ステイゴールドは明治に流されるようです   作:藤原康政

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第6話「出頭」

 

 

一 梅雨

 

 雨は、請書を書いた翌朝から降りだした。

 

 横浜の梅雨は、空から落ちてくるというより、町じゅうに染みてくる。瓦を伝い、格子を伝い、茂原屋の二階の納戸では、障子紙までがしっとりと重くなった。

 

「――卯ノ刻、起床。辰ノ刻、朝餉。巳ノ刻より、各自持ち場」

 

 フェノーメノが、壁に貼った反古紙を読み上げていた。帳場から一枚もらい受け、ゆうべのうちに書いたものだ。いちばん上に、太い字で〈居候日課表〉とある。

 

「外へ出られぬ以上、規律が乱れれば心が乱れるのであります。各自、持ち場を確認してほしいであります」

 

「持ち場っつってもよ」

 

 ゴールドシップが、畳に腹ばいになったまま、表のいちばん下を指さした。

 

「アタシの欄、『天井裏ニ上ガラヌコト』しか書いてねえじゃん」

 

「それが持ち場であります」

 

「持ち場じゃねえ。禁止だ、それは」

 

 表の余白には、いつの間にか鯨が一頭泳いでいた。フェノーメノはしばらくそれを見つめ、消さずにおいた。

 

 部屋の隅では、オルフェーヴルが、鏡がわりの盥の水を睨んでいた。金の前髪が、雨の日の猫のように膨らんでいる。

 

「……湿気だ」

 

「船の上でも、同じことをおっしゃっていましたね」

 

 ドリームジャーニーが、後ろから櫛を当てた。黄楊の櫛ではない。今朝、お糸が「古いものですが」とだけ言って、納戸の敷居に置いていったものだ。

 

「姉上。この国の雨は、余に何の恨みがある」

 

「恨みはないと思いますよ。多いだけで」

 

 晒で腰に畳んだ尾も、蒸れてかゆい。ゴールドシップは半刻に一度、柱の角に腰をこすりつけては、メジロマックイーンに「はしたのうございます」と睨まれていた。睨むマックイーンのほうも、ときどき、誰も見ていないのを確かめてから、そっと帯の後ろに手をやっていた。

 

 三日のあいだ、七人は一歩も外へ出なかった。

 

 閉じこめられたわけではない。勝手口に閂が掛かっているわけでも、見張りが立っているわけでもない。ただ、あの夜、三右衛門が請書に名を書いた。七人の誰かが勝手口を一歩でも出れば、その一歩は、三右衛門の名の上に乗る。

 

 港の役所の掛け金より、よほど効いた。

 

 ステイゴールドは格子窓のそばに座り、雨の通りを眺めていた。懐でハーモニカを握っているが、吹かない。音を控えろと言われたわけではない。ただ、なんとなく、吹く気にならなかった。

 

 *

 

 寄合の首尾は、初日の晩に知れた。

 

 三右衛門は濡れた羽織を清兵衛に渡すと、帳場に座ったまま、しばらく煙管を咥えていた。火は入っていなかった。

 

「仲間は、うちの預かりには口を出さねえとさ」

 

 お糸が、繕い物の手を止めた。

 

「出さねえ代わりに、請けもしねえ。屋根の口上は申し合わせに障るってんで、店先の呼び売りはひと月差し止め。過料が三円」

 

「三円で済みましたか」と清兵衛。

 

「済まねえよ」三右衛門は煙管を置いた。「本町の両替屋が、為替の口を渋ってきた。相模屋の漆器も、次の納めは半分にしてくれだとさ。三円なんざ、そのおまけだ」

 

 階段の途中でそれを聞いていたのは、ナカヤマフェスタだった。両替屋。為替。字面はわかる。それが舶来屋にとってどれほどの痛手かは、まだわからなかった。

 

 二日目の朝、お糸は町内を回った。〈在所の遠縁の娘〉は取り消す、と、一軒ずつ頭を下げて回ったのだ。何と言って取り消したのかを、お糸は誰にも話さなかった。

 

 昼過ぎに、仲人が来た。

 

 奥の間で、半刻ほど。帰りしなに三右衛門へ頭を下げる仲人の声が、二階の納戸まで細く届いた。

 

「――先様も、もう少しだけ、様子を見たいと。いえ、破談などとは、決して」

 

 マックイーンは繕いかけの肌着を膝に置いたまま、針を持つ手を止めていた。誰も、何も言わなかった。

 

 *

 

 ナカヤマは、その三日の大半を、帳場の隅で過ごした。

 

 外へ出られない居候に回せる仕事は、帳面の写しと、銭の勘定くらいしかない。

 

 清兵衛が、客の置いていった金貨を小さな天秤に載せ、それから黒い石の上で軽くこすった。

 

「何してんだ、それ」

 

「確かめてるんだよ。目方と、色を」

 

 清兵衛は、石に残った金色の筋を、目を細めて見た。

 

「ご一新の頃にはね、贋の二分金がずいぶん出回ったんだ。異人の商館がそれを掴まされて、公使まで出てきて、政府と大揉めに揉めた。それ以来、居留地の旦那方は、贋金と聞いただけで人が変わる。うちが一枚でも掴まされて、知らずに払いに回してごらん。茂原屋の手形は、明日から一枚も通らなくなるよ」

 

「一枚でか」

 

「一枚で、だよ。両替屋が為替を渋るってのは、そういう匂いを嗅いだときなんだ」

 

 ナカヤマは何も言わずに、大福帳をめくった。

 

 二日目の帳面に、一行だけ、字の乱れた行があった。仲人が帰ったあとで付けた行だ。細く揃ったお糸の字が、そこだけ、筆の先がためらったように揺れていた。

 

 ナカヤマはその行を写すとき、自分の字も、少しだけ丁寧にした。

 

 *

 

「なあナカヤマ、賭けようぜ」

 

 三日目の昼、ゴールドシップが、納戸の雨漏りの下に茶碗を並べながら言った。天井の染みは、朝から三つに増えていた。

 

「次はどこから落ちてくるか。アタシは鯨の真上」

 

「鯨は壁だろ」

 

「だから当たったら大穴だ」

 

「賭けねえ」

 

 ゴールドシップは、茶碗を一つ持ったまま、しばらくナカヤマの横顔を見ていた。

 

「団子三本、まだもらってねえぞ」

 

「払うって言ったろ」

 

「言ったな」

 

 ゴールドシップは、四つ目の茶碗を置いた。ぽた、と、そこに一滴落ちた。誰も、当たったとは言わなかった。

 

 *

 

 出頭の前の晩、ジャーニーが桐箱を納戸の真ん中に置いた。

 

「明日、必ず訊かれます。中に何があるのか、私たちが先に確かめておくべきです」

 

 紐を解く。蓋を開ける。

 

 黒い板――動かなくなったスマートフォン。革の財布。それだけだった。

 

「……少なくありませんこと?」とマックイーン。

 

「ハーモニカはアタシの懐」とステゴ。

 

「ゴーグルはアタシの懐」とゴルシ。「団子屋のおっちゃんに売りそこねてから、ずっと」

 

「お上に預けたものを、勝手に持ち歩いていらしたの」

 

「預けたんじゃねえ、取られたんだ。で、取り返した。メノがそう言ってた」

 

「……言ったであります」

 

 フェノーメノが、少しだけ胸を張った。

 

 財布に手を伸ばしたのは、ナカヤマだった。

 

「アタシのだ、それ」

 

 留め金を外す。硬貨が数枚と、折り畳んだ札が二枚。逃げた日の橋の下で一度広げて、使えないとわかって戻したものだ。

 

 あのときは、ただ使えない銭だった。

 

 ナカヤマは、白っぽい硬貨を一枚、行灯の明かりにかざした。桜の模様。日本国、百円。裏に、令和五年。釣り銭で何百枚と手にしてきた、見飽きた百円玉だった。

 

 帳場で見た新しい銅貨を、ナカヤマは思い出していた。

 

「帳場の銭は『大日本』だった。こいつは『日本国』。そのうえ令和五年、百円だ。この時代にはまだねえ年号と、まだねえ値打ちの銭だ。札なんか日本銀行券だぞ。日本銀行がいつできたかは知らねえけど、明治六年の役人が見たことある札じゃねえのは確かだ」

 

 誰も、すぐには口をきかなかった。

 

「贋物じゃねえ。アタシらの国の、本物の百円だ。調べりゃ、明治の銭に似せた物じゃねえことくらい、そのうちわかる」

 

 ナカヤマは、硬貨を掌に戻した。

 

「けど、わかるまでに何が起きる。どこから来た銭だ、誰が持ちこんだ、どこの店に寄宿してた。……清兵衛さんの話じゃ、贋金の噂が立っただけで手形が止まる。本物か贋物か決まる前に、茂原屋が潰れる」

 

 ジャーニーが、眼鏡の位置を直した。

 

「……財布ごと、なかったことにはできませんか」

 

「目録があるはずであります」

 

 フェノーメノが、即座に言った。

 

「港の役所で、あの方が書き付けておられました。本官は見ております」

 

「では、財布はお持ちして、中身だけ、ここに」

 

「この家に、ですの?」

 

 マックイーンの声が、少し高くなった。

 

「もし見つかったら、三右衛門様が、出所の知れぬ銭を隠していたことになりますわ。請書に名を書いた、そのお家で」

 

 ジャーニーは、口を閉じた。

 

「なら、堀に沈める」

 

 ナカヤマが言った。

 

「燃えねえし、溶かせもしねえ。沈めりゃ、それで終わりだ」

 

「それ、捨てたら戻らないよ」

 

 ステイゴールドが、窓のそばから言った。

 

「アタシらがどこから来たか、見せられるもん、もうそれくらいしかないだろ」

 

「見せたらまずい、って話をしてんだよ」

 

「うん。わかってる」

 

 ステゴは、それ以上言わなかった。

 

「余の持ち物を、なぜ余が隠れて捨てねばならぬ」

 

 オルフェーヴルが、腕を組んだ。

 

「持っていけばよい。見せよと言われたら見せる。それで役人が騒ぐなら、騒がせておけ」

 

「言わせておけば済むのでしたら、悩みません、オル」

 

「じゃあさ」

 

 ゴールドシップが、ひょいと手を挙げた。

 

「アタシが飲む。腹ん中までは、役人も見ねえだろ」

 

「おやめなさいまし!」

 

「十円玉ならいけるって。五百円はちょっとでけえけど」

 

「大きさの問題ではございません!」

 

 笑いかけた者は、何人かいた。誰も、笑いきらなかった。

 

 六つの顔が、窓際へ向いた。

 

 ステイゴールドは、膝を抱えたまま言った。

 

「ナカヤマの財布だろ」

 

「アネゴ」

 

「アタシのハーモニカを、誰かが堀に捨てようって言ったら、アタシ怒るよ。だから、アタシも決めない。ナカヤマが決めな」

 

 ナカヤマは、掌の硬貨を長いこと見ていた。

 

「……持ってく。箱ごと。中身も、そのまま」

 

 フェノーメノが、肩で小さく息をついた。

 

 *

 

 その夜更け、ナカヤマは行灯の芯を細く絞って、ひとりで起きていた。

 

 桐箱の紐を、音を立てずに解く。財布から硬貨と札を抜き、手拭いにくるんで、帯の下の腹に巻きつけた。財布は、元のとおりに箱へ戻した。

 

 この家に残せば、三右衛門が被る。堀に沈めれば、ステゴの言う「どこから来たか」が消える。役人の机に出せば、七人が被る。

 

 アタシの腹の上なら、しくじっても、アタシひとりだ。

 

 訊かれなければ、それでいい。訊かれたら、そのときは――

 

 賭けねえ、と言ったのは、自分だった。

 

 ナカヤマは紐を結び直し、布団に潜りこんだ。手拭いの中で、硬貨が一度だけ、小さく鳴った。

 

 

 

二 馬場先門

 

 出頭の前の日、同じ雨は、東京にも降っていた。

 

 五月の火事で皇城が焼けてから、天子は赤坂の離宮に移り、太政官は馬場先門内の古い庁舎を仮の役所にしている。急ごしらえの廊下にはところどころ桶が置かれ、雨漏りの音が、ぽつ、ぽつ、と鳴っていた。

 

 その廊下を、書類の束を抱えた史官が二人、早足に駆けていった。朝鮮の釜山から届いた報せで、正院は朝から揉めている。

 

「江藤さん」

 

 呼び止めたのは、三十半ばの、目鼻立ちの大きな男だった。参議、大隈重信。井上馨が大蔵省を去ってからは、その事務も預かっている。

 

「ちょっと、よかですか。神奈川から伺いが来とる。宛ては大蔵省ですばってん、大蔵省の手には余ります」

 

 江藤新平は足を止めた。痩せた頬に、雨の日でも乾いた目をしている。この春まで司法卿を務め、今は参議として正院に列している。

 

「私も、似たものを一通持っとる。司法省の者が、昔の癖で私のところへ持ち込んできた」

 

 同じ佐賀の出の二人は、桶をよけて窓際に寄った。

 

 江藤は伺い書を受け取ると、立ったまま、一度で読み下した。

 

「……罪なき者を留め置く当否。官の荷より携帯品持ち出しの一件。これを大蔵省に伺うて、どがんすっとか」

 

「預かれと命じたのが大蔵省ですけん。大久保卿の名で」

 

「その大久保卿は」

 

「参議ではなかけん、正院の議には出られん。帰ってからは、省にもほとんど顔ば見せられん。留守中のこちらのやり方が、よほど気に入らんらしか」

 

 江藤は、それには何も言わなかった。司法省の予算をめぐって井上と激しく争ったのは、江藤自身だった。

 

「留め置く法は、なか」

 

 伺い書を、指で弾く。

 

「罪を犯しとらん者を、官が留め置く筋はない。持ち出したのが自分の荷なら、盗みでもない。県には、そう返せばよか」

 

「そう返せば、どがんなりますか」

 

 大隈は、窓の外の雨を見た。

 

「戸籍もなか、在所もなか、耳と尾のある娘が七人。それを、横浜の往来に放すとですか」

 

「放せとは言うとらん。ただ、寄留届で済む話でもなか」

 

 江藤は、伺い書の〈寄留罷在〉の四字を指した。

 

「寄留は、本籍のある者が他所に住むときの届けだ。本籍のなか者には、寄留の元がない。新たに籍を立てるなら、どこの何者かを書かねばならん。それが書けん」

 

「では、どうします」

 

「それを決めるのが正院だ。県にも、商人にも決めさせることではない」

 

 大隈は、反論しなかった。代わりに、伺い書に添えられた紙を一枚、抜き出した。港の役所で作られた、携帯品の目録の写しだった。

 

「それより、私はこっちが気になる」

 

 太い指が、一行をなぞる。

 

 ――一 革紙入 壱 内ニ銭ト覚シキ物大小数枚、紙幣ト覚シキ物数葉 未改。

 

「未改。誰も中身を見とらん」

 

「あんたは、銭のことばっかりやな」

 

「銭のことで英国公使に怒鳴られたとは、私ですけん」

 

 大隈は、苦い顔で笑った。ご一新の直後、贋の二分金をめぐって、居留地の公使たちが政府に詰め寄った。その矢面に立ったのが、まだ三十を出たばかりのこの男だった。

 

「横浜で、正体の知れん者の財布です。中に何の銭が入っとるか、確かめずに済ませる気にはなれん」

 

 江藤は、しばらく目録を眺めていた。

 

「よか。県へ電信を打たせる。目録と照らし合わせて、中身を一つ残らず改めさせろ。ただし」

 

 江藤は、伺い書の余白を指で叩いた。

 

「口書は、本人の申すまま取らせること。県の推量で書き足すな。何を言うて、何をしたか。それだけでよか」

 

「承知しました」

 

 大隈は紙を揃えた。それから、廊下の奥へ目をやった。

 

「正院に上げますか」

 

「今日は朝鮮の議で手一杯だ。西郷さんは寝床の中だ」

 

 江藤は、伺い書を畳んで懐に入れた。

 

「書面だけでは決められん。一度、本人を見る」

 

「横浜へ、ですか。参議が自ら」

 

「汽車なら一時間だ。明日の出頭に合わせて行く。電信の末尾に、そう書き足しておけ」

 

 大隈は何か言いかけて、やめた。この同郷の男が一度言い出したら、止める言葉がないのを知っていた。

 

 廊下の桶に、雨漏りがひとつ落ちた。

 

 

 

三 目録

 

 出頭の朝も、雨だった。

 

「見世物の次は、お白洲かね」

 

 辰五郎が、苫舟の艫で煙管を咥えたまま言った。

 

 県庁までは、通りを歩けば四半刻もかからない。だが、外へ出さぬと請けた七人を、雨の往来に七つ並べて歩かせるわけにはいかない。三右衛門が思いついたのが、野毛の河岸の老船頭だった。苫で屋根を葺いた荷舟なら、中に何が積まれていても、外からは見えない。

 

 見えないのは、外からだけだった。

 

「ゴールドシップさん、合羽の雫がわたくしの襟に」

 

「しょうがねえだろ、狭えんだから」

 

「本官の尾を踏んでいる者がいるであります」

 

「余ではない」

 

「オル、それ、私の尾です」

 

「……姉上のであったか」

 

 七人は苫の下で膝を抱え、ぎゅうぎゅうに詰まっていた。晒で畳んだ尾が七本ぶん、互いの腰に当たっている。いちばん奥のステイゴールドは、苫の隙間から流れていく堀の水を眺めていた。

 

 三右衛門は舳先に座り、油紙でくるんだ桐箱を膝に抱えていた。羽織は、いちばんいいものを着てきていた。

 

「茂原屋の旦那よ」

 

 辰五郎が、櫓を漕ぎながら言った。

 

「手間賃は倍だ。それと、帰りもわしの舟で頼むぞ」

 

「帰りもある、と思ってくれるのかい」

 

「行きだけの荷は、積まんことにしとる」

 

 三右衛門は、少しだけ笑った。

 

 *

 

 通されたのは、洋風の建物の奥の、窓に硝子の入った小さな一室だった。

 

 長机の向こうに、あの晩の官員が座っていた。机の上に名札が置いてある。〈権大属 野々村〉。隣に書役がひとり。壁際に、綴じた帳面を手にした若い男が控えていた。

 

 フェノーメノが、背筋を伸ばした。若い男も、わずかに顎を引いた。それだけだった。詫びは、あの晩に済ませてある。

 

「茂原屋三右衛門、ならびに同家寄宿の者七名」

 

 野々村が、帳面から顔を上げた。

 

「先に申しておく。今朝、大蔵省より電信があった。携帯の品は、目録と照らし合わせて一つ残らず改めよ、とのことだ。それから、口書は本人の申すまま取れ、とも。……昼前には、参議の江藤殿がお見えになる」

 

 野々村は、書役の筆を目で示した。

 

「ここに書くのは、あなた方が言ったことと、したことだけだ。こちらの推量は書かない。……その代わり、言ったことは、そのまま東京へ行く」

 

 三右衛門が、桐箱を机に置いた。油紙を開き、紐を解く。

 

「坂口。読み上げろ」

 

 若い男――坂口というのが、その名らしかった――が、帳面を開いた。

 

「一。黒キ板、硝子張リ、壱面」

 

 書役が箱からスマートフォンを取り出し、印をつけた。

 

「一。眼鏡様ノ物、革紐付キ、壱」

 

 箱の中には、なかった。

 

 野々村が顔を上げる前に、ゴールドシップが懐からゴーグルを出して、机に置いた。

 

「はい。アタシが持ってた」

 

「……なぜ懐に」

 

「団子と換えようとして、断られて、そのまま」

 

 書役の筆が、一瞬止まった。野々村は何も言わずに頷いた。書役が〈本人懐中ニ在リ〉と書き添える。

 

「一。ハアモニカ、西洋ノ笛、壱」

 

 ステイゴールドが、黙って懐から出した。

 

 野々村は、ゴーグルとハーモニカを並べて眺め、それから、七人の懐のあたりを順に見た。

 

「……ほかに、懐中の物は」

 

 七人は顔を見合わせ、それぞれ懐を探った。フェノーメノが手拭いを出し、マックイーンが懐紙を出した。ゴールドシップが、紙に包んだ何かを出した。

 

「それは」

 

「沢庵。非常食」

 

「ゴールドシップさん!」

 

 書役が、こらえきれずに肩を震わせた。壁際の坂口が、咳払いで口元を隠した。部屋の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 ナカヤマだけが、懐を探らなかった。

 

「一」

 

 坂口が、次の行を読んだ。

 

「革紙入、壱。内ニ銭ト覚シキ物大小数枚、紙幣ト覚シキ物数葉。未改」

 

 書役が、箱から財布を出した。留め金を外し、逆さにする。

 

 何も、落ちてこなかった。

 

 野々村の目が、財布から七人へ移った。

 

「中身は」

 

 誰も答えなかった。ジャーニーの指が、膝の上でかすかに動いた。フェノーメノが、桐箱を見て、それからナカヤマを見た。

 

「最初から空だったんじゃねえの」

 

 ナカヤマが、気のない声で言った。

 

「目録なんて、暗いとこで書いたんだろ」

 

 坂口が、顔を上げた。

 

 空の財布を見て、ナカヤマを見て、それから、フェノーメノを見た。ほんの一瞬だった。

 

「……目録を書いたのは、私です」

 

 坂口は、野々村に向き直った。

 

「あの夜は、灯りが一つきりでございました。銭と見えたのは、私の見誤りかもしれませぬ」

 

「坂口」

 

 野々村の声が、低くなった。

 

「お前の目録だぞ」

 

「はい。見誤りであれば、私の落ち度です」

 

 坂口は、それきり口を閉じた。

 

 この人は、預かり人を逃がした落ち度を、もう一つ背負っている。そこへ、目録の誤りがもう一つ。

 

 フェノーメノの膝の上で、拳が固くなった。

 

 昨夜、行灯の下で、自分はこの目で見た。白い硬貨を。日本国、という字を。

 

 黙っていれば、済む。坂口がそう言ってくれている。ナカヤマも、黙っている。黙っていれば、坂口の帳面に、一行が増えるだけで――

 

「……違うであります」

 

 声は、思ったより掠れていた。

 

「昨夜、本官は、その紙入に銭が入っているのを、この目で見たであります。目録は、誤っていないであります」

 

 坂口が、目を閉じた。

 

 ナカヤマが、天井を仰いだ。

 

「メノ……」

 

「坂口殿に、二度も本官たちの落ち度を被せるわけにはいかないのであります」

 

 フェノーメノは、ナカヤマを見なかった。見られなかった。

 

 野々村は、しばらく黙っていた。

 

「では、銭は今、どこにある」

 

 答えはなかった。

 

「茂原屋」

 

「存じません」

 

 三右衛門の返事は、短かった。本当に知らなかった。

 

 野々村は、書役に目をやった。

 

「女改めの者を呼べ。一人ずつ、別の間で――」

 

「いらねえよ」

 

 ナカヤマが立ち上がった。

 

 帯の下に手を入れ、手拭いの包みを引き抜く。机の上に置いて、結び目を解いた。白い硬貨、赤茶けた硬貨、色の二つある大きな硬貨。それに、折り畳んだ札が二枚。

 

「アタシが抜いた。ゆうべ、ひとりで。こいつらは知らねえ」

 

「私が、隠すように言い出したのです」

 

 ジャーニーが、すぐに続けた。

 

「ナカヤマさんは、私の言ったことに――」

 

「言い出したのはアンタでも、抜いたのはアタシだ」

 

 ナカヤマは、ジャーニーのほうを向きもしなかった。

 

「アンタの言うことなんざ、聞いてねえ。アタシの財布だ」

 

 ジャーニーは、口をつぐんだ。その横で、オルフェーヴルが、姉の横顔をじっと見ていた。

 

 *

 

 書役が、硬貨を一枚、震える指でつまみ上げた。

 

「……日本国」

 

 読み上げる声が、裏返った。

 

「百、円」

 

 野々村の手が止まった。

 

「裏は」

 

「百、と、洋数字で。それから……令和、五年」

 

「令和」

 

 野々村は、硬貨を受け取った。掌に載せて重さを確かめ、縁の細かな刻みを爪でなぞる。それから机の引き出しを開け、一枚の銀貨を取り出して、並べた。大阪の造幣寮で打たれた、一円銀貨だった。

 

「この国でいちばん大きな銭は、二十円の金貨だ」

 

 誰に言うでもなく、野々村は言った。

 

「百円の銭など、どこにもない。令和という年号もない」

 

 大きな硬貨を、手に取る。外側と内側で色の違う金が、一枚に嵌めこまれている。

 

「……五百円」

 

「あ、それ全然大したことねえぞ」

 

 ゴールドシップが、身を乗り出した。

 

「百円なんか、駄菓子十個ぶんくらいだ。五百円でも、昼飯一回分あるかないかだし」

 

 部屋が、静まり返った。

 

 マックイーンの肘が、ゴールドシップの脇腹に入った。遅かった。

 

「……菓子十個で、百円」

 

 野々村は、ゆっくりと繰り返した。書役の筆が、迷うように紙の上で止まり、それから、言われたとおりに動いた。本人の申すまま。

 

 野々村は、札を広げた。口髭の男の肖像。細かな模様。横文字が一行。

 

「これは、何と読む」

 

 書役が首を振った。野々村も、横文字は数字しか読めないらしかった。

 

「ニッポン、ギンコウ、と書いてありますわ」

 

 マックイーンが、ほとんど反射的に答えていた。茂原屋の勝手口で、葡萄酒の木箱の焼き印を読んだときと、同じ調子で。

 

 言ってから、自分の口を押さえた。

 

「日本銀行」

 

 野々村が、繰り返した。

 

「……聞かぬ名だ。そのような名の銀行は、ない」

 

 書役の筆が動いた。〈日本銀行ナル者〉。

 

 マックイーンは、膝の上で両手を固く組んだ。ゴールドシップは、今度は自分の脇腹をさすりもせず、黙ってマックイーンを見ていた。

 

 野々村は、一円銀貨と百円玉を、もう一度並べた。窓の光にかざし、指で弾く。澄んではいるが、銀の音ではなかった。

 

「……贋金を疑って改めたが」

 

 ぽつりと言った。

 

「贋金というのは、通用している銭に似せて作るものだ。これは、この国のどの銭にも似せていない。額も、年号も、刻みも違う。しかも、造幣寮の打ったものより細かい」

 

 野々村は、硬貨を札の上に戻した。

 

「少なくとも、今の銭を写した贋金には見えない。だが、日本国と刻んでありながら、我が政府の銭でもない。出所の知れぬ、銭様の品だ」

 

「私の手には、余る」

 

 それは、投げ出す声ではなかった。持てるだけのものを持ち、持てないものを持てないと言う、帳面の人間の声だった。

 

 廊下で、靴音がした。

 

 戸が開いた。洋装の、痩せた男だった。濡れた外套も脱がずに、部屋を一渡り見る。机の上の硬貨と札、空の財布、沢庵。それから、七人の顔。

 

「参議の江藤だ。続けてよか」

 

 立ち上がりかけた野々村を手で制し、江藤は机の端に寄った。書いたばかりの口書を、立ったまま読み下す。

 

「……誰だ」とゴールドシップが、マックイーンの袖を引いた。

 

「存じませんわ」

 

「偉そう」

 

「お静かに」

 

 読み終えると、江藤は七人のほうを向いた。耳と尾に一度だけ目をやったが、それについては訊かなかった。

 

「三つだけ訊く。茂原屋におるのは、自分たちの意思か」

 

 七人が顔を見合わせた。フェノーメノが、背筋を伸ばした。

 

「本官たちの意思であります。三右衛門殿は、置いてくださっているだけであります」

 

「銭を隠したのは、なぜだ」

 

「アタシが隠した」

 

 ナカヤマが言った。

 

「贋金だと思ったからじゃねえ。本物だって、アタシらは知ってる。ただ、調べが茂原屋に行く。それを被せたくなかった」

 

 江藤は、表情を変えなかった。

 

「最後だ。元の所へ、帰りたいか」

 

 答えたのは、ステイゴールドだった。

 

「帰りたいよ。帰り方がわかればね」

 

 少し考えて、付け足した。

 

「でも、今ここにいるのも、アタシらが自分で決めてる。誰かに置かれてるんじゃない」

 

 江藤は、しばらくステゴを見ていた。

 

「お前たちの話は、正直に言うて、半分も信じられん」

 

 オルフェーヴルの耳が、ぴくりと動いた。

 

「信じよと頼んだ覚えはない」

 

「頼まれんでよか。ばってん、話が信じられんことと、罪があることは別だ」

 

 江藤は、野々村に向き直った。

 

「この者らが、自分の意思で茂原屋におること。それも口書に入れろ。銭は、持っとっただけで罪にするな。使うた形跡もなか」

 

「は」

 

「処遇は、正院で決める。それまでの手当ては、県の責任でやれ」

 

 それだけ言うと、江藤は外套の雨も払わずに出ていった。帰りの汽車の刻限があるらしかった。靴音が遠ざかるまで、誰も口をきかなかった。

 

 *

 

「申し渡す」

 

 野々村は、姿勢を正した。

 

「一つ。銭と札は、口書を添えて、明朝の汽車で大蔵省へ送る。桐箱と黒キ板と紙入は、封をして県で預かる。黒キ板は、先に大久保卿がご覧になった品だ。東京の沙汰があるまで、誰の手にも触れさせない」

 

 ステイゴールドの手が、机の上のハーモニカへ伸びかけて、止まった。

 

 野々村は、それを見ていた。

 

「……笛と眼鏡様の物は、銭の儀とは関わりない。目録の品ではあるが、本人預かりとする」

 

 ステゴは、ハーモニカを懐に戻した。

 

「ありがと」

 

 野々村は、返事をしなかった。

 

「二つ。外出は、これまでどおり差し止め。三つ」

 

 野々村は、三右衛門を見た。

 

「茂原屋。あなたの請書は、まだ生きている。だが、あなたの目の届かぬところで、証の品が人の懐に移った。あなたは知らなかったと言う。私もそれを疑わない。疑わないからこそ申し上げる。あなたの請けは、紙の上では立っていても、実が立っていない」

 

「それでも、手前の屋根の下で起きたことでございます」

 

 しばらくして、三右衛門は言った。

 

「手前の、不行き届きでございます」

 

「そう書いておく」

 

 野々村は、書役に頷いてから、声を落とした。

 

「これは申し渡しではない。……大蔵省は、この銭がどこから出たかを、必ず問うてくる。舶来の銭を扱う店に寄宿していた者の財布だ。帳面を見せろとは、県の口からは言えない。だが、茂原屋が自ら帳面を差し出し、銭の出入りに覚えがないと明らかにしておけば、伺いにそう書き添えられる」

 

 三右衛門は、しばらく黙っていた。

 

「……差し出しましょう」

 

 清兵衛がここにいたら、算盤を落としただろう、と、ステゴは思った。

 

「戸長への届けも、あの晩は私が預かると申したが、もう預かれない。それから、最後に」

 

 野々村は、紙を一枚引き寄せた。その手が、一度止まった。

 

「これは罪を問う話ではない。ただ、出所の知れぬ品を持ち、それを官の目から隠そうとした者がいる。その七名を、商人ひとりの請けで町に置いたとは、県は東京に書けない。五日のうちに、請書に連印を添えてほしい。町内の戸長か、身元の確かな者を二名以上。揃わなければ、東京の沙汰が下りるまで、七名は県で預かる。港の役所のときと、同じ形で」

 

「同じ、形」

 

 ジャーニーが、小さく繰り返した。港の役所。障子の外の、掛け金の音。

 

 野々村は、ジャーニーから目を逸らさなかった。

 

「罪を犯していない者を、県が留め置いてよいという定めを、私は知らない。知らないまま、預かると申している。……それも、私の名で伺いに書く。誤りなら、誤ったのは私だ」

 

「それでよい」

 

 オルフェーヴルが言った。

 

 全員が、そちらを見た。

 

「余は、県の預かりで構わぬ」

 

 オルフェーヴルは、野々村をまっすぐ見ていた。睨んではいなかった。

 

「商人の情けにすがって、その家の帳面まで差し出させるよりは、官の牢のほうが筋が見える。余は、そう思う」

 

「オル」

 

 ジャーニーが、名を呼んだ。手は、伸ばさなかった。

 

「姉上が決めることではない」

 

 オルフェーヴルは、姉のほうを見ずに言った。

 

「お待ちを」

 

 三右衛門が、膝を進めた。

 

「連印は、手前が揃えます。五日のうちに」

 

 野々村は、三右衛門と、オルフェーヴルを、順に見た。

 

「……承った。五日だ」

 

 それから、ほんの少しだけ、表情を緩めた。

 

「申し添えておく。あなた方が自分で銭を机に出したこと。それから、そちらの方が、目録は誤っていないと言ったこと。それも、そのまま書いておく。本人の申すまま、だからな」

 

 *

 

 部屋を出るとき、フェノーメノは、戸口の脇に立つ坂口の前で足を止めた。

 

「お名前を、まだ伺っていなかったであります」

 

 坂口は、少し驚いた顔をした。

 

「……坂口と申します」

 

「坂口殿」

 

 フェノーメノは、頭を下げなかった。下げる理由を、もう探さなかった。

 

「本官が、せっかくの見誤りを台無しにしたであります」

 

「台無しにしていただいて、よかったのかもしれません」

 

 坂口は、困ったように笑った。

 

「あなたは、本当に、お人が悪い」

 

 港の役所の門の前で、同じことを言われた気がした。

 

 *

 

 帰りの苫舟は、来たときより広く感じた。誰も、押し合わなかったからだ。

 

「筋の通ったお役人でありました」

 

 フェノーメノが、ぽつりと言った。

 

「味方ってわけじゃねえよ」とナカヤマ。「ありゃ、法の筋を守りてえ人だ。アタシらのためじゃねえ」

 

「官は官だ」

 

 オルフェーヴルは、苫の隙間を見たまま言った。

 

「信じられんって、顔見て言う人、あんまりいないよね」

 

 ステゴがそう言うと、誰も返事をしなかった。

 

 ナカヤマは艫のほう、辰五郎の足元に、ひとりで膝を抱えていた。

 

 ゴールドシップが、ほかの六人の膝をまたいで、その隣に座った。何も言わずに、肩をくっつけた。

 

「……団子、三本な」

 

「払うって言ったろ」

 

「利子つくぞ」

 

「勝手につけてろ」

 

 苫を叩く雨の音が、少しだけ弱くなっていた。

 

 

 

四 連印

 

 その晩、三右衛門は、傘を差して伊勢屋へ出かけていった。

 

「わたくしが、ご一緒に」

 

 お糸が、上がり框で言った。

 

「お前が行ってどうする。向こうは、お前の縁談の先だぞ」

 

「だからです」

 

「だから、行かせねえんだ」

 

 三右衛門は、それ以上何も言わせず、雨の中へ出ていった。

 

 帰ってきたのは、夜更けだった。誰にも何も言わず、帳場に灯をつけて、清兵衛と二人、明け方まで帳面をめくっていた。県へ差し出す前に、と清兵衛が言うのが、二階まで聞こえた。

 

 翌日の昼過ぎ、伊勢屋のほうから来た。

 

 *

 

 伊勢屋徳右衛門は、五十を少し過ぎた、背の低い男だった。仕立てのいい紬に、洋物の蝙蝠傘。それを丁稚に預けながら、店先を一渡り見回した。呼び売りの止まった、静かな店先だった。

 

「ずいぶん、風通しがよくなったね」

 

「おかげさまで」

 

 三右衛門は、奥座敷に通した。

 

 *

 

「マックちゃんも来いよ。上から、ぜんぶ聞こえるぞ」

 

 隣の間の押入れの天袋から、ゴールドシップが顔だけ出して手招きした。天井板は、居候の初日に外されて以来、三右衛門が釘を打ち直すのを忘れている。

 

「参りません」

 

 マックイーンは、納戸の真ん中に正座したまま言った。

 

「立ち聞きは、もういたしません。お糸さんにも、そう申し上げましたもの」

 

「申し上げてねえだろ」

 

「心の中で申し上げましたわ」

 

 ナカヤマは、もう梁の上にいた。ゴールドシップのあとに続いて、音を立てずに奥座敷の真上まで這っていく。

 

「余が天井を這うと思うか」

 

 オルフェーヴルは、腕を組んで壁にもたれた。

 

「本官は、見張りであります」

 

 フェノーメノは、押入れの前に直立していた。

 

「上がってはいないので、規律違反ではないであります」

 

「それ、半分共犯ですよ、メノさん」

 

 ジャーニーが小声で言った。ステイゴールドは、押入れの襖に背を預けて座り、天袋の穴を見上げていた。

 

 *

 

 天井板の節穴から、座敷が見えた。

 

 伊勢屋は、出された茶に口をつけてから、湯呑みを置いた。

 

「単刀直入にいきますよ、茂原屋さん。ゆうべのお話。連印の件」

 

「ああ」

 

「押しましょう。うちと、相模屋と、丸八。それに町内の戸長さんにも、手前から頼んでみます」

 

 三右衛門は、すぐには礼を言わなかった。商人が先に好い話を出すときは、後ろに勘定書きが付いている。

 

「条件は」

 

「三つ」

 

 伊勢屋は、指を折った。

 

「一つ。あの娘さんたちを、茂原屋さん一軒には置かない。仲間の家々に分けて預かる。うちで二人、相模屋さんの本町の店で一人、丸八さんの旦那寺が野毛山にあるから、そこで一人か二人。残りは茂原屋さん」

 

「分けてどうなる」

 

「請けが分かれる」

 

 伊勢屋は、当たり前のことを言う顔をした。

 

「七人を一つ屋根に置いて、その中の一人がしくじれば、請けた者は七人ぶんの責めを負う。昨日のあんたがそうだ。誰が七人ぶんの判を押しますか。手前は押しませんよ。一人二人なら押す。その家の者が、その家にいる娘の面倒だけ見る。しくじっても、しくじりは分かれる。……仲間ってのは、そういうふうにしか請けられないんです」

 

 天井裏で、ナカヤマが息を止めた。

 

「それに、うちの蔵は、荷役の手がいくらあっても足りない。あの娘さんたちの力は、かねの橋で町じゅうが見てる。遊ばせておく手はない」

 

「そっちが本音かい」

 

「本音の一つですよ」

 

 伊勢屋は、指をもう一本折った。

 

「二つ。英国商館の陶器の口。今季の分は、うちに回してもらいたい」

 

 三右衛門の煙管が、盆に当たって鳴った。

 

「詫び料のつもりかい」

 

「仲間への、です。屋根の口上で申し合わせを破った。それから、銭の噂。……茂原屋さん、県の書役の口に戸は立ちませんよ。居留地で『横浜の舶来屋が妙な銭を』と一言でも出てごらんなさい。贋金かどうかなんて、誰も確かめやしない。止まるのは、あんたの手形だけじゃない。うちのも、相模屋のも、丸八のも、ぜんぶです。仲間で被る泥なら、仲間で分けてもらう」

 

「その泥代が、商館の口か」

 

「そうです」

 

 伊勢屋は、悪びれなかった。

 

「あんたが手前の立場でも、同じことを言いますよ」

 

 三右衛門は、しばらく黙っていた。それから、低く笑った。

 

「言うだろうな」

 

「でしょう」

 

「半分だ」

 

「茂原屋さん」

 

「今季の陶器、半分。残り半分は、うちの名で、あんたの雇った車で運ぶ。手間賃はそっちに落ちる。それでどうだ」

 

 伊勢屋は湯呑みを持ち上げ、口をつけずに戻した。

 

「……相変わらずだね、あんたは」

 

「三つ目は」

 

 伊勢屋は、少しだけ声を落とした。

 

「三つ目は、条件じゃありません。お耳に入れておくだけで」

 

 廊下の気配を、ちらりと窺う。

 

「手前の甥の家の話です。先方は、片がつけば話を進めたいと申しております。片がつかなければ……まあ、片がつかないうちは、何とも」

 

 三右衛門の顔から、笑みが消えた。

 

「娘の縁談を、天秤に載せる気か」

 

「載せたのは手前じゃありませんよ。世間です」

 

 伊勢屋は、静かに言った。

 

「手前は、お糸さんのような人が甥のところへ来てくれれば、ありがたいと本気で思っている。だから、片をつけたいんです」

 

 そのとき、天井の梁が、ぎし、と鳴った。

 

 伊勢屋が、天井を見上げた。

 

「……鼠でございます」

 

 三右衛門は、眉一つ動かさずに言った。

 

「近ごろ、大きいのが二匹ほど」

 

「ずいぶん重たそうな鼠で」

 

 伊勢屋はそれ以上何も言わず、茶を飲み干した。

 

「返事は、明後日までに。県の五日には、それで間に合う」

 

 *

 

 天袋から降りてきたゴールドシップとナカヤマを、五人が囲んだ。

 

 ゴールドシップが、聞いたことを順に話した。三つの条件。蔵の荷役。英国商館。甥の家。話し終えると、珍しく、自分から口を閉じた。

 

「……分けて、請ける」

 

 ジャーニーが、小さく繰り返した。

 

「理屈は、通っているであります」

 

 フェノーメノが言った。誰も、それを打ち消さなかった。

 

「余らの置き所が、商館の陶器の口と引き換えか」

 

 オルフェーヴルの声は、低かった。

 

「余は、皿か」

 

「皿の値段の話じゃねえよ」

 

 ナカヤマが、梁の埃を払いながら言った。

 

「伊勢屋は、自分の手形と仲間の手形を守りたい。蔵の手が欲しい。商館の口が欲しい。甥の縁談をまとめたい。ぜんぶ本気だ。……前にアタシが読んだみてえな、悪い奴じゃねえ。悪い奴じゃねえから、断りにくい」

 

 ステイゴールドは、何も言わずに天袋の穴を見上げていた。

 

 *

 

 その夜、お糸は台所で、明日の米を研いでいた。

 

 マックイーンは、しばらく土間の入口に立っていた。それから、立ち聞きではないことを示すように、わざと足音を立てて入っていった。

 

「お手伝いいたしますわ」

 

「結構です。……いえ」

 

 お糸は、研ぎ汁を捨てながら言い直した。

 

「水を汲んでいただけますか」

 

 マックイーンは、黙って桶を取った。

 

 しばらく、水の音だけがしていた。

 

「伊勢屋様のお話」

 

 お糸が言った。

 

「わたくしは、お受けすべきだと思っております。この家のためにも。あなた方のためにも」

 

「わたくしたちの、ため」

 

「一つ屋根に七人。それでは、誰も請けられません。伊勢屋様のおっしゃるとおりです。分ければ、請ける方がいる。請ける方がいれば、あなた方は県の牢に入らずに済む」

 

 お糸は、米を研ぐ手を止めなかった。

 

「……それに、わたくしの縁談も、進みます。隠すつもりはございません」

 

 マックイーンは、桶を置いた。

 

「お糸さん。一つ、伺ってもよろしいかしら」

 

「どうぞ」

 

「その方を、好いていらっしゃいますの」

 

 お糸の手が、止まった。

 

「……好いているかどうかを、まずお訊きになるのですね。あなたは」

 

 マックイーンの頬が、熱くなった。

 

「失礼いたしましたわ」

 

「いいえ」

 

 お糸は、研ぎ終えた米を釜に移した。

 

「お会いしたのは、二度です。一度目は、帳面の字を褒めてくださいました。二度目は、わたくしの話を、最後まで黙って聞いてくださいました。……それで、十分だと思っております。おかしいですか」

 

「いいえ」

 

 マックイーンは、首を振った。

 

「少しも」

 

 お糸は釜の蓋を閉めた。それから、マックイーンのほうを見ないまま言った。

 

「あなた方のどなたが、どこへ行かれるのか。わたくしは、口を出しません。でも、どなたかが残られるのなら」

 

 少しだけ、間があった。

 

「……この家の台所の勝手が、わかっていらっしゃる方がいいです」

 

 マックイーンは、何と答えていいかわからず、もう一度桶を取った。水は、もう十分に汲んであった。

 

 

 

五 病床

 

 翌日、東京。

 

 西郷隆盛は、屋敷の奥の間に、布団を敷いて横になっていた。大きな体が、一回り縮んで見えた。枕元に、薬の包みが積んである。

 

「ホフマン先生の下し薬じゃ。腹ん中まで、文明開化じゃ」

 

 江藤と大隈が座ると、西郷は天井を見たまま言った。

 

「見てきました」

 

 江藤は、前置きをしなかった。

 

「少なくとも、罪人として扱う筋ではなか。本人らの意思で茂原屋におる。……話は半分も信じられんが、七人で口裏を合わせとるようにも見えませんでした」

 

 西郷は、黙って頷いた。

 

「それと、沢庵を非常食と申す者がおりました」

 

 西郷が、腹を押さえて笑った。笑うと痛むらしく、すぐにやめた。

 

「百円の銭は、駄菓子十個ぶんだそうです」

 

「……そがんことが本当なら、その国の銭は、紙屑同然です」

 

 大隈は、心底いやそうな顔をした。それから、朝の汽車で届いた包みを開き、札を一枚、行灯にかざした。肖像の横の白い余白に、同じ男の顔が、ぼんやりと浮かんだ。

 

「県の野々村が書いとるとおりです。この国のどの銭にも似せとらん。贋金ではなかです。……ただ、こがん細工の銭を、日本国の名で打てる者が、どこかにおる。それがわからんうちに町に置けば、外国の公使が先に嗅ぎつけるかもしれません」

 

「どちらも、筋が通っちょる」

 

 西郷は、包みに添えられた口書を、半身を起こして受け取った。

 

「じゃっどん、娘らが何者かは、江藤どんが見てきても、わからん。……こん娘らを最初に拾うたのは、一蔵どんじゃ。その一蔵どんは帰ってきて、留守のおいたちのやり方が気に食わんで、省にも出てこん。おいたちは留守番じゃ。留守番の約束は、もう何遍も破っちょる。こいまで、一蔵どんに黙って捌くわけにはいかん」

 

「では、県の留め置きは」と江藤。「県の責任でやれと言うたのは私です。ばってん、留め置けとは言うとらん」

 

「止めん」

 

「根拠のなか処分を、正院が黙って認めることになります」

 

「認めるとは言わん。止めんと言うちょる」

 

 西郷は、口書の最後の紙をめくった。茂原屋三右衛門の名が、手前ノ不行届ニ御座候、という一行と並んでいた。

 

「止めれば、県は娘らを町に置くしかなか。また騒ぎになれば、責めは野々村とこん商人に行く。……一蔵どんの返事が来るまで、こん商人が背負う。背負わせるのは、おいじゃ」

 

 西郷は筆を取らせ、大久保利通に宛てて短い書状をしたためた。口書の写しと、硬貨を一枚、添えさせた。

 

「朝鮮の議は」と江藤が訊いた。

 

「明日は、這うてでも出る」

 

 大隈が包みを取り上げた。百円玉が一枚、油紙の中で鳴った。

 

「菓子十個、か」

 

 西郷が、目を閉じたまま呟いた。

 

「一遍、食うてみたかもんじゃ」

 

 

 

六 七人分

 

 伊勢屋への返事は、明後日。県の五日は、その二日あと。

 

 その晩、雨はやんでいた。

 

 納戸の壁には、まだフェノーメノの日課表が貼ってあった。七人の名が、縦に一列に並んでいる。

 

 最初に口を開いたのは、フェノーメノだった。

 

「本官は、伊勢屋殿のお話を受けるべきだと考えるであります」

 

 正座したまま、膝の上で拳を握っていた。

 

「連印がなければ、県の留め置き。三右衛門殿は、もう帳面まで差し出しておられる。本官たちが分かれれば、請けが立つ。筋は、通っているであります」

 

「筋はな」とナカヤマ。

 

「本官の口が、県であんなことを言ったからであります」

 

 フェノーメノは、目を伏せなかった。

 

「本官が黙っていれば、連印など要らなかったかもしれない。だから本官は、どこへでも行くであります。一番遠いところでも」

 

「罰のつもりなら、やめな」

 

 ナカヤマが言った。

 

「アンタが言わなきゃ、坂口って兄ちゃんが被ってた。アタシは、それでいいと思ってた。……アンタは、それがよくなかった。それだけだ」

 

「では、ナカヤマさんは」

 

「アタシは、伊勢屋に行く」

 

 ナカヤマは、梁の埃の跡が残る袖を見下ろした。

 

「伊勢屋が何考えてんのか、外から読んで、二度外した。今度は中から見る。それに、連印が要るようになったのは、アタシが腹に巻いたからだ。一番面倒な家には、アタシが行く」

 

「罰ゲームかよ」とゴールドシップ。

 

「賭けだよ」

 

 ナカヤマは、少しだけ口の端を上げた。

 

「余は、行かぬ」

 

 オルフェーヴルが言った。壁にもたれ、腕を組んでいた。

 

「伊勢屋の蔵にも、寺にも行かぬ。商館の陶器の口と引き換えに、どこかの家へ割り振られるくらいなら、県の牢に入る。県の牢なら、余を預かっているのは県だ。皿の勘定ではない」

 

「オル」

 

 ジャーニーが、膝を寄せた。

 

「牢がどういうところか、あなたはわかっていません。港の役所でさえ、あの掛け金の音を――」

 

「わかっておる。わかっておるから、選ぶのだ」

 

「では、せめて、私と同じ家に」

 

 ジャーニーの声は、穏やかだった。穏やかすぎた。

 

「伊勢屋様にお願いします。私とオルは、必ず同じ家に。それなら私は、どこへでも――」

 

「姉上」

 

 オルフェーヴルが、初めて姉を正面から見た。

 

「昨日、県で、姉上はナカヤマの代わりに罪を被ろうとした」

 

 ジャーニーが、口を閉じた。

 

「ナカヤマは、それを要らぬと言った。……余も、要らぬ。余の行き先を、余の代わりに決めるのも、要らぬ」

 

「あなたを守りたいだけです」

 

「知っておる」

 

 オルフェーヴルは、目を逸らさなかった。

 

「知っておるから、要らぬと言うておる」

 

 ジャーニーは何か言いかけて、やめた。眼鏡の奥の目が、一度だけ揺れた。

 

「アタシは、どこでもいいぜ」

 

 ゴールドシップが、ごろりと仰向けになった。

 

「伊勢屋でも寺でも。寺なら、鐘撞かせてもらえるかもしんねえし。……あ、でも、マックちゃんは茂原屋に残れよな」

 

「はい?」

 

「お糸さんの話し相手、いねえと困るだろ。台所の勝手もわかってるし。アタシはどっか行くから、マックちゃんはここ」

 

「勝手に決めないでくださいまし!」

 

 マックイーンが、膝を立てた。

 

「わたくしは、分かれることには賛成いたしますわ。伊勢屋様のお話にも、お糸さんのお考えにも、理がございます。ですが、わたくしの行き先は、わたくしが決めます。ゴールドシップさんに決めていただく筋合いは、ございません」

 

「じゃあ、どこにすんだよ」

 

「……茂原屋に、残りますわ」

 

「ほら」

 

「わたくしが、自分で決めたのです! あなたに言われたからではございません!」

 

 ゴールドシップは天井を見たまま、にやりと笑った。笑ったまま、何も言い返さなかった。

 

 マックイーンは、その横顔を見て、なぜか少しだけ腹が立った。

 

 *

 

 ジャーニーが、窓際を振り返った。

 

「アネゴ」

 

 ステイゴールドは、格子窓の前に座っていた。雨上がりの通りに、ガス灯の光が滲んでいる。

 

「アネゴが一言、七人で残ると言えば、皆、そうします。県の牢でも、どこへでも、七人で。……言ってください」

 

 ステゴは、しばらく窓の外を見ていた。

 

「言わないよ」

 

「なぜです」

 

「アタシが言ったら、皆、それに乗るだろ」

 

 ステゴは、振り向いた。

 

「乗りたいから乗るんじゃなくて、アタシが言ったから乗る。……それ、伊勢屋が決めるのと、何が違うの」

 

「違います」

 

 ジャーニーの声が、初めて硬くなった。

 

「アネゴは、伊勢屋ではありません」

 

「うん。だから、余計にまずいんだよ」

 

 ステゴは、懐のハーモニカを、着物の上から押さえた。

 

「伊勢屋が決めたら、皆、文句言えるだろ。アタシが決めたら、言えなくなる」

 

「では、アネゴはどうなさるのです」

 

「アタシは……」

 

 ステゴは、少し考えた。

 

「誰も行きたがらないとこでいい。残ったとこ」

 

「それは、決めないのと同じです」

 

「かもね」

 

 ジャーニーは、膝の上で両手を握りしめた。何か言おうとして、それが、さっき妹に拒まれたのと同じ頼み方だと気づいたように、黙った。

 

 *

 

 誰が最初に布団を敷いたのか、わからなかった。

 

 話は、それきり続かなかった。続けても、同じところを回るだけだった。

 

 ジャーニーとオルフェーヴルは、いつものように隣に床を取った。いつものようには、向かい合わなかった。

 

 ゴールドシップは、すぐに寝息を立てた。マックイーンは、その寝顔をしばらく睨んでから、背を向けた。

 

 ナカヤマは、天井の雨漏りの染みを数えていた。三つ。

 

 行灯を消す前に、フェノーメノは、壁の日課表の前に立った。

 

 七人の名が、縦に一列に並んでいる。その下を、鯨が泳いでいる。

 

 フェノーメノは、表の端に指をかけた。剥がそうとして、やめた。

 

「……まだ、七人分であります」

 

 誰にともなく言って、行灯の火を吹き消した。

 

 暗がりの中で、ステイゴールドだけが、まだ起きていた。懐からハーモニカを取り出して、唇に当てた。

 

 吹かなかった。

 

 窓の外で、雨上がりの屋根から、最後の雫がひとつ落ちた。

 

 

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