一 梅雨
雨は、請書を書いた翌朝から降りだした。
横浜の梅雨は、空から落ちてくるというより、町じゅうに染みてくる。瓦を伝い、格子を伝い、茂原屋の二階の納戸では、障子紙までがしっとりと重くなった。
「――卯ノ刻、起床。辰ノ刻、朝餉。巳ノ刻より、各自持ち場」
フェノーメノが、壁に貼った反古紙を読み上げていた。帳場から一枚もらい受け、ゆうべのうちに書いたものだ。いちばん上に、太い字で〈居候日課表〉とある。
「外へ出られぬ以上、規律が乱れれば心が乱れるのであります。各自、持ち場を確認してほしいであります」
「持ち場っつってもよ」
ゴールドシップが、畳に腹ばいになったまま、表のいちばん下を指さした。
「アタシの欄、『天井裏ニ上ガラヌコト』しか書いてねえじゃん」
「それが持ち場であります」
「持ち場じゃねえ。禁止だ、それは」
表の余白には、いつの間にか鯨が一頭泳いでいた。フェノーメノはしばらくそれを見つめ、消さずにおいた。
部屋の隅では、オルフェーヴルが、鏡がわりの盥の水を睨んでいた。金の前髪が、雨の日の猫のように膨らんでいる。
「……湿気だ」
「船の上でも、同じことをおっしゃっていましたね」
ドリームジャーニーが、後ろから櫛を当てた。黄楊の櫛ではない。今朝、お糸が「古いものですが」とだけ言って、納戸の敷居に置いていったものだ。
「姉上。この国の雨は、余に何の恨みがある」
「恨みはないと思いますよ。多いだけで」
晒で腰に畳んだ尾も、蒸れてかゆい。ゴールドシップは半刻に一度、柱の角に腰をこすりつけては、メジロマックイーンに「はしたのうございます」と睨まれていた。睨むマックイーンのほうも、ときどき、誰も見ていないのを確かめてから、そっと帯の後ろに手をやっていた。
三日のあいだ、七人は一歩も外へ出なかった。
閉じこめられたわけではない。勝手口に閂が掛かっているわけでも、見張りが立っているわけでもない。ただ、あの夜、三右衛門が請書に名を書いた。七人の誰かが勝手口を一歩でも出れば、その一歩は、三右衛門の名の上に乗る。
港の役所の掛け金より、よほど効いた。
ステイゴールドは格子窓のそばに座り、雨の通りを眺めていた。懐でハーモニカを握っているが、吹かない。音を控えろと言われたわけではない。ただ、なんとなく、吹く気にならなかった。
*
寄合の首尾は、初日の晩に知れた。
三右衛門は濡れた羽織を清兵衛に渡すと、帳場に座ったまま、しばらく煙管を咥えていた。火は入っていなかった。
「仲間は、うちの預かりには口を出さねえとさ」
お糸が、繕い物の手を止めた。
「出さねえ代わりに、請けもしねえ。屋根の口上は申し合わせに障るってんで、店先の呼び売りはひと月差し止め。過料が三円」
「三円で済みましたか」と清兵衛。
「済まねえよ」三右衛門は煙管を置いた。「本町の両替屋が、為替の口を渋ってきた。相模屋の漆器も、次の納めは半分にしてくれだとさ。三円なんざ、そのおまけだ」
階段の途中でそれを聞いていたのは、ナカヤマフェスタだった。両替屋。為替。字面はわかる。それが舶来屋にとってどれほどの痛手かは、まだわからなかった。
二日目の朝、お糸は町内を回った。〈在所の遠縁の娘〉は取り消す、と、一軒ずつ頭を下げて回ったのだ。何と言って取り消したのかを、お糸は誰にも話さなかった。
昼過ぎに、仲人が来た。
奥の間で、半刻ほど。帰りしなに三右衛門へ頭を下げる仲人の声が、二階の納戸まで細く届いた。
「――先様も、もう少しだけ、様子を見たいと。いえ、破談などとは、決して」
マックイーンは繕いかけの肌着を膝に置いたまま、針を持つ手を止めていた。誰も、何も言わなかった。
*
ナカヤマは、その三日の大半を、帳場の隅で過ごした。
外へ出られない居候に回せる仕事は、帳面の写しと、銭の勘定くらいしかない。
清兵衛が、客の置いていった金貨を小さな天秤に載せ、それから黒い石の上で軽くこすった。
「何してんだ、それ」
「確かめてるんだよ。目方と、色を」
清兵衛は、石に残った金色の筋を、目を細めて見た。
「ご一新の頃にはね、贋の二分金がずいぶん出回ったんだ。異人の商館がそれを掴まされて、公使まで出てきて、政府と大揉めに揉めた。それ以来、居留地の旦那方は、贋金と聞いただけで人が変わる。うちが一枚でも掴まされて、知らずに払いに回してごらん。茂原屋の手形は、明日から一枚も通らなくなるよ」
「一枚でか」
「一枚で、だよ。両替屋が為替を渋るってのは、そういう匂いを嗅いだときなんだ」
ナカヤマは何も言わずに、大福帳をめくった。
二日目の帳面に、一行だけ、字の乱れた行があった。仲人が帰ったあとで付けた行だ。細く揃ったお糸の字が、そこだけ、筆の先がためらったように揺れていた。
ナカヤマはその行を写すとき、自分の字も、少しだけ丁寧にした。
*
「なあナカヤマ、賭けようぜ」
三日目の昼、ゴールドシップが、納戸の雨漏りの下に茶碗を並べながら言った。天井の染みは、朝から三つに増えていた。
「次はどこから落ちてくるか。アタシは鯨の真上」
「鯨は壁だろ」
「だから当たったら大穴だ」
「賭けねえ」
ゴールドシップは、茶碗を一つ持ったまま、しばらくナカヤマの横顔を見ていた。
「団子三本、まだもらってねえぞ」
「払うって言ったろ」
「言ったな」
ゴールドシップは、四つ目の茶碗を置いた。ぽた、と、そこに一滴落ちた。誰も、当たったとは言わなかった。
*
出頭の前の晩、ジャーニーが桐箱を納戸の真ん中に置いた。
「明日、必ず訊かれます。中に何があるのか、私たちが先に確かめておくべきです」
紐を解く。蓋を開ける。
黒い板――動かなくなったスマートフォン。革の財布。それだけだった。
「……少なくありませんこと?」とマックイーン。
「ハーモニカはアタシの懐」とステゴ。
「ゴーグルはアタシの懐」とゴルシ。「団子屋のおっちゃんに売りそこねてから、ずっと」
「お上に預けたものを、勝手に持ち歩いていらしたの」
「預けたんじゃねえ、取られたんだ。で、取り返した。メノがそう言ってた」
「……言ったであります」
フェノーメノが、少しだけ胸を張った。
財布に手を伸ばしたのは、ナカヤマだった。
「アタシのだ、それ」
留め金を外す。硬貨が数枚と、折り畳んだ札が二枚。逃げた日の橋の下で一度広げて、使えないとわかって戻したものだ。
あのときは、ただ使えない銭だった。
ナカヤマは、白っぽい硬貨を一枚、行灯の明かりにかざした。桜の模様。日本国、百円。裏に、令和五年。釣り銭で何百枚と手にしてきた、見飽きた百円玉だった。
帳場で見た新しい銅貨を、ナカヤマは思い出していた。
「帳場の銭は『大日本』だった。こいつは『日本国』。そのうえ令和五年、百円だ。この時代にはまだねえ年号と、まだねえ値打ちの銭だ。札なんか日本銀行券だぞ。日本銀行がいつできたかは知らねえけど、明治六年の役人が見たことある札じゃねえのは確かだ」
誰も、すぐには口をきかなかった。
「贋物じゃねえ。アタシらの国の、本物の百円だ。調べりゃ、明治の銭に似せた物じゃねえことくらい、そのうちわかる」
ナカヤマは、硬貨を掌に戻した。
「けど、わかるまでに何が起きる。どこから来た銭だ、誰が持ちこんだ、どこの店に寄宿してた。……清兵衛さんの話じゃ、贋金の噂が立っただけで手形が止まる。本物か贋物か決まる前に、茂原屋が潰れる」
ジャーニーが、眼鏡の位置を直した。
「……財布ごと、なかったことにはできませんか」
「目録があるはずであります」
フェノーメノが、即座に言った。
「港の役所で、あの方が書き付けておられました。本官は見ております」
「では、財布はお持ちして、中身だけ、ここに」
「この家に、ですの?」
マックイーンの声が、少し高くなった。
「もし見つかったら、三右衛門様が、出所の知れぬ銭を隠していたことになりますわ。請書に名を書いた、そのお家で」
ジャーニーは、口を閉じた。
「なら、堀に沈める」
ナカヤマが言った。
「燃えねえし、溶かせもしねえ。沈めりゃ、それで終わりだ」
「それ、捨てたら戻らないよ」
ステイゴールドが、窓のそばから言った。
「アタシらがどこから来たか、見せられるもん、もうそれくらいしかないだろ」
「見せたらまずい、って話をしてんだよ」
「うん。わかってる」
ステゴは、それ以上言わなかった。
「余の持ち物を、なぜ余が隠れて捨てねばならぬ」
オルフェーヴルが、腕を組んだ。
「持っていけばよい。見せよと言われたら見せる。それで役人が騒ぐなら、騒がせておけ」
「言わせておけば済むのでしたら、悩みません、オル」
「じゃあさ」
ゴールドシップが、ひょいと手を挙げた。
「アタシが飲む。腹ん中までは、役人も見ねえだろ」
「おやめなさいまし!」
「十円玉ならいけるって。五百円はちょっとでけえけど」
「大きさの問題ではございません!」
笑いかけた者は、何人かいた。誰も、笑いきらなかった。
六つの顔が、窓際へ向いた。
ステイゴールドは、膝を抱えたまま言った。
「ナカヤマの財布だろ」
「アネゴ」
「アタシのハーモニカを、誰かが堀に捨てようって言ったら、アタシ怒るよ。だから、アタシも決めない。ナカヤマが決めな」
ナカヤマは、掌の硬貨を長いこと見ていた。
「……持ってく。箱ごと。中身も、そのまま」
フェノーメノが、肩で小さく息をついた。
*
その夜更け、ナカヤマは行灯の芯を細く絞って、ひとりで起きていた。
桐箱の紐を、音を立てずに解く。財布から硬貨と札を抜き、手拭いにくるんで、帯の下の腹に巻きつけた。財布は、元のとおりに箱へ戻した。
この家に残せば、三右衛門が被る。堀に沈めれば、ステゴの言う「どこから来たか」が消える。役人の机に出せば、七人が被る。
アタシの腹の上なら、しくじっても、アタシひとりだ。
訊かれなければ、それでいい。訊かれたら、そのときは――
賭けねえ、と言ったのは、自分だった。
ナカヤマは紐を結び直し、布団に潜りこんだ。手拭いの中で、硬貨が一度だけ、小さく鳴った。
二 馬場先門
出頭の前の日、同じ雨は、東京にも降っていた。
五月の火事で皇城が焼けてから、天子は赤坂の離宮に移り、太政官は馬場先門内の古い庁舎を仮の役所にしている。急ごしらえの廊下にはところどころ桶が置かれ、雨漏りの音が、ぽつ、ぽつ、と鳴っていた。
その廊下を、書類の束を抱えた史官が二人、早足に駆けていった。朝鮮の釜山から届いた報せで、正院は朝から揉めている。
「江藤さん」
呼び止めたのは、三十半ばの、目鼻立ちの大きな男だった。参議、大隈重信。井上馨が大蔵省を去ってからは、その事務も預かっている。
「ちょっと、よかですか。神奈川から伺いが来とる。宛ては大蔵省ですばってん、大蔵省の手には余ります」
江藤新平は足を止めた。痩せた頬に、雨の日でも乾いた目をしている。この春まで司法卿を務め、今は参議として正院に列している。
「私も、似たものを一通持っとる。司法省の者が、昔の癖で私のところへ持ち込んできた」
同じ佐賀の出の二人は、桶をよけて窓際に寄った。
江藤は伺い書を受け取ると、立ったまま、一度で読み下した。
「……罪なき者を留め置く当否。官の荷より携帯品持ち出しの一件。これを大蔵省に伺うて、どがんすっとか」
「預かれと命じたのが大蔵省ですけん。大久保卿の名で」
「その大久保卿は」
「参議ではなかけん、正院の議には出られん。帰ってからは、省にもほとんど顔ば見せられん。留守中のこちらのやり方が、よほど気に入らんらしか」
江藤は、それには何も言わなかった。司法省の予算をめぐって井上と激しく争ったのは、江藤自身だった。
「留め置く法は、なか」
伺い書を、指で弾く。
「罪を犯しとらん者を、官が留め置く筋はない。持ち出したのが自分の荷なら、盗みでもない。県には、そう返せばよか」
「そう返せば、どがんなりますか」
大隈は、窓の外の雨を見た。
「戸籍もなか、在所もなか、耳と尾のある娘が七人。それを、横浜の往来に放すとですか」
「放せとは言うとらん。ただ、寄留届で済む話でもなか」
江藤は、伺い書の〈寄留罷在〉の四字を指した。
「寄留は、本籍のある者が他所に住むときの届けだ。本籍のなか者には、寄留の元がない。新たに籍を立てるなら、どこの何者かを書かねばならん。それが書けん」
「では、どうします」
「それを決めるのが正院だ。県にも、商人にも決めさせることではない」
大隈は、反論しなかった。代わりに、伺い書に添えられた紙を一枚、抜き出した。港の役所で作られた、携帯品の目録の写しだった。
「それより、私はこっちが気になる」
太い指が、一行をなぞる。
――一 革紙入 壱 内ニ銭ト覚シキ物大小数枚、紙幣ト覚シキ物数葉 未改。
「未改。誰も中身を見とらん」
「あんたは、銭のことばっかりやな」
「銭のことで英国公使に怒鳴られたとは、私ですけん」
大隈は、苦い顔で笑った。ご一新の直後、贋の二分金をめぐって、居留地の公使たちが政府に詰め寄った。その矢面に立ったのが、まだ三十を出たばかりのこの男だった。
「横浜で、正体の知れん者の財布です。中に何の銭が入っとるか、確かめずに済ませる気にはなれん」
江藤は、しばらく目録を眺めていた。
「よか。県へ電信を打たせる。目録と照らし合わせて、中身を一つ残らず改めさせろ。ただし」
江藤は、伺い書の余白を指で叩いた。
「口書は、本人の申すまま取らせること。県の推量で書き足すな。何を言うて、何をしたか。それだけでよか」
「承知しました」
大隈は紙を揃えた。それから、廊下の奥へ目をやった。
「正院に上げますか」
「今日は朝鮮の議で手一杯だ。西郷さんは寝床の中だ」
江藤は、伺い書を畳んで懐に入れた。
「書面だけでは決められん。一度、本人を見る」
「横浜へ、ですか。参議が自ら」
「汽車なら一時間だ。明日の出頭に合わせて行く。電信の末尾に、そう書き足しておけ」
大隈は何か言いかけて、やめた。この同郷の男が一度言い出したら、止める言葉がないのを知っていた。
廊下の桶に、雨漏りがひとつ落ちた。
三 目録
出頭の朝も、雨だった。
「見世物の次は、お白洲かね」
辰五郎が、苫舟の艫で煙管を咥えたまま言った。
県庁までは、通りを歩けば四半刻もかからない。だが、外へ出さぬと請けた七人を、雨の往来に七つ並べて歩かせるわけにはいかない。三右衛門が思いついたのが、野毛の河岸の老船頭だった。苫で屋根を葺いた荷舟なら、中に何が積まれていても、外からは見えない。
見えないのは、外からだけだった。
「ゴールドシップさん、合羽の雫がわたくしの襟に」
「しょうがねえだろ、狭えんだから」
「本官の尾を踏んでいる者がいるであります」
「余ではない」
「オル、それ、私の尾です」
「……姉上のであったか」
七人は苫の下で膝を抱え、ぎゅうぎゅうに詰まっていた。晒で畳んだ尾が七本ぶん、互いの腰に当たっている。いちばん奥のステイゴールドは、苫の隙間から流れていく堀の水を眺めていた。
三右衛門は舳先に座り、油紙でくるんだ桐箱を膝に抱えていた。羽織は、いちばんいいものを着てきていた。
「茂原屋の旦那よ」
辰五郎が、櫓を漕ぎながら言った。
「手間賃は倍だ。それと、帰りもわしの舟で頼むぞ」
「帰りもある、と思ってくれるのかい」
「行きだけの荷は、積まんことにしとる」
三右衛門は、少しだけ笑った。
*
通されたのは、洋風の建物の奥の、窓に硝子の入った小さな一室だった。
長机の向こうに、あの晩の官員が座っていた。机の上に名札が置いてある。〈権大属 野々村〉。隣に書役がひとり。壁際に、綴じた帳面を手にした若い男が控えていた。
フェノーメノが、背筋を伸ばした。若い男も、わずかに顎を引いた。それだけだった。詫びは、あの晩に済ませてある。
「茂原屋三右衛門、ならびに同家寄宿の者七名」
野々村が、帳面から顔を上げた。
「先に申しておく。今朝、大蔵省より電信があった。携帯の品は、目録と照らし合わせて一つ残らず改めよ、とのことだ。それから、口書は本人の申すまま取れ、とも。……昼前には、参議の江藤殿がお見えになる」
野々村は、書役の筆を目で示した。
「ここに書くのは、あなた方が言ったことと、したことだけだ。こちらの推量は書かない。……その代わり、言ったことは、そのまま東京へ行く」
三右衛門が、桐箱を机に置いた。油紙を開き、紐を解く。
「坂口。読み上げろ」
若い男――坂口というのが、その名らしかった――が、帳面を開いた。
「一。黒キ板、硝子張リ、壱面」
書役が箱からスマートフォンを取り出し、印をつけた。
「一。眼鏡様ノ物、革紐付キ、壱」
箱の中には、なかった。
野々村が顔を上げる前に、ゴールドシップが懐からゴーグルを出して、机に置いた。
「はい。アタシが持ってた」
「……なぜ懐に」
「団子と換えようとして、断られて、そのまま」
書役の筆が、一瞬止まった。野々村は何も言わずに頷いた。書役が〈本人懐中ニ在リ〉と書き添える。
「一。ハアモニカ、西洋ノ笛、壱」
ステイゴールドが、黙って懐から出した。
野々村は、ゴーグルとハーモニカを並べて眺め、それから、七人の懐のあたりを順に見た。
「……ほかに、懐中の物は」
七人は顔を見合わせ、それぞれ懐を探った。フェノーメノが手拭いを出し、マックイーンが懐紙を出した。ゴールドシップが、紙に包んだ何かを出した。
「それは」
「沢庵。非常食」
「ゴールドシップさん!」
書役が、こらえきれずに肩を震わせた。壁際の坂口が、咳払いで口元を隠した。部屋の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
ナカヤマだけが、懐を探らなかった。
「一」
坂口が、次の行を読んだ。
「革紙入、壱。内ニ銭ト覚シキ物大小数枚、紙幣ト覚シキ物数葉。未改」
書役が、箱から財布を出した。留め金を外し、逆さにする。
何も、落ちてこなかった。
野々村の目が、財布から七人へ移った。
「中身は」
誰も答えなかった。ジャーニーの指が、膝の上でかすかに動いた。フェノーメノが、桐箱を見て、それからナカヤマを見た。
「最初から空だったんじゃねえの」
ナカヤマが、気のない声で言った。
「目録なんて、暗いとこで書いたんだろ」
坂口が、顔を上げた。
空の財布を見て、ナカヤマを見て、それから、フェノーメノを見た。ほんの一瞬だった。
「……目録を書いたのは、私です」
坂口は、野々村に向き直った。
「あの夜は、灯りが一つきりでございました。銭と見えたのは、私の見誤りかもしれませぬ」
「坂口」
野々村の声が、低くなった。
「お前の目録だぞ」
「はい。見誤りであれば、私の落ち度です」
坂口は、それきり口を閉じた。
この人は、預かり人を逃がした落ち度を、もう一つ背負っている。そこへ、目録の誤りがもう一つ。
フェノーメノの膝の上で、拳が固くなった。
昨夜、行灯の下で、自分はこの目で見た。白い硬貨を。日本国、という字を。
黙っていれば、済む。坂口がそう言ってくれている。ナカヤマも、黙っている。黙っていれば、坂口の帳面に、一行が増えるだけで――
「……違うであります」
声は、思ったより掠れていた。
「昨夜、本官は、その紙入に銭が入っているのを、この目で見たであります。目録は、誤っていないであります」
坂口が、目を閉じた。
ナカヤマが、天井を仰いだ。
「メノ……」
「坂口殿に、二度も本官たちの落ち度を被せるわけにはいかないのであります」
フェノーメノは、ナカヤマを見なかった。見られなかった。
野々村は、しばらく黙っていた。
「では、銭は今、どこにある」
答えはなかった。
「茂原屋」
「存じません」
三右衛門の返事は、短かった。本当に知らなかった。
野々村は、書役に目をやった。
「女改めの者を呼べ。一人ずつ、別の間で――」
「いらねえよ」
ナカヤマが立ち上がった。
帯の下に手を入れ、手拭いの包みを引き抜く。机の上に置いて、結び目を解いた。白い硬貨、赤茶けた硬貨、色の二つある大きな硬貨。それに、折り畳んだ札が二枚。
「アタシが抜いた。ゆうべ、ひとりで。こいつらは知らねえ」
「私が、隠すように言い出したのです」
ジャーニーが、すぐに続けた。
「ナカヤマさんは、私の言ったことに――」
「言い出したのはアンタでも、抜いたのはアタシだ」
ナカヤマは、ジャーニーのほうを向きもしなかった。
「アンタの言うことなんざ、聞いてねえ。アタシの財布だ」
ジャーニーは、口をつぐんだ。その横で、オルフェーヴルが、姉の横顔をじっと見ていた。
*
書役が、硬貨を一枚、震える指でつまみ上げた。
「……日本国」
読み上げる声が、裏返った。
「百、円」
野々村の手が止まった。
「裏は」
「百、と、洋数字で。それから……令和、五年」
「令和」
野々村は、硬貨を受け取った。掌に載せて重さを確かめ、縁の細かな刻みを爪でなぞる。それから机の引き出しを開け、一枚の銀貨を取り出して、並べた。大阪の造幣寮で打たれた、一円銀貨だった。
「この国でいちばん大きな銭は、二十円の金貨だ」
誰に言うでもなく、野々村は言った。
「百円の銭など、どこにもない。令和という年号もない」
大きな硬貨を、手に取る。外側と内側で色の違う金が、一枚に嵌めこまれている。
「……五百円」
「あ、それ全然大したことねえぞ」
ゴールドシップが、身を乗り出した。
「百円なんか、駄菓子十個ぶんくらいだ。五百円でも、昼飯一回分あるかないかだし」
部屋が、静まり返った。
マックイーンの肘が、ゴールドシップの脇腹に入った。遅かった。
「……菓子十個で、百円」
野々村は、ゆっくりと繰り返した。書役の筆が、迷うように紙の上で止まり、それから、言われたとおりに動いた。本人の申すまま。
野々村は、札を広げた。口髭の男の肖像。細かな模様。横文字が一行。
「これは、何と読む」
書役が首を振った。野々村も、横文字は数字しか読めないらしかった。
「ニッポン、ギンコウ、と書いてありますわ」
マックイーンが、ほとんど反射的に答えていた。茂原屋の勝手口で、葡萄酒の木箱の焼き印を読んだときと、同じ調子で。
言ってから、自分の口を押さえた。
「日本銀行」
野々村が、繰り返した。
「……聞かぬ名だ。そのような名の銀行は、ない」
書役の筆が動いた。〈日本銀行ナル者〉。
マックイーンは、膝の上で両手を固く組んだ。ゴールドシップは、今度は自分の脇腹をさすりもせず、黙ってマックイーンを見ていた。
野々村は、一円銀貨と百円玉を、もう一度並べた。窓の光にかざし、指で弾く。澄んではいるが、銀の音ではなかった。
「……贋金を疑って改めたが」
ぽつりと言った。
「贋金というのは、通用している銭に似せて作るものだ。これは、この国のどの銭にも似せていない。額も、年号も、刻みも違う。しかも、造幣寮の打ったものより細かい」
野々村は、硬貨を札の上に戻した。
「少なくとも、今の銭を写した贋金には見えない。だが、日本国と刻んでありながら、我が政府の銭でもない。出所の知れぬ、銭様の品だ」
「私の手には、余る」
それは、投げ出す声ではなかった。持てるだけのものを持ち、持てないものを持てないと言う、帳面の人間の声だった。
廊下で、靴音がした。
戸が開いた。洋装の、痩せた男だった。濡れた外套も脱がずに、部屋を一渡り見る。机の上の硬貨と札、空の財布、沢庵。それから、七人の顔。
「参議の江藤だ。続けてよか」
立ち上がりかけた野々村を手で制し、江藤は机の端に寄った。書いたばかりの口書を、立ったまま読み下す。
「……誰だ」とゴールドシップが、マックイーンの袖を引いた。
「存じませんわ」
「偉そう」
「お静かに」
読み終えると、江藤は七人のほうを向いた。耳と尾に一度だけ目をやったが、それについては訊かなかった。
「三つだけ訊く。茂原屋におるのは、自分たちの意思か」
七人が顔を見合わせた。フェノーメノが、背筋を伸ばした。
「本官たちの意思であります。三右衛門殿は、置いてくださっているだけであります」
「銭を隠したのは、なぜだ」
「アタシが隠した」
ナカヤマが言った。
「贋金だと思ったからじゃねえ。本物だって、アタシらは知ってる。ただ、調べが茂原屋に行く。それを被せたくなかった」
江藤は、表情を変えなかった。
「最後だ。元の所へ、帰りたいか」
答えたのは、ステイゴールドだった。
「帰りたいよ。帰り方がわかればね」
少し考えて、付け足した。
「でも、今ここにいるのも、アタシらが自分で決めてる。誰かに置かれてるんじゃない」
江藤は、しばらくステゴを見ていた。
「お前たちの話は、正直に言うて、半分も信じられん」
オルフェーヴルの耳が、ぴくりと動いた。
「信じよと頼んだ覚えはない」
「頼まれんでよか。ばってん、話が信じられんことと、罪があることは別だ」
江藤は、野々村に向き直った。
「この者らが、自分の意思で茂原屋におること。それも口書に入れろ。銭は、持っとっただけで罪にするな。使うた形跡もなか」
「は」
「処遇は、正院で決める。それまでの手当ては、県の責任でやれ」
それだけ言うと、江藤は外套の雨も払わずに出ていった。帰りの汽車の刻限があるらしかった。靴音が遠ざかるまで、誰も口をきかなかった。
*
「申し渡す」
野々村は、姿勢を正した。
「一つ。銭と札は、口書を添えて、明朝の汽車で大蔵省へ送る。桐箱と黒キ板と紙入は、封をして県で預かる。黒キ板は、先に大久保卿がご覧になった品だ。東京の沙汰があるまで、誰の手にも触れさせない」
ステイゴールドの手が、机の上のハーモニカへ伸びかけて、止まった。
野々村は、それを見ていた。
「……笛と眼鏡様の物は、銭の儀とは関わりない。目録の品ではあるが、本人預かりとする」
ステゴは、ハーモニカを懐に戻した。
「ありがと」
野々村は、返事をしなかった。
「二つ。外出は、これまでどおり差し止め。三つ」
野々村は、三右衛門を見た。
「茂原屋。あなたの請書は、まだ生きている。だが、あなたの目の届かぬところで、証の品が人の懐に移った。あなたは知らなかったと言う。私もそれを疑わない。疑わないからこそ申し上げる。あなたの請けは、紙の上では立っていても、実が立っていない」
「それでも、手前の屋根の下で起きたことでございます」
しばらくして、三右衛門は言った。
「手前の、不行き届きでございます」
「そう書いておく」
野々村は、書役に頷いてから、声を落とした。
「これは申し渡しではない。……大蔵省は、この銭がどこから出たかを、必ず問うてくる。舶来の銭を扱う店に寄宿していた者の財布だ。帳面を見せろとは、県の口からは言えない。だが、茂原屋が自ら帳面を差し出し、銭の出入りに覚えがないと明らかにしておけば、伺いにそう書き添えられる」
三右衛門は、しばらく黙っていた。
「……差し出しましょう」
清兵衛がここにいたら、算盤を落としただろう、と、ステゴは思った。
「戸長への届けも、あの晩は私が預かると申したが、もう預かれない。それから、最後に」
野々村は、紙を一枚引き寄せた。その手が、一度止まった。
「これは罪を問う話ではない。ただ、出所の知れぬ品を持ち、それを官の目から隠そうとした者がいる。その七名を、商人ひとりの請けで町に置いたとは、県は東京に書けない。五日のうちに、請書に連印を添えてほしい。町内の戸長か、身元の確かな者を二名以上。揃わなければ、東京の沙汰が下りるまで、七名は県で預かる。港の役所のときと、同じ形で」
「同じ、形」
ジャーニーが、小さく繰り返した。港の役所。障子の外の、掛け金の音。
野々村は、ジャーニーから目を逸らさなかった。
「罪を犯していない者を、県が留め置いてよいという定めを、私は知らない。知らないまま、預かると申している。……それも、私の名で伺いに書く。誤りなら、誤ったのは私だ」
「それでよい」
オルフェーヴルが言った。
全員が、そちらを見た。
「余は、県の預かりで構わぬ」
オルフェーヴルは、野々村をまっすぐ見ていた。睨んではいなかった。
「商人の情けにすがって、その家の帳面まで差し出させるよりは、官の牢のほうが筋が見える。余は、そう思う」
「オル」
ジャーニーが、名を呼んだ。手は、伸ばさなかった。
「姉上が決めることではない」
オルフェーヴルは、姉のほうを見ずに言った。
「お待ちを」
三右衛門が、膝を進めた。
「連印は、手前が揃えます。五日のうちに」
野々村は、三右衛門と、オルフェーヴルを、順に見た。
「……承った。五日だ」
それから、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
「申し添えておく。あなた方が自分で銭を机に出したこと。それから、そちらの方が、目録は誤っていないと言ったこと。それも、そのまま書いておく。本人の申すまま、だからな」
*
部屋を出るとき、フェノーメノは、戸口の脇に立つ坂口の前で足を止めた。
「お名前を、まだ伺っていなかったであります」
坂口は、少し驚いた顔をした。
「……坂口と申します」
「坂口殿」
フェノーメノは、頭を下げなかった。下げる理由を、もう探さなかった。
「本官が、せっかくの見誤りを台無しにしたであります」
「台無しにしていただいて、よかったのかもしれません」
坂口は、困ったように笑った。
「あなたは、本当に、お人が悪い」
港の役所の門の前で、同じことを言われた気がした。
*
帰りの苫舟は、来たときより広く感じた。誰も、押し合わなかったからだ。
「筋の通ったお役人でありました」
フェノーメノが、ぽつりと言った。
「味方ってわけじゃねえよ」とナカヤマ。「ありゃ、法の筋を守りてえ人だ。アタシらのためじゃねえ」
「官は官だ」
オルフェーヴルは、苫の隙間を見たまま言った。
「信じられんって、顔見て言う人、あんまりいないよね」
ステゴがそう言うと、誰も返事をしなかった。
ナカヤマは艫のほう、辰五郎の足元に、ひとりで膝を抱えていた。
ゴールドシップが、ほかの六人の膝をまたいで、その隣に座った。何も言わずに、肩をくっつけた。
「……団子、三本な」
「払うって言ったろ」
「利子つくぞ」
「勝手につけてろ」
苫を叩く雨の音が、少しだけ弱くなっていた。
四 連印
その晩、三右衛門は、傘を差して伊勢屋へ出かけていった。
「わたくしが、ご一緒に」
お糸が、上がり框で言った。
「お前が行ってどうする。向こうは、お前の縁談の先だぞ」
「だからです」
「だから、行かせねえんだ」
三右衛門は、それ以上何も言わせず、雨の中へ出ていった。
帰ってきたのは、夜更けだった。誰にも何も言わず、帳場に灯をつけて、清兵衛と二人、明け方まで帳面をめくっていた。県へ差し出す前に、と清兵衛が言うのが、二階まで聞こえた。
翌日の昼過ぎ、伊勢屋のほうから来た。
*
伊勢屋徳右衛門は、五十を少し過ぎた、背の低い男だった。仕立てのいい紬に、洋物の蝙蝠傘。それを丁稚に預けながら、店先を一渡り見回した。呼び売りの止まった、静かな店先だった。
「ずいぶん、風通しがよくなったね」
「おかげさまで」
三右衛門は、奥座敷に通した。
*
「マックちゃんも来いよ。上から、ぜんぶ聞こえるぞ」
隣の間の押入れの天袋から、ゴールドシップが顔だけ出して手招きした。天井板は、居候の初日に外されて以来、三右衛門が釘を打ち直すのを忘れている。
「参りません」
マックイーンは、納戸の真ん中に正座したまま言った。
「立ち聞きは、もういたしません。お糸さんにも、そう申し上げましたもの」
「申し上げてねえだろ」
「心の中で申し上げましたわ」
ナカヤマは、もう梁の上にいた。ゴールドシップのあとに続いて、音を立てずに奥座敷の真上まで這っていく。
「余が天井を這うと思うか」
オルフェーヴルは、腕を組んで壁にもたれた。
「本官は、見張りであります」
フェノーメノは、押入れの前に直立していた。
「上がってはいないので、規律違反ではないであります」
「それ、半分共犯ですよ、メノさん」
ジャーニーが小声で言った。ステイゴールドは、押入れの襖に背を預けて座り、天袋の穴を見上げていた。
*
天井板の節穴から、座敷が見えた。
伊勢屋は、出された茶に口をつけてから、湯呑みを置いた。
「単刀直入にいきますよ、茂原屋さん。ゆうべのお話。連印の件」
「ああ」
「押しましょう。うちと、相模屋と、丸八。それに町内の戸長さんにも、手前から頼んでみます」
三右衛門は、すぐには礼を言わなかった。商人が先に好い話を出すときは、後ろに勘定書きが付いている。
「条件は」
「三つ」
伊勢屋は、指を折った。
「一つ。あの娘さんたちを、茂原屋さん一軒には置かない。仲間の家々に分けて預かる。うちで二人、相模屋さんの本町の店で一人、丸八さんの旦那寺が野毛山にあるから、そこで一人か二人。残りは茂原屋さん」
「分けてどうなる」
「請けが分かれる」
伊勢屋は、当たり前のことを言う顔をした。
「七人を一つ屋根に置いて、その中の一人がしくじれば、請けた者は七人ぶんの責めを負う。昨日のあんたがそうだ。誰が七人ぶんの判を押しますか。手前は押しませんよ。一人二人なら押す。その家の者が、その家にいる娘の面倒だけ見る。しくじっても、しくじりは分かれる。……仲間ってのは、そういうふうにしか請けられないんです」
天井裏で、ナカヤマが息を止めた。
「それに、うちの蔵は、荷役の手がいくらあっても足りない。あの娘さんたちの力は、かねの橋で町じゅうが見てる。遊ばせておく手はない」
「そっちが本音かい」
「本音の一つですよ」
伊勢屋は、指をもう一本折った。
「二つ。英国商館の陶器の口。今季の分は、うちに回してもらいたい」
三右衛門の煙管が、盆に当たって鳴った。
「詫び料のつもりかい」
「仲間への、です。屋根の口上で申し合わせを破った。それから、銭の噂。……茂原屋さん、県の書役の口に戸は立ちませんよ。居留地で『横浜の舶来屋が妙な銭を』と一言でも出てごらんなさい。贋金かどうかなんて、誰も確かめやしない。止まるのは、あんたの手形だけじゃない。うちのも、相模屋のも、丸八のも、ぜんぶです。仲間で被る泥なら、仲間で分けてもらう」
「その泥代が、商館の口か」
「そうです」
伊勢屋は、悪びれなかった。
「あんたが手前の立場でも、同じことを言いますよ」
三右衛門は、しばらく黙っていた。それから、低く笑った。
「言うだろうな」
「でしょう」
「半分だ」
「茂原屋さん」
「今季の陶器、半分。残り半分は、うちの名で、あんたの雇った車で運ぶ。手間賃はそっちに落ちる。それでどうだ」
伊勢屋は湯呑みを持ち上げ、口をつけずに戻した。
「……相変わらずだね、あんたは」
「三つ目は」
伊勢屋は、少しだけ声を落とした。
「三つ目は、条件じゃありません。お耳に入れておくだけで」
廊下の気配を、ちらりと窺う。
「手前の甥の家の話です。先方は、片がつけば話を進めたいと申しております。片がつかなければ……まあ、片がつかないうちは、何とも」
三右衛門の顔から、笑みが消えた。
「娘の縁談を、天秤に載せる気か」
「載せたのは手前じゃありませんよ。世間です」
伊勢屋は、静かに言った。
「手前は、お糸さんのような人が甥のところへ来てくれれば、ありがたいと本気で思っている。だから、片をつけたいんです」
そのとき、天井の梁が、ぎし、と鳴った。
伊勢屋が、天井を見上げた。
「……鼠でございます」
三右衛門は、眉一つ動かさずに言った。
「近ごろ、大きいのが二匹ほど」
「ずいぶん重たそうな鼠で」
伊勢屋はそれ以上何も言わず、茶を飲み干した。
「返事は、明後日までに。県の五日には、それで間に合う」
*
天袋から降りてきたゴールドシップとナカヤマを、五人が囲んだ。
ゴールドシップが、聞いたことを順に話した。三つの条件。蔵の荷役。英国商館。甥の家。話し終えると、珍しく、自分から口を閉じた。
「……分けて、請ける」
ジャーニーが、小さく繰り返した。
「理屈は、通っているであります」
フェノーメノが言った。誰も、それを打ち消さなかった。
「余らの置き所が、商館の陶器の口と引き換えか」
オルフェーヴルの声は、低かった。
「余は、皿か」
「皿の値段の話じゃねえよ」
ナカヤマが、梁の埃を払いながら言った。
「伊勢屋は、自分の手形と仲間の手形を守りたい。蔵の手が欲しい。商館の口が欲しい。甥の縁談をまとめたい。ぜんぶ本気だ。……前にアタシが読んだみてえな、悪い奴じゃねえ。悪い奴じゃねえから、断りにくい」
ステイゴールドは、何も言わずに天袋の穴を見上げていた。
*
その夜、お糸は台所で、明日の米を研いでいた。
マックイーンは、しばらく土間の入口に立っていた。それから、立ち聞きではないことを示すように、わざと足音を立てて入っていった。
「お手伝いいたしますわ」
「結構です。……いえ」
お糸は、研ぎ汁を捨てながら言い直した。
「水を汲んでいただけますか」
マックイーンは、黙って桶を取った。
しばらく、水の音だけがしていた。
「伊勢屋様のお話」
お糸が言った。
「わたくしは、お受けすべきだと思っております。この家のためにも。あなた方のためにも」
「わたくしたちの、ため」
「一つ屋根に七人。それでは、誰も請けられません。伊勢屋様のおっしゃるとおりです。分ければ、請ける方がいる。請ける方がいれば、あなた方は県の牢に入らずに済む」
お糸は、米を研ぐ手を止めなかった。
「……それに、わたくしの縁談も、進みます。隠すつもりはございません」
マックイーンは、桶を置いた。
「お糸さん。一つ、伺ってもよろしいかしら」
「どうぞ」
「その方を、好いていらっしゃいますの」
お糸の手が、止まった。
「……好いているかどうかを、まずお訊きになるのですね。あなたは」
マックイーンの頬が、熱くなった。
「失礼いたしましたわ」
「いいえ」
お糸は、研ぎ終えた米を釜に移した。
「お会いしたのは、二度です。一度目は、帳面の字を褒めてくださいました。二度目は、わたくしの話を、最後まで黙って聞いてくださいました。……それで、十分だと思っております。おかしいですか」
「いいえ」
マックイーンは、首を振った。
「少しも」
お糸は釜の蓋を閉めた。それから、マックイーンのほうを見ないまま言った。
「あなた方のどなたが、どこへ行かれるのか。わたくしは、口を出しません。でも、どなたかが残られるのなら」
少しだけ、間があった。
「……この家の台所の勝手が、わかっていらっしゃる方がいいです」
マックイーンは、何と答えていいかわからず、もう一度桶を取った。水は、もう十分に汲んであった。
五 病床
翌日、東京。
西郷隆盛は、屋敷の奥の間に、布団を敷いて横になっていた。大きな体が、一回り縮んで見えた。枕元に、薬の包みが積んである。
「ホフマン先生の下し薬じゃ。腹ん中まで、文明開化じゃ」
江藤と大隈が座ると、西郷は天井を見たまま言った。
「見てきました」
江藤は、前置きをしなかった。
「少なくとも、罪人として扱う筋ではなか。本人らの意思で茂原屋におる。……話は半分も信じられんが、七人で口裏を合わせとるようにも見えませんでした」
西郷は、黙って頷いた。
「それと、沢庵を非常食と申す者がおりました」
西郷が、腹を押さえて笑った。笑うと痛むらしく、すぐにやめた。
「百円の銭は、駄菓子十個ぶんだそうです」
「……そがんことが本当なら、その国の銭は、紙屑同然です」
大隈は、心底いやそうな顔をした。それから、朝の汽車で届いた包みを開き、札を一枚、行灯にかざした。肖像の横の白い余白に、同じ男の顔が、ぼんやりと浮かんだ。
「県の野々村が書いとるとおりです。この国のどの銭にも似せとらん。贋金ではなかです。……ただ、こがん細工の銭を、日本国の名で打てる者が、どこかにおる。それがわからんうちに町に置けば、外国の公使が先に嗅ぎつけるかもしれません」
「どちらも、筋が通っちょる」
西郷は、包みに添えられた口書を、半身を起こして受け取った。
「じゃっどん、娘らが何者かは、江藤どんが見てきても、わからん。……こん娘らを最初に拾うたのは、一蔵どんじゃ。その一蔵どんは帰ってきて、留守のおいたちのやり方が気に食わんで、省にも出てこん。おいたちは留守番じゃ。留守番の約束は、もう何遍も破っちょる。こいまで、一蔵どんに黙って捌くわけにはいかん」
「では、県の留め置きは」と江藤。「県の責任でやれと言うたのは私です。ばってん、留め置けとは言うとらん」
「止めん」
「根拠のなか処分を、正院が黙って認めることになります」
「認めるとは言わん。止めんと言うちょる」
西郷は、口書の最後の紙をめくった。茂原屋三右衛門の名が、手前ノ不行届ニ御座候、という一行と並んでいた。
「止めれば、県は娘らを町に置くしかなか。また騒ぎになれば、責めは野々村とこん商人に行く。……一蔵どんの返事が来るまで、こん商人が背負う。背負わせるのは、おいじゃ」
西郷は筆を取らせ、大久保利通に宛てて短い書状をしたためた。口書の写しと、硬貨を一枚、添えさせた。
「朝鮮の議は」と江藤が訊いた。
「明日は、這うてでも出る」
大隈が包みを取り上げた。百円玉が一枚、油紙の中で鳴った。
「菓子十個、か」
西郷が、目を閉じたまま呟いた。
「一遍、食うてみたかもんじゃ」
六 七人分
伊勢屋への返事は、明後日。県の五日は、その二日あと。
その晩、雨はやんでいた。
納戸の壁には、まだフェノーメノの日課表が貼ってあった。七人の名が、縦に一列に並んでいる。
最初に口を開いたのは、フェノーメノだった。
「本官は、伊勢屋殿のお話を受けるべきだと考えるであります」
正座したまま、膝の上で拳を握っていた。
「連印がなければ、県の留め置き。三右衛門殿は、もう帳面まで差し出しておられる。本官たちが分かれれば、請けが立つ。筋は、通っているであります」
「筋はな」とナカヤマ。
「本官の口が、県であんなことを言ったからであります」
フェノーメノは、目を伏せなかった。
「本官が黙っていれば、連印など要らなかったかもしれない。だから本官は、どこへでも行くであります。一番遠いところでも」
「罰のつもりなら、やめな」
ナカヤマが言った。
「アンタが言わなきゃ、坂口って兄ちゃんが被ってた。アタシは、それでいいと思ってた。……アンタは、それがよくなかった。それだけだ」
「では、ナカヤマさんは」
「アタシは、伊勢屋に行く」
ナカヤマは、梁の埃の跡が残る袖を見下ろした。
「伊勢屋が何考えてんのか、外から読んで、二度外した。今度は中から見る。それに、連印が要るようになったのは、アタシが腹に巻いたからだ。一番面倒な家には、アタシが行く」
「罰ゲームかよ」とゴールドシップ。
「賭けだよ」
ナカヤマは、少しだけ口の端を上げた。
「余は、行かぬ」
オルフェーヴルが言った。壁にもたれ、腕を組んでいた。
「伊勢屋の蔵にも、寺にも行かぬ。商館の陶器の口と引き換えに、どこかの家へ割り振られるくらいなら、県の牢に入る。県の牢なら、余を預かっているのは県だ。皿の勘定ではない」
「オル」
ジャーニーが、膝を寄せた。
「牢がどういうところか、あなたはわかっていません。港の役所でさえ、あの掛け金の音を――」
「わかっておる。わかっておるから、選ぶのだ」
「では、せめて、私と同じ家に」
ジャーニーの声は、穏やかだった。穏やかすぎた。
「伊勢屋様にお願いします。私とオルは、必ず同じ家に。それなら私は、どこへでも――」
「姉上」
オルフェーヴルが、初めて姉を正面から見た。
「昨日、県で、姉上はナカヤマの代わりに罪を被ろうとした」
ジャーニーが、口を閉じた。
「ナカヤマは、それを要らぬと言った。……余も、要らぬ。余の行き先を、余の代わりに決めるのも、要らぬ」
「あなたを守りたいだけです」
「知っておる」
オルフェーヴルは、目を逸らさなかった。
「知っておるから、要らぬと言うておる」
ジャーニーは何か言いかけて、やめた。眼鏡の奥の目が、一度だけ揺れた。
「アタシは、どこでもいいぜ」
ゴールドシップが、ごろりと仰向けになった。
「伊勢屋でも寺でも。寺なら、鐘撞かせてもらえるかもしんねえし。……あ、でも、マックちゃんは茂原屋に残れよな」
「はい?」
「お糸さんの話し相手、いねえと困るだろ。台所の勝手もわかってるし。アタシはどっか行くから、マックちゃんはここ」
「勝手に決めないでくださいまし!」
マックイーンが、膝を立てた。
「わたくしは、分かれることには賛成いたしますわ。伊勢屋様のお話にも、お糸さんのお考えにも、理がございます。ですが、わたくしの行き先は、わたくしが決めます。ゴールドシップさんに決めていただく筋合いは、ございません」
「じゃあ、どこにすんだよ」
「……茂原屋に、残りますわ」
「ほら」
「わたくしが、自分で決めたのです! あなたに言われたからではございません!」
ゴールドシップは天井を見たまま、にやりと笑った。笑ったまま、何も言い返さなかった。
マックイーンは、その横顔を見て、なぜか少しだけ腹が立った。
*
ジャーニーが、窓際を振り返った。
「アネゴ」
ステイゴールドは、格子窓の前に座っていた。雨上がりの通りに、ガス灯の光が滲んでいる。
「アネゴが一言、七人で残ると言えば、皆、そうします。県の牢でも、どこへでも、七人で。……言ってください」
ステゴは、しばらく窓の外を見ていた。
「言わないよ」
「なぜです」
「アタシが言ったら、皆、それに乗るだろ」
ステゴは、振り向いた。
「乗りたいから乗るんじゃなくて、アタシが言ったから乗る。……それ、伊勢屋が決めるのと、何が違うの」
「違います」
ジャーニーの声が、初めて硬くなった。
「アネゴは、伊勢屋ではありません」
「うん。だから、余計にまずいんだよ」
ステゴは、懐のハーモニカを、着物の上から押さえた。
「伊勢屋が決めたら、皆、文句言えるだろ。アタシが決めたら、言えなくなる」
「では、アネゴはどうなさるのです」
「アタシは……」
ステゴは、少し考えた。
「誰も行きたがらないとこでいい。残ったとこ」
「それは、決めないのと同じです」
「かもね」
ジャーニーは、膝の上で両手を握りしめた。何か言おうとして、それが、さっき妹に拒まれたのと同じ頼み方だと気づいたように、黙った。
*
誰が最初に布団を敷いたのか、わからなかった。
話は、それきり続かなかった。続けても、同じところを回るだけだった。
ジャーニーとオルフェーヴルは、いつものように隣に床を取った。いつものようには、向かい合わなかった。
ゴールドシップは、すぐに寝息を立てた。マックイーンは、その寝顔をしばらく睨んでから、背を向けた。
ナカヤマは、天井の雨漏りの染みを数えていた。三つ。
行灯を消す前に、フェノーメノは、壁の日課表の前に立った。
七人の名が、縦に一列に並んでいる。その下を、鯨が泳いでいる。
フェノーメノは、表の端に指をかけた。剥がそうとして、やめた。
「……まだ、七人分であります」
誰にともなく言って、行灯の火を吹き消した。
暗がりの中で、ステイゴールドだけが、まだ起きていた。懐からハーモニカを取り出して、唇に当てた。
吹かなかった。
窓の外で、雨上がりの屋根から、最後の雫がひとつ落ちた。