ステイゴールドは明治に流されるようです   作:藤原康政

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第3話「逃走」

 

 

一 荷車の音

 

 夜明けまでには、まだ時間がある。そのはずだった。

 

 ナカヤマフェスタは、障子の隙間に耳を当てたまま動かなかった。庭で車輪が軋んでいる。一度ではない。止まって、また動く。荷を積む音だ。

 

「……おかしい」

 

「どうなさいましたの」

 

 マックイーンが小声で訊いた。置き手紙の最後の一行を、書き終えたところだった。

 

「荷車だ。この時間に」

 

 ナカヤマは窓際へ這っていき、障子を指一本ぶんだけ開けた。

 

 庭に提灯が三つ。男たちが荷車を囲み、縄をかけている。使者は、出立は昼前の蒸気車だと言っていた。それにしては、あまりに早い。その荷の上に、見覚えのある桐の箱が載っていた。

 

「マックイーン。あれだな」

 

「ええ。蓋の紐の結び目まで、同じですわ」

 

 ナカヤマは障子を閉じ、振り返った。全員が、すでに起きていた。

 

「予定変更だ。今出るぞ」

 

「今!? まだ手順の確認が」とフェノーメノ。

 

「確認してる間に、箱が行く」

 

「ですが」

 

「メノ、点検は走りながらやれ」

 

「走りながらは、点検とは言わないであります!」

 

 ジャーニーが眼鏡を押し上げた。

 

「手順を組み直します。窓の庇から庭へ。見張りは扉の外ですから、音さえ立てなければ気づかれません。荷車まで十数歩。ゴルシさん、先に降りて、囮になれますか」

 

「任せろ。ゴルシちゃん、囮は得意だ」

 

「得意なのは騒ぎだろ」

 

「同じようなもんだ」

 

「オルは、静かに降りること。いいわね」

 

「余に、静かにせよと申すか」

 

「お願い」

 

 オルフェーヴルは唇を曲げ、それでも「……善処する」と答えた。

 

 ステイゴールドは、もう窓の桟に手をかけていた。

 

「うん。行こう」

 

 マックイーンが、文机に置き手紙を載せた。黄楊の櫛が、その上で重しになっている。

 

「フェノーメノさん、文面を」

 

 フェノーメノは一行ずつ目で追い、最後に小さく頷いた。

 

「……誤字は、ないであります」

 

「では、参りましょう」

 

二 桐箱

 

 窓を開ける前に、ナカヤマが廊下側の障子へ耳を寄せた。

 

「見張りは二人。ひとりは船を漕いでる。もうひとりは、庭の荷車の方を気にしてるな」

 

「どうして分かりますの」

 

「さっき障子の隙間から覗いた。立ってる奴の爪先が、ずっと庭を向いてた。音も、こっちには寄ってこない」

 

 マックイーンが感心して頷いた。フェノーメノは、複雑な顔でその話を聞いていた。

 

「そこまで分かっていて、なぜ今まで、何もなさらなかったのでありますか」

 

「出る理由が、揃ってなかったからだ」

 

 ナカヤマは短く答えた。

 

「今は、揃った」

 

 窓が、音もなく開いた。冷たい夜明け前の風が、部屋へ流れ込んだ。

 

 庇の瓦は、夜露で濡れていた。

 

 先頭のゴールドシップが、猫のように音もなく降りる。二番手のナカヤマ、三番手のステイゴールド。マックイーンは裾を気にしながら、ジャーニーは眼鏡を押さえて、フェノーメノは周囲を見回しながら続いた。

 

 最後に、オルフェーヴルが窓枠へ足をかけた。

 

「静かにだぞ、オル」

 

「分かっておる」

 

 その直後、ドスン、と庭が鳴った。

 

 提灯が一斉にこちらを向く。

 

「……静かに降りたであろう」

 

「着地の話ではありません!」

 

 ジャーニーが小声で叱った。ステイゴールドが、頭を抱えそうになるのをこらえている。

 

「誰か居るのか」

 

 男の一人が提灯を掲げ、近づいてくる。

 

「出番だな!」

 

 ゴールドシップが、植え込みから勢いよく飛び出した。

 

「うおおおお! 火事だー! 火事だぞー! 裏の厠が燃えてるー!」

 

「何、火事?」

 

「どこだ」

 

 男たちが色めき立つ。荷車の番の二人までもが、そちらへ駆けていった。

 

「ゴルシのやつ、ほんとに厠って言った」

 

「目の付けどころが独特ですわ」

 

 だが、走っていった一人が、途中で足を止めた。

 

「待て。煙が見えん。焦げ臭くもないぞ」

 

 提灯が、ゆっくりとこちらへ向き直る。

 

「……バレるの、早えな」

 

 ナカヤマが舌打ちした。

 

「戻ってくるぞ。急げ」

 

荷車の番は空になった――はずだったが、一人だけ残っていた。荷車の陰で縄の結び目を確かめていた、年若い下働きの男だ。

 

「お、おい、あんたら」

 

 男が、提灯を持ち上げた。

 

「邪魔だ」

 

 オルフェーヴルが、すでに一歩踏み出していた。拳は握られていない。ただ肩を入れ、まっすぐ突っ込んでいくつもりなのは、背中を見れば分かった。

 

「オル、だめ!」

 

 ジャーニーが妹の帯を掴んだ。オルフェーヴルの足が、宙で止まる。

 

「姉上、離せ」

 

「殴らないと約束なさい」

 

「余は殴るなどと言うておらぬ。通るだけだ」

 

「通り方が問題なの!」

 

 男は完全に怯えていた。そこへ、ステイゴールドがひょいと顔を出した。

 

「ごめんな、兄ちゃん。ちょっと、この箱だけ貸してくれ」

 

「は、箱? それは、お上の預かりで」

 

「うん。だから、すぐ返しに来る。……たぶん」

 

「たぶん!?」

 

 男が目を白黒させた隙に、ナカヤマが彼の背後へ回り、提灯の火を指先で摘むように落とした。暗闇に、男の声だけが残った。

 

「火事ならこっちにも来い! ゴルシちゃんのほうが派手だぞ!」

 

 遠くから、ゴールドシップの声が呼んだ。

 

「……囮が、囮を呼んでいますわ」

 

「自分が目立ちたいだけだろ」

 

 ゴールドシップの声は、塀の外まで届いていた。隣家の雨戸ががたりと開き、寝ぼけた声が上がる。

 

「火事だと?」

 

「どこだ、どこだ」

 

「……町ごと起こしやがった」

 

 ナカヤマが、額を押さえた。

 

 荷車が、ぽつんと無人になった。

 

 ナカヤマが先に駆け寄り、荷の上から桐箱を引き寄せた。蓋を開けると、スマートフォン、財布、ゴーグル、それから布に包まれたハーモニカ。

 

「ある」

 

「ステゴ、持て」

 

「……いいよ、置いてけば」

 

 ステイゴールドは、箱を覗いたまま言った。

 

「スマホは動かないし、財布も使えるかどうか。荷物は少ないほうが、足が軽い」

 

「ハーモニカもか」

 

「……」

 

 ステイゴールドの指が、布の端に触れた。濡れて掠れた音しか出なくなった、古い楽器。いかだの上で吹いた音を、全員が覚えている。

 

「重くはないしな」

 

 小さく言って、彼女はそれを懐に突っ込んだ。

 

「素直じゃありませんのね」

 

「いや、ついでだよ。ついで」

 

 マックイーンは何も言わず、肩を揺らした。残りの荷は、フェノーメノが箱ごと抱え上げた。

 

「本官が運ぶであります。……盗むわけではなく、本来の持ち主として回収するのであります」

 

「その理屈、気に入った」

 

 ナカヤマが言った。

 

三 お待ち下さい

 

 門は、庭の奥にあった。

 

 閂を外せば、通りに出られる。ナカヤマが手をかけたとき、背後から声がした。

 

「お待ち下さい」

 

 全員が振り返った。

 

 暗がりに、提灯がひとつ。朝餉の席で膳に付いてくれた、あの若い役人だった。寝間着の上に羽織を引っかけ、息を弾ませている。

 

 彼の手に刀はなかった。提灯を持った手を、もう一方の手が支えている。震えているのが、灯りの揺れで分かった。

 

「お戻り下さい。東京からのお返事を待っていただければ、必ず悪いようには」

 

「悪いようにしないという証は、おありですの」

 

 マックイーンが、静かに言った。

 

「……わたくしには、ございません」

 

 正直な答えだった。

 

「ですが、皆様をお守りするよう、申し付かっております。ここを出られれば、わたくしは役目を果たせなかったことになります。上役の叱責では、済みませぬ」

 

 オルフェーヴルが、一歩前に出た。

 

「ならば、余らを止めてみせよ」

 

「オル」

 

「止められるというのなら」

 

「姉上。余は、事実を述べただけだ」

 

 役人は動かなかった。腕を伸ばしも、しなかった。ただ、七人の前に立ち塞がっていた。

 

 フェノーメノは、箱を抱えたまま、一歩も進めなくなっていた。

 

 この数日のことが頭をよぎる。膳を運んでくれた手。団子の話をしてくれた声。吹き出しそうになって、咳払いをした顔。

 

「……メノ」

 

 ステイゴールドが、振り向かずに言った。

 

「無理に来なくていい。決めるのは、お前だ」

 

「本官は」

 

 フェノーメノの声が、掠れた。

 

「本官は、あなた方に、恩があるであります」

 

 役人が、わずかに目を見張った。

 

「海から引き上げて頂き、食事を頂き、医者まで。それなのに、本官たちは逃げます。あなた方が罰せられると、分かっていて」

 

「……はい」

 

「それでも、行きます。本官は、仲間と行くことを、自分で選びました」

 

 フェノーメノは箱を地面に置き、背筋を伸ばして、深く頭を下げた。

 

「申し訳ありません。必ず、お詫びに戻るであります。置き手紙に、そう書いてあります。誤字は、本官が確認しました」

 

 役人は、しばらく言葉を失っていた。それから、口の端が少しだけ震えた。

 

「……誤字の確認まで、なさいましたか」

 

「あります!」

 

「……お人が、悪い」

 

 笑ったのか、泣きそうなのか、判別がつかなかった。

 

 それから、役人は強く目を閉じ、腹の底から叫んだ。

 

「出会え! 出会えー! 脱走にございます! 皆様、お止めを!」

 

 庭中の提灯が、一斉にこちらへ向いた。

 

「走るぞ!」

 

 ナカヤマが閂を蹴り飛ばした。

 

 フェノーメノは箱を抱え直し、走り出しながら、一度だけ振り返った。提灯の灯りの中で、役人が深々と頭を下げているのが見えた。逃げる七人に向けてなのか、上役に向けてなのか、分からなかった。

 

「……職務を果たされたのでありますね」

 

「そういう人なんだよ」

 

 ステイゴールドが言った。

 

四 横浜の朝

 

 門を抜けると、空が白み始めていた。

 

 七人は、通りへ転がり出た。

 

 石畳が続いている。両側に、煉瓦の壁と木の格子戸。街灯の柱が、火を落とされたまま立っている。背後から、怒鳴り声と、板を叩く音が追ってくる。

 

「右だ! 大通りは避けろ!」

 

 ナカヤマが叫ぶ。走りながら、道の幅と角の数を数えている。

 

「ジャーニー、最短でも見つかるぞ!」

 

「ええ、構いません。どのみち見つかります。今は、振り切ることだけを」

 

 角を曲がると、牛乳売りらしい男が、桶を担いで歩いていた。男は七人を見た。一度、瞬きをした。もう一度。そのとき、七人は男の傍らを風のように駆け抜けていた。

 

 桶の蓋が、からんと鳴った。

 

「……今の、見たか。いや、見てねえ」

 

 一人残された男が、自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 通りの先で、人力車の車夫が客を待っていた。二人の車夫は、あくびをしていた。その目の前を、金色の髪と、尻尾の群れが走っていく。

 

「……あれ、女の子の後ろに、何か」

 

「馬の尾……いや」

 

 もう、いなかった。

 

「なあ、今の人力車ってやつだろ! 乗りてえ!」

 

「後になさいまし!」

 

 背後で、呼子の笛が鳴った。甲高い音が、朝の空気を裂いていく。

 

「笛だ。人数が増える」

 

「本官たちを、そこまで警戒するでありますか」

 

「メノ、感心してる場合じゃねえぞ!」

 

 ナカヤマが選んだ細い路地は、二つ曲がった先で、板塀に突き当たった。

 

「……行き止まりだ」

 

「ナカヤマさん!?」

 

「知らねえ町の裏道なんか、読めるか」

 

 舌打ちが返った。人の顔を読むのとは、わけが違う。

 

 引き返そうとした路地の入口に、提灯が揺れた。追ってきたのは、白髪まじりの下男らしい男だった。息を切らし、膝に手をついている。

 

「お、お嬢様方……お怪我を、なさいますぞ。お戻りを……」

 

 怒鳴り声ではなかった。本気で、案じている声だった。

 

「申し訳ありません!」

 

 フェノーメノが、反射的に頭を下げた。

 

「フェノーメノさん、今は謝る時ではありませんわ!」

 

「つ、つい!」

 

 その間に、オルフェーヴルが板塀を蹴っていた。一跳びで塀の上へ、そのまま向こう側へ消える。

 

「オル!」

 

 ジャーニーの声が、裏返った。眼鏡がずれるのも構わず塀に飛びつき、指が届かずに滑り落ちる。

 

「ジャーニー、ほら、足」

 

 ステイゴールドが、塀の下で両手を組んだ。ジャーニーがそれを踏み台にし、ゴールドシップがマックイーンの腰を押し上げる。フェノーメノは箱を塀の向こうへ放ろうとして、ためらい、結局抱えたまま跳んだ。

 

 最後に残ったステイゴールドに、下男が手を伸ばしかけて、止めた。

 

「……どうか、ご無事で」

 

 ステイゴールドは片手を上げ、塀を越えた。

 

 向こう側では、オルフェーヴルが腕を組んで待っていた。

 

「遅い」

 

「オル、一人で行かないで……!」

 

 ジャーニーが妹の袖を握りしめた。その指が、まだ震えていた。

 

 泥道を抜けるたび、足元で水が跳ねた。ジャーニーの靴が泥を噛み、マックイーンのスカートの裾が重くなり、「靴が……」と小さな悲鳴が漏れる。ぬかるみを、ゴールドシップが三歩で飛び越える。フェノーメノは箱を抱えたまま、一度も足を緩めない。

 

 道の両脇では、町が目を覚まし始めていた。髷を結った男が、豆腐屋の桶を担いで歩いている。その隣を、山高帽の異人が煙草をくゆらせて通り過ぎる。羽織姿の商人が帳面を抱え、洋装の若者が、慣れない革靴で小股に歩いていた。石造りの店の看板に、縦書きの文字と、横文字が並んでいる。

 

 そして、匂いがあった。魚と、馬糞と、石炭と、味噌汁の湯気。

 

「……ちゃんと、生きてるんだな、この町」

 

 ステイゴールドが、走りながら呟いた。

 

「余所見は後です!」

 

「分かってる、ジャーニー」

 

 大きな荷車を押す男たちの前を、七人が駆け抜けた。荷車が急停止し、積み荷の樽が一つ転がる。樽は、道の真ん中を、ごろごろと転がっていく。

 

「す、すまねえ!」

 

 謝ったのは、ゴールドシップだった。

 

「謝るなら止まれ!」

 

「止まったら捕まるだろ!」

 

 それは、そうだった。

 

 大通りに出てしまった。朝一番の馬車が、石を鳴らして近づいてくる。栗毛の馬が二頭。帽子をかぶった異人が、御者台で手綱を握っていた。

 

 馬車と、並んだ。

 

 先頭を走るオルフェーヴルが、その横で、ほんの少しだけ顔を向けた。

 

 馬が、目の端で彼女を見た。耳が、ぴくりと動く。

 

 次の瞬間、オルフェーヴルは馬車を抜いていた。

 

「な、なんだ今のは!」

 

「速すぎる!」

 

 御者が手綱を引いた。馬が嘶いた。馬車の窓から、異人の婦人が身を乗り出す。

 

「Mon Dieu……」

 

 誰かが叫んだ。

 

「馬より速いぞ!」

 

 背後に、声が連なっていく。荷を担いだ商人は、天秤棒ごと道の端へ飛び退いた。羽織姿の老婆が、その場で手を合わせる。

 

「お稲荷様の、お使いじゃ……」

 

 店の前で雨戸を開けていた丁稚だけが、目を輝かせて手を叩いていた。

 

「見世物が逃げたぞ! 捕まえりゃ銭になる!」

 

 どこかの男が叫び、二、三人が面白半分に追ってきた。

 

「オル、速度を落として!」

 

「姉上、これでも加減している!」

 

「全然、足りません!」

 

 ゴールドシップは、後ろを振り返って笑い出した。

 

「見ろよ、みんなこっち見てるぜ! アタシら、やっぱりスターじゃん!」

 

「笑ってる場合ではありませんわ!」

 

 橋を渡り、運河沿いの倉庫街へ入る。木材が山積みになり、潮と材木の匂いが濃くなった。追っ手の声は、いつの間にか遠くなっていた。

 

 途中、石造りの建物の前で、洋装の、番人らしい男が棒を握ったまま立ち尽くしていた。彼の目の前を、七人分の風が通り過ぎた。男は笛を口へ運んだが、吹く前に、風はもう角の向こうにいた。

 

 それでも、七人は止まらなかった。倉庫の角を三つ曲がり、積み上げられた材木の陰で、ようやく足を止めた。

 

 全員が、荒い息をついていた。

 

五 自由

 

「……撒いた、か」

 

 ナカヤマが耳を澄ませた。遠くで人の声はする。だが近くはない。

 

「ひとまずは。ですが、時間の問題です」

 

 ジャーニーが、胸を押さえて呼吸を整えた。

 

 沈黙。

 

 それから、ゴールドシップが、空へ両手を突き上げた。

 

「――自由だあああー!」

 

「ゴルシさん、声が」

 

「いいじゃねえか、誰もいねえよ! 見ろよこの空! 窓の格子がねえ! 手を掴む役人もいねえ! ゴルシちゃんは今、猛烈に自由だー!」

 

 声が、少し震えていた。

 

 マックイーンは、何も言わなかった。ゴールドシップの背中を、しばらく黙って見ていた。

 

「……よかったですわね」

 

「おう!」

 

 ゴールドシップが振り返って、歯を見せて笑った。目の端が、少し赤かった。

 

 フェノーメノが、箱を抱えたまま座り込んだ。

 

「本官は、人の道に背いた気がするであります」

 

「いいや、背いてないぞ」

 

 ステイゴールドが言った。

 

「頭は、ちゃんと下げた」

 

「……そうでありますが」

 

 そのとき、ぐう、と腹が鳴った。

 

 ゴールドシップが、自分の腹を見下ろした。

 

「アタシじゃねえ」

 

「余でもない」

 

 全員の視線が、フェノーメノに向いた。

 

「ほ、本官であります。非常に、遺憾ながら」

 

「朝飯、食べ損ねましたものね」

 

 マックイーンが、静かに言った。それから、ふっと表情を引き締める。

 

「それで」

 

 全員が、彼女を見た。

 

「今夜は、どちらへお泊まりになりますの」

 

 誰も答えなかった。

 

 遠くで、鳥が鳴いた。

 

「財布はあるぞ」

 

 ナカヤマが、箱から取り出した。札と、小銭。それを掌の上で広げる。

 

「百円玉。五百円玉。……この硬貨、年号が入ってる」

 

 ジャーニーが一枚を摘み、裏返した。

 

「令和。この時代では、存在しない年です。使えば、怪しまれるでしょう」

 

「札も同じでございますわ。肖像が違います」

 

「金は、なし」

 

 ナカヤマが、それをあっさり箱へ戻した。

 

「着替えもない。この格好じゃ、どこへ行っても異国の仮装だ」

 

「身分を訊かれたら」

 

「ウマ娘、では通りませんでした」

 

「宿に泊まるなら、名前や在所を訊かれるでしょう。……答えられるものが、ひとつもありませんわ」

 

 マックイーンの声が、少し小さくなった。

 

「風呂は」

 

「……言わないで下さいまし」

 

 答えは、一つもなかった。

 

 フェノーメノが、ぽつりと言った。

 

「……本官、戻ったほうがよい気がしてきたであります」

 

「メノ!?」

 

「じょ、冗談であります。半分は」

 

「半分は本気なのかよ」

 

 ゴールドシップが吹き出した。それにつられて、マックイーンの肩が揺れた。ジャーニーが口元を隠し、ナカヤマが鼻で笑った。オルフェーヴルだけが、むっとしている。

 

「笑い事ではない」

 

「いや、笑うしかないだろ」

 

 ステイゴールドは、材木に寄りかかって、空を見ていた。

 

 昨日まで、飯は出た。布団は乾いていた。医者も、見張りも、いた。守られていた。

 

 それを、自分たちで捨てたのだ。

 

「まあ」

 

 彼女は、のんびりと言った。

 

「出ちゃったものは、仕方ない」

 

「後悔は、していませんの」

 

「してないよ。してないけど、腹は減った」

 

 マックイーンが、額を押さえた。

 

「そういう言い方、ずるいですわ」

 

六 今、要るもの

 

「整理します」

 

 ジャーニーが、地面に木切れで線を引いた。

 

「帰る方法は、今は考えても答えが出ません。当面は、食事、寝る場所、お金、目立たない服。それと、この時代の事情」

 

「それと、信用できる奴」

 

 ナカヤマが付け足した。

 

「ただし、見極めは慎重にやる。優しい顔をした奴ほど、帳面に書く」

 

 話は、そこで尽きた。

 

 日が高くなるにつれて、七人は人目を避けて移動した。倉庫の裏、神社の境内、橋の下。どこにいても、通りから声が聞こえた。

 

「聞いたか。耳のある娘が、七人も」

 

「馬より速かったそうな」

 

「異人の見世物の逃げ出しじゃねえのか」

 

 オルフェーヴルは、橋桁にもたれて座っていた。しばらく黙っていたが、やがて、姉にだけ聞こえる声で言った。

 

「姉上。朝、馬を抜いたとき」

 

「ええ」

 

「あの馬は、余を見た。逃げもせず、怯えもせず。ただ、見た」

 

「……そうね」

 

「余は、あれを不快だと言うた。だが、見られたとき、少し」

 

 言葉は、そこで途切れた。

 

「少し、何?」

 

「……何でもない。忘れよ」

 

 ジャーニーは、それ以上は訊かなかった。ただ、妹の髪から、乾いた泥をそっと払った。

 

 ナカヤマが、橋の下で黙って耳を傾けていた。噂は、すでに町の端から端へ、走り始めている。

 

「……広まってるな」

 

「逃げたことで、見られた。……他に、手はありませんでしたが」

 

 ジャーニーが、静かに言った。

 

 昼を過ぎる頃、腹の虫は合唱になっていた。

 

「ちょっと、見てくる」

 

 ゴールドシップが、橋の下から這い出した。

 

「ゴルシさん、どちらへ」

 

「あっちに、団子屋があった。この防塵ゴーグルと交換で、一本もらえねえかな」

 

「やめなさい。怪しまれますわ」

 

「怪しまれる前に、売ってみるだけだ」

 

 止める間もなく、ゴールドシップは通りへ出ていった。残された六人は、橋桁の隙間から様子を窺った。

 

 団子屋の店先に立ったゴールドシップが、ゴーグルを差し出している。店の親父は、最初に笑った。次に、ゴーグルの縁から、尻尾へ視線を移した。笑顔が、ゆっくり凍りついていく。

 

 親父は、団子の串を後ろ手に隠した。

 

「あ、あっち行きな! お上に報せるぞ!」

 

「ええー!? ゴルシちゃん、客だぞ、客!」

 

 親父が箒を振り上げた。ゴールドシップは、慌てて逃げ戻ってきた。

 

「ダメだった。値打ちが分かんねえらしい」

 

「当たり前ですわ。いきなり持ち物を差し出すなんて」

 

「いきなりじゃねえ、最後の手段だ。腹減ってんだぞ」

 

「その理屈、昔から全く変わりませんのね」

 

「お互い様だろ」

 

 ステイゴールドは、膝を抱えて空を見ていた。

 

「なあ、ジャーニー」

 

「はい、アネゴ」

 

「みんな、よく付いてきてくれたな」

 

「……アネゴが決めたからではありません。私たちが、決めたのです」

 

「本官は、仲間だからであります」

 

 フェノーメノが、横から言った。

 

 ステイゴールドは、少し間を置いてから、笑った。

 

「そうか。ありがとな」

 

 それ以上は、誰も口にしなかった。

 

 ステイゴールドが、膝を払って立ち上がった。

 

「待ってても、飯は来ないな」

 

「同感だ。見て回るか」

 

 ナカヤマが言った。

 

「全員で出りゃ、また馬より速い娘の見世物だ。少人数で行く」

 

 ジャーニーは、フェノーメノから頭の布を借りて耳を覆った。ステイゴールドはコートの裾で尾を隠す。ナカヤマは、倉庫の裏で拾った古い手拭いを頭に巻いた。

 

「残る者は、ここを動かないこと。オルも」

 

「……分かっている。姉上こそ、無理はするな」

 

七 茂原屋

 

 最初に入ったのは、川沿いの小さな宿屋だった。

 

 帳場の番頭は、三人を見るなり、愛想のいい顔を作った。それが、ジャーニーの言葉を聞くうちに、少しずつ固くなっていった。

 

「旅の者です。七人、今夜ひと晩」

 

「七人。……ご亭主か、お父っつぁんは、後からお見えで」

 

「いえ、女ばかりで」

 

「それじゃあ、お請人は。在所と、どちらのお家の方かを、宿帳に頂きませんと」

 

 ジャーニーは、答えに詰まった。番頭の目が、三人の着ているものを、上から下まで撫でていく。

 

「それに、お代は前金で頂いております」

 

「……出直します」

 

 暖簾の外へ出ると、ナカヤマが息を吐いた。

 

「耳がバレる前に、断られたな」

 

「ええ。女だけで、身元も金もない。それだけで、もう足りないのですね」

 

 ジャーニーの声は、静かだった。静かすぎた。

 

 二軒目の主は、もっと早かった。ジャーニーが「女ばかり七人」と言い終える前に、手を振った。

 

「よしとくれ。身元も知れねえ、妙な娘どもを泊めて、お上に睨まれちゃたまらねえ」

 

 追い払うように暖簾を払い、吐き捨てる。

 

「そんな妙な娘どもを相手にするのは、茂原くらいだ」

 

「茂原、とは」

 

 ステイゴールドが、振り返って訊いた。主は、聞かれたことに驚いた顔をして、それから、鼻で笑った。

 

「異人館通りの舶来屋さ。異人と商いして、新しいもんなら何でも飛びつく。女にまで店の帳面を任せるってんだから、変わり者だよ」

 

 暖簾が、ぴしゃりと下ろされた。

 

 三人は、しばらくその暖簾を見ていた。

 

「……悪口、だよな」

 

 ナカヤマが言った。

 

「ええ。悪口です」

 

 ジャーニーが答えた。

 

 ステイゴールドは、通りの先を見ていた。

 

「……そこ、行ってみようか」

 

 日が傾きかけた頃、三人は異人館の並ぶ通りに出た。洋傘、ランプ、硝子の器、懐中時計。軒先に横文字と日本語の看板を並べた店が、いくつも続いている。

 

 その一軒の前で、ナカヤマが足を止めた。

 

 看板に、茂原屋とあった。店先で、前掛けをした四十がらみの男が、赤ら顔の異人と値を詰めている。片言の英語と身振りと算盤で、一歩も引いていない。異人が肩をすくめて笑い、男も笑って、手を打った。

 

「賭けるなら、あそこか」

 

 ナカヤマが言った。

 

「確実ではありません。ですが、他よりは」

 

 ステイゴールドは、しばらく店先を眺めていた。男が、運び込まれた木箱の焼き印を、首を傾げて睨んでいる。読めないらしい。

 

「噂どおりの変わり者、か」

 

 ステイゴールドは、少しだけ笑った。

 

「変わり者なら、こっちも負けてない」

 

 *

 

 橋の下へ戻ると、フェノーメノが直立して出迎えた。

 

「待機中、異状なしであります!」

 

「腹の虫は異状ありまくりだけどな」

 

 ゴールドシップが付け足した。

 

 ジャーニーが、見てきたことを手短に話した。宿屋のこと。吐き捨てられた悪評のこと。茂原屋のこと。

 

「頼み込むだけでは、宿屋と同じことになります。こちらから、出せるものが要ります」

 

「荷運びならできる。アタシら、男の倍は担げるだろ」

 

「それと、あの木箱の焼き印」

 

 ステイゴールドが、マックイーンを見た。

 

「横文字だった。マックイーン、船の上で、フランス語を話してたろ」

 

「……英語か仏蘭西語なら、少しは。見てみなければ、分かりませんけれど」

 

「十分だ」

 

 マックイーンは何か言いかけて、口を閉じた。それから、背筋を伸ばした。

 

「でしたら、訪いは表からではなく、勝手口から入れるべきですわ。商いの最中のお店に、この格好で表から押しかけるのは、礼を欠きます」

 

「頼もしいな」

 

「当然のことを申し上げたまでですわ」

 

 出かける前に、ステイゴールドは懐からハーモニカを出した。短く、一節だけ吹いた。掠れた音が、橋桁に響いて消えた。

 

「行くか」

 

 誰も、止めなかった。

 

 *

 

 茂原屋の勝手口を叩いたのは、日が落ちてすぐだった。

 

 戸を開けたのは、主人ではなかった。

 

 十八、九ほどの娘だった。きっちりと結い上げた髪。地味な縞の着物に、襷。手に、行灯の火を移した手燭を持っている。

 

 娘の目は、七人の顔を一人ずつ確かめ、それから、頭の上で止まった。

 

 悲鳴は上げなかった。手燭の火が、一度だけ揺れた。

 

「夜分に恐れ入ります。こちらのご主人に、お話が」

 

 マックイーンが、深く頭を下げた。娘はその仕草を見て、ほんのわずか、眉を動かした。

 

「父に、どのようなご用件でしょう。それに、あなた方は、どちらのお家の方ですか」

 

「家、と申しますと」

 

「お父上か、ご主人か。どなたかお付きの方は。女ばかりで、日暮れに、男の家の勝手口へ」

 

「付き添いなんかいねえよ。アタシらは、アタシらで来たんだ」

 

 ゴールドシップが、戸口の柱にもたれて言った。

 

「余が名乗れば、足りる」

 

 オルフェーヴルが、一歩前へ出た。

 

 娘の顔から、表情が消えた。

 

「……あなたは、物の言い方をご存じのようですね」

 

 娘は、マックイーンにだけ向かって言った。

 

「それなら、なおさらお分かりでしょう。お引き取りください」

 

 戸が、閉まりかけた。

 

「何だ、騒がしい」

 

 奥から、男の声がした。昼間、店先で異人と値を詰めていた男だった。

 

 男は、娘の肩越しに七人を見た。それから、耳を見て、尾を見た。

 

 一歩、後ずさった。喉が、ごくりと鳴った。

 

「……こいつは、驚いた」

 

 だが、二歩目は下がらなかった。男は、目を細めて、七人の顔を一人ずつ見直した。

 

「今朝、本町の通りで馬車を抜いたって娘っ子どもは、お前さん方か」

 

「お父様」

 

 娘が、低く言った。

 

「こんな得体の知れない者を、家に入れるのですか」

 

「得体が知れねえから、話を聞くんだ」

 

 男は、娘の手から手燭を取り、戸口へ一歩出た。

 

「茂原三右衛門だ。物乞いなら、握り飯ひとつで帰ってもらう。用件を言いな」

 

「物乞いじゃない」

 

 ステイゴールドが言った。

 

「飯と、寝る場所と、着るものが要る。ただ、ただでくれとは言わない」

 

「力仕事なら、男衆の倍はいたします。荷運びでも、何でも」

 

 ジャーニーが続けた。三右衛門は、鼻で笑った。

 

「娘っ子の細腕で、倍とは大きく出たな」

 

「本当であります!」

 

 フェノーメノが、思わず声を張った。三右衛門は、返事をしなかった。

 

「昼間、店先で、横文字の木箱を睨んでたろ」

 

 ステイゴールドが言った。三右衛門の眉が、ぴくりと動いた。

 

 マックイーンが、一歩前に出た。

 

「そちらの脇に積まれているのが、その箱でしょうか」

 

 三右衛門は黙ったまま、顎で箱を示した。

 

「……失礼いたします」

 

 マックイーンは木箱の前に膝をついた。手燭の光に、焼き印の横文字が浮かぶ。指でなぞる。

 

「葡萄酒、ですわ。ボルドーの。それと、こちらは、割れ物につき取り扱い注意、と。仏蘭西の言葉です。少々でしたら、わたくし、読めますわ」

 

 三右衛門の目つきが、変わった。商人の目だった。

 

「……昼間から、うちを見てやがったのか」

 

「ええ。選んで、参りました」

 

 ジャーニーが答えた。

 

 三右衛門は、しばらく黙っていた。

 

「お役人に追われてる、って噂も聞いてる」

 

「ええ」

 

 ジャーニーは、否定しなかった。

 

「正直だな。それとも、嘘が下手なのか」

 

「どちらでも、ご判断に」

 

 三右衛門は、手燭を掲げたまま、七人をもう一度見回した。ステイゴールドで、目が止まった。

 

「……中へ入んな。話は、座って聞く。泊めるかどうかは、それからだ」

 

「お父様!」

 

「茶は要らねえ。俺が淹れる」

 

 三右衛門は、背を向けて奥へ入っていった。

 

 七人は、顔を見合わせた。それから、一人ずつ、勝手口の敷居をまたいだ。

 

 フェノーメノは、土間で深く頭を下げた。オルフェーヴルは、黙って顎を上げたまま通った。ゴールドシップは、物珍しそうに台所の竈を覗いた。

 

 最後に、ステイゴールドが入った。

 

 戸口の脇に、娘が立っていた。道は空けていた。だが、一歩も退いてはいなかった。

 

「邪魔するよ」

 

 ステイゴールドが言うと、娘は、まっすぐに彼女を見返した。

 

「わたくしは、認めておりません」

 

 静かな声だった。

 

 奥の板の間で、三右衛門が胡坐をかき、七人を手招きしていた。

 

「さて。商いの話をしようか」

 

 

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