登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
目を閉じると、暗闇の向こう側に、見知らぬ誰かのアルバムが勝手に開いていく。
それは自分が経験したはずのない記憶――しかし、今の自分の肉体と魂が「確かに通り過ぎてきた過去」として、鋭い痛みを伴いながら脳裏に焼き付いていく映像だった。
トタン屋根を叩く激しい雨の音。
油と鉄錆が混じった、むせ返るような裏通りの匂い。
そして、泥水をすする日々のなかで、自分の喉から絞り出されたはずの、けれど聞き覚えのない冷徹な笑い声。
(――これは、誰の記憶だ?)
頭の中で、桐生透という少年の記憶が、クロエ・セージという盗賊の足跡に踏みにじられていく。
映像はスライドショーのように、次々と彼女の脳裏を逆巻いて流れていった。
最初に浮かび上がったのは、誰も信用できないスラム暮らしの記憶だった。
まだ小さな体でスラムの冷たい石壁に背を預け、冷え切ったスープを一口すする少女の姿。
『信用できるのは自分の足と、このナイフの切れ味だけだ。仲間なんて言葉を口にした瞬間、お前の背中は無防備な的になる』
そんな冷徹な教訓が、胸の奥底に鉛のように沈み込んでいる。
昨日まで「みんなで一緒に帰ろう」と笑い合っていたはずのクラスメイトたちの顔が、その冷たい教訓のせいで、なぜか「いつか自分を裏切るかもしれない脆い存在」に見えてしまい、心臓がキュッと締め付けられた。
次に映るのは、闇夜に紛れて貴族の屋敷の塀を乗り越える記憶だ。
月明かりの下、心臓の音を殺し、音もなく錠前を外す指先の感覚。
罠の仕掛けられた床板を踏み抜いた瞬間に冷や汗が背筋を伝ったあのスリルと、それを切り抜けた時の歪な高揚感。
『鍵の鳴る音で飯が食えると思え』
算数のドリルを解いていたはずの脳みそが、いつの間にか「どれだけ高価な宝石を無音で盗み出せるか」という犯罪のロジックで快感を覚えている。
その事実に気づくたび、透としてのアイデンティティが音を立てて剥ぎ取られていく。
ふと、右の脇腹に手をやると、そこには現実の小学生の体には絶対にない、古びた刀傷の痕が生々しく指先に触れた。
去年の冬、北のゴブリン街道で深手を負ったときの記憶が、痛覚を伴って蘇る。
あのとき血を流したのは誰だ。
あのとき寒さに震えながら夜を明かしたのは誰だ。
お母さんが作ってくれた温かい味噌汁の味を思い出そうとしても、脳裏に浮かぶのは、たき火の煙で燻された干し肉の脂の味ばかりだった。
偽りの記憶は、ただの「知識」ではない。
それは彼女の肉体に刻まれた筋肉の記憶であり、生死の境目をくぐり抜けてきた本能そのものだった。
――忘れたくない。
自分が朝、お母さんに「行ってきます」と手を振ったこと。
友達と校庭で泥だらけになってサッカーをしたこと。
そのすべてが、異世界の冷たい泥の中に急速に溶けて消えていく。
「……あたしは、桐生透だ……っ」
虚空に向かってか細く呟いたその声は、しかしハスキーで冷ややかなクロエのものへと完全に塗り替えられていた。
脳裏を支配する何百もの修羅場の記憶が、彼女に語りかける。
『もう昔の自分には戻れない。お前はクロエだ。この迷宮を生き抜くための、冷酷な盗賊だ』
記憶の浸食が完了しつつある頭を抱えながら、クロエは震える手で腰のナイフの柄を握りしめた。
涙を流したいのに、涙腺の代わりに冷徹な戦闘本能が熱を帯びる。
かつての記憶と、異世界の呪縛。
その狭間でぐにゃぐしゃに引き裂かれながら、彼女は目の前に広がる暗い迷宮の奥へと、拒む間もなく足を踏み出していくのだった。
純白のシスターローブの裾を引きずるようにして、白百合のレン――日向蓮は冷たい聖堂の隅に崩れ落ちていた。
脳の奥底に流し込まれた「記憶」は、あまりにも静かで、あまりにも重かった。
雑踏の中を友達とゲーム機を片手に走り回った記憶の代わりにそこにあったのは、冷たい石の床に何時間も額をつけ、幾千もの名前なき魂のために祈り続けた果てしない孤独の日々だった。
(――主よ。我が祈りが届くのならば、この迷宮の底にあるすべての闇を浄化したまえ)
自分の口から、あまりにも淀みなく、あまりにも気高い聖職者の言葉が零れ落ちる。
ふと差し出した手のひらは、泥遊びで汚れたはずの10歳の少年のそれではない。
聖油と清め水に浸され、幾多の致命傷を奇跡の光で癒やしてきた、白く滑らかな修道女の手だった。
頭を覆うヴェールの下で、整った中性的な銀白色の髪が、微かな風に揺れている。
(違う……私は日向蓮だ……。お父さんとお母さんと一緒に、日曜日はスーパーのフードコートでラーメンを食べたんだ……っ!)
心の中で必死に叫んでも、その声はもう誰にも届かない。
「白百合のレン」という完璧な聖職者のペルソナが、彼女の脳髄の隅々まで染み渡り、かつての「日向蓮」という記憶をガラス細工のように細かく砕いていく。
かつて名前や顔があったはずのクラスメイトたちの記憶は、今やただの「遠い過去の幻影」にしか思えない。目の前にあるのは、目の前で血を流す仲間と、過酷な神の試練だけだった。
「……はぁ、はぁ……っ、うそ、だ……」
涙を流そうとした。けれど、流れ出たのは涙ではなく、どこか神秘的な輝きを帯びた聖なる光の粒だった。
シスターとしての気高い気質が勝手に背筋を伸ばさせ、どんなに恐怖で震えていても、顔だけは穏やかな慈愛の微笑みを崩させない。
その不気味なまでの強制力に、蓮の自我は音を立ててすり減っていく。
その時、暗闇の向こうから、傷ついた魔物の唸り声とともに、仲間たちの荒い息づかいが聞こえてきた。
「おい、レン! 前衛の防壁が破られた! 早くそこの負傷者に回復魔法を飛ばせ!」
ハーフリングの盗賊――クロエの切迫した声が響く。
その呼び声を聞いた瞬間、思考するよりも早く、レンの肉体が勝手に動き出した。
迷いも恐怖も、かつての少年の記憶すらも、純白のローブの奥底へと無理やり押し込められていく。
彼女の指先が鮮やかに光り輝き、黄金の聖印が空間に聖なる文字を描き出す。
「――大いなる御光よ。痛みを恐れぬ強さを、我が仲間に……」
その声は、かつてのやんちゃな男の子のものではなかった。
それは迷宮の闇を切り裂く、気高く、そしてどこか哀しいほどに美しい、神殿の聖女の響きそのものだった。
完全に塗りつぶされた自我を抱えながら、レンは微笑む。
もう戻れないと知っていながら、彼女は差し伸べられた仲間の手を取るために、今日も聖なる光を掲げ続ける。
ふさふさとした銀色の大きな尻尾が、不機嫌そうに石畳をピシッと叩いた。
『多重詠唱のムギ』――かつて狐塚麦という名前の小学3年生だった少女は、いまや暗い迷宮の隅で、頭を抱えて身悶えしていた。
脳裏を渦巻くのは、ちびっ子向けアニメの主題歌でも、昨日友達と遊んだおやつの記憶でもない。
何百年と受け継がれてきた古代魔術の膨大な体系と、新しい呪文の構造を見ただけでヨダレが出そうなほど発狂しそうになる、偏屈でマニアックな魔術オタクの狂気だった。
(――ああっ、ダメだ! 脳ミソが勝手に魔力回路のシミュレーションを始める……!
今すぐルーン文字で埋め尽くされた古文書をくれ、寝かせてくれ、私を研究室に帰して……っ!)
頭をかきむしるその指先からは、興奮と魔力の過剰分泌によって、チリチリと微弱な電気がスパークしていた。
元は社交的で小動物系だったはずの愛嬌はどこへやら、今の彼女を構成しているのは「未知の魔法に対する異常な執着」と「自分より低俗な魔術理論を吐く奴は全員ゴミクズのように見下す」という最悪レベルの偏屈さだった。
だけど、そのすぐ下で、もう一人の自分が必死に泣き叫んでいる。
(お母さん……! 私、宿題のノート、机の上に置きっぱなしにしたままなの……! なんで、なんで私の尻尾がこんなに勝手に動くの……!)
人格の侵食は、彼女の感情をめちゃくちゃに掻き回していた。
新しい呪文を発見した瞬間に「うひょひょ! 最高に興奮するんですけどこの構造!」と狂ったような笑い声をあげたかと思えば、その直後に「うわぁぁぁん、おうち帰りたいよぉ!」と小学生の女の子のトーンで大号泣しだす。
情緒の落差が激しすぎて、近くにいた仲間たちもドン引きするほどの狂いっぷりだった。
「おい、ムギ。いつまでそんなところで地面に這いつくばってやがる。そろそろ次の階層へのトラップを解除するぞ」
クロエ(桐生透)が冷ややかに声をかけてきた。
その言葉に、ムギはガバッと顔を上げた。
その瞳は、狂気と恐怖でギラギラと充血していた。
「ねえクロエ! 私、さっき気づいちゃったんだけど、この迷宮の第4階層の空間圧縮魔法、完全に私の知ってる基本理論の枠を超えてるの!
これ、術式を逆算してアンインストールすれば、一発で空間ごとこのクソみたいなダンジョンを吹き飛ばせるかもしれないの!
すごくない!? 天才じゃない私!?」
「……お前、何言ってるんだよ。早く来い、魔物が来る」
「聞いてよ! 私のシルバニアファミリーのウサギちゃんが今どうなってるか気になって夜も眠れないの!
でも、それ以上にあの壁のルーン文字のハネ方が美しすぎて私、もう限界――!」
「うるさい、黙って歩け!」
クロエに首根っこを掴まれ、ムギは「ぎゃー! 私の研究を邪魔しないでー!」と銀色の尻尾をジタバタと暴れさせながら引きずられていった。
本来の自分を完全に忘れ去ることもできず、かといって異世界の危険な魔術オタクとしての記憶も脳髄を支配して手放せない。
ぐにゃぐしゃに引き裂かれた自我を抱えたまま、狐人の少女は、危険な電撃を指先から散らしながら、次の獲物を求めて暗い通路へと消えていくのだった。
轟くような地響きとともに、苔むした迷宮の床に巨大な両手斧が叩きつけられた。
『砕岩のドラガ』――かつて小学2年生の女の子、轟葵だったその小さな肉体は、今や身の丈の倍はある超重量級の武器を軽々と操る、屈強なドワーフの戦士としての完成形を迎えつつあった。
頭をよぎるのは、遠い地下鉱山の記憶や、武勇を誇るドワーフの戦士たちが酒場で杯を交わした豪快な夜の数々だ。
『力こそが正義。泣き寝入りするくらいなら、その鉄槌ですべてを粉砕しろ』
脳裏に染みついたその暴力的なまでの生存哲学が、彼女の意思とは無関係に筋肉を膨らませ、野太い歓声を喉から引き出させる。
しかし、そのプレートメイルの重装備の下で、かつての葵は真っ青になりながら震えていた。
(いやだ、怖い、ここどこ……っ!
私、ただ学校の給食であまったプリンをジャンケンで負けて泣いてただけなのに……なんでこんな、全身鉄だらけで斧なんか振り回してるの……っ!)
共働きだった両親の帰りを待ちわびて夜の部屋で一人泣いた寂しさと、学校のクラスの男子たちにからかわれて悔しかった記憶。
そのすべての弱さとトラウマが、ドワーフの豪放磊落な性格と混ざり合い、あまりにも歪な形ですべてをねじ伏せようとしていた。
「ふん、なんだこの薄暗い洞窟は! あんなコソコソ隠れる虫けらどもめ、まとめてこの斧の錆にしてやるわ!」
そう豪快に笑い飛ばしながらも、ドラガの眼の端にはうっすらと大粒の涙が浮かんでいた。
強がらなければ、恐怖でその場に崩れ落ちてしまいそうだからだ。
男子なんかに絶対負けない。
誰にも舐められない。
その意地が、彼女を最強のドワーフ戦士の仮面で無理やり武装させている。
「待ちなさい、そこの筋肉娘、また大声を出して魔物を引き寄せる気かしら?」
後ろから冷ややかな声を飛ばしたのは、荷車を引くミナ・ポーターだった。
「誰が筋肉娘だ、この肝っ玉ババア! あたしは砕岩のドラガ様だぞ! 文句があるならその荷車ごとこの斧で縦に割ってやろうか!」
「おや、私を割ったら、今日の夜営の干し肉のチーズ焼きは全没収ですが?」
「……っ、そ、それは困る。……チーズは多めに乗せろ」
威勢よく怒鳴り返したものの、その声音の裏には、どこか心細そうな女の子の揺らぎが混ざっている。
完全にお姉さんたちのタメ口を叩くドワーフの戦士になりきることもできず、かといってかつてのいじめられっ子に戻ることもできないまま、彼女は震える両手で巨大な両手斧をしっかりと握りしめた。
泣き虫な女の子の心と、破壊の血が騒ぐドワーフの筋肉。
そのちぐはぐな矛盾を抱えたまま、ドラガはガタガタと震える膝を気合で怒鳴りつけ、迷宮の闇へと再び一歩を踏み出すのだった。
巨大な荷車の引き綱が、ミナ・ポーターの手のひらにしっかりと食い込んでいた。
実直そうな片眼鏡の奥から、冷徹かつ的確な視線を前方に投げかけているのは、『鉄壁の母ちゃん』こと小西湊――元・1年生の男の子だった。
脳裏を支配する記憶は、幾多の修羅場をくぐり抜け、荒くれ者たちを容赦なく手玉にとってきた歴戦の女性ポーターのものだ。
『荷物を落とすな、命を落とすな。前衛がどれだけ調子に乗ろうとも、最後にパーティを生還させるのは裏方の采配だ』という、冷徹なまでの実務者としての誇りが、彼女の思考を完全に支配していた。
(――お母さん、僕、本当はランドセルが重すぎて、いつも電柱の影で泣きそうになってたんだよ……。
なんで今、こんな山のような干し肉の束と、クロスボウの予備の弦を引っ張ってるんだろ……)
荷車の底で、湊としての意識が小さく、消え入りそうな声で呟いていた。
しかし、そのか細い感傷は、ポーターとしての図太い生存本能によって一瞬でかき消されていく。
気がつけば、彼女の口からは「お姉ちゃん」や「お兄ちゃん」どころか、人生の酸いも甘いも噛み分けた肝っ玉母さんさながらの説教が、すらすらと飛び出すようになっていた。
「おい、そこの前衛ども。少しは足音を静かに歩きなさい。
そこのハーフリングは罠に気を取られて荷車の進路を塞ぐな、そこのエルフはツンケンしてないで索敵に集中し、そこのドワーフは酒臭い息で魔物を引き寄せるんじゃありませんよ!」
振り返りながら放ったその一喝は、あまりにも堂に入ったもので、文句を言おうとした先輩パーティのメンバーたちを逆に「はっ……すみません、母ちゃん……」と気まずそうに黙らせるほどの威圧感を放っていた。
(違う、僕は男の子で、1年生で、お母さんの後ろをただついていくだけの……!)
そう叫ぼうとしても、喉から出る声は、すっきりと通る大人の女性の響きだった。
かつて上級生の背中をおずおずと追いかけていた引っ込み思案な少年の魂は、いまや「パーティの生殺与奪を握る裏方」という過酷な重責に縛り付けられ、誰も逆らえない圧倒的な「お母さん」の仮面を被り続けるしかなかった。
「まったく……手のかかる子供たちを持ったものですわね」
独り言のように小さく吐き捨てると、ミナはきっちりとまとめたシニヨンから一筋垂れた髪を指で払い、ガタゴトと音を立てる荷車の引き綱をさらに強く握りしめた。
自分が本当は誰だったのか。
その答えがどんどん遠ざかっていくのを感じながらも、彼女は泣き言を漏らす暇すら与えてくれない過酷な迷宮の闇へと、その確かな足取りを進めていくのだった。