ステイゴールドは明治に流されるようです   作:藤原康政

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第7話「七人七色」

 

 

一 割り振り

 

 伊勢屋徳右衛門は、約束の刻限より四半刻早く来た。

 

 蝙蝠傘はもう要らなかった。代わりに、懐から折り畳んだ半紙を一枚出し、奥座敷の畳に広げた。

 

「先に、こちらの手の内をお見せしますよ。茂原屋さんは、隠し事のある勘定書きを嫌うから」

 

「天井の鼠にも見せてやってくれ」

 

「ええ、ええ。今日は降りてきていただいたほうが話が早い」

 

 三右衛門が顎をしゃくると、襖が開いた。七人が、廊下に並んで座っていた。ゴールドシップだけ、頭に蜘蛛の巣をつけていた。

 

「……今日は、天井から聞いておりませんわよ」

 

「マックちゃん、それ言うと昨日は聞いてたってバレる」

 

「昨日もわたくしは聞いておりません!」

 

 伊勢屋は、笑いもせずに半紙を七人のほうへ向けた。

 

「連印は、手前どもで揃えます。伊勢屋、相模屋、丸八。町内の戸長さんにも、ゆうべ話を通しました。ただ、判を押す家には、それぞれ都合がある。それを書いてきました」

 

 フェノーメノが、膝で進み出て読み上げた。

 

「一。伊勢屋本宅、蔵ノ荷役。一名。力アル者。

 

 一。伊勢屋戸部別宅、隠居ノ話シ相手、並ビニ帳付ケ。一名。読ミ書キ出来ル者。

 

 一。相模屋本町店、帳場見習ヒ。一名。算盤ヲ嫌ハヌ者。

 

 一。丸八旦那寺、野毛山。寺男ノ手伝ヒ。一名乃至二名。

 

 一。駒屋、馬車屋。荷馬ノ世話、荷積ミ。一名。……ただし書きがあるであります。『若キ娘ニハ不向キ、伊勢屋口利キノミ』」

 

「駒屋は、汽車に客を取られて人手を減らした店でね」と伊勢屋。「手前の口利きで寄宿はさせられるが、判は手前の判だ。駒屋に何かあれば、手前が被る。まあ、娘さんを行かせる所じゃありません。数合わせに書いただけで」

 

「残りは、茂原屋さん」

 

 フェノーメノが紙から顔を上げた。

 

「……都合、と書いてある欄が、ぜんぶ、向こうの都合であります」

 

「そりゃそうですよ。判を押すのは向こうだから」

 

「余は、行かぬ」

 

 オルフェーヴルが言った。座ったまま、背筋だけを伸ばしていた。

 

「力ある者、読み書き出来る者、算盤を嫌わぬ者。品書きだ。余は、品書きの一行ではない」

 

「品書き、ねえ」

 

 伊勢屋は、怒らなかった。

 

「では、お嬢さん。県の預かりのほうがいいと。そう伺ってます」

 

「そうだ」

 

「県の預かりにも、品書きはありますよ。『出所知レヌ者、七名』。一行で済む」

 

 オルフェーヴルの耳が、後ろへ倒れた。

 

「……待ちなって」

 

 ナカヤマが、伊勢屋とオルフェーヴルのあいだに手をひらひらと入れた。

 

「オルフェ。こいつは身売りの証文じゃねえ。金をもらって人を渡す話なら、伊勢屋は金を払う側だ。でも伊勢屋は一文も払ってねえし、受け取ってもいねえ。判を押すだけだ」

 

「判を押すだけ、だと」

 

「その判がでけえんだよ。アタシらが一人でもしくじったら、伊勢屋の名前に泥がつく。県に呼ばれて、手形が止まる。こいつは、アタシらを買うんじゃなくて、アタシらに自分の信用を賭けてんだ」

 

「余は、賭けてくれと頼んだ覚えはない」

 

「アタシもねえよ」

 

 ナカヤマは、肩をすくめた。

 

「でも、賭けられちまってる。だったら、勝たせてやるか、負けさせるか。アタシらが選べるのはそこだろ」

 

「賭けられる側の心持ちは、勘定に入っておるのか」

 

 ナカヤマは、口を開けて、閉じた。

 

 伊勢屋が、静かに言った。

 

「入っていません。手前は商人ですから。……ただ、そこまで言うお嬢さんに、品書きの一行を無理にあてがう気もありませんよ。嫌々来られて、蔵の荷を落とされたら、損をするのは手前だ」

 

「では、どうせよと言う」

 

「それは茂原屋さんと、お嬢さんたちで決めてください。返事は、明日の昼まで待ちます」

 

 伊勢屋は半紙を畳に残したまま立ち上がった。廊下ですれ違いざま、ゴールドシップの頭の蜘蛛の巣を、指でつまんで取っていった。

 

「大きな鼠だ」

 

「チュー」

 

「ゴールドシップさん!」

 

 

 

二 擦り合わせ

 

 その晩、三右衛門は七人を帳場に集めた。

 

 帳場に居候が全員入ったのは、初めてだった。算盤の上にゴールドシップの尾が乗り、清兵衛が無言でそれをどけた。

 

「先に、こっちの勘定を言っとく」

 

 三右衛門は、半紙の横に、もう一枚紙を置いた。

 

「県の期限は、しあさっての夕七つ。それまでに、請書と連印を野々村さんの机に出す。連印には、それぞれ誰をどこで預かるか、書き添える。書いたら、そこがお前たちの居所だ。勝手に動けば、判を押した家が被る」

 

「うちが被るぶんは」と清兵衛。

 

「七人のうち、うちに残る者のぶん。それと、伊勢屋との陶器の口の半分。……それから、お糸の話」

 

 お糸が、帳場の端で膝を揃えていた。何も言わなかった。

 

「この家の責任は、俺が負う」

 

 三右衛門は、七人を順に見た。

 

「だが、行き先までは、俺は決めねえ。お前たちも選べ。選んだ先の家が嫌だと言ったら、そのときはまた考える」

 

「選べ、と言われましても」

 

 マックイーンが、小さく言った。

 

「全員の望みが通るとは、思えませんわ」

 

「通るとは限らねえよ」

 

 三右衛門はあっさり言った。

 

「向こうにも、断る権利がある。こっちが行きたくても、向こうが要らねえと言えばそれまでだ。誰かは、行きたくねえ所に行くかもしれねえ。それを、俺が決めるか、お前たちが決めるか。それだけの違いだ」

 

 沈黙が落ちた。ジャーニーが、窓際を見た。ステイゴールドは、帳場の柱に背を預けていた。

 

「アネゴ」

 

「うん」

 

 ステゴは、柱から背を離した。

 

「じゃあさ。皆、一人二つ言って。行きたいとこ一個と、絶対イヤなとこ一個」

 

「それを、アネゴが割り振るのですか」

 

「割り振らない。紙に書くだけ」

 

 ステゴは、清兵衛から筆を借りた。

 

「で、向こうの都合も横に書く。力のある奴とか、読み書きとか。……合うとこから埋めて、合わないとこが残ったら、そこだけ皆で揉める。どう?」

 

「……それは、合理的であります」

 

 フェノーメノが、ほっとしたように言った。

 

「アタシからな。行きたいのは寺。鐘撞きてえ。イヤなのは、ねえ」

 

「イヤなとこを言えと申し上げておりますの」

 

「ねえもんはねえよ。強いて言えば、マックちゃんのいねえ茂原屋」

 

「意味がわかりませんわ」

 

「アタシも」

 

 ステゴは、〈ゴルシ 寺 イヤ:ナシ〉と書いた。

 

「本官は、相模屋の帳場を望むであります。旧い帳面と新しい書式が混ざっていると聞きました。……嫌なのは、誰かの代わりに楽をする所であります」

 

「アタシは伊勢屋の本宅。蔵でいい。イヤなのは、ここ」

 

 ナカヤマは、茂原屋の帳場の床を、指でとんと叩いた。

 

「アタシがここにいたら、三右衛門さんがアタシの財布ごと被る。もう被らせねえ」

 

 三右衛門は、何も言わなかった。

 

「わたくしは、茂原屋に。……昨日申し上げたとおり、わたくしが決めたことですわ。嫌なのは」

 

 マックイーンは、少し考えた。

 

「この家の方々に、黙って何かを決めること」

 

 お糸が、ほんのわずかに顔を上げた。

 

「私は」

 

 ジャーニーが、膝の上で手を重ねた。

 

「オルと同じ所なら、どこでも。嫌なのは、オルと別の――」

 

「余の分を、姉上が先に言うな」

 

 オルフェーヴルが、遮った。

 

「……まだ何も言っていません」

 

「言おうとした」

 

 ステゴは筆を止めて、オルフェーヴルを見た。

 

「オルフェは?」

 

「品書きの家には、行かぬ」

 

「うん。それ、イヤなほうね」

 

 ステゴは、〈オルフェ イヤ:品書き〉と書いた。

 

「行きたいほうは?」

 

 オルフェーヴルは、半紙の上の五行を見下ろした。長いあいだ、見ていた。

 

「……駒屋の欄。若き娘には不向き、とある」

 

「あるであります」

 

「余は、若き娘か」

 

「……若き娘であります」

 

「不向きかどうかは、余が決める」

 

 オルフェーヴルは、半紙の一番下を、指で押さえた。

 

「伊勢屋は、駒屋の判は自分の判だと言った。ならば余が駒屋でしくじれば、伊勢屋が被る。……被らせぬ。余の働きで、余の口を養う。誰かの家の品として置かれるのではない。荷を運び、銭をもらう」

 

「オル」

 

 ジャーニーが、名を呼んだ。それ以上、言わなかった。言えば、また、遮られると知っていた。

 

「駒屋は、伊勢屋さんの別宅と方角が逆だぞ」

 

 三右衛門が言った。

 

「知っておる」

 

「姉さんとは、別の屋根だ」

 

「知っておる」

 

 オルフェーヴルは、姉を見なかった。

 

 ステゴは、筆の先を紙の上に浮かせたまま、しばらく動かなかった。それから、〈オルフェ 駒屋〉と書いた。

 

「ジャーニーは?」

 

「……私は」

 

 ジャーニーは、半紙の二行目を見た。戸部別宅。隠居ノ話シ相手、並ビニ帳付ケ。

 

「読み書きが出来る者、とあります。……私に、合うのでしょうね」

 

「合うかどうかじゃなくて、行きたいかって訊いてる」

 

「わかりません」

 

 ジャーニーは、正直に言った。

 

「オルの行かない所なら、どこでも同じです」

 

 ステゴは、それを書かなかった。〈ジャーニー 別宅?〉とだけ書いて、疑問の印を丸で囲んだ。

 

「アネゴは」

 

 ナカヤマが言った。

 

「アネゴの行きたいとこ、まだ聞いてねえぞ」

 

「アタシ?」

 

 ステゴは、紙を見た。寺、相模屋、伊勢屋本宅、駒屋、茂原屋。別宅に疑問の印。

 

「残ったとこでいいよ」

 

「それ、昨日と同じじゃねえか」

 

「残ったとこが、ここなんだもん」

 

 ステゴは、筆で茂原屋の欄を指した。マックイーンの名の横が、一人ぶん空いていた。

 

「アタシ、ここ好きだよ。窓から通りが見えるし」

 

「……それだけですか」

 

「それだけ」

 

 清兵衛が、算盤を一度だけ弾いた。

 

「うちに残るのが二人。ちょうど、陶器の口の半分と釣り合いますな」

 

「勘定すんな」

 

 三右衛門が言った。言いながら、少しだけ笑っていた。

 

 *

 

 その夜、納戸で、ジャーニーは窓際のステゴの隣に座った。

 

「アネゴ」

 

「うん」

 

「紙に書いてくださって、ありがとうございました。あれで、皆、自分で選べました。オルも」

 

「……うん」

 

「私の欄だけ、疑問の印が残りました」

 

「ごめん」

 

「謝っていただきたいのではありません」

 

 ジャーニーの声は、穏やかだった。

 

「アネゴが一言、ジャーニーは別宅、と書いてくだされば、私はそれに従えました。従ったせいに、できました」

 

 ステゴは、答えなかった。

 

「書かれなかったので、明日、私が自分で決めなくてはなりません。……それが正しいのは、わかっています」

 

 ジャーニーは、立ち上がった。

 

「でも、アネゴは、ずるいです」

 

 ステゴは、窓の外を見たまま、何も言い返せなかった。懐のハーモニカを、握りもしなかった。

 

 

 

三 行き先

 

 翌日の昼、伊勢屋は書付けを一読し、駒屋の行で目を止めた。

 

「……本当に、駒屋で」

 

「余が選んだ」

 

「荷馬は蹴りますよ」

 

「余も蹴る」

 

「蹴らないでください」

 

 伊勢屋は、筆を取らなかった。

 

「茂原屋さん。手前は、一人二人なら押すと申し上げた。本宅に一人、別宅に一人。駒屋で三人目だ」

 

「わかってる」

 

「駒屋の判も、手前の判です。親方が目を離した隙に何かあっても、県が呼ぶのは手前ですよ」

 

「では、条件を付けよ」

 

 オルフェーヴルが言った。

 

 伊勢屋は、初めてオルフェーヴルを正面から見た。

 

「……付けますよ。一つ。寝起きは駒屋の奉公人部屋。外の仕事には、親方か番頭が付く。二つ。何かあれば、その日のうちに親方から手前に知らせが来る。隠したら、その日で終いだ。三つ。ひと月は試し。親方が手に余ると言えば、茂原屋さんへ戻す」

 

「戻されたら」

 

「そのときは、県の預かりでも、お好きに」

 

「……呑む」

 

「まだありますよ」

 

 伊勢屋は、指をもう一本立てた。

 

「試しのひと月、給金は親方が預かる。手前が、身元金として押さえる。何事もなく済めば、晦日にまとめてお渡しする。何かあれば、それで手前の損を埋める」

 

 オルフェーヴルの耳が、ぴんと立った。

 

「余の働きの銭を、か」

 

「あなたの働きの銭だから、身元金になるんです。他人の銭じゃ、あなたは痛くない」

 

 オルフェーヴルは、しばらく伊勢屋を睨んでいた。

 

「……呑む」

 

「それから、茂原屋さん」

 

 伊勢屋は、三右衛門に向き直った。

 

「陶器の口。半分では、三人目の判に釣り合いません。六分を手前に」

 

「おい」

 

「嫌なら、駒屋の行を消します。それだけです」

 

 三右衛門は、煙管を盆に置いた。長いあいだ、置いたままだった。

 

「……六分だ」

 

「茂原屋。余のために、店の口を削るな」

 

「お前のためじゃねえ」

 

 三右衛門は、伊勢屋から目を離さずに言った。

 

「うちの勘定だ」

 

「親方にも、呑ませます」

 

 伊勢屋は、ようやく筆に手を伸ばし、別宅の行で止めた。

 

「それと、こっち。疑問の印がついてる」

 

 ジャーニーの膝の上で、指が動いた。

 

「母は、気に入らなければ三日で帰しますよ。手前の嫁も、二度帰された」

 

「……ご隠居様は、どのような方なのですか」

 

「口の悪い婆さんです。帳面だけは、手前より正確だ」

 

 ジャーニーは、オルフェーヴルを見た。オルフェーヴルは、半紙を見ていた。

 

「三日、ですか」

 

「三日」

 

 ジャーニーは、膝の上で手を組み直した。

 

「……では、まずは三日、私の目で確かめてみます。帰されるのか、私が帰るのか。それも含めて」

 

「どちらでも構いませんよ。母も、そのほうが喜ぶ」

 

 伊勢屋は、疑問の印の横に〈承知〉と書いた。

 

 

 

四 連印

 

 期限の前日の朝、野々村は請書を一枚ずつ、指でめくった。

 

 伊勢屋徳右衛門。相模屋利兵衛。丸八与三郎。町内戸長。それに茂原屋三右衛門。五つの名と印が、それぞれ、預かる者の名と居所に添えて並んでいた。

 

「……駒屋」

 

「伊勢屋の口利きでございます。判は伊勢屋のもの。親方の付き添い、日ごとの知らせ、ひと月の試し、給金の身元金。伊勢屋の書付けに添えてございます」

 

「本人の望みか」

 

「本人の、望みでございます」

 

 野々村は、それ以上訊かなかった。坂口が、写しを作る手を一度止め、また動かした。

 

「受け取った」

 

 野々村は、請書を揃えた。

 

「七名の県預かりは、当面、見送る。本日より、それぞれ書付けの居所へ移ることを認める」

 

 三右衛門の肩から、ふっと力が抜けた。

 

「ただし」

 

 野々村は、指を一本立てた。

 

「これは、勝手にどこへ行ってもいいという沙汰ではない。届けた居所の外で寝泊まりはさせない。外へ出るときは、預かり主かその家の者が付くこと。居所を移すとき、横浜を出るときは、預かり主を通して届けること。何かあれば、まず預かり主に問う」

 

「承知しております」

 

「それから、茂原屋」

 

「は」

 

「……あなたの請けに、ようやく実が立った」

 

 野々村は、それだけ言って、次の書類に手を伸ばした。

 

 

 

五 出立

 

 出立は、県から戻ったその日の夕方だった。荷物というほどの荷物はない。着替えが一枚ずつと、お糸が縫い直した晒が何本か。

 

「ほらよ」

 

 勝手口で、ナカヤマがゴールドシップの懐に何かを押しこんだ。紙に包んだ団子が三本だった。

 

「……利子は」

 

「ねえよ。今朝買った。冷めてる」

 

「冷めてる団子に利子はつかねえな」

 

 ゴールドシップは、包みを開けずに懐へ戻した。

 

「寺に着いてから食う」

 

「今食えよ」

 

「やだ」

 

 フェノーメノを迎えに来た相模屋の手代は、勝手口で、言いにくそうに口上を述べた。

 

「番頭からの言付けでございます。……帳場には、当分上げられません。主人は帳場にと申したのですが、女の方の帳付けは、お得意先が嫌がりますもので。しばらくは、番頭の孫の子守と、使い走りを」

 

 フェノーメノの背筋が、一度だけ揺れた。

 

「……承知、であります」

 

 手代が先に通りへ出ると、フェノーメノは、ステゴにだけ聞こえる声で言った。

 

「書付けには、算盤ヲ嫌ハヌ者、と書いてあったであります」

 

「うん」

 

「嫌わないであります。本官は」

 

 それだけ言って、手代のあとについていった。

 

 オルフェーヴルを迎えに来たのは、駒屋の親方本人だった。日に焼けた首の太い男で、オルフェーヴルの頭の先から足の先まで眺め、それから、勝手口の土間に置いてあった味噌樽を見た。

 

「持てるかい」

 

 オルフェーヴルは、片手で持ち上げた。

 

「……向こうに着いたら、もっと重てえのがあるぞ」

 

「望むところだ」

 

 ジャーニーは、上がり框に立っていた。手に、お糸に借りた古い櫛を持っていた。

 

「オル」

 

「なんだ」

 

「……髪は、毎朝、梳かしてくださいね。湿気が」

 

「わかっておる」

 

 オルフェーヴルは振り向かずに、親方のあとについて通りへ出た。角を曲がるとき、一度だけ足が遅くなった。それだけだった。

 

 ジャーニーの手の中で、櫛は渡されないままだった。

 

「行きましょうか」

 

 伊勢屋の別宅から来た下女に、ジャーニーは微笑んでみせた。いつもの顔だった。マックイーンは、その指が櫛を握りしめて白くなっているのを、見ないふりをした。

 

「マックちゃん」

 

 最後に勝手口を出たのは、ゴールドシップだった。和尚の後ろを歩きかけて、振り返る。

 

「お糸さんの台所、焦がすなよ」

 

「焦がしませんわ! あなたこそ、お寺の鐘を勝手に撞かないでくださいまし」

 

「撞くために行くんだよ」

 

「……そうでしたわね」

 

 ゴールドシップは、にっと笑って、手を振った。振り返ったのは、それきりだった。

 

 

 

六 第一夜

 

 戸部の別宅は、思っていたより小さかった。

 

 隠居のお勝は、六十をいくつか越した痩せた女だった。行灯の下で、帳面を膝に置き、ジャーニーの読み上げる数字に合わせて、算盤を弾いていた。

 

「……三十二両二分。合ってるね。字も読める。声もいい」

 

「恐れ入ります」

 

「で、あんた、何しに来たんだい」

 

 ジャーニーは、少し考えた。

 

「妹が、駒屋さんに参りまして。私が妹の目の届かない所に一人でいるより、伊勢屋様のお身内の近くにいたほうが、何かあったときに――」

 

「妹の話はいいよ」

 

 お勝は、算盤を置いた。

 

「さっきから、三べん目だ。妹が、妹は、妹のために。……あんたの話をしな。何が好きで、何が得手だい」

 

「本を読むことです」

 

 ジャーニーは、今度はすぐに答えた。

 

「それから、道筋を考えること。どこへ向かうか、どの順で行けば無駄がないか。……私たちのアネゴは、旅の果てを見たいと言う人です。私は、その果てまでの道を、先に見ておきたいのです」

 

「ふうん。帳場向きだね」

 

 お勝は、算盤の珠を一つ弾いた。

 

「じゃあ、訊き方を変えよう。この家で、あんたは何がしたい」

 

 ジャーニーは、口を開いた。

 

 何も、出てこなかった。

 

「本を読むのも、道を考えるのも、ここでなくたって出来るだろ。ここで、だよ」

 

「……少し、お時間をいただけますか」

 

「いいよ。三日のうちにね。倅から聞いたよ。あんたが自分で言った三日だ」

 

 お勝は、また算盤を取った。

 

 *

 

 駒屋の厩で、栗毛が一頭、柵から首を伸ばしてきた。

 

「こいつが、明日からのお前さんの相方だ。福ってんだ」

 

 親方が、手綱掛けに提灯を吊るした。

 

 オルフェーヴルは、動かなかった。福の大きな黒い目が、オルフェーヴルの耳を見ていた。同じ形の耳だった。

 

「……うま、か」

 

 福が鼻を寄せた。生温かい息が、前髪を揺らした。

 

「余を、お前と同じ音で呼ぶな、と言うたことがある」

 

 親方が、怪訝な顔で振り向いた。

 

「……お前に言ったのではない」

 

 オルフェーヴルは、福の首に手を当てた。福は、逃げなかった。

 

 *

 

 駒屋の奉公人部屋は、馬の匂いがした。

 

 オルフェーヴルは、ささくれた柱にかかった欠けた鏡の前に座っていた。金の髪が、着いてすぐ手伝わされた荷下ろしの汗で、あちこちに跳ねていた。

 

 手櫛で、撫でつける。跳ねる。もう一度撫でつける。

 

「……ん」

 

 後ろに手が回らない。いつもは、そこに別の手があった。

 

「おい、新入り」

 

 隣の寝床から、車夫上がりの若い男が首を出した。

 

「さっきから何やってんだ。猫の顔洗いか」

 

「髪だ」

 

「明日も汗かくんだぞ」

 

「知っておる」

 

 オルフェーヴルは、鏡を睨んだまま、もう一度だけ撫でつけた。跳ねた。

 

 そのまま、横になった。

 

 *

 

 茂原屋の二階は、静かだった。

 

 納戸に、布団が二枚。マックイーンは、自分の布団の上で正座したまま、耳を澄ませていた。

 

 天井から、何も落ちてこない。誰も、柱に腰をこすりつけない。いびきも、寝言の「鯨」も、聞こえない。

 

「……静かですわね」

 

「うん」

 

 ステイゴールドは、窓際にいた。

 

「わたくし、ずっと、静かにしてくださいと申し上げておりましたのに」

 

「言ってたね」

 

「おかしいですわね」

 

「おかしくないよ」

 

 マックイーンは、それ以上何も言わずに、盆に湯呑みを並べはじめた。三つ目に手を伸ばしたところで、止まった。

 

 一つを戸棚に戻し、二つに茶を注いだ。

 

 *

 

 相模屋の女中部屋の隅で、フェノーメノは、番頭の孫を寝かしつけたあと、行灯を借りて帳面を写していた。帳場には上げぬが、古い反古帳を写すのは勝手だ、と番頭が投げてよこしたものだった。

 

 同じ取引が、二つの帳面に書いてある。片方は〈五月晦日払〉。片方は〈六月二十四日納〉。

 

 フェノーメノは首をかしげて、筆を止めた。

 

 それから、余白に小さく〈要確認〉と書いた。誰に確かめればいいのかは、わからなかった。

 

 *

 

 野毛山の寺の庫裏で、ゴールドシップは冷めた団子を一本食べた。

 

「うめえ」

 

 二本目を食べた。

 

 三本目は、紙に包み直して、懐に入れた。

 

 *

 

 伊勢屋の蔵の二階、奉公人の寝所で、ナカヤマは一人、カードを切っていた。

 

 隣の小僧が、寝たふりをしながら、その手元を覗いていた。

 

「……やるか?」

 

「や、やりません! 旦那様に叱られます」

 

「賭けなきゃ、叱られねえよ」

 

 ナカヤマは一枚めくった。ハートの七だった。

 

 *

 

 茂原屋の納戸で、マックイーンが寝息を立てはじめた頃、ステイゴールドは壁の前に立った。

 

 〈居候日課表〉。七人の名。卯ノ刻、起床。辰ノ刻、朝餉。鯨。

 

 表の端に、指をかける。

 

 紙は、湿気で少し浮いていた。引けば、簡単に剥がれそうだった。

 

 ステゴは、指を離した。

 

 窓際に戻り、懐からハーモニカを出して、唇に当てる。

 

 一音だけ、ごく小さく吹いた。誰も起きなかった。

 

 

 

七 約束

 

 七人が揃ったのは、それから三日後の夕方だった。

 

 茂原屋の勝手口。それぞれの預かり主に届けを出し、半刻だけ、という約束で。通りの角には、付き添いの者たちが手持ち無沙汰に並んでいた。寺男、伊勢屋の手代、相模屋の小僧、別宅の下女。互いに会釈を交わしたきり、話すこともないらしかった。

 

「アタシ、鐘撞かせてもらえなかった!」

 

 最初に飛びこんできたのは、ゴールドシップだった。

 

「和尚が、まだ早いって。代わりに墓の草むしり。三日で墓石が全部ツルツルになった」

 

「草をむしるのに、なぜ墓石がツルツルになるのですか」

 

「ついでに磨いた」

 

「ついでの範囲が広すぎますわ!」

 

 マックイーンの声は、いつもより大きかった。

 

「メノは?」とステゴ。

 

 フェノーメノは、帯に差した筆に手をやった。穂先の割れた、古い筆だった。

 

「……本官は、子守であります」

 

「子守?」

 

「番頭殿のお孫さんが、二人。……よく泣くであります」

 

「帳場は」

 

「当分、上げられぬと」

 

 フェノーメノは、それきり口を閉じた。ゴールドシップが何か言いかけ、マックイーンに袖を引かれた。

 

 ナカヤマは、伊勢屋の手代に「四半刻で戻る」と念を押されて来た。

 

「蔵出しの前の晩だ。長くはいられねえ」

 

 勝手口の柱にもたれ、通りの角を一度見る。

 

「……オルフェ、まだか」

 

「駒屋は、遠いのですもの」

 

 オルフェーヴルは、最後に来た。駒屋の番頭が、角で腕を組んで待っていた。

 

 金の髪が、四方に跳ねていた。

 

「……オル」

 

 ジャーニーが、一歩出た。帯のあいだから、お糸の古い櫛を取り出す。そのまま妹の後ろに回り、ひと梳き、ふた梳き――

 

 オルフェーヴルの肩が、固くなった。

 

 ジャーニーの手が、髪の途中で止まった。

 

 自分の手の中の櫛を、しばらく見ていた。いつ回りこんだのか、自分でもわからない顔だった。

 

 それから、櫛を、妹の手に握らせた。

 

「……ご自分で、どうぞ。後ろは、こう、斜めに」

 

 オルフェーヴルは、櫛を見た。姉を見た。

 

「……姉上は」

 

「ご隠居様が、若い頃にお使いだったのを一本くださいました。……私には、それがありますから」

 

「お糸さんには、わたくしから申し上げておきますわ」

 

 マックイーンが、小さく言った。

 

 オルフェーヴルは、黙って、自分で髪を梳きはじめた。後ろが、うまくいかなかった。ジャーニーは、両手を袖の中に入れた。

 

「駒屋、どうだ」とナカヤマ。

 

「福は、余の言うことを聞く」

 

「そりゃよかった。……伊勢屋の帳面に、アンタの身元金の行があったぞ。ひと月ぶん、きっちり」

 

 櫛が、止まった。

 

「余の銭を、余の知らぬところで勘定するな」

 

「アタシが付けたんじゃねえ。見ただけだ」

 

「見たなら、黙っておれ」

 

「黙ってたら、アンタ、いくら押さえられてるか知らねえままだろ」

 

「知っておる。……知っておるから、言われたくない」

 

 ナカヤマは、肩をすくめた。

 

「悪かったよ」

 

 茂原屋の納戸なら、ここで誰かが笑った。誰も、笑わなかった。ステゴは、二人を見ていた。

 

「で、ジャーニー」

 

 ナカヤマが、話を変えた。

 

「三日見るって言ってたろ。何日目だよ」

 

「四日目です」

 

「延びてんじゃねえか」

 

「延ばしていただいたのです。私から」

 

 ジャーニーは、袖の中で手を組み直した。

 

「三日目の晩に、まだお答えできませんと申し上げたら、ご隠居様が、延ばすならその分、帳面を倍持ってこい、と」

 

「持ってったのか」

 

「持っていきました」

 

「……答えは」

 

「まだです」

 

 オルフェーヴルが、櫛を持ったまま、姉の横顔を見た。何も言わなかった。

 

「次は、いつ集まれるであります」

 

 フェノーメノが、帯の筆を抜いた。

 

「本官が控えるであります」

 

「月の終わり」とステゴ。「晦日の夕方。ここで、飯」

 

「晦日は、相模屋の勘定日であります」

 

「じゃあ、その次の日」

 

「朔日は、伊勢屋の蔵出しだ」

 

「寺は、朔日に法要がある」

 

「駒屋も、朔日は居留地の荷だ」

 

 七人が、顔を見合わせた。

 

「……二日の夕方」

 

 ステゴが言った。

 

「二日の夕方なら、どうよ」

 

「本官は、空いているであります」

 

「伊勢屋も、たぶん」

 

「寺もいける。墓、もうツルツルだし」

 

「駒屋は」

 

 オルフェーヴルが、櫛を止めた。

 

「……親方に、訊いておく」

 

「ナカヤマさん、四半刻です」

 

 角から、伊勢屋の手代の声がした。

 

「わかってるよ」

 

 ナカヤマは柱から背を離した。フェノーメノが、急いで懐紙に〈七月二日 夕 茂原屋〉と書いた。それから、少し迷って、〈七名〉と書き足した。

 

 *

 

 皆が帰ったあと、茂原屋の勝手口に、坂口が来た。

 

 県の使いだった。三右衛門に紙を一枚渡し、口上を述べた。

 

「大蔵省より、本日。大久保卿のご意向とのことです。――県預かりの黒き板、紙入、桐箱は、引き続き封をして保管。銭と札は、大蔵省にて調べを継続。七名の扱いは、追って沙汰あるまで、現状のとおり」

 

「追って、か」

 

「はい。追って、です」

 

 坂口は、それだけ言って、帰りかけた。それから、勝手口の脇でハーモニカを手にしていたステイゴールドに、軽く頭を下げた。

 

「……西郷参議が、あの銭を一枚、添えて送られたそうです。大久保卿が受け取られたことは、確かです」

 

「そっか」

 

 ステゴは、ハーモニカを懐に戻した。

 

「受け取ってくれたなら、いいや」

 

 坂口が帰ったあと、ステゴは二階へ上がった。

 

 納戸の壁で、日課表が、まだ七人分の名を並べていた。

 

 ステゴは、その一番下の余白に、清兵衛から借りた筆で、小さく書き足した。

 

 〈二日 夕 全員〉

 

 鯨の、すぐ隣だった。

 

 

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