登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
秋の深まりが一段と色濃くなった休日。
穏やかな日差しが降り注ぐ市街地の大きな公園で、星野奏はベンチに腰掛け、足元に置いた真鍮の歯車と圧力計があしらわれた特製のランドセルを見つめていた。
その背後から、リズミカルで、しかしどこか人間離れした規則正しい足音が近づいてくる。
「――おや。そのランドセル、随分と趣味のいい真鍮細工が施されているじゃないか。どこの工房の特注品だい?」
声をかけられて振り返った奏の視線の先に立っていたのは、真新しいワンピースに身を包みながらも、纏う雰囲気と眼光が明らかに周囲の児童から浮いている一人の少女だった。
黒髪のボブカットに、三白眼気味の涼しげな瞳。
一見すると小学三年生のあどけない少女にしか見えないが、その佇まいには数十年もの過酷な荒野と機械都市を生き抜いてきた「百戦錬磨の行商人兼メカニック」の風格が濃厚に滲み出していた。
時任霧子――キリコ。
彼女もまた、かつて幼稚園の年少組だった頃に『機械仕掛けの空中都市クロノポリス』へ迷い込み、過酷な環境を生き抜くために自らの肉体をサイバネ化し、10代後半の姿のまま数十年を過ごした帰還者だった。
そして先日、最下層の天空浮遊ドック層で起きた巨大コンテナの崩落事故に巻き込まれ、その強烈な衝撃の反動によって、ついに現代の地球へと生還し、なぜか小学三年生の肉体に若返ってしまったのである。
奏は、目の前に立つ少女から発せられる微弱な、しかし確実な「同類の気配」――異世界の理を刻まれた者の匂いを敏感に察知し、思わず息を呑んだ。
「その歯車の噛み合わせ……そして、その眼。あなたも……『あちら側』の人間なの……?」
キリコは片方の眉をひそめ、面白がるようにふっと片3を吊り上げて笑った。
「ほう、見れば分かるか。こっちは昨日今日こっちの世界に戻されて、制服の着方もよく分からず街をうろついてたってのに、生意気な後輩がいたもんだ。
……アタシは時任霧子。向こうじゃ『キリコ』って名乗ってたメカニックさ。お前は?」
「……星野奏。A(アストラ)-04、と呼ばれていたことも、ある……」
その名前を聞いた瞬間、キリコの表情から余裕の色がスッと消え去った。
彼女の瞳孔が細かく明滅し、サイバネ化された神経回路がかつての記憶を急激に呼び起こす。
「――A(アストラ)? 待てよ、それって……『白銀の天穹ドーム』で使われていた観測体オートマタの識別番号じゃないか。
お前、まさかあの霊導蒸気都市の……!」
キリコの声に含まれていたのは、単なる驚愕だけではない。
遠く離れた異世界の大地で語り継がれていた、あまりにも凄惨な伝説に対する畏怖と、そして生存者に対する奇跡的な邂逅への戸惑いだった。
「知っているの……? あの都市の……『大崩壊』のことも……?」
「ああ、噂程度だがね」
キリコは近くのベンチにドカッと腰掛け、遠い目をしながら語り始めた。
「クロノポリスとあの霊導蒸気都市は、空間的にも魔力的にも随分と距離が離れていたからさ、直接の災厄こそ免れたものの、商人や旅のエンジニアたちの間では大きなニュースになった。
『何百年も前に大崩壊で壊滅したはずの都市の復興支援をしている奇特な連中がクロノポリスに観光に来ていた』ってな。
……なんでも、ルシアって名前の少女と、ベルって名前のオートマタだとか、色々と耳にしたよ」
「ベル……っ!」
その名前が出た瞬間、奏の胸のコアが激しく脈打った。
かつて自分に希望をくれ、空の美しさを教えてくれた恩人。
あの黒い炎と激震の中でどうなったのかを知る由もなかった「ベル」の名が、いま別の世界を渡り歩いてきたキリコの口から語られたのだ。
「それにさ」
キリコは少し声音を落とし、痛ましげに視線を落とした。
「『白銀の天穹ドーム』の跡地には、全滅した仲間たちの墓守をしている生き残りのオートマタがいるって話も聞いた。
……そいつは、大崩壊の時に青い空への憧れを胸に地上の爆風の中へ飛び出していったおかげで、崩落する建物の外に投げ出されて奇跡的に助かったんだとさ。お前の仲間かい?」
「A-17だ……! 生きていたの……? 瓦礫の外に吹き飛ばされたあとも、ずっと……私たちの空を見守り続けてくれていたの……!?」
目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
それは、数百年もの間、胸の奥底で消えない棘となっていた「友人への心残り」というエラーログが、温かな事実として書き換わった瞬間だった。
キリコはポケットからくたびれた布のハンカチーフを取り出し、乱暴に奏の目の前に突き出した。
「泣くなよ、ガキだな。……まあ、アタシが聞いたのはあくまで巡回商人たちの戯言や伝聞に過ぎないがね。
それでも、大都市一つが丸々壊滅するような大災害を潜り抜けて、誰かがまだそこで生きているって噂が残っているだけでも、奇跡みたいなもんだろ」
キリコ自身、空中都市クロノポリスの最下層から高層スチームタワー、そして闇のブラックマーケットに至るまで、数十年を10代後半のサイボーグ女行商人として駆け抜けてきた。
命のやり取りも、治安維持を司るお堅い「ギア・ガード」の検問をギリギリで振り切った修羅場も、数え切れないほど経験している。
だからこそ、滅びた世界に残された者たちの執念や、その奇跡の重みが痛いほどよく分かるのだ。
「ねえ、キリコさん……あなたはどうして、そんなにたくさんのことを知っているの? ずっと、クロノポリスにいたんでしょ?」
キリコは苦笑いしながら、自分の小さく若返ったばかりの細い腕をぽんと叩いた。
「あそこは『機械仕掛けの空中都市』さ。
空一面を真鍮の巨雲と無数の巨大歯車が覆い尽くし、最下層の天空浮遊ドック層には全長数千キロの超弩級艦すらギリギリ係留できる。
高圧蒸気と重金属の焦げた匂いがいつでも鼻をついて、歯車駆動都市層では無数の真鍮製歯車が噛み合って都市全体の重力と浮力を生み出している……そんな圧倒的なスケールの街だったよ」
キリコの脳裏に、かつての景色が鮮やかに蘇る。
住民の足として蒸気機関車や小型飛行ポッドが飛び交い、上層の高層スチームタワーには治安法院や最先端のサイバネティクスラボがそびえ立つ。
裏通りのブラックマーケットでは、電子ジャンクパーツや異世界のレア鉱石が闇取引され、人々は「違法サイバネティクス密売組織」のトラウマから、高度なハッキング技術を持つ存在に対して過剰なまでの警戒心を抱いていた。
「お堅いギア・ガードは未登録の軍事反応に対して即座に臨検をふっかけてくるし、市民は市民で『面倒なトラブルさえ起きなければ商売繁盛で万々歳』って図太い連中ばかりだった。
……そんな場所で、アタシは自分の体をサイバネ化して、メカニック兼行商人として数十年を生き抜いたのさ」
数十年という途方もない時間。肉体の老化をサイバネティクスで遅らせ、10代後半の少女の姿のまま、機械と蒸気の海を渡り歩いてきた彼女。
しかし、そんな彼女の歴史も、コンテナの崩落事故という思わぬバグによって一瞬でリセットされ、今はこうして「小学三年生の制服を着せられた少女」として地球の公園のベンチに座っている。
「……お互いにな、ふざけた厄日を引いたもんだよ」
キリコはフッと自嘲気味に笑った。
「あっちじゃ『凄腕のメカニックの姉御』として通ってたってのに、こっちじゃランドセル背負って『3年2組の時任さん』だ。
朝の登校班じゃ班長のお兄ちゃんに『信号は手を挙げて渡りましょうね』なんて説教される始末さ。やってられねぇよまったく」
その愚痴めいた、しかしどこか人間らしい温かみを含んだ言葉に、奏は思わずクスリと笑った。
「ふふ……。私も、別の世界じゃ冷徹な観測体オートマタだったのに、今は……『お母さん』にランドセルのパッキングを点検してもらう小学生よ」
「お母さん、ねぇ……」
キリコは空を見上げた。クロノポリスの空を覆っていた真鍮の巨雲の代わりに、今の頭上にはどこまでも高く青い、地球の秋晴れが広がっている。
「まあ、悪くないさ。向こうじゃ冷たい機械油と高圧蒸気の匂いしかしなかったが……こっちの空気は、少なくとも生身の肺には優しすぎるくらいだ」
二人の少女は、しばらくの間、言葉を交わさずに並んで秋の夕暮れを眺めていた。
一つの世界は歯車と蒸気の音を響かせながら天空を巡り、もう一つの世界は神話の迷宮の記憶を抱えたまま静かに回り続けている。
異世界の理に身体を狂わされ、数十年という途方もない時間を別の姿で過ごした者同士。
痛みを共有し、失ったはずの故郷や仲間たちの微かな気配を確かめ合った二人の間に、これ以上の言葉は必要なかった。
「……そろそろ帰るわ。今日の夕飯はハンバーグらしいからね」
キリコがスッと立ち上がり、制服のスカートの裾を払いながら言った。
「あ、それじゃあ……またね、キリコさん」
「ああ。次に会うときは、もうちょっとマシな機械いじりの腕を見せてみな。……じゃあな、A-4」
キリコは背中を向け、夕日の中へ向けて軽やかな足取りで歩き出した。
その背中は、かつて数十年を過酷な空中都市で生き抜いた女行商人の誇りと、今の小学生らしい等身大の軽やかさが不思議に入り混じっていた。
奏は彼女が見えなくなるまで見送ると、真鍮の歯車があしらわれたランドセルを背負い直し、自分を待つ仲間たちのもとへ向かって歩き出すのだった。