一 居候の掟
茂原家の朝は、鶏よりも早く始まる。
まだ空が藍色のうちから台所の竈に火が入り、店の土間では丁稚が大戸を外す。異人館通りに面したこの店は、表に「舶来品 茂原屋」の看板を掲げ、ランプや洋傘、葡萄酒を商う一方、異人向けの陶器や漆器を居留地の商館へ納めてもいた。
その奥座敷に、七人の娘が正座させられている。
正確に言えば、正座しているのは五人だった。ゴールドシップは膝を崩して欄間の彫刻を眺めており、オルフェーヴルは床柱にもたれて腕を組んでいる。
「さて」
上座の茂原三右衛門が、煙管を盆に打ちつけた。四十七、八。日に焼けた顔の目尻には柔和な皺が寄っているが、その奥の目は、品物を値踏みする商人のそれだった。
「改めて言っとく。お前さん方を置くのは、俺の勝手だ。だが勝手にも掟がある。一つ、家の仕事を手伝うこと。二つ、俺に断りなく外へ出ねえこと。三つ、騒ぎを起こさねえこと。守れねえなら、今日にでも出てってもらう」
「承知したであります」
真っ先に頭を下げたのはフェノーメノだった。背筋を伸ばしたまま、畳に手をつく。
「ご恩は必ずお返しするであります。この者たちにも、本官が責任をもって守らせるであります」
「おいメノ、勝手に保護者面すんな」とナカヤマフェスタが小声で言う。
「守る気がないのでありますか」
「守るさ。守れる範囲ではな」
「それを守らないと言うのであります!」
メジロマックイーンが咳払いをして、二人の間に割って入った。
「三右衛門様。身元も定かでない者を置いていただけるご厚意、心より感謝申し上げますわ。足手まといにならぬよう、精一杯努めます」
指先まで揃えた一礼に、三右衛門の背後に控えていた女中が、ほう、と小さく息を漏らした。
「……こちらのお嬢さんは、どこぞの御家中の出かい」
「いえ、その、家が少々厳しかったものですから」
マックイーンが曖昧に笑う。嘘ではない。百数十年ほど先の話だというだけだ。
その隙に、ゴールドシップが「ちょっと厠」と小声で言って腰を上げ、隣の間の襖の向こうへ消えた。誰も気に留めなかった。
その横で、ステイゴールドが膝を揺らしていた。
「なあ、三右衛門さん。断りなく出なきゃいいんだよな。じゃあ断っとく。町、見に行きたい」
「駄目だ」
「まだ理由、言ってないけど」
「理由は要らねえ。昨日の今日だぞ。役人が嗅ぎ回ってねえとも限らねえ」
ステゴは口を尖らせたが、それ以上は言わなかった。代わりに、障子の隙間から見える往来を未練がましく眺め続けた。
黙っていたオルフェーヴルが、ふいに口を開いた。
「一つ問う。余らは客か、それとも下働きか」
座敷の空気が固くなった。ドリームジャーニーが、妹の袖をそっと引く。
「オル」
「姉上は黙っていてほしい。……余は匿われる身だ。働けと言うなら働こう。だが、恩を着せられて飼い殺しにされるのは御免だ」
三右衛門は怒らなかった。むしろ面白そうに目を細めた。
「客じゃねえな。下働きとも違う。……居候だ」
「居候」
「飯は食わせる。寝床もやる。その代わり、働きに見合った口しか利かせねえ。気に食わねえなら、働いて口を大きくしな」
オルフェーヴルはしばらく三右衛門を睨んでいたが、やがて鼻を鳴らして目を逸らした。
「……よかろう。ならば、余の働きでその口を黙らせてやる」
「楽しみにしてるよ」
そのとき、廊下の襖がすっと開いた。
「お父様」
一人娘のお糸だった。十九になる。藍の縞の着物にきっちりと襷をかけ、髪は一筋の乱れもない。手には、畳んだ新聞が一枚。
「本当に、この方々をお置きになるのですか」
「話は昨夜済んだろう」
「済んでおりません。わたくしは承知しておりません」
お糸は新聞を父の前に置いた。三面の隅に、本町の通りで馬車を追い抜いた耳ある娘ども、異人の見世物の逃げ出しか、と小さな記事が載っている。
「町じゅうがこの話をしております。奉公人の口に戸は立てられません。お役人が来たら、店の鑑札はどうなります。奉公人たちの暮らしは」
「俺が責めを負う」
「お父様が責めを負って、済む話ではございません」
お糸は七人を一人ずつ見た。その目にあるのは、軽蔑よりも警戒だった。それから廊下の女中に向き直る。
「お清。この方々のお膳は奥で。店の者と同じ間では出さないように。それから、店先へ出るときは必ず頭を覆っていただくこと」
「は、はい、お嬢さん」
言うだけ言って、お糸は襖を閉めた。追い出しはしない。だが、家の中の線は自分が引く――その背中は、そう言っていた。
気まずい沈黙を破ったのは、天井からの物音だった。
全員が見上げる。天板が一枚ずれ、そこからゴールドシップの顔が逆さまに覗いていた。隣の間の押入れの棚をよじ登り、天袋の天井板を押し上げて、梁伝いにここまで這ってきたらしい。
「なあ、この家の天井裏、二階の奥まで繋がってんぞ。隠し通路だ。忍者屋敷か?」
「ただの梁だ。降りてこい。……そこの板は去年張り替えたばかりだ」
三右衛門が額を押さえた。フェノーメノが立ち上がり、天井に向かって叫ぶ。
「ゴールドシップ! 騒ぎを起こさぬことと、今言われたばかりであります!」
「騒いでねーよ。探検だ」
「同じであります!」
ナカヤマが肩をすくめて、ジャーニーに囁いた。
「初日でこれか。賭けてもいい、三日もたねえぞ」
「では私は、四日に」
ジャーニーは穏やかに微笑んだが、その目は、お糸が去った廊下の先をじっと見ていた。
*
その日の午後、お糸が古着を一抱え持って、七人に宛てがわれた二階の納戸へ上がってきた。
「今お召しのものは、目立ちすぎます。古着屋で揃えました。お代は帳面につけておきます」
縞の木綿に、継ぎの当たった帯、手拭い。七人分。マックイーンが礼を言いかけると、お糸はもう次の話をしていた。
「問題は、その……尾です」
試しに着てみると、どうしても腰の後ろが膨らむ。ゴルシが盥の水に映して、「着物ん中に猫入れてるみてえだな」と言った。
お糸は黙ってゴルシの後ろに回り、尾を腰に沿わせて畳み、晒を二巻きして留めた。手つきに迷いはなかった。
「こうすれば、裾が割れても見えません。きつければ、おっしゃってください」
「……すげえ。プロだ」
「ぷろ?」
「褒めてんだよ」
お糸は返事をせず、オルフェーヴルの前に立った。オルフェーヴルが一歩退く。
「余の尾に、触れるな」
「では、ご自分でどうぞ。晒はここに置きます」
オルフェーヴルは三度巻き損ね、四度目に黙ってジャーニーへ晒を渡した。
寝間は納戸と奥の三畳の二部屋で、三人と四人に分かれて寝ること。布団は奉公人の古いものを回すので、薄いのは堪忍してほしいこと。厠は裏庭の隅で、夜は手燭を持って行くこと。湯屋へは当分行かせられないこと――お糸はそれだけ言い置いて、階段を下りていった。
「……厠、外なのか」とナカヤマ。
「さっき行くと言って座を立ったのは、どなたでありますか」
「行ってねえよ。天井裏行ってた」
二 野毛の河岸
翌日から、七人の仕事が割り振られた。
まず周囲を驚かせたのは、蔵の荷運びだった。
「よいしょ、っと」
ゴールドシップが、葡萄酒の木箱を片手でひょいと担ぎ上げた。もう片方の手にも一箱。
居合わせた人足の六助が、口をあんぐりと開けた。
「お、おい嬢ちゃん。そりゃ大の男が一人で一つ担ぐもんだぞ」
「おう。だから二つ持ってんだろ。アタシは大の男二人分だからな」
「そういう勘定じゃねえ!」
ゴルシは鼻歌まじりに蔵と店先を往復し、一時間もかからずに荷を積み替えてしまった。人足たちは最初は面白がり、次に気味悪がり、最後には仕事を取られると青い顔をした。
それに気づいたのは、意外にもゴルシ本人だった。
「……なあ、六助のおっちゃん。アタシが全部運んだら、おっちゃんの日銭減る?」
「そりゃ、まあな」
「そっか。じゃあ明日から半分な。その代わり、重い方はこっそりアタシが持つ。誰にも言うなよ」
六助はぽかんとした後、苦笑いして頷いた。
一方、フェノーメノは店先で困り果てていた。
「本日は、いかなるご用件でありますか」
直立不動で迎えられた近所の煙草屋の隠居が、目を白黒させる。古参の番頭、清兵衛が飛んできた。
「ちょ、ちょいと。番所の取次じゃないんだから。『へい、おいでなさいまし』でいいんだよ」
「へ、へい……おいでなさい、まし……であります」
「最後のは要らないよ」
フェノーメノの顔は耳まで赤くなっていたが、手拭いの下の本当の耳まで赤かったかどうかは、誰にもわからない。
帳場では、ナカヤマが大福帳をめくっていた。
「なあ番頭さん。英国商館の買い付け、ここ三月の分を見ると、郵便船が出る前の日に限って値切りに来てる。で、毎回こっちが折れてる。向こうも船に積む荷が要るんだ。一日粘りゃ、向こうが折れるんじゃねえか」
清兵衛は算盤の手を止めず、ふん、と笑った。
「それくらい、とうに承知だよ。うちが粘れば、伊勢屋が一割安で横から攫う。だから折れてるんだ」
「……なるほど。勝負の相手は商館じゃなくて、伊勢屋か」
「そういうこと。それにしても、よく読んだね。その帳面、お嬢さんがつけてるんだ。几帳面なもんだろう」
ナカヤマは帳面に目を落とした。細く揃った字が、一行の乱れもなく並んでいた。
ジャーニーは、表向きは帳面の清書を手伝っていた。だがその実、出入りする客の顔ぶれ、三右衛門が誰に頭を下げ、誰に下げないか、奉公人たちの噂話を、静かに拾い集めていた。
――同業の大店・伊勢屋は、仲間の行事を務めている。今月は伊勢屋も大口の荷を抱えていて、車力の親方衆を茶屋でもてなし、車の手当てに余念がないらしい。お糸には縁談が持ち上がっていて、相手は伊勢屋の縁戚筋。そして三右衛門は、その縁談にあまり乗り気ではない。
「なるほど」とジャーニーは筆を置いた。「私たちを置いたのは、善意だけではありませんね」
隣で墨を磨っていたオルフェーヴルが眉をひそめる。
「どういうことだ、姉上」
「人手、好奇心、それに……伊勢屋に対抗する何か。あの方は商人です。損得のない賭けはしないでしょう」
「ふん。ならば話は早い。余も遠慮なく働きを売りつけてやる」
「オル。そういう顔をすると、また誤解されますよ」
ジャーニーは妹の眉間の皺を、指先でそっと伸ばした。オルフェーヴルは嫌そうな顔をしたが、振り払いはしなかった。
台所では、マックイーンとお糸が並んで立っていた。
最初の一時間ほど、お糸はほとんど口をきかなかった。だがマックイーンが襷のかけ方を一度で覚え、膳の並べ方も来客への茶の出し方も、教えられた通り丁寧にこなすうちに、お糸の態度は少しずつ柔らかくなっていった。
「お湯は、一度湯冷ましに移してから」
「心得ておりますわ」
「……どこで習ったのですか」
「家で。祖母が厳しくて、冷まし加減を少し違えるだけで、淹れ直しでしたの」
「うちの祖母も、そうでした」
お糸がくすりと笑った。初めて見せる笑顔だった。
だが、話が噛み合ったのはそこまでだった。
昼下がり、繕い物をしながら、お糸がぽつりと言った。
「マックイーンさんは、お嫁には行かないのですか」
「今は、自分のやるべきことがありますので。誰かに嫁ぐことが、わたくしの全てではありませんもの」
お糸の針は止まらなかった。
「お嫁に行くのは、わたくしが望んでいることです。窮屈だと決めつけられるのは、心外です」
マックイーンは言葉に詰まった。礼儀も、家を背負う覚悟も、自分とよく似ている。それなのに、立っている場所がまるで違った。
「……失礼いたしましたわ」
「いいえ」
お糸は針を動かし続けた。その横顔は、さっきよりも少し硬かった。
そしてステイゴールドは――結局、外にいた。
三右衛門が、番頭の得意先回りの供をするならと、条件付きで許したのだ。清兵衛の後ろを歩きながら、ステゴの目は一瞬たりとも休まなかった。
洋館と瓦屋根が入り混じる町並み。ガス灯の柱。異人の馬車。天秤棒を担いだ棒手振り。牛鍋屋から甘辛い匂いが漂い、人力車が砂埃を上げて走り抜けていく。
「なあ、番頭さん。あれ何」
「写真館だよ」
「あれは」
「パン屋。……供の途中だよ、止まるんじゃない」
それでもステゴは、辻の屋台の前で足を止めた。湯気の立つ鍋で、串に刺した豆腐と蒟蒻が味噌をまとっている。
「これ、いくら」
「一本四文」
屋台の親父は、間髪を入れずに答えた。
「よんもん」
ステゴは懐を探りかけて、手を止めた。入っているのは、見慣れた現代の硬貨だけだ。そもそも「文」が円でいくらなのかも、わからない。
清兵衛が溜息をつき、波模様の入った大ぶりの銭を一枚置いた。
「帳面につけとくよ。旦那様の言う『働きに見合った口』ってのは、こういうことだ。……それと、歩きながら食うんじゃない。茂原屋の供だよ」
ステゴは田楽を齧りながら、素直に立ち止まった。
「味噌、甘いな」
回り先の最後は、野毛の河岸にある借り蔵だった。店の蔵が舶来品で埋まっているので、商館へ納める有田の陶器二十箱を、ここに預けてある。期日は三日後の正午。清兵衛が箱を一つずつ検めている間、ステゴは河岸をうろついた。
荷揚げ場で、老船頭が艀の舫いを解きかねていた。綱が杭に噛んで外れないらしい。
「じいさん、貸して」
ステゴが綱を引くと、杭ごと抜けかけた。慌てて手を緩め、ゆっくり綱だけを外す。
「……あんた、力持ちだねえ」
「内緒な」
老船頭は辰五郎と名乗った。この河岸で四十年艀を漕いでいる。そこへ大八車を引いた若い車力が通りかかり、辰五郎に軽口を叩いた。源太という、口は悪いが人の好さそうな男だった。
「聞いたかよ、辰さん。伊勢屋の野郎、親方衆に酒を飲ませて、車力を仲間ごと囲い込もうとしてやがる。俺は一人で引いてるから声もかからねえ。かかっても断るがな」
「お前は誰にも飼われんからのう。……川口屋の荷舟もこのごろ伊勢屋の荷ばかりじゃ。わしの艀なんぞ、朝は暇なもんよ」
ステゴは二人の間にすっと腰を下ろし、いつの間にか一緒に焼き芋を齧っていた。帰り道、清兵衛は呆れ顔で言った。
「あんた、得意先より先に、船頭と車力と仲良くなっちまったね」
「面白かったから。辰じいさん、昔、沖で鯨を見たって」
ステゴは満足げに笑った。明治の横浜は、思っていたよりずっと、人の匂いがする町だった。
三 かねの橋
茂原屋に来て五日目の、朝六時。
ナカヤマの賭けも、ジャーニーの賭けも外れた。騒ぎは、向こうからやってきた。
「旦那様! 源兵衛親方から詫びの使いが……昨夜遅く、伊勢屋から急ぎの荷を倍の手間賃で頼まれて、車も人も出払ったと!」
清兵衛が座敷に駆け込んできた。前の晩、念を押しに行ったばかりの親方だった。
今日の正午までに、陶器二十箱を英国商館へ納める。商館は午後の郵便船に荷を積むため、荷改めは正午で締める。遅れれば注文は伊勢屋に回り、居留地中に「茂原屋は刻限を守れぬ」と知れ渡る。
三右衛門は煙管を置いた。動きは速かった。
「清兵衛、ほかの車力を当たれ。俺は商館へ行って、刻限を延ばせねえか掛け合う」
「わたくしは送り状を書き直します。分けて届くことになるかもしれませんから」
お糸が、すでに硯を引き寄せていた。
七時半。二人とも戻ってきた。
車力はどこも首を横に振った。今月は伊勢屋も同じ郵便船に大口の荷を積む。どの親方もそちらの手当てで手一杯だった。商館の刻限も動かなかった。それでも三右衛門は、箱が届いた順に改めるという約束だけは取り付けてきた。
「伊勢屋の野郎、狙いやがったのか」とゴルシが言った。
「自分の荷を船に間に合わせたいだけだろ」とナカヤマ。「倍出して車を押さえる。アタシが伊勢屋でもそうする」
廊下で聞いていた七人が、座敷に入った。最初に口を開いたのはフェノーメノだった。
「三右衛門殿。本官たちに、やらせてほしいであります」
「お父様、なりません。この方々が人前で荷を担いだら」
三右衛門は答えず、七人を見た。値踏みする目だった。
「アタシが全部担いで走りゃいい」とゴルシが腕まくりした。
「馬鹿者」とオルフェーヴルが即座に切り捨てた。「娘が陶器の箱を四つ担いで馬車道を駆け抜けてみよ。それこそ騒ぎだ。第一、割れる」
「割らねえよ。……たぶん」
「正規の手順を踏むべきであります。仲間に事情を話し、車を融通してもらうのが筋であります」
「その仲間が、みんな伊勢屋の荷で塞がってんだよ、メノ」
「陸がふさがってんなら、水だ」
ナカヤマが、清兵衛に写させた町の略図を広げた。
「借り蔵は大岡川の河岸の真ん前。川を少し下って派大岡川へ入り、中村川から堀川へ出りゃ、居留地の裏手に着く。大通りを通らずに済む」
「整理しましょう」とジャーニーが言った。「舟なら人目は少ない。ただ、割れ物です。一艘に積めるのは、せいぜい十箱。舟で往復していては、正午に間に合いません」
「辰じいさんの艀」とステゴが言った。「朝は暇だって言ってた。それと、源太の車」
「源太? 仲間に入らねえで一人で引いてる、あの跳ねっ返りか」
「うん。伊勢屋に声かけられても断るって」
「残り十箱は、川口屋の荷舟だ」とナカヤマ。「朝は空いてるはずだ」
「伊勢屋の得意先、ですね」
「だから賭けだ」
三右衛門は短く息を吐いた。
「……頼む。川口屋には清兵衛が俺の名で行け。お前さん、ついてってやれ」とナカヤマに顎をしゃくる。「俺は商館で番頭を押さえとく。くれぐれも、目立つな」
「送り状と数改めは、わたくしが参ります。帳面をつけているのは、わたくしですから」
お糸は父の返事を待たずに立ち上がった。マックイーンが、黙ってそのあとに続いた。
*
八時過ぎ、野毛の河岸。辰五郎は渋い顔をした。
「午後は川口屋の荷がある。一時には戻らにゃならん。それに今日は潮が引く。昼前には派大岡川が浅うなって、重い舟は底をこする。行くなら今すぐ、十箱までじゃ」
「それでいい。漕ぐのはじいさん。積むのも降ろすのも、全部こっちでやる。じいさんの腰は使わせない」
ステゴは、清兵衛が出がけに書いた一筆を差し出した。手間賃は茂原屋が倍出す、と三右衛門の名で記してある。
辰五郎はしばらく煙草をふかしていたが、やがて大きく息を吐いた。
「一回きりじゃぞ」
源太はもっと話が早かった。
「茂原屋? 前に、親方衆を通さず直に俺を使ってくれた旦那か。乗った。ただし手間賃は弾めよ」
段取りはジャーニーが組んだ。蔵から舟への積み込みは、ゴルシと六助。ゴルシは約束通り、重い箱を黙って引き受けた。艀には辰五郎とフェノーメノ、オルフェーヴル。残り十箱は源太の大八車に積んでおく。川口屋が駄目だったときに、すぐ出られるように。
八時四十五分、艀が軋みながら岸を離れた。
「じいさん、もっと速くならぬのか」とオルフェーヴルが苛立たしげに言う。
「これ以上急いだら、箱の中身が粉になるわい」
「ならば、余が漕ぐ」
「素人が漕げるか!」
結局、オルフェーヴルは棹を握らせてもらえなかった。代わりに、橋の下をくぐるたびに箱が橋桁に当たらぬよう、身を乗り出して押さえ続けた。腰を落とし、手のひらを擦りむいても文句一つ言わない。
「……意外であります。貴女は、こういう仕事を嫌うと思っていたであります」
「嫌いだ。だが、余は働きで口を大きくすると言った。言ったことは守る」
フェノーメノは何か言いかけて、やめた。代わりに、反対側の箱をしっかりと押さえた。
艀は十時に堀川の河岸へ着いた。フェノーメノとオルフェーヴルが箱を二つずつ担いで商館の裏口まで運び、十時半には十箱すべてが土間に並んだ。
*
十時四十五分。ナカヤマと清兵衛が河岸に戻ってきた。顔を見れば、結果はわかった。
「旦那の留守を理由に、二時間半待たされて、断られた。午後に伊勢屋の荷が舟で入るから、空けておく約束だとさ」
「筋は通っていますね」とジャーニー。
「通ってる。だから余計に腹が立つ」
正午まで一時間と少し。艀はもう戻らない。残る道は陸しかない。野毛橋で大岡川を渡り、吉田橋から馬車道へ――横浜で一番人の多い通りだ。
「旦那様に伺いを……」と清兵衛が言いかけた。商館まで走って戻ってくる暇は、もうない。
ステゴが、大八車の梶棒に手をかけた。
「車で行こう」
「アネゴ」
ジャーニーの声が硬くなった。
「馬車道は人の目が多すぎます。見られたら、今度は茂原屋ごと巻き込みます」
「わかってる。でも、ここで待ってても荷は着かない」
ステゴは清兵衛を振り返った。
「見られたら、アタシが勝手にやったことにして」
「そうはいきませんよ」
清兵衛は、首を横に振った。
「積んであるのは茂原屋の荷だ。送り状にも茂原屋と書いてある。見られりゃ、誰の荷かはすぐ知れます。あんたが一人でかぶれる話じゃない」
ステゴは少し黙った。それから、梶棒を握り直した。
「……じゃあ、見られないように走る。見られたら、そのときは一緒に謝る」
清兵衛は、長い息をついた。止めはしなかった。
「……道順は私が」とジャーニーが言った。「吉田橋は東の端を。馬車道は辻ごとにナカヤマさんが先を見てください。私は商館へ走って、オルたちに迎えに出てもらいます」
それから、ステゴの頭の手拭いに手を伸ばし、結び目をきつく締め直した。
「結び目が甘いです、アネゴ」
「ジャーニーは心配性だな」
「アネゴが無茶をするからです」
源太が梶棒を握り、ステゴとゴルシが後ろに取りついた。
「いいか、押すのは俺が『よし』って言ってからだ。陶器だぞ」
「おう」
十一時、車が動き出した。
*
吉田橋は、数年前に架け替えられた鉄の橋だった。町の者は「かねの橋」と呼んでいる。
その袂で、車輪が橋板と敷石の継ぎ目に噛んだ。
がくん、と車が傾いた。積んだ箱が、欄干の側へ滑る。その下は川だ。
「源太、止まるな!」
ステゴが車の脇に回り込み、荷台の縁を掴んで、傾いた側を丸ごと持ち上げた。ゴルシが滑り落ちかけた箱を両腕で抱き止める。
車輪が、継ぎ目から外れた。
その拍子に、ステゴの手拭いがずれた。きつく締めたはずの結び目ごと、力んだ頭から滑り落ちる。髪の間から、ぴんと立った耳。踏ん張った足元で、着物の裾から尾が揺れた。
橋の上の人の流れが、止まった。
人力車の車夫が口を開けている。棒手振りが天秤棒を下ろしている。桶を抱えた豆腐屋の小僧が、目を丸くしている。その後ろで、縞の羽織の男が一人、面白そうに目を細めていた。
「……耳だ」
誰かが言った。
ステゴは手拭いを拾い、頭に押しつけた。
「行くぞ」
「お、おう!」
源太が梶棒を引き、二人が押す。大八車は人力車並みの速さで馬車道へ飛び込んだ。異人の婦人が日傘を取り落とし、両替屋が帳場から首を伸ばす。辻の先でナカヤマが手を振り、空いた道を指す。
「……目立つなって言われてなかったか」
「目立ってねえ。速いだけだ」
「それを目立つって言うんだよ!」
十一時四十分。居留地の入り口の角に、フェノーメノとオルフェーヴルが待っていた。
「ここから先は道が狭いであります。担いだほうが速い!」
四人が二箱ずつ担ぎ、残りを車が運ぶ。商館の土間では、お糸が送り状を手に立っていた。
「十一。十二。……」
商館の柱時計が、正午を打ち始めた。
「十九」
最後の一箱を、ステゴが土間に下ろした。
「二十。確かに、お納めいたしました」
お糸の声は、一度も震えなかった。三右衛門が片言の英語と指で数を示し、英国人の番頭は懐中時計と柱時計を見比べてから、肩をすくめて受取書に判を捺した。
お糸が受取書を覗き込む。横文字は読めない。マックイーンが、一行ずつ指でなぞった。
「……陶器二十箱、確かに受領、と書いてありますわ」
お糸は小さく頷き、受取書を丁寧に畳んで懐へ入れた。
商館の外で、七人と源太は地面にへたり込んだ。
「……間に合った」とステゴが空を見上げた。
「間に合ったな」と源太も笑った。「なあ、あんたら、何者だ?」
ナカヤマが、にやりと笑って答えた。
「通りすがりの、ただの居候さ」
四 雨戸
その夜、三右衛門は七人を奥座敷に呼んだ。
昼間の顛末は、清兵衛からすべて聞いていた。
「よく届けてくれた。商館の番頭は、次の注文もうちへ回すと言った」
それから、煙管の先をステゴに向けた。
「だがな。俺の看板で、俺に断りなく博打を打ったな」
「打った。ごめん」
言い訳は、一つもなかった。三右衛門はしばらくステゴを見ていたが、やがて煙を吐いた。
「清兵衛から聞いたぞ。自分が勝手にやったことにしろ、と言ったそうだな」
「言った」
「荷も車も送り状も、俺の名で出てる。娘っ子一人がかぶって済む町じゃねえ。……勝ったから、今日は不問だ。負けりゃ、この店ごと持っていかれる。それを忘れんな」
三右衛門は煙を吐いた。
「伊勢屋を恨むなよ。向こうは自分の荷を船に乗せただけだ。俺が伊勢屋でも、同じことをする。……もっとも、今日のことは伊勢屋の耳にも入る。茂原屋は妙な娘を飼ってる、とな」
少し間を置いて、続けた。
「当面、ここにいていい。……居候としてな。商館に顔が立った分は、飯代の前払いだと思っとく。ただし、しばらく外へ出るのは一人も許さねえ」
フェノーメノが深く頭を下げた。ゴルシは「おう、任せとけ」と胸を叩いた。オルフェーヴルは何も言わなかったが、口の端がわずかに緩んでいた。
「三右衛門様」
ジャーニーが、静かに口を開いた。
「お伝えしておかねばなりません。吉田橋で、アネゴの耳を見た者がおります。それも、一人や二人ではありません」
「存じております」
答えたのは、末座のお糸だった。
「夕方のうちに、お清を豆腐屋さんと世話役さんのお宅へやりました。在所の遠縁の娘たちが出てきて、力仕事を手伝ったのだと。明日は、わたくしが奥様方へご挨拶に回ります」
「そんなもので消える噂かね」と三右衛門。
「町内のぶんは、消えます。吉田橋で見た人のぶんは、わたくしにはどうにもなりません」
お糸は膝の上で手を重ね、七人のほうへ向き直った。
「今日のこと、お礼を申します。あの重さを、あの刻限に。わたくしたちには、できませんでした。……でも、それとこれとは別です」
それ以上、何も付け足さなかった。
座を立つ前に、マックイーンがお糸のそばへ膝を寄せた。
「ご心配をおかけしていることは、承知しておりますわ」
「あなた方を好きか嫌いかで、申しているのではありません」
お糸は少し黙って、それから言った。
「マックイーンさんのお茶は、美味しかったです。……でも、昼間の話。わたくしは考えを変えません」
「ええ。わたくしも、変えませんわ」
二人はそれきり黙った。けれど、その沈黙は、最初の日の台所のそれとは、どこか違っていた。
*
夕餉は、台所脇の板の間で、七人だけで囲んだ。
麦の混じった飯に、鰯の煮付け、豆腐の味噌汁、沢庵。質素だが、湯気が立っていた。
「……ゴルシ、それ何膳目だ」
「数えてねえ。五か六」
「居候が遠慮なく食べるものではないであります」
「働いたんだからいいだろ。働きに見合った口ってやつだ。アタシの口はでかいぞ」
「その口のぶんは、こちらにつけております」
いつの間にか、板の間の戸口にお糸が立っていた。手には帳面。
「皆様がいらしてから、米の減りが倍になりました。ゴールドシップさんお一人で、男衆三人分です」
「……マジか」
「今日のお働きで、今月のぶんは差し引きいたします。来月からは、存じません」
お糸はそれだけ言うと、ゴルシの空いた茶碗に黙って一杯よそい、戻っていった。
オルフェーヴルが鼻で笑った。
「その理屈なら、余の口も大きくなったな。姉上、沢庵をもう一切れ寄越せ」
「はいはい」
ジャーニーが自分の小皿から沢庵を移してやる。それから、隣のステゴの右手を取った。荷台の縁を掴んだ掌が、赤く擦りむけていた。
ジャーニーは何も言わずに手拭いを裂き、それを巻いた。
「無茶はしないと、約束してください」
「できない約束は、しないことにしてる」
「……知っています」
ナカヤマが味噌汁を啜りながら、天井を見上げた。
「しかし、賭けは二人とも外れか。五日目だったな」
「天井の件を数えれば、初日ですけれど」とマックイーン。
「あれは騒ぎじゃねえ。探検だ」
マックイーンは箸を置いて、小さく息をついた。
「この時代のお味噌汁、少し塩辛いですわね」
「文句か」
「いいえ。……働いた後には、ちょうどいいですわ」
皆が笑った。
湯屋へは行けない。裏庭も、今日ばかりは使わせられない――お糸がそう決めて、台所の土間の奥に屏風を立てた。七人はその陰で、盥の湯に手拭いを浸し、交代で身体を拭いた。
「……お湯に浸かれないお風呂なんて、生まれて初めてですわ」
マックイーンは湯の冷めないうちにと急かされて、半分も拭けずに上がった。着替えた肌着は、昼のうちにお清に教わって自分で洗ったものだ。灰汁が強すぎたのか、まだ少しごわついている。
代わりに、寝間の行灯は思いのほか柔らかかった。店にはランプが山ほどあるのに、奥で灯すのは菜種油の行灯だけだ。油が高いし、火事が怖いから――お糸がそう決めているのだという。
「暗いけど、悪くないな」とステゴが言った。
ステゴは、窓の外を見ていた。ガス灯の青白い光が、遠くの通りをぼんやりと照らしている。どこかで按摩の笛が鳴り、夜鳴き蕎麦の売り声が聞こえる。
「なあ」
ステゴがぽつりと言った。
「明治って、案外面白いな」
「お前は最初から面白がってたろ」とナカヤマ。
「うん。でも、今日もっと面白くなった。辰じいさんも源太も、お糸さんも、みんな自分の都合で怒ったり笑ったりしてる。……もうちょっと、ここにいたいな」
誰も答えなかった。けれど、誰も否定しなかった。
逃げてきた。追われている。帰り道もわからない。それでも今夜だけは、屋根があって、飯があって、明日の仕事がある。
その夜、雨戸を閉めて回ったのは清兵衛だった。いつもより念入りに、閂を一枚ずつ確かめていた。
ゴルシは布団に入るなり寝息を立て、フェノーメノも律儀に仰向けのまま眠った。久しぶりの、乾いた布団だった。
ジャーニーは雨戸の側に床を取った。妹の寝顔と、ステゴの手の包帯を確かめてから、目を閉じた。
ナカヤマだけが、しばらく起きていた。夜更け、店の前で足音がひとつ止まった。少しして、また遠ざかっていった。
*
翌朝。
店の大戸を開けた丁稚が、妙な顔で戻ってきた。
「番頭さん。車夫連中が噂してるんですよ。かねの橋で、馬の耳の娘が大八車を片手で持ち上げたって。積んでたのは茂原屋の荷だったって」
「……それで」
「それで、見世物の口入れだって人が、茂原屋はどこかと聞いて回ってるそうで」
清兵衛の手から、算盤が滑り落ちた。
奥の障子の陰で、ステゴとゴルシが顔を見合わせた。
「……なあ、ステゴ」
「うん」
「アタシら、騒ぎ起こさねえって約束したよな」
「したな」
廊下を、帯を締め直したお糸が通り過ぎていった。町内回りに出る支度だった。その足音は、一度も乱れなかった。
ステゴは、包帯を巻いた手で、頭の手拭いを結び直した。
昨日よりも、きつく。