ステイゴールドは明治に流されるようです   作:藤原康政

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第4話「居候」

 

 

一 居候の掟

 

 茂原家の朝は、鶏よりも早く始まる。

 

 まだ空が藍色のうちから台所の竈に火が入り、店の土間では丁稚が大戸を外す。異人館通りに面したこの店は、表に「舶来品 茂原屋」の看板を掲げ、ランプや洋傘、葡萄酒を商う一方、異人向けの陶器や漆器を居留地の商館へ納めてもいた。

 

 その奥座敷に、七人の娘が正座させられている。

 

 正確に言えば、正座しているのは五人だった。ゴールドシップは膝を崩して欄間の彫刻を眺めており、オルフェーヴルは床柱にもたれて腕を組んでいる。

 

「さて」

 

 上座の茂原三右衛門が、煙管を盆に打ちつけた。四十七、八。日に焼けた顔の目尻には柔和な皺が寄っているが、その奥の目は、品物を値踏みする商人のそれだった。

 

「改めて言っとく。お前さん方を置くのは、俺の勝手だ。だが勝手にも掟がある。一つ、家の仕事を手伝うこと。二つ、俺に断りなく外へ出ねえこと。三つ、騒ぎを起こさねえこと。守れねえなら、今日にでも出てってもらう」

 

「承知したであります」

 

 真っ先に頭を下げたのはフェノーメノだった。背筋を伸ばしたまま、畳に手をつく。

 

「ご恩は必ずお返しするであります。この者たちにも、本官が責任をもって守らせるであります」

 

「おいメノ、勝手に保護者面すんな」とナカヤマフェスタが小声で言う。

 

「守る気がないのでありますか」

 

「守るさ。守れる範囲ではな」

 

「それを守らないと言うのであります!」

 

 メジロマックイーンが咳払いをして、二人の間に割って入った。

 

「三右衛門様。身元も定かでない者を置いていただけるご厚意、心より感謝申し上げますわ。足手まといにならぬよう、精一杯努めます」

 

 指先まで揃えた一礼に、三右衛門の背後に控えていた女中が、ほう、と小さく息を漏らした。

 

「……こちらのお嬢さんは、どこぞの御家中の出かい」

 

「いえ、その、家が少々厳しかったものですから」

 

 マックイーンが曖昧に笑う。嘘ではない。百数十年ほど先の話だというだけだ。

 

 その隙に、ゴールドシップが「ちょっと厠」と小声で言って腰を上げ、隣の間の襖の向こうへ消えた。誰も気に留めなかった。

 

 その横で、ステイゴールドが膝を揺らしていた。

 

「なあ、三右衛門さん。断りなく出なきゃいいんだよな。じゃあ断っとく。町、見に行きたい」

 

「駄目だ」

 

「まだ理由、言ってないけど」

 

「理由は要らねえ。昨日の今日だぞ。役人が嗅ぎ回ってねえとも限らねえ」

 

 ステゴは口を尖らせたが、それ以上は言わなかった。代わりに、障子の隙間から見える往来を未練がましく眺め続けた。

 

 黙っていたオルフェーヴルが、ふいに口を開いた。

 

「一つ問う。余らは客か、それとも下働きか」

 

 座敷の空気が固くなった。ドリームジャーニーが、妹の袖をそっと引く。

 

「オル」

 

「姉上は黙っていてほしい。……余は匿われる身だ。働けと言うなら働こう。だが、恩を着せられて飼い殺しにされるのは御免だ」

 

 三右衛門は怒らなかった。むしろ面白そうに目を細めた。

 

「客じゃねえな。下働きとも違う。……居候だ」

 

「居候」

 

「飯は食わせる。寝床もやる。その代わり、働きに見合った口しか利かせねえ。気に食わねえなら、働いて口を大きくしな」

 

 オルフェーヴルはしばらく三右衛門を睨んでいたが、やがて鼻を鳴らして目を逸らした。

 

「……よかろう。ならば、余の働きでその口を黙らせてやる」

 

「楽しみにしてるよ」

 

 そのとき、廊下の襖がすっと開いた。

 

「お父様」

 

 一人娘のお糸だった。十九になる。藍の縞の着物にきっちりと襷をかけ、髪は一筋の乱れもない。手には、畳んだ新聞が一枚。

 

「本当に、この方々をお置きになるのですか」

 

「話は昨夜済んだろう」

 

「済んでおりません。わたくしは承知しておりません」

 

 お糸は新聞を父の前に置いた。三面の隅に、本町の通りで馬車を追い抜いた耳ある娘ども、異人の見世物の逃げ出しか、と小さな記事が載っている。

 

「町じゅうがこの話をしております。奉公人の口に戸は立てられません。お役人が来たら、店の鑑札はどうなります。奉公人たちの暮らしは」

 

「俺が責めを負う」

 

「お父様が責めを負って、済む話ではございません」

 

 お糸は七人を一人ずつ見た。その目にあるのは、軽蔑よりも警戒だった。それから廊下の女中に向き直る。

 

「お清。この方々のお膳は奥で。店の者と同じ間では出さないように。それから、店先へ出るときは必ず頭を覆っていただくこと」

 

「は、はい、お嬢さん」

 

 言うだけ言って、お糸は襖を閉めた。追い出しはしない。だが、家の中の線は自分が引く――その背中は、そう言っていた。

 

 気まずい沈黙を破ったのは、天井からの物音だった。

 

 全員が見上げる。天板が一枚ずれ、そこからゴールドシップの顔が逆さまに覗いていた。隣の間の押入れの棚をよじ登り、天袋の天井板を押し上げて、梁伝いにここまで這ってきたらしい。

 

「なあ、この家の天井裏、二階の奥まで繋がってんぞ。隠し通路だ。忍者屋敷か?」

 

「ただの梁だ。降りてこい。……そこの板は去年張り替えたばかりだ」

 

 三右衛門が額を押さえた。フェノーメノが立ち上がり、天井に向かって叫ぶ。

 

「ゴールドシップ! 騒ぎを起こさぬことと、今言われたばかりであります!」

 

「騒いでねーよ。探検だ」

 

「同じであります!」

 

 ナカヤマが肩をすくめて、ジャーニーに囁いた。

 

「初日でこれか。賭けてもいい、三日もたねえぞ」

 

「では私は、四日に」

 

 ジャーニーは穏やかに微笑んだが、その目は、お糸が去った廊下の先をじっと見ていた。

 

 *

 

 その日の午後、お糸が古着を一抱え持って、七人に宛てがわれた二階の納戸へ上がってきた。

 

「今お召しのものは、目立ちすぎます。古着屋で揃えました。お代は帳面につけておきます」

 

 縞の木綿に、継ぎの当たった帯、手拭い。七人分。マックイーンが礼を言いかけると、お糸はもう次の話をしていた。

 

「問題は、その……尾です」

 

 試しに着てみると、どうしても腰の後ろが膨らむ。ゴルシが盥の水に映して、「着物ん中に猫入れてるみてえだな」と言った。

 

 お糸は黙ってゴルシの後ろに回り、尾を腰に沿わせて畳み、晒を二巻きして留めた。手つきに迷いはなかった。

 

「こうすれば、裾が割れても見えません。きつければ、おっしゃってください」

 

「……すげえ。プロだ」

 

「ぷろ?」

 

「褒めてんだよ」

 

 お糸は返事をせず、オルフェーヴルの前に立った。オルフェーヴルが一歩退く。

 

「余の尾に、触れるな」

 

「では、ご自分でどうぞ。晒はここに置きます」

 

 オルフェーヴルは三度巻き損ね、四度目に黙ってジャーニーへ晒を渡した。

 

 寝間は納戸と奥の三畳の二部屋で、三人と四人に分かれて寝ること。布団は奉公人の古いものを回すので、薄いのは堪忍してほしいこと。厠は裏庭の隅で、夜は手燭を持って行くこと。湯屋へは当分行かせられないこと――お糸はそれだけ言い置いて、階段を下りていった。

 

「……厠、外なのか」とナカヤマ。

 

「さっき行くと言って座を立ったのは、どなたでありますか」

 

「行ってねえよ。天井裏行ってた」

 

 

 

二 野毛の河岸

 

 翌日から、七人の仕事が割り振られた。

 

 まず周囲を驚かせたのは、蔵の荷運びだった。

 

「よいしょ、っと」

 

 ゴールドシップが、葡萄酒の木箱を片手でひょいと担ぎ上げた。もう片方の手にも一箱。

 

 居合わせた人足の六助が、口をあんぐりと開けた。

 

「お、おい嬢ちゃん。そりゃ大の男が一人で一つ担ぐもんだぞ」

 

「おう。だから二つ持ってんだろ。アタシは大の男二人分だからな」

 

「そういう勘定じゃねえ!」

 

 ゴルシは鼻歌まじりに蔵と店先を往復し、一時間もかからずに荷を積み替えてしまった。人足たちは最初は面白がり、次に気味悪がり、最後には仕事を取られると青い顔をした。

 

 それに気づいたのは、意外にもゴルシ本人だった。

 

「……なあ、六助のおっちゃん。アタシが全部運んだら、おっちゃんの日銭減る?」

 

「そりゃ、まあな」

 

「そっか。じゃあ明日から半分な。その代わり、重い方はこっそりアタシが持つ。誰にも言うなよ」

 

 六助はぽかんとした後、苦笑いして頷いた。

 

 一方、フェノーメノは店先で困り果てていた。

 

「本日は、いかなるご用件でありますか」

 

 直立不動で迎えられた近所の煙草屋の隠居が、目を白黒させる。古参の番頭、清兵衛が飛んできた。

 

「ちょ、ちょいと。番所の取次じゃないんだから。『へい、おいでなさいまし』でいいんだよ」

 

「へ、へい……おいでなさい、まし……であります」

 

「最後のは要らないよ」

 

 フェノーメノの顔は耳まで赤くなっていたが、手拭いの下の本当の耳まで赤かったかどうかは、誰にもわからない。

 

 帳場では、ナカヤマが大福帳をめくっていた。

 

「なあ番頭さん。英国商館の買い付け、ここ三月の分を見ると、郵便船が出る前の日に限って値切りに来てる。で、毎回こっちが折れてる。向こうも船に積む荷が要るんだ。一日粘りゃ、向こうが折れるんじゃねえか」

 

 清兵衛は算盤の手を止めず、ふん、と笑った。

 

「それくらい、とうに承知だよ。うちが粘れば、伊勢屋が一割安で横から攫う。だから折れてるんだ」

 

「……なるほど。勝負の相手は商館じゃなくて、伊勢屋か」

 

「そういうこと。それにしても、よく読んだね。その帳面、お嬢さんがつけてるんだ。几帳面なもんだろう」

 

 ナカヤマは帳面に目を落とした。細く揃った字が、一行の乱れもなく並んでいた。

 

 ジャーニーは、表向きは帳面の清書を手伝っていた。だがその実、出入りする客の顔ぶれ、三右衛門が誰に頭を下げ、誰に下げないか、奉公人たちの噂話を、静かに拾い集めていた。

 

 ――同業の大店・伊勢屋は、仲間の行事を務めている。今月は伊勢屋も大口の荷を抱えていて、車力の親方衆を茶屋でもてなし、車の手当てに余念がないらしい。お糸には縁談が持ち上がっていて、相手は伊勢屋の縁戚筋。そして三右衛門は、その縁談にあまり乗り気ではない。

 

「なるほど」とジャーニーは筆を置いた。「私たちを置いたのは、善意だけではありませんね」

 

 隣で墨を磨っていたオルフェーヴルが眉をひそめる。

 

「どういうことだ、姉上」

 

「人手、好奇心、それに……伊勢屋に対抗する何か。あの方は商人です。損得のない賭けはしないでしょう」

 

「ふん。ならば話は早い。余も遠慮なく働きを売りつけてやる」

 

「オル。そういう顔をすると、また誤解されますよ」

 

 ジャーニーは妹の眉間の皺を、指先でそっと伸ばした。オルフェーヴルは嫌そうな顔をしたが、振り払いはしなかった。

 

 台所では、マックイーンとお糸が並んで立っていた。

 

 最初の一時間ほど、お糸はほとんど口をきかなかった。だがマックイーンが襷のかけ方を一度で覚え、膳の並べ方も来客への茶の出し方も、教えられた通り丁寧にこなすうちに、お糸の態度は少しずつ柔らかくなっていった。

 

「お湯は、一度湯冷ましに移してから」

 

「心得ておりますわ」

 

「……どこで習ったのですか」

 

「家で。祖母が厳しくて、冷まし加減を少し違えるだけで、淹れ直しでしたの」

 

「うちの祖母も、そうでした」

 

 お糸がくすりと笑った。初めて見せる笑顔だった。

 

 だが、話が噛み合ったのはそこまでだった。

 

 昼下がり、繕い物をしながら、お糸がぽつりと言った。

 

「マックイーンさんは、お嫁には行かないのですか」

 

「今は、自分のやるべきことがありますので。誰かに嫁ぐことが、わたくしの全てではありませんもの」

 

 お糸の針は止まらなかった。

 

「お嫁に行くのは、わたくしが望んでいることです。窮屈だと決めつけられるのは、心外です」

 

 マックイーンは言葉に詰まった。礼儀も、家を背負う覚悟も、自分とよく似ている。それなのに、立っている場所がまるで違った。

 

「……失礼いたしましたわ」

 

「いいえ」

 

 お糸は針を動かし続けた。その横顔は、さっきよりも少し硬かった。

 

 そしてステイゴールドは――結局、外にいた。

 

 三右衛門が、番頭の得意先回りの供をするならと、条件付きで許したのだ。清兵衛の後ろを歩きながら、ステゴの目は一瞬たりとも休まなかった。

 

 洋館と瓦屋根が入り混じる町並み。ガス灯の柱。異人の馬車。天秤棒を担いだ棒手振り。牛鍋屋から甘辛い匂いが漂い、人力車が砂埃を上げて走り抜けていく。

 

「なあ、番頭さん。あれ何」

 

「写真館だよ」

 

「あれは」

 

「パン屋。……供の途中だよ、止まるんじゃない」

 

 それでもステゴは、辻の屋台の前で足を止めた。湯気の立つ鍋で、串に刺した豆腐と蒟蒻が味噌をまとっている。

 

「これ、いくら」

 

「一本四文」

 

 屋台の親父は、間髪を入れずに答えた。

 

「よんもん」

 

 ステゴは懐を探りかけて、手を止めた。入っているのは、見慣れた現代の硬貨だけだ。そもそも「文」が円でいくらなのかも、わからない。

 

 清兵衛が溜息をつき、波模様の入った大ぶりの銭を一枚置いた。

 

「帳面につけとくよ。旦那様の言う『働きに見合った口』ってのは、こういうことだ。……それと、歩きながら食うんじゃない。茂原屋の供だよ」

 

 ステゴは田楽を齧りながら、素直に立ち止まった。

 

「味噌、甘いな」

 

 回り先の最後は、野毛の河岸にある借り蔵だった。店の蔵が舶来品で埋まっているので、商館へ納める有田の陶器二十箱を、ここに預けてある。期日は三日後の正午。清兵衛が箱を一つずつ検めている間、ステゴは河岸をうろついた。

 

 荷揚げ場で、老船頭が艀の舫いを解きかねていた。綱が杭に噛んで外れないらしい。

 

「じいさん、貸して」

 

 ステゴが綱を引くと、杭ごと抜けかけた。慌てて手を緩め、ゆっくり綱だけを外す。

 

「……あんた、力持ちだねえ」

 

「内緒な」

 

 老船頭は辰五郎と名乗った。この河岸で四十年艀を漕いでいる。そこへ大八車を引いた若い車力が通りかかり、辰五郎に軽口を叩いた。源太という、口は悪いが人の好さそうな男だった。

 

「聞いたかよ、辰さん。伊勢屋の野郎、親方衆に酒を飲ませて、車力を仲間ごと囲い込もうとしてやがる。俺は一人で引いてるから声もかからねえ。かかっても断るがな」

 

「お前は誰にも飼われんからのう。……川口屋の荷舟もこのごろ伊勢屋の荷ばかりじゃ。わしの艀なんぞ、朝は暇なもんよ」

 

 ステゴは二人の間にすっと腰を下ろし、いつの間にか一緒に焼き芋を齧っていた。帰り道、清兵衛は呆れ顔で言った。

 

「あんた、得意先より先に、船頭と車力と仲良くなっちまったね」

 

「面白かったから。辰じいさん、昔、沖で鯨を見たって」

 

 ステゴは満足げに笑った。明治の横浜は、思っていたよりずっと、人の匂いがする町だった。

 

 

 

三 かねの橋

 

 茂原屋に来て五日目の、朝六時。

 

 ナカヤマの賭けも、ジャーニーの賭けも外れた。騒ぎは、向こうからやってきた。

 

「旦那様! 源兵衛親方から詫びの使いが……昨夜遅く、伊勢屋から急ぎの荷を倍の手間賃で頼まれて、車も人も出払ったと!」

 

 清兵衛が座敷に駆け込んできた。前の晩、念を押しに行ったばかりの親方だった。

 

 今日の正午までに、陶器二十箱を英国商館へ納める。商館は午後の郵便船に荷を積むため、荷改めは正午で締める。遅れれば注文は伊勢屋に回り、居留地中に「茂原屋は刻限を守れぬ」と知れ渡る。

 

 三右衛門は煙管を置いた。動きは速かった。

 

「清兵衛、ほかの車力を当たれ。俺は商館へ行って、刻限を延ばせねえか掛け合う」

 

「わたくしは送り状を書き直します。分けて届くことになるかもしれませんから」

 

 お糸が、すでに硯を引き寄せていた。

 

 七時半。二人とも戻ってきた。

 

 車力はどこも首を横に振った。今月は伊勢屋も同じ郵便船に大口の荷を積む。どの親方もそちらの手当てで手一杯だった。商館の刻限も動かなかった。それでも三右衛門は、箱が届いた順に改めるという約束だけは取り付けてきた。

 

「伊勢屋の野郎、狙いやがったのか」とゴルシが言った。

 

「自分の荷を船に間に合わせたいだけだろ」とナカヤマ。「倍出して車を押さえる。アタシが伊勢屋でもそうする」

 

 廊下で聞いていた七人が、座敷に入った。最初に口を開いたのはフェノーメノだった。

 

「三右衛門殿。本官たちに、やらせてほしいであります」

 

「お父様、なりません。この方々が人前で荷を担いだら」

 

 三右衛門は答えず、七人を見た。値踏みする目だった。

 

「アタシが全部担いで走りゃいい」とゴルシが腕まくりした。

 

「馬鹿者」とオルフェーヴルが即座に切り捨てた。「娘が陶器の箱を四つ担いで馬車道を駆け抜けてみよ。それこそ騒ぎだ。第一、割れる」

 

「割らねえよ。……たぶん」

 

「正規の手順を踏むべきであります。仲間に事情を話し、車を融通してもらうのが筋であります」

 

「その仲間が、みんな伊勢屋の荷で塞がってんだよ、メノ」

 

「陸がふさがってんなら、水だ」

 

 ナカヤマが、清兵衛に写させた町の略図を広げた。

 

「借り蔵は大岡川の河岸の真ん前。川を少し下って派大岡川へ入り、中村川から堀川へ出りゃ、居留地の裏手に着く。大通りを通らずに済む」

 

「整理しましょう」とジャーニーが言った。「舟なら人目は少ない。ただ、割れ物です。一艘に積めるのは、せいぜい十箱。舟で往復していては、正午に間に合いません」

 

「辰じいさんの艀」とステゴが言った。「朝は暇だって言ってた。それと、源太の車」

 

「源太? 仲間に入らねえで一人で引いてる、あの跳ねっ返りか」

 

「うん。伊勢屋に声かけられても断るって」

 

「残り十箱は、川口屋の荷舟だ」とナカヤマ。「朝は空いてるはずだ」

 

「伊勢屋の得意先、ですね」

 

「だから賭けだ」

 

 三右衛門は短く息を吐いた。

 

「……頼む。川口屋には清兵衛が俺の名で行け。お前さん、ついてってやれ」とナカヤマに顎をしゃくる。「俺は商館で番頭を押さえとく。くれぐれも、目立つな」

 

「送り状と数改めは、わたくしが参ります。帳面をつけているのは、わたくしですから」

 

 お糸は父の返事を待たずに立ち上がった。マックイーンが、黙ってそのあとに続いた。

 

 *

 

 八時過ぎ、野毛の河岸。辰五郎は渋い顔をした。

 

「午後は川口屋の荷がある。一時には戻らにゃならん。それに今日は潮が引く。昼前には派大岡川が浅うなって、重い舟は底をこする。行くなら今すぐ、十箱までじゃ」

 

「それでいい。漕ぐのはじいさん。積むのも降ろすのも、全部こっちでやる。じいさんの腰は使わせない」

 

 ステゴは、清兵衛が出がけに書いた一筆を差し出した。手間賃は茂原屋が倍出す、と三右衛門の名で記してある。

 

 辰五郎はしばらく煙草をふかしていたが、やがて大きく息を吐いた。

 

「一回きりじゃぞ」

 

 源太はもっと話が早かった。

 

「茂原屋? 前に、親方衆を通さず直に俺を使ってくれた旦那か。乗った。ただし手間賃は弾めよ」

 

 段取りはジャーニーが組んだ。蔵から舟への積み込みは、ゴルシと六助。ゴルシは約束通り、重い箱を黙って引き受けた。艀には辰五郎とフェノーメノ、オルフェーヴル。残り十箱は源太の大八車に積んでおく。川口屋が駄目だったときに、すぐ出られるように。

 

 八時四十五分、艀が軋みながら岸を離れた。

 

「じいさん、もっと速くならぬのか」とオルフェーヴルが苛立たしげに言う。

 

「これ以上急いだら、箱の中身が粉になるわい」

 

「ならば、余が漕ぐ」

 

「素人が漕げるか!」

 

 結局、オルフェーヴルは棹を握らせてもらえなかった。代わりに、橋の下をくぐるたびに箱が橋桁に当たらぬよう、身を乗り出して押さえ続けた。腰を落とし、手のひらを擦りむいても文句一つ言わない。

 

「……意外であります。貴女は、こういう仕事を嫌うと思っていたであります」

 

「嫌いだ。だが、余は働きで口を大きくすると言った。言ったことは守る」

 

 フェノーメノは何か言いかけて、やめた。代わりに、反対側の箱をしっかりと押さえた。

 

 艀は十時に堀川の河岸へ着いた。フェノーメノとオルフェーヴルが箱を二つずつ担いで商館の裏口まで運び、十時半には十箱すべてが土間に並んだ。

 

 *

 

 十時四十五分。ナカヤマと清兵衛が河岸に戻ってきた。顔を見れば、結果はわかった。

 

「旦那の留守を理由に、二時間半待たされて、断られた。午後に伊勢屋の荷が舟で入るから、空けておく約束だとさ」

 

「筋は通っていますね」とジャーニー。

 

「通ってる。だから余計に腹が立つ」

 

 正午まで一時間と少し。艀はもう戻らない。残る道は陸しかない。野毛橋で大岡川を渡り、吉田橋から馬車道へ――横浜で一番人の多い通りだ。

 

「旦那様に伺いを……」と清兵衛が言いかけた。商館まで走って戻ってくる暇は、もうない。

 

 ステゴが、大八車の梶棒に手をかけた。

 

「車で行こう」

 

「アネゴ」

 

 ジャーニーの声が硬くなった。

 

「馬車道は人の目が多すぎます。見られたら、今度は茂原屋ごと巻き込みます」

 

「わかってる。でも、ここで待ってても荷は着かない」

 

 ステゴは清兵衛を振り返った。

 

「見られたら、アタシが勝手にやったことにして」

 

「そうはいきませんよ」

 

 清兵衛は、首を横に振った。

 

「積んであるのは茂原屋の荷だ。送り状にも茂原屋と書いてある。見られりゃ、誰の荷かはすぐ知れます。あんたが一人でかぶれる話じゃない」

 

 ステゴは少し黙った。それから、梶棒を握り直した。

 

「……じゃあ、見られないように走る。見られたら、そのときは一緒に謝る」

 

 清兵衛は、長い息をついた。止めはしなかった。

 

「……道順は私が」とジャーニーが言った。「吉田橋は東の端を。馬車道は辻ごとにナカヤマさんが先を見てください。私は商館へ走って、オルたちに迎えに出てもらいます」

 

 それから、ステゴの頭の手拭いに手を伸ばし、結び目をきつく締め直した。

 

「結び目が甘いです、アネゴ」

 

「ジャーニーは心配性だな」

 

「アネゴが無茶をするからです」

 

 源太が梶棒を握り、ステゴとゴルシが後ろに取りついた。

 

「いいか、押すのは俺が『よし』って言ってからだ。陶器だぞ」

 

「おう」

 

 十一時、車が動き出した。

 

 *

 

 吉田橋は、数年前に架け替えられた鉄の橋だった。町の者は「かねの橋」と呼んでいる。

 

 その袂で、車輪が橋板と敷石の継ぎ目に噛んだ。

 

 がくん、と車が傾いた。積んだ箱が、欄干の側へ滑る。その下は川だ。

 

「源太、止まるな!」

 

 ステゴが車の脇に回り込み、荷台の縁を掴んで、傾いた側を丸ごと持ち上げた。ゴルシが滑り落ちかけた箱を両腕で抱き止める。

 

 車輪が、継ぎ目から外れた。

 

 その拍子に、ステゴの手拭いがずれた。きつく締めたはずの結び目ごと、力んだ頭から滑り落ちる。髪の間から、ぴんと立った耳。踏ん張った足元で、着物の裾から尾が揺れた。

 

 橋の上の人の流れが、止まった。

 

 人力車の車夫が口を開けている。棒手振りが天秤棒を下ろしている。桶を抱えた豆腐屋の小僧が、目を丸くしている。その後ろで、縞の羽織の男が一人、面白そうに目を細めていた。

 

「……耳だ」

 

 誰かが言った。

 

 ステゴは手拭いを拾い、頭に押しつけた。

 

「行くぞ」

 

「お、おう!」

 

 源太が梶棒を引き、二人が押す。大八車は人力車並みの速さで馬車道へ飛び込んだ。異人の婦人が日傘を取り落とし、両替屋が帳場から首を伸ばす。辻の先でナカヤマが手を振り、空いた道を指す。

 

「……目立つなって言われてなかったか」

 

「目立ってねえ。速いだけだ」

 

「それを目立つって言うんだよ!」

 

 十一時四十分。居留地の入り口の角に、フェノーメノとオルフェーヴルが待っていた。

 

「ここから先は道が狭いであります。担いだほうが速い!」

 

 四人が二箱ずつ担ぎ、残りを車が運ぶ。商館の土間では、お糸が送り状を手に立っていた。

 

「十一。十二。……」

 

 商館の柱時計が、正午を打ち始めた。

 

「十九」

 

 最後の一箱を、ステゴが土間に下ろした。

 

「二十。確かに、お納めいたしました」

 

 お糸の声は、一度も震えなかった。三右衛門が片言の英語と指で数を示し、英国人の番頭は懐中時計と柱時計を見比べてから、肩をすくめて受取書に判を捺した。

 

 お糸が受取書を覗き込む。横文字は読めない。マックイーンが、一行ずつ指でなぞった。

 

「……陶器二十箱、確かに受領、と書いてありますわ」

 

 お糸は小さく頷き、受取書を丁寧に畳んで懐へ入れた。

 

 商館の外で、七人と源太は地面にへたり込んだ。

 

「……間に合った」とステゴが空を見上げた。

 

「間に合ったな」と源太も笑った。「なあ、あんたら、何者だ?」

 

 ナカヤマが、にやりと笑って答えた。

 

「通りすがりの、ただの居候さ」

 

 

 

四 雨戸

 

 その夜、三右衛門は七人を奥座敷に呼んだ。

 

 昼間の顛末は、清兵衛からすべて聞いていた。

 

「よく届けてくれた。商館の番頭は、次の注文もうちへ回すと言った」

 

 それから、煙管の先をステゴに向けた。

 

「だがな。俺の看板で、俺に断りなく博打を打ったな」

 

「打った。ごめん」

 

 言い訳は、一つもなかった。三右衛門はしばらくステゴを見ていたが、やがて煙を吐いた。

 

「清兵衛から聞いたぞ。自分が勝手にやったことにしろ、と言ったそうだな」

 

「言った」

 

「荷も車も送り状も、俺の名で出てる。娘っ子一人がかぶって済む町じゃねえ。……勝ったから、今日は不問だ。負けりゃ、この店ごと持っていかれる。それを忘れんな」

 

 三右衛門は煙を吐いた。

 

「伊勢屋を恨むなよ。向こうは自分の荷を船に乗せただけだ。俺が伊勢屋でも、同じことをする。……もっとも、今日のことは伊勢屋の耳にも入る。茂原屋は妙な娘を飼ってる、とな」

 

 少し間を置いて、続けた。

 

「当面、ここにいていい。……居候としてな。商館に顔が立った分は、飯代の前払いだと思っとく。ただし、しばらく外へ出るのは一人も許さねえ」

 

 フェノーメノが深く頭を下げた。ゴルシは「おう、任せとけ」と胸を叩いた。オルフェーヴルは何も言わなかったが、口の端がわずかに緩んでいた。

 

「三右衛門様」

 

 ジャーニーが、静かに口を開いた。

 

「お伝えしておかねばなりません。吉田橋で、アネゴの耳を見た者がおります。それも、一人や二人ではありません」

 

「存じております」

 

 答えたのは、末座のお糸だった。

 

「夕方のうちに、お清を豆腐屋さんと世話役さんのお宅へやりました。在所の遠縁の娘たちが出てきて、力仕事を手伝ったのだと。明日は、わたくしが奥様方へご挨拶に回ります」

 

「そんなもので消える噂かね」と三右衛門。

 

「町内のぶんは、消えます。吉田橋で見た人のぶんは、わたくしにはどうにもなりません」

 

 お糸は膝の上で手を重ね、七人のほうへ向き直った。

 

「今日のこと、お礼を申します。あの重さを、あの刻限に。わたくしたちには、できませんでした。……でも、それとこれとは別です」

 

 それ以上、何も付け足さなかった。

 

 座を立つ前に、マックイーンがお糸のそばへ膝を寄せた。

 

「ご心配をおかけしていることは、承知しておりますわ」

 

「あなた方を好きか嫌いかで、申しているのではありません」

 

 お糸は少し黙って、それから言った。

 

「マックイーンさんのお茶は、美味しかったです。……でも、昼間の話。わたくしは考えを変えません」

 

「ええ。わたくしも、変えませんわ」

 

 二人はそれきり黙った。けれど、その沈黙は、最初の日の台所のそれとは、どこか違っていた。

 

 *

 

 夕餉は、台所脇の板の間で、七人だけで囲んだ。

 

 麦の混じった飯に、鰯の煮付け、豆腐の味噌汁、沢庵。質素だが、湯気が立っていた。

 

「……ゴルシ、それ何膳目だ」

 

「数えてねえ。五か六」

 

「居候が遠慮なく食べるものではないであります」

 

「働いたんだからいいだろ。働きに見合った口ってやつだ。アタシの口はでかいぞ」

 

「その口のぶんは、こちらにつけております」

 

 いつの間にか、板の間の戸口にお糸が立っていた。手には帳面。

 

「皆様がいらしてから、米の減りが倍になりました。ゴールドシップさんお一人で、男衆三人分です」

 

「……マジか」

 

「今日のお働きで、今月のぶんは差し引きいたします。来月からは、存じません」

 

 お糸はそれだけ言うと、ゴルシの空いた茶碗に黙って一杯よそい、戻っていった。

 

 オルフェーヴルが鼻で笑った。

 

「その理屈なら、余の口も大きくなったな。姉上、沢庵をもう一切れ寄越せ」

 

「はいはい」

 

 ジャーニーが自分の小皿から沢庵を移してやる。それから、隣のステゴの右手を取った。荷台の縁を掴んだ掌が、赤く擦りむけていた。

 

 ジャーニーは何も言わずに手拭いを裂き、それを巻いた。

 

「無茶はしないと、約束してください」

 

「できない約束は、しないことにしてる」

 

「……知っています」

 

 ナカヤマが味噌汁を啜りながら、天井を見上げた。

 

「しかし、賭けは二人とも外れか。五日目だったな」

 

「天井の件を数えれば、初日ですけれど」とマックイーン。

 

「あれは騒ぎじゃねえ。探検だ」

 

 マックイーンは箸を置いて、小さく息をついた。

 

「この時代のお味噌汁、少し塩辛いですわね」

 

「文句か」

 

「いいえ。……働いた後には、ちょうどいいですわ」

 

 皆が笑った。

 

 湯屋へは行けない。裏庭も、今日ばかりは使わせられない――お糸がそう決めて、台所の土間の奥に屏風を立てた。七人はその陰で、盥の湯に手拭いを浸し、交代で身体を拭いた。

 

「……お湯に浸かれないお風呂なんて、生まれて初めてですわ」

 

 マックイーンは湯の冷めないうちにと急かされて、半分も拭けずに上がった。着替えた肌着は、昼のうちにお清に教わって自分で洗ったものだ。灰汁が強すぎたのか、まだ少しごわついている。

 

 代わりに、寝間の行灯は思いのほか柔らかかった。店にはランプが山ほどあるのに、奥で灯すのは菜種油の行灯だけだ。油が高いし、火事が怖いから――お糸がそう決めているのだという。

 

「暗いけど、悪くないな」とステゴが言った。

 

 ステゴは、窓の外を見ていた。ガス灯の青白い光が、遠くの通りをぼんやりと照らしている。どこかで按摩の笛が鳴り、夜鳴き蕎麦の売り声が聞こえる。

 

「なあ」

 

 ステゴがぽつりと言った。

 

「明治って、案外面白いな」

 

「お前は最初から面白がってたろ」とナカヤマ。

 

「うん。でも、今日もっと面白くなった。辰じいさんも源太も、お糸さんも、みんな自分の都合で怒ったり笑ったりしてる。……もうちょっと、ここにいたいな」

 

 誰も答えなかった。けれど、誰も否定しなかった。

 

 逃げてきた。追われている。帰り道もわからない。それでも今夜だけは、屋根があって、飯があって、明日の仕事がある。

 

 その夜、雨戸を閉めて回ったのは清兵衛だった。いつもより念入りに、閂を一枚ずつ確かめていた。

 

 ゴルシは布団に入るなり寝息を立て、フェノーメノも律儀に仰向けのまま眠った。久しぶりの、乾いた布団だった。

 

 ジャーニーは雨戸の側に床を取った。妹の寝顔と、ステゴの手の包帯を確かめてから、目を閉じた。

 

 ナカヤマだけが、しばらく起きていた。夜更け、店の前で足音がひとつ止まった。少しして、また遠ざかっていった。

 

 *

 

 翌朝。

 

 店の大戸を開けた丁稚が、妙な顔で戻ってきた。

 

「番頭さん。車夫連中が噂してるんですよ。かねの橋で、馬の耳の娘が大八車を片手で持ち上げたって。積んでたのは茂原屋の荷だったって」

 

「……それで」

 

「それで、見世物の口入れだって人が、茂原屋はどこかと聞いて回ってるそうで」

 

 清兵衛の手から、算盤が滑り落ちた。

 

 奥の障子の陰で、ステゴとゴルシが顔を見合わせた。

 

「……なあ、ステゴ」

 

「うん」

 

「アタシら、騒ぎ起こさねえって約束したよな」

 

「したな」

 

 廊下を、帯を締め直したお糸が通り過ぎていった。町内回りに出る支度だった。その足音は、一度も乱れなかった。

 

 ステゴは、包帯を巻いた手で、頭の手拭いを結び直した。

 

 昨日よりも、きつく。

 

 

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