登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
放課後の西日が差し込む理科準備室は、独特の匂いに包まれていた。
ガラス器具を消毒した消毒用アルコールのツンとした香り、使い古された木製実験台の渋い油脂の匂い、そしてはんだごてが熱せられて鉛が溶け出すときの香ばしく煙たい臭気。
そのカオスな空間の中心で、理科部1年の綿貫稲穂(わたぬき いなほ)は、三つ編みおさげの眼鏡を押し上げながら、深々とした溜息を吐き出していた。
「……狐塚先輩、城之内先輩。一応確認なんですけど、今日の部活動の予定って『新入部員歓迎を兼ねたカルメ焼きの科学的検証』でしたよね?」
「そうだよ、稲穂ちゃん!」
前髪をカラフルなピン留めで適当に固定した2年の城之内順子が、両手に持った大型のマイナスドライバーと圧着ペンチをジャキジャキと鳴らしながら振り向いた。
「でもさぁ、カルメ焼きって要するに重曹の熱分解で二酸化炭素を発生させて泡立てるわけじゃん?
だったら、ガスバーナーの火力調整だけじゃ微小な温度制御が甘いと思うわけ!
だからこの理科室の古びた加熱式スターラーの制御基板をバラして、直交波周波数制御のミリ波加熱モジュールに改造しようと思ってさ!」
「説明書? 読んでなーい! だってネジが四つあったら全部外せば開くじゃん! あはは!」と無鉄砲にケラケラ笑いながら、順子は校内備品の精密機器の裏蓋へ容赦なくドライバーを突き立てている。
「待ちなさい順子! その機器は来週の2年生の理科の実験で使う公認備品よ!
破壊したらまた顧問の原田先生に三時間くらい説教食らって反省文三枚提出になるわよ!」
パーカーのフードにつけた手作りのフェルト製狐耳をぴこぴこと揺らしながら、部長の狐塚麦が割り込んだ。
外ハネの髪を大きく跳ねさせ、指先に黒ずんだチョークの粉をつけた麦は、一見すると理科室の備品を守る良識ある部長に見えた。
……見えたのは、一瞬だけだった。
「だいたい、たかが重曹(炭酸水素ナトリウム)の熱分解ごときに機械的改造など不要!
必要なのは真なる触媒と、分子の結合角を歪める『波動収束』よ!」
麦はカッと目を剥くと、白衣のポケットから怪しげな黒いノートを取り出し、卓上のビーカーに向かって身乗り出した。
「いいかい稲穂ちゃん、重曹に少量のクエン酸と、この私が調合したアルカリ金属錯体――いや、古代千年の智恵たる『第三種疑似エーテル触媒』を三滴垂らす! するとどうなると思う!?
熱力学第二法則を一時的に局所バイパスし、砂糖液の粘性を保ったまま膨張率が通常の三千%に跳ね上がるのだ! フハハハハ! これぞ科学と魔導の融合、超膨張カルメ焼き(アルティメット・フクレコ)計画!!」
指先でバチバチと静電気がスパークするような幻覚(と本人の異世界での情熱)を散らしながら高笑いする麦。
稲穂は完全に目が死んだ状態で、冷めた紅茶のカップを手に固まっていた。
(……出たよ。また始まった……。狐塚先輩のマッドサイエンティストモードと、城之内先輩の暴走解体モード……)
稲穂は理科部における唯一の「常識の堤防」だった。
入部前は「科学の楽しさを学ぶ静かな文化部」だと思っていたのに、蓋を開けてみれば、片や説明書を一切読まずに感性とノリだけで精密機械を解体し、過電流でブレーカーを落とす破壊神。
片やいつもは破壊神を止める側なのに、科学実験が絡んだ途端にブレーキがぶっ壊れる中二病マッドサイエンティスト。
「……狐塚先輩。その『第三種なんたら』って、要するにただの濃縮クエン酸水溶液に食用着色料の青を入れたやつですよね?
呈色反応で青く光ってカッコいいからって、怪しい名前つけるのやめてください。
あとノートの表紙に『魔導真書・第三巻』って黒の油性ペンで書くのも痛いのでやめてください」
「ぐぬっ!? い、痛くないわよ! これは正式な実験記録! 決して中二病的なネーミングセンスなんかじゃない!」
麦が図星を突かれてフェルトの耳をシナッと倒し、顔を真っ赤にしてノートを胸元に隠す。
「はいはい、じゃあ混ぜるよー!」
順子が制御基板の分解を諦め(ネジを一本失くして誤魔化すようにポケットに突っ込み)、ステンレスのおたまに砂糖水と重曹を放り込んで、ダイレクトにガスバーナーの火にかけた。
「あっ、順子! 混ぜ方が雑過ぎる! 8の字を描くように撹拌しないと温度ムラが――」
「大丈夫だって! 勢いとノリだよノリ!」
ボカンッ!!
盛大な音とともに、おたまから溢れ出した白濁した泡が、まるで生き物のように爆発的に膨れ上がり、天井に向かって極大のカルメ焼きの塔を形成した。
甘い焦げた匂いが部屋充満し、天井の火災報知器が「ウィーン」と不気味な予備動作の音を立て始める。
「……あ」と顔を真っ黒にした順子。
「ふはは……見て順子、稲穂ちゃん! 膨張率は計算通り……いや、ややオーバーヒートかしらね!」と半ば焦げたカルメ焼きの巨大塔を見上げて満足気に腰に手を当てる麦。
稲穂は静かに眼鏡を外し、指先で眉間を強く揉んだ。
「……お二人とも。報知器が鳴る前に窓を全開にして、その巨大な焦げた砂糖の塊を回収してください。
あと、今日の掃除当番はお二人ですからね」
「はーい……」
「くっ……稲穂ちゃん、君は優秀な助手だけど、時々私に厳しいわね……」
ハタキと雑巾を手にした暴走コンビが渋々掃除を始めるのを見届けながら、稲穂は深く息を吐き出した。
あまりにもカオスで、あまりにもフリーダム。
けれど、この破天荒な理科準備室の日常が、どこか愛おしく思えてしまう自分に気づき、稲穂は小さく苦笑いを浮かべながら窓を大きく開け放つのだった。