登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
夜の静けさが街を覆い尽くす午前二時。
営業を終えた実家の中華料理店『龍華飯店』の二階、自室のベッドの上で、中内朱鳥(なかうち あすか)はスマートフォンの画面が発する青白い光の中に佇んでいた。
すっきりと結い上げた黒髪をほどき、普段のサバサバした看板娘の顔から、冷涼な三白眼を鋭く光らせる「元・下っ端妖怪女官」としての顔へ。
朱鳥は暗号化された通信プロトコルを立ち上げ、ダークウェブの深層に潜む『異世界帰還者秘匿情報網』――通称「帰還者ネットワーク」へとアクセスを開始した。
画面上に刻まれる古代文字と現代のバイナリコードが交錯するノイズ。
パスワードと、異世界の残留魔素を検知する生体波長認証をパスすると、暗黒の画面に淡い翡翠色のフォントで極秘データベース『異郷の残響録』のインデックスが浮かび上がった。
『ログイン認証:ID / 白蘭(パイラン)――アクセスを許可します』
朱鳥は小さく息を吐き出し、画面をタップした。
戸籍や世間の記憶の上では「最初から行方混乱にならず、実家の中華料理店を元気に手伝ってきた一人娘」として世界は塗りつぶされている。
しかし、後宮の激しい陰謀の渦中で焼き尽くされた朱色の宮廷女官服の触感や、鼻を突く焦げくさい香の匂い、そして鳥系の妖禽類として背中に生えていた幻の羽の重みは、未だに彼女の魂にこびりついて離れない。
何より――あの日、お使い帰りの裏路地で出会った「あの存在」の記憶が、朱鳥の胸を強く締め付けていた。
「……頼むから、消えてないでよ。秋吉……」
朱鳥が指先で操作するのは、ネットワークの中核機能の一つである『未帰還者リスト』の検索シークエンスだった。
通常、異世界へ引きずり込まれた人間が現実へ生還するためには、空間の理が働く「揺り戻し」の条件を満たす必要がある。
しかし、このネットワークに蓄積された数々のケーススタディが示す通り、「揺り戻し」には絶対的な例外が存在する。
一つは、現地で「自分はこの世界の住人である」と完全に自我を適応させ、世界の所属が切り替わってしまった場合。
そしてもう一つが――「複数体に分裂してしまった場合」だ。
画面にスクロール表示される複雑なロア(伝承)と分析データ。
『ケース事例:多重分裂体における転移確率の減衰について』
『――なんらかの理由で同一人物の魂や肉体が複数の独立個体に分かれた場合、「揺り戻し」の発生条件は全個体の同時転移へと書き換えられる。
ランダム性の極めて高い次元歪曲において、大規模な次元歪曲現象にまとめて巻き込まれでもしない限りは、複数個体が同一のタイミングで転移確率を引き当てる数値は限りなくゼロに近い――』
朱鳥は唇を噛み締めた。
まさに、彼女が追っている同級生――秋吉莉奈が、このケースの渦中にいた。
莉奈は異世界において、凄惨な邪仙の秘術によって「魂(幽霊)」と「肉体(キョンシー)」の二つへと無残に引き裂かれてしまった。
普通ならば絶望して消滅するだけの運命。
しかし莉奈は持ち前のガッツと底意地で邪仙の呪縛を力ずくで叩き折り、「半透明の幽霊として指示を出す司令塔」と、「額の呪符を剥がし、自我を芽生えさせた強靭なキョンシーの肉体」という、二人で一つの奇妙極まる最強コンピを結成したのだ。
(あいつ……容姿が大きく変わってたから向こうでは私のことに気づいてなかったけど……間違いなく秋吉だった。
あんな、額の札を剥がしてスタイリッシュな服着て、幽霊の自分と二人三脚で悪党を叩きのめしてるやつ、世界中探してもあいつしかいない……!)
朱鳥の指先が、未帰還者リストの「華妖同源世界・セクター4」の項目を叩く。
最新の同期ログが更新され、微弱な魔力シグナルとともに、現地からの噂話がテキストとしてテキストボックスに流れてきた。
『対象名:秋吉 莉奈(コード:二身一体の迷い子)』
『生存シグナル:確認。現在、異世界の都市「朱雀街」の裏路地アパートを拠点に街のなんでも屋として活動中』
『近況レポート:現地裏社会において、夜の闇を駆ける「見えない軍師と無敵のコンビ」として都市伝説化。最近は二人でカフェ巡りと手作りリメイク服の制作にハマっている模様。戦力・精神状態ともに極めて良好』
画面に表示されたその生存報告を見て、朱鳥は拍子抜けしたように「ふっ……」と吹き出してしまった。
「……何が『カフェ巡りにハマっている』よ。
肉体と魂を引き裂かれて異世界に取り残されてるってのに、たくましくオシャレ楽しんでんじゃないわよ、バカ……」
目元に浮かんだ微かな熱を指先でぬぐい、朱鳥は深い安堵の溜息をついた。
二体に分裂してしまったが故に、「揺り戻し」の条件を失い、地球へ帰ることができなくなった莉奈。
けれど彼女は、絶望の淵に沈むどころか、自分の「もう一つの肉体」と対等な最高の相棒として手を取り合い、異世界の街で力強く、そして等身大の少女としておしゃれに生き抜いていた。
朱鳥はログの末尾に、自分が収集した最新の魔素波長データを暗号化して追加アップロードした。
『情報提供:白蘭。対象のシグナルは安定。異世界からの逆流の兆候なし。……相変わらず元気にやってるみたいだから、余計な手出しは不要。以上』
キーを打ち込み、送信完了の文字が表示される。
この『帰還者ネットワーク』は、生き残った者たちが傷を舐め合う場所ではない。
かつて同じ地獄をくぐり抜け、二つの世界のバグを抱えて生きる者たちが、離れ離れになった同胞の「今」を感じ取り、歪んだ世界の中で正気を保ちながら生きていくための、目に見えない絆なのだ。
それぞれの形でこのデータベースに辿り着いた者達――小西湊が帰還者たちの存在に行き着き、小林篝がスキルの存在を探り出したように。
朱鳥もまた、このスクリーン越しに映し出される遠い異世界の友の無事を確かめることで、明日もまた実家の中華料理店で笑顔で接客し、重いビールケースを運ぶための力を得ていた。
「……さて。明日も朝から仕込みがあるし、寝るか」
スマートフォンの画面を閉じ、部屋に再び静かな闇が戻る。
中華鍋を振る腕の筋肉を軽くほぐしながら、朱鳥はベッドの中に潜り込んだ。
遠く離れた異世界の空の下で、今日も夜の街を颯爽と駆けているであろう「二人でひとりの親友」に、心の中でそっとおやすみを告げながら。