登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
夕暮れの図書室、その最も奥まった書架の陰にある自習用テーブルには、周囲の喧騒を遮るような独特の静けさが満ちていた。
西日の黄金色の光が窓ガラスを斜めに突き抜け、積まれた参考書の背表紙や、冷ややかに光るクロエ(桐生透)の三白眼をかすかに照らし出している。
テーブルの上に広げられていたのは、数式がぎっしりと書き込まれた問題集ではなく、なぜか一冊の分厚いファッション雑誌と、コスメブランドのサンプルカタログだった。
「……なぁ、真尋。これ、本当に必要なのか?」
クロエが眉間を寄せ、まるで実戦の最中に地雷原を踏んだかのような深刻な面持ちで呟いた。
その制服の着こなしは完璧で、スカートの丈も規定通り、第一ボタンまでしっかりと留められている。
しかし、その立ち居振る舞いや、無意識に周囲の死角をレーダーのように舐め回す視線の鋭さは、どう見ても歴戦のハーフリング・スカウトのものであり、青春を謳歌するごく普通の高校二年生のそれとは決定的に乖離していた。
向かい側に座る関石真尋は、柔らかな栗色のセミロングヘアをサイドで緩く結び、清楚な微笑みをたたえながら首を横に振った。
「必要だよ、透くん。……ううん、いまは『クロエちゃん』って呼んだ方がいいのかな?」
「……どっちでもいい。
だが、この『スカートの裾の適切なプリーツの揺らし方』とか『放課後のカフェで映える自然な笑顔の作り方』の項目は、私の生存確率や索敵能力の向上に微塵も寄与しない気がするんだが」
真尋はクスクスと上品に笑い、しかしその大きな瞳には幼馴染に対する深い愛惜と、どこか切なさが入り交じった光を宿した。
小学校のあの雨の日、突然の『神隠し』によって透が目の前から消え去ってから、彼女が味わった絶望と喪失感は並大抵のものではなかった。
半年間、泣き腫らし、彼の面影を探し続けた日々。
そして今、奇跡的に帰還した幼馴染は、なぜか容姿端麗な女子高生の姿に固定され、三白眼をぎらつかせるハーフリングの戦士として帰ってきた。
「先輩」として、彼女の受けたカルチャーショックや戸惑いを少しでも和らげてやりたい――その一念が、真尋を「女子高生としての作法レッスン」という名のスパルタ指導へと駆り立てていた。
「だめっ。そこを疎かにするから、さっき廊下でクラスの女子に話しかけられた時、まるで『敵の奇襲部隊の動向を査定する冷酷な傭兵』みたいな目になっちゃってたんだよ?
もう少し、こう……ふんわりした雰囲気を出さなきゃ」
「ふんわりと言われてもな……。
私の脳内には常に、古代遺跡の宝箱に仕掛けられた毒針トラップの解除手順と、パーティーの継戦能力の計算式が常時展開されているんだ。
急に雰囲気を変えろと言われても、ハードウェアのアーキテクチャそのものが違う」
クロエが頭を抱えて机に突っ伏すと、ポケットの中で愛用の十徳ナイフがカチャリと小さな金属音を立てた。
その様子を見て、真尋はふっと表情を和らげ、テーブルの上に置かれたマグカップをそっとクロエの前に押しやった。中身は、ほんのりと甘いミルクティーだ。
「……無理しなくていいんだよ、透くん。最初は誰もが戸惑うし、私も最初は驚いたから。
でもね、こうやって隣に座って、昔みたいに他愛のない話ができるだけで、私……本当に嬉しいんだからね」
その声の微かな震えと、向けられた眼差しの温かさに、クロエの心臓が不規則な跳ね方をした。
異世界の荒野で何百回と死線をくぐり抜け、冷徹な生存確率だけを頼りに生きてきたはずのハーフリングの魂が、この世界で「関石真尋という一人の少女の初恋と献身」に直面したとき、なぜか戦闘用以外のエラーコードを盛大に吐き出してしまう。
(くそ……。ゴブリンの群れに包囲された時よりも、よっぽど心拍数が上がってるぞ……。これが『青春』という名の精神汚染フィールドか……)
クロエは三白眼を大きく見開き、動揺を隠すようにマグカップを両手で包み込んで一口飲んだ。甘さが疲労した神経回路にしみわたる。
「……分かった。少しだけ、その『女子の作法』とやらに付き合おう。
ただし、今日の訓練ノルマが終わったら、実家の裏庭で罠づくりの素材集めを手伝ってもらうからな」
「もう、しょうがないなぁ。ちゃんと付き合うよ、クロエちゃん先生?」
からかうような、しかしどこまでも甘い真尋の笑顔に、クロエは盛大に溜息をつきつつも、手元のファッション雑誌のページを渋々めくり始めた。
二人の影が夕日に長く伸びる図書室の片隅で、元・ハーフリングのリーダーによる、不器用で愛おしい「女の子レッスン」は、静かに、そして着実に進んでいくのだった。