼き付けられていく。
かつての記憶は消えていない。
小学生だった自分も、確かにそこに「在った」はずだ。
しかし、それはまるで、他人の日記を読んでいるかのように、残酷なまでに他人事へと変貌していた。
「……クロエ。何ぼさっとしてるのよ」
声をかけてきたのは、黄金のエルフ耳を揺らすリリアーネ(神崎凛)だった。
その横顔を眺めながら、透――いや、クロエの脳裏には、かつて放課後に一緒に絵の具を片付けた記憶と、「人間の前衛など足手まといだ」という冷徹な選民意識が、ぐにゃぐしゃに混ざり合って存在していた。
リリアーネもまた、同じだった。
彼女の美しい双眸には、プライドの高いエルフの冷酷さと、その奥底で「お母さん、怖いよ」と泣きじゃくる5年生の少女の影が、歪なモザイクのように張り付いている。
どちらが本当の自分なのか。
どちらの人格が主人格なのか。その境界線はすでに音を立てて崩れ落ち、混ざり合ったスープのように二度と元には戻らない。
「……なんでもないさ、リリアーネ」
クロエは不敵に笑ってみせた。その笑みは、盗賊としての抜け目のなさと、かつての班長としての不器用な仲間意識が奇妙にねじれ合った、彼女だけのものだった。
完全に元の小学生に戻ることもできなければ、完全に冷酷な異世界の冒険者になり切ることもできない。
中途半端に両方の記憶と感情を縫い合わされたまま、彼女たちはぐにゃぐしゃに歪んだ自我を抱えて、さらに深い迷宮の闇へと歩き出す。
純白のシスターローブの裾が、迷宮の湿った床を微かに掠める。
『白百合のレン』に成り果てた日向蓮は、震える手で純銀の聖印を強く握りしめていた。
頭のなかを駆け巡るのは、神殿の冷たい大聖堂と、何千人もの信徒を前にして厳かに祈りを捧げた果てしない時間の重みだ。
しかし、その聖職者の仮面のすぐ下では、昨日までドッジボールの補欠で泥だらけになって走り回っていた、10歳のやんちゃな男の子の記憶が激しく暴れていた。
(だめだ……また、お祈りの言葉と一緒に「お腹空いたなぁ」って言葉が出そうになる……っ!)
蓮は必死に唇を噛み締め、上品な微笑みを形作る。
そのすぐ隣では、もう一人の「中途半端なバグ」が、狂ったように独り言を呟いていた。
ふさふさとした銀色の大きな狐耳をピクピクとさせ、足元の石畳に這いつくばっているのは『多重詠唱のムギ』――元・3年生女子の狐塚麦だった。
「ああっ、ダメだ、この第3階層の結界陣、北西の魔力流動がわずかに歪んでる……!
これじゃあ第5術式を展開した時に触媒が焼き切れる! あー、もう、私の研究室の資料室に戻りたい……!
いや、私の部屋のシルバニアファミリーはどうなってるの……っ!?」
社交的で小動物系だったはずの女の子の心は、偏屈な魔術オタクのそれと完全に融合し、キャパシティを超えた情報量に脳をショートさせていた。
新しい呪文の美しさにヨダレを垂らしそうになる知的好奇心と、「お母さん、怖いよー!」と泣き出したい小学生の恐怖が、彼女のなかで絶えず殴り合っている。
「ちょっと、ムギ……じゃなくて、ムギ様! いつまで地面舐めてるんですか、魔物が来ますよ!」
蓮が慌てて声をかけると、ムギはガバッと顔を上げた。
その端正な魔女の顔には、大粒の涙と、最高級の魔法陣を見つけた狂喜の光が同時に貼り付いていた。
「レン、聞いて!
私、さっき気づいちゃったんだけど、この迷宮の空間魔術、小学校の校庭のグラウンド二つ分の広さを完全にねじ曲げて圧縮してるの!
すごくない!? 天才じゃない私!?」
「いや、すごくないから! っていうか、私たち、どうやってここから脱出するのかって話を――」
「そんなことよりこの古代文字の筆順見て! ほら、ここ、ルーンのハネが逆でしょ!?」
会話がかみ合わない。
聖職者としての高貴な威厳を保とうとして必死に敬語を使おうとする蓮と、魔術への執着で人格が崩壊しかけているムギ。
どちらも「本来の自分」と「異世界の戦闘者」の境界線が完全に溶け合い、元の小学生に戻ることも、冷徹なプロの冒険者になり切ることもできないまま、ただぐにゃぐしゃに歪んだ記憶だけを抱えていた。
「……もう、本当にどうなってるんだよ、これ」
蓮が頭を抱えてしゃがみ込むと、ムギは「あ、そうだレン、私のお腹のなかに溜まってるこの魔力、ちょっと余ってるから分けてあげようか?」と、まったく噛み合わないズレた優しさを発揮してポンと肩を叩いた。
完璧な形を失ったまま、混ざり合った魂を抱えて。
泣き出しそうな子供のままの聖職者と、狂気に満ちた魔術オタクの狐人は、足元から這い寄る闇の気配に背中を押されながら、頼りない足取りで再び迷宮の奥へと歩き出すのだった。
迷宮の重い湿気が、ドワーフの重厚なプレートメイルの隙間をねっとりと這い上がっていく。
「ふんっ、こんな薄暗い通路、我が両手斧の一振りで両断してやらいだ!」
轟葵――いや、『砕岩のドラガ』は、身長の倍はある超重量級の斧を軽々と肩に担ぎ、鼻息荒く石畳を踏み鳴らした。
その声は低く腹の底に響く豪快なものだったが、その背中を覆う筋骨隆々な肩のあたりで、見えない冷や汗が滝のように流れていた。
(やばい、かっこつけすぎた……!
ほんとはここ、すっごく暗いし、なんかムカデみたいな魔物の足音聞こえるし、お母さん、私、お布団で寝たいよぉ……!)
共働きだった両親の帰りを待つ寂しさと、学校で男子にいじめられて悔しかった記憶。
そのすべてのトラウマが裏返り、「男子なんかに負けない」「誰にも舐められない一番強い女になる」という歪んだ生存本能と、ドワーフの豪放磊落な戦士の記憶が脳内で混ざり合っていた。
おかげで、彼女の態度は「圧倒的な暴力で全てをマウントし返すヤンキー姐御」という、極めて過剰で危なっかしいものになっていた。
そんなドラガの様子を、数歩後ろから冷ややかに、しかし温かく見守っている影があった。
「――ドラガ様、あまり前を急ぎすぎると、荷車の車軸が石畳の溝に挟まって折れますよ」
実直そうな片眼鏡の奥から、冷徹かつ的確な視線を投げかけていたのは『鉄壁の母ちゃん』ことミナ・ポーター――元・1年生の小西湊だった。
両手でしっかりと握りしめた巨大な荷車の引き綱は、数々の修羅場をくぐり抜けてきたベテランポーターの誇りそのものだったが、その内面では、1年生の男の子としての記憶が激しく暴れていた。
(うう……お母さん、僕、本当はランドセル重くて泣きそうだったのに……なんで今、こんな山のような干し肉と予備のクロスボウの矢を引っ張ってるんだろ……。
しかも、先輩たちを「お母さん目線」で叱らなきゃいけない役回りだし……っ!)
いつも上級生の背中を引っ込み思案におずおずと追いかけていたはずの湊の魂は、ポーターという「パーティの生殺与奪を握る裏方」の重責に引きずり出され、いつの間にか「肝っ玉母さん」としての強烈な包容力と説教癖を身につけてしまっていた。
「ちょっと、そこの斧を担いだ筋肉娘、前方を警戒するのはいいけど、酒臭い息を撒き散らして魔物を呼び寄せるんじゃありませんよ。
あとで干し肉の配給を減らしますよ?」
「なっ、誰が筋肉娘だ! あたしは砕岩のドラガ様だぞ! あー、もう、小言の多いポーターめ、あとでその荷車ごとひっくり返してやるからな!」
「おや、私をひっくり返したら、今日の夜営の温かいスープは抜きになりますが?」
「……っ、そ、それは困る。……スープは多めにな」
威張ってみせるドワーフの戦士と、全く怯む気配のない肝っ玉ポーター。
どちらも「本来の自分である小学生の無力さ」を心の底に隠し持ったまま、異世界の大人びた仮面を必死に被り続けていた。
お互いのギャップに気がついているのかいないのか、そのちぐはぐなコンビネーションは、歪な信頼関係を生み出しながら迷宮の暗がりを進んでいく。
元・2年生の女の子と、元・1年生の男の子。
二人が背負う荷物と武器はあまりにも重く、心はどこまでも子供のままだったが、その足取りだけは、過酷な迷宮の現実を切り裂くように確かな音を立てて前へと進んでいた。