登校班が異世界の冒険者へ 作:匿名希望
幾重もの階層を潜り抜け、血と錆の匂いが染み付いた最奥の扉を押し破ったとき、眩い光が彼女たちの視界を容赦なく満たした。
そこは、迷宮の最果て。
空間の歪みが収束し、現実世界の空気が流れ込んでくるかのような、巨大な「転移の門」が目の前にそびえ立っていた。
あの日の朝、登校途中に突然引きずり込まれたあの路地裏の景色が、蜃気楼のように門の向こう側に揺らめいている。
「……あそこだ……あそこをくぐれば、元の世界に……!」
クロエ――かつて桐生透と呼ばれていた少女は、傷だらけの革ブーツで冷たい石畳を踏みしめ、息を荒げた。
その背後では、エルフのロングボウを握りしめたリリアーネ、聖なる光を湛えた杖を突くレン、銀の尻尾を不安そうに揺らすムギ、巨大な両手斧を地面に引きずるドラガ、そして重い荷車の引き綱を握り締めたミナが、一斉にその光を見上げていた。
誰もが、心の中で叫んでいた。
帰れる。
あの温かいリビングへ、お母さんの声がする朝の食卓へ、黄色い登校帽をかぶる普通の小学生の日常へ、戻れるんだ。
透は震える足で一歩、また一歩と門へ近づいた。
しかし、その足取りが突然ぴたりと止まった。
頭の奥底で、冷酷なまでに鮮明な「異世界の記憶」が一斉に牙を剥いたように暴れ出したのだ。
スラムの路地裏で生き抜いた日々、数々の罠をくぐり抜けてきた冷徹な勘、エルフの森の誇り、大聖堂の祈り、魔導都市の狂気、地下鉱山の荒々しい鼓動、そしてポーターとしての過酷な責任感。
それらの記憶は、もはや「他人から押し付けられたもの」ではなかった。
彼女たちの肉体に刻まれた無数の傷跡が、筋肉の縮こまりが、そして何より、この迷宮の底で互いの背中を預け合って生き延びてきた「事実」が、その記憶こそが彼女たちの本当の歴史なのだと、容赦なく突きつけてくる。
「……待ってよ」
リリアーネが、かすれた声で呟いた。
その美しいプラチナブロンドの長髪と尖ったエルフ耳が、門の光に照らされて儚く揺れる。
「私たちが……もしあの一歩を踏み出して、元の学校の教室に戻れたとして……。
そしたら、私の中にいるこの『星詠みのリリアーネ』は、どこに行っちゃうの……?」
その問いに、誰も答えることができなかった。
もし元の世界に戻れたなら。
それは同時に、命を削って手に入れた「強さ」も、誇りも、仲間たちと乗り越えてきたすべての絆も、まるで最初からなかったかのように消え去ることを意味していた。
いや、それだけではない。
あの日の小学生としての無力な自分に戻ったとき、彼女たちはもう二度と、あの温かい家族の元へも帰れなくなるのではないかという、もっと根源的な恐怖があった。
――今の私たちは、もうあの頃の子供じゃない。
あんなに重かったランドセルは、今やこの重厚な軽鎧と武器の重さに完全に塗り替えられ、あんなに怖かった大人たちの世界を、私たちはこの手で切り伏せてここまで歩いてきたのだ。
「……戻れないな、たぶん」
クロエは自嘲気味に笑った。
そのハスキーな声には、かつての頼りない少年の面影は微塵もなく、百戦錬磨の女盗賊の余裕と、仲間を率いるリーダーの覚悟が深く染み付いていた。
「あたしたちは、もうあの教室の椅子には座れない。
……たとえ元の世界にそっくりな景色があったとしても、そこにいるのは、ただの『異世界を生き抜いた化け物』の集まりだ」
全員が、ぐにゃぐしゃに引き裂かれた自分自身の胸元に手を当てた。
小学生の心と、冒険者の肉体と記憶。
そのどちらもが自分であり、そのどちらもがもう完全な「元」には戻れないという決定的な事実を、彼女たちは痛いほど理解していた。
「……ふん、上等じゃないの」
リリアーネは誇らしげに鼻を鳴らし、ロングボウを背中にしっかりと担ぎ直した。
「人間の子供に戻るくらいなら、この高慢なエルフの女王のまま、あの馬鹿な前衛どもをこき使ってやった方がマシよ」
「シスターの祈りだって、悪くはないさ。……ねえ、みんな?」
レンは純白のローブの裾を翻し、穏やかで美しい聖女の笑みを浮かべた。
「私の魔導回路のシミュレーション、まだこの先にある未知の階層まで終わってないんだけど!」
ムギは銀色の狐耳をピンと立て、狂気と知的好奇心に満ちた目を輝かせた。
「よし、それならあの門の向こうの代わりに、もっと奥にある未踏の地下迷宮をぶち抜いてやろうぜ!」
ドラガは巨大な両手斧を軽々と肩に担ぎ、豪快に笑い声をあげた。
「まったく、手のかかるお嬢様方ですね。……さあ、荷車を引きますよ。私たちの旅は、まだここからなんですから」
ミナは片眼鏡をきっちりと押し上げ、ガタゴトと音を立てる荷車の引き綱を力強く握りしめた。
転移の門の光が、彼女たちの背中を優しく、しかし冷たく照らし出す。
その光に背を向け、彼女たちは元の世界へ帰る道を自らの手で閉ざした。
失った日常の代わりに手に入れた、歪で、血生臭く、けれど誰よりも誇り高い「新しい人生」を抱きしめながら。
女冒険者パーティは、さらなる深淵へと続く暗い迷宮の奥へ向かって、一歩を踏み出した。