一 荷車の音
夜明けまでには、まだ時間がある。そのはずだった。
ナカヤマフェスタは、障子の隙間に耳を当てたまま動かなかった。庭で車輪が軋んでいる。一度ではない。止まって、また動く。荷を積む音だ。
「……おかしい」
「どうなさいましたの」
マックイーンが小声で訊いた。置き手紙の最後の一行を、書き終えたところだった。
「荷車だ。この時間に」
ナカヤマは窓際へ這っていき、障子を指一本ぶんだけ開けた。
庭に提灯が三つ。男たちが荷車を囲み、縄をかけている。使者は、出立は昼前の蒸気車だと言っていた。それにしては、あまりに早い。その荷の上に、見覚えのある桐の箱が載っていた。
「マックイーン。あれだな」
「ええ。蓋の紐の結び目まで、同じですわ」
ナカヤマは障子を閉じ、振り返った。全員が、すでに起きていた。
「予定変更だ。今出るぞ」
「今!? まだ手順の確認が」とフェノーメノ。
「確認してる間に、箱が行く」
「ですが」
「メノ、点検は走りながらやれ」
「走りながらは、点検とは言わないであります!」
ジャーニーが眼鏡を押し上げた。
「手順を組み直します。窓の庇から庭へ。見張りは扉の外ですから、音さえ立てなければ気づかれません。荷車まで十数歩。ゴルシさん、先に降りて、囮になれますか」
「任せろ。ゴルシちゃん、囮は得意だ」
「得意なのは騒ぎだろ」
「同じようなもんだ」
「オルは、静かに降りること。いいわね」
「余に、静かにせよと申すか」
「お願い」
オルフェーヴルは唇を曲げ、それでも「……善処する」と答えた。
ステイゴールドは、もう窓の桟に手をかけていた。
「うん。行こう」
マックイーンが、文机に置き手紙を載せた。黄楊の櫛が、その上で重しになっている。
「フェノーメノさん、文面を」
フェノーメノは一行ずつ目で追い、最後に小さく頷いた。
「……誤字は、ないであります」
「では、参りましょう」
二 桐箱
窓を開ける前に、ナカヤマが廊下側の障子へ耳を寄せた。
「見張りは二人。ひとりは船を漕いでる。もうひとりは、庭の荷車の方を気にしてるな」
「どうして分かりますの」
「さっき障子の隙間から覗いた。立ってる奴の爪先が、ずっと庭を向いてた。音も、こっちには寄ってこない」
マックイーンが感心して頷いた。フェノーメノは、複雑な顔でその話を聞いていた。
「そこまで分かっていて、なぜ今まで、何もなさらなかったのでありますか」
「出る理由が、揃ってなかったからだ」
ナカヤマは短く答えた。
「今は、揃った」
窓が、音もなく開いた。冷たい夜明け前の風が、部屋へ流れ込んだ。
庇の瓦は、夜露で濡れていた。
先頭のゴールドシップが、猫のように音もなく降りる。二番手のナカヤマ、三番手のステイゴールド。マックイーンは裾を気にしながら、ジャーニーは眼鏡を押さえて、フェノーメノは周囲を見回しながら続いた。
最後に、オルフェーヴルが窓枠へ足をかけた。
「静かにだぞ、オル」
「分かっておる」
その直後、ドスン、と庭が鳴った。
提灯が一斉にこちらを向く。
「……静かに降りたであろう」
「着地の話ではありません!」
ジャーニーが小声で叱った。ステイゴールドが、頭を抱えそうになるのをこらえている。
「誰か居るのか」
男の一人が提灯を掲げ、近づいてくる。
「出番だな!」
ゴールドシップが、植え込みから勢いよく飛び出した。
「うおおおお! 火事だー! 火事だぞー! 裏の厠が燃えてるー!」
「何、火事?」
「どこだ」
男たちが色めき立つ。荷車の番の二人までもが、そちらへ駆けていった。
「ゴルシのやつ、ほんとに厠って言った」
「目の付けどころが独特ですわ」
だが、走っていった一人が、途中で足を止めた。
「待て。煙が見えん。焦げ臭くもないぞ」
提灯が、ゆっくりとこちらへ向き直る。
「……バレるの、早えな」
ナカヤマが舌打ちした。
「戻ってくるぞ。急げ」
荷車の番は空になった――はずだったが、一人だけ残っていた。荷車の陰で縄の結び目を確かめていた、年若い下働きの男だ。
「お、おい、あんたら」
男が、提灯を持ち上げた。
「邪魔だ」
オルフェーヴルが、すでに一歩踏み出していた。拳は握られていない。ただ肩を入れ、まっすぐ突っ込んでいくつもりなのは、背中を見れば分かった。
「オル、だめ!」
ジャーニーが妹の帯を掴んだ。オルフェーヴルの足が、宙で止まる。
「姉上、離せ」
「殴らないと約束なさい」
「余は殴るなどと言うておらぬ。通るだけだ」
「通り方が問題なの!」
男は完全に怯えていた。そこへ、ステイゴールドがひょいと顔を出した。
「ごめんな、兄ちゃん。ちょっと、この箱だけ貸してくれ」
「は、箱? それは、お上の預かりで」
「うん。だから、すぐ返しに来る。……たぶん」
「たぶん!?」
男が目を白黒させた隙に、ナカヤマが彼の背後へ回り、提灯の火を指先で摘むように落とした。暗闇に、男の声だけが残った。
「火事ならこっちにも来い! ゴルシちゃんのほうが派手だぞ!」
遠くから、ゴールドシップの声が呼んだ。
「……囮が、囮を呼んでいますわ」
「自分が目立ちたいだけだろ」
ゴールドシップの声は、塀の外まで届いていた。隣家の雨戸ががたりと開き、寝ぼけた声が上がる。
「火事だと?」
「どこだ、どこだ」
「……町ごと起こしやがった」
ナカヤマが、額を押さえた。
荷車が、ぽつんと無人になった。
ナカヤマが先に駆け寄り、荷の上から桐箱を引き寄せた。蓋を開けると、スマートフォン、財布、ゴーグル、それから布に包まれたハーモニカ。
「ある」
「ステゴ、持て」
「……いいよ、置いてけば」
ステイゴールドは、箱を覗いたまま言った。
「スマホは動かないし、財布も使えるかどうか。荷物は少ないほうが、足が軽い」
「ハーモニカもか」
「……」
ステイゴールドの指が、布の端に触れた。濡れて掠れた音しか出なくなった、古い楽器。いかだの上で吹いた音を、全員が覚えている。
「重くはないしな」
小さく言って、彼女はそれを懐に突っ込んだ。
「素直じゃありませんのね」
「いや、ついでだよ。ついで」
マックイーンは何も言わず、肩を揺らした。残りの荷は、フェノーメノが箱ごと抱え上げた。
「本官が運ぶであります。……盗むわけではなく、本来の持ち主として回収するのであります」
「その理屈、気に入った」
ナカヤマが言った。
三 お待ち下さい
門は、庭の奥にあった。
閂を外せば、通りに出られる。ナカヤマが手をかけたとき、背後から声がした。
「お待ち下さい」
全員が振り返った。
暗がりに、提灯がひとつ。朝餉の席で膳に付いてくれた、あの若い役人だった。寝間着の上に羽織を引っかけ、息を弾ませている。
彼の手に刀はなかった。提灯を持った手を、もう一方の手が支えている。震えているのが、灯りの揺れで分かった。
「お戻り下さい。東京からのお返事を待っていただければ、必ず悪いようには」
「悪いようにしないという証は、おありですの」
マックイーンが、静かに言った。
「……わたくしには、ございません」
正直な答えだった。
「ですが、皆様をお守りするよう、申し付かっております。ここを出られれば、わたくしは役目を果たせなかったことになります。上役の叱責では、済みませぬ」
オルフェーヴルが、一歩前に出た。
「ならば、余らを止めてみせよ」
「オル」
「止められるというのなら」
「姉上。余は、事実を述べただけだ」
役人は動かなかった。腕を伸ばしも、しなかった。ただ、七人の前に立ち塞がっていた。
フェノーメノは、箱を抱えたまま、一歩も進めなくなっていた。
この数日のことが頭をよぎる。膳を運んでくれた手。団子の話をしてくれた声。吹き出しそうになって、咳払いをした顔。
「……メノ」
ステイゴールドが、振り向かずに言った。
「無理に来なくていい。決めるのは、お前だ」
「本官は」
フェノーメノの声が、掠れた。
「本官は、あなた方に、恩があるであります」
役人が、わずかに目を見張った。
「海から引き上げて頂き、食事を頂き、医者まで。それなのに、本官たちは逃げます。あなた方が罰せられると、分かっていて」
「……はい」
「それでも、行きます。本官は、仲間と行くことを、自分で選びました」
フェノーメノは箱を地面に置き、背筋を伸ばして、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。必ず、お詫びに戻るであります。置き手紙に、そう書いてあります。誤字は、本官が確認しました」
役人は、しばらく言葉を失っていた。それから、口の端が少しだけ震えた。
「……誤字の確認まで、なさいましたか」
「あります!」
「……お人が、悪い」
笑ったのか、泣きそうなのか、判別がつかなかった。
それから、役人は強く目を閉じ、腹の底から叫んだ。
「出会え! 出会えー! 脱走にございます! 皆様、お止めを!」
庭中の提灯が、一斉にこちらへ向いた。
「走るぞ!」
ナカヤマが閂を蹴り飛ばした。
フェノーメノは箱を抱え直し、走り出しながら、一度だけ振り返った。提灯の灯りの中で、役人が深々と頭を下げているのが見えた。逃げる七人に向けてなのか、上役に向けてなのか、分からなかった。
「……職務を果たされたのでありますね」
「そういう人なんだよ」
ステイゴールドが言った。
四 横浜の朝
門を抜けると、空が白み始めていた。
七人は、通りへ転がり出た。
石畳が続いている。両側に、煉瓦の壁と木の格子戸。街灯の柱が、火を落とされたまま立っている。背後から、怒鳴り声と、板を叩く音が追ってくる。
「右だ! 大通りは避けろ!」
ナカヤマが叫ぶ。走りながら、道の幅と角の数を数えている。
「ジャーニー、最短でも見つかるぞ!」
「ええ、構いません。どのみち見つかります。今は、振り切ることだけを」
角を曲がると、牛乳売りらしい男が、桶を担いで歩いていた。男は七人を見た。一度、瞬きをした。もう一度。そのとき、七人は男の傍らを風のように駆け抜けていた。
桶の蓋が、からんと鳴った。
「……今の、見たか。いや、見てねえ」
一人残された男が、自分に言い聞かせるように呟いた。
通りの先で、人力車の車夫が客を待っていた。二人の車夫は、あくびをしていた。その目の前を、金色の髪と、尻尾の群れが走っていく。
「……あれ、女の子の後ろに、何か」
「馬の尾……いや」
もう、いなかった。
「なあ、今の人力車ってやつだろ! 乗りてえ!」
「後になさいまし!」
背後で、呼子の笛が鳴った。甲高い音が、朝の空気を裂いていく。
「笛だ。人数が増える」
「本官たちを、そこまで警戒するでありますか」
「メノ、感心してる場合じゃねえぞ!」
ナカヤマが選んだ細い路地は、二つ曲がった先で、板塀に突き当たった。
「……行き止まりだ」
「ナカヤマさん!?」
「知らねえ町の裏道なんか、読めるか」
舌打ちが返った。人の顔を読むのとは、わけが違う。
引き返そうとした路地の入口に、提灯が揺れた。追ってきたのは、白髪まじりの下男らしい男だった。息を切らし、膝に手をついている。
「お、お嬢様方……お怪我を、なさいますぞ。お戻りを……」
怒鳴り声ではなかった。本気で、案じている声だった。
「申し訳ありません!」
フェノーメノが、反射的に頭を下げた。
「フェノーメノさん、今は謝る時ではありませんわ!」
「つ、つい!」
その間に、オルフェーヴルが板塀を蹴っていた。一跳びで塀の上へ、そのまま向こう側へ消える。
「オル!」
ジャーニーの声が、裏返った。眼鏡がずれるのも構わず塀に飛びつき、指が届かずに滑り落ちる。
「ジャーニー、ほら、足」
ステイゴールドが、塀の下で両手を組んだ。ジャーニーがそれを踏み台にし、ゴールドシップがマックイーンの腰を押し上げる。フェノーメノは箱を塀の向こうへ放ろうとして、ためらい、結局抱えたまま跳んだ。
最後に残ったステイゴールドに、下男が手を伸ばしかけて、止めた。
「……どうか、ご無事で」
ステイゴールドは片手を上げ、塀を越えた。
向こう側では、オルフェーヴルが腕を組んで待っていた。
「遅い」
「オル、一人で行かないで……!」
ジャーニーが妹の袖を握りしめた。その指が、まだ震えていた。
泥道を抜けるたび、足元で水が跳ねた。ジャーニーの靴が泥を噛み、マックイーンのスカートの裾が重くなり、「靴が……」と小さな悲鳴が漏れる。ぬかるみを、ゴールドシップが三歩で飛び越える。フェノーメノは箱を抱えたまま、一度も足を緩めない。
道の両脇では、町が目を覚まし始めていた。髷を結った男が、豆腐屋の桶を担いで歩いている。その隣を、山高帽の異人が煙草をくゆらせて通り過ぎる。羽織姿の商人が帳面を抱え、洋装の若者が、慣れない革靴で小股に歩いていた。石造りの店の看板に、縦書きの文字と、横文字が並んでいる。
そして、匂いがあった。魚と、馬糞と、石炭と、味噌汁の湯気。
「……ちゃんと、生きてるんだな、この町」
ステイゴールドが、走りながら呟いた。
「余所見は後です!」
「分かってる、ジャーニー」
大きな荷車を押す男たちの前を、七人が駆け抜けた。荷車が急停止し、積み荷の樽が一つ転がる。樽は、道の真ん中を、ごろごろと転がっていく。
「す、すまねえ!」
謝ったのは、ゴールドシップだった。
「謝るなら止まれ!」
「止まったら捕まるだろ!」
それは、そうだった。
大通りに出てしまった。朝一番の馬車が、石を鳴らして近づいてくる。栗毛の馬が二頭。帽子をかぶった異人が、御者台で手綱を握っていた。
馬車と、並んだ。
先頭を走るオルフェーヴルが、その横で、ほんの少しだけ顔を向けた。
馬が、目の端で彼女を見た。耳が、ぴくりと動く。
次の瞬間、オルフェーヴルは馬車を抜いていた。
「な、なんだ今のは!」
「速すぎる!」
御者が手綱を引いた。馬が嘶いた。馬車の窓から、異人の婦人が身を乗り出す。
「Mon Dieu……」
誰かが叫んだ。
「馬より速いぞ!」
背後に、声が連なっていく。荷を担いだ商人は、天秤棒ごと道の端へ飛び退いた。羽織姿の老婆が、その場で手を合わせる。
「お稲荷様の、お使いじゃ……」
店の前で雨戸を開けていた丁稚だけが、目を輝かせて手を叩いていた。
「見世物が逃げたぞ! 捕まえりゃ銭になる!」
どこかの男が叫び、二、三人が面白半分に追ってきた。
「オル、速度を落として!」
「姉上、これでも加減している!」
「全然、足りません!」
ゴールドシップは、後ろを振り返って笑い出した。
「見ろよ、みんなこっち見てるぜ! アタシら、やっぱりスターじゃん!」
「笑ってる場合ではありませんわ!」
橋を渡り、運河沿いの倉庫街へ入る。木材が山積みになり、潮と材木の匂いが濃くなった。追っ手の声は、いつの間にか遠くなっていた。
途中、石造りの建物の前で、洋装の、番人らしい男が棒を握ったまま立ち尽くしていた。彼の目の前を、七人分の風が通り過ぎた。男は笛を口へ運んだが、吹く前に、風はもう角の向こうにいた。
それでも、七人は止まらなかった。倉庫の角を三つ曲がり、積み上げられた材木の陰で、ようやく足を止めた。
全員が、荒い息をついていた。
五 自由
「……撒いた、か」
ナカヤマが耳を澄ませた。遠くで人の声はする。だが近くはない。
「ひとまずは。ですが、時間の問題です」
ジャーニーが、胸を押さえて呼吸を整えた。
沈黙。
それから、ゴールドシップが、空へ両手を突き上げた。
「――自由だあああー!」
「ゴルシさん、声が」
「いいじゃねえか、誰もいねえよ! 見ろよこの空! 窓の格子がねえ! 手を掴む役人もいねえ! ゴルシちゃんは今、猛烈に自由だー!」
声が、少し震えていた。
マックイーンは、何も言わなかった。ゴールドシップの背中を、しばらく黙って見ていた。
「……よかったですわね」
「おう!」
ゴールドシップが振り返って、歯を見せて笑った。目の端が、少し赤かった。
フェノーメノが、箱を抱えたまま座り込んだ。
「本官は、人の道に背いた気がするであります」
「いいや、背いてないぞ」
ステイゴールドが言った。
「頭は、ちゃんと下げた」
「……そうでありますが」
そのとき、ぐう、と腹が鳴った。
ゴールドシップが、自分の腹を見下ろした。
「アタシじゃねえ」
「余でもない」
全員の視線が、フェノーメノに向いた。
「ほ、本官であります。非常に、遺憾ながら」
「朝飯、食べ損ねましたものね」
マックイーンが、静かに言った。それから、ふっと表情を引き締める。
「それで」
全員が、彼女を見た。
「今夜は、どちらへお泊まりになりますの」
誰も答えなかった。
遠くで、鳥が鳴いた。
「財布はあるぞ」
ナカヤマが、箱から取り出した。札と、小銭。それを掌の上で広げる。
「百円玉。五百円玉。……この硬貨、年号が入ってる」
ジャーニーが一枚を摘み、裏返した。
「令和。この時代では、存在しない年です。使えば、怪しまれるでしょう」
「札も同じでございますわ。肖像が違います」
「金は、なし」
ナカヤマが、それをあっさり箱へ戻した。
「着替えもない。この格好じゃ、どこへ行っても異国の仮装だ」
「身分を訊かれたら」
「ウマ娘、では通りませんでした」
「宿に泊まるなら、名前や在所を訊かれるでしょう。……答えられるものが、ひとつもありませんわ」
マックイーンの声が、少し小さくなった。
「風呂は」
「……言わないで下さいまし」
答えは、一つもなかった。
フェノーメノが、ぽつりと言った。
「……本官、戻ったほうがよい気がしてきたであります」
「メノ!?」
「じょ、冗談であります。半分は」
「半分は本気なのかよ」
ゴールドシップが吹き出した。それにつられて、マックイーンの肩が揺れた。ジャーニーが口元を隠し、ナカヤマが鼻で笑った。オルフェーヴルだけが、むっとしている。
「笑い事ではない」
「いや、笑うしかないだろ」
ステイゴールドは、材木に寄りかかって、空を見ていた。
昨日まで、飯は出た。布団は乾いていた。医者も、見張りも、いた。守られていた。
それを、自分たちで捨てたのだ。
「まあ」
彼女は、のんびりと言った。
「出ちゃったものは、仕方ない」
「後悔は、していませんの」
「してないよ。してないけど、腹は減った」
マックイーンが、額を押さえた。
「そういう言い方、ずるいですわ」
六 今、要るもの
「整理します」
ジャーニーが、地面に木切れで線を引いた。
「帰る方法は、今は考えても答えが出ません。当面は、食事、寝る場所、お金、目立たない服。それと、この時代の事情」
「それと、信用できる奴」
ナカヤマが付け足した。
「ただし、見極めは慎重にやる。優しい顔をした奴ほど、帳面に書く」
話は、そこで尽きた。
日が高くなるにつれて、七人は人目を避けて移動した。倉庫の裏、神社の境内、橋の下。どこにいても、通りから声が聞こえた。
「聞いたか。耳のある娘が、七人も」
「馬より速かったそうな」
「異人の見世物の逃げ出しじゃねえのか」
オルフェーヴルは、橋桁にもたれて座っていた。しばらく黙っていたが、やがて、姉にだけ聞こえる声で言った。
「姉上。朝、馬を抜いたとき」
「ええ」
「あの馬は、余を見た。逃げもせず、怯えもせず。ただ、見た」
「……そうね」
「余は、あれを不快だと言うた。だが、見られたとき、少し」
言葉は、そこで途切れた。
「少し、何?」
「……何でもない。忘れよ」
ジャーニーは、それ以上は訊かなかった。ただ、妹の髪から、乾いた泥をそっと払った。
ナカヤマが、橋の下で黙って耳を傾けていた。噂は、すでに町の端から端へ、走り始めている。
「……広まってるな」
「逃げたことで、見られた。……他に、手はありませんでしたが」
ジャーニーが、静かに言った。
昼を過ぎる頃、腹の虫は合唱になっていた。
「ちょっと、見てくる」
ゴールドシップが、橋の下から這い出した。
「ゴルシさん、どちらへ」
「あっちに、団子屋があった。この防塵ゴーグルと交換で、一本もらえねえかな」
「やめなさい。怪しまれますわ」
「怪しまれる前に、売ってみるだけだ」
止める間もなく、ゴールドシップは通りへ出ていった。残された六人は、橋桁の隙間から様子を窺った。
団子屋の店先に立ったゴールドシップが、ゴーグルを差し出している。店の親父は、最初に笑った。次に、ゴーグルの縁から、尻尾へ視線を移した。笑顔が、ゆっくり凍りついていく。
親父は、団子の串を後ろ手に隠した。
「あ、あっち行きな! お上に報せるぞ!」
「ええー!? ゴルシちゃん、客だぞ、客!」
親父が箒を振り上げた。ゴールドシップは、慌てて逃げ戻ってきた。
「ダメだった。値打ちが分かんねえらしい」
「当たり前ですわ。いきなり持ち物を差し出すなんて」
「いきなりじゃねえ、最後の手段だ。腹減ってんだぞ」
「その理屈、昔から全く変わりませんのね」
「お互い様だろ」
ステイゴールドは、膝を抱えて空を見ていた。
「なあ、ジャーニー」
「はい、アネゴ」
「みんな、よく付いてきてくれたな」
「……アネゴが決めたからではありません。私たちが、決めたのです」
「本官は、仲間だからであります」
フェノーメノが、横から言った。
ステイゴールドは、少し間を置いてから、笑った。
「そうか。ありがとな」
それ以上は、誰も口にしなかった。
ステイゴールドが、膝を払って立ち上がった。
「待ってても、飯は来ないな」
「同感だ。見て回るか」
ナカヤマが言った。
「全員で出りゃ、また馬より速い娘の見世物だ。少人数で行く」
ジャーニーは、フェノーメノから頭の布を借りて耳を覆った。ステイゴールドはコートの裾で尾を隠す。ナカヤマは、倉庫の裏で拾った古い手拭いを頭に巻いた。
「残る者は、ここを動かないこと。オルも」
「……分かっている。姉上こそ、無理はするな」
七 茂原屋
最初に入ったのは、川沿いの小さな宿屋だった。
帳場の番頭は、三人を見るなり、愛想のいい顔を作った。それが、ジャーニーの言葉を聞くうちに、少しずつ固くなっていった。
「旅の者です。七人、今夜ひと晩」
「七人。……ご亭主か、お父っつぁんは、後からお見えで」
「いえ、女ばかりで」
「それじゃあ、お請人は。在所と、どちらのお家の方かを、宿帳に頂きませんと」
ジャーニーは、答えに詰まった。番頭の目が、三人の着ているものを、上から下まで撫でていく。
「それに、お代は前金で頂いております」
「……出直します」
暖簾の外へ出ると、ナカヤマが息を吐いた。
「耳がバレる前に、断られたな」
「ええ。女だけで、身元も金もない。それだけで、もう足りないのですね」
ジャーニーの声は、静かだった。静かすぎた。
二軒目の主は、もっと早かった。ジャーニーが「女ばかり七人」と言い終える前に、手を振った。
「よしとくれ。身元も知れねえ、妙な娘どもを泊めて、お上に睨まれちゃたまらねえ」
追い払うように暖簾を払い、吐き捨てる。
「そんな妙な娘どもを相手にするのは、茂原くらいだ」
「茂原、とは」
ステイゴールドが、振り返って訊いた。主は、聞かれたことに驚いた顔をして、それから、鼻で笑った。
「異人館通りの舶来屋さ。異人と商いして、新しいもんなら何でも飛びつく。女にまで店の帳面を任せるってんだから、変わり者だよ」
暖簾が、ぴしゃりと下ろされた。
三人は、しばらくその暖簾を見ていた。
「……悪口、だよな」
ナカヤマが言った。
「ええ。悪口です」
ジャーニーが答えた。
ステイゴールドは、通りの先を見ていた。
「……そこ、行ってみようか」
日が傾きかけた頃、三人は異人館の並ぶ通りに出た。洋傘、ランプ、硝子の器、懐中時計。軒先に横文字と日本語の看板を並べた店が、いくつも続いている。
その一軒の前で、ナカヤマが足を止めた。
看板に、茂原屋とあった。店先で、前掛けをした四十がらみの男が、赤ら顔の異人と値を詰めている。片言の英語と身振りと算盤で、一歩も引いていない。異人が肩をすくめて笑い、男も笑って、手を打った。
「賭けるなら、あそこか」
ナカヤマが言った。
「確実ではありません。ですが、他よりは」
ステイゴールドは、しばらく店先を眺めていた。男が、運び込まれた木箱の焼き印を、首を傾げて睨んでいる。読めないらしい。
「噂どおりの変わり者、か」
ステイゴールドは、少しだけ笑った。
「変わり者なら、こっちも負けてない」
*
橋の下へ戻ると、フェノーメノが直立して出迎えた。
「待機中、異状なしであります!」
「腹の虫は異状ありまくりだけどな」
ゴールドシップが付け足した。
ジャーニーが、見てきたことを手短に話した。宿屋のこと。吐き捨てられた悪評のこと。茂原屋のこと。
「頼み込むだけでは、宿屋と同じことになります。こちらから、出せるものが要ります」
「荷運びならできる。アタシら、男の倍は担げるだろ」
「それと、あの木箱の焼き印」
ステイゴールドが、マックイーンを見た。
「横文字だった。マックイーン、船の上で、フランス語を話してたろ」
「……英語か仏蘭西語なら、少しは。見てみなければ、分かりませんけれど」
「十分だ」
マックイーンは何か言いかけて、口を閉じた。それから、背筋を伸ばした。
「でしたら、訪いは表からではなく、勝手口から入れるべきですわ。商いの最中のお店に、この格好で表から押しかけるのは、礼を欠きます」
「頼もしいな」
「当然のことを申し上げたまでですわ」
出かける前に、ステイゴールドは懐からハーモニカを出した。短く、一節だけ吹いた。掠れた音が、橋桁に響いて消えた。
「行くか」
誰も、止めなかった。
*
茂原屋の勝手口を叩いたのは、日が落ちてすぐだった。
戸を開けたのは、主人ではなかった。
十八、九ほどの娘だった。きっちりと結い上げた髪。地味な縞の着物に、襷。手に、行灯の火を移した手燭を持っている。
娘の目は、七人の顔を一人ずつ確かめ、それから、頭の上で止まった。
悲鳴は上げなかった。手燭の火が、一度だけ揺れた。
「夜分に恐れ入ります。こちらのご主人に、お話が」
マックイーンが、深く頭を下げた。娘はその仕草を見て、ほんのわずか、眉を動かした。
「父に、どのようなご用件でしょう。それに、あなた方は、どちらのお家の方ですか」
「家、と申しますと」
「お父上か、ご主人か。どなたかお付きの方は。女ばかりで、日暮れに、男の家の勝手口へ」
「付き添いなんかいねえよ。アタシらは、アタシらで来たんだ」
ゴールドシップが、戸口の柱にもたれて言った。
「余が名乗れば、足りる」
オルフェーヴルが、一歩前へ出た。
娘の顔から、表情が消えた。
「……あなたは、物の言い方をご存じのようですね」
娘は、マックイーンにだけ向かって言った。
「それなら、なおさらお分かりでしょう。お引き取りください」
戸が、閉まりかけた。
「何だ、騒がしい」
奥から、男の声がした。昼間、店先で異人と値を詰めていた男だった。
男は、娘の肩越しに七人を見た。それから、耳を見て、尾を見た。
一歩、後ずさった。喉が、ごくりと鳴った。
「……こいつは、驚いた」
だが、二歩目は下がらなかった。男は、目を細めて、七人の顔を一人ずつ見直した。
「今朝、本町の通りで馬車を抜いたって娘っ子どもは、お前さん方か」
「お父様」
娘が、低く言った。
「こんな得体の知れない者を、家に入れるのですか」
「得体が知れねえから、話を聞くんだ」
男は、娘の手から手燭を取り、戸口へ一歩出た。
「茂原三右衛門だ。物乞いなら、握り飯ひとつで帰ってもらう。用件を言いな」
「物乞いじゃない」
ステイゴールドが言った。
「飯と、寝る場所と、着るものが要る。ただ、ただでくれとは言わない」
「力仕事なら、男衆の倍はいたします。荷運びでも、何でも」
ジャーニーが続けた。三右衛門は、鼻で笑った。
「娘っ子の細腕で、倍とは大きく出たな」
「本当であります!」
フェノーメノが、思わず声を張った。三右衛門は、返事をしなかった。
「昼間、店先で、横文字の木箱を睨んでたろ」
ステイゴールドが言った。三右衛門の眉が、ぴくりと動いた。
マックイーンが、一歩前に出た。
「そちらの脇に積まれているのが、その箱でしょうか」
三右衛門は黙ったまま、顎で箱を示した。
「……失礼いたします」
マックイーンは木箱の前に膝をついた。手燭の光に、焼き印の横文字が浮かぶ。指でなぞる。
「葡萄酒、ですわ。ボルドーの。それと、こちらは、割れ物につき取り扱い注意、と。仏蘭西の言葉です。少々でしたら、わたくし、読めますわ」
三右衛門の目つきが、変わった。商人の目だった。
「……昼間から、うちを見てやがったのか」
「ええ。選んで、参りました」
ジャーニーが答えた。
三右衛門は、しばらく黙っていた。
「お役人に追われてる、って噂も聞いてる」
「ええ」
ジャーニーは、否定しなかった。
「正直だな。それとも、嘘が下手なのか」
「どちらでも、ご判断に」
三右衛門は、手燭を掲げたまま、七人をもう一度見回した。ステイゴールドで、目が止まった。
「……中へ入んな。話は、座って聞く。泊めるかどうかは、それからだ」
「お父様!」
「茶は要らねえ。俺が淹れる」
三右衛門は、背を向けて奥へ入っていった。
七人は、顔を見合わせた。それから、一人ずつ、勝手口の敷居をまたいだ。
フェノーメノは、土間で深く頭を下げた。オルフェーヴルは、黙って顎を上げたまま通った。ゴールドシップは、物珍しそうに台所の竈を覗いた。
最後に、ステイゴールドが入った。
戸口の脇に、娘が立っていた。道は空けていた。だが、一歩も退いてはいなかった。
「邪魔するよ」
ステイゴールドが言うと、娘は、まっすぐに彼女を見返した。
「わたくしは、認めておりません」
静かな声だった。
奥の板の間で、三右衛門が胡坐をかき、七人を手招きしていた。
「さて。商いの話をしようか」