一 口入れ屋
明けの空がまだ白みきらぬうちから、横浜の町は音を立て始める。
「とーふぃ、とうふー」
長く引いた売り声が通りを渡っていき、そのあとを納豆売りと青物の棒手振りが追いかける。天秤棒のきしむ音、井戸端で桶を伏せる音、どこかの店で大戸を一枚ずつ繰り外す音。茂原屋の丁稚も、眠い目をこすりながら重い板戸を戸袋へ押しこんでいた。
車夫たちの噂を清兵衛に告げてから、まだ半刻も経っていない。その板戸が三枚目まで外れたところで、通りの向こうから男がひとり、ひょいと手を上げた。
「ご精が出るねえ。旦那はおいでかい」
縞の羽織に紺の前掛け、髷は散切りにしかけて途中でやめたような半端な頭。人好きのする笑顔だが、目だけが店の奥をすばやく撫でていく。
帳場に出てきた三右衛門に、男は丁寧に頭を下げた。
「手前、蓑屋の惣兵衛と申しやす。両国の小屋掛けからこっちへ流れてきて、今は吉田町の見世物の口入れをやっておりやす」
「見世物屋が、舶来屋に何の用だ」
「話が早くて助かりやす」惣兵衛は上がり框に浅く腰をかけた。「昨日の昼前、かねの橋のたもとで、手前もこの目で見やしてね。耳の立った娘っ子が、陶器を積んだ大八車を片手で起こすところを。俥引きの留ってのも見てて、ゆうべは一晩、それを肴に酒を奢らせてた。積み荷が茂原屋さんのだってのは、車夫連中の間じゃもう知れ渡ってまさ」
三右衛門は煙管に葉を詰めた。火はつけなかった。
「それで」
「いい話を持ってきたんでさ」惣兵衛は指を一本立てた。「七人まとめて吉田町の小屋で預かる。手間賃は大工並み、寝床も飯もこっち持ちだ。芸は見せてこそ芸ですぜ、旦那。軽業の娘も、力持ちの婆さんも、みんなそれで食ってる。身寄りのねえ女が堅気の奉公口を探すより、よっぽど確かな稼ぎだ」
悪びれた様子はまるでない。この男にとって、それは人助けと商売がちょうど重なる、まっとうな話なのだ。
「断る」
「へえ」惣兵衛は少しも気を悪くしなかった。「じゃあ伺いますがね、あの娘さんたちは、いったい誰の預かりで? 戸籍のお改めからこっち、他所者を置くなら届けを出せって、町役人がうるさい。手前どもの小屋なら、届けも鑑札も、手前が揃えて差し上げられやすよ」
三右衛門が答えるより先に、奥の暖簾がふわりと揺れた。
「なあなあ、おっちゃん。大工並みってのは、一人あたり? それとも――むがっ」
銀の髪をした頭が半分のぞいたところで、白い手がその口をふさぎ、もう一本の腕が襟首をつかんで引き戻した。暖簾の向こうで、押し殺した声が二つ重なる。
「ゴールドシップさん、何を考えていらっしゃいますの!」
「お、お静かに願うであります! お静かに!」
どたん、と何かが倒れる音。三右衛門は咳払いをひとつして、何事もなかった顔で惣兵衛に向き直った。
「猫だ」
「へえ。ずいぶん口のきける猫で」
惣兵衛はにやりと笑い、「気が変わったら吉田町の蓑屋へ」と言い置いて帰っていった。
町内回りの支度を終えて店先へ出てきたお糸は、男の背中ではなく、通りのほうを見ていた。豆腐売りが足を止め、向かいの荒物屋のおかみが前掛けで手を拭きながらこちらをうかがっている。ゆうべ、お清を使って「在所の遠縁の娘」と言い含めて回った、その当の家々だった。
「お父様」
「わかってる」
三右衛門は算盤を引き寄せたが、珠は一つも動かなかった。
二 噂の町
昼前、清兵衛が噂の出所を探りに出ることになった。その供に、ステイゴールドが名乗り出た。
「しばらく誰も外へ出さねえと言ったはずだ」
「言った。でも、噂されてるのはアタシらだ。何て言われてるか、自分の耳で聞きたい」
「その耳が厄介なんだろうが」
三右衛門は苦い顔をしたが、店の前の人だかりで丁稚を割く余裕もなかった。結局、手拭いの結び目をお糸に二度確かめさせ、清兵衛から三歩以上離れないことを条件に、首を縦に振った。
尾は晒で腰に畳み、古い半纏をはおる。風呂敷包みを抱えたその姿は、どう見ても田舎から出てきたばかりの下女だった――歩き方さえ見なければ。
「もう少しこう、ちんまりと」
「ちんまり?」
「跳ねないでおくれ。下駄で跳ねる下女はいないよ」
「へいへい」
ステゴは返事だけは素直にして、三歩目にはもう跳ねていた。
横浜の町は、昨日までと同じ顔をしていた。馬車道を異人の馬車が走り抜け、そのあとを人力車が三台、競うように追っていく。居留地の側は石造りの商館が並び、洋装の男たちが帳面を抱えて歩いている。あちらは誰も、往来の噂になど関心がなさそうだった。
だが、日本人町に一歩入ると、空気が違った。
「――でな、その娘、車をこう、片手でひょいと」
「馬鹿言え。陶器を積んだ大八だぞ」
「だから人じゃねえんだよ。異人の見世物の逃げ出しだって、新聞にも出てたろ」
「いや、俺の聞いたのは違う。あれはお稲荷さんのお使いだって、八百屋の婆さまが拝んでた」
茶店の縁台で、職人ふうの男たちが湯呑みを片手にやりあっている。その端で、見覚えのある若い車力が団子を頬張っていた。源太だった。
「お前ら、見てもいねえくせによく言うぜ。あの娘っ子らは荷を届けただけだ。梶棒を引いてたのは俺だ」
「じゃあ源太、お前も化け物の仲間か」
「おうよ。手間賃は弾んでもらったぜ」
どっと笑いが起きる。源太は一瞬こちらを見たが、何も言わずに目を逸らした。知らん顔をしてくれたのだと、ステゴにはわかった。
少し先の辻では、新聞を広げた男が、字の読めない連中を前に読み聞かせをしていた。逃げた日の翌朝に出た、もう五、六日前の号だ。本町の通りで馬車を追い抜いた耳ある娘ども、という小さな記事を、男はもう三度も読まされていた。
「かねの橋の話は出てねえのか」
「新聞は遅えんだよ。昨日のことが載るのは、早くて明日か明後日だ」
「待ってられるかい」
また笑いが起きる。噂は、紙よりずっと速く走っていた。
清兵衛の回り先で、話は少しずつ形を変えた。米屋では「背丈六尺の大女」になり、湯屋帰りの女房たちの間では「夜な夜な井戸の水を一樽飲み干す」になった。絵双紙屋の店先には、いつ刷ったのか、粗末な一枚刷りが吊るされていた。頭に耳を生やした娘が、大八車を頭上に掲げている絵。添えられた文句は〈異国渡来 怪力娘〉。
「……アタシ、こんな顔してないけど」
ステゴがぼそりと言うと、清兵衛は慌てて袖を引いた。
極めつけは、辻の田楽屋台だった。初めて供に出た日、一本四文と間髪を入れずに答えた親父だ。味噌が甘いと言ったら、親父は「江戸前だからな」と得意げに笑った。
その親父が今日は、清兵衛の顔を見るなり眉をひそめた。
「茂原屋の番頭さんかい。気をつけなよ。化け物かもしれねえって話だ。旦那も、人がいいのも大概にしねえとな」
清兵衛の後ろに立つ下女が、あの日の供だとは気づいていない。
ステゴは、何と答えればいいのかわからなかった。
あの日の自分と今日の自分は、何も違わない。田楽が好きで、味噌は甘いと思う。けれどこの町の人たちにとって、「茂原屋の娘たち」は、もう自分とは別の生き物になっていた。誰も会ったことのない、六尺の、水を一樽飲む、化け物で神様で見世物の何か。
「……一本、ください」
「あいよ。四文」
親父はいつもの声で言い、銭を受け取ると、もうこちらを見なかった。
*
二階の納戸では、七人が膝を突き合わせていた。
ナカヤマフェスタは、帳場から借りてきた反古紙の裏に、町の絵図を描いていた。かねの橋、車夫の溜まり、湯屋、絵双紙屋、茶店。お清が朝湯で聞いてきた話、丁稚が使いの途中で拾った話、ステゴが持ち帰った話を、一つずつ書きこんだ線が、互いに絡まりあっている。
「出所は、まず橋で見た連中だ。俥引きの留と、あの口入れ屋。それから車夫と車力の溜まり」ナカヤマは筆の尻で紙を叩いた。「で、昨日、町じゅうの車力を押さえてたのは誰だ」
「伊勢屋さん、であります」とフェノーメノ。
「伊勢屋の荷を運んだ連中が、伊勢屋の茶屋で酒を飲みながら、茂原屋の妙な娘の話をする。広まらねえわけがねえ」
「そこまでは、事実でしょうね」
ドリームジャーニーが、静かに言った。
「でも、伊勢屋さんが広めさせたかどうかは、別の話です。車力が酒の席で話すのは、誰の荷を運んだ日でも同じですから」
「わかってる。わかんねえから、疑ってんだ」
ナカヤマは筆を置いた。
「ただ、どっちにしろ茂原屋の信用には響く。商人の信用は、帳面より町内の口で決まるんだろ」
「ええ。私たちがここにいる限り、その口は止まりません」
「口入れ屋のほうは」とフェノーメノ。
「ありゃもう来ねえよ」ナカヤマは鼻で笑った。「一度断られた店に、二度面ぁ出すのは見世物師の沽券に関わる。ああいう手合いは、次の珍しいもんを探しに行くさ」
「じゃあさ、逆に考えようぜ」
ゴールドシップが、ごろりと畳に寝転んだまま手を挙げた。
「どうせ見られるんなら木戸銭取りゃいいじゃん。裏庭で、一回五十文。アタシが逆立ちで走るのも見せてやる。儲けを茂原屋に入れりゃ、損は帳消し。な、完璧」
「完璧なわけがありませんわ!」メジロマックイーンが即座に言い返した。「わたくしたちが見世物になれば、今朝の口入れ屋の言い分を自分から認めるようなものです。それに、ここは三右衛門様のお店ですのよ。勝手に小屋掛けなどできるはずがございません」
「でもよ、マックちゃん」
ゴールドシップは天井を見たまま言った。声の調子が、少しだけ変わっていた。
「見られんのは、もう決まってんだろ。あっちが勝手に見て、勝手に化け物だの神さまだの言う。……だったら、いつ、誰に、どう見せるかくらい、アタシが決めてえ」
マックイーンは言い返しかけて、口をつぐんだ。港の役所の庭で、両腕を取られて戻ってきた夜のゴールドシップを、彼女は覚えていた。
「……それでも、わたくしは反対ですわ」
「知ってる」
ゴールドシップは寝返りを打って、壁のほうを向いた。
二人をよそに、オルフェーヴルは格子窓から通りを見下ろしていた。店の前には、用もないのに行き来する人影が朝より明らかに増えている。
「下らぬ」とだけ、彼女は言った。
ステゴは、絵図の端に描かれた田楽屋台の印を、黙って指でなぞっていた。
三 帳場の灯
その夜、茂原屋の台所では、賄いの釜がまた空になった。
「お、お代わりはもう……ございません……」
お清が釜の底をしゃもじでこそげながら、半ば泣きそうな顔をした。七人が来てから米の減りは倍になり、竈にくべる薪も目に見えて減った。ゴールドシップは空の茶碗を名残惜しそうに眺め、マックイーンは昼に洗った肌着の、灰汁でごわついた袖をそっと引っ張った。
「お清さん。明日のお洗濯は、灰汁を少し薄めてもよろしいかしら」
「へえ。お嬢さま育ちの肌には、きつうございましたか」
「いえ、その……はい」
裏庭のほうから、乾いた音が規則正しく聞こえていた。かん、かん、と、薪の割れる音。
「誰ですか、こんな時刻に」
お清が手燭をかざすと、薪小屋の前にオルフェーヴルがいた。袖を襷で括り、斧を振り下ろしている。足元には、割った薪がきれいに積み上がっていた。
「余の食う分の薪は、余が割る。それだけだ」
振り返りもせずに言い、また斧を振り上げる。人目のない裏庭で、明朝の竈にくべる分を、音を抑えて黙々と。お清は何か言いかけて、そっと手燭を引っこめた。
帳場では、三右衛門が行灯の下で大福帳を繰っていた。その向かいで、お糸が繕い物の針を動かしている。
昼間、ランプを二十張り頼んでいた野毛の料理茶屋が、「今月は見合わせたい」と使いを寄越した。漆器を納めている塗師からも、次の納めは少し待ってほしいと言ってきた。理由は言わなかったが、言わずともわかる。料理茶屋には昨日、伊勢屋の番頭が顔を出していた。
「伊勢屋は仲間の行事だ。仲間の店を回るのが役目だよ。悪く取るな」
「悪く取ってはおりません。ただ、町の方々がどう取るかは、また別です」
お糸は針を止めなかった。
「お父様。あの方々を匿うのは、お父様のお考えです。でも、清兵衛も、お清も、丁稚たちも、六助さんたち人足も、みんなこの看板で食べているのです。ゆうべわたくしが町内に申し上げた『遠縁の娘』も、今日一日で嘘になりました。あの方々のために、その全部を賭けてよいのですか」
「賭けるとは言ってねえ」
「では、どこまでなら賭けるのです」
三右衛門は帳面を閉じた。
「わからねえ。わからねえが、店を潰してまで守るとは、俺は約束しねえ。それは、あの娘らにも言ってある」
お糸の針が、そこで初めて止まった。
「……伊勢屋様のご縁戚との話も、ございます」
「あれは、俺はもともと」
「存じております。お父様が乗り気でないことは」お糸は顔を上げた。「でも、わたくしは嫁ぎたいのです。茂原屋の娘として、恥ずかしくない家から。仲間内で信用を失った家の娘として嫁ぐのは、先方に対しても申し訳が立ちません」
三右衛門は返事をしなかった。娘の言うことの筋が通っていることを、誰よりも知っていた。
廊下の暗がりで、マックイーンはその声を聞いていた。立ち聞きのつもりはなかったが、足が動かなかった。
やがて彼女は襖を開け、きちんと膝をついた。
「お糸さん。おっしゃることは、ごもっともですわ。わたくしたちは、ここで受けたご恩を、まだ返しきれておりません。そのうえ、ご迷惑ばかり」
「マックイーンさん……」
「ですが」マックイーンは顔を上げた。「わたくしたちは、見世物の娘でも、神様のお使いでも、化け物でもございません。どこへ行くか、誰に頼るかは、自分で決めたいのです。それだけは、どうかご承知おきくださいまし」
お糸は返事に詰まった。責めたいのではない。この人たちが人であることは、毎日の飯の食べっぷりを見ていればわかる。わかるからこそ、余計に始末が悪いのだ。
「……わたくしも、考えは変えません」
「ええ。存じておりますわ」
二階の納戸に戻ると、フェノーメノが正座して待っていた。
「本官たちが、出ていけばよいのではないでしょうか」
真っすぐな声だった。
「三右衛門殿には、十分すぎるほどのご恩をいただきました。これ以上ご迷惑をかけるくらいなら、夜のうちに――」
「ならぬ」
薪の匂いをまとったまま戻ってきたオルフェーヴルが、戸口で言った。
「追われるたびに逃げ、匿われるたびにまた逃げる。それで何が変わる。行く先々で同じ噂が立つだけだ。余はもう、背を見せて走るのは御免だ」
「ですが、オルフェーヴル殿」
「それに、出ていくとして、どこへ行くのです」ジャーニーが、穏やかに口を挟んだ。「逃げた日の宿屋で、私は言われました。女ばかりでは請人が要る、在所と家を宿帳に書けと。今朝の口入れ屋は、他所者を置くなら届けが要ると言いました。清兵衛さんに伺ったら、その届けには、身元を引き受ける人の名が要るそうです。……私たちには、三右衛門様のほかに、その名がありません」
フェノーメノはうつむいた。オルフェーヴルも、それ以上は言わなかった。
皆の目が、自然とステゴに集まった。
ステゴは、昼間の田楽の串を、まだ指先でくるくると回していた。
「……アタシさ、今日、田楽屋の親父に化け物って言われた。アタシに向かって言ったわけじゃないけど」
誰も口を挟まなかった。
「前は、味噌のこと自慢してくれたのにね。でも、親父が悪いわけでもないんだよ、たぶん。茂原屋のこと心配して言ってたし」
串が止まった。
「出てくのも、居座るのも、まだ決めなくていいと思う。その前にさ、アタシらにできること、何かあるんじゃない? わかんないけど。わかんないから、明日もうちょっと見てみる」
「頼りねえ頭領だなあ」とナカヤマが笑った。
「頭領じゃないし」
ステゴは串をくわえて、ごろりと寝転んだ。
四 拍子木
翌日の昼過ぎ、惣兵衛が戻ってきた。
今度は一人ではなかった。法被を着た呼び込みの若い衆が二人、それに、日焼けした顔の俥引きが一人。かねの橋の留だった。
「さあさ、お立ち会い!」
若い衆が拍子木を打ち鳴らし、茂原屋の店先で声を張り上げた。
「かねの橋で大八車を片手で起こした怪力娘! 異国渡来か神の使いか、その正体はこの茂原屋の奥にあり! この留さんが、しかとその目で見届けた!」
「おうよ、俺あ見たぜ。こう、耳がぴんと立ってよ――」
留が身振りを始めると、たちまち人垣ができた。豆腐屋、魚屋の若い衆、湯屋帰りの女房たち、手習いをさぼった子供たち。ただ面白がる者もいれば、気味悪そうに遠巻きにする者もいる。担ぎの飴売りがさっそく荷を下ろし、人垣の端で商売を始めた。少し離れた天水桶の陰には、伊勢屋の番頭の姿も見えた。
「蓑屋さんよ、店の前でこういうのは困る」
三右衛門が出ていくと、惣兵衛は大げさに手を広げた。
「旦那、手前は何も悪いことはしちゃいねえ。往来で話をしてるだけでさ。人が集まるのは、それだけ皆が見たがってるって証拠。いっそ一度、顔を見せてやったらどうです。それで気が済む連中も多い」
「中で品をご覧になる方は、どうぞこちらへ」とお糸が暖簾を上げて客を招いたが、人垣は引くどころか、後ろから押されてじりじりと店先へ寄ってくる。洋傘を見に来た客が暖簾の前で立ち往生し、舌打ちして引き返していった。
二階の格子窓には、七人が張りついていた。
「……二度は来ねえんじゃなかったのか」
ゴールドシップが言うと、ナカヤマは格子に額をつけたまま答えた。
「外れた。あいつ、沽券より銭のほうが重い男だった」
「まずいですね」ジャーニーが低く言った。「このままでは、誰か怪我をします」
その言葉が終わらないうちだった。
人垣の向こうから、居留地の商館の荷馬車がやってきた。茂原屋の先の通りへ抜けたいのだろう、馬丁が手綱を引いて人をかき分けようとする。そこへ、若い衆の拍子木がひときわ高く鳴った。
栗毛の馬が、首を跳ね上げた。
嘶きとともに前脚が宙を掻き、人垣が悲鳴を上げて割れる。逃げ遅れた小さな女の子が、蹄の真下で尻もちをついていた。
「危ねえ!」
誰かが叫んだのと、格子窓の内側から影が二つ消えたのは、ほとんど同時だった。
台所の勝手口から路地へ、路地から表へ。ステゴは人垣の足の間を、地を這うような低さで駆け抜けた。降りてくる蹄より一瞬早く、女の子の脇に腕を差しこんで抱き上げ、そのまま転がる。手拭いの結び目は、昨日よりきつく結んだとおり、ずれもしなかった。
だが、馬はまだ暴れていた。荷台が傾き、馬丁が引きずられ、人垣がまた悲鳴を上げる。
その前に、オルフェーヴルが立っていた。
二階から駆け下りたジャーニーが、店の土間で妹の袖を掴んだのは、その少し前だった。逃げた朝、路地で帯を掴んで止めたのと同じ手つきだった。
「オル、だめ」
「姉上。あれは、余を見ていた」
オルフェーヴルは、暴れる馬から目を離さずに言った。ジャーニーの指が、一瞬だけ強く袖を握った。それから、ほどけた。
オルフェーヴルは店の表から、ゆっくりと歩いて出ていった。走らず、手を伸ばさず、蹄の届かない斜め前、五、六歩の間を空けて足を止める。馬丁が両手で手綱を手繰り、必死に馬の首を押さえていた。
「……騒ぐな」
低い声だった。命じる声ではなかった。
「お前のせいではない。余も、この騒ぎは好かぬ」
馬の耳が、一度だけ彼女のほうへ向いた。拍子木が止み、人垣が遠のいたせいかもしれない。馬丁の手綱が効いたのかもしれない。荒い鼻息が一度、二度。踏み鳴らしていた前脚が、少しずつ石の上に落ち着いていく。
馬丁が息を吐き、目で促した。オルフェーヴルは近づいて、汗に濡れた首筋にそっと手を当てた。逃げ出した日、通りで目が合ったあの馬と同じ目をしている気がした。なぜそう思うのかは、自分でもわからなかった。
一瞬の静寂。
それから、人垣が爆発した。
「あの娘が出てきたら、馬が鎮まったぞ!」
「あの下女、子供を抱えて、どこから出てきた」
「化け物だ、馬を操ってやがる!」
「いや、ありがてえ、お稲荷さんのお使いだ!」
悲鳴と歓声と念仏が入り混じり、人垣が前へ後ろへと揺れた。遠巻きにしていた者まで駆け寄ってきて、通りは完全に塞がった。善意で飛び出した二人は、今やその騒ぎの真ん中に立たされていた。
店の中では、お糸がもう動いていた。
「清兵衛、裏の木戸を開けて。丁稚は店の両脇に縄を。お客さまの通り道を一本空けます。お清、世話役さんのお宅へ。町内の方の言葉なら、聞く人がいます」
奉公人たちが弾かれたように動いた。茂原屋の前に、一筋の通り道ができる。ジャーニーは土間に立ったまま、表に出ていった妹の背中から、目を離せずにいた。
ナカヤマは人垣をすり抜けて、惣兵衛の袖を引いた。読み違えた相手なら、今度は読み直せばいい。
「よう、口入れの旦那。一ついいかい」
「なんでえ、お前さんも――」
「さっき、異人の荷馬車が暴れて子供が潰れかけた。拍子木を鳴らしたのは、あんたの若い衆だ。居留地の荷に傷でもついてみな。邏卒どころか、異人の領事まで出てくる。吉田町の小屋の鑑札、無事で済むと思うか。博打なら、ここは降りどきだぜ」
惣兵衛の顔から、笑みがすっと引いた。この男は、損得の勘定ができる。
「……おい、引き上げだ」
「えっ、親方、でも」
「いいから引け」
呼び込みが渋々拍子木をしまった。それでも人垣は散らない。見たいものを見てしまった群衆は、もっと見たがっていた。化け物、という声が、馬のそばに立つオルフェーヴルと、子供を抱いたステゴに向かって、また上がった。
二階の格子窓から、その声を聞いていたゴールドシップが、ふいに窓枠へ足をかけた。
「ゴールドシップさん!」
マックイーンの手は、帯の端にしか届かなかった。
次の瞬間、頭上から声が降ってきた。
「はーい、注目ーっ!」
茂原屋の屋根の上に、ゴールドシップが仁王立ちしていた。店の売り物の洋傘を差し、手には帳場の算盤を握っている。
「本日の怪力娘のお披露目は、これにて終了ーっ! 続きを見たいお客さんは、茂原屋でランプか洋傘をお買い上げのうえ、また明日のお越しをー! なお、化け物と言った人は値引きなし! お稲荷さんと言った人は一文引き!」
じゃらららら、と算盤を鳴らす。人垣の目が、一斉に屋根の上へ吸い寄せられた。馬のそばの二人から、離れていく。
格子窓の内側で、マックイーンは見ていた。算盤を振り回すゴールドシップの、もう片方の手が、洋傘の柄を白くなるほど握りしめているのを。港に着いた日、スターになりたいかと訊かれて、なりたくないと即答した人だった。
その下では、ステゴの腕の中で、女の子がようやく泣き出していた。ステゴは困った顔で懐を探り、ハーモニカを取り出した。掠れた音で、とぼけた節を吹く。女の子がしゃくりあげながら、きょとんと顔を上げた。
一拍おいて、人垣のあちこちから笑いが起きた。
「なんでえ、商売かよ」
「茂原屋も抜け目がねえな」
「おい、俺はお稲荷さんって言ったぜ!」
前のほうの空気が、すうっと緩んだ。だが、後ろはまだ押してくる。笑っているのは前の数列だけで、後ろの連中には何が起きているのかも見えていない。
人垣を割ったのは、町内の世話役だった。お清に袖を引かれて駆けつけた白髪の老人が、鳶の者を二人従えて声を張る。
「散れ散れ! 町内で怪我人を出す気か! 用のねえ者は帰んな!」
ほとんど同時に、通りの向こうで呼子の笛が鳴った。棒を持った邏卒の姿が見えると、人垣は今度こそ、潮が引くように崩れていった。
女の子の母親が、真っ青な顔で人をかき分けてきた。ステゴが子供を渡すと、母親は何度も頭を下げ、それから、ほんの少しだけ怯えた目で、ステゴの頭の手拭いを見た。
「ありがとう、ございました」
礼の言葉と、その目の色。ステゴは両方を、黙って受け取った。
馬丁はオルフェーヴルに一度だけ頭を下げると、礼の言葉もそこそこに、逃げるように荷馬車を出していった。邏卒は世話役から話を聞き、帳面に何かを書きつけていた。
伊勢屋の番頭が、天水桶の陰から出てきて、三右衛門の前で足を止めた。
「茂原屋さん。うちの若い者が、車力の溜まりで口を滑らせたそうで。それは詫びます」
番頭は、頭を下げた。それから、顔を上げて続けた。
「ですが、行事として申し上げる。これだけの騒ぎになった以上、明日の寄合で、仲間の皆さんに事情を話していただかねばなりません」
「承知した」
三右衛門は短く答えた。
店の陰でそれを聞いていたナカヤマは、何も言わずに頭の手拭いを引き下ろした。伊勢屋が仕掛けたと読んだのは、自分だった。今日は、二つ外した。
茂原屋に、七人の娘がいる。
それはもう、噂ではなく、町じゅうが目にした事実になっていた。
五 請書
夕暮れの茂原屋は、嵐が去ったあとのように静かだった。
七人は二階の納戸にばらばらに転がっていた。ゴールドシップは屋根から下りるときにすりむいた膝を抱えて、珍しく黙りこんでいた。マックイーンは小言の一つも言わずに、その膝に濡らした手拭いを当てていた。ナカヤマは天井を眺めていた。オルフェーヴルは壁にもたれ、馬の首に触れた掌を、黙って見つめていた。ジャーニーはその隣で、何も訊かなかった。
帳場からは、算盤の珠の音が聞こえてくる。ぱち、ぱち、と、ゆっくりと。
ステゴは階段の上から、それを見ていた。三右衛門が帳面に何かを書きつけ、また珠を弾く。ゴルシの口上につられて、今日はランプが三張り売れた。けれど、見合わせた料理茶屋の二十張りは戻らない。縄と手拭いと、鳶の者に振る舞った酒。明日の寄合で、三右衛門が仲間に下げることになる頭の数。お糸がゆうべ町内に言って回った言葉の、取り返しのつかなさ。
あの珠の一つ一つが、自分たちのしたことなのだ、とステゴは思った。悪いことをしたつもりはない。子供を助けたのは、間違いじゃない。それでも、珠は動く。
田楽屋の親父の顔が浮かんだ。あの母親の目も。
「……難しいね、ここ」
誰に言うでもなく呟くと、背中でナカヤマが「今さらかよ」と笑った。
そのとき、表の戸が叩かれた。
丁稚が出ていき、すぐに青い顔で戻ってくる。
「だ、旦那様。お役人様が」
店先に立っていたのは、黒い詰襟の洋服を着た、四十がらみの官員だった。後ろに邏卒が一人。そしてもう一人、提灯を手にした若い男が控えている。
階段の上で、フェノーメノが息を呑んだ。
港の役所で、毎朝膳に付いてくれた男だった。逃げた夜、門の前に立ち塞がり、震える提灯を両手で支えていた男だった。
「夜分に失礼いたします」
官員は土間に踏みこまず、敷居の外で帽子を取った。
「先般、港の役所にてお預かりしていた七名の方々が、こちらに身を寄せておられると伺いました。本日の騒ぎについて邏卒から届けがあり、この者が、風体に覚えがあると申しますので」
若い男は、黙って頭を下げた。
三右衛門は帳場から下りてきて、官員の前に膝をついた。
「身柄を引き渡せ、とのお達しですかい」
「今日のところは、所在を確かめに参ったまでです」
「なら、伺います。そのご用向きは、どちらのお指図で。手前は町の商人だ。預かってる者を、書付も見ずにお渡しするわけにはいかねえ」
邏卒がむっとした顔をしたが、官員はそれを手で制し、懐から一通の書付を出した。
「県の差紙です。所在の確認と、事情の聴取。それ以上のことは書いてありません」
三右衛門は書付を行灯にかざし、一字ずつ読んだ。それから、顔を上げた。
「引き渡せ、とは書いてねえな」
「書いてありません。書ける者が、まだおらぬのです」
官員は、言葉を選ぶように一拍置いた。
「正直に申し上げましょう。この方々のお預かりは、大蔵省から県を通じてのお指図でした。ところが、この方々がいかなる身分にあるのか、戸籍に載せるべき方々なのか、どの省が扱うべきかも定まらぬうちに、出奔された。そのうえ、出奔の際に、官の荷車から桐箱を一つ持ち出しておられる」
「あれは、本官たちの荷物であります!」
階段の上から、フェノーメノが叫んでいた。降りてきて、土間に膝をつく。
「持ち主として回収したのであります。盗んだのではありません。……それから」
フェノーメノは、若い男のほうへ向き直り、深く頭を下げた。
「必ずお詫びに戻ると、置き手紙に書きました。戻る前に、来ていただいてしまったであります。申し訳ありません」
若い男は、困ったように笑った。
「……戻っていただく前に、こちらから参りました」
官員は、そのやりとりを黙って見ていた。それから、三右衛門に向き直った。
「お聞きのとおりです。箱が盗みにあたるのか。そもそも、罪を犯してもおらぬ方々を、官が留め置いてよいのか。どちらも、県では判じかねます。ゆえに、今宵ここで連れ帰ることはいたしません。連れ帰れと命じる書付も、私は持っておりません」
官員は、そこで声を改めた。
「そのうえで、これはお指図ではなく、お願いです。一つ、今この場で、七名の顔を改めさせていただきたい。二つ、東京からお返事があるまで、七名を外へ出さずにおいていただきたい。三つ、三日後に、七名を伴って県庁へお越しいただき、改めて事情を伺いたい。お引き受けくださるなら、その旨をご主人の名で請書に。お断りになるなら、私どもは東京のお返事を待つほかございません。そのあいだに、この方々の行方がまた知れなくなれば、次に参るのは、私どもではないかもしれませんが」
土間が静まり返った。
断ることはできる。だが請書に名を書けば、七人の誰かが一歩でも外へ出たとき、責めを負うのは三右衛門になる。茂原屋の看板ごと。書かなければ、七人を守る手立ては、茂原屋の戸板一枚きりになる。
「お父様」
お糸が、帳場の陰から言った。止める声ではなかった。確かめる声だった。
三右衛門はしばらく黙っていた。それから、帳場から筆と紙を持ってこさせた。
「書くよ。ただし、一つ書き添えさせてもらう。お上のお指図で預かるんじゃねえ。手前の一存で預かる。あの娘らが、自分でここにいたいと言ってるうちはな」
官員は三右衛門の顔をしばらく見つめ、それから小さく頭を下げた。
「承りました。その文言のまま、上へ上げます」
七人は一人ずつ階段を下り、行灯の明かりの中で顔を改められた。オルフェーヴルは顎を上げたまま、ゴールドシップは膝に手拭いを巻いたまま、官員の顔をまっすぐ見返して。最後に、ジャーニーが官員に問うた。
「一つだけ、伺ってもよろしいですか。私たちは、罪人なのでしょうか」
「それを決めるのは、私どもではございません」
官員はそう答え、邏卒と若い男を連れて帰っていった。
茂原屋の誰も、しばらく口をきかなかった。
ステゴは、階段に腰を下ろして天井を見上げた。ここにいたい。それは確かだ。田楽屋も、算盤の音も、お糸の怒った顔も、ぜんぶ込みで。けれど、それはもう、三右衛門がうなずけば済む話ではなくなってしまった。三右衛門の名で書かれた一枚の紙が、自分たちの足に結わえつけられたのだ。
*
その夜遅く、県庁の一室で、洋灯の灯が消えずに残っていた。
官員は筆を置き、書き上げた伺い書を読み返した。
――先般当港ニ於テ御預リ中出奔ノ女七名、横浜茂原屋三右衛門方ニ寄宿罷在候。右ノ者共、身分籍貫判然不仕、出奔ノ節官ノ荷ヨリ携帯品持出ノ一件、並ニ身柄留置ノ当否、共ニ当県限リニテ取扱難ク候間、御指揮相伺申候。
宛先は、預かりを命じてきた大蔵省。
だが、官員にはわかっていた。罪を犯していない者を留め置いてよいか、官の荷を持ち出したことが罪にあたるか――この二つは、大蔵省だけで決められる筋ではない。いずれ正院に上がり、司法省の判断が求められることになる。
司法卿、江藤新平。法の筋目にことのほかやかましい人物だと、官員は噂に聞いていた。
正院には、留守の政府を預かる参議たちが詰めている。その中に、大きな体と大きな目をした薩摩の男がいることも、官員はもちろん知っていた。
書状は、翌朝の汽車に乗る。
新橋までは、陸蒸気で一時間ほどの道のりだった。