ステイゴールドは明治に流されるようです   作:藤原康政

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第2話「預かり」

 

 

一 船室

 

 船室の丸窓から、白い朝の光が差していた。

 

 七人は、あてがわれた一室に毛布を敷いて雑魚寝をしていた。眠れたのは半分ほどで、残りは目を閉じたまま、天井の梁を数えていたらしい。最初に身を起こしたフェノーメノは、官帽の代わりに乾いた布を頭に巻き、きっちり正座をした。

 

「皆さん、起床であります。本官の時計では――」

 

 手首を見る。針は昨日の昼で止まっていた。

 

「……時刻、不明であります」

 

「朝からそれやるのか」

 

 ナカヤマが毛布から片目だけを出した。

 

「ひとまず、整理しましょう」

 

 ジャーニーが眼鏡を掛け直した。昨夜のうちに、船員が乾かして返してくれたものだ。

 

「明治六年。大久保利通。あの方々の言葉が確かなら、です。明治について、覚えていることは」

 

「文明開化、であります。鉄道。散切り頭。大久保利通は、教科書の太字でありました。何をした人かは、その、あまり自信が」

 

「西郷隆盛さんと並んで、維新の三傑。わたくしが言えるのは、そこまでですわ」

 

「アタシは知ってるぞ。明治は牛鍋が流行った。あと、あんぱん」

 

「それは何年の話ですの」

 

「知らん!」

 

「余は知らぬ。必要になれば、知っている者に語らせる」

 

 窓際で髪を整えながら、オルフェーヴルが言った。

 

「では、一つだけ」

 

 ジャーニーが全員を見渡す。

 

「ウマ娘のいない日本。その時点で、私たちの知る歴史とは違います。覚えていることは、あてにしすぎないでおきましょう」

 

「知識より、あの髭が何を欲しがってるかだ」

 

 ナカヤマはそう言って、ステイゴールドを見た。

 

「アンタは?」

 

「史跡の看板に書いてあることくらい。……知らないほうが、面白いこともある」

 

 いつもの軽さだった。ナカヤマは、彼女の視線の先を一度だけ追い、何も言わなかった。丸窓の外で、岸壁が近づいていた。

 

 朝食のあと、ステイゴールドは船首へ出た。

 

 樽の上に、昨日の白髭の水夫がいた。言葉は通じない。それでも水夫は、懐から干し肉を出して半分に割り、差し出した。

 

「ありがと」

 

 塩がきつく、顎が痛くなるほど硬い。

 

「うまいよ、これ」

 

 水夫は皺だらけの顔で笑い、パイプの先で陸地を指した。ハーモニカは、まだ濡れたコートのポケットの中にある。吹こうとして、やめた。

 

 

二 横浜

 

 船が横浜に着いたのは、その日の夕刻だった。

 

 タラップの下に、船員が数人、並んでいた。白髭の水夫は、パイプを咥えたまま腕を組んでいる。

 

「メルシー。皆様のおかげで、命を拾いましたわ」

 

 マックイーンが頭を下げ、ゴールドシップが「サンキューな!」と両手を振る。フェノーメノが直立して敬礼すると、水夫たちが慌てて帽子に手をやった。言葉は通じない。それでも握手は、あちこちで成立した。

 

 ステイゴールドが差し出した手を、水夫は節くれ立った両手で包んだ。

 

「干し肉、うまかった」

 

 顎を動かして噛む真似をすると、水夫は声を立てて笑い、拳で自分の胸を叩いた。

 

「こちらへ」

 

 若い役人の声がした。水夫の視線が、役人から七人へ、また役人へ動く。それから、帽子の縁に指を当てた。

 

 タラップを降りる手前で、七人は大判の毛布を頭から被せられた。書記の若者が、申し訳なさそうに言う。

 

「耳と尾を、人目に晒さぬための配慮にございます」

 

「配慮ね」

 

 ナカヤマは毛布の縁から、タラップの先を窺った。

 

 桟橋は人で埋まっていた。荷を担ぐ男たち。髷を結った者と、帽子の異人が、同じ地面に立っている。煉瓦の建物。ガス灯の柱。潮と石炭と、焼き魚の匂い。

 

 毛布の下の七人に、視線が集まっていた。荷揚げの男が手を止め、子連れの女が足を止める。幼い男の子が毛布の裾を指さし、母親に口を塞がれた。

 

「うおー、アタシら大スターじゃん。サインいるか?」

 

「ゴールドシップさん、お静かに」

 

「静かにしてたらスターになれねえだろ」

 

「なりたいのですか」

 

「なりたくねえ」

 

 即答だった。軽口の勢いが、いつもの半分ほどしかなかった。

 

「ステゴさん、足元をご覧になって」

 

「見てる見てる」

 

 見ているのは足元ではなかった。人の流れ、荷の積み方、役人の立ち位置。知らない町に着いたら、まず出口を探す。昔からの癖だった。

 

 桟橋の端に、箱形の車が停まっていた。黒塗りの車体。その前に、見たことのない獣が繋がれている。

 

「……でけえ犬?」

 

 ゴールドシップが呟いた。

 

 茶色の毛並み。太い首。長い顔。ときおり尾を振って、虻を払っている。四つ足で、体は人の倍ほどもあった。頭の上には、立った耳がある。

 

 誰も、すぐには動けなかった。

 

 オルフェーヴルが、一歩だけ後ろに下がった。毛布の下で耳が伏せられたのが、布の動きで分かった。

 

「……あれは、何だ」

 

「犬ではありませんわ。牛とも、違うようですし」

 

 マックイーンの声は、いつもより低かった。

 

「車を、引いておりますのね」

 

「あれは、馬にございます」

 

 傍らの書記が、不思議そうに答えた。七人が獣を見る目のほうに、驚いているらしかった。

 

「うま」

 

 ジャーニーが、小さく繰り返した。

 

 その音を、七人は誰もが知っていた。自分たちの名の中にある音だった。

 

「触っても、いいか」

 

 ゴールドシップが、毛布の下から手を伸ばしかけた。書記が慌てて袖を引く。

 

「お止め下さい。蹴られますと、骨が折れまする」

 

「蹴るのか。あんなに目ぇ優しいのに」

 

「馬は、そういうものにございます」

 

 御者が手綱を軽く振った。獣が、ゆっくりと歩き出す。車輪が軋み、黒塗りの車体が動いた。

 

 マックイーンの目が、その脚を追っていた。蹄が石畳を踏むたび、太い腿の筋が動く。重い車を引いて、乱れない歩調。口を開きかけて、閉じる。

 

「口に、何か入ってるな」

 

 ステイゴールドが言った。

 

「金具と、紐。あれで操ってるのか」

 

「……痛くはないのでしょうか」

 

 マックイーンが言った。

 

「さあな。痛くないといいけど」

 

 オルフェーヴルは、少し離れたところで立ち尽くしていた。同じ形の耳。同じ形の尾。それが物言わず、人に引かれて歩いていく。

 

「……不快だ」

 

 絞り出すような声だった。

 

「あれと余を、同じ音で呼ぶな」

 

「オル」

 

「分かっています、姉上。あれが悪いのではない。……分かって、いる」

 

 獣がこちらを向いた。大きな黒い目が七人を順に映し、ふいと逸らされる。耳が、ぴくりと動いた。

 

「……乗りましょう、オル」

 

「……分かっている」

 

 車に押し込まれる間、ステイゴールドは窓の外の獣を見ていた。

 

 この世界では、あれが車を引く。自分たちと同じ音の名を持つ、自分たちではない生き物が。

 

 答えは出ない。出ないことを考え続けるのは、旅で覚えた癖だった。

 

 

三 応接

 

 連れて行かれたのは、港を見下ろす煉瓦造りの建物の二階だった。

 

 通された応接間は洋風だった。長い机に、背もたれの高い椅子。窓の外はすでに暗く、壁の洋灯が揺れている。机には湯気の立つ茶と、白い饅頭が並んでいた。

 

「長旅の後ゆえ、まずは召し上がられよ」

 

 大久保は船室で見たのと同じ黒い上着で、机の向かいに座っていた。

 

 饅頭にゴールドシップが手を伸ばし、マックイーンに手首を叩かれた。

 

「頂く前に、改めてお礼を。命を救って頂いたこと、七人を代表して申し上げます」

 

「お気になさらず。海に落ちた者を拾うのは、船の者の務め」

 

 大久保は書記に目配せをした。机の上に、濡れた袋の中身が一つずつ並べられていく。黒い板。金属の細い輪。防塵ゴーグル。

 

「この板は」

 

「スマホ……いえ、通信のための器械ですわ。水に濡れて、動かなくなりましたけれど」

 

「電信の類か」

 

 即座に返ってきた言葉に、マックイーンが目を瞬いた。

 

「近いと、思いますわ」

 

「して、これは」

 

 大久保の指が、ゴーグルの縁を叩いた。ステイゴールドが答えるより早く、爪で素材を確かめ、それ以上は尋ねなかった。黒い板は丁寧に布で包まれ、書記の手に渡った。

 

「船でも伺ったが、改めて」

 

 大久保は、七人の耳を順に見た。

 

「ウマ娘とは、如何なるものか。お教え願いたい」

 

 七人は顔を見合わせた。

 

「走る、ですわね。わたくしたちは、走ります」

 

「アタシら、一番を競うんだよ。レースで」

 

「れえす」

 

「駆け比べのことであります。国じゅうの人が観に来る、大きな競技で」

 

「国じゅうの」

 

 大久保が、わずかに眉を動かした。

 

「それを、生業とするのか」

 

「生業というか……学園に通って、走って、ですから」

 

「学園とは」

 

 マックイーンが言葉に詰まった。

 

 書記が、小声で言った。

 

「大久保様。届けの様式に、当てはまる欄がございませぬ」

 

「承知している」

 

 大久保は筆を持ち替え、紙に目を落とした。しばらく何も書かなかった。この部屋で、この人が筆を止めたのは初めてだった。

 

「異国の遭難者か、国内の者か。いずれの括りで書き留めるべきか、私にも決めかねる」

 

「人ですわ」

 

 マックイーンが、即座に答えた。

 

「わたくしたちは、人です。耳と尾があるだけの」

 

「承知した。人として、記す」

 

 大久保は筆を動かした。その一画が、ひどく丁寧だった。

 

「ちなみにこの尻尾、触るとふさふさだぞ。触ってみるか?」

 

 ゴールドシップが、いつもの調子で尻尾を差し出した。冗談のつもりだった。

 

「失礼する」

 

 大久保は本当に立ち上がり、尾の先に二本の指を添えた。一拍の間。

 

「……毛だな。馬の尾に、近い」

 

「馬ぁ!?」

 

「無礼な物言いを、お許し頂きたい。他に比べるものを知らぬゆえ」

 

 ゴールドシップは口を開けたまま、尻尾を引っ込めた。冗談を、真顔で返された。

 

 質問は、実務へ移った。

 

「皆様の身内の方に、無事を知らせねばなりますまい。お国許はどちらか。ご親族、あるいは身元を請け合う方は」

 

 単純な問いだった。だからこそ、答えに窮した。

 

「わたくしは、メジロ家の者ですわ。東京に屋敷が」

 

「東京の、何という町に」

 

 声は、あくまで穏やかだった。マックイーンが町名を告げる。書記が筆を止めて首を傾げ、大久保が静かに首を振った。

 

「その町名は、東京府にはありませぬな」

 

「……そう、ですか」

 

 マックイーンの背筋は崩れなかった。膝の上の指だけが、強く組み直された。

 

 ジャーニーが引き取った。

 

「恐れ入ります。私どもには、すぐにお示しできる身寄りがございません。事情は、いずれ私から、順を追ってご説明いたします」

 

「承知した。皆様のことは、すでに東京へ電信で報せてある。返事が参るまで、身を預からせて頂きたい。異国の者の目が多い港に、身元の知れぬ方々を置いておくわけには参らぬ。皆様のためにも」

 

 フェノーメノが頷いた。

 

「理屈は、通っているであります」

 

「メノ」

 

 ナカヤマが短く呼んだ。

 

「分かっております。ですが、通っているものは通っているのであります」

 

「それから、医師を。お体に障りがないか確かめたい。耳や尾についても、診ねばならぬ」

 

 その言葉で、オルフェーヴルが立ち上がった。

 

「断る」

 

 椅子が床を擦った。部屋の隅に立つ護衛の手が動く。

 

「余の体を、見知らぬ者が検める。そのような許しを与えた覚えはない」

 

「オル」

 

「姉上でも、この件は譲れませぬ」

 

「オルフェーヴル」

 

 ジャーニーの声は静かだった。

 

「あなたの気持ちは分かります。だから、私に任せなさい」

 

 妹はしばらく姉を睨み、鼻から息を吐いて腰を下ろした。

 

 ジャーニーは大久保に向き直る。

 

「診察はお受けします。ただし条件が三つ。診る方は一人に限ること。七人を同じ部屋で診ること。所見以外の記録を取らず、他言もなさらないこと」

 

「条件は呑もう。書記、そのように」

 

 あまりにあっさりした返答だった。ジャーニーは眉を寄せ、それでも頭を下げた。

 

 診察は、その夜のうちに行われた。

 

 白髪の医師は、七人の耳を一つずつ見て、尾の付け根に触れ、手を止めた。深く息を吸ってから、大久保に向き直る。

 

「作り物ではございませぬ。血も通うております。……わたくしには、これ以上は」

 

「十分だ。ご苦労であった」

 

 医師が下がると、若い役人が桐の箱を運んできた。

 

「濡れたお荷物は、湿気を取るため、お預かり致します。乾き次第、お返しを」

 

 スマートフォン。財布。ハーモニカ。小さな袋に分けられて、箱へ収められていく。ステイゴールドのコートからハーモニカが取り出されたとき、彼女の指がわずかに動いて、止まった。

 

「ええ、よろしくお願いいたしますわ」

 

 マックイーンが頭を下げた。

 

 鍵をかける音は小さかった。ナカヤマだけが、その音のした方向と、鍵を持つ手の持ち主を目で追っていた。

 

 

四 一つずつ

 

 大久保は、翌朝には横浜を発った。七人の身は、港の役人たちに預けられた。

 

 二日目、三日目と、同じような日が続いた。

 

 待遇は悪くなかった。膳は朝夕に運ばれ、布団は毎晩乾いたものが敷かれ、医師は毎日脈を診に来た。ゴールドシップの「今日の飯もうめえ!」は、日課になった。

 

 朝餉の席では、七人の膳に若い役人が付いた。給仕というより、世話役らしい。

 

「お口に合いますでしょうか」

 

「合う合う。この漬物、おかわり」

 

「ゴールドシップさん、人の分まで取らないで下さい」

 

「メノのは取ってねえだろ」

 

「本官の分は、既に確保しているであります!」

 

 役人が、吹き出しそうになって咳払いをした。

 

「賑やかで、結構なことにございます。わたくしの母なら、お行儀が悪いと叱りますが」

 

「あなたのお母様は、正しいですわ」

 

 マックイーンが澄ました顔で答えた。

 

「この港の近くに、面白いところはある? 旅の人が寄るような」

 

 ステイゴールドが、味噌汁の椀越しに尋ねた。

 

「それは、ございます。港の外れに、団子の美味い茶屋が。異人の船乗りもよう参りまして」

 

「へえ。行ってみたいな」

 

「お上のお許しがあれば、ご案内致しますものを」

 

 役人の笑みは変わらなかった。声も、少しも冷たくなかった。ただ、その一言で、団子の話はそこで終わった。

 

 ステイゴールドは、椀を置いた。

 

「そうか。許しが出たら、頼む」

 

 ナカヤマは、数えていた。

 

「扉の外、常に二人。交代は朝六つ、昼八つ、夜四つ。厠には毎回付いてくる。庭は異人の目があるから駄目。手紙は検めてから。面会は一件もなし」

 

「一つずつなら、どれも理屈が通ります」

 

 フェノーメノが律儀に応じた。

 

「ああ。一つずつなら、な」

 

 フェノーメノは黙って、湯呑みを見つめた。

 

 二日目の午後からは、一人ずつの聴取も始まった。最初に呼ばれたフェノーメノは、「全てお答えしてまいります」と背筋を伸ばして出ていき、一時間半後、困惑を顔に残して戻ってきた。

 

「書記の方が、本官の答えを別の紙に写されました。他の方のものと、見比べるそうであります」

 

「口裏を確かめるんだな。アタシでもそうする」

 

「本官たちは、口裏など」

 

「やってなくても、確かめるのが向こうの仕事だ」

 

 その夜、役人の一人が、黄楊の櫛を持ってきた。

 

「海水でお髪が傷んでおられるかと」

 

 オルフェーヴルは包みを睨み、長い沈黙のあと、櫛を摘み上げた。

 

「……礼は言わぬ。預かっただけだ」

 

 そう言って、ジャーニーに突き出す。ジャーニーは黙って受け取り、妹の髪に当てた。

 

 三日目の夕餉のあと、ゴールドシップが、すっと立ち上がった。

 

「ちょっと飽きた。散歩してくる」

 

「どちらへ」

 

「その辺。窓から」

 

「ゴールドシップさん!」

 

 マックイーンの制止より早く、ゴールドシップは窓枠に足をかけていた。二階だが、庇が下に続いている。軽い身のこなしで滑り降り、庭の暗がりへ消えた。

 

 数分後、庭の向こうで声がした。

 

「おい、離せって。ただの散歩だろ」

 

 続いて、静かな男の声。

 

「危のうございます。お戻りを」

 

 二人の役人に、両腕を取られていた。力は強くない。痛めつける様子もない。ただ、丁寧に、確実に、部屋のほうへ向きを変えさせられていく。

 

「離せよ。ゴルシちゃんだぞ。ゴルシちゃんが散歩してんだぞ」

 

 誰も笑わなかった。役人は礼を失さず、しかし手を緩めもしなかった。

 

 ゴールドシップは、そこで冗談をやめた。

 

 窓から戻される間、一言も喋らなかった。部屋に入ると自分の布団に腰を下ろし、膝を抱えた。

 

「……ゴルシ」

 

 マックイーンが、隣に座った。説教の言葉は出てこなかった。

 

「別に。何でもねえよ」

 

「ええ」

 

「ただ、あの手、離さなかった」

 

「ええ」

 

 それだけだった。マックイーンは、隣に座ったまま立ち上がらなかった。

 

 その夜、マックイーンは見張りの役人に尋ねた。

 

「この滞在は、いつまででしょうか」

 

「上のご判断を仰いでおります」

 

「その上の方とは」

 

「東京におられます」

 

「お答えは、いつ」

 

「存じませぬ」

 

 質問は、一つずつ短くなっていく。声の調子だけが、変わらなかった。

 

 

五 預かりの夜

 

 四日目の夕刻、東京から使者が来た。

 

 応接間に七人が揃うと、洋装の中年の男が、書状を手に頭を下げた。大久保ではなかった。

 

「東京より参りました。明朝、皆様を東京へお連れするよう、申し付かっております。出立は昼前の蒸気車と聞いております。支度は、夜明けののちでよろしいかと」

 

「大久保様は」

 

 マックイーンが、先に口を開いた。

 

「東京にて、ご報告の最中と伺っております」

 

「どなたが、お決めになりましたの」

 

「私は、書状をお届けし、お連れせよ、と申し付かったのみにございます」

 

「東京では、どなたにお会いするのですか」

 

「存じ上げませぬ」

 

 使者は、書状の端を指で揃えた。言い繕う声ではなかった。

 

「では、伺います。お断りしたら、どうなりますの」

 

「お断り、と」

 

 使者が、初めて言葉に詰まった。

 

「そのような仰せは、考えも及びませなんだ。私の一存では、何とも」

 

「断った場合、わたくしたちは、ここから自由に出られますの」

 

「私には、分かりかねます。東京の方々が、お決めになること」

 

「出られるとも、出られぬとも、おっしゃいませんのね」

 

「……お答えできませぬ」

 

「余は、物ではない」

 

 オルフェーヴルが言った。低い声だった。

 

「なぜ、扉の外に人を立たせ、余の行く先を塞ぐ」

 

「皆様をお守りするためと、承っております」

 

 使者は、目を伏せずに答えた。ジャーニーの指が、妹の袖を握り込んだ。

 

「では、夜明けまでにご支度を」

 

 一礼して、使者は去った。

 

 障子が閉まる。足音が遠ざかり、廊下で止まる。

 

 その直後、障子の外側で、小さな金属音がした。

 

 掛け金の掛かる音だった。

 

 誰も、すぐには何も言わなかった。

 

「……本官は、従うべきだと考えるであります」

 

 フェノーメノが、膝の上で拳を握った。

 

「助けて頂いた恩があります。まだ、何も酷いことはされておりません。ここで拒めば、恩を仇で返す者になります」

 

「メノの言うことは、筋が通ってる」

 

 ナカヤマはあっさり認めた。

 

「だから聞く。誰に会って、そのあと何が起きるか、説明がないまま、全員で汽車に乗るのか」

 

「それは……」

 

「わたくしは、従うこと自体は悪手ではないと考えますわ。ただ、従うなら、せめて誰に会うのか、いつまでかを確かめたい。確かめても、お答えがないのでしたら」

 

 マックイーンの言葉は、そこで止まった。口調は崩れなかった。その先を、彼女は言わなかった。

 

「アタシは、やだ」

 

 ゴールドシップが、ぼそっと言った。

 

「何がやなのか、うまく言えねえけど。あの手、やだった」

 

 誰も反論しなかった。

 

「余は、選ぶ。選ばされるのは気に食わぬ」

 

「オル、まだ何も」

 

「姉上。余は、今、選ぶと言っただけだ」

 

 ジャーニーは妹から視線を移した。

 

 ステイゴールドは、壁にもたれたまま、まだ何も言っていなかった。ハーモニカは、桐の箱の中にある。吹きたくても吹けない指が、膝の上で小さく動いていた。

 

「……アネゴ」

 

「うん」

 

 返事のあと、長い間があった。

 

 それから、彼女は、ふう、と息を吐いた。

 

 大きく伸びをする。背骨が、ぽきりと鳴った。

 

「考えた。ずっと考えてたけど、やめた」

 

「やめた?」

 

「あの人たちの腹の中は読めないし、東京に何があるかも分からない。分かんないことで悩むの、性に合わなくてさ」

 

 にっ、と笑った。いかだの上で見せたのと、同じ笑い方だった。

 

「それにな。行き先を人に決めてもらうのは、旅じゃない」

 

「……ステイゴールドさんの理屈でありますね」

 

「理屈じゃないよ。好みの問題」

 

 ステイゴールドは、膝を叩いて立ち上がった。

 

「じゃ、出ようか」

 

 一瞬の静けさ。それから、ゴールドシップが顔を上げた。

 

「……いいのか」

 

「いいも悪いもない。逃げるって言ったほうが、分かりやすいか」

 

「ようやく言ったか」

 

 オルフェーヴルが、鼻を鳴らした。

 

「余は、とうに決めていた」

 

「お供します、アネゴ」

 

 ジャーニーが、小さく微笑んだ。

 

「本官は」

 

 フェノーメノは唇を結んだまま、動かなかった。

 

「……すぐには、頷けないであります」

 

「メノ」

 

「あの方々は、本官たちを海から引き上げ、食事を与え、医者を呼んで下さいました。本官が同じ立場だったとして、同じことができたか、自信がありません」

 

「向こうは、仕事でやってる」

 

 ナカヤマが言った。

 

「仕事であっても、恩は恩であります」

 

「そうだな」

 

 ステイゴールドは、否定しなかった。

 

「それに」

 

 フェノーメノの声が、少し低くなった。

 

「本官たちが逃げれば、見張りの方々が責めを負うであります。櫛を届けて下さった方も。ゴールドシップさんを連れ戻された方も。あの方々は、命令に従っていただけなのに」

 

 沈黙が落ちた。

 

「……あの手の兄ちゃんも、か」

 

 ゴールドシップが、ぽつりと言った。

 

「それは、確かにそうです」

 

 ジャーニーが言った。誰も、その先を続けなかった。

 

「メノの言う通りだ」

 

 ステイゴールドは頭を掻いた。

 

「まあ、そうだな。乱暴はなしで。置き手紙くらいは残してさ。礼は、あとでちゃんと。……って言っても、メノは納得しないだろ」

 

「納得は、していないであります」

 

「それでいい」

 

「……よろしいのですか」

 

「納得しなくていい。ただ、ついて来てくれると、助かる」

 

 フェノーメノは、長い間、自分の膝を見ていた。

 

「……皆さんの点検をする者が、いなくなってしまいます」

 

 顔を上げる。

 

「行きます。ただし、礼は必ず、戻って申し上げるであります。置き手紙も、本官が確認します」

 

「置き手紙は、わたくしが書きますわ」

 

 マックイーンが言った。

 

「文面の点検は、お願いしますわね、フェノーメノさん」

 

「……了解であります」

 

「決まりだな」

 

 ステイゴールドが言うと、マックイーンが額を押さえた。

 

「具体策は、おありですの」

 

「ない」

 

「でしょうね」

 

「でも、見張りの交代が朝六つなら、その直前がいちばん眠い」

 

 ナカヤマが、口の端を上げた。

 

「夜明け前だな。扉は外から掛け金。窓の庇は、ゴルシが使った。降りられる」

 

「準備は夜のうちに。荷物の桐箱は、どこだ」

 

「一階の奥の部屋だと思いますわ。あの夜、運ばれていく方向を見ておりました」

 

「さすがマックイーン」

 

 ステイゴールドが肩を叩く。

 

「褒めても、おやつは出ませんわよ」

 

 小さな笑いが起きた。久しぶりの、笑いだった。

 

 オルフェーヴルが、懐から黄楊の櫛を出した。畳の上に、そっと置く。

 

「預かりものだ。返す」

 

「……はい」

 

 ジャーニーは、それだけ答えた。マックイーンの書く置き手紙の上に、櫛が重しとして載せられた。

 

 まだ夜は深い。夜明けまでには、時間がある。誰もが、そう考えていた。

 

 庭の方で、荷車の軋む音がした。ナカヤマだけが、それに気づいて眉を寄せた。

 

 けれど、計画の話のほうが先だった。

 

 

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