登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
深い眠りに落ちた彼女たちの意識は、奇妙なねじれを孕みながら、かつて「現実」だったはずの場所へと滑り込んでいく。
それは、ほんの数日前まで当たり前のように続いていた、けれどもう二度と戻らない、眩しくて頼りない日常の風景だった。
・桐生透(元・6年生男子/班長)の夢
コンクリートの照り返しが眩しい、初夏の通学路。
黄色い登校帽をきっちり被り、紺色のランドセルを背負った透は、いつものように列の先頭を歩いていた。
後ろからは、下級生たちの賑やかな話し声や、ランドセルが擦れる音が聞こえている。
「ほら、前見て歩かないと転ぶぞ。もうすぐ横断歩道だからな」
そう言って振り返ったはずなのに、なぜか誰もいない。
振り返った視界の先には、どこまでも続く真っ暗な迷宮の石畳と、錆び付いた鉄格子の扉がぽっかりと口を開けていた。
「……あれ? みんなは……?」
焦って自分の手を見下ろすと、そこにあったはずのスニーカーの汚れや自分の小さな手のひらは消え失せ、代わりに闇夜に鈍く光る革のグローブと、じゃらと音を立てる盗賊の鍵束が握られていた。
『お前の背中を預けられるのは、お前自身だけだ』
頭のなかで冷酷な声が囁き、振り返った冷たい壁に、自分の見慣れない「ハーフリングの少女」の影が黒々と映し出されていた。
・神崎凛(元・5年生女子)の夢
放課後の誰もいない教室。
西日が西の窓から差し込み、木の床をオレンジ色に染めている。
凛は黒板の前に立ち、チョークで明日の学級委員の係決めを書いていた。ふと窓の外を見ると、校庭の桜の木の枝に、なぜか見たこともない黄金色の鳥が止まってこちらをじっと見つめている。
(きれいだな……)
そう思った瞬間、窓ガラスが粉々に砕け散り、激しい冷気が教室を飲み込んだ。
教室の机や椅子がみるみるうちに苔むした石の壁へと変わり、気がつけば彼女は鬱蒼と茂る薄暗いエルフの森の奥深くに立っていた。
自分の足元は上履きではなく、しなやかな革のロングブーツ。
背中には、自分の背丈ほどもある長大な弓が、まるで体の一部のように重たく張り付いている。
「いや、私、まだ宿題終わってないのに……!」
そう叫ぼうとした口から零れ落ちたのは、人間をどこか冷ややかに見下ろす、高慢で流暢なエルフ語の響きだった。
・日向蓮(元・4年生男子)の夢
夏休みの児童館。
エアコンの効いた部屋で、蓮は悪ガキ仲間の茂と一緒に汗だくになりながら対戦ゲームの画面にかじりついていた。
「よっしゃ、勝った! お前の負けな!」
大笑いしながら隣の茂の肩を叩こうと手を伸ばした瞬間、茂の顔がぐにゃりと歪み、ただの白い石膏像のように崩れ落ちた。
部屋の床が抜け落ち、蓮の身体は底の見えない暗闇へと真っ逆様に落ちていく。
冷たい風が耳を掠め、気がついたときには、彼女――いや、彼は、見たこともないほど巨大で荘厳な大聖堂の石畳に膝をついていた。
目の前には、天井まで届くような圧倒的なスケールのステンドグラス。
頭を垂れた無数の信徒たちが、自分に祝福の祈りを捧げている。
「待って、俺、男の子だよ……? なんでこんなドレスみたいな服着て……」
自分の胸元を押さえると、そこにあったのは温かい心臓の鼓動ではなく、冷たく光り輝く黄金の聖印の重みだけだった。
・狐塚麦(元・3年生女子)の夢
日曜日のリビング。
麦は床に寝そべり、お気に入りの色鉛筆で、スケッチブックいっぱいに可愛いウサギの絵を描いていた。
お母さんがキッチンでホットケーキを焼いている甘い匂いが、部屋いっぱいに漂っている。
「ねえお母さん、見てみて! このウサギさん、空を飛べるんだよ!」
そう言って顔を上げた瞬間、リビングの壁がパキパキと音を立ててひび割れ、そこから大量の青白い魔法陣が溢れ出した。
甘い匂いは消え去り、鼻をつくのは古文書の埃とオゾンの匂い。
気がつけば、彼女は無数の本棚に囲まれた薄暗い研究室の真ん中に座っていた。
頭の上では、ふさふさとした銀色の狐耳がピクピクと風の動きを捉え、指先からはパチパチと制御しきれない魔力の電撃がスパークしている。
「うわっ、なにこれ……! 私のスケッチブックが、全部古代の呪文書に変わってる……!?」
泣き叫びながらページをめくろうとした指が、勝手に恐ろしいほど高度な空間移動の詠唱をスラスラと紡ぎ始めてしまい、彼女は自分の意志とは無関係に動く肉体に恐怖で震えた。
・轟葵(元・2年生女子)の夢
雨上がりの公園。
葵は一人でブランコに揺られていた。
共働きの両親が迎えに来るまでの間、少しだけ寂しさを紛らわせるように、ぐっと強く鎖を握りしめて足を蹴り上げる。
ふと、公園の柵の外を見ると、クラスの意地悪な男子たちがこちらを指さして何かを笑っていた。
「……また、あたしをいじめるんだ……」
悔し涙が頬を伝おうとしたその瞬間、公園の景色が音を立てて崩壊し、ドロドロとした暗い地下水路の底へと引きずり込まれた。
冷たい泥水に足を取られ、恐怖で叫ぼうとしたとき、彼女の小さな身体が突然、内側から激しく膨れ上がった。
骨がきしみ、筋肉が異常なまでの密度で盛り上がり、気づけば両手には自分の身長の何倍もある、血と錆にまみれた巨大な両手斧が握られていた。
「誰だ……誰があたしを笑うんだ……! 全員、この斧でぶっ叩いてやるからな……!」
寂しがり屋だった女の子の声は消え失せ、その喉からは地底を揺るがすようなドワーフの荒々しい雄叫びが響いていた。
・小西湊(元・1年生男子)の夢
夕暮れの通学路。
湊は、少し大きめの黄色い登校帽を目深に被り、目の前を歩く上級生たちの背中を小さな足でおずおずと追いかけていた。
ランドセルがやけに重くて、なんだか泣き出したい気分だった。
「……お兄ちゃん、待ってよ……」
そう声をかけようとした瞬間、目の前を歩いていた上級生たちの背中が、一瞬ですべて霧のように消え去った。
残されたのは、自分ひとりと、目の前にぽつんと置かれた異様に大きな荷車だけだった。
「あれ……? みんな、どこ……?」
おそるおそる荷車の引き綱に手をかけた瞬間、湊の身体が一気に大人へと引き延ばされていく。
実直な片眼鏡が鼻の上にかけられ、背筋がピンと伸び、かつての気弱な少年の心は、幾多の修羅場を乗り越えてきた「肝っ玉母さん」としての重厚な責任感に塗りつぶされた。
「まったく……これだから子供は手がかかるんです。さっさと荷物をまとめなさい」
そう冷徹に呟いた自分の声が、すっかり大人の女性のものになっていたことに気づいたとき、湊の意識は完全に「現実の夢」から引き剥がされ、冷たい迷宮の現実へと引き戻されたのだった。
目を覚ましたとき、脳内には二つの異なる家族の風景が同時に存在していた。
ひとつは、昨日の朝まで当たり前だった「現実」。
夕飯のハンバーグの匂いが漂うリビング、疲れて帰ってきたお父さんのスーツの肩、テレビの音、そして「いってらっしゃい」と玄関で送り出してくれたお母さんの優しい笑顔。小学生としての温かい温もりが、そこには確かにあった。
もうひとつは、頭の奥底にこびりついて離れない「偽りの過去」。
幾重もの冬を越えたスラムの冷たい石造りの小屋。
血の匂いが染み付いた暗殺ギルドの隠れ家。
あるいは、厳かな大聖堂の静寂、深いエルフの森の木漏れ日、酒場で荒くれ者たちが杯を交わす地下鉱山の熱気。そこには「親」の顔などなく、あるのは過酷な生存の記憶と、冷徹に受け継いできた血の繋がりだけだった。
その二つの記憶が、脳髄の中で激しく衝突する。
「お母さん……」
布団代わりに敷いた粗末な毛布の上で、クロエ――かつて桐生透だった少女は、掠れた声で呟いた。
脳裏に浮かぶのは、今朝まで手を振ってくれた母親の顔だ。あたたかくて、少し心配性で、名前を呼べばすぐに抱きしめてくれた人。
しかし、その直後、もう一つの記憶が冷酷に割り込んでくる。
『お前を育てたのはスラムの老いた盗賊だ。生き残るために盗みの手ほどきをし、失敗すれば冷たく背中を叩いたあの男だけだ。
そんな甘ったれた幻影にすがっているから、お前は足手まといになるのだ』
「うるさい……! そんなの知らない、私にはお母さんが――!」
頭を両手で抱え込み、クロエは歯を食いしばった。
けれど、恐ろしいのは、その「本当のお母さん」の顔が、少しずつ、まるで水に溶けた絵の具のようにぼやけ始めていることだ。
声のトーンが思い出せない。優しかった手の温もりが、異世界の過酷な訓練の記憶に塗りつぶされていく。
代わりに鮮明になるのは、血塗られた裏通りで生き抜いたという、一度も経験したはずのない偽りの家族の記憶ばかりだった。
それは、他のメンバーも同じだった。
少し離れた場所で、リリアーネ(神崎凛)は膝を抱えて震えていた。
彼女の頭に浮かぶのは、エルフの森の長老である冷徹な母の姿と、人間の世界で自分を心配してくれているはずの母親の顔だった。
二つの「お母さん」が頭の中で混ざり合い、どちらが本物で、どちらが幻想なのか区別がつかなくなる。
「私を産んだのは……誰なの……? あの森の女王なの? それとも、あの団地のキッチンで笑っていたお母さんなの……?」
レン(日向蓮)は純白の聖職者ローブの袖で顔を覆い、喉の奥から漏れる嗚咽を必死に押し殺していた。
大聖堂の冷たい祭壇の前で厳かに育てられた記憶が、日曜日に父親とキャッチボールをした記憶を容赦なく押し流していく。
家族と一緒に食べたおやつの味が思い出せない代わりに、神殿の冷たい聖水の味ばかりが舌に残る。
ムギ(狐塚麦)は、狐耳をピクピクとさせながら、虚空に向かって「お母さん、おうちのカレーが食べたいよ……」と泣き言を漏らした直後、「違う、私の故郷は荒野の魔導都市だ、あそこの研究室の古びた机が……」と自分で自分の言葉を否定して絶叫した。
ドラガ(轟葵)は、屈強なドワーフの筋肉を震わせながら、「あたしは一人っ子じゃない……! お父さんとお母さんと、狭いアパートで暮らしてたんだ……!」と誰もいない闇に向かって怒鳴り声を上げた。
ミナ(小西湊)は、片眼鏡の奥から一筋の涙を零しながら、無言で荷車の車軸を強く握りしめていた。
家族の思い出を失っていく恐怖と、異世界の大人の女性としての冷徹な責任感が、彼女の心を内側から引き裂いていた。
どちらの記憶も、自分のものであるような気がして、どちらの記憶も嘘のように空虚だった。
元の世界に戻れば、あの温かいリビングに帰れるのだろうか。それとも、もう自分の家族は、この冷酷な迷宮のなかにしか存在しないのだろうか。
答えの出ない問いを抱えたまま、彼女たちはぐにゃぐしゃに引き裂かれた家族の幻影を胸に秘め、再び冷たい迷宮の闇へと足を踏み出していく。