一 航海
目覚ましは鳴らなかった。
そもそも、ステイゴールドは目覚ましをかけたことがない。
甲板のデッキチェアの上で小さな身体を丸めたまま、薄目を開ける。顔に載せていた防塵ゴーグルをずらすと、腹が立つほど青い空が見えた。波の音。エンジンの低い唸り。潮の匂い。
悪くない、と思う。
走ることに一区切りをつけてから、気の向くまま旅を続けてきた。北へ行きたくなれば北へ。温泉があると聞けば寄り道を。だが最近は、どこへ行っても既視感がつきまとう。そこへ「陸に飽きたなら海だろ」と言い出したのが、寮の同室――ということになっている――ゴールドシップだった。
「おーいステゴ! 起きたかー!」
船尾から、当の本人の声がした。
「お前のベッド、今アタシの釣り竿置き場になってっからな。帰ったら場所代もらうぞ」
「帰らないから問題ないな」
「そういうとこだぞ!」
ゴールドシップは笑いながら、身長ほどもある竿を振りかぶった。その竿の先を、褐色の大きな手がむんずと掴んだ。
「ゴールドシップさん。その竿、持ち込み品の目録に記載がないであります」
フェノーメノだった。官帽のつばの下から、鋭い目がゴールドシップを射抜いている。
「なんだよマメちん、船の上まで風紀委員かよ」
「マメちんではありません! それと救命胴衣! 着用を確認していないのは、あなたとステイゴールドさんだけであります!」
「おっと、ステゴも共犯だってよ」
「いいかマメちん。救命胴衣ってのはな、着てないときに限って事故が起きるんだよ。だから着ないでいると――」
「事故が起きるではありませんか!」
「あ、ほんとだ」
フェノーメノの視線がこちらに向く。ステイゴールドは片手をひらひら振って、また目を閉じた。
「……ッ、ステイゴールドさん!」
フェノーメノは、救命胴衣をデッキチェアの肘掛けに丁寧に掛けていった。
「ここに置いておくであります。着用は、ご自身の判断で」
「……律儀だねえ」
「ほっとけほっとけ。言って聞くやつかよ」
隣のデッキチェアで、ナカヤマフェスタがトランプを切りながら肩を揺らした。
「それよりメノ、賭けないか。今日中に何か起きるかどうか」
「本官は賭け事には応じません!」
「残念。アタシは『起きる』に張るつもりだったんだけどな」
「お、それアタシも乗った! 『起きる』に焼きそば三パック!」
ゴールドシップが竿を放り出して割り込んでくる。フェノーメノが慌ててそれを受け止めた。
「両方『起きる』じゃ賭けになんねえよ」
「じゃあステゴ、『起きない』に張れ」
「いいよ」
「起きなきゃ焼きそばが入る。起きたら、それはそれで面白い。どっちに転んでも損はない」
「……それ、勝負師の前で言うか?」
ナカヤマはカードを一枚めくり、口の端を上げた。スペードのエース。それが吉兆なのか凶兆なのか、本人以外には分からない。
*
昼過ぎ、船室でポットの湯が沸いた。
「ステゴさん、お茶にいたしますわよ」
メジロマックイーンが、二人分のカップを並べていた。テーブルには、彼女が持ち込んだ焼き菓子の箱。
「いいね。……で、本題は?」
「本題などございません。あなたが船旅に出ると聞いて、目を離したら最後、地球の裏側まで流れていきそうでしたので」
「信用ないなあ」
「信用はしておりますわ。あなたは、つまらない嘘はつきませんもの。行き先を言わないだけで」
「じゃあ、今回は言っとこうか。行き先は――海」
「それは行き先とは申しません」
「そっちこそ、よく許しが出たな。ゴルシの発案だろ、これ」
「ばあやには、ご学友との見聞旅行と申し上げてありますわ。……発案者までは、訊かれませんでしたもの」
ステイゴールドは声を出して笑った。マックイーンも、少しだけ口元を緩める。
「で、実際どうだ。海は」
「……悪くはございませんわ。もう少し揺れなければ、もっと良いのですけれど」
マックイーンはそう言って、自分の皿に焼き菓子を三つ取った。ステイゴールドが黙って四つ目を差し出すと、少し迷ってから受け取る。昔から、話がこじれそうになるとこれで収まるのだ。
「アネゴ」
戸口から、穏やかな声がした。眼鏡をかけた小柄なウマ娘――ドリームジャーニーが、盆を手に立っている。
「お茶漬けを用意しました。船の上でも、いつもの味がよろしいかと思いまして」
「おお、気が利くな、ジャーニー」
ジャーニーは嬉しそうに目を細め、それから小さく眉を下げた。
「それと……オルが、少々ご機嫌斜めでして」
その背後から、声がした。
「――湿気だ」
オルフェーヴルが、腕を組んで立っていた。金色の前髪が、いつもより明らかに膨らんでいる。
「この船、湿気が過ぎる。余の髪が言うことを聞かぬ。ステイゴールド、貴様が乗ると言うから乗ってやったのだぞ」
「そりゃ悪かった。ほら、オルも食うか」
差し出された焼き菓子を、オルフェーヴルはしばらく睨んでいた。それから、ふんと鼻を鳴らして一つ摘まむ。
「……許す」
「オル、アネゴにお礼は?」
「礼? 余が許したのだ。礼を言うのはステイゴールドの方であろう」
「はいはい、ありがとさん」
「……ステゴさん。少々、甘やかしすぎではございませんの」
「マックイーンだって四つ目食ったろ」
「そ、それとこれとは話が別ですわ!」
「メジロの」
オルフェーヴルが、焼き菓子を片手に振り向いた。
「四つ目とは何だ」
「何でもございません!」
「まあまあ。お茶漬けが冷めてしまいますよ」
マックイーンは何か言いたげに口を開きかけて、紅茶と一緒に飲み込んだ。
二 急変
オルフェーヴルの髪は正しかった。
空気が重くなったのは、それから一時間もしないうちだった。西の水平線に灰色の雲が湧き、海の色が青から鉛へと沈んでいく。うねりが大きくなり、テーブルの上でカップが滑った。
「……来るぞ、これ」
操縦席でモニターを睨んでいたゴールドシップが、珍しく真顔で呟いた。
最初に雨。それから風。気づけば窓の外は、横殴りの水の壁になっていた。
「全員、救命胴衣を着用! 繰り返します、全員着用であります!」
フェノーメノの声が船室に響き渡る。濁点まじりの大音声は、こういうときだけは頼もしい。彼女は手際よく胴衣を配り、留め具を一つずつ確かめていった。
「姉上、これを」
「オル、私はいいから、先にお前が」
「余が先に着るのは当然だ。だから次は姉上だ。疾くせよ」
ドリームジャーニーが何か言い返す前に、オルフェーヴルはその胴衣の紐を乱暴に、しかし固く結んでいた。
「ゴルシ、自動操縦切れ!」
「もう切った! ナカヤマ、舵手伝え!」
「了解。……ったく、賭けときゃよかった」
ナカヤマとゴールドシップが二人がかりで舵を押さえ、波に船首を立てようとする。
そのとき、ステイゴールドが胴衣も着ないまま、ふらりと甲板への扉を開けた。
「ステイゴールドさん!? どこへ行くのでありますか!」
「ちょっと散歩」
「この嵐の中を!?」
返事はなかった。小さな背中が、雨の中へ消えていく。
「アネゴ!」
ジャーニーが腰を浮かせた。その手首を、オルフェーヴルが掴んだ。
「姉上は行くな」
「でも、オル」
「あれはステイゴールドの勝手だ。勝手に出ていった者は、勝手に戻ってくる。……あれが戻らなかったことが、一度でもあったか」
「……ありません」
「ならば待て。余はそう見ている」
言いながら、オルフェーヴルの視線は閉まった扉から離れなかった。
次の瞬間、マックイーンが立ち上がっていた。
「ゴールドシップさん! 舵、任せましたわよ!」
「おう! マックイーン、ステゴ頼む!」
それ以上の確認はいらなかった。
甲板は水浸しだった。手すりにしがみつきながら進むと、船尾でステイゴールドが何かと格闘していた。固定ベルトで留められた、救命いかだのコンテナ。
「何をなさっていますの!」
「こいつ、留め具が錆びてる。いざってとき外れないぞ」
出航前、昼寝の合間に見つけていたらしい。
「言ってくだされば、皆で確かめましたのに!」
「言ったら、メノが点検表作り始めるだろ。あれ長いんだ」
「そういう問題ではございません!」
マックイーンはベルトの反対側を掴んだ。二人で体重をかける。錆びた金具が、ばきりと音を立てて外れた。
その瞬間、船体の下から突き上げるような衝撃が来た。
視界が白く弾ける。浮遊感。冷たい水。
伸ばした手が、誰かの手を掴んだ。
それを最後に、ステイゴールドの意識は、ぷつりと途切れた。
三 漂流
ちゃぷ、ちゃぷ、と小さな音がしていた。
ステイゴールドが目を開けると、白く霞んだ空が見えた。背中の下が頼りなく揺れる。ゴムの感触。救命いかだだ。あの錆びた留め具を外したいかだが、ちゃんと開いてくれたらしい。
身を起こし、数える。
一。マックイーンが、まだ自分の手首を握ったまま眠っている。二、三。ジャーニーとオルフェーヴルが寄り添っている。四。ナカヤマが縁に背を預けて、こちらを見ている。五――
「……六、七。全員いるぞ」
いかだの外から声がした。見ると、フェノーメノが腰まで海に浸かり、片腕で縁を、もう片腕でゴールドシップの襟首を掴んでいた。
「確保ーッ!」
「痛え痛え! マメちん、首! 首締まってる!」
「マメちんではありません! あなたが勝手にクーラーボックスで漂流していたのであります!」
フェノーメノが濡れた身体を引き上げると、いかだが大きく揺れた。マックイーンがそれで目を覚まし、自分が誰の手首を握っていたか気づいて、慌てて手を放した。
ゴールドシップは大の字に転がって、ぜえぜえと息をついた。空を見上げたまま、ぼそりと言う。
「……サンキューな、マメちん」
「マメちんでは――」
言いかけて、フェノーメノは口をつぐんだ。官帽を失った頭を、居心地悪そうに掻く。
「……本官は、職務を果たしたまでであります」
全員、生きている。
だが、船はなかった。残骸すら見当たらない。周囲はただ凪いだ海で、太陽の位置もはっきりしない。
「……いやー、参ったな」
ゴールドシップがぼやいた。
「誰の発案でしたっけ?」
マックイーンがにっこりと微笑む。目は笑っていない。
「犯人捜しはよくねえぞ」
「捜すまでもございませんわ。『陸に飽きたなら海だろ』とおっしゃったのは、どなたでしたかしら」
「いやいやいや、言い出しっぺと嵐は関係ねえだろ! 嵐を呼んだのはオルの髪だって!」
「余の髪は予報したまでだ。責を擦り付けるな」
オルフェーヴルは目も開けなかった。
「メノ、なんか言ってやれ!」
「本官は出航前、点検項目の追加を具申しました。『長い』と却下したのはゴールドシップさんであります」
「全方位から刺されてる!」
「まあまあ、皆さん」
ジャーニーが、穏やかに手を合わせた。
「誰の船であれ、こうして全員無事だったのですから」
「ジャーニー……! お前だけが味方だ……!」
「帰ったら、弁償のご相談はきちんといたしましょうね」
「味方じゃなかった!」
ステイゴールドは、縁にもたれて笑っていた。
フェノーメノが備品袋を開け、中身を並べた。水のパックが十二。乾パンが少々。発煙筒が二本。
「七人で十二。一人一日一パックとして、二日もたないであります。配給は本官が管理します」
「お、マメちんが配給係か。じゃあ一本目はゴルシちゃんにくれ」
「なぜでありますか」
「海に一番長く浸かってたのアタシだぞ」
「なら、なおさら喉が渇くだろ。……妥当だな、メノの管理で。日差しが出りゃ、もっと減る」
「では、決まりですわね。文句は受け付けません。……ゴールドシップさんも、よろしくて?」
「へーい……」
最初の一パックが配られた。ジャーニーは自分の分を、そっとオルフェーヴルの方へ押しやった。
「オル、お前が飲みなさい」
「要らぬ。姉上が先に飲め。王の施しを拒むな」
オルフェーヴルはパックを押し返し、それきりそっぽを向いた。ジャーニーは小さく笑って、一口だけ含んだ。
「……湿気が無いのはよい。だが、潮が鬱陶しい。姉上、櫛を」
「ごめんね、オル。流されてしまったみたい」
ジャーニーは自分の指で、妹の髪を丁寧に梳き始めた。
「……指では、整わぬ」
「整わなくてもいいの。少しはましになるでしょう」
「……少しだけな」
オルフェーヴルは目を閉じ、されるがままになっていた。
時間が経つにつれ、濡れた服が体温を奪っていく。いつしか、誰も口を開かなくなった。
ステイゴールドは、いかだの真ん中に胡坐をかいた。
「おい、そんな顔すんなって。全員生きてる。上出来だ」
皆が顔を上げる。
「海の上でじたばたしても仕方ない。こういうときは――流されていけ、だ」
にっ、と笑ってみせる。
波が、ちゃぷりと鳴った。
「……で?」
ナカヤマが言った。
「流されて、どうするんだ」
「どうって」
「具体策を聞いてんだよ」
「……そのうち、何とかなる」
「つまりノープランってことだな!」
ゴールドシップが手を叩いた。マックイーンが額を押さえる。
「あなたの『何とかなる』は、昔から具体策が伴いませんのね」
「でも、だいたい何とかなってきたろ」
「……否定できないのが腹立たしいですわ」
「ステイゴールドに計画を問うな」
オルフェーヴルが、髪を梳かれながら言った。
「鳥に地図を問うようなものだ」
「……本官としては、せめて計画書の提出を求めたいところであります」
ステイゴールドは笑って、コートの内ポケットからハーモニカを取り出した。濡れてはいたが、息を吹き込むと、少し掠れた音が出た。
ゆったりとした、どこの国のものとも知れない旋律。
誰も、何も言わなかった。けれど、フェノーメノの肩から少しだけ力が抜け、ナカヤマは濡れたカードを切る手を止め、オルフェーヴルの耳がわずかにそちらを向いた。
ジャーニーは、眼鏡の奥で目を細めていた。
「……アネゴは、いつもそうですね」
小さな呟きは、波の音に紛れて誰にも聞こえなかった。
四 船影
日が傾きかけた頃、最初に気づいたのはゴールドシップだった。
「……なあ。あれ、ゴルシちゃんの幻覚じゃなきゃ、煙だよな」
水平線の上に、黒い筋。その根元に、豆粒ほどの影。
「船だ」
ナカヤマが低く言った。
ゴールドシップが立ち上がって両手を振り、マックイーンが「転覆しますわ!」と袖を引く。
「発煙筒、点火します!」
フェノーメノが筒を掴み、説明書きを一瞬で読み取ってキャップを捻った。橙色の煙が噴き上がる。彼女はそれを高く掲げ、腹の底から叫んだ。
「こちら遭難者七名ーッ! 救助を要請するでありますーッ!」
「声デカっ」
「届けば何でもいいだろ」
影は、しばらく同じ方向へ進んでいた。
フェノーメノが二本目の発煙筒に手をかけ、ためらった。
「最後の一本であります。使うべきか、本官には判断が……」
「使え」
ステイゴールドが言った。
「あの船を逃したら、次がいつかなんて誰にも分からない。どうせ賭けるなら、全部張っとけ」
「……了解であります!」
二本目の橙色が、一本目に重なって立ち昇った。
「へえ」
ナカヤマが、横目でステイゴールドを見た。
「アンタがそういう張り方するとはな」
「旅で覚えた。ヒッチハイクと同じだ。手を上げなきゃ、車は止まらない」
駄目か――と誰かが思ったとき、影がゆっくり向きを変えた。こちらへ。
「……来た」
ゴールドシップがへなへなと座り込んだ。
「当然だ」
オルフェーヴルが腕を組んだまま言った。
「余がここにいるのだぞ。見つけぬ方がおかしい」
「いや煙焚いたのマメちんだからな!?」
「使えと言ったのは、ステイゴールドさんであります」
ジャーニーが小さく笑った。その目尻には、うっすら光るものがあった。
だが、船が近づくにつれて、歓声は少しずつしぼんでいった。
大きい。そして、古い。
黒く塗られた木造の船体。中央に太い煙突が一本、そこから黒煙がもくもくと吐き出されている。煙突の前後には、帆を畳んだ背の高いマストが何本も立っていた。
「観光用の、レトロ船……でしょうか」
ナカヤマが、伏せたカードを指で弾いた。
「なあ、ステゴ。あの船、乗っていいほうに張るか?」
「あんたは?」
「……今だけは、乗らないほうに張りたい気分だ」
冗談めかした声だったが、目は笑っていなかった。ステイゴールドは答えず、もう一度船を見た。
旅先で古い船はいくつも見てきた。だが、あれほど「今も使われている」古さを感じたことはない。塗装の剥げ方。ロープの擦り切れ方。煙の匂い。
舷側から縄梯子が下ろされた。甲板の手すりに、男たちが鈴なりになっている。
彫りの深い顔。髭。くたびれた麻のシャツに、古めかしいズボン。
外国人だ。
そして彼らは、こちらの何倍も驚いていた。一人が叫び、別の一人が胸の前で十字を切る。
ナカヤマが、伏せていたカードを黙って懐にしまった。
男たちの視線が、一点に注がれていた。
海を漂っていた七人の少女の、頭の上でぴんと立った耳と、背後で揺れる尻尾に。
五 救助
ざらついた木の甲板に、七人は並んで立たされた。
石炭の煙とタールの匂い。男たちは遠巻きに輪を作り、誰も近づいてこない。かといって離れもしない。
「えーと、サンキュー! サンキューベリーマッチ!」
ゴールドシップが手を振った。男たちが顔を見合わせ、何か囁き合う。英語ではない。
「通じてねえな」
「声を大きくすれば通じるというものではありませんわ」
マックイーンが一歩前に出た。軽く咳払いをして、背筋を伸ばす。
「……メルシー、ムッシュー」
男たちの表情が、わずかに動いた。
「フランス語か」とナカヤマ。
「たぶん、ですけれど。メジロ家の教養として、少々たしなんだ程度ですわ」
「マジかよ。お前フランス語できたのかよ」
「ゴールドシップさんがご存じないことは、山ほどございますわ」
「へー。じゃあ『おっさんたちの髭、全員おそろいですね』って言ってみ」
「言いません!」
つんと澄ましたマックイーンの背中を、ゴールドシップはなぜか得意げに眺めていた。
年嵩の男が早口で何か言い、マックイーンが眉を寄せて聞き返す。何度かのやり取りのあと、彼女は振り向いた。
「どこの船から来たのか。それから……その耳は本物か、と」
誰も、すぐには答えられなかった。
そのとき、人垣の隙間から小さな影が飛び出した。十歳かそこらの、ボーイらしき少年だ。少年はまっすぐオルフェーヴルの前まで来ると、目を輝かせてその尻尾を見上げた。
大人たちが慌てて引き戻そうとする。オルフェーヴルは、それを片手で制した。
「よい」
身を屈め、少年と目の高さを合わせる。
「触れたいか。……特別に許す。そっとだぞ」
言葉は通じていないはずだった。だが少年はおずおずと手を伸ばし、金色の尻尾にそっと触れた。そして、花が咲いたように笑った。
張り詰めていた甲板の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
「オルは、子どもには優しいんです」
ジャーニーが、どこか誇らしげに言った。
七人は船室に通され、毛布と熱い茶を与えられた。ゴールドシップは毛布にくるまって芋虫になり、フェノーメノは直立したまま茶を飲もうとして、マックイーンに座らされた。
気づけば、ステイゴールドの姿がなかった。
フェノーメノが血相を変えて船室を飛び出すと、彼女は船首にいた。古株らしい白髭の水夫と並んで樽に腰掛け、ハーモニカを吹いている。水夫は言葉も通じないまま、膝を叩いて調子を取っていた。
「ステイゴールドさん! 勝手な単独行動は――」
「メノ、この人いい人だぞ。さっき干し肉くれた」
差し出された硬い肉片を前に、フェノーメノは言葉を失った。この人は、どこへ行っても、いつの間にかこうなのだ。
船室に戻ると、別の違和感が頭をもたげてくる。
「……電気、ねえな」
ナカヤマが天井を見上げた。吊り下げられているのは真鍮のランプ。中で小さな炎が揺れている。コンセントもスイッチも見当たらない。
「徹底したレトロ演出だな。逆にすげえわ」
芋虫の中から、ゴールドシップの声がした。
「お茶も……ティーバッグではございませんわね」
マックイーンが、欠けた白磁の茶碗を覗き込んだ。
「茶葉を、お鍋で煮出したようなお味がいたします」
「それも演出だろ。こだわり系クルーズってやつ」
「毛布も、化繊が一本も混じっていませんね」
ジャーニーが、膝の毛布の端を指でつまんでいた。
「全部、手織りの羊毛です」
「ちくちくする。余の肌に合わぬ」
そう言いながら、オルフェーヴルは毛布を肩まで引き上げた。
「本官も、気になっていることがあります」
フェノーメノが、膝を揃えたまま室内を見回した。
「非常灯も、避難経路の表示もありません。この規模の船で、それは……規則上、ありえないのですが」
ナカヤマの手の中で、水没して動かなくなったスマートフォンが転がっていた。
「……ま、電波どころか電源も入らねえけどな。アタシのだけじゃないだろ」
「あ、アタシのも死んでる。てか海にダイブしたしな」
「防水が、全員分揃って死ぬか?」
「そういう日もある!」
ゴールドシップは笑ったが、ナカヤマは笑わなかった。
「そういや、船首の爺さんが見せてくれた地図、手描きだったぞ」
戻ってきたステイゴールドが、干し肉を齧りながら言った。
「海図というものは、手描きのものもあるのでは……」
「あるだろうな」
ナカヤマが、ランプから目を離さずに答えた。
「……博物館にならな」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、年嵩の男が再び現れた。身振りを交えてマックイーンに何かを伝える。繰り返された単語に、彼女がはっと顔を上げた。
「ジャポネ……日本人ですわ。この船に、日本人の方が乗っていらっしゃるそうです」
「ほんとかよ! それ早く言えって!」
ゴールドシップが毛布をはね飛ばした。フェノーメノも、ほっとしたように息をつく。
日本人なら、話が通じる。事情を説明できる。家に連絡もできる。
ただ一人、ナカヤマだけが、ランプの炎をじっと見つめていた。
六 日本人との対面
通されたのは、船尾寄りの一室だった。
絨毯。書き物机。磨き込まれた木の壁。中にいたのは、三人の日本人の男だった。
一人は、膝まで届く分厚い黒の上着に、固そうな立ち襟。髪は油で撫でつけて横に分けている。一人は、着物に袴。三人目は若く、帳面を抱えていた。
全身が、古い白黒写真から抜け出してきたようだった。
「……コスプレ、じゃねえよな」
ゴールドシップが小声で囁いた。
フェノーメノは無言で三人を観察していた。立ち位置。視線の配り方。袴の男の、常に戸口と窓を視界に入れておく癖。
(……護衛であります。それも、本物の)
この部屋には、守られるべき誰かがいる。
「御無事で何よりでございました」
上着の男が一礼した。丁寧な日本語だった。だが抑揚が違う。言い回しが違う。時代劇の台詞を、普段の言葉として喋っている。
質問が始まった。まずは名前。
「ゴールドシップ! 金の船って意味な!」
「……金の、船」
帳面の若者は筆を止め、上着の男を見た。
「愛称はゴルシな! ゴルシちゃんでもいいぞ!」
「ご、ごるし……」
若者が律儀に書きつける。マックイーンが、そっと額を押さえた。
「フェノーメノであります」
「ふぇ……」
「フェ、ノー、メノ、であります!」
大音声に、若者の筆がびくりと跳ねた。袴の男の眉が、わずかに動く。
「……メジロマックイーンと申します」
「めじろ」
上着の男が、そこにだけ反応した。
「目白の……いずれかの御家中の方で」
「ええ、メジロ家の――」
言いかけて、マックイーンは口をつぐんだ。相手の顔には、どこの家の話か見当もつかない、と書いてあった。
「ナカヤマフェスタ。中山までは書けるだろ、残りは適当でいい」
「なかやま……ふぇすた……」
「オルフェーヴル。覚えておくがよい」
オルフェーヴルが顎を上げて名乗ると、若者は完全に固まった。
「ここからは、私がお答えいたしましょう」とジャーニーが滑らかに引き取った。「私たちの名は少々珍しいものですから、後ほど紙にお書きいたしますね」
出身。乗っていた船。質問は続いた。
「――私どもは、遊覧の船旅の途中で嵐に遭いました」
柔らかな微笑み、淀みない言葉運び。相手の言い回しに合わせて、自然と語尾を整えていく。
「何処の港から」
「日本の港から、と申し上げればよろしいでしょうか」
「御出身は」
オルフェーヴルが鼻を鳴らした。ジャーニーは振り向きもせず、後ろ手に妹の指先を軽く握った。それだけで、オルフェーヴルは黙った。
「生まれは……少々、説明の難しい所でして」
「アタシは宇宙!」
ゴールドシップが手を挙げた。
「……うちゅう?」
「失礼いたしました。この方の冗談ですわ」
マックイーンが素早く割って入り、ゴールドシップの脛を軽く蹴った。
「では、貴女は」
「東京都ですわ」とマックイーン。
「東京府、で宜しいか」
「府……?」
マックイーンは瞬きをした。
「いえ、都ですわ。東京都。千代田区ですとか、港区ですとか」
「千代田……御城の辺りのことですかな。して、区とは」
上着の男と帳面の若者が、顔を見合わせた。
「……失礼ですが」
ジャーニーが口を挟んだ。
「そちらでは、東京は『府』でいらっしゃる?」
「府にございます。京、大坂と並ぶ三府の一つにて。近頃は大区小区に分けて治めておりますが」
「……大区?」
ナカヤマが、口の中だけで繰り返した。
マックイーンは、それきり言葉を継がなかった。
言葉は通じているのに、その下に敷かれた地図がまるで違っている。乗ってきた船の名を告げても、帳面の若者は小首を傾げるばかりだった。
そして袴の男が、とうとう口を開いた。
「して、その御耳は」
「ウマ娘ですので」
ジャーニーが答えた。
「……うまむすめ?」
「ご存じ、ありませんか」
「存じ上げませぬ」
即答だった。嘘をついている顔でも、からかっている顔でもない。
ウマ娘を知らない日本人。レースも、トレセン学園も知らない日本人。
ジャーニーは微笑んだまま、そっと半歩だけ下がった。その手が、背後のオルフェーヴルの袖を探るように握る。
「……なあ、ステゴ」
ナカヤマが、声を落として言った。
「アタシの賭け、当たりだったみたいだぜ。……笑えねえな。配当、誰が払ってくれるんだか」
ステイゴールドは答えなかった。舷窓の外の、暗くなりかけた海を見ていた。デッキチェアの肘掛けに残してきた救命胴衣のことを、なぜか思い出していた。
七 大久保利通
衣擦れの音がした。
部屋の奥の仕切りから、一人の男が現れた。
途端に空気が変わる。上着の男が半歩下がり、袴の男が背筋をさらに伸ばし、若者が筆を置いた。誰も何も言わない。それだけで十分だった。
背の高い男だった。黒い洋装を隙なく着こなし、顎から頬にかけて、たっぷりと髭をたくわえている。痩せてはいるが、弱々しさは微塵もない。
何より、目だった。感情の読めない静かな目が、七人の顔を一人ずつ撫でていき――最後に、耳と尻尾で止まった。
驚くでも、怯えるでもない。初めて見る書類の数字を、一つずつ確かめるような目。
「貴女方は」
低く、抑揚の少ない声。
「何者ですか」
答えられなかった。ウマ娘だ、と言うのは簡単だ。だがそれがこの部屋では何の説明にもならないことを、全員がもう知っていた。
沈黙を破ったのは、オルフェーヴルだった。
「不敬であろう」
一歩前に出る。金色の前髪が、ランプの光を弾いた。
「名も名乗らず問うとは何事か。まずは貴様が名乗れ。そして疾く――」
「オル」
ステイゴールドが言った。大きな声ではなかった。
オルフェーヴルの言葉が止まる。ちらりと振り返り、不服そうに眉を寄せ――それでも口を閉じて、一歩下がった。
「……ステイゴールドがそう言うなら、今は預けてやる」
ジャーニーが小さく息を吐いた。袴の男の手は、いつの間にか腰のあたりから離れていた。
ステイゴールドは、ひょいと前に出た。小さな身体で、髭の男を見上げる。
「悪いな、うちのが。……で、あんたは? 人に訊くなら、先に名乗ってもらえると助かる」
男は、すぐには答えなかった。
「その前に、一つ。先程この方を制されたのは貴女でしたな。……この御一行の長は、貴女と見てよろしいか」
「長?」
ステイゴールドは、きょとんとして首を傾げた。
「いや、そういうのじゃないよ。誰も誰の子分でもない。たまたま同じ船に乗ってただけさ」
ナカヤマが鼻で笑い、オルフェーヴルがむっと口を曲げた。ジャーニーだけが、何か言いたげにステイゴールドの背中を見つめていた。
「左様ですか」
男はしばし、ステイゴールドを見た。それから、わずかに顎を引き、それが礼の代わりであるかのように答えた。
「これは失礼を。大久保利通と申します」
沈黙。さっきまでとは、まるで質の違う沈黙だった。
ゴールドシップが口を半開きにしたまま固まっている。マックイーンの手が、ステイゴールドのコートの裾を握った。フェノーメノは、大きく目を見開いていた。
歴史に詳しいわけではない。それでも、その名前だけは知っている。教科書の太字。テストの穴埋め問題。
「……大久保って」
ゴールドシップが、息だけで言った。
「あの?」
「ど、同姓同名、ということも……」
マックイーンの囁きは、自分に言い聞かせるようだった。
「……この船見て、それに賭けるか?」
ナカヤマの声に、誰も答えなかった。
「……大久保?」
ステイゴールドの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
男は、わずかに怪訝そうな顔をした。
「如何にも」
それだけだった。否定も、冗談めかした笑いもない。
ランプ。木の壁。黒煙を吐く煙突。フランス語の船員。東京府。ウマ娘を知らない日本人。
散らばっていた違和感が、一本の線で繋がっていく。繋がってほしくない形に。
ゴールドシップが、帳面の若者の方へぎこちなく顔を向けた。いつもの能天気な声は、どこにもなかった。
「なあ……一個だけ訊いていいか。今って……何年?」
若者は瞬きをして、ごく当たり前のことのように答えた。
「明治六年、五月にございますが」
明治六年。
「……西暦に直せば、千八百七十三年、ですわね」
マックイーンが、震える声で呟いた。
百五十年以上も、昔。
しばらくの間、誰も、何も言えなかった。
ジャーニーの指が、オルフェーヴルの袖を強く握る。オルフェーヴルは振り払わなかった。ナカヤマは懐のカードに手をやりかけて、そのままやめた。
ステイゴールドだけが、黙って窓の外を見ていた。
黒い海。見知らぬ時代の、見知らぬ風。
怖くないと言えば嘘になる。けれど胸の奥のどこかで、小さな針がかちりと動いた気がした。
――想定外の方が、旅は面白い。
口には出さなかった。今それを言えば、マックイーンに本気で叱られる。
船は揺れながら、規則正しく黒煙を吐き、進み続けていた。行き先は横浜だと、あとで聞かされた。
七人のウマ娘を乗せたまま。
見知らぬ日本へ向かって。