登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
夜二時。
現代日本の都市部を縦横無尽に駆け巡る光ファイバーの網目。
その最深部、暗号化された無数のデータパケットが交錯する仮想空間の片隅で、一握りの存在しか立ち入れない非合法な情報取引ノードが密かに稼働していた。
江戸時代の隠密術と現代のサイバーセキュリティを融合させた特殊な暗号通信回線――裏社会のなんでも屋『影』が管理する秘密サーバー「鳥籠(とりかご)」。
そこへ、突如として既存の防壁(ファイアウォール)をあざ笑うかのように、異常なデータストリームが滑り込んできた。
セキュリティを警告するホログラムのアラートが明滅し、画面の奥で無数のコードが破綻していく。
忍びとしての研ぎ澄まされた直感で異変を察知した篝は、薄暗いアジトのモニター前で瞬時に漆黒の苦無に手を伸ばし、涼やかな三白眼を細めた。
「……プロテクトが一瞬で突破された? 警視庁のサイバー犯罪対策課の手に負える代物じゃないわね。……何者かしら」
篝の声は、過剰な術式と訓練によって侵食しきった艶やかな大人の女性そのものだった。
しかし、その指先は現代のキーボードを打ち込み、侵入者のトレースを試みる。
だが、スピーカーから響いたのは、重厚なハッキング音ではなく、拍子抜けするほど軽快な、合成音声めいた少女の声だった。
『あ~、テストテスト。マイクテスト~。「鳥籠」の管理者さん聞こえる?
防壁の暗号アルゴリズム、江戸時代の九字切りをモチーフにしてるでしょ。構造が風流で面白かったから、ちょっと勝手に復号しちゃった』
モニターの中央に表示されたのは、一対の怪しげな黒縁眼鏡のアイコン。
続いて現れたアバターは、漆黒の背景にふわりと浮かび上がる、息を呑むほど愛らしく、どこか腹黒さを感じさせる「美幼女」のホログラムだった。
「……幼女? いえ……ただの人間じゃないわね」
篝は警戒を解かず、冷ややかに画面を見据えた。
「こちらのドメインを特定した上に、内部構造まで解析するなんて。一体何の用? 命が惜しければ、今すぐ回線を切りなさい」
『ふふ、相変わらず物騒だなぁ、くノ一のお姉さん』
画面の向こうの美幼女は、眼鏡のブリッジをくいくいと指で押し上げる仕草をして見せた。アバターの姿は可憐な少女だが、その背後に漂うのは、サイバーパンク世界の膨大なデータ世界を裏で生き抜いてきた「強か者」の気配だ。
『自己紹介が遅れたね。僕は電子生命体の「アンジェリカ・マインド」。
表のネットじゃ個人勢Vtuberとしてお小遣い稼ぎをしてるし、裏のネットじゃちょっとした情報のブローカーをやってる者さ。
……まあ、現実世界じゃ、ただの哀れな「元ガキ大将の取り巻きの女子中学生」だけどね』
「……帰還者……! 別の異世界から戻ってきた者ね」
篝の瞳に鋭い光が宿る。
「察しが良くて助かるよ」
アンジェリカは画面の中で優雅にティーカップ(のデータ)を傾けた。
「実はさ、僕たちのボス――吉岡広海っていう、プライドだけは一人前でメンタルが豆腐な元・ガキ大将がいてね。
昨日も性懲りもなく葵さんに自慢の重装甲ロボットを一撃で粉砕されて、自力修理もできずに部屋の隅で体育座りして泣いてるんだよ」
「吉岡……広海……?」
篝の脳裏に、かつて小学校のグラウンドで見かけた、いつも威張っていた下級生たちの顔が浮かぶ。
「あいつらも……異世界へ落ちていたのね」
『そうそう。でね、僕たちはサイバーパンク世界の「ヴァーチャルアイドル用アバターシステム」から派生した電子生命体として生還したんだけど……。
広海ちゃんたちアホ三人組(広海・蛍・光)が、現実の「女子中学生の身体」ってやつに直面して、完全に精神壊滅を起こしててね。
特に保健の授業の後なんて、魂が抜け落ちてたよ』
アンジェリカは「やれやれ」と肩をすくめた。
『僕としては、あのアホたちがこれ以上暴走して表の警察や変な組織に目をつけられると、僕のVtuber活動や電子マネーの資金洗浄に支障が出て困るわけ。
だから、現実世界の「裏社会のプロ」であり、同じく世界のバグを抱えて生きてる『影』の代表……小林篝さんに、相互協力を持ちかけに来たんだ』
篝は苦笑混じりの溜息をついた。
「協力? 大人の女性として裏社会で生きるわたしと、女子中学生の身体に混乱するあなたたちが、何の協力をするっていうの?」
『ギブ・アンド・テイクさ』
アンジェリカのアバターが、不敵な笑みを深めた。
『僕からは、現代のネット上に散らばる「他の異世界帰還者たち」の監視データ、および警察や治安維持機関の通信傍受ログをリアルタイムで提供する。
電子世界において、僕の検索精度は国家機関すら凌駕するからね。……そして代わりに、『影』からは二つのことを要求したい』
「二つのこと?」
『一つ目。僕たちが現実の街で「ヤバい奴ら」や「怪しい帰還者」と鉢合わせした時の、物理的な護衛と裏ルートの確保。
……広海ちゃんのロボット、一度壊されると自動修復に丸一日かかるから、無防備な時間が長すぎるんだよね。
かと言ってアバターの姿でネットワークに避難させたらそのまま迷子になりそうだし。というか「向こう」で一度なったし。』
「……いいわ。それくらいなら『影』の忍びとしてお安い御用よ。で、二つ目は?」
アンジェリカは表情を少しだけ真面目なものに変え、画面越しに篝をじっと見つめた。
『二つ目。……広海ちゃんたちアホ三人組に、現実社会で生き抜くための「メンタルケア」と「女子としての最低限の生き方指導」をしてあげてほしい。
特に、広海ちゃんの姉である「吉岡千波」っていう強力すぎるギャルから逃走するための隠密術を教えてあげてほしいんだ』
「……は?」
篝は思わず素の声を漏らした。
『本気だよ?
広海ちゃん、千波お姉ちゃんに連れ回されてパステルカラーのワンピースを着せられそうになるたびに、「俺は電子の破壊神だぁぁ!」って叫んで精神崩壊を起こしかけてるんだ。
同じく「元男子で、今は完全な女性の肉体として生きている」大先輩である篝さんなら、あのアホたちの良い導き手になれるんじゃないかなと思ってね』
篝は頭を押さえた。
戦乱の江戸時代で修羅場を潜り抜け、凄惨な術式と隠密術を叩き込まれた自分が、現代の女子中学生(中身は男子小学生)の「ギャル服からの逃走」や「思春期の悩み相談」に乗る羽目になるとは。
(……でも)
篝の胸の奥で、かつてサッカーボールを追いかけていた少年としての、そして今や弟や妹のような存在を守る「お姉さん」としての情が、微かに疼いた。
「……ふふ。呆れた交渉ね。でも、乗ったわ」
篝は苦無を鞘に納め、艶やかな笑みを浮かべた。
「情報提供の件、感謝するわ、電子生命体のアンジェリカちゃん。……それと、その吉岡広海たちに伝えておきなさい。
『忍びの基本は、置かれた環境を全肯定し、その身に馴染ませること』だと。
女子の身体に逆らうより、それを受け入れた方が、忍びとしては遥かに扱いやすいのよ」
『うわぁ、説得力が凄まじいね。広海ちゃんが聞いたら泡吹いて倒れそう』
アンジェリカは嬉しそうにパチパチと手を叩いた。
『交渉成立だね、小林篝さん。これより『影』と僕たち電子生命体グループのバックドアを接続するよ。
……あ、ついでに僕の裏口座に、小西湊さん経由で仕入れた「保存食のパッキングセット」を回してもらえると助かるな。
あのアホたち、腹が減るとすぐ泣くから』
「……湊の母性ムーブまで熟知してるなんて、本当に恐ろしい子供ね」
回線が切断され、静寂を取り戻したアジトのモニター。
篝は椅子に深く身体を預け、天井を見上げた。
「……たく。透たちといい、吉岡たちといい……。この街には、どれだけの『バグった子供たち』が溢れているのかしらね」
呆れつつも、その口元には、久しく忘れていた温かな笑みが浮かんでいた。
暗闇の中で一人、過去の傷を抱えて生きるだけだった隠密の頭領に、また一つ、賑やかで厄介な「現代の居場所」が繋がった瞬間だった。