一 船室
船室の丸窓から、白い朝の光が差していた。
七人は、あてがわれた一室に毛布を敷いて雑魚寝をしていた。眠れたのは半分ほどで、残りは目を閉じたまま、天井の梁を数えていたらしい。最初に身を起こしたフェノーメノは、官帽の代わりに乾いた布を頭に巻き、きっちり正座をした。
「皆さん、起床であります。本官の時計では――」
手首を見る。針は昨日の昼で止まっていた。
「……時刻、不明であります」
「朝からそれやるのか」
ナカヤマが毛布から片目だけを出した。
「ひとまず、整理しましょう」
ジャーニーが眼鏡を掛け直した。昨夜のうちに、船員が乾かして返してくれたものだ。
「明治六年。大久保利通。あの方々の言葉が確かなら、です。明治について、覚えていることは」
「文明開化、であります。鉄道。散切り頭。大久保利通は、教科書の太字でありました。何をした人かは、その、あまり自信が」
「西郷隆盛さんと並んで、維新の三傑。わたくしが言えるのは、そこまでですわ」
「アタシは知ってるぞ。明治は牛鍋が流行った。あと、あんぱん」
「それは何年の話ですの」
「知らん!」
「余は知らぬ。必要になれば、知っている者に語らせる」
窓際で髪を整えながら、オルフェーヴルが言った。
「では、一つだけ」
ジャーニーが全員を見渡す。
「ウマ娘のいない日本。その時点で、私たちの知る歴史とは違います。覚えていることは、あてにしすぎないでおきましょう」
「知識より、あの髭が何を欲しがってるかだ」
ナカヤマはそう言って、ステイゴールドを見た。
「アンタは?」
「史跡の看板に書いてあることくらい。……知らないほうが、面白いこともある」
いつもの軽さだった。ナカヤマは、彼女の視線の先を一度だけ追い、何も言わなかった。丸窓の外で、岸壁が近づいていた。
朝食のあと、ステイゴールドは船首へ出た。
樽の上に、昨日の白髭の水夫がいた。言葉は通じない。それでも水夫は、懐から干し肉を出して半分に割り、差し出した。
「ありがと」
塩がきつく、顎が痛くなるほど硬い。
「うまいよ、これ」
水夫は皺だらけの顔で笑い、パイプの先で陸地を指した。ハーモニカは、まだ濡れたコートのポケットの中にある。吹こうとして、やめた。
二 横浜
船が横浜に着いたのは、その日の夕刻だった。
タラップの下に、船員が数人、並んでいた。白髭の水夫は、パイプを咥えたまま腕を組んでいる。
「メルシー。皆様のおかげで、命を拾いましたわ」
マックイーンが頭を下げ、ゴールドシップが「サンキューな!」と両手を振る。フェノーメノが直立して敬礼すると、水夫たちが慌てて帽子に手をやった。言葉は通じない。それでも握手は、あちこちで成立した。
ステイゴールドが差し出した手を、水夫は節くれ立った両手で包んだ。
「干し肉、うまかった」
顎を動かして噛む真似をすると、水夫は声を立てて笑い、拳で自分の胸を叩いた。
「こちらへ」
若い役人の声がした。水夫の視線が、役人から七人へ、また役人へ動く。それから、帽子の縁に指を当てた。
タラップを降りる手前で、七人は大判の毛布を頭から被せられた。書記の若者が、申し訳なさそうに言う。
「耳と尾を、人目に晒さぬための配慮にございます」
「配慮ね」
ナカヤマは毛布の縁から、タラップの先を窺った。
桟橋は人で埋まっていた。荷を担ぐ男たち。髷を結った者と、帽子の異人が、同じ地面に立っている。煉瓦の建物。ガス灯の柱。潮と石炭と、焼き魚の匂い。
毛布の下の七人に、視線が集まっていた。荷揚げの男が手を止め、子連れの女が足を止める。幼い男の子が毛布の裾を指さし、母親に口を塞がれた。
「うおー、アタシら大スターじゃん。サインいるか?」
「ゴールドシップさん、お静かに」
「静かにしてたらスターになれねえだろ」
「なりたいのですか」
「なりたくねえ」
即答だった。軽口の勢いが、いつもの半分ほどしかなかった。
「ステゴさん、足元をご覧になって」
「見てる見てる」
見ているのは足元ではなかった。人の流れ、荷の積み方、役人の立ち位置。知らない町に着いたら、まず出口を探す。昔からの癖だった。
桟橋の端に、箱形の車が停まっていた。黒塗りの車体。その前に、見たことのない獣が繋がれている。
「……でけえ犬?」
ゴールドシップが呟いた。
茶色の毛並み。太い首。長い顔。ときおり尾を振って、虻を払っている。四つ足で、体は人の倍ほどもあった。頭の上には、立った耳がある。
誰も、すぐには動けなかった。
オルフェーヴルが、一歩だけ後ろに下がった。毛布の下で耳が伏せられたのが、布の動きで分かった。
「……あれは、何だ」
「犬ではありませんわ。牛とも、違うようですし」
マックイーンの声は、いつもより低かった。
「車を、引いておりますのね」
「あれは、馬にございます」
傍らの書記が、不思議そうに答えた。七人が獣を見る目のほうに、驚いているらしかった。
「うま」
ジャーニーが、小さく繰り返した。
その音を、七人は誰もが知っていた。自分たちの名の中にある音だった。
「触っても、いいか」
ゴールドシップが、毛布の下から手を伸ばしかけた。書記が慌てて袖を引く。
「お止め下さい。蹴られますと、骨が折れまする」
「蹴るのか。あんなに目ぇ優しいのに」
「馬は、そういうものにございます」
御者が手綱を軽く振った。獣が、ゆっくりと歩き出す。車輪が軋み、黒塗りの車体が動いた。
マックイーンの目が、その脚を追っていた。蹄が石畳を踏むたび、太い腿の筋が動く。重い車を引いて、乱れない歩調。口を開きかけて、閉じる。
「口に、何か入ってるな」
ステイゴールドが言った。
「金具と、紐。あれで操ってるのか」
「……痛くはないのでしょうか」
マックイーンが言った。
「さあな。痛くないといいけど」
オルフェーヴルは、少し離れたところで立ち尽くしていた。同じ形の耳。同じ形の尾。それが物言わず、人に引かれて歩いていく。
「……不快だ」
絞り出すような声だった。
「あれと余を、同じ音で呼ぶな」
「オル」
「分かっています、姉上。あれが悪いのではない。……分かって、いる」
獣がこちらを向いた。大きな黒い目が七人を順に映し、ふいと逸らされる。耳が、ぴくりと動いた。
「……乗りましょう、オル」
「……分かっている」
車に押し込まれる間、ステイゴールドは窓の外の獣を見ていた。
この世界では、あれが車を引く。自分たちと同じ音の名を持つ、自分たちではない生き物が。
答えは出ない。出ないことを考え続けるのは、旅で覚えた癖だった。
三 応接
連れて行かれたのは、港を見下ろす煉瓦造りの建物の二階だった。
通された応接間は洋風だった。長い机に、背もたれの高い椅子。窓の外はすでに暗く、壁の洋灯が揺れている。机には湯気の立つ茶と、白い饅頭が並んでいた。
「長旅の後ゆえ、まずは召し上がられよ」
大久保は船室で見たのと同じ黒い上着で、机の向かいに座っていた。
饅頭にゴールドシップが手を伸ばし、マックイーンに手首を叩かれた。
「頂く前に、改めてお礼を。命を救って頂いたこと、七人を代表して申し上げます」
「お気になさらず。海に落ちた者を拾うのは、船の者の務め」
大久保は書記に目配せをした。机の上に、濡れた袋の中身が一つずつ並べられていく。黒い板。金属の細い輪。防塵ゴーグル。
「この板は」
「スマホ……いえ、通信のための器械ですわ。水に濡れて、動かなくなりましたけれど」
「電信の類か」
即座に返ってきた言葉に、マックイーンが目を瞬いた。
「近いと、思いますわ」
「して、これは」
大久保の指が、ゴーグルの縁を叩いた。ステイゴールドが答えるより早く、爪で素材を確かめ、それ以上は尋ねなかった。黒い板は丁寧に布で包まれ、書記の手に渡った。
「船でも伺ったが、改めて」
大久保は、七人の耳を順に見た。
「ウマ娘とは、如何なるものか。お教え願いたい」
七人は顔を見合わせた。
「走る、ですわね。わたくしたちは、走ります」
「アタシら、一番を競うんだよ。レースで」
「れえす」
「駆け比べのことであります。国じゅうの人が観に来る、大きな競技で」
「国じゅうの」
大久保が、わずかに眉を動かした。
「それを、生業とするのか」
「生業というか……学園に通って、走って、ですから」
「学園とは」
マックイーンが言葉に詰まった。
書記が、小声で言った。
「大久保様。届けの様式に、当てはまる欄がございませぬ」
「承知している」
大久保は筆を持ち替え、紙に目を落とした。しばらく何も書かなかった。この部屋で、この人が筆を止めたのは初めてだった。
「異国の遭難者か、国内の者か。いずれの括りで書き留めるべきか、私にも決めかねる」
「人ですわ」
マックイーンが、即座に答えた。
「わたくしたちは、人です。耳と尾があるだけの」
「承知した。人として、記す」
大久保は筆を動かした。その一画が、ひどく丁寧だった。
「ちなみにこの尻尾、触るとふさふさだぞ。触ってみるか?」
ゴールドシップが、いつもの調子で尻尾を差し出した。冗談のつもりだった。
「失礼する」
大久保は本当に立ち上がり、尾の先に二本の指を添えた。一拍の間。
「……毛だな。馬の尾に、近い」
「馬ぁ!?」
「無礼な物言いを、お許し頂きたい。他に比べるものを知らぬゆえ」
ゴールドシップは口を開けたまま、尻尾を引っ込めた。冗談を、真顔で返された。
質問は、実務へ移った。
「皆様の身内の方に、無事を知らせねばなりますまい。お国許はどちらか。ご親族、あるいは身元を請け合う方は」
単純な問いだった。だからこそ、答えに窮した。
「わたくしは、メジロ家の者ですわ。東京に屋敷が」
「東京の、何という町に」
声は、あくまで穏やかだった。マックイーンが町名を告げる。書記が筆を止めて首を傾げ、大久保が静かに首を振った。
「その町名は、東京府にはありませぬな」
「……そう、ですか」
マックイーンの背筋は崩れなかった。膝の上の指だけが、強く組み直された。
ジャーニーが引き取った。
「恐れ入ります。私どもには、すぐにお示しできる身寄りがございません。事情は、いずれ私から、順を追ってご説明いたします」
「承知した。皆様のことは、すでに東京へ電信で報せてある。返事が参るまで、身を預からせて頂きたい。異国の者の目が多い港に、身元の知れぬ方々を置いておくわけには参らぬ。皆様のためにも」
フェノーメノが頷いた。
「理屈は、通っているであります」
「メノ」
ナカヤマが短く呼んだ。
「分かっております。ですが、通っているものは通っているのであります」
「それから、医師を。お体に障りがないか確かめたい。耳や尾についても、診ねばならぬ」
その言葉で、オルフェーヴルが立ち上がった。
「断る」
椅子が床を擦った。部屋の隅に立つ護衛の手が動く。
「余の体を、見知らぬ者が検める。そのような許しを与えた覚えはない」
「オル」
「姉上でも、この件は譲れませぬ」
「オルフェーヴル」
ジャーニーの声は静かだった。
「あなたの気持ちは分かります。だから、私に任せなさい」
妹はしばらく姉を睨み、鼻から息を吐いて腰を下ろした。
ジャーニーは大久保に向き直る。
「診察はお受けします。ただし条件が三つ。診る方は一人に限ること。七人を同じ部屋で診ること。所見以外の記録を取らず、他言もなさらないこと」
「条件は呑もう。書記、そのように」
あまりにあっさりした返答だった。ジャーニーは眉を寄せ、それでも頭を下げた。
診察は、その夜のうちに行われた。
白髪の医師は、七人の耳を一つずつ見て、尾の付け根に触れ、手を止めた。深く息を吸ってから、大久保に向き直る。
「作り物ではございませぬ。血も通うております。……わたくしには、これ以上は」
「十分だ。ご苦労であった」
医師が下がると、若い役人が桐の箱を運んできた。
「濡れたお荷物は、湿気を取るため、お預かり致します。乾き次第、お返しを」
スマートフォン。財布。ハーモニカ。小さな袋に分けられて、箱へ収められていく。ステイゴールドのコートからハーモニカが取り出されたとき、彼女の指がわずかに動いて、止まった。
「ええ、よろしくお願いいたしますわ」
マックイーンが頭を下げた。
鍵をかける音は小さかった。ナカヤマだけが、その音のした方向と、鍵を持つ手の持ち主を目で追っていた。
四 一つずつ
大久保は、翌朝には横浜を発った。七人の身は、港の役人たちに預けられた。
二日目、三日目と、同じような日が続いた。
待遇は悪くなかった。膳は朝夕に運ばれ、布団は毎晩乾いたものが敷かれ、医師は毎日脈を診に来た。ゴールドシップの「今日の飯もうめえ!」は、日課になった。
朝餉の席では、七人の膳に若い役人が付いた。給仕というより、世話役らしい。
「お口に合いますでしょうか」
「合う合う。この漬物、おかわり」
「ゴールドシップさん、人の分まで取らないで下さい」
「メノのは取ってねえだろ」
「本官の分は、既に確保しているであります!」
役人が、吹き出しそうになって咳払いをした。
「賑やかで、結構なことにございます。わたくしの母なら、お行儀が悪いと叱りますが」
「あなたのお母様は、正しいですわ」
マックイーンが澄ました顔で答えた。
「この港の近くに、面白いところはある? 旅の人が寄るような」
ステイゴールドが、味噌汁の椀越しに尋ねた。
「それは、ございます。港の外れに、団子の美味い茶屋が。異人の船乗りもよう参りまして」
「へえ。行ってみたいな」
「お上のお許しがあれば、ご案内致しますものを」
役人の笑みは変わらなかった。声も、少しも冷たくなかった。ただ、その一言で、団子の話はそこで終わった。
ステイゴールドは、椀を置いた。
「そうか。許しが出たら、頼む」
ナカヤマは、数えていた。
「扉の外、常に二人。交代は朝六つ、昼八つ、夜四つ。厠には毎回付いてくる。庭は異人の目があるから駄目。手紙は検めてから。面会は一件もなし」
「一つずつなら、どれも理屈が通ります」
フェノーメノが律儀に応じた。
「ああ。一つずつなら、な」
フェノーメノは黙って、湯呑みを見つめた。
二日目の午後からは、一人ずつの聴取も始まった。最初に呼ばれたフェノーメノは、「全てお答えしてまいります」と背筋を伸ばして出ていき、一時間半後、困惑を顔に残して戻ってきた。
「書記の方が、本官の答えを別の紙に写されました。他の方のものと、見比べるそうであります」
「口裏を確かめるんだな。アタシでもそうする」
「本官たちは、口裏など」
「やってなくても、確かめるのが向こうの仕事だ」
その夜、役人の一人が、黄楊の櫛を持ってきた。
「海水でお髪が傷んでおられるかと」
オルフェーヴルは包みを睨み、長い沈黙のあと、櫛を摘み上げた。
「……礼は言わぬ。預かっただけだ」
そう言って、ジャーニーに突き出す。ジャーニーは黙って受け取り、妹の髪に当てた。
三日目の夕餉のあと、ゴールドシップが、すっと立ち上がった。
「ちょっと飽きた。散歩してくる」
「どちらへ」
「その辺。窓から」
「ゴールドシップさん!」
マックイーンの制止より早く、ゴールドシップは窓枠に足をかけていた。二階だが、庇が下に続いている。軽い身のこなしで滑り降り、庭の暗がりへ消えた。
数分後、庭の向こうで声がした。
「おい、離せって。ただの散歩だろ」
続いて、静かな男の声。
「危のうございます。お戻りを」
二人の役人に、両腕を取られていた。力は強くない。痛めつける様子もない。ただ、丁寧に、確実に、部屋のほうへ向きを変えさせられていく。
「離せよ。ゴルシちゃんだぞ。ゴルシちゃんが散歩してんだぞ」
誰も笑わなかった。役人は礼を失さず、しかし手を緩めもしなかった。
ゴールドシップは、そこで冗談をやめた。
窓から戻される間、一言も喋らなかった。部屋に入ると自分の布団に腰を下ろし、膝を抱えた。
「……ゴルシ」
マックイーンが、隣に座った。説教の言葉は出てこなかった。
「別に。何でもねえよ」
「ええ」
「ただ、あの手、離さなかった」
「ええ」
それだけだった。マックイーンは、隣に座ったまま立ち上がらなかった。
その夜、マックイーンは見張りの役人に尋ねた。
「この滞在は、いつまででしょうか」
「上のご判断を仰いでおります」
「その上の方とは」
「東京におられます」
「お答えは、いつ」
「存じませぬ」
質問は、一つずつ短くなっていく。声の調子だけが、変わらなかった。
五 預かりの夜
四日目の夕刻、東京から使者が来た。
応接間に七人が揃うと、洋装の中年の男が、書状を手に頭を下げた。大久保ではなかった。
「東京より参りました。明朝、皆様を東京へお連れするよう、申し付かっております。出立は昼前の蒸気車と聞いております。支度は、夜明けののちでよろしいかと」
「大久保様は」
マックイーンが、先に口を開いた。
「東京にて、ご報告の最中と伺っております」
「どなたが、お決めになりましたの」
「私は、書状をお届けし、お連れせよ、と申し付かったのみにございます」
「東京では、どなたにお会いするのですか」
「存じ上げませぬ」
使者は、書状の端を指で揃えた。言い繕う声ではなかった。
「では、伺います。お断りしたら、どうなりますの」
「お断り、と」
使者が、初めて言葉に詰まった。
「そのような仰せは、考えも及びませなんだ。私の一存では、何とも」
「断った場合、わたくしたちは、ここから自由に出られますの」
「私には、分かりかねます。東京の方々が、お決めになること」
「出られるとも、出られぬとも、おっしゃいませんのね」
「……お答えできませぬ」
「余は、物ではない」
オルフェーヴルが言った。低い声だった。
「なぜ、扉の外に人を立たせ、余の行く先を塞ぐ」
「皆様をお守りするためと、承っております」
使者は、目を伏せずに答えた。ジャーニーの指が、妹の袖を握り込んだ。
「では、夜明けまでにご支度を」
一礼して、使者は去った。
障子が閉まる。足音が遠ざかり、廊下で止まる。
その直後、障子の外側で、小さな金属音がした。
掛け金の掛かる音だった。
誰も、すぐには何も言わなかった。
「……本官は、従うべきだと考えるであります」
フェノーメノが、膝の上で拳を握った。
「助けて頂いた恩があります。まだ、何も酷いことはされておりません。ここで拒めば、恩を仇で返す者になります」
「メノの言うことは、筋が通ってる」
ナカヤマはあっさり認めた。
「だから聞く。誰に会って、そのあと何が起きるか、説明がないまま、全員で汽車に乗るのか」
「それは……」
「わたくしは、従うこと自体は悪手ではないと考えますわ。ただ、従うなら、せめて誰に会うのか、いつまでかを確かめたい。確かめても、お答えがないのでしたら」
マックイーンの言葉は、そこで止まった。口調は崩れなかった。その先を、彼女は言わなかった。
「アタシは、やだ」
ゴールドシップが、ぼそっと言った。
「何がやなのか、うまく言えねえけど。あの手、やだった」
誰も反論しなかった。
「余は、選ぶ。選ばされるのは気に食わぬ」
「オル、まだ何も」
「姉上。余は、今、選ぶと言っただけだ」
ジャーニーは妹から視線を移した。
ステイゴールドは、壁にもたれたまま、まだ何も言っていなかった。ハーモニカは、桐の箱の中にある。吹きたくても吹けない指が、膝の上で小さく動いていた。
「……アネゴ」
「うん」
返事のあと、長い間があった。
それから、彼女は、ふう、と息を吐いた。
大きく伸びをする。背骨が、ぽきりと鳴った。
「考えた。ずっと考えてたけど、やめた」
「やめた?」
「あの人たちの腹の中は読めないし、東京に何があるかも分からない。分かんないことで悩むの、性に合わなくてさ」
にっ、と笑った。いかだの上で見せたのと、同じ笑い方だった。
「それにな。行き先を人に決めてもらうのは、旅じゃない」
「……ステイゴールドさんの理屈でありますね」
「理屈じゃないよ。好みの問題」
ステイゴールドは、膝を叩いて立ち上がった。
「じゃ、出ようか」
一瞬の静けさ。それから、ゴールドシップが顔を上げた。
「……いいのか」
「いいも悪いもない。逃げるって言ったほうが、分かりやすいか」
「ようやく言ったか」
オルフェーヴルが、鼻を鳴らした。
「余は、とうに決めていた」
「お供します、アネゴ」
ジャーニーが、小さく微笑んだ。
「本官は」
フェノーメノは唇を結んだまま、動かなかった。
「……すぐには、頷けないであります」
「メノ」
「あの方々は、本官たちを海から引き上げ、食事を与え、医者を呼んで下さいました。本官が同じ立場だったとして、同じことができたか、自信がありません」
「向こうは、仕事でやってる」
ナカヤマが言った。
「仕事であっても、恩は恩であります」
「そうだな」
ステイゴールドは、否定しなかった。
「それに」
フェノーメノの声が、少し低くなった。
「本官たちが逃げれば、見張りの方々が責めを負うであります。櫛を届けて下さった方も。ゴールドシップさんを連れ戻された方も。あの方々は、命令に従っていただけなのに」
沈黙が落ちた。
「……あの手の兄ちゃんも、か」
ゴールドシップが、ぽつりと言った。
「それは、確かにそうです」
ジャーニーが言った。誰も、その先を続けなかった。
「メノの言う通りだ」
ステイゴールドは頭を掻いた。
「まあ、そうだな。乱暴はなしで。置き手紙くらいは残してさ。礼は、あとでちゃんと。……って言っても、メノは納得しないだろ」
「納得は、していないであります」
「それでいい」
「……よろしいのですか」
「納得しなくていい。ただ、ついて来てくれると、助かる」
フェノーメノは、長い間、自分の膝を見ていた。
「……皆さんの点検をする者が、いなくなってしまいます」
顔を上げる。
「行きます。ただし、礼は必ず、戻って申し上げるであります。置き手紙も、本官が確認します」
「置き手紙は、わたくしが書きますわ」
マックイーンが言った。
「文面の点検は、お願いしますわね、フェノーメノさん」
「……了解であります」
「決まりだな」
ステイゴールドが言うと、マックイーンが額を押さえた。
「具体策は、おありですの」
「ない」
「でしょうね」
「でも、見張りの交代が朝六つなら、その直前がいちばん眠い」
ナカヤマが、口の端を上げた。
「夜明け前だな。扉は外から掛け金。窓の庇は、ゴルシが使った。降りられる」
「準備は夜のうちに。荷物の桐箱は、どこだ」
「一階の奥の部屋だと思いますわ。あの夜、運ばれていく方向を見ておりました」
「さすがマックイーン」
ステイゴールドが肩を叩く。
「褒めても、おやつは出ませんわよ」
小さな笑いが起きた。久しぶりの、笑いだった。
オルフェーヴルが、懐から黄楊の櫛を出した。畳の上に、そっと置く。
「預かりものだ。返す」
「……はい」
ジャーニーは、それだけ答えた。マックイーンの書く置き手紙の上に、櫛が重しとして載せられた。
まだ夜は深い。夜明けまでには、時間がある。誰もが、そう考えていた。
庭の方で、荷車の軋む音がした。ナカヤマだけが、それに気づいて眉を寄せた。
けれど、計画の話のほうが先だった。